2019年5月21日

私が嘗て見た全差別とそれを恥じる必要について

私が生まれてはじめて「差別」と呼べる代物を見たのは、私が18歳の時、東京都の池袋でだった。
 そのとき私は私の高校からの親友と、美術予備校(専修学校、すいどーばた美術学院)にいたのだが、ある静岡出身の男が、当人も静岡方言を使っているにもかかわらず、私と親友の発音を小ばかにする様な文脈に置いた。
 その予備校には全国各地から色々な人々が集まっていて、様々な方言が混在していた。私や親友は一応地元で通える中では最も入試偏差値の高い方とされる進学校の出身で、元が愚かな方ではないのか、当時、私はこれは「間違い」の指摘なのだろうかと受けとり、標準語の発音や東京方言に該当する発音を自分から学びとり身につけることになった。親友も何も語らなかったがそうしていた。
 しかし関西地方出身者のうち、奈良県出身の講師や、京都府出身の生徒の中には、自分達のなまりを直さず「間違い」のまま使っている人達もいた。この小論の最後に書くが、彼ら関西人達がなぜ標準語・東京方言にあわせないのかについても差別の文脈があるのを知るのはもっとずっと後になってからだった。

 次に差別の実例をみたのは、千葉大から東北大の修士課程に進学した、高校の美術部で同級生だった男が、私に「四大卒」がどうのと言ってきた時だった。
 この男はいわき市に住んでいたが親は大阪からきた云々と言っている人物で、いわゆる学士とそうでない者を何らかの差別の文脈におきはじめていた。私は家族にその「四大卒」くらいしかいないので、そもそも学士をもっているからなんなのかと感じたが、その男が運転する車の中でだったか、当人がこの言葉をそれ以下の学歴とされる人々(つまり当時の私)を侮辱する文脈に置いていることは明らかだった。

 また、10代後半の私はPCを手に入れインターネットに接続したのだが、2chという場所を開き、私に関心があった分野を学ぼうとしたのだが、その中で文学板という場所で、はっきりした在日朝鮮人差別というものを生まれてはじめて目にした。それは京都出身の或る有名小説家らしき男(当人か成りすましか定かではない)の言動だったが、韓国あるいは朝鮮を生まれ又は人種で完全に蔑視する文脈に置き、彼らの文化そのものを日本以下とする一連の言動だった。そして私が観察していた限り、相当数の関西地方人達もそれに協賛していた。
 まだ10代後半から20代前半で判断力が未熟だった私は、その有名小説家(現時点で、日本人で世界的に最も有名な小説家だろう)の小説を高校の時から全て読んできていて、多かれ少なかれ模範なのではないかと勘違いしていた。しかも当時の私は10代後半頃から福沢諭吉の研究をしていて自ら古ぼけた福沢全集を通販で買い集め、神田の古本屋街で続福沢全集をみつけたのでこれも全て購入して読み込むといった行動をしており、福沢も『文明論之概略』『脱亜論』等の文脈でほぼ類似のことを言っていたのを知っていた。私は彼ら以外にも夏目漱石や岡倉天心、新渡戸稲造といった思想家らの本にも触れていて、つまり10代後半から20代前半の私は、愛国主義、国粋主義といった思想傾向の先人らの書籍をかなり研究しており、某小説家らしき者の朝鮮差別的言動に一理あるのではないかと思ってしまっていた。
 しかしこの後の平成時代、KPOPというものが流入してくるに際し、私に認知的不協和が生じた(「本当にこの人達が生まれや文化で卑しまれるものなのか?」という感じがした)ので考えを改め、韓国や朝鮮の文化、歴史、思想や現時点の状況などを調べ始めた。その結果、全く逆の事実を発見していった。つまり、某有名小説家らしき者(京都出身)をはじめ、関西人の相当数や、福沢諭吉(大分出身)といった朝鮮差別的言動を取っている人達は「弥生民族」の末裔であり、遺伝子的にほぼ同一といえる朝鮮民族の人達と双生であるが故に近親憎悪の様な言動をとっていたのだ、と結論づけられると私は思った。現に韓国・朝鮮文化の中には詩調の様な伝統詩から始まり、万葉仮名の参照元である吏読も先駆で、朱子学者を兼ねる両班階級の文人や哲学者としての知的に高度な世界が展開されていたし、それどころか敗戦後の日本軍に捨てられた日本人らを完全な善意から救っていた実例も見つかった。料理も大変豊富だ。

