北海道のあめちゃんなめながらねちゃったら歯がとけたあめちゃん
2022年3月17日
自意識前頭葉依存説
自意識の連続性は前頭葉に依存し、人は見当識にあたって前頭葉へ自意識にかかわる情報を脳の各関連部位からひきだし、自己同一性の証明をはかる。
他方、多重人格(DSM‒5の診断名は解離性同一症)にあってはその際ひきだされる情報自体かその前頭葉までの経路に「元情報との違い(エラー)」が出る。この場合を分けると
1. 情報自体がエラー時
1-a. 確率的に自己証明情報が書き換えられるパターン
1-b. 意図的か無意識的に同情報を書き換えているパターン
2. 経路エラー時
2-a. 確率的に同情報が歪むパターン
2-b. 意図的か無意識的に同情報が歪むパターン
があり、1-aか2-aの時、脳内ではベイズ推定風に過去の自己証明にかかわる記憶と新たにひきだす情報を参照するが、それら双方が合わないと他者に人格が変更されてみえる。
多重人格の自意識自身にあっては、過去の自己証明にかかわる記憶と一部矛盾したまま自己証明がおこなわれ人格変更に多少あれ気づくかその矛盾に整合性をとるため自己説得の説明づけを図る場合(記憶残存・記憶改造)と、ひきだす情報に上書きされ意識上では全く気づかない場合(記憶上書き)とがある。
2022年3月15日
自称正義派の驕りきった世界大戦主義
憎しみと恨みに囚われ亡びゆく国の民ども正義と称する
歴史から学ばず驕る理学屋を崇めるひとびと戦に声援
官軍と称し侵略自慢して原爆おとされ逆上の西日本人
ドローンで虐殺されける民どもを守る軍隊 悪というひと
薩長の蛮行誇り無反省 歴史は嘘と驕る脳タレント
天皇の嘘だらけなる神話にて民を洗脳 差別を狂信
愛国と称する共同幻想でひとをころして威張る野蛮人
欧米の肩もちドネツク ルガンスク虐げ正義と称する
喜劇役者を大統領にしてみたら侵略を受け皆兵拷問
皆兵令だしさえすれば平和という東大閥の御用学者
和睦講ずコメンテーターおとしめる右派の論ずる原発ノーガード戦法
CIAスパイの末裔 自民党・安倍晋三一味がめざす国内核戦争
原発へ武力攻撃眺めつつ慶応閥の経済学屋が再稼働いそぐ
嘘という歴史の中できえてゆく惨めな理学屋 和平を知らず
慶喜公ゆずりし城で驕りきり 戦を支援す浅ましき天皇政府
2022年3月14日
悠仁親王と愛子内親王の生まれ育ち
悠仁親王の「研究不正もどき」、引用元を明示せずの流用(「【独自】悠仁さまのコンクール入選作文に疑惑浮上 複数箇所がガイドブックの記述に酷似」2022年2月16日、デイリー新潮。『週刊新潮』2022年2月24日号掲載)は、恐らく彼がまわりに過大な期待をかけられ、それに応えようとするあまり暗に焦って、素直な自分以上の実力をてらおうとしておこなった子供らしい誤りなのだろう。
かれが東大へ入る前提と思われる筑波大付属高校へ進学した、又はさせられたのも、その様なかれをとりまく過度の期待と関係しているかもしれない。
一代限り立法権を侵害し憲法違反を犯した明仁氏を除き国政の権能をもたないはず天皇に、単なる法令遵守以上の義務は制度上殆ど要求されない。なのにかれに名分違いの期待をかけるまわりの人々は、いわば愛子内親王という勉強のできる女性天皇候補に見劣りする結果になるのをおそれているのかもしれない、と推し量れる。
だがその様な杞憂は却ってかれに誤った成功体験を積ませてしまった。研究不正によって悪例を示すより、単に勉強が陸にできない方が、同等以上に裕福な場合、ひととしてより血筋のよさゆえわがままもゆるされてみえ世襲貴族的であるという現実感覚からいって、かれは家族や傅役を含む育ての親らにある意味めぐまれなかったのだろう。
2022年3月13日
脳科学屋との歴史戦その一幕
温故知新しらぬ脳オタ小説史
史学者の見つけた事実をごみという
経験に学ぶ学者が賢者かな
過去の事実 物語という脳学者
陰謀論なぜか史学と混同す
歴史すら改竄するぞ軍艦島
薩長土肥しらぬ存ぜぬ会津侵略
米英仏しらぬ存ぜぬケインズ侵略
イラク潰しシリアも虐め反ロシア
過ちに学ばず欲しがる核兵器
歴史から学ばず核をくれという
先人の過ち知らずまた過つ
ヒミコいた歴史を書き換え現人神
神話 小説 漫画とアニメで嘘歴史
「どうせわかりゃしないから」と平然と歴史改竄
都合よく嘘の逸話を信じこむ
死の商人かっこいいという脳博士
元勲の侵略罪を成功視
虐殺史ゴミ知識といい通史済ます
無知誇り学ばず戦う歴史戦
役に立つ科学で戦う核戦争
ナイキ履きウィグル搾取工場史はシカト
米英の報道信じて反露通
先人の過ちに学んだ馬鹿を何も学ばぬ馬鹿が笑う
科学史を知らず車輪を再発明
高くつく経験に学ぶ破産国
コロナ禍で五輪強行 普遍的
地道説唱えて死刑 普遍的
相対主義Mac信者は 普遍的
ヘーゲルのアジア史蔑視 普遍的
欧米のやる事なす事 普遍的
米英仏と中東侵略 普遍的
反ロシア集団イジメ 普遍的
ウクライナ芸人政権 普遍的
逃げろという橋下叩き 普遍的
核廃絶口だけ嘘つく安倍晋三
陰謀論非難し語る小説史
過去の事実 実証できぬと思い込む
歴史資料 嘘ばかりだと嘘をつく
物理オタク 歴史は嘘と仮説吐く
物証を隠して嘘つく司馬史観
物証を隠して嘘つく神道勢
物語り嘘つき自慢の紫式部
物語り嘘つきほめる本居宣長
物語り嘘つきほめる小林秀雄
嘘で作る自称神州無敵国
2022年3月9日
2022年3月7日
2022年3月5日
首都圏を意味する近畿の名を正す事
関西地方は首都ではなく、また中央政府も存在しない。現憲法に於ける形式上の象徴である天皇も暮らしていない。したがって関西地方を「近畿地方」と呼ぶのは不正であり、法行政的に禁止かつ関西人自身が自粛すべきである。
現法制に於ける首都は、首都圏整備法2条1項と首都圏整備法施行令1条で定義される関東地方と山梨県の領域にあたる。よって首都圏を意味する近畿は、法律上正しく、関東と山梨の事である。
2022年3月3日
ロシアに代わる日本の常任理事国入り案
日本国は国連のロシア非難決議を受けて、米国、英国、フランス、中国らに説いてロシアに代わり国連常任理事国へ、核廃絶をめざす平和主義の旗印としての日本を編入するよう持ちかけるべきである。
2022年3月1日
日本はウクライナ危機について非核平和主義の国是を貫き、局外中立で米軍と歩調をあわせるべき
ウクライナ危機・ロシアのウクライナ侵略について、日本国は局外中立にたち、米軍と歩調をあわせるべきである。また、EU・NATOと共謀してロシアと対峙する姿勢はとらないべきである。
もし安倍晋三偽証罪・贈賄罪被疑者がテレビ番組(フジテレビ系「日曜報道 THE PRIME」2022年2月27日日曜午前7時30分)で語るよう、戦争勃発後の戦術核を使った具体的核戦争に日本が進んで突入していけば人の被害は甚大となり、世界大戦になりかねない(文字起こし)。平和法制を戦争法の違憲立法で破壊した安倍氏を東京地検・山口地検らは即座に逮捕し、戦争を煽る憲法違反ならびに外患誘致・援助・未遂罪に甚だ該当するだろう言動を世間と協調して非難し、ばあいによっては前述の罪とともに再度起訴したうえで、我々日本国民はかれのような極悪扇動屋を反面教師とし、専ら反戦・非戦の既往の立場を堅持しなければならない。
なおこのことは単なる抑止力の範囲(戦略核)に於ける核共有の議論を妨げるものではない。
ロシアが日本を殊更標的にする理由は北方領土問題を除いて今のところないので、米軍の核の傘のもとで、国連常任理事国間の侵略行為を世界平和を求める他国とともに非難するにとどめ、ウクライナの邦人保護を最優先とし、EU・NATOとロシア間で生じかねない核戦争には全くかかわらないよう、日本政府は非核平和主義の国是を岸田首相と共にくりかえし表明し、他国にも同様の核戦争を避ける国際規律を遵守するよう求めるべきである。
2022年2月27日
他者からの評価と自己評価
愚かな人は自分のおこないが過度に評価されるよう仕組む。だが過剰評価はそのひとの虚栄心を増し、自分の力を見失わせる。うぬぼれは自滅をもたらす。
自己愛にこの様な落ち度のある所を知って、他人からの評価を求めるな。自分がおのれのしごとを正しく評価できる様にせよ。
自分のしごとについてひとから評価されないといって嘆く者は、他者が決して自分以上に優れた評価者ではありえないと知らない。
自分のしごとについてひとから評価されたといって喜ぶ者は、他者が必ずしも自分以上に正しく評価できるとは限らないと知らない。
2022年2月26日
ウクライナ国民の対ロシア即時降伏案
ウクライナ国民は、建前はどうあれ連鎖的被害を恐れる米国・NATOからの明白な支援が得られない事を考慮し、なるだけ早く現大統領を罷免、対ロシア即時降伏の手続きに入るべきだ。現実のウクライナ国民と駐ウクライナ各国民の犠牲者を一人でも減らす事が専らの政治課題で、実際に勝利の道筋がない中で、実のない他国から空しい抵抗の支援を募り続ける事は全く賢明な判断ではない。
また、NATO各国と米国・英国は、ブダペスト覚書の紳士協定に基づき、現ウクライナ大統領の亡命を留保なくうけいれるべきだ。
2022年2月24日
2022年2月22日
地獄の再生
インターネットと社交媒体は人々の愚かさをこれでもかというだけ露わにした。そして人という生き物がいかに救いがないほど自堕落な生物かを人々の前にさらした。恥知らずたちほど公然と愚行をしている。ネットさえなければ人はもっと立派な生き物だと我らは信じていられたのである。
絶望した我らはウェブを今すぐ閉じるべきだろうか? それとも、この俗悪きわまりないヒトと称する生命体と相携えて生きていく覚悟を決めるべきなのだろうか? 彼らが底抜けに邪悪で、利己的・害他的で、常々他人を小馬鹿にしながら罪なき者にぬれぎぬをきせ、おのれの性悪さを満たす慰めの集団虐殺相手をさがしている極悪衆愚だと知っていながらに、後者を択ぶ人のなかにあるのは賢明な博愛だろうか? その様な諦めがもたらすのは却って地獄の再生ではなかろうか?
地球猿山
下らない世の中と聖人
2022年2月21日
2022年2月18日
2022年2月17日
2022年2月16日
ほどほどのアホさが世のひとびとの実態
さっき気づいたんだが、もしかしてこういうことか。この世はアホにとってほどほどのアホさで埋まっているので、自分はなぜ世のひとびとがそんなにアホなのかずっと疑問でしょうがなく、かれらは自分へいつも何か嫌がらせしてくる傾向もあるんで、自分はほぼ大抵かれらに大迷惑だなと感じてきていたが、それって、かれらがアホといっても適当なアホであることに原因があるらしい。
これを脳が勝手に証明問題として解いていた。と、お決まりのごとくユーチューブのラジオ講義でいってみてたけど、僕はそういうことがあるのだ。勝手に脳が何かを解いているらしく、バックグラウンドで。PCでたとえると。そんなアプリある? 僕の脳なのだ。勝手に問題解決が完了しました、とかいって答えが出てることが頻繁にあり、しかも寝てるとき特に全力で解いてるらしく、起きたら解決してることがままある。ままどころか須らく多い。頗る。多い。
なんでよのなかのひとびとは適当にアホなのか?
たとえば村上春樹を内田樹がべたぼめしてたり、「僕たちの大好きな村上春樹」とかいうムック本には、僕は引いたことすらあるけど。むかし。むかしも。あと綿矢りさをモギケンが「世界一のアイドル文芸」ともちあげたりしてるのをみて、強烈な違和感を僕は感じるわけだが、違和感というか正確には「は?」感。
は?
