2019年1月1日

私の理想画について

西洋の絵画史は写真が出てきてから、何かを模倣するというプラトン以来の役割が破綻し、そこで抽象画というものがでてきた。つまり何かをまねしていない、絵にしかできない表現を、近代の画家は探求するようになった。第二次大戦があって多くの西洋の画家がアメリカに行ったころ、そこに抽象画の主要な人達も移動し、特にモンドリアンという人が抽象画の中では一番単純な方法(つまり、一番絵らしい絵)にたどり着いていた人だったが、彼はニューヨークで亡くなった。この後、アメリカでは抽象表現主義と呼ばれるようになる、多くの抽象画の絵描きが生まれた。
 ほぼ同時代にアメリカは庶民が中心の国なので、卑俗な広告とか漫画とかを美術として捉えなおすという、ポップアートという運動があった。
 多くの現代美術家らもそこに乗り抽象画を否定するような、ポップアートをまねるような(スーパーフラット概念を含む)手法で作品を制作しているわけだが、私がいいたいのは、この抽象画の伝統の方が、本来の絵の伝統を継いでいる、正統的な表現で、漫画とか広告とかは、写真的な要素とか、何か現実にあるものを線描でまねた要素が入っているので、真の抽象画、つまり真の絵ではないということだ。
 画家は絵画史の伝統を背負って、次世代にひきついでいく立場にある。絵の本来の役割は、ある理想を視覚的に表現し、人々に何かを伝えることにある。すでに現実を写実的に模倣するという役割は写真で行われるようになったので、絵は主に、理想を直接表現しなければならない。つまり絵は純粋に絵画的な要素、何も模倣していないような色の面とか、色自体とか、ディスプレイ上の光そのものによって、ある展望を示さねばならない。それは私が描いているようなものでなければならない。つまり未来都市の展望だったり、現実の中にある、心象風景としてのみ捉えられるような美のかけら、幸福に関する認知能力を強化するようなものとか、世界を美的に見直すような視座だったり、ほか、理想的なものでなければならない。