 また私はこの後、SNSというものが発達してくる中で、アメーバピグというSNSを通じ「都鄙差別」の類をはじめて目にした。このSNSの中では全国各地の日本人らが好き勝手な言動をとっているが、その中でも東京都、神奈川県、千葉県、京都府、大阪府、愛知県、静岡県、宮城県、北海道の札幌市といった地域の人々が、東京を上だといい、田舎(私の自治体を含む)を下だといい門地差別的言動をしている場面を頻繁に目にした。
 私は10代の頃、自分の生まれ育った常磐圏ではない文化圏、特に都会とされている未知の文化圏への知的好奇心から、東京への大学進学を望んでいたので現実に新宿副都心にある超高層ビルの専門学校・大学に通い、暇さえあれば都内のあちこちを探検し見聞を広めて過ごしていた。
 その様な暮らしを10年余り続けて発見したのは、「都会は下衆の集まりだ」という、私がはじめ脳内妄想として持っていた高尚な文化圏というマスメディア等に洗脳されたイメージと正反対の事実だった。犯罪が溢れているばかりではなく、衆愚が自己正当化や恥知らずの自慢に耽りながら何もしらないでいる。上述の都鄙差別の偏見をもつ地域はどこも、ある地方で最大の都会であることに気づくだろうか? いいかえれば自分の土地の人口密度が高いと、どういうわけか、日本人達は無意識に増長し周りの自治体を見下し始める。これの権化が東京や京都で、つまりは天皇の中華思想が模倣先になっているらしいのだ。

 またアメーバピグの中で私は様々な海外の人とちょっとした英語で会話する機会に恵まれた。その結果、殆どの外国では差別といったものを日本人ほどしていないが、一部の外国では日本では見当たらない類の激しい人種差別をしている現場をみた。具体的にはイギリスとドイツの人達が次の様なことをいった。
 あるイギリス人がいうにはイギリスにお前の様なアジア人がきたところで何の意味もない、所詮アジア人はアジア人だという。しかもお前は中国人か? と悪意ある嘲笑をするのである。
 また別の外国人に紹介され、ドイツ人の本物のネオナチと会話する機会があった。ドイツのネオナチはいわば日本でいうネット右翼を何十倍か激しくしたものといっていいだろう。いわゆるアーリア人優越主義みたいなナチス的発想を現役で続けており、当然だがそこからいえば日本人などサルと同じくらいの扱いで、私が第二次大戦で一緒に戦ったじゃないかと説得するも完全に無視された。
 その他にも西洋人一般は、ある限度より知的程度が高くなければ総じて中東の人々に人種・文化的な偏見をもっていた。また逆に中東の人々も、私が現場を見た限り、この種の差別に抗う目的でバイキングめなどとやり返していた。そして私がみたフランス人に限っての話だが中国人観光客に迷惑がっていた。
 更にはアメリカ人はアメリカ合衆国国外に総じて無関心で、中学生ですらアメリカ英語以外の英語方言を聞くと「変な言葉」などといっていた。またカナダやペルーなどの外国人男性らは、日本人女性を性的搾取の対象としてみている節があり、要は人として見下しているので或る意味では性差別主義者だった。

 またこのSNSでは「学歴差別主義者」と呼んでいいだろう人達を頻繁に見た。彼らはどういうわけか関西出身者が多かったが、それは偶然かもしれない。具体的には東大、京大、東北大、そして関西地方の大学を卒業した人達が学歴で人間性まではかれるかの様、彼ら自身に有利になる激しい偏見をもっていた。