で? っていうスタンス。
こんな貸し出しですよ。書き出し。かきだしってかこうとしてなぜか貸出って書いたからそのままにしておくけどなぜか。
でっていうスタンス。
こんなですよ。ふざけた文芸である。そんなのを世界一という。モギケンって脳科学者の脳不摂生にあたいしねーのだろうか、そんなせりふを残して。可哀想にすらなってくるわけだ。内田樹もさ、神戸のよしみにもほどがあるよ。うちの村の偉い作家さんやでー的文脈以外なにがあるのだろうか。冷静におしえてくれ。
春樹、綿矢、漱石、芥川の文体比較
で。春樹とか綿矢とか当然作品はひどい。読めたもんじゃない、特に後者は。僕にはね。ひとによるでしょ、それは。僕にはそうなんだ。で、その内容がひどい。ことさら。下品で。そうじゃん。俗の世界だよね。書いてるのは。
文体はまぁいいとして、その文体のことについて多少詳しく書く。内容についてはもういいだろう。ひどすぎるので。汚いものにくりかえしふれる必要はない。
で文体、かれら特にどっちも癖がつよくて、そのアクが僕にはおえっとなる、吐き気する様に気もち悪いこともあるので、大して良くはないだろうね。特に前者は文字の開閉が変なのがいやだ。漢字で書けばきちんとした表現になるところでわざとかな文字にしてあったりする。そういうのが気になる。あとからよんだひとが辿れなくなったらどうすんだ。漢字に。当人のなかではいいことになってんだろうけど。つまり読みやすさしか考えてないんだろうね、あんま。あと後者はなんか編集者に手直しされてるのか臭く、わざとらしい教科書っぽい文体なんだが、内容があいかわらず下衆すぎるのは当然ながら、ハッていうスタンスとか痛々しい。傍ら痛い。なんかね、いたいたしいのだ、いろいろ。あのさ、真面目な文芸でそんなの書かなくていいよ。「私は心が痛んでいました。とても。でもそれは気取った私の勘違いでもありそうな感じでした。私はため息をついて、授業をうわの空で聞き、窓の外をみるともなく見ました」みたいなのの方がどれだけましだろう。一見生真面目っぽい文体で、内容が下品だから気分悪いんだと思うけど。教育とのギャップなんかね? もともと下品な心、てか、すれた心が教育されたらああいう文章書きそう。だから嫌いで読めたものではない。僕にはだよ。
文体ってさ、人格だと思うよ。文は人なりで。字も、かもしれんけどね。
私は文学大好き人間なので、文体には、おそらく人類でも指の数かオバQの髪の毛の数に入るのは確定、そのなかでも1位か2位くらいには厳しい。好みがね。僕より文体の好みに厳しいやつをみたことがないから下手すると1位になりかねぬ。ちなみに全人類の過去の全世界史単位でだ。標本単位がそれだけあってもみたことがない。それだけ文章が好きなんでしょうね、か? いるのだろうけど、もっと文章が好きな人って。汗牛充棟を防ぐための工夫していても部屋がすぐ本で一杯になるぅ。テイスティングのプロにきいてみろ。毎日読んでんだぞ休みなく、僕なんて。子供のころはそこまで大読書家でもなかったがそれなりによんでて、『ノンタン』類からはじまり『ずっこけ三人組』シリーズとか。『ルドルフとイッパイアッテナ』とか。15歳くらいからは異常な大読書家になった様なもんだ。うちにおばあちゃんの日本文学全集も一応あったが、だってさ、毎日大量に読んでてあれがいいとかこれがいいとか判断しつづけてるんだよ、楽しみで。22年分。それだけの時間あったら、人工知能だとしたら凄まじい量の学習してんだろうけど、文体のよさについてなら僕の方がしてるという。そうだとおもうよ。AIに負けるとはまだおもえないので。過信かもしれにゃいが。
だからね、僕はよい文をみつけたら宝物をみつけたみたくすごく読みまくる。より精確にいうと。僕の近所の浜辺でめいっこがキラキラ輝く貝がらを沢山みつけてひろいまくり、さも大切な宝物のきわみみたいな感覚値なのは明らかな様子で、それをくれた時くらい。しかも楽しみで。ブログとか。いいのみつけたら全部読むのが基本という。
文体がとってもうまいのは漱石と芥川だから。みんな。これは事実。よみやすく、整っていて破綻がない。ただね、かれらにも固有の欠点はあるけどね。 特に漱石のほうは遊びの当て字がおおすぎ。だからそのままおぼえちゃうと、あーこれ漱石に影響されてんな、とわかってしまう様なのがある。巫座戯るとかね。ふざけてるよ、まさに。そういう言葉遊び部分がね。当人的には楽しんでやってたんだろうけど、ただ読む人を択ぶ。ある程度修辞に達してないと遊びだということがわからないのである。芥川のばあいはそういう破綻がまずない。つまり、芥川が一番日本語としては立派そうではあるが、今度は時代がかった擬古文とかで作品世界を表現しようとしてる場合とかがある。『羅生門』とかそうだったとおもう。逆に文体づくりうますぎると捉えられなくもないという話で、近現代の和文の基本をつくっているのは漱石の文体ということになるだろうね、ここでは良い意味で教科書的で。もっと遡ると『平家物語』だろうけどね。漢字かなまじり文は。それを口語体にしたのがかれらの一つの為事でああった。まる。
なお、内容はまともな弟子より、漱石のがよっぽど微妙。てか新聞連載の通俗小説だから面もありそうだが、今の時点からの人倫観ふくめ、冷静にみてだいぶ陳腐なほどではあるのであろうが。情事系の発狂でしかも自殺とか裏切りとか、不穏なのが多いね。
ではなぜかれらはアホな文章をかいたりほめたりする?
でだ。僕は春樹とか綿矢とか嫌いだからもう読まない。それは僕の自由だ。だが内田とか茂木とか謎キャラってなんなの? っていう疑問をずーっとバッググラウンドで、脳のなんかのアプリだかソフトだかが問題といていたことはすでに説明しましたが、その解決済みのこたえをみたらこうだった。
「世のなかにはアホが大勢いる。だがアホにもっとアホなことをいってみろ。今度は『そんなアホな』といって、自分のアホさはまだましだみたいなことを言うに違いない。それってぇのは、かれらときたら、自分がほどほどのアホだってことに自覚がねぇでやんす」
というものであった。分かり易く読み解くと。ま、僕にしか読めない文体で書いてあるから、これは「でやんす系」の超訳だけど――でやんす系とは? 雨情の普段の口語文体を知らないとわからない特殊領域。当ブログ記事『ほどほどのアホさが世のひとびとの実態』内の造語。もとのこたえは文体っていうか直感的気づきなんだよ、だけどね。
2022年2月14日
バレンタイン・ホワイトデー観念論の性差差別批判
バレンタイン観念論(バレンタイン・イデオロギー)はことに衆愚日本で猛威をふるい、猛烈な性的嫌がらせの最悪に不幸な風土をつくっている。
本来のバレンタインは単なるキリスト教の聖人だった。
では、なぜかれが処刑されたとされる日に、「性的パートナーへの発情」を無関係な第三者らに、日本人一般はまずあまねく強要されねばならないのか? これは憲法に定める「拷問の禁止」に反する、重大な人権侵害の性差差別である。
純粋なかねもうけのためにこの発情義務化の弊風をつくりあげた兵庫県神戸市のチョコレート会社「モロゾフ」と、さらに図に乗ってホワイト・デーと呼ぶそのお返しの慣行を男性側につくりだそうとしたキャンディー会社協会の連中はまちがいなく、その様な商業消費文化を前提にした恋愛関係にない圧倒大多数の人類に多大な不幸をまきちらしてきたので地獄におちるべきに違いない。
端的にいって、イエスの博愛精神がわからないなら安直にキリスト教を引用すべきではない。新約聖書が伝えるに、イエスはだれか特定の人への愛を語った人物ではない。ひとのもつあらゆる価値を超えた、神からの愛の重要さを語ったのである。分け隔てのない愛の前では、特定の恋の成就はかき消えてしまう。バレンタインも恐らくそのような愛について知っていたのである。
ところがこの様な精神性を理解できない特定神戸人の会社はじめ日本衆愚のあいだでは、2022年現在、国民女性全般は毎年この日のために多大な負債をおい、彼女らにかかわる国内その他の男性全般はこの日のために毎年すさまじい性的嫌がらせを確実にうけなければならない。この際の多大なこころの苦痛の度合いはその男性がもてようがもてまいがおなじであり――心ある男性はほかの男性らよりもてていることが証明されて苦しむからだし、キリスト教の理解できない、いかにも愚民らしい謎分類「義理チョコ」などで一喜一憂している無駄な心的労力は、経済的にもチョコレートの売り上げ高・利益分よりはるかに悪い結果をもたらしているだろう――はたまた、その女性が、つねに性的発情においたてられる状態をつくりだしている時点で、今日の生き方の多様性を弾圧している。
商業・拝金のためならどんな蛮行でもする衆愚日本――その悪徳をこれほど明白に自己証明している性差差別は即座に、全面廃止されねばならないのだ。
2022年2月8日
性悪と性善の業
贅沢三昧して差別をばらまき
更に愛をよこせという京女がいる
自分があすくうにも困るのに
進んで人を助ける東北女がいる
人権はさも平等だが
事実はその通りになっていない
もし神の力が私のたもとにあるのなら
真っ先に人類の罪をことごとく裁き
良き魂にはその恩賞をあまねく与えるだろうに
2022年2月7日
狂った車
2022年2月6日
2022年2月5日
なぜ西日本では一般に、人種差別や戦争犯罪自慢が文献記録に残るかぎり飛鳥時代から常態か。またその天皇中華政体に共通の人倫課題
西日本の人々は大抵、かれらの先祖やその周囲の人々が、かつて、罪のない人々へ突如「朝敵」と称する意味不明なぬれぎぬ、あるいは中華皇帝風の専制政治で捏造した罪科をきせ、一方的に圧倒多数で大量虐殺していたことを自慢している。すなわち記紀や『常陸国風土記』での熊襲、隼人、蝦夷、国栖・やつかはぎなどと呼びならわした日本人らへの人種差別とすさまじい暴虐、またすくなくとも白村江の戦いや巣伏の戦いころから戊辰・西南・日清・日露・太平洋戦争まで、ありとあらゆる主体的蛮行をひたすら自慢している。かれらのなかに差別や暴行、強盗、侵略戦争といったかれらがかれらの先祖と共に積み重ねてきている悪意・悪業に反省する人はほとんどいない。
どうしてかなら、かれらはかれらの先祖とともに、かれら自身も以前と変わらず人権軽視の好戦的仲間である、とその狼子野心ぶりを自己証明しているにすぎないのだ。勿論かれらの政教一致指導者であるところの邪教祖・天皇一味が、表向きの柔和ぶった演技やみずからを優越的地位に置いたうえでの他者全員への敵意のごまかしはどうあれ、その最たる実例なのはいうまでもないだろう。
われらがかれらに反省を促し、説教してもついぞかれらに、かれらが先祖らとともに犯してきている人権侵害や戦争犯罪性が理解できない様子なのは、かれらのなかで見知らぬ他者へ十分な思いやりをもつ経験なく、しかも近畿・東京中華思想といった自己中心的なうぬぼれ、かつ傲慢の悪徳におちいっているのが常態だからだ。
かれらの野卑な心をどうにか更生させその悪事をなんとしてでも抑えきるのは、中華帝国主義の権化たる天皇一味が中国大陸・朝鮮半島から渡来後、あいかわらずわが国もっぱらの共通人倫課題である。
今日では国際社会に公的情報一般が開かれている。ゆえ、今後は諸外国やときに国連の良識とも協調しながら、西日本勢が有史以来もつこの暴力至上主義的な傍若無人さへ現実政治面の対処を考えていく必要があるだろう。その暴走が抑えきれなくなったとき、再びあるいは何度でも、小御所会議での陰湿な朝敵ぬれぎぬによる政権簒奪クーデター、一連の内乱、朝鮮侵略や満州事変での国連脱退以後の悲惨がくりかえされることがまちがいない。試しに西日本の各政体をみてみれば、これら明治維新以後の残虐非道な闇歴史が本気で自慢対象になっているばかりか、他者への害意・事情通で事実と違うご都合主義なかきかえだらけの自己愛に満ちた小説史観が公然と信じられていて、わずかなりとも実証的な歴史学の覚えや科学的良識をもつ人類はそのあまりの平均的おろかしさに文化衝撃を受ける事だろう。第一、西日本勢は一般に、単に幕末から昭和期までにかぎらず、飛鳥期に大和王朝と称する中華皇帝政をはじめてから、ほぼ共通して、かれらの利己心から害他的な無限収奪目的におこなう一連の蛮政が絶えざる自慢なのである。それは天皇専制政治のもとで事実上の奴隷状態に慣れたかれらに、文明界で共有されうる人権、あるいは人としてあまねく他者を尊重する人格主義的な公徳というものが一向に、感知できないせいである。
2022年2月4日
オンラインゲーム
かしこさの不都合な革新性
自分の既知の信条にとって都合がいい言説を「かしこい」という人は、単に確証偏見を集めているに過ぎない。
人の認知は誤りやすく、みずからの信念はなおさら独りよがりになり易い。
信念を思い込みの束とすると、自分のいまの信念を想像もしない方へ覆すに足る言説は、その人にとって「かしこい」と判定されるべきである。日本語の「かしこさ」は「おそれおおさ」と語源がおよそ一致し、自分にその働きがわかる認知域に本来ありえないからだ。
自分という実例による普遍的共通感覚の否定
ツイッター民をみていると人間の平均値って明らかに馬鹿にしかみえない。しかし、これをこうと感じていない人達がいかにも多そうなのである。だが自分と同じ様に感じる人も恐らく地上には居る筈なのだが、みあたらない。だから自分はこの世でまったく異星人みたく生きているのだ。
