2022年2月1日

人を常に目的としてのみ扱うべき無条件の自律と、自分が創るそのゲーム的実質界

なにかゲーム、ことにオンラインゲームにはまっている人をみていると、その無意味さには驚く。彼らは自分がやっている作業になにか価値をみいだしているが、その外に生きている人にとってはまったく無価値なことに時を浪費しているからだ。

 ある人の生涯が有限であれば、その様な作業をくりかえした人の一生はおそらくみじめな事だろう。

 仮想界、メタバースという表現を造語し、これまでもゲーマーが生きてきた価値を拡張現実として金儲けの場にしようとしているのが「メタ」と称するもとフェイスブック社だ。将来この文を読んだ人には、すでにその会社がどうなったかしれているかもしれない。
 自分は特にアメーバ・ピグという仮想界についてはかなり深入りして生きていたことがある。それは義務があってやむをえずやった。当時のことは大まかに『政治広場史』『さと事件史』『続アメーバピグ史』その他「アメーバピグ史」分類の史書関連にまとめてあるので、このブログを探せばでてくるだろう。結局このサービスは、サイバーエージェント社が、フラッシュというアドビ社の技術サポート終了とともに新たなしくみにきりかえずに基本おわった。そんなものなのだ。メタヴァース。すぐおわる。すぐ消える。そんなものに命を費やした人達って、どうなるだろう。

 自分の場合、たしかにアメーバピグから得た情報量はとても大きかった。それはいわば先駆けで、世界中の人々とやりとりできたからだ。
 たしかにたしかにたしかにメタヴァースともあろうものは、軽く場所はこえられるので、地球中、あるいは宇宙中のひととも、電波や光信号など通じれば瞬時にやりとりできるかもしれない。というかできていた。だからとても有効なものでもある。しかしそれは、ゲーム内の価値づけによるのではない。つまりは人を目的としてあつかう人格主義によるのである。

 ところでユーチューブの講義シリーズやツイッターの返信では先にいってみたんだけどここでブログ内文面でも発表しておくが、自分はカント倫理学の定言命法(絶対の命令)をさらに進化させ、「人を常に目的としてのみ扱う」無条件の良心にしたがうことが、本来、無条件の自律だと考える様になった。カントさんの段階では、『道徳形而上学原論』に於いて、「人を時に手段としても扱う」仮言命法(架空の命令)が容認されていたと思うが、自分はそれにうなづかない。だってね、もし手段としても扱っていいなら、人はほどあれ奴隷化されるからである。

 こういうわけで、自分はゲーム内の価値をつくって、特にオンラインゲームことオンゲにひとびとをまきこんで、そこで搾取する系のめたヴぁーすにはだいぶ悪質なもの、という経験則をもっているのである。なにせ僕はゲームクリエイターになろうとしてきている。なんだかんだいって。小4の頃の文集に、自分も自分が救われたゲームクリエイターになって子供に夢を与えたいと書いたのである。そこからみてもだ。
 だからこう結論づけられるだろう。人を目的としてのみ扱うべきゲーム界、遊戯界、電脳界にあって、オンゲであれオフラインゲームことオフゲであれ、ネット接続オン・オフどっちでもやれるゲームであってもだ。人がそこで課金対象として扱われている状態って、まったくこの世界を地獄にすると感じている。だから僕はなるほど、ゲーム界の救世主みたいな者になりうるのではなかろうか? それに気づいてる人ってほとんどいなそうだからだ。いや、かんがえてみると、僕ははたち頃に将来の夢は神になることだった。いまもそうだ。とすると、自分はやはりクリエイター、創造主のごとくになりたいのであろう。結局それって、いま書いた様な意味で、こどもだのゲーマーだのその他一般人だのを、メタ的・上位認知的に搾取対象にしない仮想界をつくりだすこととほぼ一致している様に思う。

 そこでは人は常に目的としてのみ扱われる。そうでなければならない。

 ちなみに、仮想現実って言葉、仮想は誤訳というかある種の意訳で、実質現実というのがヴァーチャル(virtual)の原義でしょうね。徳の意味のヴァーチュー(virtue)からきてるんだから。