ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、ティクトク、ユーチューブ。この数年で出てきたおもに米中のSNSは、「いいね」又は視聴回数(Page View)と呼ばれる他者の反応を報酬としている。その意味でこれらは本質的に、他人にこびへつらうしくみの上でミーム競争させられているといっていい。
なぜそうなっているかだが、SNS運営会社の方は、いいねなどなんらかの肯定・否定的反応を伴う視聴回数に広告をのせ、金儲けしたいからだ。それだけ。他に理由はない。色々会社によっては言い訳をくっつけているが、ミクシーのよう客が離れたら存続できなくなり、別の金儲けに逃げていった例すらある。
SNS上の表現はその意味で、大衆消費へ徐々に最適化されていく。ヒカキンが代表者で、小学生にさえわかり易い全年齢向け表現をとって莫大な視聴回数とそれに伴う金を稼いだ。
裏を返せば、どれだけ偉大な内容でも視聴回数を稼げない隙間表現は、SNS運営会社にとって余り重要ではない。
これが現在までのSNSの根本限界で、視聴回数至上主義が悪い面に出ている。だからユーチューバーもティクトカーも、より低俗になっていく淘汰圧がかかっている。
不義にして富み且つ貴くとも時代の荒波はかれら、俗受けネット芸人を浮雲の如く消していく。
人は目先の金より至善に留まるがいい。
長い目でみれば、良質なミームだけが残る。これは重要な点だ。だから自分の知る限り『源氏物語』は消えて『平家物語』が残る。この両者は今の所、趣味の劣る人間によって前者の方が有名みたいになっているが、中身の立派さでは完全に後者に軍配が挙がる。私は前者に呆れたが後者では感涙したほど違う。
世人は、例え名門大の教授みたいな地位にある者も、大概全部が馬鹿である。寧ろ科学なんて殆ど間違いの塊(疑わしい仮説の体系)といってもいい。勿論これは私の知的水準なり虚栄心が高すぎるからダニクル効果でいってるんでなく、唯の事実である。学問は総じて進歩し過去の劣った質はぬりかえられる。
2020年2月29日
和人衆愚のご都合主義
こいつら普段は魅力度最低だ田舎は黙れだなんだの差別しかしてこない極悪衆愚の分際で自分が学校給食キャンセルで廃棄には勿体無い食品を只でオマケに貰えるとなったら手のひら返して「流石日本人」とか自分に都合がよければ仲間扱いで普段は悪意の塊で悪業三昧してくる本当に汚い連中だよ和人衆愚って
武士道一つならず
自分は2人ほど、関西人で先祖が武家自慢する人と(ネットで)会話したことがある。
そのどちらも、現実では品位にもとること甚だしい人達で、自分が堕落した人間だと知ってかしらずか、自己正当化の最後の言い分に、先祖が武士だったので自分はおちぶれても高貴なのだといいたいらしかった。
勿論、没落貴族なんてよくある話で、皇族閥なんてほぼ確実に天皇家継げないんだから全部それに該当せざるをえない。身分差別の限界がそこにはある。
だが私が彼らに感じた問題はもっと、遥か根深い。今からできるだけ分析する。第一に自分の為にだが、別の人が読んでも意味が取れる様に書く。
自分が彼らに感じた大変な違和感と、彼らの遣る瀬無い卑しさとはとても混雑している上に複雑なので、糸口から一個ずつ紐解いていく必要がある。
先ず自分の国、今でいう県からいえばこの地は武士の起源から最後の将軍までを持っている。最初の武士は新皇と称した将門、最後の武士は慶喜公だろう。
途中では歴代幕府や戦国覇者も幾多いたし、名君もいた。ここで出自し各地に散らばっていったが、元々坂東武士と呼ばれる人達の出現率が極めて高かったのが私の生まれ育った県である。身近に色々な文化風物も残っているし、そもそも彼らが根にどんな気韻をもっていたかも体験的に多少あれ知っている。
彼らは雄々しく猛々しく、時には天皇の悪政に反旗を翻し正義を貫かんとし、時には感慨深い徳政をし、時には刑罰で村ごと虐殺し、時には天下のため諫死し、時には大義の為に刀を納め自己犠牲した。数え切れない逸話の中には私の心を育んだ悲喜劇があり、単に表面的な制度などで到底語りきれない人達だ。
つまり、私、もしくは我々にとって、武士は制度ではない(広義で関東人、あづまびと、東国人にとって、といってもいい。但し近代以後の東京圏は、天皇家ら関西からきた人達の気風が混じり中華思想に驕っている節があるのでもはやそんな意識も喪失しているだろうが)。
武士、モノノフとは人間性だ。
すなわち坂東武士は、関西地方の皇族や公家の世界と違い、血統による差別とか、身分制など存在しないに等しかった関東平野から出現し、荒くれ者たちを力や徳でまとめ、近畿と称していた関西地方からの悪政や、浅ましい差別的待遇を自力で覆してきた人々である。彼らの集まりを我々は幕府と呼んでいた。
また、広く日本で「侍(サムライ)」とは時に美称で、例えば日米野球界で愛国英雄的な活躍をみせたイチロー等にその名義が与えられたりする。『平家物語』で平安期の堕落した受領政治のもと全国的混乱を全力で治めたのに、天皇の非情な命令で兄に討たれ死んだ、悲劇の英雄源義経などその原型と思う。
鎌倉幕府が将門の政庁以来、最初の天皇公認幕府といってもいいだろうが、義経の兄こと頼朝が開祖だった。しかしこの幕府も元寇の功労を巡って次第に勢力を失い、再び京都界隈で贅に耽る室町を挟んで、安土桃山と混乱期に至る。戦国期を最後に治めたのが群馬の得川氏が出自と考えられる徳川家だった。
徳川家以前から私の県は随分立派な武士の系譜、例えば伊達、武田、佐竹家などが統治していたわけだが、最終的に御三家が置かれ、名君の誉れ高い義烈両公を代表としていわゆる水戸学が興った。この徳川家の最後の将軍慶喜公の気位はさらに一等高く、禅譲を実行し尊皇の大義の前に身を犠牲にしたわけだ。
我々が国家的危機に際し天皇政体のもと各大名の確執を超えた全国統一を果たし、少なくとも植民地化をのりきって今日の近代化を果たしたのは、一言でいえばこの水戸の徳川家の偉大な功績だといえるだろう。慶喜公がいなければもっと早く、薩長両国同然、欧米列強の餌食だったろう事は想像に難くない。
その際、天皇家も危機に瀕した筈だ。そもそも水戸学がなければ戦国期以後、天皇をあれほど尊重する気風が全国に伝えられたとは思えない。
中国歴代王朝の皇帝は革命勢力に弑された。日帝すら清皇帝を傀儡にしていた。
だが義公がいたから天皇を身を挺して守るべくわが県わが国の武士が啓蒙された。
確かに、明治維新には歴史学的にも国際政治学的にも民俗学・文化人類学的にも、問題が多い。第二次大戦という致命的敗戦もそうだが、明治から敗戦までの77年は好意的に見ても、松陰ら侵略論者の考え方による帝国主義の時代だった。薩長藩閥の言行は後世の批判に耐えるほど高貴な目的だったといえない。
我々は、岡倉天心がむしろ欧米日の帝国主義を批判した『東洋の理想』冒頭「アジアは1つ」という文言を、大東亜共栄圏構想の一起源にしているが、本来、『茶の本』段階で天心は平和が戦争より尊い理想だといいたかったのだ。
同じく新渡戸稲造も『武士道』で武士の究極の理想は平和だと書いている。
即ち天心も新渡戸も武士の子、彼らは寧ろ親藩や岩手の古きよき武士道を奉じていたに等しく、薩長藩閥流儀の帝国主義侵略には程あれ疑義を呈していたといってもいい。
徳川家は豊臣家の朝鮮侵略方針をうちきり通信使との外交を再興させた。倭寇の問題は内に抱えていたが、国際平和外交に等しかった。
ではその帝国主義が2発の原爆で無残に打ち砕かれてからの日本はどうなったか。相も変わらず安倍晋三や麻生太郎のよう薩長藩閥の残党が国政を牛耳り、明治と変わらず寡頭政治の様相は否応にも残念である。暗愚な人達は、わが国での武士道の衰亡を嘆きもしない。それは彼らが道徳に劣っているからだ。
私がネットで接したその2名余は、武士道など寸分も奉じていなかった。よく話を聴いた限り、戦国期島根と姫路の大名家に関係がある武士の末裔なり云々といっていた人々だったのだが、普段の行いは性売買罪を行うなど卑陋であり、名を名乗らず得々と農民を讒謗するなど人たる風上に置ける訳がない。
敢えてつけ加えればもう1名、麻生家の親族なりとなのる都内官僚の娘をみたことがある。この人の場合はまた一風変わった人物で、血統の影響もきっとあると思うが野蛮な言行甚だしい。その点、麻生太郎氏そっくりである。外様大名下の一部武士が学業を疎かにしていた名残か、驕り高ぶり虚栄心甚だしい。
これで私が悟っている所は、武士道は一つではない。いや極々多岐で、例えば私のみてきた水戸の武士道は尊皇大義が第一、桜田烈士に飛虎将軍の如く敬神愛民の敬虔なる清く貴き代物なのだが、それは殿様の気韻が乗り移ったものでしかないのだろう。別の統治者の下で育んだ別の武士道が無数にあるわけだ。
何が書きたかったか。
大分紐解かれてきたと思うが、この様なわが郷里わが県わが国固有の歴史に準じた大意の経緯があって、その2名余の「われは武士の末裔にして高貴なり」と述べる由と、私のみている武士なるものが余りに違いすぎ、やりとり以前に文化が180度違って共通認識がとれないのだった。
それで私が感じたのは、坂東武士、分けても常陸国茨城県水戸の武士と、関西西国のそれは全く違うのだ。辛うじて新渡戸が体系的に記述した盛岡風の武士道とは相通じる点が数多あるので、恐らく、東国武士道の方には一定かつ暗黙の共有知があるのだろう。だが西へ行くほどなのか、全く内容が違ってくる。
私は、まず一度も西郷隆盛や木戸孝允らの薩長武士道に感動した事がない。なんと卑劣な連中だとは感じるが、権術第一のサイコパスだったといっていいだろう西郷が、単なる西軍の都合で行動したすぎないのに、山形の朴訥な武士が良知の如く騙されていた点なども第三者としてみて、心底がっかりする。
ある佐賀出身弁護士の研究家が『葉隠』に範を取り、水戸学に難癖つけつつ、葉隠が正義なりと述べているブログ等も網羅的に読んだが、特に道理があるでもなかった。「自集団ひいきの妄想」中で自己愛に耽っているだけの話で、『葉隠』は例えば学術的に洗練されなかった戦国期の考えで殉死を勧めている。
私は寧ろ水戸学を批判的に考証してきた点では現代までの世界史に類例がない人物として確実に文化史に残る仕事はしてきたと、最大限客観し自負できる。祭政一致論とロックの王権神授説反駁をぶつけ、天皇民間化(皇室民営化)を主張するなどはその第一点だが、理論的に正しく反論し、初めて意味がある。
その武士の末裔となのる関西人2名が第二にこんがらがっているのは、この種の体系的な倫理学説という意味を持っている武士道を無視し、単なる身分差別の指標としてその名義をいわば盗用している点である。発祥の平安期ですら『平家物語』にみられるよう名乗り合いの風儀はあったのに、それさえしない。
尤も、名も名乗れぬ卑賤な振る舞いをしながら、なのったとて公爵を最高位としてつい75年前まで制度として存在した名家の系譜に匹敵する連中とは到底思えないので、中途半端に先祖へなんらかの虚名がひっかかってくると、逆にその虚勢が先立ち現実にはろくでもない人間が先祖がえりするいい実例に思う。
皇族はいうまでもなく公卿も公家もだが、彼らが名のある系譜だったとて現実には無能だった実例ばかりがある。というか、特に平安京で上述の受領政治が発生した頃から、『源氏物語』で虚構化された類の退廃的好色遊びが当時の官僚らの日常で、実権はほぼ喪失していたからこそ、武士が世直しに出てきた。
いわゆる承平天慶の乱、上述の将門と、藤原純友がほぼ同時に腐敗した中央政治に反し、今でいう和歌山県知事の仁坂吉伸氏(前からみてたが名君だ。カジノ構想だけは疑問符だが)の様、独自判断で地方統治をはかろうとしたわけだ。つまり武士は本来、有能者の名義であって、肩書きによる身分制ではない。
その意味でいえば仁坂氏は暴れん坊将軍の地元だけあって、正に肯定的な意味で、武士でありもののふというべきだろう。実際、実話集の山川菊栄『武家の女性』とか、こっちは脚色はいってるが『八重の桜』とかでもわかる話だが、武家の娘も同じ意味で公を私に優越しつつ家内を掌る気丈婦の必要があった。
現代では女権が拡張されたので、女性首相も珍しくなく、女性天皇なり女系天皇なりを排除しようという伝統(どうとでも変わる過去の正当化)に基づかないばかりか無謀な挙は、完全に惨めな性差別でしかない。天皇が女系血統で品位がおちるという人達は、Y染色体をもたない女帝を蔑視しているといえる。
では、その武士の末裔と称する関西人2名は?
彼らは一方は男で、一方は女だった。彼らの自慢する所、いや特にその女の方(戦国島根の末裔という)が不躾な農民差別(農本徳政水戸家の足元にも及ばない)などに用いる所の血統とは、一体如何なる物だろうか。殺人業者がそれゆえに、高貴なのだろうか。
天皇すら徳がなければ虚名に過ぎない。だからこそ、英知ある義公は『古文孝経』序を引いて「君君足らずと雖も臣臣足らざるべからず」尊皇論を説いた。即ち臣下の代行責任で君主無答責を踏み行えとのわけで、いわゆる水戸学用語の大義名分だ。
然るに西日本ではこの種の道義が、端から欠如してきた。
例えば大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らは天皇機関説に立って「玉」などと呼び、天皇を道具扱いしていた記録が残っている。
(木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・伊藤博文らの「玉」発言等
1.木戸公伝記編纂所・編『木戸孝允文書』第二、巻七
四十七「品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」
336ページ、日本史籍協会、1929-1931年
2.1868(慶応4)年1月17日、大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』「玉簾」「玉体」との表現で象徴的天皇を否定
3.『岩倉公実記』「具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事」「討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事」「小御所会議ノ事」等での岩倉による「倒幕密勅」偽造等
4.宮内省御用掛『ベルツの日記』、伊藤が天皇を笛を吹かれて踊る操り人形と物まねする記述)
同じ武士なり公家なりといっても、志操は全然違う。回天神社の1865祭神らは尊皇の大義の前に進んで自己犠牲し、死んだ。しかし最上有力者ですら斯くの如き西日本にその種の誠心は先ずない。
いわば、その武士の末裔と称する関西人らは、我々の身近にみる大義に散った数多の武士達とは全然違う人達の子孫である。いや、勿論唯のウソなり虚構で、彼らは実際にはなんらかの名のあった血統ではないかもしれないが。
もしどちらだったとしても、確実な真として、彼らは卑しい振舞いをしている。
目の前で下賤な言行をとる。例えばその兵庫姫路出身の男(今は東京を経て仙台に住んでいるらしい)が性売買罪を謎に自慢しているとか(違法行為なり人身売買の一種なりは明らかに愧ずべき事だと思うのだが)、島根出で奈良や大阪兵庫に暮らす女が金ほしさに身売りに手を染めつつ、酷く愚かだとして。
彼らは想像できるかぎり最も落ちぶれながら(尤も違法ではあっても性産業業者からすると誇り高い仕事なのかもしれないが)、最後のプライド、虚栄心の根拠を中古の「武士」名義に求める。しかも私を農民かなどと侮辱しながら。
実になんとも情けない連中なのだが、一言でいいきれない憐れみがある。
より細かく書けば、その姫路出の男の方は引越しホームページ業者とかであぶく銭を稼ぎ、それで仙台から性売買罪を行って大層自慢げに、私を散々罵ってきた。一定期間、ネット(ピグ)で観察していたのだが、離婚した妻との間に娘がひとりいるとかで、なんとも言いがたい醜悪な関西弁商人だったのだが。
その奈良女の方はまだつきあい(といってもネットでの文通程度)がなくなったわけでもなく詳しくは書かないし、いづれにしても特定可能な個人情報は伏せる。だが私が感じた「関西圏での武士なるもの」の用語法と意味内容がしばしば、上述した坂東武士の系譜や威厳と全く違うのは間違いない事実に思う。
単なる文化摩擦だろう。
覇者を経て中世から近代日本を公儀輔翼の末、畏れ多くも実現した複数の徳川公爵家の御末裔が身近にいらせられ彼らの高徳さや生き様を、間接的にとはいえ目の当たりにしている私と、単なる小大名下で木っ端役人が空威張りしていただけの、野卑な殺人稼業の末裔とは武士道が違う。
徳川宗家の御当主の方も、静岡では既に国会議員に当選しないほど名声が落ちている。でも茨城の方なら違う様に思う。東京、和歌山、愛知、その他の旧親藩はどうだろうか? 恐らく最も、現地の徳川家が偉かったのは水戸であり茨城だろう。市域だけでなく今も総じて尊敬されているのは間違いないと思う。
前知事橋本昌氏は「水戸徳川家は茨城の宝」と申されていたが、僕もそう思う。彼らの残した文化遺産や徳政の証はひとり、わが県の名誉や誇り、未来への啓発なだけではなく、決して身びいきでなく世界史上に傑出した点が多い。義公や慶喜公の禅譲は崇高だし、そもそも民衆のため善政していた名君の家だ。
私がこうして、その関西人2名による「武士の末裔」との名乗りに混成して起きた、悲嘆とも憐憫ともつかぬ感慨の正体を掴もうと一文を物したのは、結局、水戸の徳川家の崇高さに比べ、余りに卑屈すぎる偽武士、いや名義借りの連中に呆れ返ったからなのではないか。
天地の別人。それほど徳は人を変える。
そのどちらも、現実では品位にもとること甚だしい人達で、自分が堕落した人間だと知ってかしらずか、自己正当化の最後の言い分に、先祖が武士だったので自分はおちぶれても高貴なのだといいたいらしかった。
勿論、没落貴族なんてよくある話で、皇族閥なんてほぼ確実に天皇家継げないんだから全部それに該当せざるをえない。身分差別の限界がそこにはある。
だが私が彼らに感じた問題はもっと、遥か根深い。今からできるだけ分析する。第一に自分の為にだが、別の人が読んでも意味が取れる様に書く。
自分が彼らに感じた大変な違和感と、彼らの遣る瀬無い卑しさとはとても混雑している上に複雑なので、糸口から一個ずつ紐解いていく必要がある。
先ず自分の国、今でいう県からいえばこの地は武士の起源から最後の将軍までを持っている。最初の武士は新皇と称した将門、最後の武士は慶喜公だろう。
途中では歴代幕府や戦国覇者も幾多いたし、名君もいた。ここで出自し各地に散らばっていったが、元々坂東武士と呼ばれる人達の出現率が極めて高かったのが私の生まれ育った県である。身近に色々な文化風物も残っているし、そもそも彼らが根にどんな気韻をもっていたかも体験的に多少あれ知っている。
彼らは雄々しく猛々しく、時には天皇の悪政に反旗を翻し正義を貫かんとし、時には感慨深い徳政をし、時には刑罰で村ごと虐殺し、時には天下のため諫死し、時には大義の為に刀を納め自己犠牲した。数え切れない逸話の中には私の心を育んだ悲喜劇があり、単に表面的な制度などで到底語りきれない人達だ。
つまり、私、もしくは我々にとって、武士は制度ではない(広義で関東人、あづまびと、東国人にとって、といってもいい。但し近代以後の東京圏は、天皇家ら関西からきた人達の気風が混じり中華思想に驕っている節があるのでもはやそんな意識も喪失しているだろうが)。
武士、モノノフとは人間性だ。
すなわち坂東武士は、関西地方の皇族や公家の世界と違い、血統による差別とか、身分制など存在しないに等しかった関東平野から出現し、荒くれ者たちを力や徳でまとめ、近畿と称していた関西地方からの悪政や、浅ましい差別的待遇を自力で覆してきた人々である。彼らの集まりを我々は幕府と呼んでいた。
また、広く日本で「侍(サムライ)」とは時に美称で、例えば日米野球界で愛国英雄的な活躍をみせたイチロー等にその名義が与えられたりする。『平家物語』で平安期の堕落した受領政治のもと全国的混乱を全力で治めたのに、天皇の非情な命令で兄に討たれ死んだ、悲劇の英雄源義経などその原型と思う。
鎌倉幕府が将門の政庁以来、最初の天皇公認幕府といってもいいだろうが、義経の兄こと頼朝が開祖だった。しかしこの幕府も元寇の功労を巡って次第に勢力を失い、再び京都界隈で贅に耽る室町を挟んで、安土桃山と混乱期に至る。戦国期を最後に治めたのが群馬の得川氏が出自と考えられる徳川家だった。
徳川家以前から私の県は随分立派な武士の系譜、例えば伊達、武田、佐竹家などが統治していたわけだが、最終的に御三家が置かれ、名君の誉れ高い義烈両公を代表としていわゆる水戸学が興った。この徳川家の最後の将軍慶喜公の気位はさらに一等高く、禅譲を実行し尊皇の大義の前に身を犠牲にしたわけだ。
我々が国家的危機に際し天皇政体のもと各大名の確執を超えた全国統一を果たし、少なくとも植民地化をのりきって今日の近代化を果たしたのは、一言でいえばこの水戸の徳川家の偉大な功績だといえるだろう。慶喜公がいなければもっと早く、薩長両国同然、欧米列強の餌食だったろう事は想像に難くない。
その際、天皇家も危機に瀕した筈だ。そもそも水戸学がなければ戦国期以後、天皇をあれほど尊重する気風が全国に伝えられたとは思えない。
中国歴代王朝の皇帝は革命勢力に弑された。日帝すら清皇帝を傀儡にしていた。
だが義公がいたから天皇を身を挺して守るべくわが県わが国の武士が啓蒙された。
確かに、明治維新には歴史学的にも国際政治学的にも民俗学・文化人類学的にも、問題が多い。第二次大戦という致命的敗戦もそうだが、明治から敗戦までの77年は好意的に見ても、松陰ら侵略論者の考え方による帝国主義の時代だった。薩長藩閥の言行は後世の批判に耐えるほど高貴な目的だったといえない。
我々は、岡倉天心がむしろ欧米日の帝国主義を批判した『東洋の理想』冒頭「アジアは1つ」という文言を、大東亜共栄圏構想の一起源にしているが、本来、『茶の本』段階で天心は平和が戦争より尊い理想だといいたかったのだ。
同じく新渡戸稲造も『武士道』で武士の究極の理想は平和だと書いている。
即ち天心も新渡戸も武士の子、彼らは寧ろ親藩や岩手の古きよき武士道を奉じていたに等しく、薩長藩閥流儀の帝国主義侵略には程あれ疑義を呈していたといってもいい。
徳川家は豊臣家の朝鮮侵略方針をうちきり通信使との外交を再興させた。倭寇の問題は内に抱えていたが、国際平和外交に等しかった。
ではその帝国主義が2発の原爆で無残に打ち砕かれてからの日本はどうなったか。相も変わらず安倍晋三や麻生太郎のよう薩長藩閥の残党が国政を牛耳り、明治と変わらず寡頭政治の様相は否応にも残念である。暗愚な人達は、わが国での武士道の衰亡を嘆きもしない。それは彼らが道徳に劣っているからだ。
私がネットで接したその2名余は、武士道など寸分も奉じていなかった。よく話を聴いた限り、戦国期島根と姫路の大名家に関係がある武士の末裔なり云々といっていた人々だったのだが、普段の行いは性売買罪を行うなど卑陋であり、名を名乗らず得々と農民を讒謗するなど人たる風上に置ける訳がない。
敢えてつけ加えればもう1名、麻生家の親族なりとなのる都内官僚の娘をみたことがある。この人の場合はまた一風変わった人物で、血統の影響もきっとあると思うが野蛮な言行甚だしい。その点、麻生太郎氏そっくりである。外様大名下の一部武士が学業を疎かにしていた名残か、驕り高ぶり虚栄心甚だしい。
これで私が悟っている所は、武士道は一つではない。いや極々多岐で、例えば私のみてきた水戸の武士道は尊皇大義が第一、桜田烈士に飛虎将軍の如く敬神愛民の敬虔なる清く貴き代物なのだが、それは殿様の気韻が乗り移ったものでしかないのだろう。別の統治者の下で育んだ別の武士道が無数にあるわけだ。
何が書きたかったか。
大分紐解かれてきたと思うが、この様なわが郷里わが県わが国固有の歴史に準じた大意の経緯があって、その2名余の「われは武士の末裔にして高貴なり」と述べる由と、私のみている武士なるものが余りに違いすぎ、やりとり以前に文化が180度違って共通認識がとれないのだった。
それで私が感じたのは、坂東武士、分けても常陸国茨城県水戸の武士と、関西西国のそれは全く違うのだ。辛うじて新渡戸が体系的に記述した盛岡風の武士道とは相通じる点が数多あるので、恐らく、東国武士道の方には一定かつ暗黙の共有知があるのだろう。だが西へ行くほどなのか、全く内容が違ってくる。
私は、まず一度も西郷隆盛や木戸孝允らの薩長武士道に感動した事がない。なんと卑劣な連中だとは感じるが、権術第一のサイコパスだったといっていいだろう西郷が、単なる西軍の都合で行動したすぎないのに、山形の朴訥な武士が良知の如く騙されていた点なども第三者としてみて、心底がっかりする。
ある佐賀出身弁護士の研究家が『葉隠』に範を取り、水戸学に難癖つけつつ、葉隠が正義なりと述べているブログ等も網羅的に読んだが、特に道理があるでもなかった。「自集団ひいきの妄想」中で自己愛に耽っているだけの話で、『葉隠』は例えば学術的に洗練されなかった戦国期の考えで殉死を勧めている。
私は寧ろ水戸学を批判的に考証してきた点では現代までの世界史に類例がない人物として確実に文化史に残る仕事はしてきたと、最大限客観し自負できる。祭政一致論とロックの王権神授説反駁をぶつけ、天皇民間化(皇室民営化)を主張するなどはその第一点だが、理論的に正しく反論し、初めて意味がある。
その武士の末裔となのる関西人2名が第二にこんがらがっているのは、この種の体系的な倫理学説という意味を持っている武士道を無視し、単なる身分差別の指標としてその名義をいわば盗用している点である。発祥の平安期ですら『平家物語』にみられるよう名乗り合いの風儀はあったのに、それさえしない。
尤も、名も名乗れぬ卑賤な振る舞いをしながら、なのったとて公爵を最高位としてつい75年前まで制度として存在した名家の系譜に匹敵する連中とは到底思えないので、中途半端に先祖へなんらかの虚名がひっかかってくると、逆にその虚勢が先立ち現実にはろくでもない人間が先祖がえりするいい実例に思う。
皇族はいうまでもなく公卿も公家もだが、彼らが名のある系譜だったとて現実には無能だった実例ばかりがある。というか、特に平安京で上述の受領政治が発生した頃から、『源氏物語』で虚構化された類の退廃的好色遊びが当時の官僚らの日常で、実権はほぼ喪失していたからこそ、武士が世直しに出てきた。
いわゆる承平天慶の乱、上述の将門と、藤原純友がほぼ同時に腐敗した中央政治に反し、今でいう和歌山県知事の仁坂吉伸氏(前からみてたが名君だ。カジノ構想だけは疑問符だが)の様、独自判断で地方統治をはかろうとしたわけだ。つまり武士は本来、有能者の名義であって、肩書きによる身分制ではない。
その意味でいえば仁坂氏は暴れん坊将軍の地元だけあって、正に肯定的な意味で、武士でありもののふというべきだろう。実際、実話集の山川菊栄『武家の女性』とか、こっちは脚色はいってるが『八重の桜』とかでもわかる話だが、武家の娘も同じ意味で公を私に優越しつつ家内を掌る気丈婦の必要があった。
現代では女権が拡張されたので、女性首相も珍しくなく、女性天皇なり女系天皇なりを排除しようという伝統(どうとでも変わる過去の正当化)に基づかないばかりか無謀な挙は、完全に惨めな性差別でしかない。天皇が女系血統で品位がおちるという人達は、Y染色体をもたない女帝を蔑視しているといえる。
では、その武士の末裔と称する関西人2名は?
