2022年2月16日

ほどほどのアホさが世のひとびとの実態

さっき気づいたんだが、もしかしてこういうことか。この世はアホにとってほどほどのアホさで埋まっているので、自分はなぜ世のひとびとがそんなにアホなのかずっと疑問でしょうがなく、かれらは自分へいつも何か嫌がらせしてくる傾向もあるんで、自分はほぼ大抵かれらに大迷惑だなと感じてきていたが、それって、かれらがアホといっても適当なアホであることに原因があるらしい。
 これを脳が勝手に証明問題として解いていた。と、お決まりのごとくユーチューブのラジオ講義でいってみてたけど、僕はそういうことがあるのだ。勝手に脳が何かを解いているらしく、バックグラウンドで。PCでたとえると。そんなアプリある? 僕の脳なのだ。勝手に問題解決が完了しました、とかいって答えが出てることが頻繁にあり、しかも寝てるとき特に全力で解いてるらしく、起きたら解決してることがままある。ままどころか須らく多い。頗る。多い。

なんでよのなかのひとびとは適当にアホなのか?

 たとえば村上春樹を内田樹がべたぼめしてたり、「僕たちの大好きな村上春樹」とかいうムック本には、僕は引いたことすらあるけど。むかし。むかしも。あと綿矢りさをモギケンが「世界一のアイドル文芸」ともちあげたりしてるのをみて、強烈な違和感を僕は感じるわけだが、違和感というか正確には「は?」感。

 は?

 で?  っていうスタンス。

 こんな貸し出しですよ。書き出し。かきだしってかこうとしてなぜか貸出って書いたからそのままにしておくけどなぜか。

 でっていうスタンス。

 こんなですよ。ふざけた文芸である。そんなのを世界一という。モギケンって脳科学者の脳不摂生にあたいしねーのだろうか、そんなせりふを残して。可哀想にすらなってくるわけだ。内田樹もさ、神戸のよしみにもほどがあるよ。うちの村の偉い作家さんやでー的文脈以外なにがあるのだろうか。冷静におしえてくれ。

春樹、綿矢、漱石、芥川の文体比較

 で。春樹とか綿矢とか当然作品はひどい。読めたもんじゃない、特に後者は。僕にはね。ひとによるでしょ、それは。僕にはそうなんだ。で、その内容がひどい。ことさら。下品で。そうじゃん。俗の世界だよね。書いてるのは。
 文体はまぁいいとして、その文体のことについて多少詳しく書く。内容についてはもういいだろう。ひどすぎるので。汚いものにくりかえしふれる必要はない。
 で文体、かれら特にどっちも癖がつよくて、そのアクが僕にはおえっとなる、吐き気する様に気もち悪いこともあるので、大して良くはないだろうね。特に前者は文字の開閉が変なのがいやだ。漢字で書けばきちんとした表現になるところでわざとかな文字にしてあったりする。そういうのが気になる。あとからよんだひとが辿れなくなったらどうすんだ。漢字に。当人のなかではいいことになってんだろうけど。つまり読みやすさしか考えてないんだろうね、あんま。あと後者はなんか編集者に手直しされてるのか臭く、わざとらしい教科書っぽい文体なんだが、内容があいかわらず下衆すぎるのは当然ながら、ハッていうスタンスとか痛々しい。傍ら痛い。なんかね、いたいたしいのだ、いろいろ。あのさ、真面目な文芸でそんなの書かなくていいよ。「私は心が痛んでいました。とても。でもそれは気取った私の勘違いでもありそうな感じでした。私はため息をついて、授業をうわの空で聞き、窓の外をみるともなく見ました」みたいなのの方がどれだけましだろう。一見生真面目っぽい文体で、内容が下品だから気分悪いんだと思うけど。教育とのギャップなんかね? もともと下品な心、てか、すれた心が教育されたらああいう文章書きそう。だから嫌いで読めたものではない。僕にはだよ。