慣れもあるのかもしれないが自分は西洋の古典音楽があんまり好きじゃない。退屈なのである。時にはいいのがあるが大抵は退屈だと感じる。あまりに型にはまった物ばかりだからだし、特に、音が急に大きくなったり小さくなったりするパターンをもつものが苦手だ。驚かせてくるから。管弦楽に多い。しかし、この感覚も他人と共有できた試しがない。どうも古典音楽は普遍的価値があるみたいな顔をして、世間にでかいつらしてのさばっていやがるのである。僕だけが「いや、うるさいだけだよ。大半が」と感じている。みたいなのである。
ちなみに、僕は古典音楽は文法学、いわゆる楽典の教則集だと思っており、そういう意味では学習しがいがあるのだろうな、とは感じるし実際すこしは学んできているけれども、基本的には過去の手法になっているし。コード進行とか。あと調性音楽自体が基本はそう考えられている様でもあるし、自分も本格的にそれらを習おうとしたためしがない。そういう意味でも、僕には大して重要ではない世界として興味があまりないと思われる。でもそのうちやるかもしれない。僕は完全な古典音楽ではバッハのかなり一部とショパンのかなり一部くらいしか今のところだが、あんまり好きではない。今後はふえるかもへるかもだが。だが調性を今風に利用してつくってある現代音楽は、たとえばすぎやまこういちとか好きどころではないので。小学校のときとか家族で車で移動するときとか、ずっと聴いていたのだ。テープで。いわゆるウォークマン。で。なんかあいつもそうらしい。バンプのボーカル。ずっときいてた度合いなら僕のがきいてたろうけどな。NHK交響楽団『ドラゴンクエスト5』とか完璧に憶えているのだから。あとね、あれとかだ。好きなの。世界ふれあい街歩きの音楽の人、村井秀清か。あと最近みつけたのでは『ライザのアトリエ』とかいうゲームの音楽つくってた人。の一人。『動き出す夏』これとか。水上浩介だってさ。
だがこれらだけではないのだ。僕が「僕だけなんか感じてること違うみたいなんだけど」体験は。はっきりいって、この世でかなりほとんどに近いものごとどもについて、僕は、ほかの人類と称するサルの末裔みたいなやつらと感じかた違うみたいなのである。だから僕がいいなと感じているものって本気でいいのであって、たとえば多摩川ぞいを描いてた時期の、今日マチ子の『センネン画報』とかであるが。僕は20代のころ、東京・調布市の京王多摩川の、かわっぺりへ徒歩1分から全力ダッシュで1分くらい(信号待ちあり)の位置に住んでいたので、なんかあのあたりの空気感みたいのを写し取ってる感がすごいし実際、僕は見分けがつく。なにがかというと、多摩川沿いって各地で風景が微妙に違って、景物とかであーあのあたりねとかわかるのである。ナンバー1062『他人事』のこことか僕が毎日くらい走ってたところなのだ、ってかここまで止まらないのを目安に走っていた。しってる人しか知らないだろうけどね。が。僕以外、僕がみずからあの近くで、ってか、あねがあそこがいいんじゃないのとかいってなぜか間接的に促したような僕の4階建てえせマンションぶったアパートもどき3階の下宿から、多摩川原橋とかいう橋渡った向こう岸の矢野口とかいうところの学童保育で働いてたことがある姉にまえ紹介したときの反応以外で、この漫画形式の画集をほめてるやつにあったためしがないのである。会ってないだけか。ということは、でもないにせよ、どっちにしても僕が単にいいと思ってるだけの事で、他人に介在する余地がない判断を私は下しているといえよう。なにひとつ他人の意見を考慮に入れていない。
結局これだ。他人というか全人類? か、すくなくとも日本人のほとんどは、ほとんどのものどもは、自分「のみ」で判断を下してない様にみえる。やつらは他人がいいねといったものに群れているかのようだ。だから僕とは違う生物なのだろう。個体っていうか群れなのであろう。地球っていうか。なに。地球っていうか、うちゅうなのであろう。うちゅー。
自分は他人がいいねとか悪いねとかくそだねとか下劣だねとか最高とかいってても悉く無視。なにせ、自分にはそれがよいともわるいとも限らないからだ。自分にはどころか全世界にとってでも。
なんか。しばらく前ネット上のしりあいくらいの人らに呼ばれて、『ドラゴンネスト』ことドラネスとかいうオンラインゲームによばれてやってみた。ところが。UI(ユーザーインターフェース、使用者界面)が異様につかいづらい。なにがかというとごちゃごちゃしてて整理されてない日本製品特有のやつみたいになっている。なんというのか想像のなかでパチパチすいっちを切ったりしてる飛行機の操作室みたいなのの、未整理のやつみたいになっていた。それを平気であそんでるやつらがいたのだが、僕からすっと、いや、これば、馬鹿がつくったでしょとデザインに疲れちゃったのだ。疲れてはねーが。正確にいうと。いまのは非正確です。一利用者として「いや、普通につかいづらいでしょ」状態。そのまま、よくわからねー敵陣につっこまされ、ぶんぶん刀ふりまわさせられ、地獄みたいな戦闘だった。よくあんなのやるね。戦争ゲームとかやらないほうがいい。こわいだけ。なんだあれ。あれみたい。レイテ島の死闘。ひどい面だ。まぁこれもね、僕にとってはおもしろくねーわい、というものをさせられた実例なのである。なんか京女でもありそうでもなさそう宇治女ルレとかいうやつとか愛媛男ホイチとかいうよくわかんねーやつらが、あとどこか関東女っぽいもののどこのやつかもしらんニンジンとかいう。よくわかんねーしりあいでもねーやつらが。ずっとゲームやってんである。青春ぶって。いちゃついて。いちゃついてはねーのかもしれんが、あの中では。どこかしらばかみたいだった。だってさ、お使いゲームみたいなのを延々やってんだよ。ゲーム内でしか意味ない様なものなんだが、いわゆるクエストみたいなのをつぎつぎとりにいってんである。しりあい以上恋人未満のルレどころかニンジンのほうが女性としては魅力っぽさを漂わせてる? みてーにゃやつらが。遊びくるってんである。大のおとなが。アバターとか調整しながらよ。かわいいんだかセクシーなんだかの服をね、課金して買ってんだかしらんけどさ。メタヴァースでよ。めたにゃーすでよ。もう二度とやらない。
なにがいいたいかというとね。僕はあれなのである。ファミコンが出てきた初期からやってるほうだから、わりとだけど。いろんなユーザーインターフェースを経験してきているわけだ。そっからすっと。ふざけたUIつくってる時点で、つくりやがってる時点で。あなたゲームやらせる気あんの、手抜きかよ? みたく感じてしまうものだろう。だから韓国ゲーはまだまだなのである。それは残念なことではあろうか?(反語)、はっきりいってね。堀井雄二一味がいるからには日本勢が今のところ負ける余地がないのは、このUIの単純さ、すっきりさにまとまるんじゃねーか。堀井雄二は一応とはいえ神の部類とされている、のではなかろうかゲームクリエイター界では。最近は関東の地の言葉をさも後進的みたいに小馬鹿にしてきやがるから格下げかな、とずっと下品な関西中華思想とやらに心底腹立たしくおもってはいるが、だからわざわざ昔からのドラクエファンとしてスクエニに投書してこないだ子供を傷つけるなと文句つけてやったが、それでも、しばらく前までは淡路島からでてきた割には。てか淡路島から関東に出てきて、現地の地の言葉を田舎者扱いで差別している田舎者っていったいなんなの。そんなのカミのわけないだろ。精々、勘違いした関西のどいなか者だろう。しかしだ。それでも堀井氏の作ったUIで慣れてると。アンドロイドをいきなり使い始めてみたアイフォン勢みたいな感じがする。韓国ゲーやった途端。これで慣れてんのかってね。
僕だけ感じてる事ちがうみたいなんだけど体験って、自分以外の人類ほとんどはおそらくろくにもってないのではないか。
最近調べてて発見したんだが、なんか4色型色覚とかいうのをもってるやつがいるらしく、自分はおおむかし、というか20年位前、つまり18の時、どばたとかいう場所で市橋なる講師にこういわれた。かれが自分の絵をさして、「(この部分とか変わった色だけど)それでいいんだよ」とかなんか。なにがかというと、僕は色弱だといってみたのである。それへの返答で。あとでだすが正確には赤緑色覚異常ぽいけど。どばたとはすいどーばた美術学院とかいう美術予備校ぶっている、いちおう藝大油画に生徒が一番入ってる・入ってた、形の上では専修学校である。ここでの話はまだ書きかけだが『18歳の自伝』としてだいたいその歳の夏まえくらいの時点までは書いた。つづき書くかな。「自伝」分類にあるとおもう。とおもっていたら、なぜか非公開になっていたのでいま復活させてみた。たまになぜか非公開になってることあるからね。僕のこのブログあまりに記事が多いんで、なのか。で。要するに赤緑色弱って人口の5%だか前後いたとおもうんだが、それの一部が黄色? あたりに反応する別の錐体細胞を目にもってるらしく、いちおうチェックテストみたいのを自分でやってみたら、僕はそれっぽかったのである。つまり4色型色覚? だって色がいろいろみえてるみたいなのだ。細かいのまで。実際そうかしらんけどね。でもありえることだ。僕はむかしから中間色みたいなのが好きで、すきというか猛烈に純粋にそういうのをみわけるのがたいてい趣味なので、いつも猛烈な熱意や努力を傾けて、色味を調整するって作業、以前からやってきていたのだ。最近はそれだけで絵を描くことにして理想画の理論までつくったからね。なんかね、ぷにくろがフリースを色んな色味でだしたときとか、それを択ぶのが楽しいもんだからずっとやって実際もっとも綺麗な色味をさぐりあてたりもした。あれ高校くらいの頃だった気がするけど。いまだに着てるしね、2着あるけどそれでえらびにえらんだ自分には最美だった色を。ウィンドウの色とかも代えられるしくみのときは、ウィンドウズ10とかそうだが、つかいだして最初にすごく情熱をふりむけ何週間も美麗な色になるまで調整しつづける。よく考えると、僕しかそんな作業やってねーのかもしれん。たぶんやってないな。そりゃあ絵描きになるわけだ。これとよく問題は似ている。
要するに自分がみているものを他人がみていない可能性がある。
だからこう言えると思う。哲学用語の「共通感覚 common sense」、常識とも訳されるけど、ここでは人類が感覚的に共通性をもちうるかどうかの議論なわけだが、カントの場合、これを普遍的に「だれにでもあてはまる感」としてもてることを前提に彼の芸術論って構築してある。が。僕の例をみても、「18歳までに集めた偏見のコレクション」――アインシュタイン語録とされるものだが実際は1948年5月『ハーパーズマガジン』196巻で用いられた編集者リンカーン・バーネットによる比喩らしい――としての共通感覚なんてありえないことがわかる。4色型色覚なんざもちあわせてみろ。なんか遺伝的に赤緑色弱のやつの一部がもっているらしい。まさに俺じゃねーのかという疑いがある。だからむかしから僕は外を歩いてるだけでも外の風景の美しさに圧倒されて、感激しちゃったりしてたのかもしれないだろうに? いわゆるギフテッド感覚過度激動のせいかとおもっていたが、それとも重なってんのだろうかね。そのとき僕がみてる世界の感じを、受けてる感覚の感じを、他人はもしかして感じてないのではないか? という疑いがある。だから僕にはスラムにしか見えなかった薄汚い東京とやらをやたらめったらほめちぎる無感覚なやつらがあれほどわんさか生きているのではないのか? もしかして、およそすべての人類って僕がみてたりきいてたり感じてたりすることをほとんど情報としてうけとってねーやつらなのでは? 共通感覚論を唱えてるやつって完璧にまちがっているのだ。人はそもそも遺伝的基盤からして差があって、或る敏感な人が感じ取れる質感をそうでない者はちっとも感じないようなのだ。そしてだ。僕はこの敏感さについては、もうおわかりであろうけれどもおそらく全人類でも屈指の部類に入るとおもわれる。だって東京とか地獄みたいで住めなかったもん。まず空気とかがすべからくまずいので、つねにひどく不愉快、大変苦痛なのである。空気のよごれかたを感じとれる人は都内で一秒でも快適に過ごせない。それが僕だった。
満員電車なんてすくなくとも地獄の罰としか感じない。拷問すぎて。それに毎日乗っているのだ、都民の大半って。それって、よほど鈍感じゃなかったら到底耐えきれない。だから僕には無理すぎた。普通に毎日が死ぬほどつらく、なにしろ都内のどこいってもひたすらきたないからだが、端的にいって、死んでいるより致死的だった。東京最高とか田舎は臭いとかいってる人間って、たとえばピースの片割れ、沖縄系大阪人の奴、名前なんだっけみたいなやつだけど、あ又八か。いやちがう又吉か。あれ。あのひと絶対鈍感だとおもう。そんなこといってたもん。あいつ大阪都市部とか東京の過半みたいなよごれた環境には平気なんだぜ? 僕と感覚が真逆らしい。かんがえてみてくれ。魚でもいろいろいるだろう。どろぬまの下水みたいなところにわざと住み着いてるダボハゼ勢も、清流にしか生きていられないヤマメちゃんもイワナさんもアユ君もいる。ごみごみした場所で他人とぐちゃぐちゃ群れて生きていられる人って、それだけで感覚がしんでいるみたいなもので、清らかさというものを感じる能力がないらしいのである。だから空気清浄機を動かしても気づかないはずだ。僕はそういうのも一瞬で感じとるほうだ。調布ですんでた部屋のめのまえが甲州街道だかなんだかという幹線道路で、排気ガスだらけで窓もあけられないので、ずっと無印良品の、深沢直人デザインの空気清浄機とあろうものをつけっぱなしにしないといけない、
多摩川にさらす手作りさらさらに なんぞこの子のここだかなしき
な『万葉集』の時代からある旧武蔵国の、現在は都内とされている生活環境だったからもあ……りもしないが。なんかなんとなく空気が澄んでいるような感じだなとか。一瞬で。瞬時にさとる。そりゃーそうだろう。だって空気が澄んでいる北茨城で自分としては生まれ育ってるんだし、東京はどこも空気がよごれてるんだよね、高尾山ですらだよ。ひとがぐしゃぐしゃおおすぎるからだ。
