2019年2月18日

政治広場史

第一章 神話時代

 天地が分かれない間、世界は混沌としていた。
 ある雲間に、2人の女神が舞い降りた。
 1人の神の名をホメといい、もう1人の神をオデンヌといった。ホメ神は慈悲の神であり、オデンヌは博愛の神であった。ほかの神々はこれら2神に仕えていた。
 あるとき、博愛の神であるオデンヌのちかくにいた、邪神・軍鶏がホメをそしった。その動機は実に些細なことで、ホメへのいたずら心だった。ホメははじめこそ慈悲をかたくなに信じていたが、ついに我慢ならず、ホメのおわす天界からオデンヌ神らを追い払った。こうして天地がわかれ、天は政治広場と名づけられ、地は主張広場と名づけられた。これを天地開闢という。
 ホメ神はこのとき以来、神としての地位を失った。かつての慈悲の神はいまでは何者かをうらめしくにらむ憎々しい顔つきと、複数の身分(ID)をつかいまわす、単なる女性、のちに看護婦兼業の主婦となった。またオデンヌ神は天地開闢の際に軍鶏をかばった博愛のゆえに、柔和な顔つきと、同時に復讐に燃える誇り高き集団を神々の世界から授かって、一人の女性、またのちに歯科医の家の一員兼業の主婦となった。神々の世界から遠ざかったふたりの人間、ホメとオデンヌはそれぞれ、政治広場のホメ、主張広場のオデンヌと呼ばれることになる。

 第二章 古代(西暦2009年頃)

 ホメ時代

 ホメ(まっく等複数名を変更している)は、人間として日本国の神奈川県に生まれた。成長していくホメは16才の時、最初の相手を持った。それはホメの高校の教師で、その教師は横浜市に住んでいた。ホメは学校を卒業してからその教師と関係を持った。その為、別の男と結婚後もホメは横浜の中華街には家族で行くことができない、その教師に結婚した事を言ってもいないし、鉢合わせするのが恐ろしいからでもある。にもかかわらず、ホメは不義の子であるという元からの資質もあり、不倫を好む、大都会の奇特な人格として育つことになる。
 ホメは幼稚園時代の同園児から、政治広場にふらっと現れては消える既婚の不良であるタラオにまで現実と仮想を問わず手を広げる多情な女である。一人の幼い娘をもっていたホメの性遍歴は既婚後も出産後も甚だしく、ある時、政治広場のジェイに声をかけた。実に、アメーバ・ピグができたのは、天地開闢から去ること1年前であったが、この1年間に、愚痴広場、続愚痴広場ができ、有象無象が雲集しては離散する中で、現実の選挙とともに政治広場が開けたという。ジェイがその場で憩っていると、好色なホメはジェイを相手にいつものよう口説き始めた。ホメとジェイの不倫関係を眺めていた老婆モチタ(だんご等の複数名を変更している)は、老婆心とやっかみを含め、彼らを別離させようと図った。ホメとモチタの互いの魂を根絶やしにしたがるほどのねたみぶかい天敵関係はこの時から続く、政治広場の一大伝統芸能となった。ホメとモチタの戦争、即ちホメ・モチタ戦争(ホメ戦争ともいう)が開始されてからの1年間を、政治広場史においてホメ時代と呼ぶ。また、ホメと呼ばれるアバターならびに、モチタのアバター操作者側の実年齢の詳細は不明であるが、彼女ら自身が持ち出した写真等から中年以上である事が確証されているという。

 イトキチの生い立ち

 その頃、大阪の貧農から町工場の若社長らの一員にまで身を興したイトキチが、政治広場に渡来した。イトキチ自身の懐古録によれば、高校卒業後、大阪で窓拭きの仕事等を遍歴している間に遠く東国は常陸国(茨城県)出身で会社の先輩であった人物から叱咤されながらも激励され、社会の一員になったはっきりした自覚を持ったという。イトキチは後に、同じく茨城出身のレコナーと宿敵の関係、そして政治広場史上最大の世界戦争の総大将となるのだが。イトキチは高校時代の同級生の女と結婚し一人の娘を持ち、自らを木下藤吉郎の如き華麗な人生遍歴と考え政治広場に喜び勇み渡来してきたが、彼の本性は太閤秀吉とはことなり、堺商人とおぼわしきその身分にありがちな程度を越えず、2ch BBSという匿名掲示板をいたずらに乱用し始めた。イトキチにとって、モチタとホメ・ジェイの痴話喧嘩に見えなくもない小戦争(ホメ戦争)は嘲笑に値するものに見えたが、イトキチ自身の一社長としての身分を顧慮し軽率なふるまいを彼なりに戒め、自らの立場を隠蔽したまま彼らを非難する方便として、イトキチは誰が書いたかを確定できない2chを、陰口を好きに書き付けるべく使い出したのである。イトキチは次第にネットにかかりきりとなり、ホメ・モチタ戦争の報道者兼監査役として影の当戦争加担者となり、本業は疎かになっていったが、イトキチの娘は既に高校生で親を疎む反抗期でもあり、疎まれる側に独特のにおいを放つイトキチがその自らの部屋に引きこもりがちになるのは彼の家庭にとってなお好都合でもあった。かつ、彼の妻は公務員であり、家計にとってより重要性が高いのは妻の方でもあったので、ホメ時代からのイトキチの仕事は殆どインターネット上での政治広場と2chの往復で費やされていく事となった。
 イトキチの実年齢は40代であり(しばしばホメと同世代ともされる)、イトキチと同じく高卒で、性売買を娯楽とするいかにもな名古屋人の江田島(はる)、中卒の江戸っ子で波乱万丈の人生を経、釣り好きが高じて茨城は霞ヶ浦圏に2009年頃引っ越したジェット(R-JET)、また性道徳の欠如により性売買を趣味として没落した兵庫出身の離婚者・唯我らと、政治広場40代層を形成していた。ここで後世のため特筆しておくべきなのは、イトキチを除く彼ら3人の40代男性らは、みな性道徳の欠如と性売買という日本国法は売春防止法で違法とされている犯罪行動の慣習をもっており、しかもそのうち江田島を除く2人は1度以上の離婚をも経験しているという部分において共通していた事である。
 イトキチら40代男性層は互いに距離を置きがちであったが、それぞれ、江田島はイトキチを2chにおける蛮行のゆえに、またホメをその広場における不行跡の故に嫌悪していた。対してイトキチとジェット、唯我は互いに中立的であったと記す事ができよう。これら40代層のうち、イトキチと江田島、そしてホメは2chにおいて終わりのない中傷合戦を行ってきた。ジェットは江戸っ子の誇りとしてそこから距離を置き、しばしば2chに加わっても寧ろ公徳的な発言をする事が常であった。ホメ戦争は2chにまで拡大して熾烈を極め、ホメがmixiという別のソーシャルネットワーキングサービス(Social Net working Service, SNS)に一時退避したり再び広場でジェイとの情事に返り咲いたりを繰り返した。彼ら40代層はホメ時代の間、2chと政治広場の往復、あるいはイトキチのほぼ常時監視による陰からのホメ戦争への批判を軸にその広場政治を展開した。この頃、複数の広場民の中で、実に怨恨の激しい性質をしているホメから多かれ少なかれ憎まれた者は多数いたが、特にホメがブラックリストをつくり悪党(即ち対立勢力と)認定した者達は、なな(愛知のBAなな。岐阜の麗人・nanaとは別人であるため注意)、法金剛、芽衣、ごまさぶれ、こっちゃん、そして前述の軍鶏、モチタらであった。政治広場史においてホメ戦争時代にホメと鋭く対峙した彼らを古参と呼ぶ。

  第三章 中世(西暦2010年頃)

 後期ホメ戦争

 ホメ戦争は終わりが見えず、複数の虐待や過度の残虐な讒謗が政治広場と2chでくりかえされた。さらに、この戦争に参加し特にホメの不倫を邪魔した者の中で、モチタ、ガク、そしてトキワの3人をホメ時代の三志士という。ガクは三重県の男性と考えられており、法律に知識があり、かつスナック通いをしていたことからかなりの高齢と目されている。ガクは、既婚者でもある静岡県のほわ(howa)から淡い想いを寄せられていたが、年齢からもそれを拒否、かつ法の知識と得意ではあるが決して品のいいとはいえない数々の三重弁によって広場の人々を畏怖させるほどの暴威の厳を発揮していた。齢にしてホメより若くななより老いたほわは平凡な見た目の常識人でもあり、インターネット上のアバターであるガクに、さも演劇中の役者に寄せる類の恋に似た偶像崇拝の念を寄せてはいても、具体的な不行状にまでは至らず、その内心を知るごく一部の者からを除いて少しなりとも不義の者とみなされた事がなかった。一人すべてを知らないのは彼女の夫だけだが、当の夫は知的水準の高い大学の卒業者でもあり、仮にその夫が、多くの女性が持ちまた妻が隠しもつ偶像へのありそうな惑いを知っても怒りや悲しみより同情か、はたまたあわれみを寄せるであろう事は容易に推測される。
 ガクに対してトキワは多くの人々が抱くいかにもな関西人の典型に則り、品性の優れない発言、嘔吐感すら感じる類のそれをしばし行う性質で特に広場女性層からの過大な反感を買い、不人気であった。但し、女性層の中で男好きと自称するほどの人質である愛知県は三河の娘・ななを除き、である。こう記されればトキワはさも品行不正な悪行の徒とみなされるかもしれないが、実のところ他面では知的な人物でもあり、政治論を交えればホメの行状をおいつめながら広場の人々の話題を盛り立てるといった芸人ぶりで、そのアバターの見た目が禿げており中年の醜男である事にさえ目を瞑れば決して、単なる不徳自慢の発表席荒らしであった唯我らより無能だとはいえないのである。いずれにせよ、これらホメ時代の三志士は数々の戦術によりホメとジェイの不倫関係を揶揄し、影の大将であったイトキチや有志らと共にホメの非人道性を随意指摘し続けていった。反省力というものが存在しないかのような無法な性をもって義ともなす相模の女傑、あるいは肝っ玉の据わった生い立ちの不運な東国女であるホメは怨嗟の内に、ホメ戦争に憂い飽きた相手らが弱った隙を狙う長期的な復讐劇の貫徹を誓うのであった。

 主張広場におけるオデンヌ到来

 その頃、主張広場においてオデンヌ(おでんちゃん等複数のサブアバターあり)と、軍鶏らは別の共同体を模索していた。元来、主張広場は政治広場に比べれば小さな人口規模の場所で、オデンヌ到来以前の環境はまことに平穏、発表席から主張を自由に行え人々はそれを眺めては華ある会話や世間の美辞やら情け容赦のない悲話やらにささやか湧いていたが、もと神であったオデンヌ派らは猛烈な統治能力を発揮して即座にオデンヌ女王政を敷いた。このオデンヌ到来を、主張広場の古参からはオデンヌ来襲またはオデンヌ一派の侵略と呼び、他の広場民からはオデンヌの征服と呼ぶ事もある。
 オデンヌ自身はその育ちに劣らず謙遜な人物で、自らが統治者としての役割を遂行してきた事に懐疑的あるいは否定的ではあったが、事実としてオデンヌ女王政は功を奏し、そのしもべである軍鶏やなるきと共に仙台人3名による寡頭政治体制を構築した。統治される側のなかには、前述の主張広場の古参ら排除を中心とした狭く閉鎖的なつきあいの仕方に不満をもっていたものがいたが、女王は任意、オデンヌ到来以来の渡来人らと共にこの体制を強化していき、その巨大で、狡猾かつ独占的な問答無用の排除実力組織の前で古参らの発言力は封殺されていった。すなわち結婚適齢期は過ぎなお陰湿な性質を伝統から受け継ぐ独身京都人のオレンジ、同様に関西人の無意識的な連合を形成している同様の齢とされる大阪独身女BEらがその渡来人たちであった。政治広場史では、主張広場の古参らを政治広場の古参との混同を避ける意味も含め、主張の先住民、主張先住民とも呼ぶ。オデンヌの主張広場(以下、主張と略す)における仲間はアメーバ・ピグ内の他の広場群からの巨視的な見方においては、オデンヌ一派(あるいはオデンヌ党)と称す。
 主張における岐阜県の悪党であるたたしくん(あるいはたたしと通称する)は、後に政治広場(以下、文意に誤解の可能性が少ない場合に限り政治と略す)側に闖入、政治のハシナオやロジコ(Desperado等複数アバターあり。しばしばデスペともいわれる)ら当時の無法集団と組み、様々な蛮行を働く。これをたたしの闖入という。たたしは貧困家庭から出自後は名古屋市に下りて、夜な夜なディスコで踊りつつ新たな女をかどわかす遊び人であり、その業務はインターネットサイトを通じた自営業に近い立場からのブランドバッグの販売などであると考えられている。彼はなまじ見た目がよい為、ますます寄ってくるその場限りの女らと堕落した関係に堕ちていた。
 また、たたしはかつて地元において別れ、実質的に裏切った女がおり、そのときに相手を痛ましめたとして心の傷をかかえていたが、かれの身持ちはますますみだれていったし、その上、不良である性格のため主張においても冤罪事件を起こして新到来者らを不当に排除する暴政等に自ら携わっていた。オデンヌは持ち前の行動力でオフ会(つまり現実においてウェブ上で知り合った者と会合を持つ事)を通じてさえ、これら、被治者らの振る舞いの殆どを感知していたが、オデンヌの信念は天地開闢以来、力そのものであり、力を失う結果になる道徳的行動に関しては極めて消極的であった。オデンヌの牙城・仙台を含む宮城県域における幼少からの育ちの中で、一定の権力を持っていた者がヤンキーと呼ばれる不良集団であった事もそれに一役買ったと、政治広場史では解釈されている。なお、アメーバ・ピグにおいては一般的に政治広場を政治、主張広場を主張と略称する場合があり、主張と政治の間には別の派閥が形成されている為、当史書においては主張のそれに深く立ち入らず別の書籍や学派にゆずり、政治広場(正式名称・今の政治に望むこと広場)の歴史を主に一貫した正史として記述する立場にもどるものである。