彼らは一方は男で、一方は女だった。彼らの自慢する所、いや特にその女の方(戦国島根の末裔という)が不躾な農民差別(農本徳政水戸家の足元にも及ばない)などに用いる所の血統とは、一体如何なる物だろうか。殺人業者がそれゆえに、高貴なのだろうか。
天皇すら徳がなければ虚名に過ぎない。だからこそ、英知ある義公は『古文孝経』序を引いて「君君足らずと雖も臣臣足らざるべからず」尊皇論を説いた。即ち臣下の代行責任で君主無答責を踏み行えとのわけで、いわゆる水戸学用語の大義名分だ。
然るに西日本ではこの種の道義が、端から欠如してきた。
例えば大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らは天皇機関説に立って「玉」などと呼び、天皇を道具扱いしていた記録が残っている。
(木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・伊藤博文らの「玉」発言等
1.木戸公伝記編纂所・編『木戸孝允文書』第二、巻七
四十七「品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」
336ページ、日本史籍協会、1929-1931年
2.1868(慶応4)年1月17日、大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』「玉簾」「玉体」との表現で象徴的天皇を否定
3.『岩倉公実記』「具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事」「討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事」「小御所会議ノ事」等での岩倉による「倒幕密勅」偽造等
4.宮内省御用掛『ベルツの日記』、伊藤が天皇を笛を吹かれて踊る操り人形と物まねする記述)
同じ武士なり公家なりといっても、志操は全然違う。回天神社の1865祭神らは尊皇の大義の前に進んで自己犠牲し、死んだ。しかし最上有力者ですら斯くの如き西日本にその種の誠心は先ずない。
いわば、その武士の末裔と称する関西人らは、我々の身近にみる大義に散った数多の武士達とは全然違う人達の子孫である。いや、勿論唯のウソなり虚構で、彼らは実際にはなんらかの名のあった血統ではないかもしれないが。
もしどちらだったとしても、確実な真として、彼らは卑しい振舞いをしている。
目の前で下賤な言行をとる。例えばその兵庫姫路出身の男(今は東京を経て仙台に住んでいるらしい)が性売買罪を謎に自慢しているとか(違法行為なり人身売買の一種なりは明らかに愧ずべき事だと思うのだが)、島根出で奈良や大阪兵庫に暮らす女が金ほしさに身売りに手を染めつつ、酷く愚かだとして。
彼らは想像できるかぎり最も落ちぶれながら(尤も違法ではあっても性産業業者からすると誇り高い仕事なのかもしれないが)、最後のプライド、虚栄心の根拠を中古の「武士」名義に求める。しかも私を農民かなどと侮辱しながら。
実になんとも情けない連中なのだが、一言でいいきれない憐れみがある。
より細かく書けば、その姫路出の男の方は引越しホームページ業者とかであぶく銭を稼ぎ、それで仙台から性売買罪を行って大層自慢げに、私を散々罵ってきた。一定期間、ネット(ピグ)で観察していたのだが、離婚した妻との間に娘がひとりいるとかで、なんとも言いがたい醜悪な関西弁商人だったのだが。
その奈良女の方はまだつきあい(といってもネットでの文通程度)がなくなったわけでもなく詳しくは書かないし、いづれにしても特定可能な個人情報は伏せる。だが私が感じた「関西圏での武士なるもの」の用語法と意味内容がしばしば、上述した坂東武士の系譜や威厳と全く違うのは間違いない事実に思う。
単なる文化摩擦だろう。
覇者を経て中世から近代日本を公儀輔翼の末、畏れ多くも実現した複数の徳川公爵家の御末裔が身近にいらせられ彼らの高徳さや生き様を、間接的にとはいえ目の当たりにしている私と、単なる小大名下で木っ端役人が空威張りしていただけの、野卑な殺人稼業の末裔とは武士道が違う。
徳川宗家の御当主の方も、静岡では既に国会議員に当選しないほど名声が落ちている。でも茨城の方なら違う様に思う。東京、和歌山、愛知、その他の旧親藩はどうだろうか? 恐らく最も、現地の徳川家が偉かったのは水戸であり茨城だろう。市域だけでなく今も総じて尊敬されているのは間違いないと思う。
前知事橋本昌氏は「水戸徳川家は茨城の宝」と申されていたが、僕もそう思う。彼らの残した文化遺産や徳政の証はひとり、わが県の名誉や誇り、未来への啓発なだけではなく、決して身びいきでなく世界史上に傑出した点が多い。義公や慶喜公の禅譲は崇高だし、そもそも民衆のため善政していた名君の家だ。
私がこうして、その関西人2名による「武士の末裔」との名乗りに混成して起きた、悲嘆とも憐憫ともつかぬ感慨の正体を掴もうと一文を物したのは、結局、水戸の徳川家の崇高さに比べ、余りに卑屈すぎる偽武士、いや名義借りの連中に呆れ返ったからなのではないか。
天地の別人。それほど徳は人を変える。
自集団ひいき妄想は非現実的で危険
今しがたネット右翼らしき人(日の丸アイコン)がツイッター上で、一番好きな国は? と台湾、タイ、フィリピン、韓国から選択させていて、台湾だけ圧倒的に多かったんだが、それで気づいた。
彼らは自分と同質の相手を妄信したいだけだと。自集団ひいき妄想の正体は、延長された自己愛だ。
福沢諭吉が『文明論之概略』で、国同士の様な公共的な交際の次元にその種の家族的自己愛は役立たない、法秩序のみがあると述べていたが、正にそれで、ネット右翼の人達は群淘汰的発想で、文化さえ大幅に違う遠い国々の人々に、自己愛妄想を誤った根拠に、同調圧力をかけようとはかっているのだろう。
我々はその種の勘違いをしがちだが、現実の社会適応的にはそれなりの合理性もなくはない。自分の知っているのと風習が似通っている連帯の方がそうでない連帯より、群れの動きを予想し易い。例えば『荒野行動』内で日本人なら挨拶に凡そ返答するはずと予想できるが海外の人達はおもにそうでない。
が、問題は個人性があって、自集団に近い人が却って自分に害をなす場合もあれば、逆に他集団の人の方が自分に益な場合もある。だからナショナリズム、愛国主義的な発想は危険なのだ。例えば都民が過度に郷土愛をもっていたら、高い犯罪率や数多の都市問題を正当化したり、田舎の善美に目をつぶる。
愛国心を巡る問題を整理すると、
1.自集団ひいき妄想の正体は拡張された自己愛
2.文化風習の共通性など多少あれ連帯の単位はある
3.自集団ひいき妄想は現実を無視するので危険
ここではわかり易い例としてネット右翼を挙げたが、本質的には群れの認知に適用される法則だと思われる。
彼らは自分と同質の相手を妄信したいだけだと。自集団ひいき妄想の正体は、延長された自己愛だ。
福沢諭吉が『文明論之概略』で、国同士の様な公共的な交際の次元にその種の家族的自己愛は役立たない、法秩序のみがあると述べていたが、正にそれで、ネット右翼の人達は群淘汰的発想で、文化さえ大幅に違う遠い国々の人々に、自己愛妄想を誤った根拠に、同調圧力をかけようとはかっているのだろう。
我々はその種の勘違いをしがちだが、現実の社会適応的にはそれなりの合理性もなくはない。自分の知っているのと風習が似通っている連帯の方がそうでない連帯より、群れの動きを予想し易い。例えば『荒野行動』内で日本人なら挨拶に凡そ返答するはずと予想できるが海外の人達はおもにそうでない。
が、問題は個人性があって、自集団に近い人が却って自分に害をなす場合もあれば、逆に他集団の人の方が自分に益な場合もある。だからナショナリズム、愛国主義的な発想は危険なのだ。例えば都民が過度に郷土愛をもっていたら、高い犯罪率や数多の都市問題を正当化したり、田舎の善美に目をつぶる。
愛国心を巡る問題を整理すると、
1.自集団ひいき妄想の正体は拡張された自己愛
2.文化風習の共通性など多少あれ連帯の単位はある
3.自集団ひいき妄想は現実を無視するので危険
ここではわかり易い例としてネット右翼を挙げたが、本質的には群れの認知に適用される法則だと思われる。
A mention to Ms. Naomi Seibt on Twitter
Hello, Ms. Naomi Seibt.
I am a nameless thinker born and lives in Japan.
I watched all your YouTube videos and became a your fan.
Once, I sent a mention to Ms. Greta Thunberg.
It explained my situation around Fukushima nuclear power plant. I have been living in there, in a day I got a fatal disaster.
But Ms. Greta didn't show anti-nuclear power plant statement for her unique CO2 ideology. So I appealed reality of anti-humane tragedy from capitalistic nuclear power energy.
(By the way, Japan was dropped nuclear bombs by US army. After WW2, we engaged to use that power more peaceful purpose.
Our education taught us, as if the nuclear power was dream energy of new technology. Today we call it "safety myth" (安全神話 anzen-shinwa in Japanese), after all, it was also capitalism's hypocrisy)
And Ms. Greta showed a text on Facebook. It said,
Thank you for reading all the end.
I am a nameless thinker born and lives in Japan.
I watched all your YouTube videos and became a your fan.
Once, I sent a mention to Ms. Greta Thunberg.
It explained my situation around Fukushima nuclear power plant. I have been living in there, in a day I got a fatal disaster.
But Ms. Greta didn't show anti-nuclear power plant statement for her unique CO2 ideology. So I appealed reality of anti-humane tragedy from capitalistic nuclear power energy.
(By the way, Japan was dropped nuclear bombs by US army. After WW2, we engaged to use that power more peaceful purpose.
Our education taught us, as if the nuclear power was dream energy of new technology. Today we call it "safety myth" (安全神話 anzen-shinwa in Japanese), after all, it was also capitalism's hypocrisy)
And Ms. Greta showed a text on Facebook. It said,
'Personally I (Ms. Greta) am against nuclear power...'Maybe she read (or not maybe) my mention, as like you.
Thank you for reading all the end.
2020年2月28日
嘘つき明治懐古
韓国の2020年2月28日のコロナ感染者数2337人なのにどうみても横浜が感染源の日本は167人とかここでも最後の将軍に濡れ衣着せて以来長州閥寡頭政お得意の勝てば官軍マキャベリズムで捏造と隠蔽の山に草
正義の騎士
お前は正義
疑いもなく絶対
だが世界は歪んで
人を傷つけてばかりいる
だから俺がお前を守る
永遠の騎士として
お前の名が失われたら
俺が代わりに万国へ説教しに回る
もし汚名を着せられたら
断固として征伐する
だから心配するな
この世に敵などいない
お前を傷つける悪者など
俺の手であの世送りだ
疑いもなく絶対
だが世界は歪んで
人を傷つけてばかりいる
だから俺がお前を守る
永遠の騎士として
お前の名が失われたら
俺が代わりに万国へ説教しに回る
もし汚名を着せられたら
断固として征伐する
だから心配するな
この世に敵などいない
お前を傷つける悪者など
俺の手であの世送りだ
愛国者の弁明
われら愛国者にとって
安倍晋三と上皇天皇はカミ
お前ら野党(笑)はゴミ
カミとゴミを見間違えるなどナイナイ
薩長藩閥の明治維新で祭政一致
政教一致こそ神道原理主義のわれらが国体
ああそうだ国民が大量死し
経済もおわる
だからどうした
われら愛国者にとって
おカミを奉る絶対服従こそ人生の目的
安倍晋三と上皇天皇はカミ
お前ら野党(笑)はゴミ
カミとゴミを見間違えるなどナイナイ
薩長藩閥の明治維新で祭政一致
政教一致こそ神道原理主義のわれらが国体
ああそうだ国民が大量死し
経済もおわる
だからどうした
われら愛国者にとって
おカミを奉る絶対服従こそ人生の目的
脳内発狂情報戦
ネトウヨが中国政府を疑う余り読めない中文誤読して長崎領事館が「肝炎流行につき日本政府のガイドラインの変更に注意云々」と書いた部分を「日本が発生源の肝炎かのようデマ飛ばしてる」とか発想自体が稚拙すぎるアホウヨクオリティの投影でしかないのに自分で自分に発狂しだしてて脳内情報戦争とか草
全体主義単一化を求める内国の敵
なぜ日本人右翼らは不寛容で
陰険な衆愚が個性を潰す国がいいか?
彼らの一般知能が単純さしか理解できず
現代社会の多様化を耐え難く感じ
できるだけ中世に退化したいからとて
人口の多い国々は大規模低IQ集団を抱え
多数決は衆愚政に繋がる
我々の敵は国内にもいるのだ
彼らは本能のよう自由を敵視す
陰険な衆愚が個性を潰す国がいいか?
彼らの一般知能が単純さしか理解できず
現代社会の多様化を耐え難く感じ
できるだけ中世に退化したいからとて
人口の多い国々は大規模低IQ集団を抱え
多数決は衆愚政に繋がる
我々の敵は国内にもいるのだ
彼らは本能のよう自由を敵視す
衆愚地獄
日本という衆愚地獄は
当然生きていくに値しない
一刻でも早く脱出せよ
だが居残るしかなかった者は
今すぐ衆愚と関わりを断て
さもなくば死も絶望も
あらゆる蛮行の被害も
罪なき汚名も
善意への濡れ衣も
全ての嫌がらせが襲ってくる
それが衆愚の国
この世の地獄だ
すぐ逃げろ
衆愚の悪意は底なしだ
当然生きていくに値しない
一刻でも早く脱出せよ
だが居残るしかなかった者は
今すぐ衆愚と関わりを断て
さもなくば死も絶望も
あらゆる蛮行の被害も
罪なき汚名も
善意への濡れ衣も
全ての嫌がらせが襲ってくる
それが衆愚の国
この世の地獄だ
すぐ逃げろ
衆愚の悪意は底なしだ
短文厨の正体
いいたいことなり心の中で思ってることの何億分の1かを最大限端折ってしかも相手の想定知能にあわせ書いてあげてるのにもっと短文じゃないとわからないとかすら呆れるのに短文書く人ほど賢いとか素のウソに群れる日本人モブって発達障害除けば憐れにもサル未満の言語知能しか獲得できなかったのでしょ
道徳知能が人生の選択に直接関係する
道徳知能が低い人は、常に取るに足りない仕事に追われている。結果、特に何もやり遂げられない。その意味で、道徳知能はIQ(一般的な知能指数)と特に関係がない。
同じく、サイコパス度が高い人々は元々この道徳知能に程あれ障害があるので、自他に有害な結果を招きがちである。
同じく、サイコパス度が高い人々は元々この道徳知能に程あれ障害があるので、自他に有害な結果を招きがちである。
日共絶対無謬説
まあ確かに正論はいうんだけどそれは万年野党で理想主義でいられるからで共産党が100%正義で自民党が100%悪党とかいう明らかな謬説を素で発見しちゃったみたいに述べてるいわゆる知能指数低そうなツイッター民達大勢には草どころかビルディング生えるでしょ
文脈を読め(ま)ないマスゴミ衆愚
またマスゴミと衆愚は麻生大臣がカネより命が大事に決まってるだろうつまらないこと聴くなといったのの揚げ足とって「国民の関心事につまんないはないだろう」とか相変わらずのモブっぷり草
匿名の解体
インターネット上で匿名で
赤の他人が優れていればいるほど
高潔であればあるほど
聖なる者であればあるほど貶めていた
衆愚が重い疫病でつぎつぎ絶命していった
僕はじっとみていた
彼らは蠢き苦しみ悶え発狂し
混乱の中で次々同士討ち
互いの喉元を掻き千切り叫び
遂には骨と肉片だけに解体された
赤の他人が優れていればいるほど
高潔であればあるほど
聖なる者であればあるほど貶めていた
衆愚が重い疫病でつぎつぎ絶命していった
僕はじっとみていた
彼らは蠢き苦しみ悶え発狂し
混乱の中で次々同士討ち
互いの喉元を掻き千切り叫び
遂には骨と肉片だけに解体された
暗闇の星々
お前の死など恐ろしくもない
私の死など恐ろしいはずもない
ではなにを恐れる
人の世にあって何事も執着に値せぬ
既に夜は更けあすの明星も暗い
だがお前も私も死を通り抜け
既に生きてすらいない
永遠の時が我らを包み夜霧に消した
だから何もみるな
お前も私も無限に続く悲劇の
本の一幕
満月と金星
私の死など恐ろしいはずもない
ではなにを恐れる
人の世にあって何事も執着に値せぬ
既に夜は更けあすの明星も暗い
だがお前も私も死を通り抜け
既に生きてすらいない
永遠の時が我らを包み夜霧に消した
だから何もみるな
お前も私も無限に続く悲劇の
本の一幕
満月と金星
人の今日的定義はその情報配列の体系性
肉体は遺伝配列かそこからの細胞配列の乱れの情報、又は物質の塊にすぎないのだから、身体性を根拠に人の定義を問うのは全く無意味な振る舞いである。
人が人たるゆえんはその情報配列が特定の体系をもっていることであり、別に他の動植物その他の生物、物質や人工知能含む機械と本質に差はない。
人が人たるゆえんはその情報配列が特定の体系をもっていることであり、別に他の動植物その他の生物、物質や人工知能含む機械と本質に差はない。
2020年2月27日
小賢小愚と大賢大愚
なぜ人は(特に凡愚)は、自分にとってわかり易い程度の言動をとる人を賢いと勘違いし易いか?
これは典型的な詐欺に弱いタイプといっていい。相手の知的水準に合わせ詭弁を弄する相手を、真理を説く人物より賢いと思い込んでしまうのに、「賢い人はわかり易く説く」と妄信しているからだ。
賢愚を仮に客体物とする。例えば地動説(更には地上では私しかまだ認知内にはっきり概念としてもっていないだろうが、銀河流動含む全天体移動説)を知らない人にとって、天動説が中世人の理解度にふさわしい知識だったとする。
そのとき未知の理論は自分の定常的理解の様式から遠いほど分かり辛い。
いわば人の認知内にある賢愚の判定は、常にヘッドライト的なもので、その範囲内でしか道と落とし穴を区別できない。しかしこれは主観的賢愚である。だから目前のヘッドライトが照らしていない理解度の範囲にある真の賢さを、当人はそうと認められない。即ち賢さ一般を当人のわかり易さと勘違いする。
然るに、第三者の理解度は一般に未知である。例えば、逆に学力試験を行って一定知識の有無を前提に話をする場合などは、理解度の前提を過度に低く見積もる必要がなく一種の公理系の役割を果たす。足きりある進学校などで教養系の会話がなりたつのも同様の理屈により、一種の高文脈が使えるからだ。
が一般人を相手取ると、その潜在的多様性が高いほど最大公約数となる最低限度の知識は限定せざるをえず、それ自体にも定義からやり直す必要性がますので低文脈化し、自然に冗長な説明が必要となるだろう。
相手の無知が想定されればされるほどこの作業が煩瑣となり、説明言語も幼稚となるだろう。
つまり、説明の前提となる相手の知識体系とその理解度が事前に信号として伝わっていなければ、又は会話途中で相手側から適宜なその種の情報提供がなければ、そもそも相手にとってわかり易い説明を最適化するのは困難である。
ではなぜ凡愚はこの手間がないと思い込んでいるのか?
彼らは第一に自分の理解度が相手にわかっていない状態を想定するだけの知能がない。それで当然の如く相手が自分の理解度に最適化した説明をできると思い込んでいる。裏返せば、普段から自分と同質の相手(ある事柄について同程度に暗愚なのだろう)と馴れ合って暮らしていて高下文脈を理解していない。
即ちもし説明者が丁寧かつ冗長に何事かを教えてくれているなら、自分の前提知識如何に関わらず低文脈を使ってくれているのだから、相手の負担は重く、感謝して当然なのである。
だが凡愚はこの逆の態度である。上から目線で簡単にいえ等の非道な罵倒は無論、無礼千万働きつつ群れて得々としている。
接客業者に「モンスタークレーマー」と呼ばれる種類の人達も正にこの変奏で、己の物分りが悪いのを棚に上げている馬鹿である。ツイッター民の一部にいる匿名衆愚も同様で、高文脈に話されればついてこれないのは明らかなのに、暗愚だからこそダニクル効果の高慢が激しく観察できる。
では我々はその種の凡愚をどう扱うべきか?
接客業者は低文脈を前提に、ある事柄の説明技術をためていくしかない。例えば通俗的な視聴率稼ぎのYouTuberとかも。だが一般にその種の凡愚と接するのは百害あって一利ないであろう。
よって基本的に我々は高文脈で会話するのがいいのだ。
普段の言葉遣いで、大抵の人は中文脈を使っている。前提知識がないとわかりづらいこと(知的内容かに関わらず内輪受けともいいかえられる)について部外者にも程ほどに分かる表現を用いるなどだ。例えばwから派生したネット俗語で「草」と書かず「笑」と書くとか。若者言葉や方言を標準語にするとか。
しかしこれは普遍的に説明する必要がある場合で、不特定多数が読めるツイッターの様な場では却って不合理でもある。なぜなら上述の俗に言う「クソリプ(糞replyの略で、客観的に下らない誹謗などの返信)」を送ってくる人達にもおおよそ誤解させつつ、辛うじて認知できてしまうからだ。
冒頭に挙げたよう、究極の賢愚(必ずしも他の主観からの客観視という意味ではない)は認知ヘッドライトの外にあり、それは自分の主観的判定を超えているとすると、高文脈を使い可読者を意図して絞っても、自分に理解不能なほど賢い返信その他はどうせ網にかからない。神の言葉は聞けないのである。
では高文脈を使う不合理がどこにあるというのだろう? 自分の文や表現が愚者(多くの場合、悪人を含む)に近づき難いだけでも十分効果があるし、唯でさえ更に高文脈な賢者はそれでも冗長に感じるだろうからだ。
結論としていえるのは、我々は高文脈表現を日頃から用いれば衆愚よけになるという話。
もし凡愚のしがちな勘違い「わかり易さが賢さ」を反面教師とするなら(大抵のサルにとってヒトよりましなサルが賢い様に)、「自分にとって分かり辛い範囲に真の賢さがある」と考えるべきだ。既に分かっている範囲の賢愚は所詮、自分と似た程度の賢愚、即ち小賢小愚でしかない。大賢大愚は想定し難い。
(上では文脈論で解読したが、それを応用すると、例えば英語帝国主義者の傲慢などは高文脈系モンスタークレーマーの一種と解釈できよう。非母語話者にとっての英語は多かれ少なかれ低文脈たらざるをえないが、それをピジン方言(母語話者らにとっての第三言語)とみなさず、自文化中心にみているから)
これは典型的な詐欺に弱いタイプといっていい。相手の知的水準に合わせ詭弁を弄する相手を、真理を説く人物より賢いと思い込んでしまうのに、「賢い人はわかり易く説く」と妄信しているからだ。
賢愚を仮に客体物とする。例えば地動説(更には地上では私しかまだ認知内にはっきり概念としてもっていないだろうが、銀河流動含む全天体移動説)を知らない人にとって、天動説が中世人の理解度にふさわしい知識だったとする。
そのとき未知の理論は自分の定常的理解の様式から遠いほど分かり辛い。
いわば人の認知内にある賢愚の判定は、常にヘッドライト的なもので、その範囲内でしか道と落とし穴を区別できない。しかしこれは主観的賢愚である。だから目前のヘッドライトが照らしていない理解度の範囲にある真の賢さを、当人はそうと認められない。即ち賢さ一般を当人のわかり易さと勘違いする。
然るに、第三者の理解度は一般に未知である。例えば、逆に学力試験を行って一定知識の有無を前提に話をする場合などは、理解度の前提を過度に低く見積もる必要がなく一種の公理系の役割を果たす。足きりある進学校などで教養系の会話がなりたつのも同様の理屈により、一種の高文脈が使えるからだ。
が一般人を相手取ると、その潜在的多様性が高いほど最大公約数となる最低限度の知識は限定せざるをえず、それ自体にも定義からやり直す必要性がますので低文脈化し、自然に冗長な説明が必要となるだろう。
相手の無知が想定されればされるほどこの作業が煩瑣となり、説明言語も幼稚となるだろう。
つまり、説明の前提となる相手の知識体系とその理解度が事前に信号として伝わっていなければ、又は会話途中で相手側から適宜なその種の情報提供がなければ、そもそも相手にとってわかり易い説明を最適化するのは困難である。
ではなぜ凡愚はこの手間がないと思い込んでいるのか?
彼らは第一に自分の理解度が相手にわかっていない状態を想定するだけの知能がない。それで当然の如く相手が自分の理解度に最適化した説明をできると思い込んでいる。裏返せば、普段から自分と同質の相手(ある事柄について同程度に暗愚なのだろう)と馴れ合って暮らしていて高下文脈を理解していない。
即ちもし説明者が丁寧かつ冗長に何事かを教えてくれているなら、自分の前提知識如何に関わらず低文脈を使ってくれているのだから、相手の負担は重く、感謝して当然なのである。
だが凡愚はこの逆の態度である。上から目線で簡単にいえ等の非道な罵倒は無論、無礼千万働きつつ群れて得々としている。
接客業者に「モンスタークレーマー」と呼ばれる種類の人達も正にこの変奏で、己の物分りが悪いのを棚に上げている馬鹿である。ツイッター民の一部にいる匿名衆愚も同様で、高文脈に話されればついてこれないのは明らかなのに、暗愚だからこそダニクル効果の高慢が激しく観察できる。
では我々はその種の凡愚をどう扱うべきか?