しかもね、こういう僕の敏感さって、ものごころついてからずっとなのだ。だから幼稚園のバスもバスくさいし、そりゃーバスだからそうだろうが、あの匂いは僕はすべからく苦手なのはまちがいない。いそはら幼稚園へ着くまでなん十分かつらいので毎日最悪だなと感じて、よく泣いていたのである。涙目どころか毎日気持ち悪くなってしにかけた。3歳だか5歳だかのころから。こればかりか、近所の井坂君という土方の息子がまったく無意味に暴行罪をしかけてくることすらあるので、圧倒的不利な条件からその防戦までしなければならない。だから幼稚園の女のせんせいに同情されてたのか、ほかの児童もいたのでそれでもそれなりににすぎないにせよ保護はされてたとおもいますけど、幼稚園児時点のぼくが(も? ではなかろうな)かわいいからなのか、卒業する時、別れを惜しまれぎゃくに泣かれたことがあったのだ。
大体そういう意味でいうと、神経が鋭敏に生まれついている者の最たる部類に自分が入ると言える経験しかしたことがない。
これからラジオアップロードしてみる、と書こうとして、いまアップしてきた。『高校の話』って講義シリーズ。ここにもそういう特徴がよくあらわれているのかもしれないではないのか。自分で聞かねーけど。将来きくかも。思春期ですらだった。
2022年2月3日
技の実質性
技は実質の形を作る。他方で、現実は悉く空とも考えうる。
美徳は空ろでなく実質に属する以上、人が生きるべきなのは最善の技を極める道である。
自ら技をつかい美徳を形にできない者とそうできる者の間には、埋めがたい溝がある。単なる技術力の差という以上に、あるいは技の使い方自体を含め、美徳というものを形にできる側がより、実質性に於いてそれを知っているのである。
単に美徳の形をなんとなく知っていても技を使って実質的形にできない者の場合、技の使い手に特定の形を示されないかぎり、実質性をまざまざと実感を伴う感覚に還元できない。技がそれを見聞きし利用する者の為にあるとしても、美徳の形を自ら作れ、ゆえ当の美徳の実質を最もはっきり知っている側が、まぎれなく最善に生きれるのだ。第一に、ことあるごと最善の技を使える者はすでに美徳と生きざまが一致しているからで、第二にもし美徳の形を技で実質性にもどせなければ、いわば空理空論に耽って、現実では空ろなくらしをしているにすぎないからである。
たとえばいくら文を知っていてもそれを書くという段になって立派な技を使えない者は、ひとびとに読みづらい文章を読ませ迷惑がられる始末になるばかりか、個々の字やその連なりにおいても流麗で、かつ人を感動させる書道や文法、修辞術を十分用いうる者より、賞賛に値するどころか無作法を軽蔑されることこそあれ、自由教養を帯びた育ちにずっと敬意をいだかれがたいだろう。これは失読症の者や、その他、文のよみかきにさしさわりある遺伝的変異にはもともとあてはまらないとしてもである。
めでたい技は、よい好みを映している。最美の技は最高徳を反映させたものだ。
アリストテレスは形相という言葉で、形と実質は分かれていないと説いた。この説の現実態と可能態の連鎖で示される論拠は、究極の所、技が追い求めているのがよりよい実質の形だからである。実質の優れた形があれば、それは同時にあらゆる物事について最も目的に合った姿だろう。カントが合目的性という言葉でいいあらわそうとしたのは、この技全般が共通して帯びているべき性質だった。
たとえばろくに使えない道具は合目的性にかなっておらず、優れた美術作品は巧みな装飾を通してひとびとのくらしに見目麗しい品位を添えるのだ。
単によい好みを知っているだけで、自らそれを映す技を使えない者は、美術家・芸術家・技術者・職人・工人・芸人・芸能人などではなく、批評家・評論家・好事家・芸術愛好家などと呼ばれる。だが技への評価は技自体の帯びる実質と、必ずしも一致していない。つまり批評が意味するのは、よい好みをそうでない好みと見分ける役に立つかもしれなさだけである。
優れた批評はよい好みを教える。そういう評はかならずしも発言者も技を実演できることを意味するのではないが、すくなくとも美徳の形をほかのよくない形とは見分けられていて、なおかつ、単なる評価のしかたで調度よい目的に合う姿をとっているのだ。
2022年2月2日
認知力一般の定義
特定の認知力の高下と、一般知能指数(GIQ, General Intelligence Quotient)の高下は必ずしも一致していない。
また、一般化したときもひとによって認知の得手・不得手がありえ、あらゆる認知力が通常のやりかたではかったGIQと必ずしも相関していないだろう。これは受験秀才の類が様々な苦手さをもっている事、高度に知的な分野の専門家が隣接する異分野にさえ決して詳しくない事などから経験的にも推察でき、すなわち認知力一般はその学習量や定量化できない質によっているのだろう。
世界史における絶対の要請
うぬぼれが強すぎ、かつ、加虐快楽を好む性悪は、他者がだれかに非難されているときはその理由を問わず一般に楽しんでいて、ばあいによっては自らも加勢する。そればかりか自分が進んでイジメや不正な嫌がらせをしだしたり、事情通の害意を自慢したりすることさえある。善良な人を無駄に傷つけるたぐいの悪趣味な喜劇や、たちのわるい皮肉と風刺を殊に好むのは、こういう特定の反社会性人格(ソシオパス)らが多いはずだろう。
だがこの種の性悪のうぬぼれ屋は、必ずしも自分への攻撃に強くはなく、非難の矛先が自らに向けられるとひどく臆して、痛がることもよくある。インフルエンサーの一部あるいは相当部分が普段、好き勝手他人を非難しているのに、自分への攻撃にはすぐ怒り狂ってSNSのブロックや冤罪BAN目的で信者フォロワーへ犬笛を吹く行為をくりかえすのは大まかに、このためである。
自分が帝国主義によって大量虐殺や差別を常習的におこないつつ、「朝敵」と称し、わずかでも逆らう者を残虐非道に処刑して回る大抵の天皇らも、やはりうぬぼれと加虐快楽を兼ねたソシオパスの典型例というべきである。
荒らしやソシオパス傾向の持ち主らすべてが心の防御力の低い変異ではないが、もしかれらが非難されることには滅法弱い変異であるとき、あまねくかれらを無視することだけが最善の対策ではないだろう。単に徹底的にやり込め、反撃不可能な状態へおいつめ、世界からその悪業を完全廃絶させることが、かれらの楽しんで起こす公害への唯一の解決策な場合も当然、ありえるはずだ。
たとえばナチとその残党の出現する余地を法的になくした事は、現代ドイツがなしえた政治史的達成として好評されるべきで、もし思想・信仰の自由といった人権の誤用でこの決断にためらっていれば、いつなんどき人類史にホロコーストの悲惨が再来するかまだ分からなかったままだった。それにくらべれば、みずからを神の末裔あるいは祭司長(祭り主)とさせた邪教徒にすくなくとも数千万人を大量虐殺させた天皇一味が、現代日本で象徴のたてまえで違憲に国政の権能を公然と侵害するほどわがままにさせられていることは、かれらの重大な闇人格と人種・性・門地・身分差別の常習犯である邪悪な家柄をみのがし、何度でも最悪の虐殺事件をその神道集団にさせるのにひとしいのだ。
共和政体への即時移行と、その前提としての邪教・神道への徹底法規制、かつ公安による永久監視が必要なのはこの様な理由によっている。民間人にさせたあとの天皇一味とその信徒・支持者らがまたいつ同罪以上の蛮行するかどうかもまったくはかりがたいので、究極ではかれらがとわに神道信仰やその儀式をおこないえず、どんな政権ももてないよう、日本国内外の各政府側が十分に邪教祖・天皇対策をすることこそ、人類史の温故知新として絶対に、要請されなければならない。
生活様式とはやりの美意識の無意識的相互作用
少し古い写真というだけで、人はそこに生活様式の差を見分ける。建築、衣服や化粧のしかたなど、一般社会ではおどろくほど急激にかわっていく。この差は時と場が離れるほどより、拡大しやすい。われらが昔の絵をみて、それを当時の人々が美人画だとおもっていたと信じられなくなるのはこのためである。
人の美意識は通常、同時代の常識となっている生活様式からひどくつよい影響をうけているので、この枠組みを外して物をみれないひとは、少しときがすぎただけで急に古びるはやり姿でいることに自覚できない。
玄人好みと素人好みの違い
専門家はみずからの分野で月並みな刺激に慣れているので、希な変異にだけ特に反応する知能をもちあわせている。こうして玄人好みの為事と、素人好みのそれは大幅に違っていることが多い。玄人はめずらしい刺激の見分けがつくが、素人はありがちな刺激にもすぐ驚いてしまうからだ。
悟りと売名・金儲けの努力の違い
倫理、すなわち良さはひとの生きる目的で、悟りの度合いである。
悟りを深める事と売名は決して関係していない。
より悟る事はすべての努力と必ずしも同じではない。金銭で恵まれる事と努力も、必ずしも相関していない。つまり、人にとって良く生きる事は目的といえるが、金儲けの努力をする事とそれは必ずしも同じではない。
福島イジメで我執に驕る天皇一味とあいかわらずの自己中京都人たち
東京に出てきた京都人・池田信夫や民主党をうらぎった自民党員・細野豪志が、おのれらの推進する原発公害搾取による被災者の気持ちをまったくおもいやることすらすこしもできず、池田にかぎっては朝敵ぬれぎぬ侵略・大量虐殺強盗団の根拠地で自称文化首都の冷酷無慈悲なイケズ京都に、当の最悪暴力団長の天皇を帰すのもよいと東日本・琉球・アジア・太平洋への帝国主義侵略虐殺にまったく無反省の謎の上から目線でぬかす
クリーンエネルギー転換についてこれない京都系東京人・池田信夫が、世界最悪の原発公害を起こし続けている東電に依存しながら、生態系とひとの心身にあたえる計測できない大公害の外部不経済を内部化する経済学理論すらろくに構築せず、経世済民の意義すら理解できず、時代遅れの核で動く鉄腕アトム級の発想力で、あいもかわらず邪悪な都会人の原発公害によって被害をうける人類を不幸にする
あいかわらずの関西の光景
すさまじくあさましい自文化中心主義・中華思想で勝手に文化の中心とほざく自称京都人が、高がはじまって1228年前後の新造移民区から奈良で奈良時代に捏造した人種差別の邪教をたねに、まぬけな傲慢さを自慢しながら全国の多文化を自明にみくだし、ろくでもない偏見と純然たる性悪の悪意で貶め続ける、あいかわらずの関西の光景
自称ふるさと実質侵略犯の巣窟
自称京都人は突然平安期に桓武天皇の先祖はじめ百済など外国から入ってきて日本を侵略、罪なきひとびとを巣伏の戦いその他で大虐殺し、日本人を異民族視・納税奴隷視しながら主権・自治権・先住権その他人権を中華思想による差別と暴力で侵害しつづけ、わがひとの生きる尊厳を千年以上もはずかしめ、今度は財政破綻しかけながら自分が帝国主義殺戮犯として送りつけてきた強盗団長・天皇に帰ってきておくれやすといい、しかも勝手に日本のふるさとと称する
天皇一味と薩長土肥京芸ら一部西日本勢は、今も進む歴史的に、なぜあれほど邪悪な帝国主義者か
京都人や薩長土肥芸(鹿児島、山口、高知、佐賀・長崎、広島人)はじめ西日本人の相当部分は、みずから起こした戊辰戦で、単なる純粋な恣意や悪意の極みというべき暴威の為に、進んで天皇を連れて東日本へ侵略し、罪なき人々に朝敵とのぬれぎぬをきせ大量虐殺した。
その挙句、自分たちの虚栄心、プライド、驕り、傲慢という悪徳の為に天皇を京都に帰せという。では一体、天皇一味はなんのために徳川氏の天下泰平を根底から破壊したのか。それは西日本人の相当部分とおなじく、端的に「己の欲せざるところを人に施す」(自分が嫌がる事を他人にやる)ほど極悪の性悪だったからなのである。京都弁で京都人自身の習性についていう「イケズ」(意地悪)とはこのことなのである。
こうして天皇一味と薩長土肥京芸およびその末裔ら西日本人の相当部分は、いわば他人をあやめ、しいたげ、傷つけ、おとしめ、一方的に何千万人もの無実のひとびとをただひたすら大量虐殺し、税と生きる尊厳を収奪・搾取し、謝りもせず逃げ帰るため国内外、アジア・太平洋の方々へ蛮行に回ったにすぎないのである。この種の帝国主義者は京都中華思想ふくむ近畿中華思想(関西中華思想)、東京中華思想といった純然たる害意で東日本人全般をふくむ地球人類を人種・性・身分差別し、おのれどものあさましく卑しい利己心を満たしたいだけなのである。
恥の倫理に規制される、自集団ひいきの生け贄づくり
キリスト教社会で、罪は懺悔と赦しで解消される。一方、日本社会が恥で規制されるとするルース・ベネディクト『菊と刀』の論点がただしければ、この倫理は後ろ指をさされる事、または、集団虐待・虐殺によって解決されるのだろう。
木村花さんが自分から自殺をえらんだのは、いわばリアリティTVによって恥を捏造され、その倫理規制から逃れるには死をえらぶ以外の道がなかったことによるのだろう。それが虚構としられ逃げ場があればまだしも、自殺教唆されたツイッターなどSNSに映る世間全般が彼女を恥ずべき存在と指さしていると彼女には感じられたからには、事実上の集団虐殺を再現するために自殺することが、倫理規範への従事だったのだろう。だから彼女はみずからの死に際し、猫への惜別に擬し、インスタグラムの画像をつかって世間に謝ったのだろう。
