明治政府を成功だといい、元将軍に冤罪をかけたりその冤罪に基づく薩長軍の侵略を防ごうとした公的正義を弾圧した経過、重罪を全く無視して歴史を語る人間は、反証的思考が全くできていないという点で愚物の証明でしかありえない。
幕末の薩長の独断的対外戦争による国費の浪費、薩摩と水戸の間での京都義挙計画の薩長方による裏切りでの関東内乱の誘導、江戸その他でのくり返しの薩長藩によるテロ活動、水長同盟の長州方による裏切りでの倒幕論への転向、小御所会議での徳川慶喜不在のままでの不正採決、西軍による一方的侵略に他ならない戊辰戦争での甚大な人的被害、廃仏毀釈や薩長藩閥による寡頭政治、民主化の抑圧、天皇制ファシズムによる侵略戦争の拡大、国家社会主義による市場自由化の遅れと歪み、西洋の雑多な模倣による伝統的美徳の喪失、中央集権制による各地方での士族反乱への暴力的迫害、華族令や制限選挙権による人権侵害、将軍政治の伝統を破壊し中国・西洋もどきの中華皇帝と議院内閣制を兼ねた変形的体制。無論、欧米植民地主義の模倣による朝鮮その他への侵略戦争での人的・文化的被害。いうまでもないが坂本龍馬は内乱罪や外患誘致罪を犯した死の商人であり、海外の武器商人に媚を売って私腹を肥やし、テロリスト集団を形成し数多の共謀を行い、やくざにのっとられ暴走した地方政府(長州藩)による大量殺人罪を手助けしていた私的暴力団長でしかない。
逆に斉昭の改革、慶応の改革といった御三家・幕府方が近代化を先駆けていた証拠もあれば、全国統一や専守防衛理論で植民地化の危機に目覚めるよう全国を啓蒙したのも水戸藩であり、そもそも開国を始めたのは徳川慶喜である。それどころか皇室を徹底的に守護していたのも全国を戦略的に防衛しようとできるだけ平和的な諸外交を試みたのも彼を含む徳川家や会津藩でしかない。勿論、今日の国会に繋がる諸侯会議を主張し、貴族院(参院)の原型をつくろうとしたのも徳川家である。それどころか象徴天皇制の原型である大義名分論(政府が天皇の職責を代行するべしとする君主無答責の体制理論)をもっていたのも水戸の徳川家である。
ありとあらゆる反対の証拠があるのに明治新政府をもちあげるのは知性自体に疎漏があるからだ。