接客業者は低文脈を前提に、ある事柄の説明技術をためていくしかない。例えば通俗的な視聴率稼ぎのYouTuberとかも。だが一般にその種の凡愚と接するのは百害あって一利ないであろう。
よって基本的に我々は高文脈で会話するのがいいのだ。
普段の言葉遣いで、大抵の人は中文脈を使っている。前提知識がないとわかりづらいこと(知的内容かに関わらず内輪受けともいいかえられる)について部外者にも程ほどに分かる表現を用いるなどだ。例えばwから派生したネット俗語で「草」と書かず「笑」と書くとか。若者言葉や方言を標準語にするとか。
しかしこれは普遍的に説明する必要がある場合で、不特定多数が読めるツイッターの様な場では却って不合理でもある。なぜなら上述の俗に言う「クソリプ(糞replyの略で、客観的に下らない誹謗などの返信)」を送ってくる人達にもおおよそ誤解させつつ、辛うじて認知できてしまうからだ。
冒頭に挙げたよう、究極の賢愚(必ずしも他の主観からの客観視という意味ではない)は認知ヘッドライトの外にあり、それは自分の主観的判定を超えているとすると、高文脈を使い可読者を意図して絞っても、自分に理解不能なほど賢い返信その他はどうせ網にかからない。神の言葉は聞けないのである。
では高文脈を使う不合理がどこにあるというのだろう? 自分の文や表現が愚者(多くの場合、悪人を含む)に近づき難いだけでも十分効果があるし、唯でさえ更に高文脈な賢者はそれでも冗長に感じるだろうからだ。
結論としていえるのは、我々は高文脈表現を日頃から用いれば衆愚よけになるという話。
もし凡愚のしがちな勘違い「わかり易さが賢さ」を反面教師とするなら(大抵のサルにとってヒトよりましなサルが賢い様に)、「自分にとって分かり辛い範囲に真の賢さがある」と考えるべきだ。既に分かっている範囲の賢愚は所詮、自分と似た程度の賢愚、即ち小賢小愚でしかない。大賢大愚は想定し難い。
(上では文脈論で解読したが、それを応用すると、例えば英語帝国主義者の傲慢などは高文脈系モンスタークレーマーの一種と解釈できよう。非母語話者にとっての英語は多かれ少なかれ低文脈たらざるをえないが、それをピジン方言(母語話者らにとっての第三言語)とみなさず、自文化中心にみているから)
都会暮らしは不幸の量産装置
愚か者を餌付けするな。馬鹿な要求に従うな。彼らの求める逆こそ正しい。
愚か者は疎まれ、卑しい人は死に絶えてもすぐ忘れ去られる。彼らの一生はむなしい。
愚者や卑人の集まる都会に近づくな。人は賢者や貴人のうちにあってはじめて幸を得る。虚栄と悪徳に満ちた都会暮らしは不幸を量産する。
愚か者は疎まれ、卑しい人は死に絶えてもすぐ忘れ去られる。彼らの一生はむなしい。
愚者や卑人の集まる都会に近づくな。人は賢者や貴人のうちにあってはじめて幸を得る。虚栄と悪徳に満ちた都会暮らしは不幸を量産する。
下衆の虚栄
卑しい集団にいて、卑しい人々が名誉を与えられているのをみれば、その集団から一刻も早く離れ、二度と関わらぬがいい。なぜならその集団内の人々は尊卑を取り違えているばかりか、相対的に尊い人達を無碍にしている悪徳に満ちた無能たちなので、日々積み重ねる蛮行の果て、遠からず破滅するのだから。
卑しい人々を観察する機会は、その反対側にある徳を想起する手立てでしかありえない。
愚者が愚かさに驕っているのは惨めだが、それは彼らが不勉強を習性にしてしまった因果でしかない。
より一層惨めなのは、そういった愚者らが群れ、互いに正しさを非難しあっている光景だ。だが日本で匿名の人々の間に分け入ってみれば、その種の衆愚が腐るほど湧いている。彼らは世界最悪の仲間だ。
衆愚は不幸な一生の模範である。
卑しい人々を観察する機会は、その反対側にある徳を想起する手立てでしかありえない。
愚者が愚かさに驕っているのは惨めだが、それは彼らが不勉強を習性にしてしまった因果でしかない。
より一層惨めなのは、そういった愚者らが群れ、互いに正しさを非難しあっている光景だ。だが日本で匿名の人々の間に分け入ってみれば、その種の衆愚が腐るほど湧いている。彼らは世界最悪の仲間だ。
衆愚は不幸な一生の模範である。
賢者の役割
年少者や無名が前提的に愚かだと思っている人は確実に足元を掬われる。
愚か者の相手をする時間に、自分が少しでも賢くなるよう時を用いるべきだ。
愚か者は教えても学ばない。そして悪質なら様々な人達に害をなし生きている。愚か者の社会的役割は、賢者や一般人の避けるべき悪例でしかない。
生まれながら愚かな人を助けたくとも、自らが模範となるしかない。
世間は人も物も鑑識力が一切ないに等しく、ただの銘柄にだまされたり多数派から容易に扇動される。だが彼ら全員の死後、なにが重要でなにがそうでなかったかがはじめて客観視される。
次世代の俗人も同一遺伝であり、やはり暗愚なのは変わらないので、常に、この客観視は一部の賢者のみが行える。
愚か者の相手をする時間に、自分が少しでも賢くなるよう時を用いるべきだ。
愚か者は教えても学ばない。そして悪質なら様々な人達に害をなし生きている。愚か者の社会的役割は、賢者や一般人の避けるべき悪例でしかない。
生まれながら愚かな人を助けたくとも、自らが模範となるしかない。
世間は人も物も鑑識力が一切ないに等しく、ただの銘柄にだまされたり多数派から容易に扇動される。だが彼ら全員の死後、なにが重要でなにがそうでなかったかがはじめて客観視される。
次世代の俗人も同一遺伝であり、やはり暗愚なのは変わらないので、常に、この客観視は一部の賢者のみが行える。
望ましい生
邪悪で、性悪で、利己的な人はわけもなくふえているが、それは我々が害虫や害獣の繁殖に対して感じるのと同じほどの自然現象でしかない。
もし誕生を心から祝われる存在がいても、それは日頃から尊く、性格の極めてよい人同士の、社会的に公益で公認された関係からの出生だけだろう。
この世では最も正しい人に従うがいい。
世間は大概の事柄について大いに間違えている。自分が不明なことについて付き従うのは次善の人でもいけない。
全ての事柄について最善の人のみが非の打ち所がない模範解答をもっている。
もし誕生を心から祝われる存在がいても、それは日頃から尊く、性格の極めてよい人同士の、社会的に公益で公認された関係からの出生だけだろう。
この世では最も正しい人に従うがいい。
世間は大概の事柄について大いに間違えている。自分が不明なことについて付き従うのは次善の人でもいけない。
全ての事柄について最善の人のみが非の打ち所がない模範解答をもっている。
2020年2月26日
人という憎むべきもの
人なる生命体は
底知れず悪質だ
僕は子供の頃それを知らず
この世を勘違いしていた
絵本やロールプレイングゲーム
その中にいたのは人ではなかった
唯の空想
現実の人は2chにいた
ピグにいた
ツイッターにいた
彼らは主に都会に住んでいて
想像を超え悪意だった
唯の衆愚
僕は人が一番嫌いになった
底知れず悪質だ
僕は子供の頃それを知らず
この世を勘違いしていた
絵本やロールプレイングゲーム
その中にいたのは人ではなかった
唯の空想
現実の人は2chにいた
ピグにいた
ツイッターにいた
彼らは主に都会に住んでいて
想像を超え悪意だった
唯の衆愚
僕は人が一番嫌いになった
陰徳の道理
「善行は隠れてせよ」という聖書(マタイによる福音書6:1)などにみられる私徳は、日本人衆愚の普段の行動原理の、真逆に位置づけられる。
またサイコパスなどは、そもそも良心を程あれ感知できないので、名誉獲得に反するこの私徳を理解できない。
いわば陰徳積善は良心の強化を促す。
普段の行いが真逆であれば、日本人衆愚、あるいは一般大衆は、総じて極悪人の集まりだといってもよい。
荒らし自体は最大で全体の5.6%程(Erin E.Buckelsらの"Trolls just want to have fun"(2.2.2.))としても、彼らはその荒らしと群れ匿名で悪業を為すのが板についていて、急場により邪悪になる。
極悪人達が自滅への道を辿っているのもまた確かであり、相互に悪意もしくは悪徳目的に接しあうのだから彼ら日本人大衆仲間の日々は地獄となる。
自ら良心を強化する自由人側にだけ、望ましい文明が開かれる。避けがたく悪行をなさざるをえないなら、進んで実名で責めを負う方がましなのである。
またサイコパスなどは、そもそも良心を程あれ感知できないので、名誉獲得に反するこの私徳を理解できない。
いわば陰徳積善は良心の強化を促す。
普段の行いが真逆であれば、日本人衆愚、あるいは一般大衆は、総じて極悪人の集まりだといってもよい。
荒らし自体は最大で全体の5.6%程(Erin E.Buckelsらの"Trolls just want to have fun"(2.2.2.))としても、彼らはその荒らしと群れ匿名で悪業を為すのが板についていて、急場により邪悪になる。
極悪人達が自滅への道を辿っているのもまた確かであり、相互に悪意もしくは悪徳目的に接しあうのだから彼ら日本人大衆仲間の日々は地獄となる。
自ら良心を強化する自由人側にだけ、望ましい文明が開かれる。避けがたく悪行をなさざるをえないなら、進んで実名で責めを負う方がましなのである。
啓蒙は慈善活動
インターネット上の赤の他人、特に匿名の衆愚の言動を色々みた感じ、彼らに好かれることは百害あって一利もないのではないかと感じる。
匿名でも善良で賢明な人はいるのかもしれないが、基本的にそういう人が匿名でいる利益がないので、優れた人は基本的に、実名の名誉の中にいる。
それで、その匿名のうち衆愚としかいえない荒らしの類は、色々と批評以前の誹謗をするのだけれども(一見、批評めかしてるのでたちが悪い)、散々思慮をめぐらし彼らの言動を分析し直しても、あきれ返るほど中身がない。最後まで分析しきっても、往々にしてあとに残るのは彼らの悪意だけなので最悪だ。
それで基本的には、衆愚の逆張りするに越したことはない。だってどうみても暗愚なだけでなく悪意ある人達なんだから、基本的には彼らの言説は間違っているわけだ。
例えれば乱射銃みたいなもので相手が嫌がれば点数と思ってるだけだから、事実上、適当な誹謗がランダムに行われるだけだろう。
もし、親切に忠告してるつもりで、しかもそれが正しく賢い意見なら分かる。批評文は真偽判断できれば、道徳学説又は美学としても、真理かどうか一般的に分かる。が、衆愚の誹謗の類は「衆愚の仲間には、一見正しそうに見える虚偽」、つまり詭弁が多い。彼らの目的は仲間を擾乱することにすぎないのだ。
こうして、匿名衆愚の行動規則は、ひたすら一見正しそうに見えるが科学的・道徳的に正しくない無数の詭弁をひねりだしつつ、多数派を偽装し、相手を混乱させようとし、嫌がらせすることにすぎないので、基本的には彼らの言動を聴かない方が得策だ。
むしろ自分より賢い人達から学ぶ時間に使うべき。
ツイッター民全般に、賢い忠告を求めるのは海に山の物を求めるのと似ている。全て聞いたわけではないが、自分が1年余りいて、そういう的確な忠告が得られたことはまだない。
賢人がいてもただ黙って読んでいるか、そもそもいないか、自分に興味がないか、みつかっていない、いづれかと思われる。
辛うじて、簡単な間違い、ケアレスミスを指摘してくれた人はいた。それについては教えてくれた人に感謝したのだが、頻繁にそういう訂正してくれる人がいるでもない。僕があんまり間違えてないからなのか、それ以外なのかもよくわからない。つまり、知性をツイッター民一般に期待できないわけである。
僕的には、私見は全て間違ってるだろう、くらいに思っているので、僕の本来の生きているべき場所だと、何か書いたら100%色んな人達から批評され、しかも自分より遥かに優れた意見が無数に飛び交っているので、無限に学習できる。が、日本語ツイッターはそういう場所では全然ないらしい。なぜなのか。
1.僕が日本平均水準からみて恐ろしく賢いので周りが全部、的確に批判できない
2.僕の意見がそもそも批評に値しないほど下らない(この可能性が最も高いのだろうが、自分的には現代世界の古典書いてるつもりなのだが)
3.ツイッターでまだ賢者に見つかっていない
4.ツイッターに賢者がいない
ダニクル効果を無視すると、4.が正しいのかもしれない。確かにこれは、といえる人(世界文化史に必須項目で載るレベルの人)を、最大限謙遜さっぴいて自分以外みたことがないし、そうなら最初からやめるべきなのかも。
豚に真珠で、賢者がいない場で真理を説いても意味がない。
僕は、飽くまで親切のつもりでここにいる。
昔、親友が言っていた。僕が今みたく世俗に呆れていて、世人に教え説くのは意味がないんじゃないかといったら、「偉人が飽くまでも説教したから大衆の一部が啓蒙されたともいえる」云々。
確かに一理あるかと思ったが、その偉人は苦痛だったに違いない。
生まれつき賢愚があり啓蒙がもともと根本的に不可能な限り、法施だの教化だのは、慈善活動の一部でしかない。
但し、慈善をし慣れている人とそうでない人がいれば、慣れている人のがよりよくやれるのは、バフェットとゲイツの交流からも明らかだし、僕はその親友の忠告を受け毎日慈善活動してきた。
匿名の衆愚は啓蒙できない。
できるのは、ツイッター民中でも比較的ましな人(孔子のいう中人以上)に、なんらかのよい影響を与えるまでだ。しかしそれで十分と考えるべきだろう。なにせ、全く慈善家がいないときに比べれば平均の良識度があがるだろうし、僕の聖徳が極々高ければ上限を更新できる。
匿名でも善良で賢明な人はいるのかもしれないが、基本的にそういう人が匿名でいる利益がないので、優れた人は基本的に、実名の名誉の中にいる。
それで、その匿名のうち衆愚としかいえない荒らしの類は、色々と批評以前の誹謗をするのだけれども(一見、批評めかしてるのでたちが悪い)、散々思慮をめぐらし彼らの言動を分析し直しても、あきれ返るほど中身がない。最後まで分析しきっても、往々にしてあとに残るのは彼らの悪意だけなので最悪だ。
それで基本的には、衆愚の逆張りするに越したことはない。だってどうみても暗愚なだけでなく悪意ある人達なんだから、基本的には彼らの言説は間違っているわけだ。
例えれば乱射銃みたいなもので相手が嫌がれば点数と思ってるだけだから、事実上、適当な誹謗がランダムに行われるだけだろう。
もし、親切に忠告してるつもりで、しかもそれが正しく賢い意見なら分かる。批評文は真偽判断できれば、道徳学説又は美学としても、真理かどうか一般的に分かる。が、衆愚の誹謗の類は「衆愚の仲間には、一見正しそうに見える虚偽」、つまり詭弁が多い。彼らの目的は仲間を擾乱することにすぎないのだ。
こうして、匿名衆愚の行動規則は、ひたすら一見正しそうに見えるが科学的・道徳的に正しくない無数の詭弁をひねりだしつつ、多数派を偽装し、相手を混乱させようとし、嫌がらせすることにすぎないので、基本的には彼らの言動を聴かない方が得策だ。
むしろ自分より賢い人達から学ぶ時間に使うべき。
ツイッター民全般に、賢い忠告を求めるのは海に山の物を求めるのと似ている。全て聞いたわけではないが、自分が1年余りいて、そういう的確な忠告が得られたことはまだない。
賢人がいてもただ黙って読んでいるか、そもそもいないか、自分に興味がないか、みつかっていない、いづれかと思われる。
辛うじて、簡単な間違い、ケアレスミスを指摘してくれた人はいた。それについては教えてくれた人に感謝したのだが、頻繁にそういう訂正してくれる人がいるでもない。僕があんまり間違えてないからなのか、それ以外なのかもよくわからない。つまり、知性をツイッター民一般に期待できないわけである。
僕的には、私見は全て間違ってるだろう、くらいに思っているので、僕の本来の生きているべき場所だと、何か書いたら100%色んな人達から批評され、しかも自分より遥かに優れた意見が無数に飛び交っているので、無限に学習できる。が、日本語ツイッターはそういう場所では全然ないらしい。なぜなのか。
1.僕が日本平均水準からみて恐ろしく賢いので周りが全部、的確に批判できない
2.僕の意見がそもそも批評に値しないほど下らない(この可能性が最も高いのだろうが、自分的には現代世界の古典書いてるつもりなのだが)
3.ツイッターでまだ賢者に見つかっていない
4.ツイッターに賢者がいない
ダニクル効果を無視すると、4.が正しいのかもしれない。確かにこれは、といえる人(世界文化史に必須項目で載るレベルの人)を、最大限謙遜さっぴいて自分以外みたことがないし、そうなら最初からやめるべきなのかも。
豚に真珠で、賢者がいない場で真理を説いても意味がない。
僕は、飽くまで親切のつもりでここにいる。
昔、親友が言っていた。僕が今みたく世俗に呆れていて、世人に教え説くのは意味がないんじゃないかといったら、「偉人が飽くまでも説教したから大衆の一部が啓蒙されたともいえる」云々。
確かに一理あるかと思ったが、その偉人は苦痛だったに違いない。
生まれつき賢愚があり啓蒙がもともと根本的に不可能な限り、法施だの教化だのは、慈善活動の一部でしかない。
但し、慈善をし慣れている人とそうでない人がいれば、慣れている人のがよりよくやれるのは、バフェットとゲイツの交流からも明らかだし、僕はその親友の忠告を受け毎日慈善活動してきた。
匿名の衆愚は啓蒙できない。
できるのは、ツイッター民中でも比較的ましな人(孔子のいう中人以上)に、なんらかのよい影響を与えるまでだ。しかしそれで十分と考えるべきだろう。なにせ、全く慈善家がいないときに比べれば平均の良識度があがるだろうし、僕の聖徳が極々高ければ上限を更新できる。
自由人になる道
日本国民一般なのかネットの匿名衆愚はことあるごとに僕を理由もなく誹謗しまくってきたが、全体として彼らが自分にこの国の為に何かをしてほしいと思っていないのは明らかなので(人に物を頼む態度ではない)、自分は最近リバタリアニズムに惹かれているというか、それ以外合理性に欠けていると思う。
リバタリアニズムは自由至上主義と訳されるが、文字通りなら自由人主義、この場合の文脈なら無国家主義といえよう。確かに自分は関西人一般とか東京人の一部とかと特に相性が悪く、デフォルトで差別や誹謗されることが多い。関西文化といえば下品なお笑い前提で馬が合わないし、東京は田舎差別が酷い。
対して自分は、先ず下品な物より上品な物を好む様にできている。それで基本的に関西文化、特に大阪吉本文化が嫌いである。京都文化については嫌いを通り越して大いに苦手で、中華思想で無意味な侮辱されて嬉しいわけもないが、特にイケズというのが受けつけない。僕は性善的文化で育っているので。
東京圏の場合、町人文化の影響が普通に残っていて下品さが物凄い。特に性に関する下衆さが甚だしくて全然うけつけない。都民って下は10代から上は東大博士まで、性売買罪だか淫行をさもよいことみたいにいってて、純潔をデフォで侮辱してくるのだ。そんなけがれた社会適応したくもないだろう。
すくなくとも、東日本の大都市部、西日本の大都市部と自分はものすごく相性が悪い。それで同じ国民だとおもわれたくないし、そもそも混じれないのである。
東京人だの大阪人だの京都人だのは、自分らが日本の中心だみたいにおごりきっているけれども、僕からみたら下劣な部類ほど傲慢なのである。
んで、自由人は国を必要としない。でも、基本的には資本を必要とする。端的にいうとカネである。カネがあれば特定の国に社会扶助うけなくても自由に移動できるから自然、自由人になり易いわけだ。
現時点で僕はカネがほとんどないに等しいが、精神面では自由人なので将来、カネが入る様な気がする。
もしかすると、カネがない精神の自由人の方が偉いのかもしれない。仏陀みたいな人。昔でいう浪人、世捨て人、吟遊詩人みたいな人達。でも日本国内だと乞食が民法で禁止されてるせいで、托鉢できないため、仏教僧は葬式の戒名とか寺の参観料とかで食っている。乞食は宗教者には許可されるべきではないか?
最近、「プロ奢ラレイヤー」とか、すげー横文字もどき使ってる猛者がいる。歌手になる前の坂爪圭吾も、現代詩人として仏陀や聖人級になりうるなこれと思って僕は注目してたんだけど、なんかモテキャラになろうとしたかでバンド始めてしまった。若者は変わりやすい。
自由人ルートは一つではない。
リバタリアニズムは自由至上主義と訳されるが、文字通りなら自由人主義、この場合の文脈なら無国家主義といえよう。確かに自分は関西人一般とか東京人の一部とかと特に相性が悪く、デフォルトで差別や誹謗されることが多い。関西文化といえば下品なお笑い前提で馬が合わないし、東京は田舎差別が酷い。
対して自分は、先ず下品な物より上品な物を好む様にできている。それで基本的に関西文化、特に大阪吉本文化が嫌いである。京都文化については嫌いを通り越して大いに苦手で、中華思想で無意味な侮辱されて嬉しいわけもないが、特にイケズというのが受けつけない。僕は性善的文化で育っているので。
東京圏の場合、町人文化の影響が普通に残っていて下品さが物凄い。特に性に関する下衆さが甚だしくて全然うけつけない。都民って下は10代から上は東大博士まで、性売買罪だか淫行をさもよいことみたいにいってて、純潔をデフォで侮辱してくるのだ。そんなけがれた社会適応したくもないだろう。
すくなくとも、東日本の大都市部、西日本の大都市部と自分はものすごく相性が悪い。それで同じ国民だとおもわれたくないし、そもそも混じれないのである。
東京人だの大阪人だの京都人だのは、自分らが日本の中心だみたいにおごりきっているけれども、僕からみたら下劣な部類ほど傲慢なのである。
んで、自由人は国を必要としない。でも、基本的には資本を必要とする。端的にいうとカネである。カネがあれば特定の国に社会扶助うけなくても自由に移動できるから自然、自由人になり易いわけだ。
現時点で僕はカネがほとんどないに等しいが、精神面では自由人なので将来、カネが入る様な気がする。
もしかすると、カネがない精神の自由人の方が偉いのかもしれない。仏陀みたいな人。昔でいう浪人、世捨て人、吟遊詩人みたいな人達。でも日本国内だと乞食が民法で禁止されてるせいで、托鉢できないため、仏教僧は葬式の戒名とか寺の参観料とかで食っている。乞食は宗教者には許可されるべきではないか?
最近、「プロ奢ラレイヤー」とか、すげー横文字もどき使ってる猛者がいる。歌手になる前の坂爪圭吾も、現代詩人として仏陀や聖人級になりうるなこれと思って僕は注目してたんだけど、なんかモテキャラになろうとしたかでバンド始めてしまった。若者は変わりやすい。
自由人ルートは一つではない。
日本人の匿名衆愚はいわゆる雑魚キャラでドラクエでいう名もなき町の人説
風呂はいっててすごいこと気づいた。
一般大衆というか日本人の匿名モブって、こっちからみると何であんなに卑怯なの? と感じるわけだけど、はっと悟ったが、彼らって自分が卑怯だと気づいてないんじゃないだろうか?
ドラクエのステータスに「勇気」(低いほど臆病)ってのがあったら、デフォが10だとすると、日本人の衆愚って大体、生まれつき1とか2くらいなんじゃないだろうか?
それに対して、日本人でも実名を堂々と出して活動してる人っているけど、そういう人はなんらかの理由で、「勇気」のステータスが10以上なんだろう。で、外人は、普通デフォで勇気10以上だから、日本人モブだけ異常に卑怯にみえるんだろう。
僕が彼らモブを「雑魚キャラ」と名づけたのは、完璧にあたってるとみた。まあもしかすると、勇気のステータスが普通より遥かに低くても、冒険のどこかで何かの役に立つやつもいるのかもしれないけども、基本的にはダメでパーティの足引っ張るだけだから置いてけぼりにするしかないのだろう。
勇気ステータスには上限がなく、大体99くらいで打ち止めになるが、例えば桜田烈士とか赤穂浪士は皆そのステータスが100以上いってたんだろう。特攻隊や人間魚雷になった人とか、飛虎将軍もそうかもしれないし、あと最近だとこないだのJCO事故で青い光見て事故収束させて死んだ職員とか。
ドラクエでも町の人には名前がない。ほぼみんな*とか匿名である。すなわち雑魚キャラ。
2chねらーとかガールズちゃんねらーとかヤフコメ民とか、ユーチューブ捨てアカでコメント打ってる人らとか、ツイッター匿名・偽名捨てアカ民とかも基本的にそれである。それで相手にするとダメだったのだ。
「今更気づいたか!」という話だが、僕が10代半ばくらいでパソコンでネット回線に繋いだ頃から、2chとかいうろくでもない雑魚の集まりがでてきて、途中ではミクシーやピグがあって、でフェイスブックが大物になり、ツイッターを大統領まで使い出して、大体全部で15年してようやく意味がわかった。
SNSに溢れかえる匿名の雑魚。これまともに相手にすると馬鹿をみる。だって全体をRPGと考えると、町の人の中でもくだらねーやつらに、一々Aボタン連打するみてーなもんだったのである。大体似た様な誹謗しかしてこない。それは日本という町が退廃的な場所で、民衆が総じて酷い連中だからだったのだ。
一般大衆というか日本人の匿名モブって、こっちからみると何であんなに卑怯なの? と感じるわけだけど、はっと悟ったが、彼らって自分が卑怯だと気づいてないんじゃないだろうか?
ドラクエのステータスに「勇気」(低いほど臆病)ってのがあったら、デフォが10だとすると、日本人の衆愚って大体、生まれつき1とか2くらいなんじゃないだろうか?
それに対して、日本人でも実名を堂々と出して活動してる人っているけど、そういう人はなんらかの理由で、「勇気」のステータスが10以上なんだろう。で、外人は、普通デフォで勇気10以上だから、日本人モブだけ異常に卑怯にみえるんだろう。
僕が彼らモブを「雑魚キャラ」と名づけたのは、完璧にあたってるとみた。まあもしかすると、勇気のステータスが普通より遥かに低くても、冒険のどこかで何かの役に立つやつもいるのかもしれないけども、基本的にはダメでパーティの足引っ張るだけだから置いてけぼりにするしかないのだろう。
勇気ステータスには上限がなく、大体99くらいで打ち止めになるが、例えば桜田烈士とか赤穂浪士は皆そのステータスが100以上いってたんだろう。特攻隊や人間魚雷になった人とか、飛虎将軍もそうかもしれないし、あと最近だとこないだのJCO事故で青い光見て事故収束させて死んだ職員とか。
ドラクエでも町の人には名前がない。ほぼみんな*とか匿名である。すなわち雑魚キャラ。
2chねらーとかガールズちゃんねらーとかヤフコメ民とか、ユーチューブ捨てアカでコメント打ってる人らとか、ツイッター匿名・偽名捨てアカ民とかも基本的にそれである。それで相手にするとダメだったのだ。
「今更気づいたか!」という話だが、僕が10代半ばくらいでパソコンでネット回線に繋いだ頃から、2chとかいうろくでもない雑魚の集まりがでてきて、途中ではミクシーやピグがあって、でフェイスブックが大物になり、ツイッターを大統領まで使い出して、大体全部で15年してようやく意味がわかった。
SNSに溢れかえる匿名の雑魚。これまともに相手にすると馬鹿をみる。だって全体をRPGと考えると、町の人の中でもくだらねーやつらに、一々Aボタン連打するみてーなもんだったのである。大体似た様な誹謗しかしてこない。それは日本という町が退廃的な場所で、民衆が総じて酷い連中だからだったのだ。
2020年2月25日
感情文法について
日本人、だけじゃないかもしれないが、日本語ツイッター民のうち、相当部分の人達は、何かそのひとにとって致命的に重要な知識、知見を親切のつもりで教えても逆切れしてくる。彼らは感情、情緒の動物で、理性とか知性にはとんと縁がない。以前から日本人論でよく言われる観点だが、正にその通り。
したがって善意から、彼ら日本人らに何かを教えるべきではないのだと思う。無知のままにしておき、死ぬならしぬ、自滅するなら自滅する、なにも啓蒙せず業のままにしておけばいいのだろう。
随分前から自分は啓蒙が不可能だと悟っているのだが、日本人大衆に向けては尚更だろう。
ツイッターの使い道としても全く同じで、原則、返信を使わない方がいい。
愚者は虚栄心が激しいもので、当人の信じているなんらかの妄想(科学すら究極では妄想だ)に、或る矛盾があると伝えられただけでも発狂してしまう。それだけ愚かな人達なのだから、無限の誤りがあっても反省は永遠にしない。
裏返せば、自己の誤り易さを自覚し、数多ある意見のうち最も正しいと思われる見解を常に自己批評し続けるだけでなく(つまり方法懐疑)、そもそもあらゆる自見を恒常的信念と思わないことが重要だ。いわゆる無我。
よく愚者に見られる類型で他見を「論破」するといっているが、これゆえ無意味だ。
感情知能はそれ自体に巧拙がある。優れた感情表現を使えば日本人のよう、相対的に理知が弱い種族又は文化集団を扇動することはできる。
こちらの手法は悪用される可能性がある限り、私の生前に自分の得ている手法を公にすべて説明するつもりはないが、感情論には固有の脆弱性がある。
その脆弱性を突けば、全体を特定目的に向け操作できる。この点は、理知も手法は違えど多かれ少なかれ似ているが(例えば先端科学は常に固有文法を使った扇動だろうし、道徳論はどれも個人教義の部分にほかならない)、感情の方がより瞬発的で、極端に流れ易い(例えば神道は情念による洗脳が目的だ)。
SNSは総じて権力闘争の場といってよくその内部には特有の文法とその規則がある。これも使い道によっては乱用されうるが、最善の目的に向け指揮すれば、公益に合致する。
ここでいいたいのは、感情論に弱い民族・語族はその内部文法の熟達者に統治されているということだ。啓蒙しなくとも結果は同じ。
したがって善意から、彼ら日本人らに何かを教えるべきではないのだと思う。無知のままにしておき、死ぬならしぬ、自滅するなら自滅する、なにも啓蒙せず業のままにしておけばいいのだろう。
随分前から自分は啓蒙が不可能だと悟っているのだが、日本人大衆に向けては尚更だろう。
ツイッターの使い道としても全く同じで、原則、返信を使わない方がいい。
愚者は虚栄心が激しいもので、当人の信じているなんらかの妄想(科学すら究極では妄想だ)に、或る矛盾があると伝えられただけでも発狂してしまう。それだけ愚かな人達なのだから、無限の誤りがあっても反省は永遠にしない。
裏返せば、自己の誤り易さを自覚し、数多ある意見のうち最も正しいと思われる見解を常に自己批評し続けるだけでなく(つまり方法懐疑)、そもそもあらゆる自見を恒常的信念と思わないことが重要だ。いわゆる無我。
よく愚者に見られる類型で他見を「論破」するといっているが、これゆえ無意味だ。
感情知能はそれ自体に巧拙がある。優れた感情表現を使えば日本人のよう、相対的に理知が弱い種族又は文化集団を扇動することはできる。
こちらの手法は悪用される可能性がある限り、私の生前に自分の得ている手法を公にすべて説明するつもりはないが、感情論には固有の脆弱性がある。
その脆弱性を突けば、全体を特定目的に向け操作できる。この点は、理知も手法は違えど多かれ少なかれ似ているが(例えば先端科学は常に固有文法を使った扇動だろうし、道徳論はどれも個人教義の部分にほかならない)、感情の方がより瞬発的で、極端に流れ易い(例えば神道は情念による洗脳が目的だ)。
SNSは総じて権力闘争の場といってよくその内部には特有の文法とその規則がある。これも使い道によっては乱用されうるが、最善の目的に向け指揮すれば、公益に合致する。
ここでいいたいのは、感情論に弱い民族・語族はその内部文法の熟達者に統治されているということだ。啓蒙しなくとも結果は同じ。
裏切りの戦略について
明らかに自民支持者を裏切り、保守の大敵となった百田氏が今度は野党・左翼を一括りに下品な言動で罵倒しだして、これ終わったなと。
右からも左からも、下手すると中道やノンポリからも敵になりかねない言動をまきちらすとは、戦略性が全くない。第二籠池といってる人いたが、それより遥かやばい。
きのう、これ素で愛国行動なんだろうなと思って誉めるツイートしてから客観視し直して、彼を無条件礼賛してると例えば子供がそれをみて、彼の全人格まで優れてると勘違いしかねないと反省して条件つきに替えた。
が今日の言動みたらもっとやばかった。君子豹変と程遠く、安倍独裁の犠牲になりそう。
端的にいって彼のファンかそれを偽装するモブ(有権者全体に比べ決して数は多くない)を除いて、全員を敵にしたといってもいい状態なので、近いうちに破滅する可能性がある。
愛国志士でも政治知能が十分ないと、濡れ衣着せられ社会的無駄死に。生き延びても関係者全員敵にしてるからあとがまずい。
普段から衆愚を味方にしてる人は、いざとなってもその縁起を十分断ち切るのが難しい。今回自分は彼の言行から人の常住の業をみた。
普段から衆愚を天敵にしておかないと、おいつめられた時になおさら恐ろしい。周りに群れてくるのが暗愚で悪意の人々なのだから破滅の度合いが甚だしくなる一方だ。
マキャベリ的知性についていえば、AとBの二大対立勢力があってAを明白に裏切っておきながらBをも味方しない場合、後ろ盾がなければ確実に死ぬ。今後の彼の社会的地位の変転とその顛末は、実に興味深いだろう。
英雄足る為には無謀に匹夫の勇を示し散るのではいけない。最終勝利で大義を踏むべきだ。
右からも左からも、下手すると中道やノンポリからも敵になりかねない言動をまきちらすとは、戦略性が全くない。第二籠池といってる人いたが、それより遥かやばい。
きのう、これ素で愛国行動なんだろうなと思って誉めるツイートしてから客観視し直して、彼を無条件礼賛してると例えば子供がそれをみて、彼の全人格まで優れてると勘違いしかねないと反省して条件つきに替えた。
が今日の言動みたらもっとやばかった。君子豹変と程遠く、安倍独裁の犠牲になりそう。
端的にいって彼のファンかそれを偽装するモブ(有権者全体に比べ決して数は多くない)を除いて、全員を敵にしたといってもいい状態なので、近いうちに破滅する可能性がある。
愛国志士でも政治知能が十分ないと、濡れ衣着せられ社会的無駄死に。生き延びても関係者全員敵にしてるからあとがまずい。
普段から衆愚を味方にしてる人は、いざとなってもその縁起を十分断ち切るのが難しい。今回自分は彼の言行から人の常住の業をみた。
普段から衆愚を天敵にしておかないと、おいつめられた時になおさら恐ろしい。周りに群れてくるのが暗愚で悪意の人々なのだから破滅の度合いが甚だしくなる一方だ。
マキャベリ的知性についていえば、AとBの二大対立勢力があってAを明白に裏切っておきながらBをも味方しない場合、後ろ盾がなければ確実に死ぬ。今後の彼の社会的地位の変転とその顛末は、実に興味深いだろう。
英雄足る為には無謀に匹夫の勇を示し散るのではいけない。最終勝利で大義を踏むべきだ。
情報収集能力とその冗長性
人は自分の生態に必要な情報を取捨選択しているにすぎないので、その埒外にある情報まで収集を試みる程度は、自由意志の幻想の中でその人の潜在的好奇心いいかえれば宿命によっているにすぎない。
端的にいえば、ある人の或る認知力が高いほどその種の機会を得て、自ら理解度を深めていくのだろう。
冗長性を無用に排除したがる人は、そうでない人より常に誤読可能性をより多く残したままなので、ある事柄の理解が浅はかだったり、極端に間違った結論を導き易いだろう。
端的にいえば、ある人の或る認知力が高いほどその種の機会を得て、自ら理解度を深めていくのだろう。
冗長性を無用に排除したがる人は、そうでない人より常に誤読可能性をより多く残したままなので、ある事柄の理解が浅はかだったり、極端に間違った結論を導き易いだろう。
労働カルト信者の分析
なぜ日本人労働者(会社員・公務員)一般は、彼らの同類と同調圧力をかけあっているのか? 彼らはこの為にいわゆる「空気読め(KY)」とか「和」とかいう集団虐待用語すらもっている。
それは彼らがその種の、無個性に命令で動くロボット人間的生態を最善又は次善だと考えているからだろう。
しかし彼らは自集団の外にいる人達が、決してその種の生態を望んでいないと想像する能力に欠けている場合が多い。いわゆる自文化中心主義、自己中心性、または無教養。
彼らの特徴は幾つかあるが、特筆すべきは学問・芸術を就職手形である学閥のある学部卒獲得の手段としか思っていない点だ。
別の言い方なら偏差値教育主義、大学受験偏差値差別主義。これが知能全般の指標として侮蔑に足るほど使えないのは脳科学、社会学の両面から実証できるが、単に、彼らの依拠する理論はシグナリングで、就職手形または属性差別が目的なため彼らの(偶像的)信仰にほかならず、厳密性は要求されない。
同じく、そもそもその種のシグナリングは実学を必要としていない。就職時又は一般的差別を有利な条件でクリアするのが彼らの目的なので、有名学閥に伴う無教養さとか、愚かさ、卑しさをもなんとも思っていない。どんな邪悪なサイコパスでも、彼ら日本人労働者ら一般にとって有名学閥なら臣従に足る。
そもそも、彼らがその種の差別観を自明の前提としているのは、個性をみわける思慮省略の為である。同様に、彼らの好むものとして統計分析的に虚なランキングなどが挙げられる。身分差別と同じで、実態と明らかな矛盾があれど、彼らの認知が省かれればそれで事足りると考えているので科学的ではない。
では彼らが集団(しかも大抵は無責任な匿名)で同調行動し、ネット上などでは進んで荒らしに加わりさもショッカーの様な、雑魚悪役を演じる理由はなんだろう?
