2019年5月16日

「仰られる」は「仰る」より古語に近いが二重敬語としては「仰せになられる」の方が一重敬語と解される余地がない最上表現

(『論語』で孔子曰くを「孔子がおっしゃられた」と現代語訳するのは、「孔子がおっしゃった」の方が正しいとの指摘ツイートへ)
二重敬語は最上表現ですよ。古語の方が伝統・格式のある表現で、ビジネス敬語(商人敬語)はここ50年くらいの日本人商人の一部が勝手に捏造した偽敬語です。曰くはここでただ「仰った」程度の意味ではないですよ。孔子は儒教の聖人で、この様に申し上げていらせられた、心して聴けの意。「申し上げていらせられた」も申し上げるが謙譲語で、申し上げる(皆様にお言いになる)+いらせられる(おなさいになる)で、曰く、のたまわくかいわくかいずれかは「聖人様がこの様に皆さんに仰せられました」ってニュアンスだと思いますよ。今から調べますけど。
 因みに天皇は神道で自称神の子孫だけど現人神ではないと当人らが言ってる上に伝統的にもそう(神でないからしばしば出家した(仏門に入った)といっていいでしょう)なので、孔子は聖人ですから、日本語ではかつて二重敬語を天皇に使ってたとはいえ、孔子に使わないのは格式表現としておかしい。
「お前も天皇に二重敬語使ってないじゃないか」というかもしれないが、孔子にも簡約のために使ってないのであって、「曰く」は『論語』で弟子らが聖人の聖なることばを記述した表現であるから、その訳としてふさわしいのを選んだという話です。
 白川静によると、曰(エツ)の字は祝詞(のりと)など神意を告げる書を収める器(∀の下部を丸くしたもの)のふたを少しあけて、中の祝禱(シュクトウ)の書を見ようとする形。即ち「曰く(のたまわく、が最も訓として古義に近いと白川はいう)」は、「神意が示される」という意味だそうです。したがって白川の解釈によれば『論語』の「曰く」は、神の心を示すことばで、本来は単なる敬意の強調である二重敬語を超えた日本語表現が必要になるが、その様な表現はありません。天皇は歴史上、皇帝と教祖(自称神の子孫)を兼ねた人ではあるが聖人ではないし、神意を述べる人ではないからですね。
「おっしゃる」は、本来「仰せになる」であり、即ちこれの略か訛りでしょう。したがって「仰せになる」を受動態にすると「仰せられる」になります。これをあなたは二重敬語と誤解した。「仰る+られる」だと思ったわけです。確かにそう解釈もできますが、二重敬語としても間違っていないという話。
 更に古語辞典を調べると、「おほせらる(仰せらる)」として元の形が載っており、由来は連語で動詞「おほす」未然形+助動詞「らる」。ご命令になる、との意。「おほす」は「負はす」から変化し自分のことばを相手に負わせるため「命令する」、の意になった(のちに「言う」の尊敬語)。「らる」はいわゆる「られる」で受動の意。
「仰す+られる」が古語の解釈であるから、前に出した「仰せになる」は一体正しい表現か? となってしまうが、私の意見ではこれも正しいと思います。お+~なる(お喜びになる、みたいな尊敬表現)の拡大解釈として仰すを解釈した結果でしょう(以下に「仰す」+「~なる」の単純解釈も記述あり)。即ち仰るは現代語化された仰せらるの商人俗語版です。
 まとめますと、
1.おっしゃる(仰る)は古語仰せらる(仰せられる)を拡大解釈か単純化し約めた現代商人版
2.孔子は儒教の聖人かつ曰くは神意を開く意なので正確には最上敬語の表現が必要
3.二重敬語は伝統的に最上表現かつ古語は格式が高いので「仰せらる」を現代口語化し「おっしゃられる」でよし
で、もしこの様な思考経路(といっても直観だけど)を経て『論語』曰くの訳語「おっしゃられる」が、あなたが指摘するよう二重敬語の禁忌(商人は忙しいから、或いは皇族じゃないから一重敬語のほうが簡単でいいみたいな意味での通俗的慣行ですね)と解釈できなくもないなら、もっとふさわしい敬語は?
 既に述べたよう、ただの「仰る」ではそこらの会社員の上司と同等程度の扱いになってしまいます。弟子らは孔子の死後に『論語』をまとめ、聖なることばを後生に残したのであり、これは聖典であるからキリスト教でいう『聖書』、イスラム教でいう『コーラン』にあたる様な物で、社長級の話じゃないです。
 もう少し調べました。「仰せになる」は、「仰(おほ)す」の連用形「仰せ」+「~になる」で、尊敬の意味が入った言い方との解釈がでてきた。私は上で「お~+なる」の文頭のおが、「お」ほすに適用され混同されたと解釈したが、これは文法的に拡大解釈しすぎかもしれませんね。
 もう複雑になりすぎてなに言ってるかわからないかもしれないが、あなたは
古語 仰す+ら(れ)る → 仰ら(れ)る
ではなく
現代語 仰せになる+られる → 仰せになられる → おっしゃられた
と解釈し、煩雑なので、「られる」を省いた 仰る が一重敬語では? といいたかったんでしょうね?
 古語においては「仰す」は初め命令するの意味だが徐々に他動詞の尊敬語になったから、その連用形「仰せ」+受動の助動詞「ら(れ)る」で、受身の尊敬語「仰せら(れ)る」が存在したと。
 現代語の「仰る」からみると、古語「仰せられる」が二重敬語に見えるが、古語では二重敬語ではないですね。
「仰せになられる」は「仰せになる+られる」で二重敬語。「おっしゃられる」は古語では一重敬語、現代語では仰るという短縮表現との対比で二重敬語と受け取られる可能性も、あなたが指摘したよう残っている。
 私は古語風に仰られたを使ったが、誤解を招かない為には「仰せになられた」のがいいね。なぜ「おっしゃられた」より「仰せになられた」の方が「聖人が言った」の敬語表現でいいかといえば「おっしゃられた」は古語の一重敬語(おほせられけりの現代語風)か現代語の二重敬語的解釈の2つの解釈がありうるが、「仰せになられた」だと二重敬語の余地しかないからです。最上表現と解され易い。
 ただの敬語と多重敬語の尊敬度差を分かり易くすると次のもの。
多重敬語「こちらにおはしますおかたをどなたと心得る。おそれおおくもさきの副将軍、水戸光圀公にあらせられまするぞ」
敬語「こちらにいらっしゃる方をどなたと心得る。おどろくな、さきの副将軍、水戸光圀公でござるぞ」