 これらが私がこれまで全人生でみた全差別の総体だが、私にいえるのは、差別は脳の認知を過度に単純化しすぎることによる利己性の有害な拡張に他ならない。つまり愚かさの一種で、悪徳に該当する。私は自らが幼児の頃からマスメディアや義務教育で差別的偏見を植えつけられていたことに、都内の見聞による反証的事実の数々で気づいてから、寧ろそういった偏見を教え込もうとした都民の貶めていた対象の美質を探り始めた。結果、確かに彼らの貶めていた対象、すなわち田舎の方に優れた点が多かった。私が都内で自分に研究できる全対象を観察後、最上の美質といっていい場所は代々木公園の彰義隊の墓だったが、そこは都民の中では完全に見捨てられ馬鹿にされ忘れ去られ、誰も省みていない風だった。しかし同等以上の精神的遺産は白虎隊とか回天神社とか田舎ではもっと沢山あるしきちんと祭られている。

 この小論で私がいわんとしたのは次のことだ。

 差別は或る人が自らに都合のいい風に現実を歪めて捉える為の虚構、つまり悪意ある嘘なのだが、これに感染した人々は同様の錯誤をくり返してしまう。自らに植えつけられた差別を解除するには反証的認知を自ら集め、反省し、考えを改めるしかない。
 また或る差別観を持っている人は、先ず何より当人が損害する。なぜなら差別が現実逃避の一種に過ぎない以上、事実は彼に不都合な方に動いていくからだ。よって差別はする人自身の悪徳であり、被害者側に原因がなく、いわば差別観を持つ人が墓穴を掘っている状態である。基本的対処は無視がいいのだ。
 激しい差別は人権侵害に該当する。「これは区別だ」などの言い訳で差別観を持つ人は自己正当化しがちだが、全く意味を為していない。被害者側の状況が余りに酷い時には、弁護士を通じ裁判所や、時には国連に訴える必要があるだろう。だが差別主義者を避けられるならそれが簡単だということは確かだ。
 政府は差別を細かく分類し、全差別についてできるだけ法整備を行い、それに該当する行動を人権侵害とし、何らかの防止策や罰則を設けるべきだ。議員にせよ行政にせよ政府自身が差別観をもっているのもまた事実なので、この為には客観的基準が必要であり、世界中から最上の倫理観の持ち主を招くべきだ。
 例えば方言は各国言語に該当し、それらの尊厳と文化多様性は尊重されるべき筈が、明治以後の日本政府は拙速にも標準語教育で東京方言以外を事実上弾圧した。いわば英語帝国主義の東京版をやったわけだ。この様な蛮行を政府が現にしてきている以上、政府に依拠して差別をなくすのは限界がある。
 日本政府がお札の顔になんかしたりしている、上述の福沢なんて差別主義の権化みたいな面があったわけだ。『福翁自伝』でハワイ人の王族をどう扱ってるか見たら驚愕する。アメリカ憲法の天賦人権論は彼の中では未来のもので、幕末から明治時代人としては平気で東亜人差別をし、名誉白人気取りだった。福沢の愛国きどりの人種差別が明らかな事実としても、彼の知識輸入業者としての役割が全否定されるまではいかないにせよ、一体なぜその様な思想の持ち主を日本政府が一万円札にしていたか。理由は文科省だか財務省なんてその程度の浅はかな東大卒の官僚がやっている組織なので、浅学なだけである。
 或る政府は、国連であれ、構成各国の国民から成る組織にすぎず、つまりは民間人の中身に応じた結果しか現れない。最終的には我々自身が政府よりはるかに高尚で、人権に対する理解も深く、全人類に慈愛をもち接していれば、政府も当然そうなる。差別的考えをもつことを恥じる民間人でなければならない。