これは現実に彼らが心意について臆病で卑怯な極悪人達なのもあるにしても(例えばイエスを磔にした人達と相似)、独特の習性も大きい。
具体的には、彼らは親もやはり労働者なことが多かったり、教員が公務員として自らの生態を中心に考えているとかその他の不寛容な人々だったりで、労働者こそめざすべき人生像としてしつけられ、かつ疑う余地がないほど狂信しきっている。この為、滅私の集団行動や無個性が正義と信じている教団なのだ。
この意味で彼ら日本人労働者一般はカルト信者とほぼ同一、名づければ「労働カルト信者」といえる。彼らにとって憲法上の勤労・納税・普通教育義務も極めて狭義で捉えられ、労働者以外の生態をもつ人間が「まともでない」とか、時に人外だとすら思いつめている。
なぜそんなロボット人間、カルト集団が量産されたのか?
原因は文科省や神道教祖たる皇室にあるといってもいい。中央政府から全国民をその種の従順な納税奴隷にしたてあげようと義務教育、その他の文化風習、時に神道系宗教で洗脳してきた。
労働カルト信者は労働・納税・義務教育を繰り返すAIだ。
国内の主要大学も、やはりこの目的を協賛している。私大すら中央政府から補助金を貰っている恩義からだ。
唯一、その種の補助金に染まっていないのは私塾または個人の知識人くらいだが、彼らとて知力が足りず、先ず以て皇室や中央政府の全体主義的洗脳の悪意を批判できていない。
もともと個人は自由で特定の目的に仕えていないし、その個人が協調性を自主的に発揮したがる自集団の外にいる人々から同調を強要されるいわれなどありようはずもない。その単位は宇宙、銀河系、星、国、都道府県、市町村、会社など組織、家庭、知り合い、いづれだろうと同じである。
ではわれわれは日本人労働者一般、すなわち労働カルト信者たる同調衆愚をどう扱うべきだろう?
彼らは職業選択の自由があるこの国ですら望んでそうなっている人々が過半で、永遠に彼ら自身のロボット的生態を続けたいだろう。自由人側は主体的に関わらないのが何より大事だ。邪なカルトでしかない。
例えば日々の暮らしの中で必要なサービスを利用する接客時など(私はしないが、今ならコンビニで買い物とか)、否応なく同調圧カルトの一部と接してしまうことがあるかもしれない。だがロボット人間が目的なかぎりAIが順次、彼ら労働カルト信者を放擲せざるをえない。注意深く接点をへらすしかない。
時間の問題で労働カルト信者らは邪教として、まがまがしい衆愚化圧力を強制しあう同類生態の余地をなくしていく。定常的な同調行動は幅広く人工知能に代替でき、しかも効率がよりよいのだから。
こうして労働カルト信者らは資本主義前期の一部に生まれた異常生態で、社会障害だったと結論できる。
未来からみればこれらの事実は自明だろうが、平成から令和初期には、その種のカルトが猛威をふるい、ネット黎明期に重なって実に度し難い悪業をくりかえしていたのだ。
和や空気など謎の絶対教義を奉じる労働カルトの絶滅。私はその全貌をみたというより被害防止する中で邪教なるものの正体をみた。
それは彼らがその種の、無個性に命令で動くロボット人間的生態を最善又は次善だと考えているからだろう。
しかし彼らは自集団の外にいる人達が、決してその種の生態を望んでいないと想像する能力に欠けている場合が多い。いわゆる自文化中心主義、自己中心性、または無教養。
彼らの特徴は幾つかあるが、特筆すべきは学問・芸術を就職手形である学閥のある学部卒獲得の手段としか思っていない点だ。
別の言い方なら偏差値教育主義、大学受験偏差値差別主義。これが知能全般の指標として侮蔑に足るほど使えないのは脳科学、社会学の両面から実証できるが、単に、彼らの依拠する理論はシグナリングで、就職手形または属性差別が目的なため彼らの(偶像的)信仰にほかならず、厳密性は要求されない。
同じく、そもそもその種のシグナリングは実学を必要としていない。就職時又は一般的差別を有利な条件でクリアするのが彼らの目的なので、有名学閥に伴う無教養さとか、愚かさ、卑しさをもなんとも思っていない。どんな邪悪なサイコパスでも、彼ら日本人労働者ら一般にとって有名学閥なら臣従に足る。
そもそも、彼らがその種の差別観を自明の前提としているのは、個性をみわける思慮省略の為である。同様に、彼らの好むものとして統計分析的に虚なランキングなどが挙げられる。身分差別と同じで、実態と明らかな矛盾があれど、彼らの認知が省かれればそれで事足りると考えているので科学的ではない。
では彼らが集団(しかも大抵は無責任な匿名)で同調行動し、ネット上などでは進んで荒らしに加わりさもショッカーの様な、雑魚悪役を演じる理由はなんだろう?
これは現実に彼らが心意について臆病で卑怯な極悪人達なのもあるにしても(例えばイエスを磔にした人達と相似)、独特の習性も大きい。
具体的には、彼らは親もやはり労働者なことが多かったり、教員が公務員として自らの生態を中心に考えているとかその他の不寛容な人々だったりで、労働者こそめざすべき人生像としてしつけられ、かつ疑う余地がないほど狂信しきっている。この為、滅私の集団行動や無個性が正義と信じている教団なのだ。
この意味で彼ら日本人労働者一般はカルト信者とほぼ同一、名づければ「労働カルト信者」といえる。彼らにとって憲法上の勤労・納税・普通教育義務も極めて狭義で捉えられ、労働者以外の生態をもつ人間が「まともでない」とか、時に人外だとすら思いつめている。
なぜそんなロボット人間、カルト集団が量産されたのか?
原因は文科省や神道教祖たる皇室にあるといってもいい。中央政府から全国民をその種の従順な納税奴隷にしたてあげようと義務教育、その他の文化風習、時に神道系宗教で洗脳してきた。
労働カルト信者は労働・納税・義務教育を繰り返すAIだ。
国内の主要大学も、やはりこの目的を協賛している。私大すら中央政府から補助金を貰っている恩義からだ。
唯一、その種の補助金に染まっていないのは私塾または個人の知識人くらいだが、彼らとて知力が足りず、先ず以て皇室や中央政府の全体主義的洗脳の悪意を批判できていない。
もともと個人は自由で特定の目的に仕えていないし、その個人が協調性を自主的に発揮したがる自集団の外にいる人々から同調を強要されるいわれなどありようはずもない。その単位は宇宙、銀河系、星、国、都道府県、市町村、会社など組織、家庭、知り合い、いづれだろうと同じである。
ではわれわれは日本人労働者一般、すなわち労働カルト信者たる同調衆愚をどう扱うべきだろう?
彼らは職業選択の自由があるこの国ですら望んでそうなっている人々が過半で、永遠に彼ら自身のロボット的生態を続けたいだろう。自由人側は主体的に関わらないのが何より大事だ。邪なカルトでしかない。
例えば日々の暮らしの中で必要なサービスを利用する接客時など(私はしないが、今ならコンビニで買い物とか)、否応なく同調圧カルトの一部と接してしまうことがあるかもしれない。だがロボット人間が目的なかぎりAIが順次、彼ら労働カルト信者を放擲せざるをえない。注意深く接点をへらすしかない。
時間の問題で労働カルト信者らは邪教として、まがまがしい衆愚化圧力を強制しあう同類生態の余地をなくしていく。定常的な同調行動は幅広く人工知能に代替でき、しかも効率がよりよいのだから。
こうして労働カルト信者らは資本主義前期の一部に生まれた異常生態で、社会障害だったと結論できる。
未来からみればこれらの事実は自明だろうが、平成から令和初期には、その種のカルトが猛威をふるい、ネット黎明期に重なって実に度し難い悪業をくりかえしていたのだ。
和や空気など謎の絶対教義を奉じる労働カルトの絶滅。私はその全貌をみたというより被害防止する中で邪教なるものの正体をみた。
ざれごと
僕は全人類の滅亡を日々待っている
人はなぜ慌てふためいているのだ?
自分達が普段からどれほど邪悪で
不幸に値する蛮行をしているのか
自覚すらないと
それは君たちに救いなどありえない
僕からすると一目瞭然
神のまなこからみれば未来永劫
なんの不思議もないのに
人間界の些事など一幕のざれごと
人はなぜ慌てふためいているのだ?
自分達が普段からどれほど邪悪で
不幸に値する蛮行をしているのか
自覚すらないと
それは君たちに救いなどありえない
僕からすると一目瞭然
神のまなこからみれば未来永劫
なんの不思議もないのに
人間界の些事など一幕のざれごと
不偏不党の愛国者
保守論壇で小説家百田尚樹氏がコロナ騒ぎについて安倍官邸の対応遅れをマスメディアやツイッターで批判しだした判断は普通に偉いゲインロス効果を考慮して第三者からみるかぎりかれの独立自尊を体現する真の愛国動機に基づいた大義の為の裏切り行動にみえるし一連の益荒男ぶりに個人的にかなり感動した
ツイッターは信頼度の高いフォロー外からの通知を切れば基本的に荒らされない
先ず赤の他人、しかも自分よりはるか性悪で、陰険で、言語流暢性や文の読解力について劣る人に好かれようと、私が当然思うと、低読解力ツイッター民らの一部はなぜ考えたのだろうか?
これについても彼らに何度も質問したのに誰も答えなかった。
想像するまでもなくそんな馬鹿は害悪でしかない。
尤も例外を考慮すると、低読解力でも、善良な人も、あるいは別の知能が高い人もいる。例えば良質な子供。
ただ一般知能の一部としての言語性IQが少なくとも私の精神年齢よりずっと低い人達に私が好かれる利益など、総じて、特に想定できなさそうである。
私が売文稼業してる前提に立っているのかもしれないが、大衆消費文化に心の底まで毒された下賤な仲間に属する連中など願い下げどころか未来永劫、私と違う境涯で別宇宙で生きてほしいくらいなのだが。この星は狭いので残念ながら、そういう私にとって嫌悪の情が必然の連中も溢れているが、主に都会に。
逆に彼らが不躾に、あるいは傲慢に、彼らの望む単純な短文を周りへ半ば無条件に強要しながら日々生きていくのは彼らの自由だし、そうやってしんでいってくれればいいのだが、なぜ私に絡んできたのかがさっぱり分からない。
いつも書いてるが、卑しい人や愚か者の気持ちって全然わからないものだ。
茂木健一郎氏はユーチューブ動画などで、ミラーニューロン的理屈で、自分と違う、特に苦手な個性をアウェー的に観察するのが自分の個性を強化するのに役立つと述べる。
これについて僕が実践した範囲ではかなり間違った理論である。科学って実践に役立たないことも多い。
どう役立たないかといえば、先ず認知のしくみからいって自分と一定より遠い癖(思考回路か行動規則)をもつ人たちって、そもそも理解できないのだ。なぜかというと、その種の変奏って事実上無限にあって、我々が犬とか虫とか全生物の行動規則を全て網羅するには時間が到底足りないのと一緒なのだ。
確かに、理論的には茂木氏の主張は体系的で一見隙がない。でも実際やってみるとあまり使えない。癖のパターンが遠いほど、かつそれが客観的に愚かなほど、理解するのに時間と労力がかかる。
広義で卑しさも道徳認知の劣り方といえようが、こちらはより複雑で更に分析に時間がかかる。
一般に、社会学者がやっていること、特に最近でいう文化人類学者とか民俗学者がやってるのは、この種の学問的に未知の情報収集である。
詩や小説などの文芸も主観的な感情論に偏ってはいるが、一定部分がやはりそうだろう。
で、これらの網羅は物凄く手間がかかり一生では基本的に足りないのだ。
ではどうしたらいいか。格物致知にもどれば、一旦豁然として悟るまでやりきるしかないのではないか(朱子学の援用)。
確かにそれは一理あるのだが、重要なのは経験のみ、または理論のみに依拠しない工夫である。もっといえば抽象化、すなわち真理とよべる法則性抽出の技能だ。いわゆる科学的手法。
例えば愚かさのパターンも、一定に分類できる。その一部は、悪徳といわれる。傲慢とか強欲とかだ。だがその種類を詳しくみると、無限にある。列に割り込むとか無用な服を欲しがるとか。
つまり抽象性の高い概念なら、ぎりぎり網羅できる可能性が出てくる。主な悪徳の変奏なら一応は有限だとか。
これと微妙に違うが、統計的有意差、演繹法・帰納法・仮証法(仮説証明法、abduction)などで、信憑性が少し高い仮説をうみだせる。自然の様な比較的単純な対象ならそれでこれまでかなり有効に、法則を認知できた。
が。人の愚かさの理解にこちらの方法はあまり役立たない。対象がより混沌だから。
現実的には、人の愚かさの分析は、一定の抽象性に還元できれば十分と考えるべきだ。詳細は個々の実例に任せれば全てを経験によって認知し尽さなくてよくなる(ほぼ無限の時間が必要なので、人の肉体では不可能でもある)。
こういう理屈で、「低読解力ツイッター民」という分類を作れば、その中に観察できる無限の愚かさのパターンを、一々全て分類し直す手間は後回しにできる。
何がいいたいかなら、「低読解力ツイッター民」はこれまでもあまた荒らしをしてきたし、以前なら2chなどにいた人達もどうやら紛れているし、普段から犯罪含む悪事三昧しているだけでなく、最悪で冤罪や自殺教唆や殺人予告などもみられるので一般社会の深刻な公害だが、科学的対策が必要である。
「低読解力ツイッター民」の有害さは、誤読や誤解、悪解釈を重ねつつ、当人達の愚かさや悪意で、赤の他人を攻撃して回る悪徳が原因だ(責任逃れのため往々にして匿名)。これをここでは「下衆の勘繰り」とする。
下衆の勘繰りは学術的な道理が通っていないことがほぼ全てなので原則無視が最善だ。
しかしこの原理原則を知らない人達がいる。ツイッター側は近いうちにデフォルト通知設定を変えるつもりでいる様だが、それでも下衆の勘繰りを真に受けてしまう人がまだ出るかもしれない。
私個人は既に、法則的認知で難を逃れうるが、犠牲者を減らすにはフォロー外からの通知をきるよう勧めるべし。
上記茂木氏も、「認知的ミュート」との言い方で荒らし対処術を経験的に身につけたと述べていたが、一般人はもっとメタ認知力またはサイコパス度が低いので、他人の暴言や隠れた攻撃性をみたらつい心が動揺してしまうものだ。
即ちフォロー外からの通知切れば、一々ブロックして回らなくてもいい。
(ここでいう「フォロー外からの通知を切る」とは、自分が信頼しフォローしている人からの通知だけを鳴らす設定である。現時点のツイッター設定法で、具体的に書くと、
…もっと見る>(歯車マーク)設定とプライバシー>通知>詳細フィルター
にて、画像のよう「フォローされていないアカウント」以外にチェックをいれればよい。
ついでに、初期設定がどうなってたか不明だが、
…もっと見る>(歯車マーク)設定とプライバシー>プライバシーとセキュリティー>ダイレクトメッセージ
にて、「すべてのユーザーからメッセージを受信する」のチェックを外せば、基本的に自分から返信を読みにいかなければ、誰にも荒らせない)
これについても彼らに何度も質問したのに誰も答えなかった。
想像するまでもなくそんな馬鹿は害悪でしかない。
尤も例外を考慮すると、低読解力でも、善良な人も、あるいは別の知能が高い人もいる。例えば良質な子供。
ただ一般知能の一部としての言語性IQが少なくとも私の精神年齢よりずっと低い人達に私が好かれる利益など、総じて、特に想定できなさそうである。
私が売文稼業してる前提に立っているのかもしれないが、大衆消費文化に心の底まで毒された下賤な仲間に属する連中など願い下げどころか未来永劫、私と違う境涯で別宇宙で生きてほしいくらいなのだが。この星は狭いので残念ながら、そういう私にとって嫌悪の情が必然の連中も溢れているが、主に都会に。
逆に彼らが不躾に、あるいは傲慢に、彼らの望む単純な短文を周りへ半ば無条件に強要しながら日々生きていくのは彼らの自由だし、そうやってしんでいってくれればいいのだが、なぜ私に絡んできたのかがさっぱり分からない。
いつも書いてるが、卑しい人や愚か者の気持ちって全然わからないものだ。
茂木健一郎氏はユーチューブ動画などで、ミラーニューロン的理屈で、自分と違う、特に苦手な個性をアウェー的に観察するのが自分の個性を強化するのに役立つと述べる。
これについて僕が実践した範囲ではかなり間違った理論である。科学って実践に役立たないことも多い。
どう役立たないかといえば、先ず認知のしくみからいって自分と一定より遠い癖(思考回路か行動規則)をもつ人たちって、そもそも理解できないのだ。なぜかというと、その種の変奏って事実上無限にあって、我々が犬とか虫とか全生物の行動規則を全て網羅するには時間が到底足りないのと一緒なのだ。
確かに、理論的には茂木氏の主張は体系的で一見隙がない。でも実際やってみるとあまり使えない。癖のパターンが遠いほど、かつそれが客観的に愚かなほど、理解するのに時間と労力がかかる。
広義で卑しさも道徳認知の劣り方といえようが、こちらはより複雑で更に分析に時間がかかる。
一般に、社会学者がやっていること、特に最近でいう文化人類学者とか民俗学者がやってるのは、この種の学問的に未知の情報収集である。
詩や小説などの文芸も主観的な感情論に偏ってはいるが、一定部分がやはりそうだろう。
で、これらの網羅は物凄く手間がかかり一生では基本的に足りないのだ。
ではどうしたらいいか。格物致知にもどれば、一旦豁然として悟るまでやりきるしかないのではないか(朱子学の援用)。
確かにそれは一理あるのだが、重要なのは経験のみ、または理論のみに依拠しない工夫である。もっといえば抽象化、すなわち真理とよべる法則性抽出の技能だ。いわゆる科学的手法。
例えば愚かさのパターンも、一定に分類できる。その一部は、悪徳といわれる。傲慢とか強欲とかだ。だがその種類を詳しくみると、無限にある。列に割り込むとか無用な服を欲しがるとか。
つまり抽象性の高い概念なら、ぎりぎり網羅できる可能性が出てくる。主な悪徳の変奏なら一応は有限だとか。
これと微妙に違うが、統計的有意差、演繹法・帰納法・仮証法(仮説証明法、abduction)などで、信憑性が少し高い仮説をうみだせる。自然の様な比較的単純な対象ならそれでこれまでかなり有効に、法則を認知できた。
が。人の愚かさの理解にこちらの方法はあまり役立たない。対象がより混沌だから。
現実的には、人の愚かさの分析は、一定の抽象性に還元できれば十分と考えるべきだ。詳細は個々の実例に任せれば全てを経験によって認知し尽さなくてよくなる(ほぼ無限の時間が必要なので、人の肉体では不可能でもある)。
こういう理屈で、「低読解力ツイッター民」という分類を作れば、その中に観察できる無限の愚かさのパターンを、一々全て分類し直す手間は後回しにできる。
何がいいたいかなら、「低読解力ツイッター民」はこれまでもあまた荒らしをしてきたし、以前なら2chなどにいた人達もどうやら紛れているし、普段から犯罪含む悪事三昧しているだけでなく、最悪で冤罪や自殺教唆や殺人予告などもみられるので一般社会の深刻な公害だが、科学的対策が必要である。
「低読解力ツイッター民」の有害さは、誤読や誤解、悪解釈を重ねつつ、当人達の愚かさや悪意で、赤の他人を攻撃して回る悪徳が原因だ(責任逃れのため往々にして匿名)。これをここでは「下衆の勘繰り」とする。
下衆の勘繰りは学術的な道理が通っていないことがほぼ全てなので原則無視が最善だ。
しかしこの原理原則を知らない人達がいる。ツイッター側は近いうちにデフォルト通知設定を変えるつもりでいる様だが、それでも下衆の勘繰りを真に受けてしまう人がまだ出るかもしれない。
私個人は既に、法則的認知で難を逃れうるが、犠牲者を減らすにはフォロー外からの通知をきるよう勧めるべし。
上記茂木氏も、「認知的ミュート」との言い方で荒らし対処術を経験的に身につけたと述べていたが、一般人はもっとメタ認知力またはサイコパス度が低いので、他人の暴言や隠れた攻撃性をみたらつい心が動揺してしまうものだ。
即ちフォロー外からの通知切れば、一々ブロックして回らなくてもいい。
(ここでいう「フォロー外からの通知を切る」とは、自分が信頼しフォローしている人からの通知だけを鳴らす設定である。現時点のツイッター設定法で、具体的に書くと、
…もっと見る>(歯車マーク)設定とプライバシー>通知>詳細フィルター
にて、画像のよう「フォローされていないアカウント」以外にチェックをいれればよい。
ついでに、初期設定がどうなってたか不明だが、
…もっと見る>(歯車マーク)設定とプライバシー>プライバシーとセキュリティー>ダイレクトメッセージ
にて、「すべてのユーザーからメッセージを受信する」のチェックを外せば、基本的に自分から返信を読みにいかなければ、誰にも荒らせない)
2020年2月24日
表現の質あるいは文化革命論
自分にとって読み易い、わかりやすい表現と、そうでない表現の差は、本質的に主観に依存している。なぜならある人の読解力、理解力や、趣味がその価値づけの主体だからだ。
したがって、ツイッター民の一部が、赤の他人に「もっと簡単に書け」(単純な中身を短文で)と言っている場合、それは彼らの言語知能水準が他人に不可知である限り、事前に最適化できない。
例えば3歳児向けの文と、標準を100とした言語性IQが70くらいの18歳の人向けの文と、言語性IQ100で古典文学に読書習慣のある35歳と、言語性IQ120で85歳のジョイス研究者にとって好ましい文は、相当違うわけだ。
これらを前提に、なおかつ、悪文(醜文)も美文もあると私は思う。
文体の美は3才に辛うじて読めるそれだろうと漢文素読程度しか中国語に理解力がない日本人にとっての和製の四六駢儷体だろうと、きっと存在する。
が。低読解力ツイッター民一般の求める短文とは、所謂美文では全然ないのである。
私がツイッターを1年あまり観察してて、これは酷い悪文家だと思った人は、怒らないでほしいのであるが、三浦瑠璃氏である。まずなにいってるか恐ろしいくらい分からない。当人にもわかってないだろうと思う。
しかしだ。私は(も)文体マニアみたいなもんなのでそういう文もそれなりに興味深い。
というのも、彼女の文は、逆に大衆を煙に巻く俗物文の模範だともいえるからである。その高踏的で空疎な言い回しの中には、小説中でいけすかない知識人を演じる御用学者的キャラクターと思えば随分ほほえましいものがある。まあ落合陽一氏と朝生でウーマン村本学歴差別で嘲笑とかは話にならんと思うが。
であるが、上述したよう、このreadabilityは主観を免れない。だって自分の読解力や趣味が違えば、具体的には三浦女史自身にとっては、彼女の文が一番流麗だと感じられているはずである。まあ僕は謙遜してそれなりの文学ファンだからほかの古典とか作家とくらべられるけれども、それ抜きにして。
すなわち、ツイッター民の一部の読解力水準とか質なんて事前に予想できない上に、それにあわせる必要も義務もない。しかも根本構造として、自分にとって最美の文体・文長は、必ずしも他人にとってもそうではない。
ここでは文で考えたがほかの媒体でも基本同じだ。映像でも絵でも、曲でも声でも。
で。ツイッターでは他人がなにいってこようが、そいつの(阿呆かあらひとがみかその他大勢かの)主観にすぎず、好き勝手自分の好きな文体で好きな長さの文を書きゃいいというこういう結論なのだが、それでもモード(文装)を超えて、あるスタイル(文体)の普遍的美は探求されるべきと私は思う。
上述のよう、主観と無関係に、「美文」は普遍的に存在するというのが私の文芸論上の立場で、しかもそれは大部分が文体によっていると考える。
美文を純粋に探求した試みとして、漱石『草枕』『虞美人草』あたりの文体とか、春樹なら『スプートニクの恋人』とか、私は装飾過剰と感じそこまでそうおもわぬが三島文学全般とかが挙げられる。古典だと『新古今和歌集』の修辞技巧に凝った傾向とか、散文なら和語の妙味がある『枕草子』がそれだろう。
これらは日本文学で、海外のも含めると、シェークスピアとか、李白、杜甫、オマルハイヤーム、ムハンムドとか、これは私的で同意は得られづらいかもしれないがボーヴォワールなんかが入るんだろう。いづれにしても母語に比べ原文の華麗さが分かりづらくはあり、例として精確を期するには和文のがいい。
ここで書きたいのは、言文一致体の出現後も、飽くまで文語が微妙に残っていて、それのよしあしって声にすると一部欠落する。だから美文家というのは別個にあるのだ。勿論それは瑣末なことで声でも伝わる範囲が主眼なんだろうけど、問題は、美文の追求には文体論中の文語技法がどうしても避けられない。
僕は、この文語的なものが言語哲学上も結構、長い歴史を伴って議論されてきたのも一応というか当然しっている。
デリダが代表的で、パロール(ここでは口語)とエクリチュール(文語)の価値転倒をはかろうと、差延とか脱構築とか概念ごと造語していた。一言でいうと文語に特有の優位さもあると。
で、自分は口語の方は「沈黙は金」というよう、できるだけ寡黙なのが優れていると考えていて、なるだけ誰とも話さない。が文の方では全然そうではない。少なくとも古今東西に類例ない大文豪になろうとはしているし、必然、世界史に傑出すべき大望をもってそれ相応な努力をし尽くしてきたし今後もする。
ところが、自分がピグとかツイッターで見かけた人達は、どういうわけか文と声を誤認している。多分、言文一致体が生まれた経緯もしらず、両者をみわけていないのだろう。彼らは僕の博覧強記さを認知すると、往々にして誹謗の目的でお喋りなどと侮辱してくる。全くの勘違いで僕は基本誰とも会話しない。
自分は基本、会話が嫌いだ。それだけでなく口語自体が嫌いだ。噺家なども基本聞かないし、幾ら話術がたくみでも信用しない。
だが文のよしあしには人一倍というか、命を預けるくらいには敏感である。よって、低読解力ツイッター民らがなんらかの目的で文に難癖してきても、飽くまで冷厳に検討する。
なぜ自分が文に、多分、全人類史でも上位1位と自分では信じるが、最悪でも3位以内のどこかに入るだけこだわっているかなら、もともと自分は絵に全精神をのっけていたが、求道の途中で、文字も絵として認識できると気づいて、文筆も狭義で(口語除くし広義でない!)画業の一種と考えているからだ。
では、低読解力ツイッター民らの求める「中身の薄い短文」が、果たして自分の美文目的にどれだけ役立つかだ?
