2022年2月2日

日常語定義論者

アメーバ・ピグとかいう場所に、とつげき東北とかいうやつがいた。

 こいつ、心底いかれてる様な感じで、日常的に偏差値信仰による学歴差別とやらをまき散らしまくっていた。あまりにその言説による人間性への毀損がひどいので、すこしでも良識をもった人は彼がいかれていると知っていたが、そうでなく、だまされやすい人々には彼のもっている教育差別が彼個人の生い立ちによっていると類推できずにいた様子だった。
 彼のホームページまで辿るといろいろ回顧録じみたものがでてきて、彼がこどもの時点から教育ママとやらに学歴信仰を植えつけられたと告白されている。様子だった。なんかファミコンのドラクエを買ってもらえず勉強だけやらされたので、ずっと脳内でプレイしていたらしい。しかも兵庫県の教育体制は学力別で進学先が決まらないらしく、そんな経緯でも彼は段々その神経をこじらせ、遂には学歴差別主義者になっていったらしかった。

 彼個人がおとなになっても延々と受験偏差値教をまきちらしつづけているのは、客観的にみて実に憐れでもあるので、自分は最初からなるだけ一定以上の距離をあけかかわらないようにしていたわけだ。なにしろそんな逸脱してしまっている人間にどんな忠告も届きはしまい。それどころか学歴信者がなにかを信じるとしても、それはモギケン信者のとある横浜主婦レベルに、受験偏差値の後光によらなければならないだろう。つまり、救えないのである。

  しかしここで書きたいのはそのことではない。救えない人についてなにを書いたところでだれも救えないし、きっと救われもしないだろう。人類史の誤ってうみだした絶望的性質について深く知ったところで、その人の人生に暗い影を投げかけるか、さもなければ社会学者が興味深い検体にするだけだ。

 ちなみにとつげき東北というニックネーム・筆名は、兵庫から東北大学へ進学できたことを誇りに思ってつけたらしい。

 このとつげきというやつは、とかくなんでも「定義」をするよう押しつけて回る、それに異常にこだわる、など、ほとんどすべての言動自体が奇矯であった。ただ、その奇妙さが、興味深い方面への変異なら私も観察がいがあったが、ことごとく凡庸な稚拙さへのあやまりなのだった。

 かれがそこまで「定義」にこだわるのは、いわゆるユークリッド幾何学的公理系を模範にしているかららしいのだが、それが現代の通俗的な科学論文で均された感じの妄念にすらなっているらしく、要は学術用語を「定義」してから会話せよ、と言い散らしているのだが、どうみても日常会話でそういっているのである。日常会話でつかっている日常語について、いちいち「定義」してから語らないと馬鹿とみなすなどとほとんどの男性らへ罵倒して回っていたのである。
 いうまでもないが、実態は、とつげき自身に語彙力がないだけだ。
 このとつげきという人間は同時に、女には性的価値しか認めないと公言するなど、あきらかにサイコパスでもあった。そのうえ、上記「定義」論だの、根源的にいかれた事しか言わない。言えないのだろう。結局それらをすべてみていると、地頭に問題ある場合どれだけ教育を与えても、新たに迷惑な人をつくるだけ、とわかって、その限界と無意味さに絶望できるのだった。