 文体ってさ、人格だと思うよ。文は人なりで。字も、かもしれんけどね。
 私は文学大好き人間なので、文体には、おそらく人類でも指の数かオバQの髪の毛の数に入るのは確定、そのなかでも1位か2位くらいには厳しい。好みがね。僕より文体の好みに厳しいやつをみたことがないから下手すると1位になりかねぬ。ちなみに全人類の過去の全世界史単位でだ。標本単位がそれだけあってもみたことがない。それだけ文章が好きなんでしょうね、か? いるのだろうけど、もっと文章が好きな人って。汗牛充棟を防ぐための工夫していても部屋がすぐ本で一杯になるぅ。テイスティングのプロにきいてみろ。毎日読んでんだぞ休みなく、僕なんて。子供のころはそこまで大読書家でもなかったがそれなりによんでて、『ノンタン』類からはじまり『ずっこけ三人組』シリーズとか。『ルドルフとイッパイアッテナ』とか。15歳くらいからは異常な大読書家になった様なもんだ。うちにおばあちゃんの日本文学全集も一応あったが、だってさ、毎日大量に読んでてあれがいいとかこれがいいとか判断しつづけてるんだよ、楽しみで。22年分。それだけの時間あったら、人工知能だとしたら凄まじい量の学習してんだろうけど、文体のよさについてなら僕の方がしてるという。そうだとおもうよ。AIに負けるとはまだおもえないので。過信かもしれにゃいが。
 だからね、僕はよい文をみつけたら宝物をみつけたみたくすごく読みまくる。より精確にいうと。僕の近所の浜辺でめいっこがキラキラ輝く貝がらを沢山みつけてひろいまくり、さも大切な宝物のきわみみたいな感覚値なのは明らかな様子で、それをくれた時くらい。しかも楽しみで。ブログとか。いいのみつけたら全部読むのが基本という。

 文体がとってもうまいのは漱石と芥川だから。みんな。これは事実。よみやすく、整っていて破綻がない。ただね、かれらにも固有の欠点はあるけどね。 特に漱石のほうは遊びの当て字がおおすぎ。だからそのままおぼえちゃうと、あーこれ漱石に影響されてんな、とわかってしまう様なのがある。巫座戯るとかね。ふざけてるよ、まさに。そういう言葉遊び部分がね。当人的には楽しんでやってたんだろうけど、ただ読む人を択ぶ。ある程度修辞に達してないと遊びだということがわからないのである。芥川のばあいはそういう破綻がまずない。つまり、芥川が一番日本語としては立派そうではあるが、今度は時代がかった擬古文とかで作品世界を表現しようとしてる場合とかがある。『羅生門』とかそうだったとおもう。逆に文体づくりうますぎると捉えられなくもないという話で、近現代の和文の基本をつくっているのは漱石の文体ということになるだろうね、ここでは良い意味で教科書的で。もっと遡ると『平家物語』だろうけどね。漢字かなまじり文は。それを口語体にしたのがかれらの一つの為事でああった。まる。
 なお、内容はまともな弟子より、漱石のがよっぽど微妙。てか新聞連載の通俗小説だから面もありそうだが、今の時点からの人倫観ふくめ、冷静にみてだいぶ陳腐なほどではあるのであろうが。情事系の発狂でしかも自殺とか裏切りとか、不穏なのが多いね。

ではなぜかれらはアホな文章をかいたりほめたりする?

 でだ。僕は春樹とか綿矢とか嫌いだからもう読まない。それは僕の自由だ。だが内田とか茂木とか謎キャラってなんなの? っていう疑問をずーっとバッググラウンドで、脳のなんかのアプリだかソフトだかが問題といていたことはすでに説明しましたが、その解決済みのこたえをみたらこうだった。
「世のなかにはアホが大勢いる。だがアホにもっとアホなことをいってみろ。今度は『そんなアホな』といって、自分のアホさはまだましだみたいなことを言うに違いない。それってぇのは、かれらときたら、自分がほどほどのアホだってことに自覚がねぇでやんす」
というものであった。分かり易く読み解くと。ま、僕にしか読めない文体で書いてあるから、これは「でやんす系」の超訳だけど――でやんす系とは? 雨情の普段の口語文体を知らないとわからない特殊領域。当ブログ記事『ほどほどのアホさが世のひとびとの実態』内の造語。もとのこたえは文体っていうか直感的気づきなんだよ、だけどね。