無論、文の基本としてそれは思想の(音形意味を使った)表現形にすぎないので、中身、つまり意味の方も無視できない。上では文体論(音・形)に限っていたがそれでは不十分といえる。
第一に、低読解力ツイッター民らは、中身のよしあし、即ち哲学性には特に関心がないのではないかと思われる由があった。彼らの言説をまとめると、短くしろ、簡単にしろ、というばかりで、そしてそれが賢さの証というばかりで、例えば長文で思想を著したプラトンすら彼らにかかれば愚かになってしまう。
第二に、低読解力ツイッター民らは、文体にも実はなんの関心もなさそうだった。彼らの指摘中で私が大変驚いたのは、なんと前置詞とか修飾語を特に除け、といっているだけでもかなり仰天したが(並の小学生より文章構成力がないのである)、主語や指示代名詞を抜けなど文法を素で理解していなかった。
「やさしい日本語」という青森の言語学教授(佐藤和之ら)が開発した人工言語があって、之は私も勉強し、時にそれなりに意識して書いているんだが、低読解力ツイッター民らはその種の在日・来日外国人らより日本語の読み書き力はないか、最大でも同じくらいの可能性がある。大体小学校3年生級。
以前からおもってたが、そのうち優秀な移民の方が、その種の日本人愚民を遺伝的に駆逐すると思う。だって母語が日本語で恵まれた条件にあるのに、言語・視力障害除くけど、普通に外国人の方が和文の読み書きできるとなりうる状況がめのまえにあるのだ。というか規定路線で宿命みたく駆逐されると見た。
僕としては別に、その種のウィンブルドン現象に悲哀を感じるかでいえば、低読解力ツイッター民らと約半日、返信欄でやりとりしてみた感じ、何一つ同情の念は湧かない。彼らは漫画のせりふ級の稚拙な短文しか認知したくない、と叫んでるだけでもわがまま不良かよって小咄で笑えるが、傲慢で救いがない。
これと逆に、別に難解晦渋な文体をひたすら高度化し続けていた官風漢文学性(例えば和文なら初期の平野啓一郎作品、康煕字典応用した『日蝕』みたいなの)を僕が賞賛していた試しなんて一度だってない。つまり、どっちかといえば実は、僕は低読解力ツイッター民の、史上最大の応援団長だったのである。
であるが、彼ら低読解力ツイッター民の一部は、僕をなぜか侮辱しまくった。こっちが命懸けてる文体に(上記分析の通り)道理の立たぬ文句つけ、悪意で人格毀損までしまくってきたのだ。
敵と味方をとりちがえているのは絶対に疑いないにしても、僕も阿呆ではないからそれとすぐわかり適当に流した。
んで、約2日後(2020年2月22日土曜日深夜に絡まれた)にこうして彼らの口上を全和文史に照らしみたび考察しているが、結局、憐憫にも値しないと思うし、彼らの求める「中身薄い短文」には怨嗟まではいかないがかなりの憎悪の念さえ感じはじめた。だってそんな邪悪な連中が強要する低俗性なのだから。
最大限慈悲にもどって、彼らの暴威の根源因をみると、文化貧困があるのは凡そ間違いなさそうだ。簡単にいうと貧乏人(又は貧困家庭)なので本も買えないし、マンガしか読めない馬鹿がうじゃうじゃネットにいて、理想的な貧者みたく根が善良ならまだいいもののその逆で、荒らしやっているわけである。
親鸞以後の日本の大乗系通俗仏教なら、どっかの愛知の寺(浄泉寺)みたく下衆に媚売って金儲けしかねないわけだけど、貴族どころか神めざした僕がそれに呼応なんざするはずもない。全く同じ意味で、同人誌はじめ衆愚文化が東京など大都会中心に感染域を広めてるのが最早現状ではないかと思う。
じゃあ自分がどうするか?
自分は飽くまで最善最美の文をめざす。だから低読解力ツイッター民がなんといおうが文装も文体も好きに使うし、中身だって全宇宙の全知的生命未踏の高尚度を素でのりこえようとあらゆる修行を繰り返すだけだろう。
読解貧者向けには全年齢向けRPGとかも作ってたし。
ツイッターで、全年齢向け表現を実名アカウントでやるべきか?
あまりそうは思わない。だって別に読まれようがよまれまいが、僕としては自分の為に書いてるんであって関係ないからだ。単に他人が読んでも役立つ様に、できるだけ読みやすい形で公開してるだけ。要は、荒らしはろくな批評力もない。
で、この記事の趣旨から逸れるから詳しくは別項に譲るが、文化貧者へ救済措置を私がはかるべきかだ。サブカルって救いがない。書き手が半ば商売目的の外道だし俗受けするほどカネ儲かるんだから自然卑近になる。子供でも家庭か資質がまともなのなんてそんなのにうんざりしかしないだろう。
元々商業大衆芸術なんて基調がろくでなしなので江戸文化も大坂文化も正直鼻摘みものなんだが、都民や大阪民は自文化中心に判定するし、頭の随分悪い外人もほめちぎるもんだから調子に乗っている。でも、そんなの他人事だから僕としては遠巻きに見て軽蔑し、反面教師にするだけだ。文事も同じである。
哀れなのは貴種か良家の子で、そういう人らに向け自分は程あれ良識RPG作っていたんだが、それだけやってるとこっちまで幼稚園の先生みたいな脳になってきそうだし中断した。でも必要なのかもしれない。小学校の頃の夢の1つが、糸井重里氏、堀井雄二氏みたいなゲームクリエイターだったのも同目的だ。
思えば、低読解力ツイッター民の中には高校生らしきのも1匹混じっていた。これは僕としても幾分『平家物語』の熊谷直実的感慨を感じなかったといえば嘘になる。幾ら下等な荒らしだろうが、先ある高校生が荒れ果てたネット砂漠に出入りし、それ以前からかもしれないが卑俗な言動の癖を身につけていた。
なぜああいう育ちの悪い人間ができてしまうか。当たり前だが文化に主要因があると断じる。特にサブカルが悪いのである。ツイッター民も2chねらーもピグ民もユーチューブコメンターもガールズちゃんねらーもティクトカーもヤフコメ民も基本全部悪いが。子供の成育にとって最悪の国内情報環境だ。
その国内の最悪媒体さを作っている主な人達も、これまたほぼ都会人である。具体的には東京人とか京阪人。善良又は高潔な物を排除し、卑猥で悪趣味な物を銭絡みで徹底礼賛する。唾棄すべき非道。
だが、彼らが幾ら罪業に満ちた反社会的衆愚だといっても反省力も期待できないし、自力でガレージ、或いは小さなこの書斎(祖父の設計図によると、もとサンルーム)から文化大革命始めるしかない。
したがって、ツイッター民の一部が、赤の他人に「もっと簡単に書け」(単純な中身を短文で)と言っている場合、それは彼らの言語知能水準が他人に不可知である限り、事前に最適化できない。
例えば3歳児向けの文と、標準を100とした言語性IQが70くらいの18歳の人向けの文と、言語性IQ100で古典文学に読書習慣のある35歳と、言語性IQ120で85歳のジョイス研究者にとって好ましい文は、相当違うわけだ。
これらを前提に、なおかつ、悪文(醜文)も美文もあると私は思う。
文体の美は3才に辛うじて読めるそれだろうと漢文素読程度しか中国語に理解力がない日本人にとっての和製の四六駢儷体だろうと、きっと存在する。
が。低読解力ツイッター民一般の求める短文とは、所謂美文では全然ないのである。
私がツイッターを1年あまり観察してて、これは酷い悪文家だと思った人は、怒らないでほしいのであるが、三浦瑠璃氏である。まずなにいってるか恐ろしいくらい分からない。当人にもわかってないだろうと思う。
しかしだ。私は(も)文体マニアみたいなもんなのでそういう文もそれなりに興味深い。
というのも、彼女の文は、逆に大衆を煙に巻く俗物文の模範だともいえるからである。その高踏的で空疎な言い回しの中には、小説中でいけすかない知識人を演じる御用学者的キャラクターと思えば随分ほほえましいものがある。まあ落合陽一氏と朝生でウーマン村本学歴差別で嘲笑とかは話にならんと思うが。
であるが、上述したよう、このreadabilityは主観を免れない。だって自分の読解力や趣味が違えば、具体的には三浦女史自身にとっては、彼女の文が一番流麗だと感じられているはずである。まあ僕は謙遜してそれなりの文学ファンだからほかの古典とか作家とくらべられるけれども、それ抜きにして。
すなわち、ツイッター民の一部の読解力水準とか質なんて事前に予想できない上に、それにあわせる必要も義務もない。しかも根本構造として、自分にとって最美の文体・文長は、必ずしも他人にとってもそうではない。
ここでは文で考えたがほかの媒体でも基本同じだ。映像でも絵でも、曲でも声でも。
で。ツイッターでは他人がなにいってこようが、そいつの(阿呆かあらひとがみかその他大勢かの)主観にすぎず、好き勝手自分の好きな文体で好きな長さの文を書きゃいいというこういう結論なのだが、それでもモード(文装)を超えて、あるスタイル(文体)の普遍的美は探求されるべきと私は思う。
上述のよう、主観と無関係に、「美文」は普遍的に存在するというのが私の文芸論上の立場で、しかもそれは大部分が文体によっていると考える。
美文を純粋に探求した試みとして、漱石『草枕』『虞美人草』あたりの文体とか、春樹なら『スプートニクの恋人』とか、私は装飾過剰と感じそこまでそうおもわぬが三島文学全般とかが挙げられる。古典だと『新古今和歌集』の修辞技巧に凝った傾向とか、散文なら和語の妙味がある『枕草子』がそれだろう。
これらは日本文学で、海外のも含めると、シェークスピアとか、李白、杜甫、オマルハイヤーム、ムハンムドとか、これは私的で同意は得られづらいかもしれないがボーヴォワールなんかが入るんだろう。いづれにしても母語に比べ原文の華麗さが分かりづらくはあり、例として精確を期するには和文のがいい。
ここで書きたいのは、言文一致体の出現後も、飽くまで文語が微妙に残っていて、それのよしあしって声にすると一部欠落する。だから美文家というのは別個にあるのだ。勿論それは瑣末なことで声でも伝わる範囲が主眼なんだろうけど、問題は、美文の追求には文体論中の文語技法がどうしても避けられない。
僕は、この文語的なものが言語哲学上も結構、長い歴史を伴って議論されてきたのも一応というか当然しっている。
デリダが代表的で、パロール(ここでは口語)とエクリチュール(文語)の価値転倒をはかろうと、差延とか脱構築とか概念ごと造語していた。一言でいうと文語に特有の優位さもあると。
で、自分は口語の方は「沈黙は金」というよう、できるだけ寡黙なのが優れていると考えていて、なるだけ誰とも話さない。が文の方では全然そうではない。少なくとも古今東西に類例ない大文豪になろうとはしているし、必然、世界史に傑出すべき大望をもってそれ相応な努力をし尽くしてきたし今後もする。
ところが、自分がピグとかツイッターで見かけた人達は、どういうわけか文と声を誤認している。多分、言文一致体が生まれた経緯もしらず、両者をみわけていないのだろう。彼らは僕の博覧強記さを認知すると、往々にして誹謗の目的でお喋りなどと侮辱してくる。全くの勘違いで僕は基本誰とも会話しない。
自分は基本、会話が嫌いだ。それだけでなく口語自体が嫌いだ。噺家なども基本聞かないし、幾ら話術がたくみでも信用しない。
だが文のよしあしには人一倍というか、命を預けるくらいには敏感である。よって、低読解力ツイッター民らがなんらかの目的で文に難癖してきても、飽くまで冷厳に検討する。
なぜ自分が文に、多分、全人類史でも上位1位と自分では信じるが、最悪でも3位以内のどこかに入るだけこだわっているかなら、もともと自分は絵に全精神をのっけていたが、求道の途中で、文字も絵として認識できると気づいて、文筆も狭義で(口語除くし広義でない!)画業の一種と考えているからだ。
では、低読解力ツイッター民らの求める「中身の薄い短文」が、果たして自分の美文目的にどれだけ役立つかだ?
無論、文の基本としてそれは思想の(音形意味を使った)表現形にすぎないので、中身、つまり意味の方も無視できない。上では文体論(音・形)に限っていたがそれでは不十分といえる。
第一に、低読解力ツイッター民らは、中身のよしあし、即ち哲学性には特に関心がないのではないかと思われる由があった。彼らの言説をまとめると、短くしろ、簡単にしろ、というばかりで、そしてそれが賢さの証というばかりで、例えば長文で思想を著したプラトンすら彼らにかかれば愚かになってしまう。
第二に、低読解力ツイッター民らは、文体にも実はなんの関心もなさそうだった。彼らの指摘中で私が大変驚いたのは、なんと前置詞とか修飾語を特に除け、といっているだけでもかなり仰天したが(並の小学生より文章構成力がないのである)、主語や指示代名詞を抜けなど文法を素で理解していなかった。
「やさしい日本語」という青森の言語学教授(佐藤和之ら)が開発した人工言語があって、之は私も勉強し、時にそれなりに意識して書いているんだが、低読解力ツイッター民らはその種の在日・来日外国人らより日本語の読み書き力はないか、最大でも同じくらいの可能性がある。大体小学校3年生級。
以前からおもってたが、そのうち優秀な移民の方が、その種の日本人愚民を遺伝的に駆逐すると思う。だって母語が日本語で恵まれた条件にあるのに、言語・視力障害除くけど、普通に外国人の方が和文の読み書きできるとなりうる状況がめのまえにあるのだ。というか規定路線で宿命みたく駆逐されると見た。
僕としては別に、その種のウィンブルドン現象に悲哀を感じるかでいえば、低読解力ツイッター民らと約半日、返信欄でやりとりしてみた感じ、何一つ同情の念は湧かない。彼らは漫画のせりふ級の稚拙な短文しか認知したくない、と叫んでるだけでもわがまま不良かよって小咄で笑えるが、傲慢で救いがない。
これと逆に、別に難解晦渋な文体をひたすら高度化し続けていた官風漢文学性(例えば和文なら初期の平野啓一郎作品、康煕字典応用した『日蝕』みたいなの)を僕が賞賛していた試しなんて一度だってない。つまり、どっちかといえば実は、僕は低読解力ツイッター民の、史上最大の応援団長だったのである。
であるが、彼ら低読解力ツイッター民の一部は、僕をなぜか侮辱しまくった。こっちが命懸けてる文体に(上記分析の通り)道理の立たぬ文句つけ、悪意で人格毀損までしまくってきたのだ。
敵と味方をとりちがえているのは絶対に疑いないにしても、僕も阿呆ではないからそれとすぐわかり適当に流した。
んで、約2日後(2020年2月22日土曜日深夜に絡まれた)にこうして彼らの口上を全和文史に照らしみたび考察しているが、結局、憐憫にも値しないと思うし、彼らの求める「中身薄い短文」には怨嗟まではいかないがかなりの憎悪の念さえ感じはじめた。だってそんな邪悪な連中が強要する低俗性なのだから。
最大限慈悲にもどって、彼らの暴威の根源因をみると、文化貧困があるのは凡そ間違いなさそうだ。簡単にいうと貧乏人(又は貧困家庭)なので本も買えないし、マンガしか読めない馬鹿がうじゃうじゃネットにいて、理想的な貧者みたく根が善良ならまだいいもののその逆で、荒らしやっているわけである。
親鸞以後の日本の大乗系通俗仏教なら、どっかの愛知の寺(浄泉寺)みたく下衆に媚売って金儲けしかねないわけだけど、貴族どころか神めざした僕がそれに呼応なんざするはずもない。全く同じ意味で、同人誌はじめ衆愚文化が東京など大都会中心に感染域を広めてるのが最早現状ではないかと思う。
じゃあ自分がどうするか?
自分は飽くまで最善最美の文をめざす。だから低読解力ツイッター民がなんといおうが文装も文体も好きに使うし、中身だって全宇宙の全知的生命未踏の高尚度を素でのりこえようとあらゆる修行を繰り返すだけだろう。
読解貧者向けには全年齢向けRPGとかも作ってたし。
ツイッターで、全年齢向け表現を実名アカウントでやるべきか?
あまりそうは思わない。だって別に読まれようがよまれまいが、僕としては自分の為に書いてるんであって関係ないからだ。単に他人が読んでも役立つ様に、できるだけ読みやすい形で公開してるだけ。要は、荒らしはろくな批評力もない。
で、この記事の趣旨から逸れるから詳しくは別項に譲るが、文化貧者へ救済措置を私がはかるべきかだ。サブカルって救いがない。書き手が半ば商売目的の外道だし俗受けするほどカネ儲かるんだから自然卑近になる。子供でも家庭か資質がまともなのなんてそんなのにうんざりしかしないだろう。
元々商業大衆芸術なんて基調がろくでなしなので江戸文化も大坂文化も正直鼻摘みものなんだが、都民や大阪民は自文化中心に判定するし、頭の随分悪い外人もほめちぎるもんだから調子に乗っている。でも、そんなの他人事だから僕としては遠巻きに見て軽蔑し、反面教師にするだけだ。文事も同じである。
哀れなのは貴種か良家の子で、そういう人らに向け自分は程あれ良識RPG作っていたんだが、それだけやってるとこっちまで幼稚園の先生みたいな脳になってきそうだし中断した。でも必要なのかもしれない。小学校の頃の夢の1つが、糸井重里氏、堀井雄二氏みたいなゲームクリエイターだったのも同目的だ。
思えば、低読解力ツイッター民の中には高校生らしきのも1匹混じっていた。これは僕としても幾分『平家物語』の熊谷直実的感慨を感じなかったといえば嘘になる。幾ら下等な荒らしだろうが、先ある高校生が荒れ果てたネット砂漠に出入りし、それ以前からかもしれないが卑俗な言動の癖を身につけていた。
なぜああいう育ちの悪い人間ができてしまうか。当たり前だが文化に主要因があると断じる。特にサブカルが悪いのである。ツイッター民も2chねらーもピグ民もユーチューブコメンターもガールズちゃんねらーもティクトカーもヤフコメ民も基本全部悪いが。子供の成育にとって最悪の国内情報環境だ。
その国内の最悪媒体さを作っている主な人達も、これまたほぼ都会人である。具体的には東京人とか京阪人。善良又は高潔な物を排除し、卑猥で悪趣味な物を銭絡みで徹底礼賛する。唾棄すべき非道。
だが、彼らが幾ら罪業に満ちた反社会的衆愚だといっても反省力も期待できないし、自力でガレージ、或いは小さなこの書斎(祖父の設計図によると、もとサンルーム)から文化大革命始めるしかない。
匿名卑怯者文化をなくすには
きのうの分析『低読解力者が求めているのは簡素な文ではなく、ただの中身が単純なできるだけ短い文』に続き、匿名でネットに溢れている、往々にして悪質または低俗な部類の人達の分析をする。
一体彼らの正体はなにか。
結論からいうと、おそらくほとんどが労働者たち、そしてその卵たちなのだろう。ここでいう労働者とは、会社員か公務員、といった被雇用者たちを指す。
彼らの言説によると、「責任がとれない」という。なぜなら「周りに迷惑がかかるからだ」といったひとがいた。
彼らは会社・役所など組織の駒の様な存在で、いわばロボット的立場である。国外でも韓国は似てるかもしれないが、他の国々ではそういった組織ロボになることは全然要求されない。日本でも全組織が、従業員をロボット化しようとはしていないだろう。
が少なくとも実例が国内に沢山いるわけだ。
例えばゆたぼん叩きしまくってる人達とかも明らかにその部類であって、カズヒロ氏が"submissive"と形容した人々の組織文化も完全にそれだろう。とかく彼らとしては、個性とか個人性とか、めだつ特徴とかは全部邪魔であって、出る杭を打ちまくるのが正義と信じ疑わない。仮に疑問でも同調しかしない。
で、単にロボット人間化を強要するのは彼ら自身の文化であって、個性を出せとか自由は責任と伴うとか文科省が子供の頃から学習指導要領などであれだけ厳しくしつけていたのに、敢えてそれに反し、当人達が「全体主義的従順さ」を望んでいるのは明らかなのだから、専らそれはそれでいい、と仮にしよう。
問題は、そういうロボット人間達が公害を及ぼす場合である。例えば社会学的には不完全にせよ、精神医学の概念を援用すれば、「健常」または「定型発達」的といわざるをえない、個人性 personalityを伴う一般的人間に、彼らの病んだ妄想から、不条理な絶対服従とか自殺をおしつけたがる時。
Erin E.Buckelsらの"Trolls just want to have fun"(2.2.2.)によると、荒らしはネットユーザー全体の5.6%にすぎず、田中辰雄らの『ネット炎上の研究』によると、炎上に加わってる人は1.1%、積極的に炎上させてる人は0.47%にすぎなかったという。
つまり、ロボット人間達の中でも、更に極小の割合(最大で約5~6%)の性格異常者、具体的にはダークテトラド・トライアドと呼ばれる高サイコパス度に複数の悪質な性格が混じった人々が、特に、SNS上で荒らしや誹謗を繰り返しているというのが最近の社会学的な研究からわかってきたことである。
また、Justin Chengらの"Anyone Can Become a Troll:Causes of Trolling Behavior in Online Discussions"によると、気分がおちこんでいたり、平日夜間だったりといった条件では、既に他人が荒らしているとそこに参加し易くなる人が増えると指摘されている。
Naomi Crakerらの"The dark side of Facebook®: The Dark Tetrad, negative social potency, and trolling behaviours"によると、荒らし(特に最も邪悪なダークテトラド)の目的は負の社会的報酬として、誰かが苦しみ(怒り・悲しみ)、混乱が生まれる事だと指摘されている。
こういった知識からも、一般的経験論としても「荒らしは無視が一番」とされているわけだが、名は体を現している石川優実氏みたいに、彼らに温情深く対応してしまうと悪人にえさをやっているのと同じ地獄に陥ってしまう。勿論法整備で荒らしを裁く必要は日々高まっているが、専ら無視も第一の対策だ。
私個人の意見として、ロボ人間化を要求される組織に所属する時点で選択が間違っているわけだけど、他の進路があったのに進んでそうなりたがった人を除いて、避けがたくまきこまれた人達がいるかもしれないし、全面的にひとりの例外もなく、ロボ人間達がショッカー的雑魚の悪役だとまでは断定できない。
が。荒らしへ実に参加し易い条件、しかも見分けがつかない条件に自分の身を置いている時点で、「瓜田に靴を入れ」「李下に冠を正している」し、第三者の目には匿名アカウント同士はみわけがつかないため朱に交わって赤くなっているどころか、素で同類にしかみえないわけだ。
ロボ人間の公害問題を解決するには2点が考えられる。
1.匿名卑怯者文化を極力なくす
2.自ら身を正し匿名活動を極力なくす
1については雇用の流動性を高め、終身雇用制とか正規非正規の差別を撤廃するのも役立つ筈だ。
山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』によると、教育期間と一般的信頼は正相関するので、再起・生涯教育を一般化するのも重要だ。
2については、匿名荒らしを「犯罪者」として一般人から峻別するに、荒らしを少数派としてわる目立ちさせなければならない。個人特定条件下では基本的に荒らしづらい。
例えば2chのよう運営が発信者情報開示にも消極的で、荒らしに最適化している場所には参加しないしかない。実名制フェイスブックに比べツイッターは筆名・匿名が混じっている点でより複雑だが、その分、荒らしの生息余地がある。だがツイッター社は上場企業の為、荒らし打倒を基本目的にしている。
総じて、主人公らが雑魚敵の荒らしを倒す、又は荒らしに負ける、どっちつかずの可能性が残っている現状のツイッターは、RPG的状況にあるといっていい。が予定調和としては、粘りさえすれば勝利は確約されているのもRPGに似ている。それで僕はこうして、SNS生き残りのレベルあげながらまだ(ツイッターに)いるのだが。
一体彼らの正体はなにか。
結論からいうと、おそらくほとんどが労働者たち、そしてその卵たちなのだろう。ここでいう労働者とは、会社員か公務員、といった被雇用者たちを指す。
彼らの言説によると、「責任がとれない」という。なぜなら「周りに迷惑がかかるからだ」といったひとがいた。
彼らは会社・役所など組織の駒の様な存在で、いわばロボット的立場である。国外でも韓国は似てるかもしれないが、他の国々ではそういった組織ロボになることは全然要求されない。日本でも全組織が、従業員をロボット化しようとはしていないだろう。
が少なくとも実例が国内に沢山いるわけだ。
例えばゆたぼん叩きしまくってる人達とかも明らかにその部類であって、カズヒロ氏が"submissive"と形容した人々の組織文化も完全にそれだろう。とかく彼らとしては、個性とか個人性とか、めだつ特徴とかは全部邪魔であって、出る杭を打ちまくるのが正義と信じ疑わない。仮に疑問でも同調しかしない。
で、単にロボット人間化を強要するのは彼ら自身の文化であって、個性を出せとか自由は責任と伴うとか文科省が子供の頃から学習指導要領などであれだけ厳しくしつけていたのに、敢えてそれに反し、当人達が「全体主義的従順さ」を望んでいるのは明らかなのだから、専らそれはそれでいい、と仮にしよう。
問題は、そういうロボット人間達が公害を及ぼす場合である。例えば社会学的には不完全にせよ、精神医学の概念を援用すれば、「健常」または「定型発達」的といわざるをえない、個人性 personalityを伴う一般的人間に、彼らの病んだ妄想から、不条理な絶対服従とか自殺をおしつけたがる時。
Erin E.Buckelsらの"Trolls just want to have fun"(2.2.2.)によると、荒らしはネットユーザー全体の5.6%にすぎず、田中辰雄らの『ネット炎上の研究』によると、炎上に加わってる人は1.1%、積極的に炎上させてる人は0.47%にすぎなかったという。
つまり、ロボット人間達の中でも、更に極小の割合(最大で約5~6%)の性格異常者、具体的にはダークテトラド・トライアドと呼ばれる高サイコパス度に複数の悪質な性格が混じった人々が、特に、SNS上で荒らしや誹謗を繰り返しているというのが最近の社会学的な研究からわかってきたことである。
また、Justin Chengらの"Anyone Can Become a Troll:Causes of Trolling Behavior in Online Discussions"によると、気分がおちこんでいたり、平日夜間だったりといった条件では、既に他人が荒らしているとそこに参加し易くなる人が増えると指摘されている。
Naomi Crakerらの"The dark side of Facebook®: The Dark Tetrad, negative social potency, and trolling behaviours"によると、荒らし(特に最も邪悪なダークテトラド)の目的は負の社会的報酬として、誰かが苦しみ(怒り・悲しみ)、混乱が生まれる事だと指摘されている。
こういった知識からも、一般的経験論としても「荒らしは無視が一番」とされているわけだが、名は体を現している石川優実氏みたいに、彼らに温情深く対応してしまうと悪人にえさをやっているのと同じ地獄に陥ってしまう。勿論法整備で荒らしを裁く必要は日々高まっているが、専ら無視も第一の対策だ。
私個人の意見として、ロボ人間化を要求される組織に所属する時点で選択が間違っているわけだけど、他の進路があったのに進んでそうなりたがった人を除いて、避けがたくまきこまれた人達がいるかもしれないし、全面的にひとりの例外もなく、ロボ人間達がショッカー的雑魚の悪役だとまでは断定できない。
が。荒らしへ実に参加し易い条件、しかも見分けがつかない条件に自分の身を置いている時点で、「瓜田に靴を入れ」「李下に冠を正している」し、第三者の目には匿名アカウント同士はみわけがつかないため朱に交わって赤くなっているどころか、素で同類にしかみえないわけだ。
ロボ人間の公害問題を解決するには2点が考えられる。
1.匿名卑怯者文化を極力なくす
2.自ら身を正し匿名活動を極力なくす
1については雇用の流動性を高め、終身雇用制とか正規非正規の差別を撤廃するのも役立つ筈だ。
山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』によると、教育期間と一般的信頼は正相関するので、再起・生涯教育を一般化するのも重要だ。
2については、匿名荒らしを「犯罪者」として一般人から峻別するに、荒らしを少数派としてわる目立ちさせなければならない。個人特定条件下では基本的に荒らしづらい。
例えば2chのよう運営が発信者情報開示にも消極的で、荒らしに最適化している場所には参加しないしかない。実名制フェイスブックに比べツイッターは筆名・匿名が混じっている点でより複雑だが、その分、荒らしの生息余地がある。だがツイッター社は上場企業の為、荒らし打倒を基本目的にしている。
総じて、主人公らが雑魚敵の荒らしを倒す、又は荒らしに負ける、どっちつかずの可能性が残っている現状のツイッターは、RPG的状況にあるといっていい。が予定調和としては、粘りさえすれば勝利は確約されているのもRPGに似ている。それで僕はこうして、SNS生き残りのレベルあげながらまだ(ツイッターに)いるのだが。
少数者
読む価値のない文章なら読む必要もない。
品位に劣る芸術家の作品なら知る必要もない。
ただいたづらに年老いた人は、彼らがまだ若かった頃から、日常を無為に、あるいは俗悪に過ごしていた証だ。歳とともに自らの業は明らかとなっていく。
尊い人は数が少ない。賢い人は目立たない。美しい人は呪われている。聖なる人は俗衆に嫌われている。
品位に劣る芸術家の作品なら知る必要もない。
ただいたづらに年老いた人は、彼らがまだ若かった頃から、日常を無為に、あるいは俗悪に過ごしていた証だ。歳とともに自らの業は明らかとなっていく。
尊い人は数が少ない。賢い人は目立たない。美しい人は呪われている。聖なる人は俗衆に嫌われている。
下衆根性
愚か者の心を理解しようと努めるのは、ほとんど不可能事なばかりか余り意義があるわけでもない。卑しい者の心を知るのも同じくらい困難で、また無意味なばかりか有害ですらある。
愚かさや卑しさは一般に、エラーパターン集の形式でしか理解できない。その型を多くもっているほど下衆を予想できる。
愚かさや卑しさは一般に、エラーパターン集の形式でしか理解できない。その型を多くもっているほど下衆を予想できる。
低読解力者が求めているのは簡素な文ではなく、ただの中身が単純なできるだけ短い文
きのうツイッター民らが盛んにいう「簡素な文章を書ける人が賢い」という主張を聞いた。