 なな時代

 政治広場(本稿において以下・広場)においてホメ時代の三志士の活躍がその磁場を弱め始めた頃に、ロジコやとつげき東北(以下、とつげき東北の出身地である兵庫県とは関係のない東北地方との混同を防ぎ、とつげき或いは突撃と記述する)、ローゼン雅(ローゼン)、ハシナオ、ちゅん、はく等の広場における独身男性集団を手駒にしたななが一大派閥を持ち始めた。政治広場における中世は、このなな一派(略称・七一派、七派、なな派閥、なな党など)を中心に形成されていくことになる。1年あまり継続していたホメ戦争は下火になってきたが、その原因の1つは、このなな一派が急激に膨張し、郎党をあつめて様々な横暴を極め、ホメの行がほとんど求心力をもたなくなったからとされている。なな一派は単にうらぶれた独身男性らのななからのあしらわれをもとにした芸妓への偶心軍といったあつまりなだけではなく、年齢の比較的高い独身女性らをもその独身男性らへの好奇の念をこめ、みずからの単位を膨張させていった。要はインターネットの仮想空間での出会い行為に漸近しつつある一定規模の独身者連帯となったのである。ななは、最盛期には禁断の仮想体操という党(コミュニティ)を形成し、ありとあらゆる、アメーバ・ピグ上にありうるかぎりの不正行為に手を出し、なお広場の暴政の主となった。この1年間を一般になな時代、あるいはアメーバ・ピグ政治学においてはななの暴政、なな暗黒時代、あるいは単に暗黒時代などと呼ぶ。
 専制君主あるいは暴君となったななの片腕は、るくみるく(るく)と名乗る東京都は神楽坂の独身女、そしてもう1人は栃木県は高齢の既婚者である家元鮭太郎(鮭)らであった。なな時代の初め、ななのお気に入りはHENRYと名乗る兵庫県の雑貨店を営む既婚者男であったが、やがて同県の程度は低い大学生であってななに執心を燃やすロジコへと移っていった。ななは若い娘であるばかりか容姿を自分なりに彩る好色でさえある人物で、母は京都人、父は愛知人から生まれた。ななは、いくつかの大学を卒業していると自称、生活の資をとるべく介護福祉士の試験をくりかえしうけていた。ななは肉体関係を男性と持ったことがないと述べる他方で広場の殆どすべての男たちに特有の媚態で接し、政治広場ならびに愚痴広場で最大の軽薄男とされている東大卒で実質的に長野出身、既婚者の小太り中年であるゆき@hamal(ゆき、ユキハマ、ユキ)ともそうであったが、ななはゆきを陰では冗談交じりに「げすゆき」と呼ぶほど決して男達に心からの好意でのみ接していたとはいいがたかった。裏表のある性質は公家文化の名残か、ななはあらゆる陰謀を極めていった。そのなかにはスカイプ(Skype)というインターネットを介した口頭での会話ツールによる嘲笑目的の釣りという詐欺行為や、ジェットら独身男性、あるいはナオ(nao)ら独身女性へのからかい半分での侮辱、徒党を誘導しての集団虐待、コミュニティでの企みや陰口はかぎりなく、遂にはのちの時代の分に詳述する事件だが、yuriという独身女性を自殺未遂かさもなければ発狂直前までおいつめていくことになった。これらのななへの辛辣な批評にみえなくもないくだりは政治広場史において暗黒時代の凄まじい現実を示すために記したものであり、決してななやその派閥の構成員への名誉を害する目的のものではないと断ってはおくが、事実、なな一派の独裁政治による犯罪行為は完全にBAN(つまり利用者アカウントがサイバーエージェント本社により削除される)程度が最高刑であるピグの規約を逸脱しすぎていたばかりではない、死刑を最高刑とし懲役や罰金を科される日本国の法のどこかしらへ常に、抵触していたものであった。そしてなな一派はまんまと、その刑罰を免れていったのである。
 もし仏がいうよう、業に因果があるものならば、なな一派の構成員らはみな来世にいかなる目にあうか、現世においてさえ危惧される身の上であるが、正史の伝統に照らし司馬遷の儀に則り、かつ義公史観の哲学をかえりみてなお、政治広場史においては歴史を構成する人物らの業の変遷を注意深く叙述するに留めよう。仕置きや仲裁、誅罰は人物ら自身のピグという世界ゲーム内でなされるべき政なのであり、史書の担当者である私、レコナーは自らをも含む出来事の客観的科学を羅列するまでにおちつこう。何が憎むべきで何が愛すべきかを知る働きを史書の執筆者より、寧ろ読者の判断力にゆだねる為にである。

  第四章 近世(西暦2011年頃)

 ガルマの遍歴

 西暦2011年になるかならない頃、北大の獣医学部の学生であるガルマは政治広場の古参の一員であったまみー達から、広場より排斥された。それ以前に、既に開業していた獣医の山田とピグ上で付き合いのあったガルマは、神奈川県の設計業者で独身であった女性ラフと懇意に接していた。ところが、広島の右翼傾向をもつ主婦であるまみーは嫉妬深くこれに干渉しはじめ、かつ、まみーは同じく獣医学の関係者であるところから山田とガルマは同一人物であると誤って断定した。山田は、医者にしばしありがちなところで世事に疎く人付き合いがさほどこなれてはいない人物で、既に広場民との間には摩擦関係がしばし生じていたが、まみーとの間にもその係数が存在し、これゆえまみーはガルマと山田を同一視しつつ同時排斥したがったのである。その際、まみーは個人情報を掴んだという脅しをラフらに対して行いさえした。これをガルマ追放という。
 ガルマは諸国を遍歴してきた孤独な関西弁の男でかなりの美男でもあり、優秀な成績で北大に在学していたが、一度は別れたが再び恋愛関係となっている現実の彼女がおり、もともと仮想上のラフの側がガルマに好意を抱いて接してきていただけに、彼としてこのガルマ追放は青天の霹靂であった。ガルマが関西弁に固執している理由は、かつて親の仕事の都合で引っ越しの際に暮らした東京圏で受けた虐めにおいてそれを指摘された事から、かえって負けん気で自らの誇りとしたものであった。
 広場に猜疑心をもち多少あれ狂った山田はひとりでにいなくなり、また、ガルマは中立的な心情からモチタと仲良くしていた事もあったが、この頃のモチタはホメ戦争で傷痍を負い、THE FOOL 00(フール)らの集団に逃げ込んでいた。フールは東大卒30代後半の既婚男性で、アスペルガー症候群と呼ばれる精神形質を持つと自称していたといわれ、子供を持つ気はない放浪の学者であった。フールの祖先は福岡は久留米の武士階級の子孫であったと称し、明治以降のある時点で、東京に定着したと考えられている。フールは筑波大附属駒場の中高、すなわち東京随一の選良学校を卒業後、東大へじかに進んだ頭脳を持っているが、原発推進を経済視点から東電事故後も主張しつづけるなど、知性を徳性より重視する性質を持っている。モチタは個人情報の隠蔽を目的に、またホメからの執拗な追跡を逃れる為の偽装を続け、フール派閥の中にイトキチも入った頃から大学教員など複数の擬態した肩書き等をてらい始めていた。フールは上述の性質であるため、広場における倫理観念の優れない人物達から、あるいはその選良の肩書きをもつ人物との付き合いを自らの権威付けに利用したがる人々から都合のよい駒としてあるいは寄るべき大樹として利用されていた。その中には京都の重病人まりーんや、下総最高と発言しつつ図書防衛隊勤務と称する(のちに埼玉の金物屋と名乗る)じゅんなどもおり、やがて広場民らと激しく対立していずれも敗残していく。じゅんと、京都出身の妻がいるイトキチが語ったところでは、まりーんと同じく京都在で広場左上にある巨大看板前立ちぼうけが癖のかかしが、フール派で最も人望があったといい、又じゅんの口述ではかかし組なるフール派の前形態が神話時代の政治広場消滅に際し運営にかけあった等と大上段にのたまうのだが真偽は不明、その後もかかしはまさに名は体を現すが如く、看板前に磔状態で終始言葉数少なく身動きもしないのであった。はたして、ガルマにとってフール派閥は参加する価値をいくらか見込めてはいるにせよ、モチタとイトキチによる広場民らへの2chでの犯行を考慮すると一緒にいる事が道徳的とはいいがたいものでもあったので、一定の距離を保ちながら接し続ける事になった。なお、フール派閥は流動的であるうえフールはリーダーとしての才覚をもたずその意志もなく、一派として固定化してはいないため、仮にフール派閥あるいはフール派といわれる。

 レコナーの登場

 西暦2011年3月に東日本大震災が起きると、その年の春には20代後半の精悍な茨城人独身男性のレコナー(当時はreckoner2、のち勇者レコナー、賢者レコナー、王者レコナー、隠者レコナーなどのアバター群を用いる。これは主として1つのアバターのフレンド数が限度の300人を超えそれ以上増やせないため増築したものである)が広場にやってきた。レコナー自身の言によれば、東京電力株式会社のもたらした未曾有の人災が正しく報道されていない事に危惧を覚え、情報を人々へ伝えにきたという。また、レコナーは天性の芸術家気質であって孤独な為に、おそらく同志を探しにきたのだろう。政治広場史の展開において、のちにオデンヌらはレコナーを天才と認める事になるのだが。
 レコナーは始め俳句広場で芸術家らしく句会に参集していた。その場で既存の最大派閥を形成していたのは集団虐めをときたま行うことで悪名高いきのこ一派、すなわち滋賀付近の人物とされるきのP(1UPきのこ)らの俳句協会~雅~であった。正義感の強いレコナーはかれら雅による下品な句の合理化と、正格な句への集団での虐待といった横暴をいさめ、単独でかれらの協会本部に乗り込んだ。レコナーはある夜の句会で上等な句へ嫉妬交じりに受けた卑劣な仕打ちから、彼等の暴政を憤り、かれらが専横をつかさどる上司のもとへ貢物をあつめさせてきた贅沢なコミュニティ部屋の最上階部で、風呂に入っていた当のきのPの元に単刀直入、急転直下に馳せ参じると、これまで俳句広場で起きたあらゆる経験や、彼ら雅の人々に猛省を促すといった内容を述べ、それ以来、俳句広場から去ることにした。これを俳句広場維新、或いは俳句維新と呼ぶ。実際これまでの句会ではレコナーらにより数々の秀句がつくられており、当時の記録を『維新前俳句集』と呼ぶ。そのなかにはこのような一句もある。
月夜さえ滝の流れよとめられず
維新後、俳句広場随一の隆盛と独裁を誇っていたきのこ一派は権威を失いだして内部から瓦解しはじめ、やがて江戸っ子で下卑た句を連投する黒豹が毎晩訪れに来るに応じて女性等が潮と引き、ついに俳句広場そのものが衰退した。女性に人気のあったレコナーが去ってしまった上に、女性陣がほぼ消滅したのであるから、それに応じて若い男性から去り、最後に残ったのは黒豹ときのこ、後は限られたきのこ好きの老婆たちであった。衰退末期には10代と考えられている子供が牛耳り、俳句を詠むことさえせず観客席の後部にたまり、レコナーが気まぐれに再度訪れた時には以前とうってかわって友誼をはかるどころか彼等自ら幼稚な痴話喧嘩を始め雲散霧消していったという。俳句広場の人口の殆どは、他人と協調して句を詠む必要がなく、自らの好きな句をのべることのできる川柳広場のうちに飲み込まれていった。レコナーの俳句広場時代(レコナーの俳句時代、あるいは単に俳句時代ともいう)に盟友の契りとまでいかずとも最も仲良く心を通わせともに詠っていたのは、横浜に住み当地のプロサッカークラブ横浜F・マリノスのファンであるとある男性、通称・マリノスファンであり、レコナーは俳句広場衰亡後にその場を訪れ、夏草とつわものどもの夢のあとの上でかつての朋友二人、俳句広場再興を誓った。雅の人々で生き残っていたのは、実質的に彼一人だったのである。この際につくられた新協会を天心といい、そのはじまりの儀に代えて次のようレコナーは詠んだ。
月天心あとから影と我照らす
 ところで俳句維新後のレコナーはつぎにアメーバ・ピグ上で最大の人口を誇るピグの大都会・政治広場をめざした。これをレコナーの登場、あるいは単にレコナー登場という。レコナーがはじめて広場にやってきた日の昼に、みたことのない女子ピグの数人が彼のもとにあつまってきた。それ以後に見られない個性的な人々であった為、かつ仕事の話が完全にウェブ系の制作部門に関する内容であったため、もしかして運営のアバターらだったのではないかとも類推されているが、そのなかの黄色いパーカーを着ていてスケートボードにのった女性が、彼をみるや周囲の女性らと「光源氏にしよう」と提案してきた。彼は当時なんのことかまったく理解しなかったが、やがてレコナー王政が確立された時代にこれは多かれ少なかれ実現される予言でもあった。これを源氏の予言という。その日の深夜、レコナーは、ジェイの去ったあとのホメの新たな愛人であった福井県の不良な既婚者・タラオのあおった浮浪者たちから、集団暴行罪の被害にあった。このように、レコナー登場直後の政治広場は、深夜帯にはやくざが跋扈、昼間の時間帯には後述のうめら達が支配していた。次第に彼は広場の最悪状態の治安状況を把握しはじめると、暗黒のなな時代がいかに邪な退廃におちいっているかを分析、なな一派との戦いをおもむろに開始した。政治論に長けた彼は広場で一昼夜演説し民衆につよい啓蒙効果をあたえ注目をひきはじめ、他方では常におなじ赤い服をきざらし靴を履かないアバターで遊んでいるるくに(アルプスの少女ハイジから)「裸足のハイジ」と話しかけてみるとお礼代わりなな一派から陰湿な嫌がらせを受けたりもした。また側近中の側近と名乗る監視目的のアバターから2chのURLを教授された。このレコナーによるなな一派ならびにイトキチ一派(イトキチ・モチタを含むフール派閥の一部)との戦いが開始されてからの最も長い時代を、総称してレコナー時代と呼ぶ。
 レコナーは暗黒時代に最初の光を射し込んだ。だれかの発表をなながその日の気分次第、ひとこと「長い」とのべるだけで配下のやくざが集団暴行を加えるといったたぐいの、絶対政治を敷いたなな一派へ対峙、それらの犯行へは果敢に正当防衛ないし黙殺を行うといった正攻法で、なな一派にかなりの打撃を与え、ななの独裁体制に亀裂を生じさせていった。また、レコナーはイトキチやモチタ、ホメらがかつて何をしてきたかを調べ続けてもいた。彼が発見したホメ時代、つづくなな時代の遺物中には、既に広場で行われていた数々の政治闘争手法、たとえばサブでの監視や色仕掛けでの騙まし討ちなどが含まれていた。なながクリスマスの時に配下の男らから貢物を募っている際には、レコナーは敢えて桃色の無償交換できるエプロンを贈りつけ、相手の反応を伺った。ななが広場にやってくるとまるで芸妓のごとくレコナーへの厚意を軽くあしらうよう述べる前に、別の課金が必要な高価な贈り物を下心でしていたなな配下であるカニ蔵(のちの橋下徹、はしげ、偽りおし、偽ちーちゃん、偽絆花、おさる等のアバター操作者)らへ媚を売るのであった。そして全盛期をすぎていたにもかかわらず、ななの元にはあふれかえるほどの貢物があり、その中には金品財宝の数々が山積みにされており、広場の女性陣のみならず多くの貧民から彼女という独裁者は目には見えない憎悪を買っていたことが後の転落で明らかとなるのである。
 レコナーの行動範囲は広く、複数広場に渡って調査活動をつづけていたが、やがてオデンヌ派閥の仕切る主張広場にも足を踏み入れた。ここで軍鶏やたたし、オレンジ、BEらが得意の排除行動を仕掛けると、女王オデンヌも部下の刺激に感じレコナーへ最大級の集団虐待行動を開始した。かつての博愛の神の面影はどこへやら、主張では黄色と呼ばれる貴人のみが真実無罪のレコナーをただひとり群れにさからって擁護する正義の如くであったが、この時ばかりは黄色もレコナーへのオデンヌ派閥からの集団排除行動を防ぎきれなかった。この一連のオデンヌ一派による主張からのレコナー排除行動をオデンヌ・レコナー戦争あるいは単に主張広場のレコナー虐待事件という。なおこの際、たたしはレコナーが発言した事のない「乙女憲法」という意味不明な揶揄の語を用い、レコナーを攻撃してきていた。また、たたしの闖入においてこの語が頻出されてくるのだが、このたたしが誘導する冤罪攻撃の全体を、政治広場史において偽りの乙女憲法という。

