「皇室民営化論」で中国人は云々と書いたけど、これは中国人を悪く言うものではなく、また日本人を褒めているものでも全然ない。文化が違うだけで、先ず優劣はない。なぜなら日本には日本の欠点があって中国の方が優れてる面もあるからだ。
具体的に『荒野行動』でいうと、仲間と協力し敵グループを倒す演習で(ランダムで5人ずつ2集団に分かれサバイバルゲームする。ゲーム内でいう「団体競技場」)、自分がやったかぎり中国人は普通に何人であれ仲間を助けてくれるし、どっちかといえば精神力も強くて最後の1人になっても諦めずに戦う傾向があった。つまり個人主義で動くのだ。協調性の有無でいっても中国人は十分すぎるほどあるから強い上に賢く、それどころか僕が2階に煙弾なげて踏み込んだらいるはずの敵がいない。で、逃げたかと思って1階におりたら、人気のない部屋に敵がじっと待っており背後から奇襲された。こういうずる賢さみたいなのは日本人とやると先ずみられない。そのうえ僕が、仲間がやられてるのに気づかなくて助けなかったら「助けろ助けろ」とチーム全員で大合唱された。日本ではこういうことはなくて、気を使ってか何も言わずに消える。つまり中国人も協調性もあれば勝利の為なら空気も形成するし、そこは彼らの強さでもあるし礼儀がどうとか関係ないわけだ。
日本人はどうかというと、確かに最初に挨拶するとほぼ確実に子供でも返すので物凄く礼儀正しい様に見えるが、実はこれは「しつけ」でそういいなさいと親とか学校にいわれてる癖で、いわないと気持ち悪いからいうのだ。なぜそういえるかというと、現実に戦ってる中では無礼なこととか平気でいうのだ。そして日本人プレイヤーの特徴は、ほぼ確実に群れること、集団主義的に動くことで、中国人みたく1人で生き残ってでも戦おうとすると、他の人達は空気読まないやつと見なして勝手に逃げるのである。だから最後1人だけ残って戦う羽目になって負けてしまう(中国人みたいに待っててくれなくて、2局やるんだけど1局目で勝負を捨てて、ゲーム自体から落ちて(ゲームをやめて)しまうのです)。これでは勝利がどうとかいえないであろう。それどころか、日本人の特徴として「勝てば官軍負ければ賊」を地で行く行動原理みたいなので動いており、形勢不利になったとみるや我先に逃げ出してしまうのだ(勝負の最中で仲間はまだ戦ってるのに、自分だけ勝手に落ちる)。武士道どころの話ではない。中国人は最後の1人でも粘る傾向があるから、時に1人で逆転され凄いと思ったが、日本人は一般に逃亡し消える。
日本人のよい点もあって、心理的距離が近く、服装を褒める定型文とかいってもありがとう、とか返ってきたり、まあ如何にも古代中国人が「倭」と呼んだそのものの性質で、よく言えば優しいのかもしれないがなよなよしている。そしてばらけて行動しないから一網打尽で負けか団塊で勝つかどっちかが多い。
んじゃ中国人プレイヤーの悪い点は何かというと、幾つかあるけどとりあえず定型文を雑につかってて、元々性格が雑なのか知らないがまちがったことをいう。助けてって意味で適当にボタンおして「ここに物資があります」とかいったり、最初からいってるがそもそも呼びかけてもまず雑だから返答しないのだ。戦い自体は全然雑ではないというか日本人より凄すぎる精度で一撃必殺決めまくってきたりするからシステムがずれてるだけの可能性もあるけど、往々にして服装も雑だ。多分、日本で言う大阪人的がさつさを数十段上にしたみたいな感じで、他人相手で気を使わないところはどうでもいいって感じなんだろう。
『荒野行動』はボイスチャットといって声をだせるんだけど、やってる人がつけてるとその人らがどういう状況でやってるか分かる。大体は失礼極まりないこという西日本の人が多い。九州とか関西の人はそこまで気をつかわないからだろう。それで中国語わからないからかもしれないが、日本人のが失礼だ。定型文だと丁寧に見える返答なのに、それはただの形式で、ボイスチャットだと仲間に気を使わないどころか友達とやってて別の人を貶したりとか平気でいっている。そういうのは九州弁だか関西弁だかに多くて東北弁とかでは先ずない。方言そのままでいってるからどこの人かわかってしまうのだ。
標準語というか首都圏方言で上品な人が多いかというとそれも先ずなく、素の少女にとんでもないシモネタ連発してる南関東人(つまり東京方言に近い)おじさんみたいなのがいて、一緒にやってた中高生男子ぽいのも僕も気分悪くしたこともある。
ま地域差もあるが日本人の礼儀なんて基本、形だけって話だ。
どうでもいい情報だけど、面白かったのは、小学校低学年くらいの子がボイスチャットで父親らしきのから「勉強しろ」と怒られてて、「お父さんは悪い奴なんだ。僕はゲームがやりたいんだ」と念仏みたいに唱えてた。勉強しろって親からいわれたこと1度もない僕は趣味が勉強なんだから怒らない方がいい。
あと礼儀は心がこもってなきゃ意味ない、真心がこもっていてこそ礼が意味をなす、というのが儒教の立場で、『論語』で孔子が「剛毅木訥仁に近し」「巧言令色鮮し仁」と対比させ「人に仁がなければ礼などどうでもいい」(決して礼儀不要という意味ではない。別の所で孔子は「礼を知り、学ばねば一人前になれない」(『論語』季子第十六、一三。尭曰第二十、三)といっている)と語ってるわけだから、仁の方が礼の本質なのだ。礼は仁を形にするものにすぎない。
原文 「子曰、人而不仁、如礼何。」(『論語』八佾第三、三)
訓読 子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何せん。
現代語訳 孔子がおっしゃられた。「もし人に仁がなければ、礼など何になるのか」
「自分に克って礼に立ち返るのが仁だ」(『論語』顔淵第十二、一)との孔子の定義によると、礼儀正しさとは、進んで放恣を避ける仁の心(思いやりの心)を指す。