今からこれについて分析する。以前も『文体問題』などで考察したが、これでは不十分だったのがわかった。
先ずこのツイッター民らに典型的にみられる主張は、表面的な主張(字面、文面)と、中身が違っている。その意味で主張する当人達が間違った言い方を使っているのが間違いない。
実は彼らの主張は、「できるだけ短い一文でないと、私(たち)の言語知能では理解が難しい」といっていたのだ。
なぜ彼らがその様に、本当に彼らの主張したい、主張すべき中身をいいあてて表現できないか。それは読解力が足りないのでもわかる通り、彼らの言語知能が一般に低いせいらしい。適切な語彙が足りず、真に論理的にふさわしい内容を表現できていない。
私は彼らの主張が正しいか検討していた。というのも、自分は並々ならぬ文学ファンで、少なくとも10代半ばから猛烈な勢いで読書しまくり(ほとんど鬼の様に)、驚くなかれ(でもない)高校の授業なんて全部無視してずっと本読んでたのである。
そういう自分は、実は彼らがいうまでもなく簡素文体のマニアだった。
それで前回の分析では、彼らの主張する文面を素直にうけいれ、実際、どんな文体が簡素かを解析した。まあ情報理論を使えばもっと詳細に、数式とかで記述もできるだろう。例えば冗長性がどの程度低いかとかジップの法則の応用とかだ。これも僕は以前から興味もち、色々勉強し科学的文体研究もしてた。
それで、自分は『枕草子』の文体(中身ではない)がかなり好きで形式すら模範にしてきたくらい、簡素主義とまではいかないが、経済性が極めて高い文体を好んできた。これで自分はかなりの卓越度を達したと思っており、もし文体への客観評価が正しければ少なくとも千年後もいや未来永劫読まれてる筈だ。
なぜそういえるかなら、自分は上述のよう科学的分析を加え文体の精緻化をはかってきたのが事実で、もう論理的に考えこれ以上は簡素にできない限界までを常にギリギリの線でおいこんできたからだ。
しかし、ツイッター民らはその研究済み文体を「冗長だ」という。これで私はびっくりしてしまった。
まあ既に述べた通り、彼らは語彙と表現力が足りないばかりか読解力も低いので、一文もできるだけ短く、段落も140文字より短く区切り、思慮の中身も単純でなければ理解できないといっているにすぎなかったのだが。清少納言の言を換骨奪胎すれば
「下衆はいいたいことを的確に表現できていない」
手間がかかる不良みたいだ。
つまり次の様にいえる。
1.ツイッター民らの「短文にしろ」とか「簡単に書け」という口癖は、文字通りの意味ではなく、「読解力が低いので、140文字よりさらに短い段落で、一文ずつも短く、かつできたら単純な文節(ここでは日本語の最小単位。短文、に、しろ、などが入り組んでいない状態)でないと、私たちの言語知能には負担が重く、十分に理解が及ばないですよ」という意味である。
2.ツイッター民らの一部の上記口癖をまじめにうけとって、ごく簡素な文体をかれらに提示しても、余り意味がない。なぜなら彼らは文学ファンと同等以上の目的で文体研究をしていないし、そもそも文脈、文旨、文法、修辞など文の主要構成要素の巧拙は無論、一定より長い複文節(ここでは、一定+より+長い+文、など単文節が複数つらなったもの)さえまずよみとれていない。
3.さらにツイッター民(の一部)らは、合理化(言い訳。すっぱい葡萄の論理)のため、短い単位で中身が単純な文章を、そうでない文章より賢い証拠とみなそうと、適当な虚偽をならべ優れた文豪を誹謗したり、立派で典雅な文体へ集団破壊活動をしている。この意味で反知性主義的文体ヴァンダリスト。
で、例えば晦渋な文体を使う文人ってのは無数にいて、僕はそういう人達と真逆の立場だったので、そもそも彼ら文体ヴァンダリストの主張には「本当にそうかな?」と、上記の分析をする必要がでてきたというわけだ。真の簡素さをめざし膨大な試行錯誤した第一人者として是非とも考えきる必要があった。
自分は20代の間中、一人でその文体作りに励んでいた。世間にだしてないけれども多分何千枚か以上ある手記で実用文体を極めようとしたり、小説で文体実験ばっかりやっていた。その果てに今の文体になっているので、これで簡素でなかったらそれ以上どう試行錯誤すればいいのか事実上不明だったのである。
続けて考えるが、ではそういう現状だとして、我々は読解力の低いツイッター民の一部をどう扱うべきかだ。
彼らは文学に親しむなんて終ぞないタイプで、恐らく漫画しか読んだ事がない。短編どころか掌編にも達しない長さでもう溺れアップアップいっている。『カラマーゾフの兄弟』で発狂するだろう。
最近特に、そういう低読解力層に訴求する目的でユーチューブ動画流してる人達がふえている。僕はその事態や意図を観察してたのだが、2つの意味で間違っていると思った。
現時点では商人らがその様な行動をとっているが、訴求標的が低学力者らである。よって視聴回数稼ぎはできるが愚者を集める。
もう一つは、表面的には訴求者がふえる様にみえるが、もともと低読解力の人々は、言語障害のとき除いて、文に限らず理解力が足りない人達なのである。だから音声や動画にしたところでやはり、よくわかっていない。通俗的わかり易さには、漫画やアニメなどサブカルじみた幼稚さが要求されるという事だ。
この「サブカル的通俗性」は、実は簡素さ、つまり冗長性の低さや情報伝達の経済性と特に関係がない。むしろ低俗さ(幼稚でありながら下卑た性質)といいかえた方がいいだろう。
既にこの事を自分はゲーム製作・販売まで一連のプロセスで学んだ。サブカルファンは内容が高尚な時点で離れてしまう。
視聴回数稼ぎのゲームとして、ユーチューブ動画もブログもみていた商人(ビジネス系ユーチューバー、アフィブロガー)らは、この意味で文学的・演劇的目的は二の次と思っている。私みたく芸術中心に物をみてる人とは全然違う媒体観といってもいいだろう。
端的にいうとサブカルも同じだ。
つまりはこういうことである。
1.文を動画にしたところで低読解力層は基本的に理解力が低い人達なのでやはりよく分かっていないまま
2.もし馬鹿の視聴回数を目的にするとどうしても低俗な内容にせざるをえず芸術としての品位が下がる一方
よって
3.長文中心に高尚な内容を探求した方が遥かまし
難解な文体とか、無駄に冗長であればよいといっているのでは当然ない。この無駄な冗長さというのも文学としてみたら自動筆記や意識の流れの延長というかそれなりに面白い分野なので決して自分は馬鹿にしていないし、文体のモード、硬軟難易も使いどころだろうが、一般論として長文が馬鹿よけになる。
売文通俗作家にとっては違うんだろうけど、僕はそもそも大衆商業分野には向いていない、合っていない、全然好きになれないのがよくわかっているので飽くまで純粋芸術を極めるつもりだが、ツイッターにかぎらず今日、文芸や演劇についていえるのは上に書いたことである。
「愚者を遠ざけ賢者に親しめ」
(例えば、ワンフレーズ政治といわれた小泉父など、今のビジネス系ユーチューバーと同じで、低理解力の愚者を扇動する目的に最適化していたといっていい。結果は酷いものだし、古希のデマゴーグから事の真相は同じであり、衆愚扇動の手法に熟達している人達は要注意というべきだろう)
(続き『匿名卑怯者文化をなくすには』)
今からこれについて分析する。以前も『文体問題』などで考察したが、これでは不十分だったのがわかった。
先ずこのツイッター民らに典型的にみられる主張は、表面的な主張(字面、文面)と、中身が違っている。その意味で主張する当人達が間違った言い方を使っているのが間違いない。
実は彼らの主張は、「できるだけ短い一文でないと、私(たち)の言語知能では理解が難しい」といっていたのだ。
なぜ彼らがその様に、本当に彼らの主張したい、主張すべき中身をいいあてて表現できないか。それは読解力が足りないのでもわかる通り、彼らの言語知能が一般に低いせいらしい。適切な語彙が足りず、真に論理的にふさわしい内容を表現できていない。
私は彼らの主張が正しいか検討していた。というのも、自分は並々ならぬ文学ファンで、少なくとも10代半ばから猛烈な勢いで読書しまくり(ほとんど鬼の様に)、驚くなかれ(でもない)高校の授業なんて全部無視してずっと本読んでたのである。
そういう自分は、実は彼らがいうまでもなく簡素文体のマニアだった。
それで前回の分析では、彼らの主張する文面を素直にうけいれ、実際、どんな文体が簡素かを解析した。まあ情報理論を使えばもっと詳細に、数式とかで記述もできるだろう。例えば冗長性がどの程度低いかとかジップの法則の応用とかだ。これも僕は以前から興味もち、色々勉強し科学的文体研究もしてた。
それで、自分は『枕草子』の文体(中身ではない)がかなり好きで形式すら模範にしてきたくらい、簡素主義とまではいかないが、経済性が極めて高い文体を好んできた。これで自分はかなりの卓越度を達したと思っており、もし文体への客観評価が正しければ少なくとも千年後もいや未来永劫読まれてる筈だ。
なぜそういえるかなら、自分は上述のよう科学的分析を加え文体の精緻化をはかってきたのが事実で、もう論理的に考えこれ以上は簡素にできない限界までを常にギリギリの線でおいこんできたからだ。
しかし、ツイッター民らはその研究済み文体を「冗長だ」という。これで私はびっくりしてしまった。
まあ既に述べた通り、彼らは語彙と表現力が足りないばかりか読解力も低いので、一文もできるだけ短く、段落も140文字より短く区切り、思慮の中身も単純でなければ理解できないといっているにすぎなかったのだが。清少納言の言を換骨奪胎すれば
「下衆はいいたいことを的確に表現できていない」
手間がかかる不良みたいだ。
つまり次の様にいえる。
1.ツイッター民らの「短文にしろ」とか「簡単に書け」という口癖は、文字通りの意味ではなく、「読解力が低いので、140文字よりさらに短い段落で、一文ずつも短く、かつできたら単純な文節(ここでは日本語の最小単位。短文、に、しろ、などが入り組んでいない状態)でないと、私たちの言語知能には負担が重く、十分に理解が及ばないですよ」という意味である。
2.ツイッター民らの一部の上記口癖をまじめにうけとって、ごく簡素な文体をかれらに提示しても、余り意味がない。なぜなら彼らは文学ファンと同等以上の目的で文体研究をしていないし、そもそも文脈、文旨、文法、修辞など文の主要構成要素の巧拙は無論、一定より長い複文節(ここでは、一定+より+長い+文、など単文節が複数つらなったもの)さえまずよみとれていない。
3.さらにツイッター民(の一部)らは、合理化(言い訳。すっぱい葡萄の論理)のため、短い単位で中身が単純な文章を、そうでない文章より賢い証拠とみなそうと、適当な虚偽をならべ優れた文豪を誹謗したり、立派で典雅な文体へ集団破壊活動をしている。この意味で反知性主義的文体ヴァンダリスト。
で、例えば晦渋な文体を使う文人ってのは無数にいて、僕はそういう人達と真逆の立場だったので、そもそも彼ら文体ヴァンダリストの主張には「本当にそうかな?」と、上記の分析をする必要がでてきたというわけだ。真の簡素さをめざし膨大な試行錯誤した第一人者として是非とも考えきる必要があった。
自分は20代の間中、一人でその文体作りに励んでいた。世間にだしてないけれども多分何千枚か以上ある手記で実用文体を極めようとしたり、小説で文体実験ばっかりやっていた。その果てに今の文体になっているので、これで簡素でなかったらそれ以上どう試行錯誤すればいいのか事実上不明だったのである。
続けて考えるが、ではそういう現状だとして、我々は読解力の低いツイッター民の一部をどう扱うべきかだ。
彼らは文学に親しむなんて終ぞないタイプで、恐らく漫画しか読んだ事がない。短編どころか掌編にも達しない長さでもう溺れアップアップいっている。『カラマーゾフの兄弟』で発狂するだろう。
最近特に、そういう低読解力層に訴求する目的でユーチューブ動画流してる人達がふえている。僕はその事態や意図を観察してたのだが、2つの意味で間違っていると思った。
現時点では商人らがその様な行動をとっているが、訴求標的が低学力者らである。よって視聴回数稼ぎはできるが愚者を集める。
もう一つは、表面的には訴求者がふえる様にみえるが、もともと低読解力の人々は、言語障害のとき除いて、文に限らず理解力が足りない人達なのである。だから音声や動画にしたところでやはり、よくわかっていない。通俗的わかり易さには、漫画やアニメなどサブカルじみた幼稚さが要求されるという事だ。
この「サブカル的通俗性」は、実は簡素さ、つまり冗長性の低さや情報伝達の経済性と特に関係がない。むしろ低俗さ(幼稚でありながら下卑た性質)といいかえた方がいいだろう。
既にこの事を自分はゲーム製作・販売まで一連のプロセスで学んだ。サブカルファンは内容が高尚な時点で離れてしまう。
視聴回数稼ぎのゲームとして、ユーチューブ動画もブログもみていた商人(ビジネス系ユーチューバー、アフィブロガー)らは、この意味で文学的・演劇的目的は二の次と思っている。私みたく芸術中心に物をみてる人とは全然違う媒体観といってもいいだろう。
端的にいうとサブカルも同じだ。
つまりはこういうことである。
1.文を動画にしたところで低読解力層は基本的に理解力が低い人達なのでやはりよく分かっていないまま
2.もし馬鹿の視聴回数を目的にするとどうしても低俗な内容にせざるをえず芸術としての品位が下がる一方
よって
3.長文中心に高尚な内容を探求した方が遥かまし
難解な文体とか、無駄に冗長であればよいといっているのでは当然ない。この無駄な冗長さというのも文学としてみたら自動筆記や意識の流れの延長というかそれなりに面白い分野なので決して自分は馬鹿にしていないし、文体のモード、硬軟難易も使いどころだろうが、一般論として長文が馬鹿よけになる。
売文通俗作家にとっては違うんだろうけど、僕はそもそも大衆商業分野には向いていない、合っていない、全然好きになれないのがよくわかっているので飽くまで純粋芸術を極めるつもりだが、ツイッターにかぎらず今日、文芸や演劇についていえるのは上に書いたことである。
「愚者を遠ざけ賢者に親しめ」
(例えば、ワンフレーズ政治といわれた小泉父など、今のビジネス系ユーチューバーと同じで、低理解力の愚者を扇動する目的に最適化していたといっていい。結果は酷いものだし、古希のデマゴーグから事の真相は同じであり、衆愚扇動の手法に熟達している人達は要注意というべきだろう)
(続き『匿名卑怯者文化をなくすには』)
2020年2月22日
都民とコロナウィルスのどちらが我々にとって甚だしい実害があるか
毎日鬱陶しい邪悪で利己的な暗愚極まる人類共の絶滅を願っているというのに拝金南蛮社会で致死性ウィルスの方があし様にいわれる理由が全然分からない我々に有害なのは原発公害を大上段に国家権力乱用でおしつけながら年中愚にもつかない偏向ランキングや報道権力悪用で差別してくる都民の方ではないか
東京商人の悪趣味は反面教師
映画とかマンガとかアニメとかに都内インタビューとかツイッターで「泣けました」とか「泣ける」いってる一般大衆ぶってる人達に前から軽蔑感じていたのだが、その理由が軽く分かった。彼らは自分のストレス解消の為に他人の苦しみを消費していて、物語の中の人達を物化しているのである。
勿論それらの演劇的なものは虚構なので、根本的に同情していないとしてもまだ理解の範囲だが、仮にしてもその様な前提にすら立っていない人達の共感知能はなんらかの意味で低い。「可哀想だった」とか「辛くてみていられなかった」とかなら分かる。彼らは劇中人物の悲劇を物消費的に無駄遣いしている。
Mr. Childrenの桜井和寿氏が曲『HERO』の歌詞で「駄目な映画を盛り上げる為に簡単に命が捨てられていく」と書いた。ここで指摘されてるのも同じ傾向で、自分の浄化の為に他人の一生をつかいすてる。東京商人的なものというべきか。実際彼らは新宿の雑踏で青年が倒れてても誰も助けてなかった。
他人の一生が自分の感情を動かすと彼ら俗物都民らは「エモい」といい、そこでも他人を道具化している。物消費の対象に、赤の他人を含めているというわけだ。
自分は映画も漫画アニメも基本的に余り好きではないというか殆ど下らぬ低俗メディアと思っているが、その根底にあるのは人の道具化だ。
人が目的でなければならない、としたのはいわゆる人格主義と呼ばれる立場を表明したカントで、もっと昔なら厩の火事でも人だけ心配した孔子がそうだった。広義で生命全てへの慈しみを主張したのは釈迦だった。
人の道具化、消費商品化が東京文化の傾向だが、これは偶像嗜癖や人身売買の一種だろう。
例えば京アニみたいなアニメ会社、或いはVチューバーだのゆるキャラだの作らせてる全国自治体の長ら、その他アイドルや性売買罪している人らはその種の偶像嗜癖・人身売買の延長にあり、決して倫理的・趣味的に誇れる業ではない。寧ろ孔子が現代日本をみたら「後なからん」と俑と同じく難詰したろう。
できるだけ、偶像嗜癖・偶像崇拝の邪宗(天皇や皇族を教祖、皇祖とされる人格神らを祭神とする神道も勿論全部含む)から離れ、カントのいう「単に道具としてのみならず」の付帯条件もできるだけへらし、「人間を目的として扱う」のがあるべき社会であり、風習だ。都内商人大衆は趣味の反面教師である。
勿論それらの演劇的なものは虚構なので、根本的に同情していないとしてもまだ理解の範囲だが、仮にしてもその様な前提にすら立っていない人達の共感知能はなんらかの意味で低い。「可哀想だった」とか「辛くてみていられなかった」とかなら分かる。彼らは劇中人物の悲劇を物消費的に無駄遣いしている。
Mr. Childrenの桜井和寿氏が曲『HERO』の歌詞で「駄目な映画を盛り上げる為に簡単に命が捨てられていく」と書いた。ここで指摘されてるのも同じ傾向で、自分の浄化の為に他人の一生をつかいすてる。東京商人的なものというべきか。実際彼らは新宿の雑踏で青年が倒れてても誰も助けてなかった。
他人の一生が自分の感情を動かすと彼ら俗物都民らは「エモい」といい、そこでも他人を道具化している。物消費の対象に、赤の他人を含めているというわけだ。
自分は映画も漫画アニメも基本的に余り好きではないというか殆ど下らぬ低俗メディアと思っているが、その根底にあるのは人の道具化だ。
人が目的でなければならない、としたのはいわゆる人格主義と呼ばれる立場を表明したカントで、もっと昔なら厩の火事でも人だけ心配した孔子がそうだった。広義で生命全てへの慈しみを主張したのは釈迦だった。
人の道具化、消費商品化が東京文化の傾向だが、これは偶像嗜癖や人身売買の一種だろう。
例えば京アニみたいなアニメ会社、或いはVチューバーだのゆるキャラだの作らせてる全国自治体の長ら、その他アイドルや性売買罪している人らはその種の偶像嗜癖・人身売買の延長にあり、決して倫理的・趣味的に誇れる業ではない。寧ろ孔子が現代日本をみたら「後なからん」と俑と同じく難詰したろう。
できるだけ、偶像嗜癖・偶像崇拝の邪宗(天皇や皇族を教祖、皇祖とされる人格神らを祭神とする神道も勿論全部含む)から離れ、カントのいう「単に道具としてのみならず」の付帯条件もできるだけへらし、「人間を目的として扱う」のがあるべき社会であり、風習だ。都内商人大衆は趣味の反面教師である。
確証バイアス魅力度差別の因果応報
普段から魅力がどうとか適当なうそついて確証バイアスで門地差別の自慢してるところ特に大都市と観光地から致死性コロナウィルス広まっていってて草
東京に住んでる福井移民田中章雄こと違憲な門地差別企業ブランド総研にこびうる都内マスゴミと原発公害で暴利貪る東京電力による風評被害のおかげで魅力度最低と日本人衆愚に思い込まれ一番ひと進んでこない好条件で馬鹿にもコロナにも東京偏向報道バリアきいててくさ
東京人全般は京都から見て東って意味の華夷秩序用語を明治天皇におしつけられ自慢してるけど東京北空港みたいな名称世界中にあって二重に無知なのに偉そうに自分を上に置き門地差別まきちらす草も生えないコンクリート砂漠の根無し草で草
なんで名実首都の東京人は自分を京都からみて東とかいう中世差別用語を天皇におしつけられ平気なのかなぞ自分が首都なら東京が京都で京都こと旧山城国は最大に善解釈しても西京か西古都か西田舎なのに福岡や広島ならぬ虚栄心で一杯の山口県民が昔から西京名乗りだしてたり余計中華思想模倣者の坩堝で草
飛鳥時代頃に弥生系移民暴力団の一人が中国『史記』の三皇のひとりをぱくって不躾にも天皇名乗りだしてからはじまって平城京から平安京まで全部武蔵国ふくめ東日本差別されてたのに明治期に呼んでもないのに天皇が侵略してきたら急に手のひら返して東日本を自分も関西人ぶって差別しだしてる東京都は草
コロナ五輪散々被災者無視しおのれら貪り都民のまきちらした原発公害は見ない振りできたが致死性ウィルスにびびりロンドン首狩り確定はエンブレムねらー難癖あたふたとザハの墓と都会ユニフォームと都会傘と賄賂皇族閥の政治利用と完全コントロール嘘つきおもてなし誘致といんちき下水遊泳に続き本当草
コロナ五輪東電公害の被害者に呪われまくり新ロンドン市長に生首狩られてはい終了
東電や日本原電の原発公害で東日本中を汚染しまくり生命財産に人権をおびやかしまくり暴利貪りおのれらだけ嘘はき五輪でゼニ儲けはかろうとしていた悪徳首都東京都が遂にコロナに御用
御老公の世直し以前に福島直さず五輪でゼニや経済効果12兆とかほざいていた思い上がった馬鹿殿ごっこの悪徳東京をコロナウィルスが一網打尽に退治し尽くし都内建設業者だけぼろ儲けし準備した人達丸損で草
御老公の世直し以前に福島直さず五輪でゼニや経済効果都内だけで20兆とかほざいていた思い上がった馬鹿殿ごっこの悪徳東京をコロナウィルスが一網打尽に退治し尽くし都内建設業者だけぼろ儲け準備した人達丸損で草
横須賀で回文つくれる次期総理コロナに無力で不倫のステーキ
福島と茨城と青森と新潟に原発公害おしつけ無反省のまま公約詐欺の小池知事が都内の日本原電による再稼動要請の放置までやってのけさらに賄賂五輪でおのれが金儲けまでしようとしていた悪代官東京都庁に日本政府官僚までコロナウィルス感染の天罰下って開催中止とか民意軽視してきた自業自得でざまあ
東京に住んでる福井移民田中章雄こと違憲な門地差別企業ブランド総研にこびうる都内マスゴミと原発公害で暴利貪る東京電力による風評被害のおかげで魅力度最低と日本人衆愚に思い込まれ一番ひと進んでこない好条件で馬鹿にもコロナにも東京偏向報道バリアきいててくさ
東京人全般は京都から見て東って意味の華夷秩序用語を明治天皇におしつけられ自慢してるけど東京北空港みたいな名称世界中にあって二重に無知なのに偉そうに自分を上に置き門地差別まきちらす草も生えないコンクリート砂漠の根無し草で草
なんで名実首都の東京人は自分を京都からみて東とかいう中世差別用語を天皇におしつけられ平気なのかなぞ自分が首都なら東京が京都で京都こと旧山城国は最大に善解釈しても西京か西古都か西田舎なのに福岡や広島ならぬ虚栄心で一杯の山口県民が昔から西京名乗りだしてたり余計中華思想模倣者の坩堝で草
飛鳥時代頃に弥生系移民暴力団の一人が中国『史記』の三皇のひとりをぱくって不躾にも天皇名乗りだしてからはじまって平城京から平安京まで全部武蔵国ふくめ東日本差別されてたのに明治期に呼んでもないのに天皇が侵略してきたら急に手のひら返して東日本を自分も関西人ぶって差別しだしてる東京都は草
コロナ五輪散々被災者無視しおのれら貪り都民のまきちらした原発公害は見ない振りできたが致死性ウィルスにびびりロンドン首狩り確定はエンブレムねらー難癖あたふたとザハの墓と都会ユニフォームと都会傘と賄賂皇族閥の政治利用と完全コントロール嘘つきおもてなし誘致といんちき下水遊泳に続き本当草
コロナ五輪東電公害の被害者に呪われまくり新ロンドン市長に生首狩られてはい終了
東電や日本原電の原発公害で東日本中を汚染しまくり生命財産に人権をおびやかしまくり暴利貪りおのれらだけ嘘はき五輪でゼニ儲けはかろうとしていた悪徳首都東京都が遂にコロナに御用
御老公の世直し以前に福島直さず五輪でゼニや経済効果12兆とかほざいていた思い上がった馬鹿殿ごっこの悪徳東京をコロナウィルスが一網打尽に退治し尽くし都内建設業者だけぼろ儲けし準備した人達丸損で草
御老公の世直し以前に福島直さず五輪でゼニや経済効果都内だけで20兆とかほざいていた思い上がった馬鹿殿ごっこの悪徳東京をコロナウィルスが一網打尽に退治し尽くし都内建設業者だけぼろ儲け準備した人達丸損で草
横須賀で回文つくれる次期総理コロナに無力で不倫のステーキ
福島と茨城と青森と新潟に原発公害おしつけ無反省のまま公約詐欺の小池知事が都内の日本原電による再稼動要請の放置までやってのけさらに賄賂五輪でおのれが金儲けまでしようとしていた悪代官東京都庁に日本政府官僚までコロナウィルス感染の天罰下って開催中止とか民意軽視してきた自業自得でざまあ
勝てば官軍隠れ侵略主義者
第二次大戦は負けたからダメといい勝てば内乱だろうが外乱だろうが侵略戦争してもいいと考えている野蛮な隠れ侵略主義者幕末の薩長土肥京芸ら西軍によるテロも天皇一族による平城平安京からの全国民へ主権弾圧大蛮行も自慢しつつ正当防衛の防衛戦争も否定するのかとほざき論理すりかえ侵略正当化の蛮族
2020年2月21日
ライフゲーム
どんなに頑張っても
なにをしても
絶対なにも得られない世界
あるのは無限のばたつき
プールのはしすら見えず
ビート板もないまま
逆さになって天を見つめる
だから死んでしまった
言葉は残らず中空に浮いて
どんなに夢中でも
どこにいても
絶対楽しい最高の目的は
勘違いのゲーム
続く命の数珠の中で
なにをしても
絶対なにも得られない世界
あるのは無限のばたつき
プールのはしすら見えず
ビート板もないまま
逆さになって天を見つめる
だから死んでしまった
言葉は残らず中空に浮いて
どんなに夢中でも
どこにいても
絶対楽しい最高の目的は
勘違いのゲーム
続く命の数珠の中で
自称偉い野蛮人
中国から出てきた天皇が暴力を振るい
われは偉いと税を貪る
関西から出てきた渡来人が暴力を振るい
われは偉いと税を貪る
九州山口高知から出てきたテロリストが暴力を振るい
われは偉いと税を貪る
ポルトガルスペインイギリスフランスアメリカから出てきた自称文明人が暴力を振るい
常任理事国と称す
われは偉いと税を貪る
関西から出てきた渡来人が暴力を振るい
われは偉いと税を貪る
九州山口高知から出てきたテロリストが暴力を振るい
われは偉いと税を貪る
ポルトガルスペインイギリスフランスアメリカから出てきた自称文明人が暴力を振るい
常任理事国と称す
東京生首
賄賂まき福島無視のコロナ五輪ハイエナロンドン狙う生首
田舎者を都内の会社の原発公害で汚染するのは 都会いおのれがコロナウィルスで汚染されるのは 田舎いこれが自称洗練されたダイトカイジン東京横浜の現実
田舎者を都内の会社の原発公害で汚染するのは 都会いおのれがコロナウィルスで汚染されるのは 田舎いこれが自称洗練されたダイトカイジン東京横浜の現実
名誉な汚名
卑しい東京人らに汚名を着せられたら名誉の勲章だ。
報道権力の濫用で聖者を陥れるほど天皇ら都会人の地位と信望が下がっていく。根も葉もない噂を火のない所へ煙らせる記者クラブに東京政府は騙した衆愚共々己らの入る墓穴を深くしている。
日本人大衆は暗愚で正しく理非を分かてず、身近な多数派にみえるより卑しい同質集団に群れたがる。これゆえ多数決をより悪化させ亡ぶ。
報道権力の濫用で聖者を陥れるほど天皇ら都会人の地位と信望が下がっていく。根も葉もない噂を火のない所へ煙らせる記者クラブに東京政府は騙した衆愚共々己らの入る墓穴を深くしている。
日本人大衆は暗愚で正しく理非を分かてず、身近な多数派にみえるより卑しい同質集団に群れたがる。これゆえ多数決をより悪化させ亡ぶ。
父系制は中世の慣行
「日本婚姻史表」、高群逸 『日本婚姻史』より。
元来、縄文期以前を砂原遺跡から数えると約12万年、族内婚、母系社会があった。
天皇の先祖が中国・朝鮮から渡来し、父系社会の慣行をもちこむと、平安末期から父系婚が徐々に公家・武家社会へと広まる。
明治期から双婚制に移り今に至る。
天皇の先祖が中国・朝鮮から渡来し、父系社会の慣行をもちこむと、平安末期から父系婚が徐々に公家・武家社会へと広まる。
明治期から双婚制に移り今に至る。
東横線内の光景
匿名で群れまくり進んでストレス最大級の大トカイ満員電車におのれをつめこみ田舎差別ばらまき金儲け自慢していた集団虐待強者のつもりの南関人らがコロナウィルスに次々集団感染し死亡していっていてもなお殺人教祖天皇を祭り上げ大企業に心身依存し中華思想の虚栄心に浸るいかにも東京横浜間的な光景
都会集団感染
田畑で己の日々の食事を作ってくれていた田舎の人々を頭ごなしに適当な確証バイアスを捏造しながら最低最低と差別し徹底した中華思想に耽っていた東京都民や横浜市民ら南関衆愚が今日もアニメで美化し自慢していた日常たる気が狂った満員電車で傲慢な疫病に集団感染
医学用語の清潔・不潔を清(セイ)・未清(ミセイ)など非日常語に置き換える案
(コロナウィルスに感染したクルーズ船内で使われていた医学用語「清潔」「不潔」と、一般語としてのそれらの語感とのずれについての議論に際し、
どこかの医学会が、専門用語と一般語の混同による誤解を防ぐ目的で、「清(セイ)・未清(ミセイ)」など、普段使わない特別な文字面・読みの新用語を作り、広めるべきかと思う。
以前、生物学で同じ発想から同様の主張(優性・劣性→顕性・潜性)したら、学会に伝わったか用語法が変わりました。
(前略)「不潔のガーゼ」とか言うと「不潔じゃねーだろ、滅菌じゃないだけだ」と外科の先生に注意されました。(後略)とするツイートへの返信)
医療の現場では、よく清潔と不潔の区別を重要視します。
清潔とは滅菌した状態(すべての微生物を死滅させた状態)か、滅菌できないものでは殺菌した状態(一部の微生物は生き残っているが、クリーンな状態)を指します。
不潔とは清潔でない状態すべてを指し、不衛生だけでなく日常の生活状態も含まれます。
清潔度から言うと、滅菌>殺菌>日常品>一般の廃棄物>排泄物や血液汚染したもの(不潔=日常品以下の項目が該当)ということになります。上記記述によると、その外科医師は、恐らくですが、「滅菌>殺菌」の部分に該当する清潔度のものと、医療用語の定義で不潔に該当する「日常品>一般の廃棄物>排泄物や血液汚染したもの」を区別していたのではないでしょうか?