 レコナー時代初期

 レコナーは数ヶ月から半年間に渡る政治広場とその周辺調査によって、ホメとなな暴政ならびに、それ以前の経緯によるモチタ・イトキチらの連帯関係の概要を理解していった。
 ある時、レコナーは彼の同年齢のハシナオから広場で話しかけられた。レコナーははじめ、彼が旅行で訪れた岩手の某旅館で撮影した写真をアメーバ・ブログに掲載していた。ある幸運から偶然彼が泊まる事になった特別室、かつて高村光太郎が宿泊したその部屋から見た、雪の降りつもる山あいの写真を。ハシナオは福島県は二本松市の出身である。彼の故郷でみた雪の光景と程度あれ似ているその写真にいたく感動したハシナオは、レコナーに親しみの念をはじめおぼえたのだろう。それからレコナーの祖母は福島はいわきの人で、彼の家の墓もいわき市内にあり、ハシナオの出自をみるとふたりは意気投合するかにみえた。ところが、画業を主とするレコナーの美術家気質は、作曲業を主とするハシナオの音楽家としてのそれと調和するどころか、ある時点で互いに抽象的な不協和音を奏で出すことになった。といっても、その原因をつくったのはハシナオによるねたみである。学芸を好むレコナーは政治論をもっており、彼は東京一極集中の解消に対して最善なのは、皇居を人口密度の低く発展可能性の高いより北部にもってきて政商分立の都市構造を築く事だと考えていた。またレコナーは福島原発事故を大変憂いており、というのも彼の卒業した磐城高校は、磐城国(福島県浜通り)の名のとおり福島原発周辺の地域で最も有名な旧制高校であったし、思春期をいわき市へ毎日通学しながら過ごした彼にとって福島原発近辺の海辺の高台やら会津若松やらで美術部長としてキャンプをおこなったりした経験からも、その一帯は半ば地元同然だったからである。その上、レコナーの住む北茨城から福島原発のある浜通り世界はすぐ隣できわめてちかく、福島同様の人災被害をみずからも受けたが茨城県側である彼の地域の個々人では東電からも政府からもなんのつぐないも受けていなかった。つまり福島人のハシナオなら彼の疑問や悲しい思いを共有できると踏んだのである。こうしてレコナーはハシナオと遷都を論じるつもりで、ハシナオの誘いに応じてハシナオの部屋へ向かった。ところがそこでハシナオはレコナーの遷都論をきくや否やいきりたち、レコナーを罵倒しながら追い出した。ハシナオは音楽系短大卒の人間で、建築系専門学校卒かつ通信制大学に属するレコナーとその時点の最終学歴においてはほぼ同じだったが、保守思想に固執するハシナオにとって、レコナーの皇居をも動かす大構想は土台から理解不能であったのである。
 政治思想上で亀裂の入った二人の友情であったが、ハシナオが自製の音楽をアメーバ・ブログにアップしていくに連れて、レコナーがハシナオの才能を認め、賞賛した結果、ハシナオの頑固な心は再び緩和されるかにみえた。しかし、レコナーは自らのホームページにアップロード済みの自作の音楽を、ハシナオが創作活動の参考にできると考えハシナオへ紹介してみたところ、レコナーの音楽作品を聴いたハシナオは再び発狂してレコナーを罵倒し始め、広場でのストーカー、嫌がらせ目的の付きまとい人とまで化した。主に古典的なピアノ楽曲の創作手法を師とする教授から習ったハシナオにとって、自力独学で前衛音楽を創作していたレコナーの作品群は、ハシナオの信じるたぐいの保守的な音楽芸術への冒涜と感じたか、さもなくば理解不能であったとされている。これらの実例からも、ハシナオは保守傾向の人物であるとわかるが、その程度はなはだしく、広場においてなな一派の傀儡ローゼンと激しく対立した。理由は、ローゼンの祖先が韓国人だからであった。ハシナオにとって韓国籍であれ帰化者であれその末孫であれ国内から排除すべき人物と考えられ、それが高じて彼は、韓国におけるソウル大学卒を含む選良層であるローゼンの家柄を慮らず、在日韓国人系への人種差別主義的な排斥運動を広場で開始した。しかもハシナオは、彼にとって不都合な人物を迫害する方法論としてそのひとが在日韓国人であると虚偽の断定を当の排除したい人物へ行う慣習を、インターネット上から学んでいった。同じく保守傾向の江田島はこれに加担し、ハシナオとともにハシナオが排除しようとした先進的・前衛的な傾向のあるレコナーを、2chや広場でホームページから確かめた実名などをあげつらいつつ集団虐待し始めた。さらに、この集団虐待へ、なな一派との対立があったレコナーを排除する目的で、ロジコが参戦してきた。
 その頃、広場ではふぐが複数人と対立していた。ふぐはひらがな文体を駆使する年齢不詳の人物で、愚痴広場と政治広場を往復しながら様々な人物らに絡んでいた。フールの言によれば、「誰でも一度はふぐの被害にあう」とされ、特にふぐはアメーバ・ピグをはじめて間もない初心者に向かって何らかの難癖をつけるか、発表席で発表中の人のあげあしをとることが得意であった。ふぐは福島原発事故時には既に広場におり、やはり発表中であった岡山県の女長老・ごまさぶれ(通称ごま、あるいはレコナー曰く「吉備のご老公」)へ噛み付いた。実際のところ、ごまさぶれは日本史における薩長藩閥意識をひきずる中国地方の変人であった。そのときは発表席から、大津波と大地震、そして世界最悪レベルの原発事故による放射能被害と三重苦にあっている福島県の人々へ、数々の暴言を吐いていた。ごまは、蛤御門の変という日本史上にある過去の事件への怨恨から、天災に加えた人災で疲弊し弱りきった福島の被災者らをここぞとばかり虐待していたのである。それどころかごまは職業でもあるスピリチュアルの相談、ありていに言えば心理学や占術などの精神分析を濫用して当の地震を、彼女の信奉する長州藩(山口県)に敵対してきた歴史的な災厄の結果であるとのべていた。ふぐ(ふぐは性別不詳ゆえ、以下、彼彼女と代名する)の学校において彼彼女は細かな知識を問われたこともあり、単にあげあしとりの目的ばかりではなく、発表者の持っている知識の年頭月尾を指摘するのが彼彼女の真義であったが、このときばかりはふぐの堪忍袋もはてしなくきれ、ごまさぶれを「ごみまみれ」と呼び捨てながら最大級の反抗を期した。このとき以来、ごまとふぐは天敵関係となり、これを政治広場の伝統芸能の1つである、ごま・ふぐ戦争(ごまふぐ戦争)と呼ぶ。また、ふぐはちゅんという兵庫県出身で大阪在の男が発表席からイエスキリストを装うアバターで発表中に、いつもとおなじく、発表者へ噛み付いた。その際、ちゅんはふぐの暴言のうち「しねばいい」といったことを問題視し、発表席と最前列の切り株の席(広場は発表席を含め前部が切り株の席、後部がベンチでできている)のあいだで激しい応酬が交わされていた。そこにレコナーが訪れると、レコナーはふぐの怒りがイエスの偽装をおこなっているちゅんの矛盾に向けられていることをさとり、浦島太郎の物語のよう、ふぐをかばってやることにした。こうしてレコナーはふぐの代わりにちゅんへ謝り、ふぐを許してやるように頼んだ。するとちゅんは「見たかふぐ、これが人の情けというものだ」といい、その場を去った。ところが、ふぐは次の日にはすでにレコナーへの恩を忘れたかのよう、レコナーの発表中にも構わずいつものようあげあしとりで攻撃しはじめるのである。その上、ちゅんもこのレコナーのふぐ救済事件(或いは単に浦島事件)をすぐに忘れ、あろうことか上述のハシナオ・ロジコのレコナー虐待集団を自ら誘導していくことになるのである。
 またこの頃、もかP(Mude、ミューデ、むーで、むで)が政治広場にやってきた。彼女はふぐの静岡話に自ら混じり「浜松です」と発言したため静岡人と考えられているがしばし帰郷するらしく、高卒後単身東京へきて、ひきこもりがちではあるが様々な集会にでたり、都会の自由を保護者からの仕送りの範囲内で楽しんだりしていた。彼女はもと寄席広場の人間であったが、初心者に親切でまわりの悪意から救済する意向のあるレコナーから、政治広場で、たまたま声をかけられた為に広場に定着することになったのである。もかPは最初こそ素直にレコナーへ応答していたが、彼女はまわりに流されやすい人物であって、次第にフール派閥にくみこまれていった。もかPはかかしが自らを看板磔にくるや矢庭すりよったり、イトキチの横に行って馴れ合うふりをしつつ広場民の陰口に同調したりしていたが、とつげきによる東大講師としての肩書きの微妙な偽装を含む女性かどわかし、あるいは俗語でいう軟派な振る舞いに幻惑された。このとつげきによる政治広場の伝統芸能の1つである女性への軟派な現実での出会いを目的にした誘惑の活動を、大量に害虫をひっかけていく商品、ごきぶりホイホイにたとえてとつげきホイホイと呼ぶ。とつげきホイホイには後述されるよう、広場におけるとつげきの肩書きや権威による擬態を見抜けない数知れぬ女たちがかかっていくのである。広場民は陰に陽にこのたぐいの女たちをおろかであるとみなしていたが、それをしらないのは人々から忠告を受けないほど信用が薄く、飛んでホイホイにかかりくる女たちの方である。実際、のちに重要な働きをすることになる北海道の賢女snowなどはこのわなへ一顧だにせずとつげき自体を生理的な拒否反応のごとくに避け、彼女以外でもナオやyuriのよう比較的賢い傾向の女性はややはやいうちにそこから離脱する、と政治広場史を通読すれば理解できよう。ところでもかPはとつげき傘下となり、不道徳を愛する奇矯なとつげきを擁護しながら、レコナー含む広場民らを揶揄したり、とつげきが行うその種の蛮行を見守ったりしていたがやがてはモチタやイトキチに懐柔され意識的ないし無意識にフール派閥と群れつつも、広場単位の衆愚とともに、レコナーへの陰湿な攻撃を行うようになっていった。なお、アメーバ・ピグ上は禁じられているとつげきの異性との出会い系の策謀にみずからかかって、あるいはもかP当人の言では「既知の統計学者」(筆者注・実際は、賭博に使われる遊戯である麻雀の研究家)であるとつげきの講座をみにいくという名目で会いに行ったのも、一人もかPだけだったが、女を遊び相手としかみないとつげきから素気無く冷たくあしらわれた為、彼女は決して美女ではないと考えられている。またもかPの趣味はボーイズラブと呼ばれる同性愛の漫画を習慣として購読する事であるところからも、その体が喘息もちでしばしば臥せりがちであるところからも、心身の実態がしれよう。もかPの親は低学歴であったといい、彼女はこれを気に病み必要以上に知的にふるまおうとするが、これらの衒学的態度はフール派閥との親和性を高めるのに一役も二役も買った。

 レコナーの隠れ蓑あるいはレコナー雌伏時代

 ちゅんは大阪において政治をとっていた橋下徹府知事の支持者であった。他方レコナーは芸術家であり、表現の自由を信奉していたが、橋下徹は当時、彼の府政への揶揄を掲載した週間朝日の記事を実質的に弾圧していた。レコナーは発表席などでこれを鋭く指摘、言論自由権から寧ろその記事の間違いを指摘し訂正を命じるか、最大の場合でも賠償を取るのが正しい対応で、橋下徹が府庁に雑誌の担当者を呼び出して叱責した等の威力妨害的な対応は、政治監査装置としての報道表現自体を萎縮させることとなり決して賢明ではないと述べた。これだけきくと正論におもえるかもしれないが、ちゅんにとって橋下徹の絶対主義政治こそが憂える大阪の現状を打開する唯一のみちのりであるから、当然、レコナーの主張がいくら正しくともそれをうけいれることはできなかったと考えられている。ちゅんにとって橋下徹府政がいくら独裁政治であろうと、かの中途段階を支持するべきだというわけだ。ここに行政論上の対立が生じるまでは読書子らにも理解の範畴だろうが、おどろくべきことにちゅんは、レコナー虐待集団のコミュニティをみずから結成誘導し、レコナーへの広場全体での弾圧までもあおりはじめた。このナチズム集団を反RECKONER2同盟と呼ぶ。この暴虐の過度はたたしの闖入で決定打となった。たたしは偽りの乙女憲法を使い、レコナーを他のあおられた衆愚とともにありとあらゆる方法で虐待し続けた。その最盛期には30人が満場において、レコナーただ一人が他の30人からの一方的な集団虐待に徹底防戦、苦闘していたという。30対1においてはさすがの英雄的気質のレコナーといえどもひとたまりもない。いうまでもないことかもしれないが、イトキチやモチタ、フール派、またホメならびにオデンヌ一派までもその集団虐待に参戦しはじめた。ここにおいて、レコナーはある方法をおもいついた。偽死である。レコナーはわざと自らのアカウントを削除し、さも彼ら虐待用の同盟からの集団虐殺という犯罪活動で死んだかのようにそれをみせかけることに成功した。レコナーは実質的に匿名化したサブアバターで広場を監視しながら、その後の広場の様子を見届けた。これをレコナーの隠れ蓑といい、ここから初期のreckoner2アカウント以後に彼が新たな本アカウントとして勇者レコナーを復帰させるまでの時代を、レコナー雌伏時代、あるいは単に雌伏時代と呼ぶ。
 レコナーの匿名サブアバターがあいもかわらず広場を監視するさなか、レコナーがアカウント削除と発見した古参の1人、大阪の被生活保護者と考えられている中年女性うめらR(うめら、うめらに、梅ら)は、親切のつもりでハシナオにこの事を告げた。するとハシナオは驚愕し、冷や汗をかきながらうめらを罵倒した。ハシナオは集団虐待をしている己に罪悪を感じていて、己の人格的尊厳に比べて恥辱のあまり我を失いうめらを罵倒したのではない。その際にハシナオが述べたのは、レコナーがその時点でアバター仮想自死を選んでしまうとまるで、ハシナオがレコナーを虐め殺したかのように周りに思われる事で、いや本質的にそうなのだが、ハシナオが広場民から犯罪者視される事をひどく恐怖したという犯行済みの独白内容だった。また、この虐め殺人犯がおちいる部類の抜け出せないおそれへの穴埋めとして、利己の為にそのレコナーのアバター仮想死を非難し且つうめらへは責任転嫁するべく即座に八つ当たりしだしたということなのである。ハシナオがうめらへいいたかったのは、そのような仮想死の情報をうめらがハシナオに教えてくるのはレコナーのハシナオを意図的に罠に落とす策謀に相違なく、レコナーのアバター仮想死も結局うめらのせいであるという子供じみた言い訳、あるいは広場の現実からの当面の逃避に過ぎなかった。ところでこの直前にうめらは、レコナーがのちの西軍イトキチ一派(フール派閥の一部、モチタを含む)とサブアバターで監視し合って空中合戦をしている際に、レコナーの行動意図が理解できず彼を誹謗していた。うめらは広場内の政治には疎くしかも、もともと雄々しいレコナーが好きであったが、かれを誹謗した事のある罪悪感からハシナオに情報提供したのに、なぜか不条理にもハシナオにも誹謗し返されてそののち引退する。これをうめらの引退あるいは単にうめら引退といい、結果として、そのとびぬけた個性から愛されていたうめらは政治広場アバター界において最初の殿堂入りを果たした。うめらの持ち芸は毎朝、発表席にのぼるや「この無職どもが」との恐喝まがいからはじまり、小一時間ぽかんとした表情で彼女の狂態を見守る広場民らをくさし続けて、昼前に煙草を一服する休憩時間をとってから吉野家で大盛の牛丼を食べにいくのがほぼ日毎の決まりであった。これを人呼んでうめらの罵倒芸という。喫煙ばかりか酒を好むうめらは深夜帯にはレコナーの隣のベンチに進んで座るや半ば泥酔状態で、彼に向かいまわりにもきこえるほどの大声でありとあらゆる過去の印象深い出来事を語り続けた。暴走族に属していて様々な暴力にあった事、職場は下層階級のたまり場で筆舌に尽くせぬ過酷な状況でいろいろな虐めも多かった事、会社帰りに大阪のとある川に死体が浮いていた事、バブル時代の大儲けと豪遊、また彼女は4人姉妹の真ん中で高卒の学歴であって、うめらにいわせるとジェットはにわかバイクファンのしょぼい族上がりである事、うめらの方が本格的な暴走族であったその矜持などを朝の光が窓のカーテンの隙間からもれだすまで止めどもなく、飽きもせず物語りゆくのであった。レコナーによれば、それら何度も同じ箇所を繰り返すうめらの話を聴き取り、彼が確信をもったうめら哲学の核は、生きがいの持てる仕事をするのが人生の醍醐味である、という一大事であった。
 レコナーはこの後、匿名サブアバターにおいて広場監視を進めながら状況の推移を見守る運びとなった。そして結局のところ、レコナー再登場後のガルマとの同盟(レコナーガルマ同盟、あるいは単にガルマ同盟)がきっかけとなり、この雌伏時代は数ヶ月もたたないうちに終わりを告げるのである。