日本人の匿名暴徒がつねにSNSなどで標的を探しているのは、恥の倫理がかれらの社会ではあいかわらず規制となっており、世間に後ろ指をさされるにたる恥ずべき人間とみなしたアカウントによってたかって集団虐待・虐殺をする目的なのである。これはいわゆる生け贄、犠牲のあり方ととてもよく似ている。というより、かれらはつねに生け贄を捏造することで社会不安に対応しようとしている。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件などがその最たる実例だ。かれら日本人の相当部分あるいは一般は、自集団の境界例とみなせる曖昧な存在へ、ぬれぎぬも構わず恥の倫理で攻撃をしかけ、自集団がさも倫理的に正当化されるよう、自身と異なる倫理が支配する他集団との境界線をもっと太めに上描きするつもりなのである。
日常語定義論者
アメーバ・ピグとかいう場所に、とつげき東北とかいうやつがいた。
こいつ、心底いかれてる様な感じで、日常的に偏差値信仰による学歴差別とやらをまき散らしまくっていた。あまりにその言説による人間性への毀損がひどいので、すこしでも良識をもった人は彼がいかれていると知っていたが、そうでなく、だまされやすい人々には彼のもっている教育差別が彼個人の生い立ちによっていると類推できずにいた様子だった。
彼のホームページまで辿るといろいろ回顧録じみたものがでてきて、彼がこどもの時点から教育ママとやらに学歴信仰を植えつけられたと告白されている。様子だった。なんかファミコンのドラクエを買ってもらえず勉強だけやらされたので、ずっと脳内でプレイしていたらしい。しかも兵庫県の教育体制は学力別で進学先が決まらないらしく、そんな経緯でも彼は段々その神経をこじらせ、遂には学歴差別主義者になっていったらしかった。
彼個人がおとなになっても延々と受験偏差値教をまきちらしつづけているのは、客観的にみて実に憐れでもあるので、自分は最初からなるだけ一定以上の距離をあけかかわらないようにしていたわけだ。なにしろそんな逸脱してしまっている人間にどんな忠告も届きはしまい。それどころか学歴信者がなにかを信じるとしても、それはモギケン信者のとある横浜主婦レベルに、受験偏差値の後光によらなければならないだろう。つまり、救えないのである。
しかしここで書きたいのはそのことではない。救えない人についてなにを書いたところでだれも救えないし、きっと救われもしないだろう。人類史の誤ってうみだした絶望的性質について深く知ったところで、その人の人生に暗い影を投げかけるか、さもなければ社会学者が興味深い検体にするだけだ。
ちなみにとつげき東北というニックネーム・筆名は、兵庫から東北大学へ進学できたことを誇りに思ってつけたらしい。
このとつげきというやつは、とかくなんでも「定義」をするよう押しつけて回る、それに異常にこだわる、など、ほとんどすべての言動自体が奇矯であった。ただ、その奇妙さが、興味深い方面への変異なら私も観察がいがあったが、ことごとく凡庸な稚拙さへのあやまりなのだった。
かれがそこまで「定義」にこだわるのは、いわゆるユークリッド幾何学的公理系を模範にしているかららしいのだが、それが現代の通俗的な科学論文で均された感じの妄念にすらなっているらしく、要は学術用語を「定義」してから会話せよ、と言い散らしているのだが、どうみても日常会話でそういっているのである。日常会話でつかっている日常語について、いちいち「定義」してから語らないと馬鹿とみなすなどとほとんどの男性らへ罵倒して回っていたのである。
いうまでもないが、実態は、とつげき自身に語彙力がないだけだ。
このとつげきという人間は同時に、女には性的価値しか認めないと公言するなど、あきらかにサイコパスでもあった。そのうえ、上記「定義」論だの、根源的にいかれた事しか言わない。言えないのだろう。結局それらをすべてみていると、地頭に問題ある場合どれだけ教育を与えても、新たに迷惑な人をつくるだけ、とわかって、その限界と無意味さに絶望できるのだった。
東京・京都の虚構文化とそれに祭られた虚構の天皇一味の末路
東京人は偽物ばかりほめる。それはかれらが本物の愚か者だからだ。それ以外なにか理由があるのかずっと自分は探ってきたが、なにもなかった。
南関人とか西日本人とか中部人とか、その他、東北の仙台人とか、北海道人とか、沖縄人とかが、通常東京人に洗脳されているのはテレビの影響が大きい様子がある。あるいはその他のマスメディアでどうも洗脳されているらしい。東京にキー局といわれる全国向けテレビ局は集中しているので、というのも電波を配分している日本政府が事情をしりながら利権付与でそうしている状態だが、これも、間接的に東京中華思想を強化する。東京に中央政府があってその構成員がほとんど東京人らなので、自分達が「お上」「上級国民」として宣伝される虚構を捏造したがるわけだ。
その様な稚拙で幼稚な構図のもとに、東京人は偽物ばかりほめるのだ。かれらに同調する者が偽物をつかまされ、喜んでいるのをみると憐れではあるかもしれないが、自業自得でもある。自分も東京人に偽物をつかまされ騙されていたこともあったが、具体的にいうと小沢健二みたいな人間なんて下衆で埋まっている都内にまずいないし、東京藝術大学とかいう国立大に美術的な実態がないなんてしらなかったし、けっきょく都内でくらし内情をつぶさに見、あるいは自分の知恵をつけていってだまされなくなったからだ。同様に、京都人らと具体的・直接的にしりあうことで、または現地をおとずれ、教科書やJR東海のCMその他の旅行代理店などで公然と嘘をついて、実情と真逆に、かねもうけや天皇家の虚構のため過度に美化されていることをしってしまえば、ものすごくありがちなイケズさに二度とだまされはしまい。東京についても同じことがいえる。
天皇一味が没落してから、人はようやくそれが虚構だった、ただの建前だったのだとしるだろう。だがさきに実態に気づいている者だけが、真に損害を避けられる。
人類の墓場に住む人々の性的退廃と漸次絶滅
経験的・現実的に、東京人とか京都人とかが「童貞」という言い方で、又それを人格への侮辱表現として、特に男性にかぎって性行為を同調圧力で強要させようとする言動をする傾向があるのは、一言でいうと、東京人・京都人一般の貞操観念と生態が退廃しているからである。
第一に、かれらは性売買罪を犯罪だと感じていない。いわゆる芸妓・芸者とか遊女・娼婦・風俗嬢・キャバクラ嬢・男娼・ホストとかいわれる類の、売買春をおこなう性風俗・性産業社会を、しばし文化として美化さえしている。すなわちこういった性売買界になじんだ人間は、婚外の性交渉を、特に相手へ金をおとしながらおもな客となる男性が盛んにしたがる状態を常識だと心から信じ込んでいるのである。これを退廃的と表現してかまわないだろう。京都人もその様な退廃傾向をもっているのは、いまとなっては一地方都市だが、平安京のころから性売買罪が芸妓の社会として営まれてきた経緯によっているのだろう。
第二に、かれら東京・京都人一般は通例、純潔を重んじないどころか「捨てる」などと表現し、その貞徳の逆の姦淫を好む大変な悪徳を広くもっているわけだが、それというのは、このひとびとは長く退廃生活を経過してきて、性行為全般を生殖行為だともはや思っていないのである。すなわち、これらのひとびとは、性行為を生殖以外のなんらかの娯楽だと思っているのだ。似た様な類型の言動をした名古屋人もわたしはひとりみたことがあるが、その男は妻子がいた。はたまた、単なる性行為だけを目的に軟派をくりかえす東京人もみた。かれらの淫行の癖はソドム・ゴモラを聖書の神が滅ぼした理由となる様な典型的悪徳と考えられるが、要は性売買罪のはびこりという都市的退廃によって、出生率が東京・京都など都市圏で最下位層常連な事と照合される。この要素はいわば東京・京都人一般あるいはその他の国内都会人一般が漸次絶滅しつつあることを意味している。
姦淫小説・アニメ・動画・同人誌をまきちらし、それを自慢する。こういった極めて奇矯なうえに、猥褻物頒布罪をなぜ進んでするのか通常理解しがたい行動類型も、日本の過密都市部で長らくはびこってきた退廃の結末である。純潔を重んじないこと、特に男性のそれをさも広く通じる風紀のごとく、あたりまえのごとく、東京・京都人らがケガレた様子でさかんに軽侮することは、同時に、浮気、不倫、買春罪、愛なき性関係といった、性産業に従事しない女性一般にとって不都合な社会をかれらのすみかにつくる。こうして日本の各大都市部では女性一般も退廃生活になずみ、遂にはかれらの天皇を模した中華思想の虚栄心から自慢しつづけてきている金銭勘定やうらぎりで満ちた都会生活という、人類の墓場をつくるのである。
2022年2月1日
天皇京都回帰論者にみる純然たる悪魔性
池田信夫や会田誠、石原慎太郎、門川大作などの天皇京都回帰論をみるに、天皇一味ならびに薩長土肥京芸ら幕末西軍の構成分子となった地域の人々、および、その末裔らは、総じて、純然たる悪意の侵略犯で、ただの根っから邪な帝国主義者にすぎなかったのだ。だからこそ、彼らは自分から天皇一味とともに東日本へ朝敵ぬれぎぬ・大量虐殺・強盗団にきて、何千万人もたった150年の間にころしつくし、責任もとらず、謝罪・賠償・懺悔・慰霊の旅もせず、恥どころか罪悪感もおぼえず、傍若無人なふるまいをして関西へ逃げ帰ろう、逃げかえらせようというのである。
このような悪魔集団に今後ともまったく人道が妥協する余地はありえない。天皇一味とその支持者・間接支援者らは、総じて人間界にあらわれた悪魔だと言って間違いない。
人を常に目的としてのみ扱うべき無条件の自律と、自分が創るそのゲーム的実質界
なにかゲーム、ことにオンラインゲームにはまっている人をみていると、その無意味さには驚く。彼らは自分がやっている作業になにか価値をみいだしているが、その外に生きている人にとってはまったく無価値なことに時を浪費しているからだ。
ある人の生涯が有限であれば、その様な作業をくりかえした人の一生はおそらくみじめな事だろう。
仮想界、メタバースという表現を造語し、これまでもゲーマーが生きてきた価値を拡張現実として金儲けの場にしようとしているのが「メタ」と称するもとフェイスブック社だ。将来この文を読んだ人には、すでにその会社がどうなったかしれているかもしれない。
自分は特にアメーバ・ピグという仮想界についてはかなり深入りして生きていたことがある。それは義務があってやむをえずやった。当時のことは大まかに『政治広場史』『さと事件史』『続アメーバピグ史』その他「アメーバピグ史」分類の史書関連にまとめてあるので、このブログを探せばでてくるだろう。結局このサービスは、サイバーエージェント社が、フラッシュというアドビ社の技術サポート終了とともに新たなしくみにきりかえずに基本おわった。そんなものなのだ。メタヴァース。すぐおわる。すぐ消える。そんなものに命を費やした人達って、どうなるだろう。
自分の場合、たしかにアメーバピグから得た情報量はとても大きかった。それはいわば先駆けで、世界中の人々とやりとりできたからだ。
たしかにたしかにたしかにメタヴァースともあろうものは、軽く場所はこえられるので、地球中、あるいは宇宙中のひととも、電波や光信号など通じれば瞬時にやりとりできるかもしれない。というかできていた。だからとても有効なものでもある。しかしそれは、ゲーム内の価値づけによるのではない。つまりは人を目的としてあつかう人格主義によるのである。
ところでユーチューブの講義シリーズやツイッターの返信では先にいってみたんだけどここでブログ内文面でも発表しておくが、自分はカント倫理学の定言命法(絶対の命令)をさらに進化させ、「人を常に目的としてのみ扱う」無条件の良心にしたがうことが、本来、無条件の自律だと考える様になった。カントさんの段階では、『道徳形而上学原論』に於いて、「人を時に手段としても扱う」仮言命法(架空の命令)が容認されていたと思うが、自分はそれにうなづかない。だってね、もし手段としても扱っていいなら、人はほどあれ奴隷化されるからである。
こういうわけで、自分はゲーム内の価値をつくって、特にオンラインゲームことオンゲにひとびとをまきこんで、そこで搾取する系のめたヴぁーすにはだいぶ悪質なもの、という経験則をもっているのである。なにせ僕はゲームクリエイターになろうとしてきている。なんだかんだいって。小4の頃の文集に、自分も自分が救われたゲームクリエイターになって子供に夢を与えたいと書いたのである。そこからみてもだ。
だからこう結論づけられるだろう。人を目的としてのみ扱うべきゲーム界、遊戯界、電脳界にあって、オンゲであれオフラインゲームことオフゲであれ、ネット接続オン・オフどっちでもやれるゲームであってもだ。人がそこで課金対象として扱われている状態って、まったくこの世界を地獄にすると感じている。だから僕はなるほど、ゲーム界の救世主みたいな者になりうるのではなかろうか? それに気づいてる人ってほとんどいなそうだからだ。いや、かんがえてみると、僕ははたち頃に将来の夢は神になることだった。いまもそうだ。とすると、自分はやはりクリエイター、創造主のごとくになりたいのであろう。結局それって、いま書いた様な意味で、こどもだのゲーマーだのその他一般人だのを、メタ的・上位認知的に搾取対象にしない仮想界をつくりだすこととほぼ一致している様に思う。
そこでは人は常に目的としてのみ扱われる。そうでなければならない。
ちなみに、仮想現実って言葉、仮想は誤訳というかある種の意訳で、実質現実というのがヴァーチャル(virtual)の原義でしょうね。徳の意味のヴァーチュー(virtue)からきてるんだから。
公然たる事実
なぜ日本社会では、SNS上に下品な人々があらわれているのか?
