2019年5月19日

純粋美術は大衆商業主義や反知性主義に妥協すべきではない

純粋美術系の或る上の世代の小集団を最近色々観察してて気づいたのは、先ず彼らは知性主義を引き継ごうとしている。それで彼らはラカンの概念を用いて説明してるのだが、より知性的な作品がすばらしいと言いたがっている。リヒターがコンセプチュアルアートを懐古的に語る時の口上みたいに。
 欧米美術のハイアート界は確かに知性主義とほぼ完璧に一致していて、そもそも上流階級の所有物である。そこに一石を投じる概念をもちこんだのが村上隆でスーパーフラットだった(中間芸術の正当化を、日本画の非遠近法的な特徴の掛詞にしていた)。だが日本にこの種の知性主義的傾向はないと。寧ろ若い世代になるほど大衆商業芸術が主になっていて、漫画『ワンピース』が素で芸術の王道だと思っている。或いは日本画界が変質したガラパゴスなサロン美術界といえる日展みたいなのが似非上流の世界になっている。そのどちらでも巧妙に知性主義は排除されていると。
 じゃあ純粋美術の運命は? というと、風前の灯であると。そもそもカネが儲からないゴッホ的な近代美術家像を踏襲していると死んでしまうので、普通に誰もなりたがらない。私はこの意味で逆説的に近代回顧の存在で、グリーンバークの前衛を「まだやってる」扱いなので、商業美術界に属せていない。
 リヒターが「当時のアートシーンでは、モンドリアンよりマカルトの方が重要だった。この意味で誰がサロン美術家か分からない」云々と書いていたが、状況は現時点でも全く変わらないですね。例えば日比野克彦さんがいわき市立美術館の玄関でライブペイントしてるの昔見たが、時代は非情といえます。
 村上隆さんは中間芸術を欧米アートシーンにもちこみ、日本のサブカル(特に漫画とアニメ)を彼流儀に諧謔を込め翻訳しつつ輸出してきたと。このサブカル正当化イデオロギーは強烈に下の世代に影響し、「漫画アニメに外人も喜んでるじゃん」「純粋美術は分からないからいい」みたいになってしまった。で俗受けユーチューバーがアーティスト扱いと。
 で、その私の上の世代の或る純粋美術クラスター(具体的にいうと絡まれそうなのでぼかしている)は、物凄く端的にいうと村上隆に完全敗北しているが、私小説の人らが当時の文壇でサロンを作り(正宗白鳥とか)自己正当化しながら漱石を「あんなの商売だよ!」といってたみたいにしていると。
 私は全く気づいていなかったが、この上の世代の或るクラスターを客観視することで自分も結果的に完全に逆張りになってるとわかった。つまり大衆商業美術って今で言うと『君の名は』みたいなのを素でリリースしカネ儲けること以外何物でもない。そこに知性主義なんて当然全く無用なばかりか邪魔だと。
 純粋美術とはなんだったんですか? 過去の流行でした、学歴主義なら就職先だか世間体だかカネ目当ての発情相手になりますけどとなってしまい、「カネさえ儲かればなんでもええわ。東京の億ションからユーチューブでドヤりたいやで」みたいな似非商人気質が日本で完全に支配権を握り、後戻りしないと。しかし私はこの種の愚民化が底抜けに進行中の日本国のサブカル全盛期ではあるが、純粋美術の前衛性の世界が完全に消え去るとは全く思えない。なぜなら私はサブカルも相当みてきたけど、ファインアートと比べるとやはり幼稚なものに過ぎないからだ。大人になれれば、サブカルは下らないとみな思う筈だ。
 私(鈴木さん)は何者ですか。私はこの国の知性主義が残した足跡ですね。それは当然ながら学歴主義ではない。虚飾とか衒学でもない。また単なる金儲けでもない。すなわち大衆商業主義でもない。純粋美術は中間芸術ではない。これはひたすら高踏的な意味で、完全にぶっちぎりの前衛でなければならない。
 某氏がネットで「美術は哲学の枝葉だ」といっていた。私はこれについてかなり長い間考えてきたけど、はっきりいってプラトン思想に過ぎないと思う。アリストテレスもそうだったが形相論で美術はそれ自体がイデアの形だとしたわけだから、哲学と別分野ですよ。美術自体が哲学以上を語れるのです。
 本物の知性と、単なる衒学は、並べたらすぐ分かる話で大衆には見分けがつかないかもしれないが、そんなのなんの問題にもならない。既に述べたようモンドリアン『ブロードウェイブギウギ』はMOMA中央正面に鎮座するにふさわしいがマカルト『五感』では様にならない。本物だけを突き詰めるべきなのです。なぜその上の世代の某クラスターが完全敗北の状態かといえば、村上隆の前衛性を超えられてないからに他ならない。この意味で美術界は完全に公平な世界です。本物の評価って世俗的評価じゃない。そして金儲けそのものでもないから、儲かったら勝ちでも全然ない。私はだから美術をやろうと思った。
 もし純粋美術の担い手がいなくなると、つまりスーパーフラッターというか中間芸術のサブカルもどきの人、もしくは似非サロンの公募展作家みたいなのしかいなくなると、その地域は全て下らない物と偽物で埋められてしまう。そこに堪えられるのは馬鹿と俗物だけだ。裏返せば純粋美術は高貴さの印である。