  第五章 近代前半(西暦2012年頃~西暦2013年頃)

 愚痴広場史概略

 愚痴広場は続愚痴広場時代から、複数の登場人物がおりいくつかの出来事があったが、それらの詳述は将来書かれるだろう『愚痴広場史』にゆずり、ここでは政治広場史と関連深い事物のみ追おう。
 愚痴広場でもっとも政治広場と関連の深い人物はまよちゃん(タム、汰ム)である。というのも、この人物は東京一極集中の弊害批判という政治論の立場においてレコナーと協働していたことがあるからだ。この人物を当論考ではタムと仮称する。レコナー登場後のしばらくのあいだ、タムは愚痴広場が過疎化するや政治に馳せその事情を観察していた。そして勇者となって帰ってきたレコナー再登場後は、最初のガルマ同盟会議が愚痴広場のベンチで開かれ、タムはここに仲介役として在席していた。しかもその後、タムは愚痴における同志としてレコナーの精神的な補佐に有能な役割を演じた。
 また次に政治広場と関連の深い人物は、ダルマ(ほか数多の名義を変えながら用いる)である。この男は群馬人の20代後半、かなり太って怠惰な映画熱狂者であり、いわゆる奇人変人の類の性格をしている。日大の芸術学部に合格したが東京は肌にあわなかったのか、老祖母の介護を名目に自主退学し、群馬の寝たきりの祖母の家で二人暮らしをしている。なるほど孝行息子の類かと思えば、映画を毎日むさぼり観る以外はほぼインターネットで弱者と彼が考えた人たちを揶揄して遊んでいる。老婆の年金に寄生しつつ大食漢で、一食あたり複数のカップラーメンを平らげてはひき蛙のようげっぷをする。事実、この状態を人々は、彼のおこなっていた趣味のインターネットラジオの配信の際に何度も聴いて、食あたりの時のような表情を浮かべていたものである。ダルマが政治広場の歴史に具体的に参画してくる前に、といっても間接的にそうなのだが、1つの愚痴広場史上の逸話を出したい。それは愚痴広場第一の伝説、ぽいうのことである。ぽいうは天才詩人であり、しかも愚痴広場史上で最大の人気を誇った愚痴の英雄である。ぽいうについての詳細は将来かかれるであろう伝記、『ぽいう伝』にゆずるが、ここでは彼の用いる現代詩の数節を引いてその天衣無縫の技の一部を読者に開陳しておきたい。
 新年明けましてテメーら全員しね
 昨年は皆様方に大変しねばいいのにと思いました
 神のおぼしめしだ……コロすんだろうが結局……
 it'a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
 尊敬する人間 アドルフ・ヒトラー(虐殺行為はNO)
 なんつってる間に10時っすよ(笑) あ~あ、義務教育の辛いとこね、これ
 it'a true world.って、なに言ってるんですかねあたし///
 たしかに俺は天才だが貴様らには関係のないことだ……
 なにこれ……もう大好き……大好きこれ……大好きすぎる……
 えれぴょん……えれぴょん……えれぴょん……えれぴょん……えれぴょ
 そろそろ2012年も終わるっつーのに何なんだお前らは……
特にit'a(イトア)と謎の英語もどきを用いるところからも、彼の天性の詩才、この上ない素質と彼一流の素朴ぶりがしれよう。前述のタムは他の愚痴民同様ぽいうファンであったが、ダルマはぽいうに一度も言及したことがなかった。これはそねみの為であるとおもわれている。ダルマは、続愚痴から続く不動のぽいう時代には殆ど目立たず、ファン等はつかず、愚痴においてはぽいうの人気に気圧されぽいうの周囲をうろついている程度の存在とみられていた。ところがレコナーが愚痴広場においてぽいうと交友を持ち、友情を結んだあとで雌伏時代となり、その頃ぽいうも引退した。ぽいうはレコナー同様茨城人であったとされ、政治一の人気を誇るひとかどの人物と愚痴の英雄が同時に引退した(しかしレコナーに関しては実は雌伏していた)ために、一時的に広場の2大都会は混乱に陥った。他方で、その後の愚痴広場はダルマの支配するところとなり、愚痴史からはダルマ時代、あるいは価値評価を含む愚痴倫理学の立場からはしばしば暗黒のダルマ時代と称される。ダルマは恐怖政治を敷き、手当たり次第に弱者とみなした相手を恐喝あるいはいびることで愚痴の専制君主となりあがっていった。まゆや、麗美など複数の被害女性らは愚痴からいびりで追い出されて或いは深く心を傷つけられてダルマをうらみ、にくみ、復讐を誓い、レコナー再登場後に彼へダルマ討伐を依頼するのである。
 愚痴にも頻繁に出現する通称かっぱことユキハマは、政治と愚痴を渉猟する軟派で、既婚と未婚を問わない女性との交流や現実での出会いを目的に広場を徘徊してきた。のちに彼といざこざを起こす京都の既婚者たま(たま。)はダルマが慕う唯一の人物で、既に子がいる主婦のたまと、独身の変人ダルマは擬似的な母子のように振舞ってきた。ダルマは軟派のかっぱを女々しく陰湿さが酷いとその著『愚痴地図』において評しているが、確かにかっぱは後に、レコナーへ色々な手管で女性関係がらみの冤罪的な嫌がらせを行い、かつ後味の悪い始末のつけ方をした(勿論わけなくそうしたのではない。彼の心理の詳細は、将来かかれるはず童話『かっぱ』に詳しい)。また実際には政治広場史の立場からはかっぱのみならずたまも多少あれ同様の人物とされる。あるときレコナーが首都圏における水戸の伝統思想に果たす役割を解説したところ、たまは平安時代から相も変わらず京都中華思想を奉じレコナーの説をひたすら貶すのであった。たまがいうには、京都が水戸と比べられるのは京都を馬鹿にした説であるといい、京都人は他の地域と同じ価値尺度で比較対照されたり評価されるのを最も嫌うという。これをたまの水戸毀損という。爾来、2ch文学板で京都の通俗作家らからひどい名誉毀損を受けてきたレコナーの中で対京絶滅政権を期した水戸を首都にする意向はますます固まり、数万年の縄文文明に対比させそれより続く万年帝都を構想していくのであった。

 要人ナオと雌伏時代の終わり

 レコナー時代初期にレコナーへ政治広場で話しかけてきた、長野県民で病の前歴を持つ有閑層の女性ナオという要人がいた。彼女は年齢にしてほわや、千葉の芸大卒漫画絵描きちくわ、京大卒のテロリスト志望者にして自閉症を持つさよこ(sayoko)、兵庫は芦屋風の富裕層マダムおりんと同世代と目される。ナオはその当時すでに広場で懇意となっていた、東京下町の生まれ育ちで性に下卑た中年、浮気男ルチャについて、レコナーを部屋に呼び込みくりかえし相談した。レコナーは持ち前の男気から飽くまで穏やかに相談にのり、真剣に話を聴くと同時によく考え、適切とおもえる忠告をナオへ親身にくりかえした。ある時、ナオはルチャを部屋へレコナーと同時に呼び、ルチャの前でナオはルチャを捨ててレコナーをとるといったような芝居に出た。その時ルチャは、浮気性の彼にありがちな態度だがナオを頼むといって有難そうに出て行った。これをナオの一芝居という。のちの現代、西暦2015年のゴールデンウィークにルチャが広場へふらりと立ち寄って再び軟派な振る舞いで女性らを追い掛け回していた際、レコナーがルチャにナオの一芝居の際の対応の真意を問いただしたところ、およそ記憶していなかった事から見ても彼の生来の軽薄ぶりがしれよう。がナオは当の軽薄男に猛烈な執念を燃やした。浮気性と婚姻関係になったり、付き合ったりするのは困難を伴う、とレコナーはナオに対して常識を打ちながら、またレコナーの東京生活は都内に地元ほど自然がないのに都会特有の害虫に悩まされ過大な人口から人々が俗悪であるなどの面で過酷であった経験からも、ルチャを追って東京に行きたがっているナオには長野での自然と調和した暮らしの方が次善ではないかと諭したりした。これらをナオの相談という。その相談にのった期間はレコナー初期時代の殆どを割くほど長く、レコナー再登場後も含めれば彼の彼女への親切は実に膨大な労力と時間にのぼるにもかかわらず、精神病質を持つと広場の精神医学に知識ある人物らから分析されているナオは、レコナーを逆恨みしていくのである。これをナオの逆恨みという。
 レコナーが広場を去ってからというもの、政治における求心力は失われ人々は離散していった。同時に、イトキチ曰く「ミイラ捕りがミイラになる」事態であったイトキチとモチタ、ホメ、江田島ら古参による相互中傷合戦は果てなく、ひたすら悪行が蓄積されていった。ちゅんやたたしはもとより野次馬を超えず政治・主張の両広場から消滅し、ななは密かに気に入っていたレコナーが去ったと思った事からもログイン回数を激減させ、また資格試験の勉強に集中するようになった。ハシナオは横暴を極め、付きまとい行為と人種差別発言の嫌がらせをくりかえしたローゼンを広場から追い出したがそれまでで、彼の粗暴を向ける目ぼしい相手がいない事から漸次、ログイン回数を減らしていった。こうして古参らが再び合戦を繰り返す事ととなり、このレコナー雌伏時代の一時期を空白期あるいは空白時代と呼ぶ。
 レコナーはやがてなな一派が下火になりつつあった機会を見計らって、再生した。新たなアバター名は勇者レコナーで、なな一派の完全退治を目指し広場政治活動を再開した。これは表向きの理由で、レコナーはある時、かつて相談にのったナオのその後が気になったのである。そしてナオの現状を聞き取ると、彼女がレコナーの誠意ある忠告を聴かず東京にひっこし、ルチャと接近したがっているのを知った。

 ガルマ・レコナー同盟時代

 新たな政治体制を模索していたレコナーは、ダルマ時代となっていた愚痴広場のベンチにしょぼくれた顔つきでたまたま座っていたガルマとこれまでの広場史を誠実に議論しあい、政治広場における政の主導権奪取を期し同盟を結んだ。これが世に言うガルマ・レコナー同盟である。この際、東京電力の傲慢な体質や一極集中、そして退廃的な大都市文化への憂いをレコナーと共有するタムが仲介者となった。彼らは政治においてなな一派の残党狩りにかかるやただちに成功、やがて唯我独尊状態のホメと、モチタにつるむイトキチ一派と対峙した。傍若無人な振る舞いを続け広場における内乱の根源因となってきたホメの傲慢を退ける為に、レコナーは当時のホメがmixiを通じて結んでいた現実の不倫関係をあえて注意せず黙認する方策をとった。さらに、復讐心の強いホメを意図的に挑発し、何度もそれを繰り返して面倒と感じさせ広場にいづらくした。これは、モチタがしていたのとは逆の方法でホメに自業自得の悪行を加速させ、すなわちホメのおこなう不倫の業にホメ自身をのめりこませて広場の脅威を除去する戦略で、実際にホメはこの後、半年から1年ほど広場から引退するのである。レコナー自身がホメに手を出さずにホメの自壊をいざなう戦略をホメ自滅戦術というが、これはほぼレコナーが短兵急に実戦であみだしたもので、ガルマは感知していなかった。ホメは広場の近代前半、すなわち2012年の前半から2013年にかけてこの方略をもって、ホメ自ら進んでおこなっていた現実の不倫関係の清算に追われ、ついにはクリスマス前に近所の教会に駆け込んでゆるしを請う地点までおちぶれた。ホメ戦争以来、モチタやイトキチの悲願、ホメ征伐は奇しくも英傑レコナーによって一時は成功を収めた。なおこのとき、現実政治において東京地検や東京のマスコミュニケーションより冤罪にかけられ苦しんでいた小沢一郎氏を擁護していた親福祉的なレコナーを、ノンポリのホメは誹謗していた。この頃、ほぼ同一の政治信条によってレコナーの同志となっていたコーヘーがいた。レコナーの改革派の主張を非難していた自民党信者で、当時は新自由主義の狂信者であったにゃこぶと連携し、ホメは、コーヘイを含むレコナー派を2chや広場での誹謗中傷などで弾圧していたのである。そしてにゃこぶの方は、1年後に自民政治が彼女の望みどおり確立されはしたが、かつはなはだ現実政治状況がレコナーの予想していたとおり庶民に苦しくなってのち、当の庶民であるにゃこぶは自殺願望をさえ語るようになり、当時は同一の新自由主義信奉者であったとつげきの家で、後述するとある自殺未遂事件を起こすのであった。
 次に必要なのがナチスト組織・反RECKONER2同盟(以下、略して反同盟)の残党洗浄だったが、既に根が臆病なロジコはレコナー仮想自死と聴くと縮み上がっていた。レコナー再登場後、ロジコはなな一派による過去の業の一切を側近の命じた事であったとるくへ全面的に責任転嫁し、下心からLINE(ライン、手紙を複数人とやりとりできるSNS)で出会い行為済みのななを擁護した。また復活後のレコナーから集団虐待等の因業を責められ弱ったロジコは、なな一派で最大の内ゲバルト分子として機能していった。実は、そうなった背景事情として次の逸話があった。ロジコは彼の就職後の初任給を用いて取り急ぎ神戸にて性犯罪を犯したばかりか、それを当のレコナーに向け「レコナーどん、性売買はいいぞぉ。今度一緒に行きましょうや」とあまつさえ勧誘までもした。この国法に触れる下賎な喧伝を目撃していた広場民らからるくへ同内容を密告され、ロジコを軽侮し始めた硬派のるくとロジコは、なな派閥内部で表面には見えない根本対立が生じていた。かつななは慈愛のつもりで職権平等とし、以前から娼婦の商売(行政府から泳がされているが本質的に違法)を弁護していた事があげられよう。また反同盟首謀者ちゅんはレコナー仮想自死後に即時逃亡、しかも彼が以前は支持していた橋下徹の率いた政党が大阪府内の選挙で漸次落選すると、途端に彼の独裁者たる手のひらを返し、今度はレコナー迫害の業も収まりきらないうち当の府知事を大阪のみならず関西共通の仇、とまでにのたまわり始めた。たたしは相変わらず女を漁り、北海道の美麗な片母ナスケとも接近していた。が、のちレコナーがこの女性と親身になるや、たたしは他に複数もっていた同時的な女性関係をレコナーから指摘され大いに焦った。こうしてたたしはナスケと再婚するかもしれないとしていた口だけの約束を、彼女へ面と向かってまで破棄した。しかも、ほぼ同時期に力を取り戻したレコナー派からの報復のみならず、彼が偽りの乙女憲法などでふざけて火種をまきつづけてきた因果から、主張や愚痴などに遍在していた悪戯半分の追放勢力にも一挙に追われ、事実上引退するのだった。これらを政治広場史においては反RECKONER2同盟の顛末、または単に、ちゅんナチスの敗北、反同盟敗残などという。
 他方、ガルマはイトキチの退治にかかり、単独での直接対決を挑んでいた。しかしガルマは攻撃性に欠ける性格で、イトキチの巧みな虚偽の弁や懐柔策にかかり、イトキチを責める意欲の外堀を埋められていった。遂にはイトキチ一派の病人まりーんや、当時は隆盛を誇った性悪の女傑メイプルらと、モチタからさえ囲い込まれたガルマは戦闘意欲を失って、議論の際に期せずイトキチと事実上の講和に至ってしまった。これを広場監視中に目撃したレコナーはガルマが敵側に寝返ったと判断、ガルマをも迎撃対象としてイトキチ一派への殲滅活動を開始。東軍の大将レコナー自らガルマ同盟を破棄した。こうしてガルマ同盟破棄を皮切りにホメ一時消滅後の政治広場において、空前絶後の世界大戦であるレコナー・イトキチ戦争、別名・政治広場世界大戦(単に大戦、政治広場東西大戦、序盤を第一次大戦かつ終盤の残党狩りを第二次大戦、決定戦を関が原の戦というなど、さまざまな名称がある)が開幕したのである。この期間は長きに渡り、およそ2年以上つづくことになった上、それまでの広場史上で最大数の闘争手法と最大種のサブが投入され、また2ch上でも問答無用の炎上が相次いだ。先に結論から記せば、この大戦は東軍大将レコナーと西軍大将イトキチの激戦であったが、東軍が勝利した。以下に事の詳細を述べよう。