それは、もともと発言権のなかった一般民衆が、留保なく世間に表れる様になったからにすぎない。つまり日本の人々が一般に下品だったのだ。
彼らが卑劣にも匿名で犯罪ばかりしているのは、もともと彼らにはその様な人間性がおもだったからである。
我らはろくな社交媒体をもちあわせなかったので、日本人一般がどんな性質とともに日常を送っているか目の当たりにする機会がなかった。それが訪れたとき、我らはあまりの下賎さに驚いた。だが、それは唯の公然たる事実だったのだ。
副文化と高い技の住み分け、中間芸術としての超平面論とその末路
副文化(サブカルチャー)はより下品な物を量産し、多くの非社交的変態性に慰めの適所をつくる。
高い技(ハイアート)はより上品な物を少産し、人々の社会一般に好みの模範を示す。
副文化と高い技はおのおの目的が違うので、結局まじりあわないし、まじりあわせるべきでもない。
村上隆の超平面論はこれらの中間の技を、双方の領域に出入りしうるものと定義しつつ拡張しようとしたが、その様な試みは単なるいたづらに終わり、端的に無駄なばかりか公害でもあるだろう。副文化と高い技がまじってしまうと、中品というべきどっちつかずの品物であふれかえってしまい、人々はなにを信じるべき規範としてよいかわからなくなってしまうからだ。
その混乱はやがてある国、ある社会に深刻な退廃をもたらす。副文化は通例、飽くまでなんらかの少数派がみずからの反社会性を満たすため構築している仮の囲いにすぎないのに、それが主な文化領域に侵入すると、本来あるべきでないところに公然と悪趣味がはびこってしまうからである。東京でしばしば同人誌系の猥褻オタクアートが炎上するのはこのためで、中世京都や江戸・近現代東京で、姦淫・残虐非道な殺戮など、悪徳系の私小説が高い技あつかいなのも、当時の現地住民にして同様の混乱の果てあらわれた、世も末のありさまだったのである。
非論理哲学について
論理は論理を超えたものを捉えられない。だから論理的哲学とことなる哲学があり、それは芸術とか宗教とか、色々に呼ばれている。芸術では大抵、感覚を使って哲学(知恵の友愛)をする。宗教では特に信じる事について哲学する。
一般の科学、今日でいう数学、自然科学、社会科学、人文科学などは、おのおの少なからず論理を用いて考えているが、これらは総じて論理哲学の範囲にあると考えていいだろう。
2022年1月31日
どんな親友が望ましいか
ゲンロン一派ってのがいる。私はこの人達、なんか全然好きになれないから絶対ちかづかないつもりではいるが、同時代にほぼ隣というか東京圏にいるひとらなのでツイッターなどで観察はしている。観察ってより監視かもしれない。
なにせ原発マージャンとかいいながらいわきまで出入りしてた時期もあったひとらで、僕の高校の同級生らしい開沼博氏に地元人の気持ち考えてるの? みたいにいわれるまで福島原発を闇旅行の観光地化しようとしていた一派なので。というかいわき圏でゲンロン派だったころのカオスラ一味が展覧会やってもいたので。まぁまぁみてたわけである。僕の住んでる北茨城は、いわき~東京間のとおりみちなのである。
で、最近。ご存知のとおり。知らないか。しっててもどっちでもいいですが、 某カオスラ大炎上案件とかゲンロン界隈にはあり。ま、正確にいうとゲンロン界隈ってか東浩紀氏界隈というべきなのかもしれないのだが、なにせ黒瀬陽平氏というひとが起こした某事件で、カオスラというアートグループがきえた。それを消したのが、みてたかぎり、東浩紀氏だったのである。再起すら妨害している感じで。
こんなの美術史ではみたことがない。まじで。初の案件なのは確かである。
なんでそんなのが起きたの? というレベルですさまじい事件であり、現在進行形なので無論興味深くはあるものの、どっちかといえばいまのところ負の訴訟合戦スパイラルっぽくなっており、そこもそこでめずらしい。美術家らでそういうのあんまりいないというか見たことがない。美術史上、訴訟合戦といってもあったのは著作権と公平利用のあいだで、一部のポップアーティストらがやってたやつくらいしかみた事ない。しかもそれって必然に生じてるもので、要は流用はどこからどこまで二次創作として権利が認められるの? という複製品に関する議論で、まじめなものだった。つまりは平和な業界だったのである。いまにしておもうと。
そんな業界をおもいっきりぶちこわしにきて、現にぶっこわしているのがゲンロン一派という異常事態なのである。それはもう日本美術史上しょうがないことなのではないか。訴訟連打してくるから、つまりはスラップされたら一撃でしぬような資力しか大抵のアーティスト・批評家らにない以上、自己について判断力のあるだれも触れられなくなっているだけで、どうせ後世から冷厳に評されるだろうことは認めるべきではないか。
ちなみにもうこのブログから消してるけど、わたしは、わだすは、つだだいすけと申すおかたについてぇ、一言書いてたんですね、最初。それはただのいちアーティストだからだ。僕が。アイトリ2019のコンセプトが出た時点でだ。
あのコンセプトはまぁまぁやばかった。それは美術業界をひとくくりに喧嘩うっており、僕はその業界に属してそうで直接属してはないので、どこでも個展とかやったことないし、孤立した作家なので、直接ダメージはないものの、おそらくこれは攻撃されたもしくはそうと感じた側がきれんのかもだろうなぁと予想された。なんでかというと。僕はその業界の内部はかなりの深度と洞察力で、かなりずーっとみてきている。その実態からして、ま、くまなく見れてるわけではないが、大体において津田さんは勘違いしてるふしがあった。美術業界って別に女性蔑視とかしてねぇとおもう。むしろ女性がひいきされてるくらいのもんではないかとおもう。なんでかというと。多数派が女性だからだ。美大とか。僕の姉もだし。そういう場って、一般には女性に奉仕する様なかたちになってるんであって、だってほとんど女性なんですよ? ミューズの神殿じゃねぇが、男性なんて別に威張ってなかったゾ、とおもったのだ。それどころか僕のしりあいの男性の美術家らって、ちょっとひとりの例外もなく優しい感じの男性らで。いわゆる女性ポイ性差なのである。まじで。喧嘩うってくるやつなんていもしねぇ。そのあたりとかをちょこっと書いてみたのである。そしたっけね。津田さんがエゴサ好きらしく、ツイッターにリンク自動で流れていった分のわがブログ記事(もう消してある、かな?)を読んだらしく、絡んできたのね僕に。
これでもうなんかしばらく絡まれて、というか僕から絡んでいってないからそういっていいとおもうんだけれども。かなり津田氏側の認識が僕にもわかった。
それで僕はおもったのだ。これは炎上するかは当時まだわからんかったが、コンセプト自体がやばいと。そのやばさは起爆力がやばいのだった。
したっけね。実際起爆してしまいましたとさ。ね。
すごかったね。燃え方が。僕のせいじゃないよ。僕は止めていたの。つださんに。軽くね。かるくだよ、津田氏の自由だから。コンセプト企画も。 芸術監督さんとして。でもやべぇだろうなと予想していた感じに、やっぱり結構ちかくなっていったのだった。
なにしろ通るわけもない理屈を押し通す感じになっていたのだ。尤もそれを津田氏につたえることは著しく困難そうだったし、すでに展覧会は迫っていたのでコンセプト発表後、その修正なんざきっとできなかったのであろう。けど問題を認知した時点で過失を避けるべくできることはあったはずなのだが、津田氏はその様な行動はせず、いわば誤った目的の戦争中にそれを止める行動をせず、自分のつくった機構がもううごいちゃってるからごり押しで行こうとしてやっぱり愛知県界隈の関係者ごとズタボロに叩かれまくる結果になったのだった。僕は叩いてないけどね。そうなる事が見えてる感じだっただけで。
色々やばさはあるがそれに一個ずつ触れるとまたも津田さん界隈で今起きている訴訟合戦火に油そそぐ形になりかねんので、後世になってから発表しないといけない、のかもしれない。いまの時点で下手にそこに批評くわえていくと、普通につだっちのお師匠が訴訟合戦に遭ったみたいになっていくであろうからね。あれもすごい案件だ。僕はそれもかなりよく観察していた。多分、詳細しってる人は、というか津田さんのお師匠さんが津田氏に提訴されて民事だろうしどこまで過程が公開されるかはしらんけど、それも、ひとつあいとり史の顛末に残ることはのこるのではないか。
大体このあたりの泥沼試合。とんでもない状態なのである。さっきも書いたよう、われわれの世界はいまにしておもうと平和だったのだ。美術業界って多分。しかしそこに女性主義をおもいっきりもちこんで、社会科学的な反証主義のまなざしからはほとんど偏見であろうと、女性教授の少なさ(日本人女性一般が教授になりたがらないのは美大にかぎらない)とか、性的嫌がらせ系確証バイアス(他業界にも存在するので特異な現象といえない)とかをあつめ、例外の余地やひとりも逃げ場なくアーティスツ・アート関係者どもまず全員ぶった斬ろうとするつだっちの蛮勇はすさまじいものであったが、それだけに反動もすさまじいものがあった。雑なコンセプトで現代アートねじれ宇宙決戦百戦錬磨の連中たたききれんの? 村上隆とクーンズ級でもグザヴィエ・ヴェイヤンの前座あつかいされるだけで大して勝てねー戦いが国際美術展なのにとおもっていた自分を除く国内美術業界人一般は、相当まちがってなければ、それなりに反発を感じたひとがいたのではないのか。だってさ、たしかに僕が見てきても彼らって女性だのなんだのに優しいんだな、一般には、みたことねーが特殊なひとのぞいてそうじゃないっすか。というかその種の特殊な人を、僕はまじでまだみたことがない。正確にいうと美術関係者って誰に対してもやさしくねーっすか? なんかあっても某画伯がヌードモデルを生徒に断られた? らしくて、それが僕の親友(小野さん)の(当時)彼女だったらしく小野氏ぶちぎれだった案件くらいしかきいたことがない。それも僕は直接みてない。もう僕はそのころ都内にもドバタ(すいどーばた美術学院)にもいなかったんで、全く別世界。ま、自分はそっちに深入りしてないからね。日本の美術アカデミズム界。よくしらんけど内部ではいろいろあるのかもしれないから断定的にはなんともいえないのであるが、なにしろ芸大位階制、本気で腐ってるなーとおもって僕は1年でさっさと外にでたので。18の時。
かかわらなくて正解だったといえるのではないか。美大藝大。
津田氏がジェダイなのか、美術業界がジェダイなのか。そこは私には判断つかぬ。しかし。津田氏が仮想敵ことごとくぶったぎる為には、女性主義の肯定行動一本槍、もしくは裏技でも、東浩紀の後ろ盾で天皇踏み絵の飛び技くらいでは基本準備不足だったらしかった。あまりに国内美術業界と右翼を同時に敵に回しまくった結果、周りをつぎつぎ敵に囲まれていき、ついには大炎上したのはみた。あれはおそろしい。
しかも津田氏がむかしひと悶着おこしたお師匠や、同士のような黒瀬陽平氏もアイトリ2019を凡庸な展覧会あつかい――僕は直接展覧会みてないからなんともいえないが、だって君子危うきに近寄らず、ではないか。だが炎上コンセプト以外では、普通に展覧会がつつがなく終わっていたはずで。黒瀬氏がそこでいうのは生でみたら正論だったのかもしれないのだが――はたまた、つだしと友人だったろうモギケンまでオリジナル喜劇動画で正論ごんたとかいう謎キャラによりあいとり2019表現の不自由系展示かを「悪趣味」と論評、後ろから切りつけてくるみたいなふるまいをしていた。さらに追いつめられる津田氏は盟友だったろう東氏からも向こうから別れを切り出される様な状態になっていったのだった。
けどね、これは嘘抜きで、なぜか僕に喧嘩売るみたいなことした人が自動でそうなる様な場面って、本気で結構ある。神の御加護か? 偶然というにしたって、あまりに急じゃなかろうか。
しかも場外乱闘で黒瀬氏vs安西彩乃氏、東・上田洋子氏らゲンロン派vs黒瀬氏らカオスラ派、東氏vs彦坂尚喜氏、などなど連鎖的訴訟合戦にその界隈は入っていっていたのだった。去年。さすがにそこまで行く前に、雰囲気みて、普通に考えて君子どころか常識人が危うきに近寄れない案件でしょそりゃあ。美術界でみたことないレベルに業界内外まきこみ戦になっておるではないか。
この一連の動きをこわごわみていたんだが、はっきりいってまじで恐ろしい展開である。そして僕はその序盤に、そこまでいくまではわからんかったが、結構やばさだけは感じとっていたのだった。
やっぱ、自分は直感が鋭いんで感じる時は感じるもんだ。津田さんにツイッターで展覧会きてね! っていわれたけど、ある種の勇気でちゃんと理由述べて断ったもん。僕。無理じゃん。こわくて。ま、どんな展覧会でも自分まず行きませんけどね。面倒くさいから。かなり目が肥えてしまっているせいなのかしらんけど。昔は行ってたんだけど。
だから序盤で津田氏がエゴサでからんできたとき、冷静にあいとりコンセプト最大の社会学的問題点とおもわれた「肯定行動は必ずしも性差自由と一致するとはかぎらない」論をしていた僕をつだしが向こうからブロックしてくれたのは、かなり結果としてはよかったのではないか。自分は、神に守られた。無神論者からしたらありえないが、たまにそういう事が起きる気がするものの、多分あるとしても信仰という偏見だろうけど。
まーとにかくだ。ゲンロン一派はこの後、モギケンを編入する方針にしたらしい。モギケンとはご存知茂木健一郎氏。なんかモギケンカフェとかいう対談シリーズを始めて、シラスとかいう新しい動画プラットフォームにチャンネル開設を直近あおってるぽかった。数日前くらい。このシラスなる有料課金サイトみたいなのも、上記の事態がすすんでいく中で発表されてある種いわくつきといおうか、できた最初、東浩紀がこんなこといってたのだ。