――「清潔と不潔」社会医療法人社団十全会心臓病センター榊原病院 榊原敬氏
どこかの医学会が、専門用語と一般語の混同による誤解を防ぐ目的で、「清(セイ)・未清(ミセイ)」など、普段使わない特別な文字面・読みの新用語を作り、広めるべきかと思う。
以前、生物学で同じ発想から同様の主張(優性・劣性→顕性・潜性)したら、学会に伝わったか用語法が変わりました。
豪奢と質素
この世には贅沢と節倹のどちらを好むかでおもにふたつの趣味の差があり、俗人らは俗物根性により派手な前者に魅せられ易い。だが嘗て例外の余地なく滅び去った文明は、この不経済性によっていたとも解釈できる。
卑怯な日本人衆愚は反面教師
日本人衆愚は全て優れた点を彼らの平均値にひきさげようとし、劣悪な物に喜んでたかる。匿名で犯罪を積み重ね、罪や恥を感じない。彼ら衆愚の一生はいかなる理路を辿っても、私徳の面で不幸だ。
優れた人の独特の美質をより高め、悪趣味を忌避し、普段から実名で責任を負うことで衆愚から離れよ。
日本人衆愚はチンピラ気質のよう群れてつけあがり、匿名の雑魚として都会にまぎれたがる。だが彼らは悪徳の塊なのが事の真相なので、悪業と災厄で一網打尽になる。
普段から日本人衆愚が愚にもつかない田舎差別をまきちらしているのは、単に彼らが心底卑劣な証明である。
優れた人の独特の美質をより高め、悪趣味を忌避し、普段から実名で責任を負うことで衆愚から離れよ。
日本人衆愚はチンピラ気質のよう群れてつけあがり、匿名の雑魚として都会にまぎれたがる。だが彼らは悪徳の塊なのが事の真相なので、悪業と災厄で一網打尽になる。
普段から日本人衆愚が愚にもつかない田舎差別をまきちらしているのは、単に彼らが心底卑劣な証明である。
2020年2月20日
趣味は進化の岐路
普段から尊い人に親しめば、より尊くなる道が拓かれる。
普段から卑しい人に親しめば、より卑しくなる道にいざなわれる。
尊い人達と卑しい人達は、互いに異なる集団となり、やがては進化の枝分かれによって、永遠に交じり合わなくなる。
尊さの方が優れている限り、普段から善い趣味を持て。
普段から卑しい人に親しめば、より卑しくなる道にいざなわれる。
尊い人達と卑しい人達は、互いに異なる集団となり、やがては進化の枝分かれによって、永遠に交じり合わなくなる。
尊さの方が優れている限り、普段から善い趣味を持て。
また野党とパヨクのせいで日本終了です
ほんと対応遅れてコロナウィルス拡散するとか
やっぱり野党はダメで草はえる
我々愚民愚官愚皇にとって常に最善は天皇制
そして自民党イコール与党だけが絶対有能
お前ら野党はこれだから
お前ら賢者はこれだから
お前ら自称知識人はパヨクだから
我々ネトウヨこそが唯一無二の愛国者
地震は野党のせい
やっぱり野党はダメで草はえる
我々愚民愚官愚皇にとって常に最善は天皇制
そして自民党イコール与党だけが絶対有能
お前ら野党はこれだから
お前ら賢者はこれだから
お前ら自称知識人はパヨクだから
我々ネトウヨこそが唯一無二の愛国者
地震は野党のせい
サブカル漬けの阿呆な子供
この国の将来が暗いのは大人のせいじゃなくて子供が勉強しないでマンガアニメゲームの子供騙しで金儲けする悪いトカイの大人に洗脳されてばっかりの阿呆加減のせいだよ
勘違い外人が偉いというから浮世絵をパスポートにする三文東京サブカル国家
勘違い外人が偉いというから浮世絵をパスポートにする三文東京サブカル国家
空っぽの傲慢
中身が虚栄心と空っぽの中華思想だけなのに上から目線で東京に来てなぜか周りの田舎を見下す俗物根性の塊でしかない或る関西出身アメリカ人の随筆を読んだ近い将来のイギリス人らが世界でどう振舞うか中世至上主義の実例をみる様だ
都会ごっこ
東京人が田舎を犠牲に
カネむさぼる為のオリンピック
レインボーブリッジ背景に
テレビ映したいから下水で泳ぐ
田舎から集まってきた東京人
奈良の山奥から出てきた天皇一家
古里も忘れ今では都会ごっこ
あらゆる偽善を集めたら東京になる
毎日テレビやネットで嘘を吐き
田舎はダサいと一番トカい自慢
カネむさぼる為のオリンピック
レインボーブリッジ背景に
テレビ映したいから下水で泳ぐ
田舎から集まってきた東京人
奈良の山奥から出てきた天皇一家
古里も忘れ今では都会ごっこ
あらゆる偽善を集めたら東京になる
毎日テレビやネットで嘘を吐き
田舎はダサいと一番トカい自慢
価値ある大人
嘘ばっかついて生きてろ
自民党に投票し
自分だけ繁殖する為に
贅沢暮らしする為に
就職戦線にひっついていろ
そのまま死に絶えろ
学歴つけて女を騙し
馬鹿女としてそれに騙され
幸せな家庭ぶってポルノ見てる馬鹿が
それともお前は空っぽか
お前がいつ死んでも代わりがいる
AIより価値のない普通の人
自民党に投票し
自分だけ繁殖する為に
贅沢暮らしする為に
就職戦線にひっついていろ
そのまま死に絶えろ
学歴つけて女を騙し
馬鹿女としてそれに騙され
幸せな家庭ぶってポルノ見てる馬鹿が
それともお前は空っぽか
お前がいつ死んでも代わりがいる
AIより価値のない普通の人
意味のない世界
君を生み出した神は
世界をより無意味にしたかったのだろう
実際最初から意味がないのに
唯一の定義を与え
君を中心に万物をしつらえ
私をもさも操られるでくにした
だがもし君がいなければ
全てはもっと楽だった
意味のない宇宙の方が遙かましで
唯一の目的もなく
世界はまだ凍りついていたのだろう
世界をより無意味にしたかったのだろう
実際最初から意味がないのに
唯一の定義を与え
君を中心に万物をしつらえ
私をもさも操られるでくにした
だがもし君がいなければ
全てはもっと楽だった
意味のない宇宙の方が遙かましで
唯一の目的もなく
世界はまだ凍りついていたのだろう
日本に生まれて良かった
安倍晋三首相はよくやっている
神であり永遠だ
山口県民らは侵略を誇る
嘘を平気でつく首相の地元
中国移民の天皇は偉い
祭政一致で永遠に
殺人教祖を崇め奉ろう
全員同じロボットになろう
匿名で誹謗しまくる普通の日本人
どこでも馬鹿が一番偉い
卑怯最高
下品で幼稚な東京京都アニメみる
日本は最高
神であり永遠だ
山口県民らは侵略を誇る
嘘を平気でつく首相の地元
中国移民の天皇は偉い
祭政一致で永遠に
殺人教祖を崇め奉ろう
全員同じロボットになろう
匿名で誹謗しまくる普通の日本人
どこでも馬鹿が一番偉い
卑怯最高
下品で幼稚な東京京都アニメみる
日本は最高
自称普通
日本という型に嵌れ
凡人以外は集団虐待それが日本人
なぜならこの国はロボット工場
社畜国畜天皇陛下の奴隷集団
一歩でもはみだせば抹殺される
全員黒塗り服しか着てはいけない
個性を出したら
独特だったら存在抹消
不良品はコメント欄で匿名衆愚が罵倒
日本を愛する自称普通の狂人達が
悪意で生きる
凡人以外は集団虐待それが日本人
なぜならこの国はロボット工場
社畜国畜天皇陛下の奴隷集団
一歩でもはみだせば抹殺される
全員黒塗り服しか着てはいけない
個性を出したら
独特だったら存在抹消
不良品はコメント欄で匿名衆愚が罵倒
日本を愛する自称普通の狂人達が
悪意で生きる
2020年2月19日
根っから卑怯さが板についている匿名日本人衆愚
アメリカで虐め止めた少年が殺されて義憤を感じるとかほざいてる日本人の匿名衆愚名も姿も身元も個人情報一切明かさず責任とれない浅ましい同調集団で事件の詳細や事情も知らない赤の他人を非難してる時点でもう集団虐めの加害者なのに気づかず相変わらず卑怯者のまま
普段から頼まれもしないのに匿名衆愚の一員として行動している日本人達は常に無責任に甘んじている臆病者卑怯者に等しくその結果いざとなってからも著しく無責任で軟弱かつ卑劣千万で情けない結果に終わるだろう
普段から頼まれもしないのに匿名衆愚の一員として行動している日本人達は常に無責任に甘んじている臆病者卑怯者に等しくその結果いざとなってからも著しく無責任で軟弱かつ卑劣千万で情けない結果に終わるだろう
田舎差別を繰り返す卑しい都会人らの末路
田舎を差別的又は侮辱的に扱っている人々は、自らの食事がいかなる人々の労苦で一体どこで作られているか想像力が欠けている。この意味で暗愚であり、また邪である。
天に唾を吐く言動が、生産地差別といえる。
その種の中華思想をはびこらせた皇室や都会の商人らは質の低い食事をし畢竟餓死する。
天に唾を吐く言動が、生産地差別といえる。
その種の中華思想をはびこらせた皇室や都会の商人らは質の低い食事をし畢竟餓死する。
岩田健太郎氏をクルーズ船感染管理の総括責任者にする案
日本政府は、岩田健太郎氏を総括責任者に任命し、クルーズ船内の全ての感染管理を彼の指示をもとに指揮し直すべきだ。事態は一刻を争うので、この旨を与野党問わず内閣に国会その他あらゆる手立てで要請すべきである。
(安倍晋三氏のツイッターアカウントへ)
岩田健太郎氏をトップの責任者にして、クルーズ船内の感染管理を整え直していただきたい!
大臣とか自衛隊とかゴチャゴチャ入れても混乱深まるばかりなので、現場を知っていて最も知見あると見込める岩田氏に陣頭指揮をお願いしましょう。
以下参考動画。氏のウィキペディア。
(安倍晋三氏のツイッターアカウントへ)
岩田健太郎氏をトップの責任者にして、クルーズ船内の感染管理を整え直していただきたい!
大臣とか自衛隊とかゴチャゴチャ入れても混乱深まるばかりなので、現場を知っていて最も知見あると見込める岩田氏に陣頭指揮をお願いしましょう。
以下参考動画。氏のウィキペディア。
腐敗組織での処世
サイコパス、ダークトライアド・テトラド、その他、愚か者や公徳について悪徳をもつ人物、悪人らが出世している組織は、単に腐敗している。指導者が悪徳的ならその組織全体がより悪い方に誘導されるので、最善なのはもし属していればその種の組織から一刻も早く出て、別の良識的組織から対抗すること。
もしその種の脱出ができなければ、同組織内で内部通報や組織改革を続けるしかないが、権力が邪悪または愚かな恣意的判断をくり返す以上、この次善の策は困難を極める。したがってできるだけ同組織内でも安全度の高い進歩派に与し、政略的に振舞う必要がある。
もしその種の脱出ができなければ、同組織内で内部通報や組織改革を続けるしかないが、権力が邪悪または愚かな恣意的判断をくり返す以上、この次善の策は困難を極める。したがってできるだけ同組織内でも安全度の高い進歩派に与し、政略的に振舞う必要がある。
2020年2月18日
萌えに媚びる必要ない説
先ず古代ギリシアの人達、特に自由市民の一部で同性愛が常態だった上に、プラトンが『饗宴』で恋や性愛の神の名であるところのエロスを肉体への欲求から拡張され宇宙全体への愛に至るものと定義していたりした。
そこのエロスは今の「粋」「萌え」の延長にある東京都民らの(未成年か若い)女の性的物化と相当に別文脈だった。
で、静岡県沼津市・西浦地区のJAなんすんは『ラブライブ!サンシャイン!!』作ってるKADOKAWA、ランティス、サンライズら東京都の会社と組んで、その種の学生服きた未成年女子の性的物化的な目線含む漫画絵をいつものよう展示したら炎上した。
ルネサンス期の西洋美術の文脈となにが違うかといえば、ルネサンス絵画は基本、聖像(イコン)を描いているのだ。そこでのエロスはプラトン説のよう神性が表象される。古代ギリシアは多神教でそれぞれの神は人格神で肉体をもっている。その肉体が性的魅力をもつ場合も考慮され、裸像も作られていた。
尤もギリシア思想が栄えた当時は古代、日本で土偶が作られていた時期にあたり、当地の衣服も簡素だったからはだけた様な像が出土するのは単に、古代人らの日常を表現していたと解釈する方が自然だろう。
そのままユダヤ・キリスト教や土着信仰と混じって、古代ギリシア思想を再興したのが文芸復興。
ルネサンスとは仏語で再生(re- 再び + naissance 誕生)の意、和訳で文芸復興とされるのはギリシア思潮に遡れる古典、つまりヘレニズムを復活させようとする運動だったから。
そこでルネサンス絵画上のエロスは神性の表彰として、たとえ裸像でも人間を超えた神々しい色彩をまとう結果になる。
然るに『ラブライブ!シリーズ』はどうだろう。それに限らず東京民や京都民のオタクアートことサブカルは、東京なら遊郭(今でいう性風俗)とか、京都なら祇園などの売春社会と地続きだ。ラブライブは未成年扱ってんだろうから表面上その種の色彩は目立たないが、本質にある「萌え」は性的発情含む。
つまりラブライブのこの未成年女は、性的表象を媚態としてまとう、江戸・東京文化の文脈で描かれているのが凡そ間違いないだろう。そこにあるのはルネサンス絵画でいうエロスとは全く違う美意識である。典型的美学用語なら「粋」か「萌え」で解釈できるのが、わざとらしく股間にできた窪みである。
九鬼周造『いきの構造』の定義では、粋とは「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」で、まさにこの種の江戸・東京的美意識を、未成年女にまとわせているのがかの絵である。更にはオタク文化にみられる擬似好意感情「萌え」が混じる。
ではなぜ炎上したか? フェミニズムの難癖にすぎないのか?
寧ろ真に問題なのは、東京や京都のオタク文化が未成年少女を性的物化する傾向が孕む反社会性、不埒さなのである。都民や京都民は伝統的に未成年者含む性売買界を背後にもっているので、これに罪恥を感じないため異文化と摩擦がうまれる。
性道徳的に、精神年齢その他の面で判断力の未熟さが想定される未成年者、特に18才未満を性売買罪にかどわかすのは現行法上、売春防止法、性少年健全育成条例などで違法とされる。
即ち『ラブライブ!』ポスター炎上の本質は、女学生の粋・萌え的な性的物化が不道徳な視覚的誘導になりうる点にある。
これに対し、欧米の近現代美術界でも、マネが娼婦の裸体画を聖像群の間に公募展示するとか、クーンズがポルノ女優と自らの性交の様子を彫刻化し展示するとか、エロス表現のある種の変質がみられた。肉体を超え精神的愛、愛国心を経て宇宙全体への愛に至るプラトン思想や神性を無視する点で堕落だった。
村上隆はイギリスのガゴシアン・ギャラリーで漫画的に戯画化した性器彫刻を展示するなど、東京(及び京都)オタク文化の粋・萌えの美意識を海外に輸出しているといっていいだろうが、これは二重の意味で低俗だ。第一に西洋美術のエロスや聖性を無視、第二に江戸東京的な性の物化礼賛に過ぎないからだ。
全く同じ筋で、『異種族レビュアーズ』が東京・京都圏でしか放映されない筈だったが今では京都圏でしか放映されない異文化摩擦、或いは前回の兵庫出身同人誌系作家による『宇崎ちゃんは遊びたい!』ポスター炎上のそれも解釈できる。性産業やオタク文化が公に立派と思われているのは東京・京都が主と。
ではその種の都民・京都民らによる肝心の性の物化、特に未成年の性売買罪、売買春の道徳的是非だが、基本的に多数派は違法な性売買罪に加わっていない(厚労省調査によると、主要先進国最多の日本でも少なくとも86%が過去1年に未経験)。
では一連の都民らによるサブカルはなんなのか。一言でいえば彼ら自身の性の物化文化(最悪の時、慰安婦問題のよう深刻な人権侵害や国際問題に発展した前科がある)を、都外との異文化摩擦を考慮せず素で表現して炎上し、都外の「健全な文化」との落差に焦っていると解釈していいだろう。
最も典型的な客観視をすると、サブカルにみられる東京・京都文化とはある種の退廃主義を含む貧民窟(スラム)文化ともいいかえられよう。都民や京都民自身はそれを誇っているが、外部からみると芸妓に酌され喜んだり、性的接待を受け嬉しがったりしている人々の趣味は下賤と解釈される余地が十分ある。
然るに、都民・京都民一般又は一部は、皇居・御所による中華思想の影響でしばしば自文化中心主義に耽る傾向をもち、なぜ外部の彼らが地方と見下す「健全な文化」からは、未成年の性的物化が下品だとか下衆だとかみなされるかメタ認知できない。異文化理解の知能がないだけでなく、オタクが傲慢すぎる。
全く同じ観点は、既に江戸時代以前からあった。例えば記録に残っているだけでも烈公(徳川斉昭)が江戸の軽佻浮薄に子女を感染させない為と称し国元(水戸)で子育てを試みたり(『徳川慶喜公伝』)、四国方言の「戯作な」が卑猥なという揶揄の文脈で、江戸文化批判を含んでいる。
また『徒然草』226段で京都の俗物文化を逃れ、当時の関東で鎌倉政権が出現する様を描いた琵琶法師について詳述されている。141段では当時の関東人が、京都人の裏表のある風俗を批判している様子も記述される。上田秋成『雨月物語』序文も代表的な、中世文学の美意識による京都文化批判といっていい。
そもそもこれらの例をひくまでもなく、都市の退廃は凡そどの時代、どの地域でもあった。それも原因の一つか永続した都市文化はない。当の古代ギリシア(一代表都市アテナイ)滅亡の前提に、奴隷制のもと暇をもてあました自由市民らが虚栄的生活に耽っていた事実がある。
即ち萌えに媚びる必要ない。
そこのエロスは今の「粋」「萌え」の延長にある東京都民らの(未成年か若い)女の性的物化と相当に別文脈だった。
で、静岡県沼津市・西浦地区のJAなんすんは『ラブライブ!サンシャイン!!』作ってるKADOKAWA、ランティス、サンライズら東京都の会社と組んで、その種の学生服きた未成年女子の性的物化的な目線含む漫画絵をいつものよう展示したら炎上した。
ルネサンス期の西洋美術の文脈となにが違うかといえば、ルネサンス絵画は基本、聖像(イコン)を描いているのだ。そこでのエロスはプラトン説のよう神性が表象される。古代ギリシアは多神教でそれぞれの神は人格神で肉体をもっている。その肉体が性的魅力をもつ場合も考慮され、裸像も作られていた。
尤もギリシア思想が栄えた当時は古代、日本で土偶が作られていた時期にあたり、当地の衣服も簡素だったからはだけた様な像が出土するのは単に、古代人らの日常を表現していたと解釈する方が自然だろう。
そのままユダヤ・キリスト教や土着信仰と混じって、古代ギリシア思想を再興したのが文芸復興。
ルネサンスとは仏語で再生(re- 再び + naissance 誕生)の意、和訳で文芸復興とされるのはギリシア思潮に遡れる古典、つまりヘレニズムを復活させようとする運動だったから。
そこでルネサンス絵画上のエロスは神性の表彰として、たとえ裸像でも人間を超えた神々しい色彩をまとう結果になる。
然るに『ラブライブ!シリーズ』はどうだろう。それに限らず東京民や京都民のオタクアートことサブカルは、東京なら遊郭(今でいう性風俗)とか、京都なら祇園などの売春社会と地続きだ。ラブライブは未成年扱ってんだろうから表面上その種の色彩は目立たないが、本質にある「萌え」は性的発情含む。
つまりラブライブのこの未成年女は、性的表象を媚態としてまとう、江戸・東京文化の文脈で描かれているのが凡そ間違いないだろう。そこにあるのはルネサンス絵画でいうエロスとは全く違う美意識である。典型的美学用語なら「粋」か「萌え」で解釈できるのが、わざとらしく股間にできた窪みである。
九鬼周造『いきの構造』の定義では、粋とは「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」で、まさにこの種の江戸・東京的美意識を、未成年女にまとわせているのがかの絵である。更にはオタク文化にみられる擬似好意感情「萌え」が混じる。
ではなぜ炎上したか? フェミニズムの難癖にすぎないのか?