 第一次政治広場大戦

 勇者アバターとして復帰したレコナーはガルマ同盟を打ち切ると、イトキチ(正式名はローマ字でItokichi)らが開発してきたサブによる監視システムを摂りこみ自らも最大限に利用しだした。また、2chにおける監視での広場民誹謗(この頃、既にイトキチのミイラ捕りはホメとジェイの不倫を対象に揶揄していた時代をはるかに超え、全広場民を虚偽情報を込め侮辱しまくる極性に至っていた)というイトキチの手法を逆手にとり、2chでの応戦は主犯格であったイトキチ単体を公益通報の為の犯罪批判という正論で叱る事のみに限定した。この期間をレコナーのイトキチあぶり出しという。政治と愚痴をまたぐ遊び女のもっちぃが「カトキチ」といううどん会社名でイトキチをよびならす事を援用、カソキチという正体不詳のイトキチ迎撃用コア・アバターをレコナー派が使い出だしたのも、この頃である。イトキチにとって2ch悪行を暴露し致命傷を与える証拠をブログに記述済みのこのカソキチと、秘密兵器の政治くんというロボット兵器2体がイトキチ一派に大打撃を与える結果となった。
 話はうってかわるが、レコナーは私生活において、彼の高校時代からの親友が結婚し子を儲けた事を知り、感じやすく繊細な心をもつ彼はなおさら孤独におちいっていた。戦士は孤独なもの、ある時たたかいに疲れ、アメーバ・ピグ上の酒場に立ち寄ると、そこに一人のうら若い田舎娘がかわいげのある舞いを踊っていた。それは彼にとって初々しくみえたため、かつて旅行で訪れたこともある自然深い青森県民だという娘に声をかけてみたところ、彼女はおそらく先天的である自閉症をもつ高校3年生のはずの齢の人物で、ニートの酒場と呼ばれた場所で寂しげに過ごすほかない立場とのことだった。彼女はのちのレコナー王・正室ミキ(Miki、とうほくのぺんぎん)であり、その天性の優しさからミキは、戦いに疲れたレコナーの心のよりどころとなったのである。その頃のニート酒場ではミキのほかに、ある虐めっ子集団がたむろしていた。水戸っぽの例に漏れず正義漢のレコナーは然るべく、この集団の最上位者である陰湿な京女ちゃんももと対立していった。ちゃんももは弱い善人に対する集団虐待の癖、あるいはレコナーを奪ったに等しいミキに嫉妬しミキへ濡れ衣を着せることでミキとレコナーの間を仲違いさせようと画策するなど、数々の謀略をレコナー側に仕掛けた。高校時代に友達から誘われ障害者福祉施設に奉仕活動へ行った経験を持ち障害への偏見をもたないレコナーは、ミキという社会的弱者と考えられる立場の善女へちゃんももの仕掛ける暴虐をはなはだ憤り、数時間をかけてちゃんももへその行状を改めるよう激しく説教すると、それまでちゃんもも一味を形成していた酒場の連中はレコナーの勇気にいたく感銘を受けてかれへ寝返り、ちゃんももを酒場から排除する運動を始めた。こうして世にいう酒場維新がおきた。その場の千葉娘・こくっちに恋心を抱く埼玉人男性ねこにゃんの派閥が、結果的に勝利者となったのである。
 レコナーはミキをつれて酒場を去ると、ミキにできるだけ安全地帯の多い愚痴広場にとどまるよう忠告しながらも、果敢に愚痴隣国である政治広場のイトキチ一派を奇襲した。その当時のイトキチ一派はレコナーを通じて状況を把握したミキのサブアバターなどの参戦に加え、影の協力者で北海道の賢女snowや広島の古参まみーから多くの情報提供を受けていたレコナー派の猛攻に押され、1年半以上をかけた常時複数のサブアバターを駆使した空前絶後の大合戦の結果、重要な片腕として働いていたメイプルを失った。あるいはほぼ無能で中立な紛らわしいフール派閥の構成員とイトキチ一派は徐々に切り離され、遂にはイトキチ、まりーん、くろすけ、そしてモチタという4人のみに刈り込まれた。ここで、レコナーの雌伏時代にも継続していた愛郷の趣旨が記されたブログを発見したオデンヌは、みずからの排除の意図でレコナー仮想自死と知ってやりすぎたと後悔していた矢先にその内容と誠心に感銘を受け、かつ以前の無礼講を反省してレコナーに進んで協力を申し出た。これをオデンヌの改心という。主張女王の参戦した最終戦争のさなか、レコナー派は徐々に勢力を強め、かつての政治広場民の蛮族ぶりに憂国の情を感じていた愚痴の実力者・タムをも味方に巻き込むことで最大の戦闘力を獲得した。ガルマの方は、同盟断絶後、レコナー単体へは報復的であったが、レコナー派とイトキチ一派のサブによる空中合戦については詳しい情報をもたず、仲間がたりず分析もできない為にレコナー派の体力や気力、兵数を削ることいずれにも成功しなかった。ホメ消滅中に、オデンヌやレコナー、ミキらのサブを含む軍隊から断続的に続く2ch犯罪禁止の勧告を受け続けたイトキチは、広場での慣例となっていた昼夜を問わないモチタやまりーん、ミューデ(改名後のもかP)らとの広場民あるいはレコナーへの揶揄活動にも支障をきたし始め、ついにレコナーは2013年中にイトキチのみを実質的な2ch犯罪開始の真犯人として炙り出すことに成功した。そしてレコナーとミキの信義へ、性売買等、埼玉で周りの悪習に染まりやすくはあったがもともと信心深い善性もあったくろすけも徐々に感化されやがて西軍から東軍へ寝返った。それまで、イトキチは当面の嘘をつくことでイトキチが2chに書き込みをしている主体ではないよう広場民へ装っていた。しかしレコナーはなな時代の後期にサブ監視による空中合戦中に掴んだ、ななとレコナー、そしてイトキチの3人しか広場にいなかった際のななとレコナーのやりとりに関する、イトキチの嫉妬発言の2chへの書き込みで犯人がイトキチだと確証性をもっていたので、それを補完する証拠をイトキチ挑発によってあげつらうことにミキとともに傾注した。ミキと手分けしての24時間体制での広場監視と、最終兵器のロボット2体をも駆使したレコナー派はイトキチに最終決戦を挑んだ。こうして総合戦力の差がはっきりつき、イトキチにはなんらの共感も同情もしめさなかった利己的なモチタの無力が彼女自身のイトキチを置き去りにする敵前逃亡によって露呈され、ついに西軍の総大将は降伏した。政治広場の最上部にある見守りの看板前でレコナーとミキがイトキチを説教し、イトキチはおのずと堪忍し背後を向き、東軍大将のレコナーに降参の姿勢をとった。背後から縄をかけることに成功した時の記録写真は、イトキチの本心が広場荒らしではなく、はじめはホメの不倫批判であったこと、そしてモチタとの連帯が相互に2ch犯罪の押し付け合いという堕落をいざない予期せぬ末路にいたったという悲喜劇を物語る。イトキチはすべてをモチタの犯行であると責任転嫁することもできたが、そうしなかったのである。これをイトキチの降参、あるいは西軍大将の降伏という。なぜこの戦いを東西の名づけで呼ぶかといえば、自称弥生人の末裔であるモチタは山口、まりーんは京都、大阪の総大将であるイトキチが指揮する西軍に対して、レコナー派は出自不明のタム(しかし初期の話題から、レコナーは彼が岩手であると考えてきた)を除けば、茨城の総大将レコナー、青森のミキ、宮城のオデンヌ、埼玉のくろすけと主要勢力がおおよそ東西に分かれて総力戦をおこなったからであった。他に中立に近い勢力として、レコナーによる総攻撃で満身創痍を負い途中で戦線離脱したメイプルは関が原より東の愛知、大戦の序盤は東軍だが後半は中立からやや西軍寄りであった北海道のガルマが存在していたにせよ。これゆえに、看板前の降伏という広場史実をもって、徳川と毛利の東西軍が最終決戦を繰り広げた日本史実に習い、関が原の戦いとも称される。こうして勝利を収めたレコナー派は、政治広場史上もっとも華やかなレコナー王政時代を迎えるのである。

  第六章 近代中盤(西暦2013年頃~西暦2014年始め頃)

 レコナー王政前夜

 レコナーが広場主導権を奪取してから先ずその治安の回復と向上をめざすに際し、最初に障壁となっていたのはなな一派の残党ならびにとつげき派閥に群れる女たちであった。これらの女たちは政治にはなんの関心もない者も多く、そのうえ広場政治にも無知であって、ひたすら暴虐をくりかえしてその日暮らしをしていた。これらの女たちを政治広場史では阿婆擦れ連(あばずれ連中、あばずれ連)とも呼ぶ。年齢層は幅広く立場も身の上も様々であって、しかもみずからが治安悪化の原因あるいは荒らしの一種であると自覚するまでの知力はなかった。
 あばずれ連の一人、にゃこぶはとつげきホイホイにかかり、既に死に体になっていたことは前述したが、その詳細を述べるまでに次の逸話を紹介せねばなるまい。それは通称・yuri事件である。
 去ること政治広場第一次大戦中、大分と愛知の血統で東京を遍歴しながら貴族として裕福なくらしをしていた、ある女性が広場に現れた。彼女の名はyuri(ゆり、ユリ)といい、年齢はほわ・ナオ・ちくわ・さよこ・おりん同世代あたりと考えられるが、本質的に素直な性格であった。また九州人の末裔によくみられる傾向だが、手当たり次第に人を怒鳴りまわる、侵略を是とするようなかなり野蛮なところもあった(なおとつげきも血統は両親とも九州という)。もしくは武士階級のなごりか、不徳な者を下人と見下しにかかる、レコナー同様貴族にありがちな威厳かさもなくば高踏さももちあわせていたが、同時にその歯にもの着せぬ正直一途まっすぐな性格は天真爛漫ですらあり、広場民の一部から好感とともに珍重される結果をももたらしていた。のちの現代に発表席を独占し毎度そこで踊り狂うところから、いちご姫(後述)により「チンパンジー」とあだ名された、福岡の父を持つ東京の上級官僚の生娘・ともみ同様に、彼女の先祖は西南からやってきているとはいえ、薩長藩閥の流れを汲む特権階級が有するとおもわれる色々な特徴が垣間見られ、要するに大衆とは違ったのである。これらのユリに関する更なる性格分析はかの有名な『ユリの生涯』など、人気高い小説や伝記にゆずろう(2015年段階では未刊)。われわれがしるべきことは、彼女が重要人物であって、粗暴と洗練を兼ね備えた類まれな人物であったということで十分である。この独身女性は広場でとつげきにはじめに興味をもった。いわゆるホイホイにかかるかにみえたが、これには裏があった。ユリとレコナーは互いに貴族であるから、といってもユリが麻生家を親族にもつ血統貴族ならレコナーも親戚に新渡戸家をもつといった共通部分と、同時にユリが中卒で学業を好まないならレコナーは父が慶応祖父が早稲田卒と知識階級の色彩といった相違点もあったが、二人はありうることでかなり互いのよさを認め合った。ユリはレコナーに「あなたは(大衆に比べ立派すぎるので)このような場所にいるべき人ではない」「あなたがもっともよい人だね」と面と向かっていうなら人々には「あれほど正義感の強い人にははじめて会った」と彼への敬意を表し、レコナーはレコナーでユリの義に関する強さを尊重しあるいはその剛毅木訥な性格のよさを認め、なべての相談からユリの係争に際しての援護射撃まで最大級の互助を惜しまなかった。こうかくと恋仲にみえるが、実際は男女ではあっても貴族階級同士に典型的な尊厳ある友情であった。ところでレコナーとユリは、ななによる男をはべらせて独裁を摂る振る舞いの数々を、ななが小学生のころ属しかつ彼女の母も属していた京都文化になぞらえ、まるで芸妓のような行動形質だと考えていたが、ななはあるとき言葉が流暢とは決していえないユリから「芸者」と面と向かっていわれたことについて、ユリへの怨嗟を深めた。これを芸者呼ばわり事件という。るくはなな一派の陰謀を一手に司る闇の側近であったが、ここでななとるくは、ユリへ得意のスカイプ釣りを仕掛けることにした。ななは、とつげきがかつて頻繁におこなっていた、スカイプしながらのピグ無断動画配信にもよく登壇し、「ななちゃ~ん、うたってや」と関西弁であおるうらぶれたとつげきにもアイドルまがいの曲を唄って聴かせるなど妙なる媚態をふりまいていたが、彼女らの真骨頂は他人のスカイプを一派の誰かから録音させその公開という種をもとにだました相手を恐喝する、という詐欺行為であった。といってもそのほとんどは側近るくや、下僕のロジコが教唆していたとはいえ。案の定、とつげきホイホイにかかりやすい心理状態となっていたユリに、ななとるくは配下のとつげきからスカイプの誘惑をおこなわせ、無事成功した。ここで見知ったユリの情報をもとに、なな一派はとつげきへユリとの現実での出会い行為、すなわち彼らの常套手段であるお食事デート謀略をけしかけた。とつげきは兵庫は川西の出で関西人にありがちなけち、つまり吝嗇な性質をもち、デートは初対面以外は割り勘であると豪語、しかしこれは建前で、実際には初対面の場合でも事後請求する、とこれから行われるyuri脅迫事件(ユリ脅迫事件、ゆり脅迫事件、ゆり事件等の呼称がある)であきらかとなるのである。

