2019年5月11日

差別観を解除する為により多様な認知要素を学ぶことが誤りを避ける為に必須

まあ、差別に関する知能は、自分が論拠にしているGordon Hodson "Bright Minds and Dark Attitudes" 2012、でいうgeneral intelligenceがどう定義されてるかによる。しかし話がIQに及ぶと遺伝要素が6~7割(安藤寿康『遺伝子の不都合な真実』)という見解もある。つまり差別に関する知能が、集団認知を単純化しすぎる癖に依存しているとすると、ゴードン・ホドソン氏のいう一般知能とIQに、或る程度の関係があるかもしれない(IQは知能全体と別個の要素だから、全く同じものではないのではないか)? いいかえれば遺伝要素が6~7割ある可能性も出てくる。つまり差別し易さには生まれつきの要素があるかもしれない。ゴードン・ホドソン論文では言語・非言語IQや、4つの認知能力測定(のIQ?)が使われてるみたいだけど、そこでいう一般知能がIQ全体と厳密に一致していないと私は思った(つまり差別に特有の知能があると考えた)けど、確かにこのうちの遺伝要素がどの程度かは考察の余地がある。「差別」をどう定義するかにもよるが、或る集団の属性を特定の事実と異なる傾向だと根拠なく思い込む偏見の持ち易さとその強度だとすると、これが認知バイアスに対する自己修正能力の低さだといっていいから、その種の知能が精神年齢の肉体年齢に対する百分率たるIQとある程度関係がある可能性が高い。実際、肉体年齢に関わらず精神年齢が高くなれば、集団への認知バイアスを自己修正する為のより多くの知識、或いは認識を得る要素がより多くあるわけだから、差別は一般にし辛くなる。つまり集団への認知バイアスに使われている知能は、IQと同じ要素も含んでいて、且つ、個別の部分もあるはずだ。
 まとめると、「生まれつき知能が低い」といったときの知能とは特称していない限りゴードンホドソンと同じ一般知能の意味だが、限定すればここでいう差別し易さの知能(集団認知バイアスの傾向)のうち、遺伝的要素を含むもの、といえる。
「或る人の差別し易さのうち、遺伝要素を認めるのは、差別にあたらないのか?」 これは単なる言葉遊びにすぎず、差別の定義を悪意ある文脈においているにすぎない。
 では「或る人の(知能の一部が持つ)差別し易さのうち、遺伝要素が真に存在するのか?」だが、少なくとも現時点の科学では、上述のゴードンホドソン論文がIQ計測を含むものであれば、全てが確定的にとはいえないにせよ、存在する可能性が高いといえるだろう。つまり同論文が真なら、それが言語・非言語IQで、数字想起、形を描く課題、単語定義、単語間パターンと類似性の識別、これら4つの認知能力によるIQも、部分的に遺伝しているかもしれない。つまり差別し易さと、遺伝する知能の部分には、一定の相関関係があるかもしれない。
 私は上に書いた通り、「全てのIQが差別し易さと相関関係を持つ」とは思わないし、「差別し易さには知能の一部があてられている以上、知能全体と関係ない」と思う。そして遺伝要素があるかといえば「現時点では、差別し易さに遺伝要素がある可能性がある」と思うが、疑いが全くないわけではない。いいかえると、「生まれつき知能が低いから差別する」とは、確かに特定の知能、差別し易さの知能の部分に関して遺伝要素があれば真だといえるのではないか? 日本語の特性上、冠詞がないので、ここでいう知能は知能全体なのか知能一般なのか特定の知能なのか明示されなかったが、特定知能のことだ。
 返信した人はこの日本語に冠詞がないという特徴を、いわば乱用して、「生まれつきの知能」を知能全体か知能一般とわざわざ混同させようとする文脈において最初のツイートを批判しているといえるけど、上記でそれが単なる揚げ足取りだと論証できたのではないか? わざわざ訂正が面倒だったが。
「生まれつき知能が低いから差別する」と誰かが言ったとき、これは、現時点の科学知識に基づけば知能全体のことではありえない、と多重知能仮説ですぐ分かる話だし、仮に知能一般とするとしても確かにIQの一部に遺伝要素があり認知バイアスと関係があることも知れているので、わざわざ指摘する部分か?
 後天的に自己の陥り易い認知バイアスを解除し、より集団なり個人なり、何らかの対象を現実に即して認識できる様になっていくのが精神的成長もしくは社会学の経過だといえるが、それ以前の遺伝要素があることと、後天的学習や批判的思考の訓練によって正しい認識を得られることには関係がない。いうまでもないことだが、全人類が一切の差別抜きに世界を認知できればそれが理想の状態かもしれないが、この世では認知バイアスを思考の単純化として人類の脳は選好し易い。つまりどちらかといえば差別し易さとは単なる脳の特徴に過ぎず、度合いがあるだけなのだ。その傾向自体は差別と無関係だ。
 差別についてより詳細に考えると、そもそも差別は認知の単純化だから脳は多少あれしているのであり、それが事実と相反する要素を多くもつ場合は不条理になる上に、人間集団にあてられると人権侵害となるだけで、何らかの共通属性の特徴を同定するための思考の癖といえる。脳の幼稚さの一種だ。そうであればIQ(精神年齢の肉体年齢に対する百分率)が差別と関係しているとしても不思議はなくて、経験か学習で例外的要素を多く認知していれば集団属性の単純化にためらう結果になる。つまり脳が対象の識別において認知する要素が多いと、或る特徴との類比で個性を逆算する傾向が弱くなるわけだ。IQも脳の特徴の一種で、遺伝要素が半分以上あるとされるから、差別し易さには遺伝要素がある可能性は相当ある。しかし後天的影響で特定の差別観をもつかは決定される上に、当人が認知の癖を直せば修正の余地がある。「常識とは18歳までに見つけた偏見のコレクション」風に差別観も当人の収集の一種と。差別は事実を妄想と取り違えているわけだから現実の認識を誤っている為、当人の悪徳の一種である。差別はする側のみに全原因があってされる側には皆無である。他人が誰かを差別していても、基本的には差別観を持つ人自身の落ち度となるに過ぎない。
 重要なのは自分の差別観を最大限解除することだ。
 或る集団属性を、脳は類比によって別集団にも適用し易い。子供はりんごを赤と覚えたら赤いものは全てりんごだと思う様に。この単純化された類比の作用を、実証的、反証的、批判的思考その他によって無限に解除し続けてはじめて、人類はより正確に現実を認識し、自らの誤りを避けられる。