「ガースーとかどうでもいい。シラスなら炎上しませんよ、スガさんおいでなさい」
とかって。ツイート掘れば正確な文言でてくるとおもうけど。
当時あづまというひとは自分は右派になったとかいいだしており、そんな感じであいとりアドバイザーも途中で降りちゃったり、当人物、まえから立場はわりところころかわるんではあるが、今度は自由派から右派になりました~的な言説をし、黒瀬深とかいうだいぶいかれてる極右アカウントみたいなのに挨拶したり。色々歯車が狂いだしている感じであった。その後深氏(黒瀬氏だと陽平氏とかぶるので)は、さきの新潟県知事だった米山隆一氏に喧嘩うって訴訟され、個人情報とられたらしく焦って逃げたみたいな呆気ない幕ぎれ感、大負け戦なのであった。大阪かなんかの青年だったらしいすね? よくわかんないけど。興味ないので追ってない。ちなみにいろいろ口先だけでプロフィールについて嘘つきまくって安倍ナチ政権を礼賛しまくってきたやつだったのであるが、モギケンも当時、深氏にいつもご活躍は拝見してますとか挨拶ツイートしだしてプチ炎上してた。シールズに絡んだ時もあったけど、今度は極右アカウントにそうする。過去のもぎしの言動から推測するに安直な行動だろうしにぇ、きっと。
で、あづま一味は今度はモギケンを客寄せ? にしようとしている様にみえる。津田切りというすさまじい行動のつぎにだ。すごいね。つだぎりにはびっくりした。
あづま氏はこの意味だと、まじでいわゆるサイコパス度が高い経営者の行動みたいに一連のばたつきがみえかねないとおもわれ、つだしが同時期に好敵手となるポリタスTVとかいう動画サイトをたちあげてたからなのかはしりませんけど、津田・あづま両氏ってひとむかしまえ親友みたいだったのだ。かれらってなんかモギケンらと鼎談とかやってたよ。いろいろ。ニコ生だかの動画で。それがあづまときたら急に津田さんを罵りだしたもんだからこわかった。あれ、ほかのみてた人らもこわかったんではないか。僕はこわかった。だっていかれてますでしょ? あいとりで一緒に炎上したからって、その火の粉をなんとか払ったら助け合うどころかあづまがわから友情をいきなり切りはじめ、なんでかとおもったら、なんか性格の不一致っぽいんだが、かなり陰険ないいあいみたいになっているのであった。
まぁたしかに人間にはいきなり友情をきりはじめるやつはいる。それはそれ。だがその展開自体を詳しくみて、そこに道理、あるいは義理人情があるかどうかが大事とおもわれる。
津田・あづま間のそれは僕が眺めてた感じ、要はビジネス的な関係で一緒にやっていくのが困難になったっぽい雰囲気もあった。すなわちあづま氏は、つだ氏が時がたっても延々対右派戦で炎上しつづけているので、それだとあづま氏的にはもう商売にならないからきりすてる選択をしたかのようであった。動画サイトの方針か? つだ氏はその不義理・不人情に疑念を感じつつ、いろいろ彼っぽい左派っぽい、なんかねぇセクトっぽい言い方であづま氏の変節をおおかれすくなかれ非難しだしたみたいだったのだが。それにあづま氏の側がことさら腹を立てだし。ついにこと切れたのであった。
モギケンが呼ばれたのは大体このあとくらいの感じであったように思うが、すなわち、あづま氏がつだぎり後の客寄せ役きてください、ここに茂木さんがいる、ちょうどよかったありがとうっぽくみえたしぐさだったのである。僕が第三者としてツイッターみててだよ。実態はしらん。ただ、モギケンはある種単純な人間におもうので、へーい行きますよ~みたく、普通にゲンロン最高! 対談中にでてくる寿司ウマみたいなことをいっていた。あれどこのすし? とかきいて、すべてのすしで最高にうまいとか動画だったかラジオだったかでいっていたが、「近くの銀のさらのみたいですよ」(銀のさらは宅配ずしのチェーン店)ってあるコメンターに教えてもらったら、高級すしと見分けのつかない味覚に自分でびっくりしていたみたいでもあった。プライミング効果というやつで簡単に味がかわる。その意味ではモギケンって真正グルメではないのだろう。アヅマンとの友情最高みたいな。これはこれでこわい。つだっちの気持ちが全然わからないらしいのだ。
僕はああいう人らあんまり現実でみたことがない。不人情の空間だ。
自分としては上記経緯ではなはだ強く、一切ゲンロン派界隈にかかわらないべきだと判断している。無論それは私個人であって、モギケンみたいな他人がその界隈で楽しくやる自由を妨害するつもりは皆無。当然自分の責任の範囲を超えている。もともと僕とは性格から哲学の向きから、美術の好みから、なにからなにまであづま一味と違いすぎるので、同年代くらいなのだろう黒瀬陽平氏らカオスラ連とちがってそこに縁がないが、それでよい。
ひとはひとに義理人情を欠かさぬべきものとしつけられその通りに生きてきたと渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』の自序に書いていたが、基本的倫理観がぶっこわれてる系の人って、義理人情の観念はさほどもってなさそうである。違うんだろうか。もしそうなら、自分が不義理働いておいて、お世話になったお師匠さんを訴訟ってするもんだろうか。あるいは親友をただの損得勘定っぽくうらぎって、同時に別の友人とその親友へ公然とみせつけるようひっついたりするだろうか?
ともかく。そうしてゲンロン一味というのは、少なくともその動画サイトに於いて有料制に閉じた系をつくっている。サロン商売なんだろうけど。これ、哲学あるいは政治に関したことについては、とってもまずいと僕は直感している。なんでかというと宗教集団って、宗派って、閉じると先鋭化しますでしょ。まさにその状態だからだ。もちろん一般に学派って外の系と出入りする人がいる半開くらいだろうし、ゲンロンもいちおうBANされてなかったら金払えば誰でも見れるはすんだろうけど、この場合にかぎって、ダークサイド・アヅマヒロキが教祖状態で暴走したらどうなるか。
前回は、というか、過去最低3回は実例ある。1度、原発麻雀。2度、あいとり炎上。3度、黒瀬事件。2度あることは3度あるどころかもう3度あったんだから、4度目がない可能性がほとんどないほど某氏が教祖として暴走しがちなのが、経験的にはよくわかるであろう。科学的にそうとまではいわないが。希な事例がたまたまその期間に集中してただけの可能性も残ってはいますがね、確率論なら。
僕は思う。批判に閉じた系は大抵くるっていく。なにせ会社ですらそんな経験値から外部監査役を重役に入れる慣習があるのだ。それがない状態ではたやすくおかしなことをしても、だれも修正できない。悪魔の代弁者が必ず一人以上いないことには、そして必ずなされるかの反論自体がかたちだけになっておらず、批判的有効打撃を伴いうるのでないかぎり、教皇ですら道を踏み誤るかもしれなさがありまくるのである。だったらそこらの会社社長なんざパートナーだか外部監査だかがつねに冷静でなければ即座に、変な判断をしてもおかしくないであろう。そこをお仲間でうずめる瞬間に終わる。組織はそうなっているというべきだ。
そしてその実例を示しているのが現に、この国ではなかろうか。政局的に弱小政党の日本共産党は、一般論として、悪魔の代弁者の役割にいたのである。だが共産党が皇室にへつらった結果、退位法をビデオメッセージで国民に広く求めるとかいう憲法4条1項「国政の権能をもたない」はず天皇に、憲法違反の大蛮行をさせてしまったのである。ふざけんな、ふざけんなといい、国会で日共だけ退位法に反対票を投じていたら、すくなくともまたも天皇全体主義で国がおわることもなかったであろう。象徴が違憲なんだからおわったに等しい。憲法5条と皇室典範16条2項に、天皇が心身重患なら摂政を置くと書いてある。
本来、親友というものは、自分の為にどんなに厳しい忠告も真正直にしてくれる人にすべきなのはこのためである。
文語はそれ固有の世界
最近、自分はユーチューブでラジオを作ってみて、講義シリーズをとっていたのだが、口語で表現することは文語のそれとまるで違う面があると色々発見した。この点でやってみたのは正解だったと思う。
口語であらわすときに容易にできる様な微差の表現は、文語では容易にできない。その意味で文語はあとからできたものなのが明らかだと具体的実感でわかった。
自分はもともと人間が一般に邪悪なものと感じ、あまり親しみたくないので、極力避けて生きてきているけど、その結果もあって文語を極めようとしてきていた。文の読み書きは大得意、というか大変好きで、子供のころ、その猛烈なペースが固まった時点からなら高2くらいからずっと休みなくやってきているのである。孔子は『論語』でこれを楽しむものに如かずといっているがまさに自分のことである。つねにおもしろい文章を探しているのである。
しかしだ。自分が実際に口語表現を試してみた結果、これは話術の範囲に入ると思われるが、文語とはまるで違う能力が入っているのを発見したのである。
この後も色々実験している。いわゆる文字起こしならどうかとか。しかし、究極のところ文語ってそれ固有の世界なのが確かだ。これが真理だろう。
自分はこの意味で新たな局面に達したと思っている! きのうまでの自分は今日と違う。それはそうだが、文語に於いてその様な革新を起こした人って、今まで人類史上にいたのか謎だ。だが自分はその革新の根っこにあるものをもうつかんだのである。そしておそらく今後、私の文章には必然にその様な革新の成果が表れてくると思う。私がつかんだものは確かな規則なので、後世の人が自分を文筆家として評価したとき、まちがいなくその部分を感知できると思うわけである。
自分はもともと文語の世界が好きなんだな、と感じる。この世界はそれ固有の秩序があって、ほかでかえられない。そしてこの世界にだけできる表現の可能性がある。自分はその固有さを今までも検知していたのだが、今ほどはっきりとその中心部をクリティカルに捉える事はできていなかったのである。
知的謙虚さと説教
自分はよいことのみをし、わるいことを徹底的に避けるよう生きてきたが、代わりに周りの人々はそうせず、どんどん迷惑をかけてくるという「他人の有害さ問題」は何も解決しなかった。悪徳まみれの、愚かな人々は単に生きているだけで害他行動をするものだからだ。
この問題はガウタマが一つの典型的解決をみいだしていた。それは人を避けることだ。彼は普段郊外の林で瞑想していることにし、その外に出るのは托鉢など機会がある時にしていたと思われる。つまり一般の向社会性を否定していたのだ。
この方法では、確かに大部分の他者の有害さは避けられるものの、一部の他者はそこをすりぬけてきてしまうし、また根本的に人間の邪悪さそのものは解決できない。さらに人は社会的動物(ポリス的動物)とアリストテレスが『政治学』でいうよう、そもそも対人関係を伴わない生き方は人の社交性全般を不全にしかねない。十分な社交性をもっている人とそうでない人、一般論としてどちらがより人徳として望ましいか。もし性格が内向的であっても、後天的修正がとても困難ななんらかの遺伝的苦手さのもとになければ、文明にあって社交性自体はおそらく一般に中庸ほどには身に着けるべきものと考えうるだろう。さもなければ人同士に必要があっても互いにやりとりするのが難しくなり、社会の発達自体が遅れてしまうことだろう。
他方で啓蒙主義によって一般社会へ積極的に影響をおよぼし、人々に説教をくりかえしつつ、少しなりとも個々の人固有の悪徳を改鋳していこうとする考え方がある。どちらかなら欧米文明がとってきたのはこの道筋だろう。それがいきすぎ、「明白な運命(Manifest destiny)」と称する欧米列強やその影響を受けた日本は「八紘一宇」などと称した植民地主義の形をとった。
日本にこの啓蒙主義がもちこまれ、はじめの紹介者の一人が福沢諭吉になって以来、国内一定層の知識人は、欧米文明に自文化、あるいは日本列島全体の単位を同期するのが一つの目的と考える様になってきた。そしてここからの同期の遅れとして後進性を無理にでも定義し――それはもともと多文化論を否定している驕っていて、誤った考えだろうが――人々へ東洋風生活は恥ずべき様子だといつわってきている。すなわち、彼らは殆どは単なる文化差としてしか責めるべき実態がありもしないばかりか、却って、希少価値を伴う本来保護されるべき貴重な自文化をも自己破壊するよう日本人一般におどしをかけ、輸入品としてのありふれた欧米文明を押し売りに回るのだ。無論この営為は単なる事情通の悪意でおこなわれており、かねてから薩長土肥京芸と天皇一味ら、幕末西軍がおもとして捏造してきた文化盗用業にすぎず、西洋中心主義や米国主義にへつらうなかで、文化輸入業者としての彼ら自身の営利や、対アジア馬乗りを正当化するものだった。文化植民地主義というべきこのありさまはいまだに彼らの植民地たる東京辺からマスコミ・SNSなどの第四・第五権力、あるいはしばしば皇室の権威を借り、大いに威張りながら拡散されており、「明白な運命」「八紘一宇」づらでのアジア文明への不当な蔑視、かつ欧米人気にのっかり逆輸入づらで自論を無理にくみかえておこなう国内漫画・アニメなど副文化への、その内容の品位を問わない妄信的礼賛ぶりなども、目に余る。
平成・令和期でこのたぐいの立場を少なからずとる論客として東浩紀や茂木健一郎などのゲンロン一派、あるいは村上隆ら超平面論者がいた。こういった悪趣味や低俗さを伴う文化的自堕落ぶりを容認する態度の欠点は、純粋芸術に中間・大衆芸術をまきこむことで品位としての貴族道徳を根本から傷つけてしまうことだ。
では我々はこのまともな向社会性、すなわち立派な私徳・公徳に向かう気勢の失われた場で、一体なにができ、またすべきだろう?