 yuri脅迫事件

 とつげきはユリを現実での出会い行為に誘い出した。これはアメーバ利用規約に抵触しているが、サイバーエージェントの運営は不干渉であり、広場で唯一の与党権力であるレコナー派が広場自治行為の域内で取り締まるほかない状態であった。事件当時のユリはとつげきホイホイにかかり、幻惑され、正気を失っていたためあっさりとこれにのるかにみえたが、さすがの貴族でみずから怪しいと気づき、約束前日に断った。するととつげきは激昂、食事するレストランから請求された予約解除料金1万円を返せとユリへ迫りとつげき一派総出で脅迫しだした。その構成員はにゃこぶ、その頃にゃこぶに淡い思慕を寄せとつげき派閥に連帯していたがとつげき一派からは無下にされていた兵庫の病気がち元塾講師・crio(クリオ)などであり、とつげき一派はデートを誘惑するなかつかんだユリの個人情報をあげつらいながら、彼女の電話番号に何度か悪戯電話をかけたり、性に関するもしくは顔の写真を入手した為それを無断公開するなどと嘘をつきながら彼女へ精神的に圧迫をあたえつづけて復讐した。とつげきは既に不惑付近だがマザーコンプレックスで、母をママと呼び頭が上がらないうえに、わざわざ東京下町で暮らすとつげきの部屋まで兵庫から母親がやってきて毎度掃除している始末だった。とつげきに掃除ができない、あるいはあまりしないことは、ピグを通じたとつげきの下宿にあがりこむ出会い行為で通帳や印税収入、給与明細をその目で確認するなど金に目がない悪女にゃこぶから何度もからかわれ暴露されていたが、ここでにゃこぶと呼ばれる当の人物についていま少し語ろう。この酔っ払っていることも多い千葉女自身がよく広場で語る世情話を要約すれば、父が熊本人の警視庁勤め、水戸の祖母をもつが東京生まれで、今は都内の受付嬢をしており、ファミレス店長の彼氏に浮気され別れて以来、彼氏と命名したとされる犬の名前「にゃこぶ」を名義にしている。ところがこの女は身持ちがわるく、性売買の唯我をダディと呼び不良のハシナオとつるんで広場民を手当たりしだい罵倒してまわるといった風情、ユリはあるときにゃこぶから「足をおなめ」と命じられ彼女をばい菌がうつりそうであると評していた。そればかりか、にゃこぶ自身が当のとつげきを「子供に家庭内暴力を振るい、隔離しないと切れるタイプ」と評し結婚など無理と解析しながら、毎度のようとつげきの家に上がりこんでは大層評判のわるい下品な酒飲み配信をする体たらくである。にゃこぶの得意技は「きちがい」とひとびとを罵倒する暴言で、彼女が気に入らないすべてのひとにそうであったが、後述のozashiki(オザシキ)もユリも、レコナー派の大多数すら、とつげき派に与しないほぼ皆がにゃこぶによってそう誹謗されてきた。ユリがいうにはにゃこぶは「いじめ日本一」であり、上述のユリへの個人情報さらしを種にした脅迫はにゃこぶが主犯格とされ、京都の性悪小娘KONA(コナ、こな)とともに、面白半分にユリの精神状態を危機においつめるべく、インターネットと現実上でくりかえしその痛罵は執拗におこなわれた。唯我の弁では、にゃこぶはなな一派とも不仲、互いに陰口をいいあい、そのような性質でななは現実についても不登校になったのだとされる。なおにゃこぶは高卒であるが、低学歴を嫌う学歴劣等感の激しいとつげきは女は馬鹿である方がよい、とのべつまくなしにのべる性差別主義者であって、結局のところ政治広場史上の最終解釈として、とつげきはにゃこぶを懐柔しやすいために利用し、にゃこぶはとつげきを浮気された彼氏の代わり暇つぶし相手にしていると考えられている。ところが彼らはともにうつ病の気があり、とつげきの現実の部屋でいつものスカイプをネット配信中ににゃこぶが自殺願望を語り始め、聴いていたある人が緊急通報した為、現実のとつげきの部屋には救急車と警察がやってくる大事件となった。これをにゃこぶ狂言事件またはにゃこぶ自殺未遂事件という。
 いずれにせよユリは精神的に追い詰められており、再登場後の勇者レコナーにある早朝、愚痴広場にて、政治広場と現実の両方でとつげき一派から脅迫罪をされているとの旨、相談もちかけた。レコナーは親身にこれを聞き取るやユリを援護しレコナーが人事院、ユリが警察へと手分けして通報する手管を整えていたが、その最中、とつげきの匿名サブと考えられているアバターが二人の間に割って入り、ユリを彼の部屋に連れ出した。レコナーは構わず人事院に通報していたが、その後にユリのアメーバ上のメッセージがレコナーに送られてきたところによると、当のとつげきサブとおぼわしきアバターは是非ともそれらの通報をやめるよう懇願してきたという。こうしてユリは警察に通報することを取りやめたため、とつげき派閥すなわちとつげき・にゃこぶ・KONAそしてクリオらが現実の監獄に入るないし科料を警官に懲らされる事態を免れたのであった。ユリはこのあいだに精神を病みかけ、精神科を受診するか、さもなければ自殺をおこなうかのおぞましい瀬戸際までおいつめられていたが、レコナーの支援によって再び政治広場へも復権していく。その第一歩が、ハシナオ討伐であった。

 ハシナオ討伐並びにゆうちゃん脅迫事件

 なな一派はとつげき派閥だけではユリからの芸者呼ばわり事件への復讐を完遂できないとみるや、いわゆるちんぴらの一種と堕していたハシナオを呼びつけて同様の策謀を吹き込んだ、もしくは、なな一派内でそれを誘発するようにおわせた、と政治広場史では考えられている。これをハシナオけしかけという。その頃、ユリは猟奇ポルノマニア公務員、暴力的京都男のozashiki(オザシキ)と親身となっていたが、これは両方とも不幸な生い立ちをもつことによる同情の念の為であって、次第に性愛の関係となっていた。オザシキはユリ同様、広場民を暴威してまわったり、かつ公然猥褻目的で女子ピグを付回したり怪しからぬ振る舞いが多かった為に、ハシナオやKONAは彼の素行を問題視していた。そのときユリがとつげきに袖を振ったとわかると、ハシナオはユリをオザシキから保護する名目をたてて現実でのデートにスカイプを通じて誘った。しかしユリは、ハシナオによるローゼンやレコナーら広場民への既往の暴力傾向を多少あれ目撃していた上、オザシキと先に約束があったとしてハシナオの無礼を理由にこれを断った。ハシナオもとつげき同然に激怒し、スカイプ録音の内容を公開するとユリを脅迫。ユリの復権を目指し政治広場に登壇しその場に居合わせたレコナーからこれを指摘されハシナオは防戦したが、道理に歯向かえる刃なくして呆気なく敗残した。こうしてユリは当人の愛するオザシキと結婚に向かう。レコナーはオザシキの様々な形跡、特に猟奇ポルノに関する好みの面からユリにそのむね注意するよう、或いは何か起きたら相談するようにと最小限度の忠告はしたが、ユリの自由意志と素直な感情を尊重した。これは後のユリ再登場の際に、ナオ(ハシナオと混同を避け、長野ナオと記す事もある)もかすかに絡んだ、京都陣営に与するユリの政治的意思が微妙に介在しているといえなくもない、彼女の人生を懸けた壮大な結婚劇であるともわかるようになるのだが。他方、ななはあるとき広場にやってきて、ユリがオザシキと現実で婚姻に向かうとみるや、オザシキはどうみても異常者であると周囲に断定し、健康不安や掃除不能などいくつかの面で事実そうでもあったようだが、かえってオザシキとユリの配偶関係はユリの不幸の原因となると憶断して小躍り喜んだ。こうしてユリ脅迫事件を芸者よばわりへの復讐として行っていたなな一派の陰謀は、なながオザシキを軽蔑していたために終焉したのである。
 しかしながらとつげき一派は次のホイホイの標的を探し続けていた。奄美から上京してきた粗野な気質を持つ、およそほわ世代の独身女ゆうちゃん(以下ゆう)へとつげきは同様の手口で誘惑、それをふぐに邪魔されゆうが断るやまたも脅迫をはじめた。ゆうは敗残し、今度は石川の2chねらー(2chを頻用したりその内容を信じるものをにちゃんねらーという)にして田園蔑視の陰湿な性向をもつ、フィギュアオタクの独身男ボンヨとひそかに東京ディズニーランドでのデートを行ったが、見合いには至らなかった。このとき性売買を趣味とした大阪上がりの高卒・東京下町商人yumenokuni(ユメノクニ、夢の国、ゆめ、ユメ)らと親しい、静岡の大学生女ダコタが、ゆうを援護していた。実はユメノクニもなな一派からのけしかけにのまれ、とつげきホイホイ同様にゆうを誘引していたのである。また、ふぐはとつげき・ユメらの合同コンパ(要は集団での出会い行為)を半ばやっかみを含めつつ意図的に邪魔した因果から、広場でにゃこぶ、クリオ、ユメノクニを含むとつげき一派からの怨嗟をうけ、総攻撃にあうことになった。このためレコナーがふぐへ直接救援を申し出ると、気の狭いふぐは、前々から発表への細かな揚げ足取りで事実上の対立関係にあった名演説者レコナーへ向け「真っ平ごめん」とこれを断った。こうしてふぐはとつげき一派から即座に敗退、その後、レコナー救援部隊からのふぐ蘇生を目指す懸命な医療活動が行われたが、ふぐは周囲の派兵を一人ひとり分断して部屋に呼び出すや、レコナーへの陰口をはじめた。しかし医療専門の部隊がこれへ容易に乗るはずもなく、ふぐは憎しみまみれの捨て台詞を吐いて失踪、広場から事実上の半引退状態になってゆく。レコナーはほぼ同時期に愚痴でゆうから相談を受け、ゆうをユリ同様援護することとした。こうしてレコナーを通じユリ脅迫事件の概要を聞き知ったゆうはとつげき一派がゆうを罠にかけたと判断、レコナー派からの陰陽の支援を受け広場政治的に反とつげき陣営となった。レコナー派はその直前にイトキチ征討を大成、広場の与党あるいは最大支配権を獲得していた為、とつげき派閥もここからたやすく覇権をまで奪えず、ここにゆうはふぐと異なり広場から完全に排除されるのを免れた。ところがゆうは恩義の念に無知であるか薄い、もしくは記憶力の低い人物で、これ以後に東京のヤンキーちーちゃん一派に自ら志願し所属する中で、レコナーへ嫌がらせを始めた。こうしてはじめから規約違反の出会い目的女であった出自もそうであったにせよ、近代中盤以後、ゆうは広場の喧嘩系荒らしの一員として数々の乱行に加わるなど、独特のうらぶれた位置づけとして固定していくのであった。広場民のなかには、広場川柳の端々にこれをゆうちゃんのヤンキー化、もしくはゆうのヤンキーナイズと揶揄する向きもあったという。

  第七章 近代後半(西暦2013年終わり頃~西暦2014年)

 第一次レコナー王政

 あばずれ連のうち、最初の懸念が神奈川は横浜女ユークレース(ユーク)であった。彼女は妙齢で東京生まれの誇りを持ち、山形出身で東大卒の選良かつソニーの有能な技術者である父から生まれ、栃木人との混血であった。ユークはとつげきホイホイにかかると見せかけ、そこは生粋の都会人で一定の距離を置きとつげきを冷静に観察していた。ピグを使った出会い行為が規約違反な事もかえりみる余裕のあるユークは、どれほどとつげきからかどわかされてもたやすく応じなかった。ここに、広場で横暴を働く今では唯一の野党、とつげき派閥の無力化を目指すレコナーは、彼女を側室とする方略を考え付いた。即ち、かつてなな一派が頻繁にもちいた色仕掛けの援用によってユークを抱き込みにかかったのである。ミキを正室としつつもユークに側室としての権限を与える、と好条件をもちかけた結果、ピグが単なる人形劇であることを理解しているユークは、それまで東京一極集中や原発政策等について都会批判をくりかえしていたレコナーとの根源的対立を超え、内実にレコナーのものとなった。既に王者と名乗っていたレコナーの側室戦略はあばずれ連を懐柔する作戦として十分使えるとみた彼は、次ににゃこぶを抱き込みにかかった。実は、レコナーはユリ事件時にとつげき派閥を征討する際、にゃこぶにだけはみねうちしていた。これは過去の経緯から、にゃこぶは浮気男らにだまされている面もあり、ユリ脅迫をそそのかした憎むべきと同時に哀れな存在でもあると判断した為であったが、ユリの側はむしろ脅迫の真犯人としてのにゃこぶをレコナー軍から攻撃してもらいたがっていた。当時の野次馬の一人であった、山形は米沢藩士を先祖にもつ東京の下層民・ヘソ下三寸から、レコナーがにゃこぶ相手に手加減していると告げ口されたユリは、レコナーの裏切りを疑い、直後に引退してしまう。こうしてにゃこぶへの哀れみを示してきていたレコナーは、ある休日の昼ごろにゃこぶに誘われるまま彼女の部屋で愛をささやき、彼女の懐柔策へ部分的に成功したかにみえた。が悪女にさもありなん、その日の夜にはにゃこぶのアメーバ・ブログにリベンジポルノ犯罪の報復も受けた。尤も、レコナーにとって王政の確立が目的で決して、とつげきがしてきた類の現実での出会い行為が目当てではなかったので、それらはピグ上での人形劇に過ぎないもので、いくら反撃されようと、政治広場闘争の色仕掛け系に慣れていたレコナーにとって安全防衛圏であった。こうして合規約性の域内で、レコナーの側室戦略が徐々にあばずれ連の暴虐性を融解していった。この際、純愛趣味のミキはひそかに悲しんだが、レコナー王からの説得によってこれは広場政治の為なのだと己に言い聞かせた。これらによって達成されていった広場の良好な治安は、広場でのレコナーの治世に献身したミキ女王や、彼女への支えと側室らの世話、そして広場での政治に毎日かかりきりにならざるをえない当の王の大きな自己負担から成っていた。愛知の病気主婦まゆはこの際、江戸時代の大奥に同情していた為、レコナーの側室戦略を補佐していた。側室は増え続け、ついには6人ほどにまでなり、あばずれ連のほとんどを吸着して広場は絶対王政の様相を呈した。これをレコナー第一王政の絶頂あるいは単にレコナー王政の絶頂と呼ぶ。夜毎にレコナー王はひしめく側室らを巡ると、それらの現実において恵まれない女らは彼の訪問に歓喜し、迎え入れた。そしてシンデレラ願望を持つネット女の中には、側室へ自主的に志願する者さえいた。こうしてレコナー第一王政は完全に成功し、広場はピグ上最大の人口数にくわえ平和と華やぎに包まれた。かつてイトキチ一派に属し敵対してきたくろすけは、それまで厄介者だった広場のあばずれ連を一手にひきうけてくれたレコナーに感謝し、敬意をこめて彼をレコナー卿と呼んだ。女王となったミキの内面は複雑だったが、彼らの望んでいた政治論あるいは仲のよいつきあいがまっとうに行えて、本来あるべきだった広場の平穏が実現された以上、側室制度を廃止する道筋はまだ見出せなかった。それと同時に、レコナー自身も側室の世話を大変がり、なるほど快楽も認められるにせよそれはそれで過度なら労苦に近づいていた。当時の和歌を集めた『レコナー第一王政歌集』(ほとんどが散逸している)には次の歌がみいだせる。
この世をぞわが世とぞおもふ望月の欠けたる広場なきとおもえば
こうして、かつて運営と類推されるアバターから初登場時のレコナーへ向けられ発された源氏の予言は、奇しくも多くの劇的革命をへて実現された。彼女らが予想していなかったこととしては、レコナーを愛する女王にできた小型のストレス性円形脱毛症にかかってまでの絶えざる自己犠牲のもとに、ではあったが。これらの経過ならびに達成された広場の平和を第一次レコナー王政、またはレコナー第一王政、レコナー第一王政時代、レコナー王政時代などと通称する。また、与党王政におけるレコナーをレコナー王、レコナー1世、レコナー政治王などとも呼称する場合がある。この頃、温和な八方美人の態度でいかなる広場政治に対しても中立を保っていたほわを見つけるとレコナーは、政治広場民からみえない可能性の高い愚痴広場で彼女の過去の行状を責めた。レコナーは彼女へ、彼女は本来、ホメ一派やなな一派、そしてイトキチ一派らの暴虐行為を諫めるべきであったのだと述べたところ、ほわも己をかえりみその優柔不断を認め、以後は大部分客観的な観察者の立場からではあるが重要なレコナー派の一角となった。
 ところではじめのレコナー王政のさなか、愚痴広場にて集団迫害を受けそこから排除された亡命の民、いちご姫(いちご、イチゴ)が政治広場へほうほうの体でやってきた。その衣服はよごれ、心も肌も深く傷つき、今にも死んでしまいそうであった。レコナー王は彼への憐憫の情から、とりあえずの保護を与えつつ背景事情を調べた。いちごは独身中年男性で、それまでえみゅという中学生女子に恋心を燃やしていたという。レコナーがあなたはなぜ男性なのに姫かと問えば、えみゅがその方が可愛いと彼へいったからだ、とその不思議な変装眼鏡のアバターは臆する気もなく応ずるのであった。後に、彼は慶応大卒の金持ちで、高校時代は野球部長という心身とも闊達な人物、さらに弱いものを見ると放っておけない義心の持ち主で、一定以上の政治的知見の持ち主、かつ非差別主義など多くの秀逸な点をもっているとわかるが、当時の彼は愚痴民らからロリータコンプレックスあるいは未成年を対象にした性犯罪者の嫌疑をかけられ実に酷い迫害を受けていた。レコナー王政の官僚らが断片的にだがいちごから聞き取ったところを今一度抜粋すれば、いちごがえみゅに近寄ったその真意は、彼がおおよそ親孝行といった古きよき理由で子供を欲しいと同時に、それは彼一流の知見によれば若い女である方が妊娠能力の点から有利である、という単純な生物学にすぎないのであった。レコナーはこの時、恐怖の愚痴王として隣国に君臨していたダルマから違例の直接訪問を受けた。違例というわけは、レコナー王国としての政治と、ダルマの愚痴はすみわけていたからである。レコナーはダルマの方から、いちご姫を政治・愚痴両広場より共同排除する謀議を唐突に切り出された。レコナーはいちごについて下調べを済ませていたため彼の公徳をはかっての申し出には統治者として深く感謝すると同時に、丁重に固辞の儀を示した。レコナーの側として、犯罪者とみなされている人物についての情報提供ならびに広場民が受けるはずの迷惑についてのご心配はありがたいが、それと同時に亡命の徒を迫害するのは人道にもとるという返答であった。こうしてレコナーはその第一次王政時代初期から、愚痴難民に関する受け入れ態勢の基盤をつくり、人口を増強していった。いちごは有意にか無意にかその恩に報いて以後、有能かつ世界市民的な政治論者となると共に、愚痴民の突然移入に対してはいちご自身への迫害を恐れ彼なりに厳格な態度をとる政治広場守護者の一員となるのであった。なお、テーマ広場群で2大都会とされた政治広場と愚痴広場はそれぞれ隣国だが、おのおのの広場は30人が満場であって、片方で一時的に人がいないともう片方になだれを打って人が集まる、潮目と呼ばれる潮汐現象があり、総じてその働きにかかわらずレコナー王政以後は首都を政治が、副都市を愚痴が担うようになっていった。このため政治広場をレコナー王都と呼ぶこともある。かつてあの栄華を誇った主張広場はどうなったかをここに記せば、オデンヌ女王の回顧録によると、オデンヌ・レコナー戦争を主張側ではレコナー来襲と呼んでいて、当時を思い出せば黒船到来、それまでのオデンヌ女王政が崩されては大変と主張連は政治や愚痴を駆けずり回り、てんやわんやの大騒ぎであったという。かつ、ほぼ同時期にオデンヌ女王は現実において結婚し、ログイン頻度はどうしても下げざるを得ないことからも以後、主張広場は衰退期に向かったという。

 るれ一派

 第一次レコナー王政における側室の中に、にんじんという東京女がいた。彼女は関東北部と推測されているがとある地方の田舎出身で、学生生活を送るため上京し都内で就業した。あるきっかけで知り合った、多重人格の障害をもつ京都は宇治の娘るれへ、彼女は慈母の心を以て接していた。るれの方は、あるとき愚痴広場にやってきた妙齢の美女といっていい容姿の者で、また詳細は不明ながらにんじんもそうだとされているが、この2人は親友であった。ところで前々よりレコナーは初心者に親切で、それは彼が初登場の頃に遭遇した残酷物語の数々から、二度同じ目に他者をあわせない、との親心によるのだったが、るれへもやはり丁寧にしていた。彼はるれの実情を知るにつけ、彼女の私生活における苦しみや楽しみを知り、彼女の幸を自然に願うようになった。ところがるれは多情な女で、といってもるれ自身は博愛の念を持つ寛容な女子であるといういくらか天然じみた意識に過ぎないが、また容姿も手伝って写真撮影などに積極的ないまどきのコスプレイヤーである彼女は独身男性らから一定の人気を集め始めた。愚痴のクールな男前なんとか丸や軟派の達人ユキハマが彼女と親密になりだした頃、アメリカ英語に堪能で愚痴の軽めな東京男ぴんこや愛媛出身でハワイに留学経験のある元ホモの不良ほほい等が、女を厳しく精査する愚痴王ダルマと共にるれの不行跡を指摘しだした。そればかりか、彼らはまれに政治へも顔を出し、よく見知ってはいるが移民後のいちごに談義をもちかけ、いちごも特にぴんことは持てない同盟との意識であった故、るれが浮気な女なのであると断定していった。その上、るれは当時京都に住んでおり、その気質にありがちな裏表の振る舞いがあったし、レコナー派の監視役はるれによる広場民への陰口をしばしば確認、これらの結果、るれの排斥論が古参の間に持ち上がりだした。しかしここに、ななの事実上の引責辞任後に力をもてあましていた元なな一派側近るくが、新たな寄生主として偶像性のあるるれを利用しだしたのである。こうしてるれは、広場の浮気な男性陣から片方では愛玩され、かつ誠実な男性陣からいくらかより嫌悪されながら、広場に定着度を高めていった。にんじんはるれシンパであって、広場男性陣へ向けて行われゆくいかなるるれの働きをも甘んじて黙認し、それどころか、レコナーがるれの風評等による広場治安上の不安などをわずかなりとも相談しようものなら即座に、レコナー派への攻撃行動を開始するといったるれ盲信ぶりもしくは偏愛ぶりなのであった。この為、側室構想が持ち上がった際、にんじんも候補にあがり実際にレコナー王からの寵愛を受けた。といっても、後発的に参入が決まったにんじんの側室内の順位は思ったより高くなかった為、嫉妬深い部分もある彼女はかなりの程度より不満で、半ばお仕着せの側室状態なのであった。なおこの場合の寵愛とは、広場でレコナーから優先的に構われる程度のものであり、肉体関係を意味していない。レコナーはるれについては、彼女が慕う兄を広場で見知っていたこともあり、側室候補からはずしていた。のちにるれはこの逆ひいき問題について却って彼女の博愛の胸中から悲しみ、レコナーの特殊な京都嫌いのせいであるとそしったりもした。
 その頃、愛媛は松山の文人墨客で通俗的な歴史小説を好むレコナーの同世代hoiti(ホイチ、ほいち)が広場にやってきた。はじめこそ独創的過ぎる政治論をぶつレコナーに批判的だった彼だが、次第に相手の人柄を理解して通常にやりとりできるようになっていった。他方、奈良の善男で遊女好きのてんちゃんが広場を訪れたことがあったが、レコナーは彼の穏やかで自然あるいは田園を愛する丸い人柄をほめたが、これはかつて旅行で訪れた奈良をも関西で最も優れた地域の1つであると考えていた為でもあった。つまりレコナーは奈良びいきだった。てんちゃんは、実はホイチと既往の友であったことが後に明らかになるが、彼らレコナー、ホイチ、てんちゃんそしてハシナオは同世代であるばかりか、ほぼまるで同年齢である。彼らをレコナー世代という。ホイチの方は、やがて病気の治療のため東京に引っ越したるれと広場で知り合いとなり、ホイチとるれ派は互いに親身な間柄となっていったし、てんちゃんものちそこへ参加していった。その頃、広場政治面で手持ち無沙汰になっていたハシナオも、るれの容姿に惹かれたのか、独身中年の東京男しかごうと共に、るれの写真撮影会オフへ現実において参加したりもした。このうち、しかごうはにんじんの密偵に対してるれへの下心を暴露したのでるれ一派から強く排斥されたが、ハシナオの方は劣等感や焦燥感といった彼の荒んだ心のうちをるれに打ち明けていくなかで、次第に当派閥の一員となった。

 ちーちゃん一派の到来

 yumenokuni(ユメ)はピグの方々に顔をだしていたが、あるとき喧嘩イベントと呼ばれる弁論術の大会から、ちーちゃん(ちー)と名乗る東京のヤンキーをつれて広場にまいもどってきた。ユメとちーは激しく口論し、一時的に広場は荒れた。そこに広場での暇をもてあますハシナオ(ハシ)が喜んで飛び入り、ユメを庇いながらちーへ恐喝をくりだした。ハシがちーへいうには翌日、上野にくるといいという。上野で現実に殴りあいをしようという。この脅迫に対してちーはハシの電話番号をよこせと応答した。二人の接戦は一晩中つづき、ユメはハシの背中越しにちーを罵倒しつづけたが、戦力というより野次馬に近づき、やがて疲れたのかハシを置き去りにきえてしまった。なぜハシが彼を援護したかといえば、以前に、新宿の思いで横丁で共に語り合った仲で、現実の知り合い以上友人未満と考えたからだ。ところがユメの友誼はハシからの片思いに比べれば、場合によっては薄かったようであり、以後のハシ・チー戦争を通じても己のみを案じはしても、ほとんどハシを庇うことはないのであった。
 ハシはなお、ちーとの問答無用の脅迫合戦に応じてちーの家へなだれ込んだ。レコナーはこれらを感知して調停部隊を送り、ハシのピグの部屋には大男、ちーのピグの部屋には監視役を入れてその後のしばらく事態を見守っていたが、やがてちーはハシが喧嘩に負けたと判定して騒ぎは沈静化した。これら一連の出来事を、ユメハシ・ちー戦争という。しかしちーは格闘家のごとく口論するのを好む人物で、これ以後、広場に定着する。この定着はじめの全体をちーちゃん一派の到来、あるいはちー到来という。
 その後のちー一派(ちー派)は彼女の出入りしていた喧嘩イベントから移民をつのり、やがて広場においてとつげき派と対立、第二の野党勢力となってきた。その中には大奥荒しであるが伝説を自称する神奈川は横須賀にいる謎の女すたぬー、大震災時の津波によって両親を亡くした中卒の両性愛少女にして兵庫男に抱えられた宮城の貧農・絆花(あつは、アツハ、きずなはな)、あるいは、のちに最大の有能者として政治広場史にその名を燦然と輝かすことになるが、東京は白金に住まう金持ちのお坊ちゃん・りおしが混じっていた。さらに、天使と名乗る大阪の富裕層の美女もやってきて、絆花へ同性愛者疑惑を打ちつけたり、レコナーと気まぐれに対峙したかと思えばホームページ製作や肖像画を依頼するなど、次第に広場は賑やかになってきた。ミキは攻撃性の高い天使をおそれつつ非常に嫌っていたが、レコナーは天使のツイッターを後に偶然発見し、その文才を賞賛した。いずれにせよ、彼ら喧嘩イベントからの流入者を総称して喧嘩イベント出身者または喧嘩イベ出身者、喧嘩出身などという。
 彼らは晒しというこれまでも使われてはきたピグ上の闘争手法をさらに洗練させていたり、詭弁術に長け、ついにとつげき一派と明白に対立するとその猛攻によってとつげきのツイッターを一時閉鎖すなわち非公開化するまでに追い詰めた。これはかつてふぐが試みて果たせなかった大事業であって、やり遂げたのは主にりおしの騎馬隊であった。りおし単独での成果だけでもめざましく、りおしはとつげきによる国民罵倒の癖を鋭く批判すると、とつげきの職場を探り当てて公務員職責違反としての苦情をいれたといわれる。これをとつげきの職場への公益通報、あるいはりおしの公益通報という。与党としてのレコナーは一連の出来事を広場にいて実力を確かめるつもりで見守っていたが、りおしの偉業を認め、彼を今後、広場の重鎮とするつもりである旨みずから申し告げた。りおしは山手人らしく折り目正しい人物で、この申し出へ誠実に応答した。以後かれは東京においても下層階級であるため心優しくとも礼儀作法に欠けるちーとの仲介役として、あるいは時に暴走をはじめるおつむに欠けた軍人気質であるすたぬーの制御役など、レコナー派とちー派間の情報ハブ役として機能する。さすがのりおしにも絆花は放っておかれているのが気になるが、その理由の分析は後の研究にゆずろう。
 ちー派はとつげきへ鋭意兵を送り夜毎に激戦を演じ、ついには細々いきのびていたホメとも激突した。この頃、ホメは広場民を日記やブログなどで週刊誌のごとくあげつらい名誉毀損をする晒しの手法を、ち一派から習得していった。その標的として新潟のうつ病を患った男性ぷちおくん(ぷちお)が槍玉となったとき、ホメは看護婦の資格をもちながら精神疾患を侮辱した為に職権違反としてぷちおは激怒、ホメとの全面戦争を開始した。レコナーはこれを見ながら、かつて自滅したホメを再度消尽させる好機会とみてぷちおの後方で事態の推移を見守っていた。ところが猪突猛進のちーはこの喧嘩をみて進んで飛び込み参加、ぷちおが実質的にちー側へ救援依頼をした為にちーはありうる限りの暴力をふるってホメを広場から追放した。これをちーのホメ討伐という。しぶといホメはこれ以後も広場へ断続的にもどってくるが、少なくとも一時的にホメ消尽に成功したちーの非常に強い攻撃力をレコナーは認め、さらに、彼女にお世辞をいいつつ以後協働での政治活動を持ちかけると、ちーはレコナーを敵とみなすことはなく、かくしてレコナー・ち一派での二頭政治が開始された。これをレコナー・ちー時代と呼ぶ。しかし、この二党体制には副作用もあった。
 広場の古参でベンチ組み最大の有力者であったまみーはそれまで事ある毎にレコナーへ情報提供などで進んで協力を惜しまなかった。彼女はちー派を荒らしと認定し、レコナー派にはちー派掃討を期待していた。ところがレコナーは、側室政治によってさえとつげき一派が完全鎮火されなかった政治経験からも事態を重く見、ちー派との共同統治を選択するつもりだとの旨をまみーへ宣言してしまった。これにはいくつかの理由があり、当時広場にいた愛知のアフィリエイター主婦そらちゃんやイトキチ一派の残党らが、まみーの古参集団と組み、ちー排斥の共同謀議をひそかにくりかえしていた情報をレコナーが事前につかんでいたからであり、即ちイトキチ一派再興の芽を摘むという安全統治第一の目的があった、とされる。他方、とつげき派閥の勢力はその時点で、具体的には愛媛南部の山奥から上京してきた田舎女・月兎(げっと、ゲット)とにゃこぶのみの構成で、複数の対立広場勢力からすでに野党として数が削られた後なので、さほど恐れるにはたらなかった側面もその決断に作用した。いわば落ち目のとつげき派と対立している上に成長株であった第二野党としてのちー派を、レコナー派へ敵対しないよう彼は調整した形になったのである。これ以降、まみーは第一次レコナー王政中期の二党体制に失望し、事実上引退してしまう。これをまみー引退という。
 ほか、イトキチ一派の残党を相手に奮戦していったちー派は、イトキチ最後の逃げ場として敢えてレコナー派が焦土と化すのを避けていたイトキチの巣2chを侵略し、論議不問で蹂躙していった。この結果、かすかに残ったイトキチ一派の残党勢は広場における権力のかけらをも失って、ほぼイトキチとモチタという2人の最古参だけに解体されると共に、ちー派は全古参から憎悪を一身に集めレコナー派を除く全広場民から目の敵となっていったのである。

  第八章 現代(西暦2014年終わり頃~西暦2015年)