ここにみられるのは東洋文明と西洋文明の、ある島国のなかでの衝突だろう。ガウタマと福沢は全く対極の精神論を説いている。
ガウタマは『ダンパマダ』で愚者を避けよという。福沢は『文明論之概略』で知徳の平均値としての文明度の向上が人間社会の目的だという。ガウタマは反社会的思想家、福沢は向社会的なそれで、この二者はやはり愚者の害他性、悪徳を扱っていながら、それへの対処法がおよそ全く別になっている。
けれども反社会的孤立論者とおぼわしきガウタマも、他者へ説教せよといっていた。
(他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。ここにあるのは道徳についての啓蒙的態度だが、同時に、ガウタマはその限界に悟っている。愚者が賢者になる事もあるが、それは愚者自身(自分自身)が愚かだと気づいた時だという。
――ガウタマ・シッダールタ
『ダンマパダ』6章 賢い人、77
(中村元・訳『真理のことば・感興のことば』岩波文庫、1978年)
もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。
聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。――舌が汁の味をただちに知るように。
――ガウタマ・シッダールタ
『ダンマパダ』5章 愚かな人、63-65
(前掲書)
ここでいわれているのは、孔子が『論語』で「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす、これが知るなり」(為政第二、十七)、「小子つつみをならしてこれをせめて可なり」(先進第十一、十七)といい、プラトンにえがかれるソクラテスが不知の自覚(無知の知)あるいは助産術といわれる態度をもつのとほぼ同一の件で、すなわち知的謙虚さの指摘だろう。
人がもつべきものは知的謙虚さで、自分は既に十分すぎるほど学んだと死ぬまで思い込まない必要があるのだろう。
しかし仮に自分がそうしたところで知的傲慢さをもった他者らは無限にわいてくる。彼らは人を虐げ続ける。その人々に対処するのに、一つ有効なしかたと聖人らが考えていたのは、説教だったのだ。
国家社会主義自民党
人々の恨みを触媒にした岸田信夫・国社主義内閣
サッチャーに説教される岸田と漁夫の利の大悪党安倍
株式会社をみんなのモノにし次々潰れた国社主義諸国と安倍・スガ・岸田日本
総統上皇が一言いえば全員ひれふす違憲退位法ごりおし国権侵害全体主義神道ナチ
2022年1月28日
消えてしまう宝
2022年1月26日
2022年1月24日
嘘つきアニメーター
2022年1月23日
単なるIR(投資家関係)情報開示だけでなく開かれた中長期投資の為にも日本で四半期開示を非義務化すべきでなく、むしろ一層の会計透明化のため世界に先んじて国内上場企業が特定の勘定科目を任意に隠す事を法的に禁じるべき
企業の四半期開示が義務でなくなろうと、企業の情報開示が不確実で不十分ならその企業を株主が保有するのをためらう様になるだろうから、四半期開示を非義務化する必要はない。
また四半期開示と中長期保有の間に、自明の因果関係があるとは限らず、中長期保有を目的にした投資家は四半期決算をみても、容易に自らの保有企業を手放そうとはしないだろう。現時点でも株式の売却益に都度課税があるからである(株式譲渡益課税、資本益課税)。
こうしてみると四半期開示の非義務化は 、単に上場企業側に1年間かけ会計操作の不正をおこなう猶予を与える、悪意ある法制であると考えてよいと思われる。その様な不透明で閉鎖的な市場を作れば、投資家一般にとって、日本企業を保有する鼓舞は諸外国の透明で公正、かつ開かれた株式市場に比べ、低くなるだろう。
それどころか或る株式市場の流動性が高くなる事、即ち短期投資家がふえる事がそのまま、市場の活気や諸企業間の新陳代謝を促進する面をもつだけでなく、もともとその様な投機的性質の、偶然的浮動を含む富の循環がなければ、或る株式市場はつねにあらたにかわりゆく国際市場環境に最適化されない以上、中長期投資家のみが或る株式市場に有益とはいいがたい。この見直し問題について、金融庁らへ日本の株式市場を冷え込ませようとそそのかしている何者かによる、元の命題の建て方が誤っているのだ。
よって、四半期開示の非義務化は不必要なばかりか日本の上場企業一般にとって有害かつ株式会社をとりまく市場全般にとって公害な施策と考えていいだろう。もしその様な施策が東京証券取引所その他国内でおこなわれれば世界の投資家らの目は、アジアの極として香港証券取引所に移っていき、日本経済の没落を派手に演出するのが誤りないだろう。
むしろ国会議員が金融庁と共に新たにふみおこなうべきは一層の会計項目の開示義務で、株主が日本企業の実態をつぶさに知る事ができる条件づくりである。投資は或る企業活動への信頼のもとにおこなわれるべきで、東京証券取引所に属する企業群に限って、少なくとも米国企業一般や中国の一部企業への信頼に比べそれはいまだに不十分だからだ。
例えば日本では世界に先んじてその企業にとって不利だが市場にとって業績を見通すのに必要な特定の勘定科目を、企業がこれまでのとおり任意で隠す事はできなくするべきだ。優れた企業は商売にあたってどんな成績も隠す必要はなく、一時的な失敗でもその企業自体の競争優位性が失われない限り、中長期投資家を惹きつけ続ける筈だからである。また短期的に業績が悪化してもそれを隠すより、実態を信頼してくれる投資家に極力その現状を知ってもらっている状態の方が、企業側にとって安心できる長くつきあえる優良株主をもつ事ができるのは明らかだからである。
無限の戦
ところが実際の世界は正反対で
外道の南関人、関西人、薩長土肥京芸の蛮族
邪教祖天皇一味とゲスどもが
無限に悪事をくりかえすだけだった
救いのない人間界で日々サルが繁殖していた
利己の極みで連日大発情・大発狂し
純粋な悪意だけで悪しき世界を完成させる為に
この宇宙にうまれてくるのは単純な悲劇
しぬまで極悪人どもの嫌がらせに自己防衛しながら
やつら人間の無限の愚かさにどれほど立ち向かおうと
ただひたすら虐げられ、陥れられるこの地獄の日本で
2022年1月21日
2022年1月19日
磯原のヒグラシ
ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つらしいが、磯原のヒグラシは夏前に鳴き出す。
(すぐれた哲人は事態が起きる前に洞察し、先憂後楽で既に問題を解決している事の比喩。
ヘーゲルが『法の哲学』で書いた「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」を、温故知新の「ふるきをたずねる」部分にあて、「あたらしきを知る」の別の言い方として新たな内容をつけくわえたもの)
2022年1月17日
2022年1月16日
2022年1月15日
2022年1月14日
茨城の住みたい田舎1位と傲慢な偏見まみれ東京・京都中華思想
さすが極悪イジメ国民 茨城が住みたい田舎1位になっても決してほめず騒がないのに 純粋な悪意のかぎりをこめた偏見まみれ差別報道のときだけ毎度散々大騒ぎ しかもそれでNHK含む都内マスゴミぐるみのかねもうけ
東京と京都って 日本人差別・諸国民大量虐殺犯のくせ謝罪も贖罪の旅すらもしたことがない天皇一味と 代々性格の悪さ世界1位を列島の東西で競ってきているの?
非言語哲学について
言語による哲学、すなわち全ての言語哲学には固有の限界がある。それらは言葉でいいあらわせないものを考えの中に入れえない。
芸術の一切は、それが言語芸術でないとき、非言語による哲学と捉ええる。
宗教の一切は、それが言葉を介しないとき、信仰を通した哲学と捉ええる。
神の定義とそのわざ
徳には幸を、不徳には不幸をもたらす者を神と定義すれば、禍福をあざなえる者こそこの世でのカミらしさを最も身におさめているだろう。
徳を自らまたは他者に公益をもたらすもの、不徳を自らまたは他者に公害をもたらすものとすると、徳という原因を幸という結果と一致させ、不徳という原因を不幸という結果と一致させる勧善懲悪こそ、まことの神のわざである。
言語圏の相互均衡とその世界史的な政治運動について
我々は言語圏を持っている。
(但し或る言語条件(言語障害)をもつ者をここでは仮に除く。特定の言語条件者は、その言語圏を出ない、とする。これは現実には微差や濃度を含む各異言語圏と分類される領域同士の相互作用を考慮すると議論が複雑になる事を回避する為の便宜であり、よって、この議論は現実の条件全てを説明しない)
その言語圏はそれぞれの人々を一定の相互関係に結びつける紐帯である。これらの紐帯は人を言語圏の外にはじき出さない様にする。もしくは或る言語圏の範囲に、人々をひきつける。それはやりとりの合理性の為である。
特定の言語圏はその言語圏に人を縛りつけている。これを同時に文化圏と呼ぶこともあるが、必ずしも文化圏なるものと重ならない。
言語の学習効率から、人々は特定の母語を持ちがちになる。
これらの言語圏は、人々を互いに異なる秩序へと至らせようとする。それらの言語圏の相互関係は、結局、世界政治史を作っていく運動である。
2022年1月13日
2022年1月12日
2022年1月10日
輪廻と解脱
2022年1月5日
絵を描けない人
ゲルハルト・リヒターは装飾的犯罪者だ。その抽象画が大量の追随者を生み出し、それらの西洋画の描き手らは、悉く無意味な物を量産したからだ。彼は余りにまね易い様式を生み出し、それはあらゆる抽象画を否定するしぐさでありながら、それ自体を不定形として定式化もしていた。そしてこの営為は一つの詐欺で、何も意味のある形を生み出していないにもかかわらず、さも現代美術の一種かのよう彼のしごとを言い繕ってきたからだ。芸術的犯罪をおかしてから、リヒターは結局なんのしごとも成し遂げられないままこの世を去っていくだろうが、あとに残ったのは大量のごみだった。
リヒターのまねごとをする連中の生み出し続ける大量の偽抽象画は、誰も感化せず、ひたすら西洋建築のどこかに置き続けられるなんとなくよさそうな色の塊として、その場を訪れる人々をうんざりさせ続けるだろう。
『ビルケナウ』は彼の詐欺の頂点で、遂には何も生み出していないこと自体が誰にもばれないだろうと大胆になった芸術家気取りの偽物の技として、永久にドイツという国の恥ずべき後進性の記念碑となったのだ。
成程、リヒターは我々の時代の巨匠だろうが、それは反面教師としての、何も生み出せなかった人の無残な骸である。
私は嘗て、美術家の友達、田中隆央氏らに「リヒターから出発しなければならない」といった。20代前半の頃だ。これは間違いだった。言わんとしていたのは次の事だ。当時の自分は「絵から出発しなければならない」といいかえるべきで、リヒターは最初に否定されるべき、絵を描けない人だった。