 奇人Katsudonとレコナー院政時代

 レコナー・ちーの二頭政治は、もともと政治意欲が高いとは必ずしも言いがたいレコナーにとっての負担をへらす結果となった。しかも長年にわたる広場政治闘争で20代を終えこの頃30代前半となっていたレコナーは、かつての広場政治においての40代層の傲慢と無能ぶりを省み、できるだけ早いうちに彼より若い20代層以下に有益な経験をつませるべく、己の政権を委譲するつもりでいた。この隠遁欲はレコナーの地元である旧水戸藩域の世襲君主・水戸の徳川家が自家薬篭中とするもので、いわゆる水戸黄門がご隠居と尊称される事からも、レコナーは隠者アバターを新たに作り、ちー派のみで広場政治をおこなえる手筈と引退準備をひそかに整えていった。あるとき、ベンチで広場の平和ながらも活発な議論がおこなわれている政情を、相棒にして恋仲のミキと茶をのみながら眺めていたレコナーの元に、レコナーにとっては幾分迷惑な大阪のレコナーファン女・こはるのサブアバターにみえるKatsudon(カツドン、かつどん、カツ丼)がやってきて、なにやら発情のようなことを述べだした。このカツドンと名乗る怪人はのちにレコナーの部屋でなぜかイトキチを自称したり実は男性であると豪語するなど奇妙奇天烈な人物で、しかもレコナーのもとへ足しげく通うやコミュニティ申請までして付きまとうのであった。ミキもはじめは、カツドンがこはるのサブではないかと考えていたが、次第にカツドンが北海道の孤独な大学生女子であるとわかってきた。なお、カツドン自身の証言によれば彼女の容姿はいがぐり頭で愛嬌のある顔つき、喜劇的なところのある俳優、えなりかずき似であるというのだが、その真偽は不明である。
 この頃はじまった新たなピグゲーム・ピグブレイブ(ブレイブ)のベータ版において、カツドンは可愛らしい女子アバターで「レコナーさん」と彼を慕い、協力プレイを続ける間つねに女子らしかった。かつ、しばしば語りだす身の上ばなしの断片をパズルピースのよう結んでいくと、とどのつまり、次のように結論されている。彼女は医者にも精神疾患と疑われるほど性格にいくらかおかしいところがあり、しかも大学1年生の間だれとも会話しなかったほど友達をつくるのが実に下手である。また平凡なバイトをしながら暮らしていて、自立心は旺盛、レコナーを攻略する恋愛ゲームを構想するほど彼が大好きなおてんば女子大生ではないか、とこのように政治広場史上考えられてはいる。他方、レコナーは私生活において将来、彼のアトリエを建築などの設計事務を司る中規模組織にしていく夢をもっており、もし実現すればだが、しばしばレコナーを裏切るなどあまり信用はおけないやんちゃなこの子娘を雇う構想などを冗談まじりに交わしたりもしていた。こうした第一次レコナー王政後期のできごと中で、広場の治安はきわめてよく、またちーを適宜采配するりおしの無比な有能ぶりは確かであった。しばしば軌道を失うにんじんが発表席近辺で荒らし行為を働くほかは、政治論をした試しが一度もない政治素人軍団のるれ一派であったが、その最上位役であるるれへ広場でレコナーが直接、できるだけ30人が満場の当広場に政治関心者らのための余地をあけるようにとそれなりにひきしめた口調で教え諭したことがあった。これをるれへの説諭という。以後、るれ一派のうち上司のるれが広場を避け下火となった頃合いで、レコナーはアバターを隠者に乗り換えた。レコナーはりおしに、以後の広場統治を基本的に委任すると述べると、ベンチや発表席で時折広場を見守るのみで広場政治には直接関与せず、若い世代が実権をとるレコナー院政の体制を執った。これをレコナー院政時代と呼ぶ。

 哲学部

 当面の広場政治から隠退したレコナーは、みずから哲学部をつくり、この部室に京都北部の出身で大阪の大学生DKやゲーム製作の専門学校を卒業した福岡の青年Mr(ミスター)、ミキ、ホワらと篭もるようになった。この時代、レコナーはしばしば広場に立ち寄ると、りおしらに忠告を与えるほかは広場政治にほぼ直接関与をしなくなった。かつての側室ユークや、新入りカツドンは哲学部に必ず参加したがり一時は、レコナーも彼女らを参入させたが、内部でりおしと小競り合いの喧嘩をはじめるユークや、DKとレコナーに非礼を働いて議論を駄目にする傾向のあるカツドンは数度の退部をへて、部員になったり辞めさせられたりをくりかえした。この間、レコナーとはじめて出会った頃は、悪に満ちた世間への憂いから悲しみにふけり塞ぎこみがちだったミキも、徐々に元気をとりもどし、特にブレイブの正式版が開始されると共に、みなと協力して生きることにも少しの生きがいをみいだすようにさえなった。ミキの人生において生きる意味は、俄然レコナーを愛することであったが、これを広場でしばしば眺めていたかつての側室にんじんは、るれを通じてレコナーへの想いを打ち明けた。また、時は微妙に前後するがあるとき広場において「政治広場新聞」と名乗る報道記者が現れ、広場民らの分析論を記事にしていた際に、これをipad(アイパッド)越しに見知ったユリは別名で哲学部に入り、レコナーらと接触した。ミスターは予てからユリが気に入っており、思慕すらしていた為これを大変喜んだがそれは束の間で、レコナーが発表席で新たに構想した水戸皇国論を述べていたところ既に京都という平安時代同然の保守風土になじみはじめたユリは突如激昂、となりで聴いていたミスターも呼応してレコナーをそしりだし、ここにミスターは哲学部から退部の運びとなった。実のところユリは引退前に、愚痴広場へ結婚報告にきており、ここでたまたま会ったレコナーはレコナー王政前夜のクリスマスにナオから誘われてユリがレコナーの部屋にやってきて憩うと、酔っていたユリからベッド上で迫られたりした懐かしい思い出を語り合いながら、実は女性としてもユリは魅力的であるとおもうと世辞をしていた。これを突如思い出したユリは、広場においてレコナーへ反動形成もどきの揶揄をしたのであったが、直後に再び彼女の病気がちの夫の看護を目的に、京都の旧態依然な公務員世界へ帰っていった。
 DKが哲学部にてレコナーはじめ部員らへくりかえし述べるところでは、日本は病んでおり、人々は鬱の傾向であり、戦後のアメリカ教育がもたらした個を弾圧する教育がその原因として考えられるという。レコナーは彼の論旨に一定の理解を示し、また彼を含む部員らと多くの議論を続けるなかで、皇室の根源的な立場は実は侵略者を超えずその支配権は仮のものであること、これは現代の先住権と呼応する趣旨ではあるが、かといってサヨコが主張するよう皇室を処刑するよりは、むしろ徳川家のよう一般法人化して財政から切り離す方が文明的対応であることなど、次々に政治論上にもわたる新たな思想を生み出していった。哲学部は現代日本思想の配電盤の役割を果たし、話題不足になりがちな政治広場へ絶えず新たな情報をもたらす理論的支柱として、或いは人類社会を変革する定点として有益な役割を舞台の陰から演じ続けた。ところが、カツドンは哲学部でしばしば問題を起こすため部室より強制的に追い出されているあいだ中、政治広場にたむろする時が多く、レコナー院政はかつての彼の王政時代にくらべ退屈だと感じるようになっていた。しかも、カツドンはりおしの知的過ぎる理詰めの論難に情緒的反発を感じやすく、りおしとちーの二頭体制で支配されていた広場政治へ次第に不満度を高めていった。この東京陣2名による一時の体制をりおし・ちー政体と呼ぶ。また、にんじんがレコナーへ想いを寄せていた上に、しばしばユークもこの政体への不満分子に加わっては密かに水面下で燃え滾るレコナー再選運動を起こし始めた。るれもまた、レコナーが彼女の兄におもんばかりすぎ、広場女性陣ではことさらるれを避けて彼女へ寵愛をおこなわなかった過去をまるで差別を受けているかのようで悲しく感じていたことから、広場へのレコナー復権の動きにるれ一派もほぼ総出で加勢する運びとなってきた。

 レコナー第二王政

 広場の古参はちーあるいはちー派への憎悪をもともと募らせてきた折であったから、事態はいやましに切迫してきた。この頃、レコナーの父が病気で臥せり、この相談にちーやりおし、ぷちおくんらちー派の上位層らが乗った為、レコナーとちー派には再び恩義の念が生じ、やがてレコナーの部屋にやってきたちーは広場の最近の状況をぽつりぽつりと打ち明けだした。ちーによれば、最近の広場は過疎化し始め活気がないという。レコナーは若い世代が十全に力を発揮していても彼の王政時代より覇気を持てない事に残念さと、複雑な嬉しさを覚えながらも、読者には信じがたいことかもしれないがその場でちーがレコナーへ媚態を示したところから彼女を寵愛しようとした、と政治広場史の副事件上にされている。これは、レコナーにとって第二次レコナー王政の開始に際してちー派の掌握を目指す目算もあったとされるが、単に広場政治から長年遠ざかって色ぼけしていたともいわれる。が、当史の記述ではこれこそなな時代に見知ってレコナー王政の絶頂を支えた色仕掛け戦略そのものであると結論する。いずれにせよレコナーへ自ら言い寄る通り肉体的な愛慕をさえ感じていたちーは、実のところ性についてはおくてで人形劇上にさえこれに応える勇気もなく、この彼女が目の前にしている願望どおりの振る舞いをするアバターはレコナーの成りすましによる陰謀である、と断じてその場をふりかえりつつ立ち去るしかなかった。これをレコナー邸での情事、あるいは単にレコナーとちーの情事、情事などという。ちーは必死にこの情事をリベンジポルノ犯罪仕立てにちー派の立場を維持しようとしたがとき既に遅く、この情事以後、レコナーは第二王政を開始、レコナーに抗う意欲を殺がれたちー派を内情で身内としつつ再び、哲学部で獲得していった新政治理論を片手に広場を駆り立てかつ盛り上げていくことになるのであった。これをレコナー復権という。
 広場へ積極的に復権活動をおこなったレコナーの第二王政時代前期においては、広場上のほとんどの争いごとは未然に防がれ、また古参のホワと最古参ホメ・モチタ(だんご)が確認する以外はイトキチによる2chでの誹謗は完全に無視され、かつての時代とは段違いの平和が維持され続けた。政治論も活発におこなわれ、特にいちご姫の躍進はめざましく、毎晩かれは得意の人種差別批判によってネット右翼とみなした相手に論陣を張るのであった。その代表的な論敵はあの元女王オデンヌであったが、いちごとオデンヌはまるで兄妹漫才のよう毎晩左右の翼を羽ばたかせ、広場をにぎわせていた。広場の伝統芸能で場はほぼ満たされ、第一の芸であるホメ・モチタの舞踊を通奏低音とし、第二の芸であるごま・ふぐの剣術はごまさぶれの登壇後にしばしば起き、第三の芸であるとつげきホイホイの喜劇は今では月兎とにゃこぶが交互にとつげきに媚を売り、殆どこれらの芸人たちは明らかに、第二王政中のレコナー派と、広場民を楽しませる目的でそうしていた。こうして書くとすべてが丸く治まっていたようにみえるかもしれないが、ただ一人、絆花だけが一般的天譴論、つまりレコナーが絆花の乱行を眺め「悪さしてると天罰があたるぞ」と説教したことについて、怨みによる晒しを軸に、レコナー王政へ反逆していたのであった。
 こうして第二レコナー王政後期はりおし並びにちー派の協力を経て完成度を高めていったが、あるとき、るれとにんじんは誘いあわせてドラゴンネストと呼ばれるインターネットゲームにレコナーを引き入れた。ここには既にかっぱ(ユキハマ)やホイチ、カツドンらがおり、ミキを参加させることにしたレコナーと彼らはしばらく美麗な仮想空間内で、敵である化け物ら相手に共闘して遊んだ。このPCスペックを必要とする3DゲームはミキのノートPCには負担が重かったので、やがてミキは辞退したがった。るれとにんじんは大変残念がったが、彼女らのレコナー勧誘の主要な目的の1つはにんじんが好きなレコナーと共有の遊びであった。そのときログイン回数が激減していたちーやその派閥すたぬー、絆花らがいなくなり、かなり孤独に陥っていたりおしはこれらを見知った。途端、彼は別の低スペックPCでも遊べるネット上のすごろくゲーム・牛筋はんたーを持ってきてミキを懐柔、関西弁のうぶ芸人・ぼっちと共にレコナーを同りおし陣営へひきもどすことに見事成功し、るれ一派のレコナー独占あるいは懐柔策は失敗した。はじめから色々な派閥に顔を出すカツドンにより、生理的とすら思われる嫌悪を受けてきたりおしだったが、ハシナオによる約束破りへの報復などの振る舞いを通じて、るれ一派内での敵愾心を次第にあおってしまった。これらのりおし嫌悪の背景には、しばしばノルウェイの淑女INNO(イノ)ら外国人相手にみられる卑猥な発言をおこなう癖がある故か、あるいは喧嘩イベント時代の攻撃的な残り香の故かいくつかの理由が考えられはするが、それは本筋からそれることもあり詳細は名著『りおし解析』(2015年現在未刊)にゆずる。政治広場史の立場からすればりおしは実に有力な人物であると同時に鋭敏であり、これらるれ一派の火種が炎上するずっと前に問題の芽とみたら先んじて摘む行動をとってきたが、るれ一派が再び同様にブレイド&ソウルのネットゲームをレコナーへ誘い出すに際してもその広場上の孤立を避ける方法を彼は模索し続けねばならなかった。これらの平静な世における20代から30代前半らを中心とした広場ないしそこで起きた一連の出来事を、総称してレコナー第二王政あるいは第二次レコナー王政と呼ぶ。

 2つのコミュニティと共和政

 レコナーはてんちゃんとの出会いによって、てんちゃんと共通の趣味である音楽のコミュニティを構想、ユーチューブの音楽を紹介しあう通称・ユーチューブコミュニティを構築した。この創立当初にるれ一派を編入させたことから、また厳格な会員制をとっていた哲学部に対しこちらはゆるやかな共同をめざしていたことから、ユークやカツドン、時たまではあったがハシナオらを含めた共有空間とこの部室はなるのだが、そこをるれとにんじんが大部分、彼女らの自主的な寄付によって建築設計しレコナーが最終調整をした事が政治広場史の文化項目欄に挙げられる。この部室はレコナー第二王朝の文化庁から建築賞並びに、民間の広場文化協会からは名喫茶賞を得た、といわれている。実際、しばしば煙草か何かの煙をくゆらせるてんちゃんの憩う姿や、ユークのいねむりなどがみられ、20代広場の外国人らも集まって一種の文化サロンとなった。また、るれ一派はひみつ警察などの私的コミュニティにホイチらを引き込み、意図するしないにかかわらず危機からの隠遁所として機能させることで、なな時代の禁断の仮想体操コミュとはうってかわって、広場政治上の衝突はたくみに避けられていった。
 さらに、レコナー第二王政ははじめダルマ愚痴王やかっぱ軟派王に全広場統一を宣言し、ことさら愚痴過疎化に悩むダルマには王都レコナーとの合併構想を持ちかけたりした。が次第にレコナーは与党権力としての絶対主義を解きだし、結果として広場は残る野党のるれ一派、ちー派、とつげき一派、そして解体さればらばらになった古参を含む無党派らとの共和政の様相を呈し始めた。というのも第二王政中のレコナーは内乱がほぼみられない治安以上を目指すには民度の向上が必要、とはっきり意図的にそれを目指し、絶対王政による厳格な統治方式より広場の盛り上がり度を最優先していた。こうして多党から内々の支持を得たレコナーは、なお主として彼の見守る広場を新規流入者に寛大な多様化と、知的議論のおこなわれる時代としていったのである。政治広場史は今後も続くが、わが筆はここで擱きたい。(了)

付録『政治広場史年表』(画像クリックで拡大)