寧ろ真に問題なのは、東京や京都のオタク文化が未成年少女を性的物化する傾向が孕む反社会性、不埒さなのである。都民や京都民は伝統的に未成年者含む性売買界を背後にもっているので、これに罪恥を感じないため異文化と摩擦がうまれる。
性道徳的に、精神年齢その他の面で判断力の未熟さが想定される未成年者、特に18才未満を性売買罪にかどわかすのは現行法上、売春防止法、性少年健全育成条例などで違法とされる。
即ち『ラブライブ!』ポスター炎上の本質は、女学生の粋・萌え的な性的物化が不道徳な視覚的誘導になりうる点にある。
これに対し、欧米の近現代美術界でも、マネが娼婦の裸体画を聖像群の間に公募展示するとか、クーンズがポルノ女優と自らの性交の様子を彫刻化し展示するとか、エロス表現のある種の変質がみられた。肉体を超え精神的愛、愛国心を経て宇宙全体への愛に至るプラトン思想や神性を無視する点で堕落だった。
村上隆はイギリスのガゴシアン・ギャラリーで漫画的に戯画化した性器彫刻を展示するなど、東京(及び京都)オタク文化の粋・萌えの美意識を海外に輸出しているといっていいだろうが、これは二重の意味で低俗だ。第一に西洋美術のエロスや聖性を無視、第二に江戸東京的な性の物化礼賛に過ぎないからだ。
全く同じ筋で、『異種族レビュアーズ』が東京・京都圏でしか放映されない筈だったが今では京都圏でしか放映されない異文化摩擦、或いは前回の兵庫出身同人誌系作家による『宇崎ちゃんは遊びたい!』ポスター炎上のそれも解釈できる。性産業やオタク文化が公に立派と思われているのは東京・京都が主と。
ではその種の都民・京都民らによる肝心の性の物化、特に未成年の性売買罪、売買春の道徳的是非だが、基本的に多数派は違法な性売買罪に加わっていない(厚労省調査によると、主要先進国最多の日本でも少なくとも86%が過去1年に未経験)。
では一連の都民らによるサブカルはなんなのか。一言でいえば彼ら自身の性の物化文化(最悪の時、慰安婦問題のよう深刻な人権侵害や国際問題に発展した前科がある)を、都外との異文化摩擦を考慮せず素で表現して炎上し、都外の「健全な文化」との落差に焦っていると解釈していいだろう。
最も典型的な客観視をすると、サブカルにみられる東京・京都文化とはある種の退廃主義を含む貧民窟(スラム)文化ともいいかえられよう。都民や京都民自身はそれを誇っているが、外部からみると芸妓に酌され喜んだり、性的接待を受け嬉しがったりしている人々の趣味は下賤と解釈される余地が十分ある。
然るに、都民・京都民一般又は一部は、皇居・御所による中華思想の影響でしばしば自文化中心主義に耽る傾向をもち、なぜ外部の彼らが地方と見下す「健全な文化」からは、未成年の性的物化が下品だとか下衆だとかみなされるかメタ認知できない。異文化理解の知能がないだけでなく、オタクが傲慢すぎる。
全く同じ観点は、既に江戸時代以前からあった。例えば記録に残っているだけでも烈公(徳川斉昭)が江戸の軽佻浮薄に子女を感染させない為と称し国元(水戸)で子育てを試みたり(『徳川慶喜公伝』)、四国方言の「戯作な」が卑猥なという揶揄の文脈で、江戸文化批判を含んでいる。
また『徒然草』226段で京都の俗物文化を逃れ、当時の関東で鎌倉政権が出現する様を描いた琵琶法師について詳述されている。141段では当時の関東人が、京都人の裏表のある風俗を批判している様子も記述される。上田秋成『雨月物語』序文も代表的な、中世文学の美意識による京都文化批判といっていい。
そもそもこれらの例をひくまでもなく、都市の退廃は凡そどの時代、どの地域でもあった。それも原因の一つか永続した都市文化はない。当の古代ギリシア(一代表都市アテナイ)滅亡の前提に、奴隷制のもと暇をもてあました自由市民らが虚栄的生活に耽っていた事実がある。
即ち萌えに媚びる必要ない。
愚かさを知るとは錯誤型の収集
愚かさの中身、つまり過ち方は予想外の場合が多く、理解し難い。そもそもその種の誤りをする前提条件が不明だったりもする(定式的に論理学的でなかったり、誤った前提を置いていたり)。
しかし、既により客観的正解に近い見解を自分がもっているとき、ある見解が愚かだという形式だけが分かる。
この意味で愚かさの型(パターン)を調べること、つまり錯誤型の認識収集についてしか、愚かさを理解できた、とはいえない。愚かさ自体は理解できない。
数学教師などにこの認識は役立つ。よくある誤りの様なQ&Aパターン集をもっていると、より滑らかに生徒へ、典型的思考を教えられるからだ。
海千山千といい、小人は下達すというが、愚かさの理解度とは上述の枠組みのため、ありうる錯誤型という形式の知識量を超えない。いいかえると、愚かな人の誤り易さに一定の型がみいだせないとき、単純にその人の間違いは理解し難い。が一つ新たな例外をうみだす点で、愚かさは文化史上に意味をもつ。
これと逆に、特定の賢さは収束進化している節があるが、それは特に自然科学の様な分野で明らかで、自然の分析についてはより正しい見解があるだけで解釈の余地は無限にはないからだろう。裏返せば、愚かさは拡散進化する体系なのだろう。
が賢さ全てが収束的ではない。独創もありより複合的である。
深層学習する様なAIが、既存の科学知識を習得した場合、その収束的見解は大抵の愚かな人類を超えている筈だ。しかしそれ以上の発見について必ずしもそうでない――最もありうるわけは、偶然の誤りが異なる発想を呼ぶことがあるからだ。この意味で賢さの一部には、愚かさの形式的な応用余地がある。
例えばよく知られている例として、ニュートンの前で偶然林檎が落ちて引力の発想に繋がった説話とか(真偽は不明)、単に日本人の例だけでも田中耕一、白川英樹、江崎玲於奈らは偶然の誤りから重要な発見をしたことになっている。
つまり愚かさには意外性という意味がある。
なぜ人類に愚かな人達が斯くも多いか。IQだけでみてもかなりのばらつきがあるまま集団が残るのは、生存上、愚かな方が有利な場面があるだけではないだろう。特にミーム界で、賢さの一部に含まれる形式的誤りには創造を促す効果がある点を見逃せない。突然変異のよう予想外のくみあわせを生じ易いのだ。冒頭に挙げた「愚かさの形式」を調べること、つまり錯誤型の収集には、もし自分に賢さと呼べる点があるなら、寧ろその発想に柔軟性をもたせる効果がありうると考えるべきだろう。無論愚かさは誤りに繋がるが、例えば喜劇のようそのエラー値を滑稽さや風刺など、なんらかの有意価値に繋げる営みもある。
私が示しておきたかったのは次のことだ。
私は福沢諭吉の記述に学び海千山千、つまり全知を志した。しかし愚かさ自体は知れないと最近悟った。拡散構造をもつ愚かさにとって、できるのは錯誤型の収集だけだからだ。しかも愚かさを知るのは賢さを知るのに比べ価値が一等低い。基本は反例にすぎない。
また釈迦は「愚かな者やその言葉を見聞きするな」と『ウダーナヴァルガ』25:24で述べている。つまり釈迦は福沢と違って愚かさの形式を知る必要はないと考えていた。孔子が『論語』でいう「異端を攻めるは害のみ」とほぼ同質の意見だろう。
全知に必要なのは無限の錯誤型の効率的収集だけなのだろう。
しかし、既により客観的正解に近い見解を自分がもっているとき、ある見解が愚かだという形式だけが分かる。
この意味で愚かさの型(パターン)を調べること、つまり錯誤型の認識収集についてしか、愚かさを理解できた、とはいえない。愚かさ自体は理解できない。
数学教師などにこの認識は役立つ。よくある誤りの様なQ&Aパターン集をもっていると、より滑らかに生徒へ、典型的思考を教えられるからだ。
海千山千といい、小人は下達すというが、愚かさの理解度とは上述の枠組みのため、ありうる錯誤型という形式の知識量を超えない。いいかえると、愚かな人の誤り易さに一定の型がみいだせないとき、単純にその人の間違いは理解し難い。が一つ新たな例外をうみだす点で、愚かさは文化史上に意味をもつ。
これと逆に、特定の賢さは収束進化している節があるが、それは特に自然科学の様な分野で明らかで、自然の分析についてはより正しい見解があるだけで解釈の余地は無限にはないからだろう。裏返せば、愚かさは拡散進化する体系なのだろう。
が賢さ全てが収束的ではない。独創もありより複合的である。
深層学習する様なAIが、既存の科学知識を習得した場合、その収束的見解は大抵の愚かな人類を超えている筈だ。しかしそれ以上の発見について必ずしもそうでない――最もありうるわけは、偶然の誤りが異なる発想を呼ぶことがあるからだ。この意味で賢さの一部には、愚かさの形式的な応用余地がある。
例えばよく知られている例として、ニュートンの前で偶然林檎が落ちて引力の発想に繋がった説話とか(真偽は不明)、単に日本人の例だけでも田中耕一、白川英樹、江崎玲於奈らは偶然の誤りから重要な発見をしたことになっている。
つまり愚かさには意外性という意味がある。
なぜ人類に愚かな人達が斯くも多いか。IQだけでみてもかなりのばらつきがあるまま集団が残るのは、生存上、愚かな方が有利な場面があるだけではないだろう。特にミーム界で、賢さの一部に含まれる形式的誤りには創造を促す効果がある点を見逃せない。突然変異のよう予想外のくみあわせを生じ易いのだ。冒頭に挙げた「愚かさの形式」を調べること、つまり錯誤型の収集には、もし自分に賢さと呼べる点があるなら、寧ろその発想に柔軟性をもたせる効果がありうると考えるべきだろう。無論愚かさは誤りに繋がるが、例えば喜劇のようそのエラー値を滑稽さや風刺など、なんらかの有意価値に繋げる営みもある。
私が示しておきたかったのは次のことだ。
私は福沢諭吉の記述に学び海千山千、つまり全知を志した。しかし愚かさ自体は知れないと最近悟った。拡散構造をもつ愚かさにとって、できるのは錯誤型の収集だけだからだ。しかも愚かさを知るのは賢さを知るのに比べ価値が一等低い。基本は反例にすぎない。
また釈迦は「愚かな者やその言葉を見聞きするな」と『ウダーナヴァルガ』25:24で述べている。つまり釈迦は福沢と違って愚かさの形式を知る必要はないと考えていた。孔子が『論語』でいう「異端を攻めるは害のみ」とほぼ同質の意見だろう。
全知に必要なのは無限の錯誤型の効率的収集だけなのだろう。
良心は偏見を戒める必要がある
「良心の内面化」、もっと通俗的な言い方をすれば、良心を習性にしてしまうこと。これが文明の中で本来の上品さ、うまれ又は育ちのよさといわれる種類の適性なのだが、もともと先住人の方がこの点で文明化していたのが考古学で明らかになる。
渡来人らが鉄器・青銅器の武器で素朴な善人を虐殺した。
この点で天皇の先祖は、今日の目でみれば大量殺人犯にして野蛮人に他ならず、皇室・宮内庁側の歴史観、或いは(記紀からはじまり『大日本史』に代表される様な)皇国史観と対立する。
彼らは天皇を上品と言い繕うが、先住人虐殺だけでなく国民全体を納税奴隷化し続けてきたのが事実でしかない。
NHKドラマ化された『アテルイ伝』のよう、天皇の侵略・虐殺被害を受けてきた先住史観に立って歴史の真相を見直せば、良心の内面化も皇国史観を相対化できなければならない。
皇国史観の本質は帝国主義、植民地主義、神道原理主義、中華思想などの類型に他ならず、思想全体でみれば単なる部分である。
全く同じ意味で、時代が下るほど、或いは中国・朝鮮・欧米などから渡来してきた故、遺伝子や文化素(ミーム)が優れているとする偏見は全くの過ちだ。先住人やその文化の方が優れている面があったのは、砂原遺跡から12万年平和だった縄文期を壊した弥生人遺跡から撲殺死体が出てくる点でも証明される。
人の良心は、特定の権威権力におもねるものであってはならない。あまねく、全ての人々、或いは時に人を超えたあらゆる生命の利害をできるだけ代理しうるものでなければならない。いうまでもなく、自分やその血統に有利な立場をもちあげ、そこから遠い人々を貶めたり、不利な立場に置く偏見は邪である。
渡来人らが鉄器・青銅器の武器で素朴な善人を虐殺した。
この点で天皇の先祖は、今日の目でみれば大量殺人犯にして野蛮人に他ならず、皇室・宮内庁側の歴史観、或いは(記紀からはじまり『大日本史』に代表される様な)皇国史観と対立する。
彼らは天皇を上品と言い繕うが、先住人虐殺だけでなく国民全体を納税奴隷化し続けてきたのが事実でしかない。
NHKドラマ化された『アテルイ伝』のよう、天皇の侵略・虐殺被害を受けてきた先住史観に立って歴史の真相を見直せば、良心の内面化も皇国史観を相対化できなければならない。
皇国史観の本質は帝国主義、植民地主義、神道原理主義、中華思想などの類型に他ならず、思想全体でみれば単なる部分である。
全く同じ意味で、時代が下るほど、或いは中国・朝鮮・欧米などから渡来してきた故、遺伝子や文化素(ミーム)が優れているとする偏見は全くの過ちだ。先住人やその文化の方が優れている面があったのは、砂原遺跡から12万年平和だった縄文期を壊した弥生人遺跡から撲殺死体が出てくる点でも証明される。
人の良心は、特定の権威権力におもねるものであってはならない。あまねく、全ての人々、或いは時に人を超えたあらゆる生命の利害をできるだけ代理しうるものでなければならない。いうまでもなく、自分やその血統に有利な立場をもちあげ、そこから遠い人々を貶めたり、不利な立場に置く偏見は邪である。
自賛引用リツイート勢は政略・知性の両面で過度に傲慢な失敗例説
自分を褒める内容を自画自賛でリツイートし直す人達が全く理解できなかったが(先ず謙虚の対極にある行動だし、自分なら無闇に褒められたら寧ろ己の過ちにより注意深くこそなれ決して手放しで自尊心に浸れないものだから)、自己愛性のmoral grandstanding(道徳スタンドプレー)と考えると納得いく。
(参考:Joshua B. Grubbsらの"Moral grandstanding in public discourse: Status-seeking motives as a potential explanatory mechanism in predicting conflict", 2019年
https://yuchrszk.blogspot.com/2020/01/blog-post_11.html)
彼らは己の無謬さを前提に、他人が己を賞賛していると更に別の他人へ誇示する事で、自尊心を補完できると(恐らく無意識に)感じ、その種の第三者の目には不快でしかないリツイートを連打するらしい。自分とは大分違う脳の持ち主達だ。
そう考えると、名声を求めている類の俗物度が高いほど、自賛リツイートの頻度も高い様に思う。
ではなぜ自分が「なぜこの人達は他人の目には醜悪でしかない自賛の引用を繰り返すのか?」と感じてきたかだが、自分にはその種の俗物性が低い為に、彼らの行動動機の内容、思考回路が理解し難いのだ。
では自分がどういう内容を求めているかだが、先ずよい意味で自分の意見に批評的・批判的な意見である。
といっても当然ながら誹謗中傷の類ではなく、成程と思う様な学術的超克があって、しかも単に、私の尊厳を貶めるサイコパス的荒らしの悪意でなく、知徳を問う善意で語られている類のものである。
今までその種の返信はみたことがなく、逆に謎の礼賛とムイミな誹謗が多すぎたので時を浪費しないため通知をきることにしたらツイッターが使える様になった。ツイッターに学術的良識、共知 conscienceをもっている人がまれにいても返信してこないか、そもそも私の意見に興味がないか、いずれかだろう。
一度だけ、自分がマルクス解釈を引用したらその種の言説をマルクス自身はしていないといった人がいたので、原典辿ったら、やはりマルクス自身がしていた。それで呆れてしまい、学術的知性の劣る人達が適当な文句をつけて回っている場所なのだと気づいた。当然といえば当然だが、2ch級民度だったのだ。
で、もしよい意味で批評的・批判的・criticalな返信なり、引用リツイート(こちらは自分のフォロワーに晒し者にする悪意での反論が多いのでより悪質だと思っている)があっても、自分はそれなら公益の為リツイートしてもいいんだけど、不思議な事にというかそういう面白い通知は基本的にないのである。
しかし、上記した道徳スタンドプレー派は、元々自己愛の強いnarcissistなのもまた確かだろうし、批判的返信をみたら気分を悪くするだけなのかもしれない。
実はきのうまた実験しようと思って通知欄をつけてみたのだが、なんか褒めてるぽいのが出て、自分としては相当困る感じがした。
なぜなら、先ず褒めるという行動はその自分の言動がその人の私益、又はなんらかの公益に該当する際の賞美と基本解釈できるが、実際には社会的策略で褒めごろしとか皮肉とか色々な派生パターンがある。謙虚なほど褒められると後者に注意深くならざるをえない。自分は昔からそういう性格なのが確かだ。
例えば小学校のとき、自転車競技会とかいうのが自分の地域にあるんだがそこで優勝して、表彰台で賞状貰ってから振り返って会場の人らに無意識に頭下げたんだが、これも同じ感覚で、大体その人達を踏みのけたんだから感謝すべきなのは他の競合者へだ。降りてから皆に頭下げる必要ないと大人にいわれた。
すなわち、毀誉褒貶は所詮、地位を巡る政治ゲームでしかない。政治は政治で理解できるとして。
意見の客観的是非を人格ときりはなし議論するのが学術的知性で、自分は多分そちらに主な関心があるのだが、ツイッター上に溢れているのは先ずただの荒らしで、自見に固執か、悪意で混乱させたいだけだ。
冒頭の「自賛引用リツイート勢」はインフルエンサーが多い。自己愛が激しいのに(日本の様な固定度の高い定常成員の集団で)政治的知能に劣るほど、自己主張が過度に激しかったり、他人を踏みのけて平気でいたりするのは、彼らが程あれ悪質なサイコパスに近い、と示しているに過ぎない様に思う。
一般論として、謙虚さとは定常成員の中で一定以上の地位を得る政略であり、性格上の適応である。いわゆる出る杭は打たれる、で固定メンバー間に利害関係が発生していれば、利益独占し易い傲慢な成員からねたみを買い、潰される。
しかし知的謙虚さはこれではなく、自見への自己批判的な留保である。
科学が最も典型的だが、どの仮説にも反証可能性が担保されていなければならないし、或る知識段階で、特定の仮説を否定する根拠が不足している点での信憑性しか主張できない。だから科学的知性をもっていれば自見を強く主張できない筈で、ニュートンの例のよう生前は無限の疑義の中にあらざるをえない。
自分が言いたいのは、「自賛引用リツイート勢」は、この2つの謙虚さ、政治的謙虚と科学的謙虚の2面で共に失敗例である。私個人は彼らを反面教師にしているし、その通りの結果になるだろう。ツイッター政治を長期でみてアダムスミス『道徳感情論』式に共感を得る必要があり、自見の吟味も必要だから。
(参考:Joshua B. Grubbsらの"Moral grandstanding in public discourse: Status-seeking motives as a potential explanatory mechanism in predicting conflict", 2019年
https://yuchrszk.blogspot.com/2020/01/blog-post_11.html)
彼らは己の無謬さを前提に、他人が己を賞賛していると更に別の他人へ誇示する事で、自尊心を補完できると(恐らく無意識に)感じ、その種の第三者の目には不快でしかないリツイートを連打するらしい。自分とは大分違う脳の持ち主達だ。
そう考えると、名声を求めている類の俗物度が高いほど、自賛リツイートの頻度も高い様に思う。
ではなぜ自分が「なぜこの人達は他人の目には醜悪でしかない自賛の引用を繰り返すのか?」と感じてきたかだが、自分にはその種の俗物性が低い為に、彼らの行動動機の内容、思考回路が理解し難いのだ。
では自分がどういう内容を求めているかだが、先ずよい意味で自分の意見に批評的・批判的な意見である。
といっても当然ながら誹謗中傷の類ではなく、成程と思う様な学術的超克があって、しかも単に、私の尊厳を貶めるサイコパス的荒らしの悪意でなく、知徳を問う善意で語られている類のものである。
今までその種の返信はみたことがなく、逆に謎の礼賛とムイミな誹謗が多すぎたので時を浪費しないため通知をきることにしたらツイッターが使える様になった。ツイッターに学術的良識、共知 conscienceをもっている人がまれにいても返信してこないか、そもそも私の意見に興味がないか、いずれかだろう。
一度だけ、自分がマルクス解釈を引用したらその種の言説をマルクス自身はしていないといった人がいたので、原典辿ったら、やはりマルクス自身がしていた。それで呆れてしまい、学術的知性の劣る人達が適当な文句をつけて回っている場所なのだと気づいた。当然といえば当然だが、2ch級民度だったのだ。
で、もしよい意味で批評的・批判的・criticalな返信なり、引用リツイート(こちらは自分のフォロワーに晒し者にする悪意での反論が多いのでより悪質だと思っている)があっても、自分はそれなら公益の為リツイートしてもいいんだけど、不思議な事にというかそういう面白い通知は基本的にないのである。
しかし、上記した道徳スタンドプレー派は、元々自己愛の強いnarcissistなのもまた確かだろうし、批判的返信をみたら気分を悪くするだけなのかもしれない。
実はきのうまた実験しようと思って通知欄をつけてみたのだが、なんか褒めてるぽいのが出て、自分としては相当困る感じがした。
なぜなら、先ず褒めるという行動はその自分の言動がその人の私益、又はなんらかの公益に該当する際の賞美と基本解釈できるが、実際には社会的策略で褒めごろしとか皮肉とか色々な派生パターンがある。謙虚なほど褒められると後者に注意深くならざるをえない。自分は昔からそういう性格なのが確かだ。
例えば小学校のとき、自転車競技会とかいうのが自分の地域にあるんだがそこで優勝して、表彰台で賞状貰ってから振り返って会場の人らに無意識に頭下げたんだが、これも同じ感覚で、大体その人達を踏みのけたんだから感謝すべきなのは他の競合者へだ。降りてから皆に頭下げる必要ないと大人にいわれた。
すなわち、毀誉褒貶は所詮、地位を巡る政治ゲームでしかない。政治は政治で理解できるとして。
意見の客観的是非を人格ときりはなし議論するのが学術的知性で、自分は多分そちらに主な関心があるのだが、ツイッター上に溢れているのは先ずただの荒らしで、自見に固執か、悪意で混乱させたいだけだ。
冒頭の「自賛引用リツイート勢」はインフルエンサーが多い。自己愛が激しいのに(日本の様な固定度の高い定常成員の集団で)政治的知能に劣るほど、自己主張が過度に激しかったり、他人を踏みのけて平気でいたりするのは、彼らが程あれ悪質なサイコパスに近い、と示しているに過ぎない様に思う。
一般論として、謙虚さとは定常成員の中で一定以上の地位を得る政略であり、性格上の適応である。いわゆる出る杭は打たれる、で固定メンバー間に利害関係が発生していれば、利益独占し易い傲慢な成員からねたみを買い、潰される。
しかし知的謙虚さはこれではなく、自見への自己批判的な留保である。
科学が最も典型的だが、どの仮説にも反証可能性が担保されていなければならないし、或る知識段階で、特定の仮説を否定する根拠が不足している点での信憑性しか主張できない。だから科学的知性をもっていれば自見を強く主張できない筈で、ニュートンの例のよう生前は無限の疑義の中にあらざるをえない。
自分が言いたいのは、「自賛引用リツイート勢」は、この2つの謙虚さ、政治的謙虚と科学的謙虚の2面で共に失敗例である。私個人は彼らを反面教師にしているし、その通りの結果になるだろう。ツイッター政治を長期でみてアダムスミス『道徳感情論』式に共感を得る必要があり、自見の吟味も必要だから。
美術商品
業界ゲームで金を儲けるしか特に意味がない自称ファインアート商品は、不特定多数の人達を不幸にする悪趣味の一部だろう。そもそもカネは有限の資源なので、他人がそれをより多く保有していると聞くだけで人は一般に不快なのである。
最高善という自己犠牲願望
脳の肥大化したサル、エイプの延長に過ぎないヒトの命で、神という空想上の全知に日々近づこうとする努力に一体なんの意味があったのか?
旧皮質に本能を維持したままそうしたところで、単に世人から聖者のようみられる為の演技が板につくだけ、孔子のいう従心に至るだけ。自尊心の補完。良心の快。
アリストテレスは純粋に理論的な存在、観想のみを行う存在が神と定義していた。ではこの意味での哲学者が最も神性に近づけるとして、一体それがなんだというのだろう?
尤もヒト自体になにか重要さがあるわけではない。サルの変種の観察でしかない。だからこの意味での神性の方がまだましなのだが。
ガウタマとアリストテレスがもし対話したとして、彼らはほぼ類似の幸福観をもっていたといえるだろう。彼らは理論家としての人生が至上だと考えていた。つまり哲学者タイプだった。確かに理屈の中に篭もる限りそれは永遠にできるゲームかもしれない。言葉の組み合わせを高度化し続けるだけなのだから。
だが一体その言語の新たな組み合わせがなんだというのか? もし哲学できるAIができたら、その方が人より高尚な言語を用いうるのではないか?
より利他性の高い判断を積み重ねる言語の用法を深層学習させる。過去全ての哲学をのりこえる発想も、類似傾向のくみあわせで生み出せるかもしれない。
また私は次の事も知った。そもそもPC上で再現できるあらゆる情報は、言語の順列である。プログラミング言語を紐解けば当然そうなる。視聴覚情報の殆どもこの領域内にあるのだから、人はやがて芸術AIによって充足する甘美な表現を得るだろう。ディープフェイクの作る淫靡なポルノから至上の聖言まで。
勿論、その種の表現はただの道具であり、目的でない事は明らかだろう。ヒトの作ったAIがヒトを超えた目的とは、そもそも作り手の矛盾だからだ。
ここから逆算すると、芸術も、言語芸術の一種というべき哲学、即ち全ての学問も、所詮、ヒトにとっての道具でしかありえない。ヒトの最後の役割は何か?
道徳的に生きる事は、本能の利己性を制御し、少なくとも自己犠牲を最高段階として、より善き人を利する。
我々は悪人が幸を得ると不快に思い、転落を願う。しかし善人が不幸のままだと残念に感じ、悲劇の死を遂げると神格化する。このとき道徳は、ある人に認知できる最大の利他性によっている。
哲学も、それを表現したと解釈できるどの芸術も、或いはそれらを流通させる経済、それらの偏りを調整する政治などの社会活動全般が、ある人の道徳を目的にしているといっていい。ここでいう道徳は、AIに補完されないのではないか? 道徳相対主義を考慮しても、人が生きるのは道徳への奉仕ではないか?
はじめ言葉の暴走にすぎなかったはず道徳が、やがて脳を乗っ取り、我々の生や死に意味づけする。
自分の言語知能で考えるより、他人に意味づけされた方が気楽だという人々がいて、そういう人達は特定の宗教を信じている。嘗ての哲人がうみだした思想を教条化する信徒として、教祖に洗脳された人達。
本当の所は、生も死も特に意味などもっていない。命の起源として海の中にいた藍藻だの、有機物を構成した炭素循環だのにどんな意味があったというのか。ただの自然現象、くみあわせの偶然だ。
脳細胞が言葉の羅列を特定の順列にしたとき立ち上がる意味の質感に、目的意識を織り込んだのが道徳だ。
結局、我々は、というべきか、人の相当数は、道徳なる妄想に囚われがちな種族で、特に良心の満足を突き詰めると必ず自己犠牲に辿りつく。あらゆる快楽でもこの快は致死的で毒性が強いのだが、救済あるいは名誉とのラベルをつけられていたりする。サイコパスは良心の認知力が低くこの点で自由なのだが。
神性とか仏性とか悟性とか理性とか知性とか、色々な哲学用語で呼び習わしてきたものの正体は、端的にまとめればなんらかの道徳妄想だったといってもいいだろう。さらにいえば良心そのものが或る心の妄念なのである。しかし、我々は一般にそれを教育や生育過程で知らずしらず身につけ、鍛えようとする。
確かに、良心的な人間がそうでない人間より尊い。それは自分にとってそういうお人よしが自己犠牲してくれた方がありがたいからにすぎないのだが。だから良心を鍛える事は呪われた仕業である。文明と称する自意識過剰の野卑で利己的な集団は、構成員らの恣意に悩んでいて、敬虔な少数者が希少である。
冒頭にもどる。アリストテレスのいう神性とはなんだったのか? それがもし全徳という意味で最高の良心、すなわち最高善の別名であったなら、アステカ帝国で心臓を彼らの神の祭壇に捧げていた少年少女の様なものにすぎないのではないか?
競争的な本能と同様に、良心も呪われているのではないか?
これが真実なら、中庸や中道などの言い方で、平凡な人間が次善化されてしまいかねないが、道徳が極端に優れた人は単に聖人で模範的なままだ。正確には、良心は聖人自身にとっての呪縛だといってもいい。
縄文時代以前の方が徳の面ではより文明的だった。この点で拝金主義は原始共産制に劣っている。
今日の資本主義化した社会で利他的に振舞うのは、当然ながら極貧になる事を意味している。この面でも、現代文明は聖人君子を二重に呪っている。最善者が良心に基づき行動せざるをえず、競争で他人からカネを奪えないのが第一の呪い。そして清貧を飽くまで辱める皇族や成金らの存在が第二の呪い。
神性は幻想にして虚妄で、良心もまた互いにカネを貪りあう資本主義集団の中ではほぼ実用的効果をもっていない。
そうして拝金観が新たな道徳の顔をして、人々の上に振りまかれる。だが梅岩による町人倫理の時点から、いやもっと遡れば米経済下にあった弥生人移民の頃から同じだったのだ、それは。
自分にいえるのは、良心に基づいて生きる事は、利己的な人達、いいかえれば他人を自分の本能に利用する邪心をもった人達が混じっている集団中では、常に困難だったのだ。天皇が全国民を奴隷化し洗脳している時、その専権を除く力を得て打倒するのは、ドラゴンクエストの勇者が竜王を倒すより難しい。
最高善は到達し難い。自己犠牲をはかるのは本能に逆らうからだ。だがそれは当為だ。
神性、すなわち神らしさとは自分の本能的要素をのりこえられた程による資質なのだから、本質からいっても遺伝しえない。ある個体が繁殖する時点で本能に堕しているからだ。道徳はミームの遺伝子への勝利度である。
(もし道徳が妄想にすぎないなら、いや、そうなのだが、一体そんな妄想の為に命を犠牲にする意味がどこにあるというのだ? 自分で落とし前をつけているだけ。他人からの名声など最初から意味をもっていないし、自己犠牲したところで利己的で卑しい人々は歯牙にもかけずお前を踏みにじるだけだろうに)
旧皮質に本能を維持したままそうしたところで、単に世人から聖者のようみられる為の演技が板につくだけ、孔子のいう従心に至るだけ。自尊心の補完。良心の快。
アリストテレスは純粋に理論的な存在、観想のみを行う存在が神と定義していた。ではこの意味での哲学者が最も神性に近づけるとして、一体それがなんだというのだろう?
尤もヒト自体になにか重要さがあるわけではない。サルの変種の観察でしかない。だからこの意味での神性の方がまだましなのだが。
ガウタマとアリストテレスがもし対話したとして、彼らはほぼ類似の幸福観をもっていたといえるだろう。彼らは理論家としての人生が至上だと考えていた。つまり哲学者タイプだった。確かに理屈の中に篭もる限りそれは永遠にできるゲームかもしれない。言葉の組み合わせを高度化し続けるだけなのだから。
だが一体その言語の新たな組み合わせがなんだというのか? もし哲学できるAIができたら、その方が人より高尚な言語を用いうるのではないか?
より利他性の高い判断を積み重ねる言語の用法を深層学習させる。過去全ての哲学をのりこえる発想も、類似傾向のくみあわせで生み出せるかもしれない。
また私は次の事も知った。そもそもPC上で再現できるあらゆる情報は、言語の順列である。プログラミング言語を紐解けば当然そうなる。視聴覚情報の殆どもこの領域内にあるのだから、人はやがて芸術AIによって充足する甘美な表現を得るだろう。ディープフェイクの作る淫靡なポルノから至上の聖言まで。
勿論、その種の表現はただの道具であり、目的でない事は明らかだろう。ヒトの作ったAIがヒトを超えた目的とは、そもそも作り手の矛盾だからだ。
ここから逆算すると、芸術も、言語芸術の一種というべき哲学、即ち全ての学問も、所詮、ヒトにとっての道具でしかありえない。ヒトの最後の役割は何か?
道徳的に生きる事は、本能の利己性を制御し、少なくとも自己犠牲を最高段階として、より善き人を利する。
我々は悪人が幸を得ると不快に思い、転落を願う。しかし善人が不幸のままだと残念に感じ、悲劇の死を遂げると神格化する。このとき道徳は、ある人に認知できる最大の利他性によっている。
哲学も、それを表現したと解釈できるどの芸術も、或いはそれらを流通させる経済、それらの偏りを調整する政治などの社会活動全般が、ある人の道徳を目的にしているといっていい。ここでいう道徳は、AIに補完されないのではないか? 道徳相対主義を考慮しても、人が生きるのは道徳への奉仕ではないか?
はじめ言葉の暴走にすぎなかったはず道徳が、やがて脳を乗っ取り、我々の生や死に意味づけする。
自分の言語知能で考えるより、他人に意味づけされた方が気楽だという人々がいて、そういう人達は特定の宗教を信じている。嘗ての哲人がうみだした思想を教条化する信徒として、教祖に洗脳された人達。
本当の所は、生も死も特に意味などもっていない。命の起源として海の中にいた藍藻だの、有機物を構成した炭素循環だのにどんな意味があったというのか。ただの自然現象、くみあわせの偶然だ。
脳細胞が言葉の羅列を特定の順列にしたとき立ち上がる意味の質感に、目的意識を織り込んだのが道徳だ。
結局、我々は、というべきか、人の相当数は、道徳なる妄想に囚われがちな種族で、特に良心の満足を突き詰めると必ず自己犠牲に辿りつく。あらゆる快楽でもこの快は致死的で毒性が強いのだが、救済あるいは名誉とのラベルをつけられていたりする。サイコパスは良心の認知力が低くこの点で自由なのだが。
神性とか仏性とか悟性とか理性とか知性とか、色々な哲学用語で呼び習わしてきたものの正体は、端的にまとめればなんらかの道徳妄想だったといってもいいだろう。さらにいえば良心そのものが或る心の妄念なのである。しかし、我々は一般にそれを教育や生育過程で知らずしらず身につけ、鍛えようとする。
確かに、良心的な人間がそうでない人間より尊い。それは自分にとってそういうお人よしが自己犠牲してくれた方がありがたいからにすぎないのだが。だから良心を鍛える事は呪われた仕業である。文明と称する自意識過剰の野卑で利己的な集団は、構成員らの恣意に悩んでいて、敬虔な少数者が希少である。
冒頭にもどる。アリストテレスのいう神性とはなんだったのか? それがもし全徳という意味で最高の良心、すなわち最高善の別名であったなら、アステカ帝国で心臓を彼らの神の祭壇に捧げていた少年少女の様なものにすぎないのではないか?
競争的な本能と同様に、良心も呪われているのではないか?
これが真実なら、中庸や中道などの言い方で、平凡な人間が次善化されてしまいかねないが、道徳が極端に優れた人は単に聖人で模範的なままだ。正確には、良心は聖人自身にとっての呪縛だといってもいい。
縄文時代以前の方が徳の面ではより文明的だった。この点で拝金主義は原始共産制に劣っている。
今日の資本主義化した社会で利他的に振舞うのは、当然ながら極貧になる事を意味している。この面でも、現代文明は聖人君子を二重に呪っている。最善者が良心に基づき行動せざるをえず、競争で他人からカネを奪えないのが第一の呪い。そして清貧を飽くまで辱める皇族や成金らの存在が第二の呪い。
神性は幻想にして虚妄で、良心もまた互いにカネを貪りあう資本主義集団の中ではほぼ実用的効果をもっていない。
そうして拝金観が新たな道徳の顔をして、人々の上に振りまかれる。だが梅岩による町人倫理の時点から、いやもっと遡れば米経済下にあった弥生人移民の頃から同じだったのだ、それは。
自分にいえるのは、良心に基づいて生きる事は、利己的な人達、いいかえれば他人を自分の本能に利用する邪心をもった人達が混じっている集団中では、常に困難だったのだ。天皇が全国民を奴隷化し洗脳している時、その専権を除く力を得て打倒するのは、ドラゴンクエストの勇者が竜王を倒すより難しい。
最高善は到達し難い。自己犠牲をはかるのは本能に逆らうからだ。だがそれは当為だ。
神性、すなわち神らしさとは自分の本能的要素をのりこえられた程による資質なのだから、本質からいっても遺伝しえない。ある個体が繁殖する時点で本能に堕しているからだ。道徳はミームの遺伝子への勝利度である。
(もし道徳が妄想にすぎないなら、いや、そうなのだが、一体そんな妄想の為に命を犠牲にする意味がどこにあるというのだ? 自分で落とし前をつけているだけ。他人からの名声など最初から意味をもっていないし、自己犠牲したところで利己的で卑しい人々は歯牙にもかけずお前を踏みにじるだけだろうに)
2020年2月17日
純粋文芸の意味
はじめは集団の把握の為に脳が肥大化していったが、やがて余分な脳を絶えずなんらかの情報で運動させていないと人は退屈する様になった。そうして純粋美術が生まれた。
人が純粋音楽は単に複雑化していく音列で、意味がないとみなすなら正しい。純粋文芸の方が言葉を複雑にしていく過程である。
人が純粋音楽は単に複雑化していく音列で、意味がないとみなすなら正しい。純粋文芸の方が言葉を複雑にしていく過程である。
サイコパスの出世は集団破滅の兆候
人を見る目がない人がサイコパスを識者、或いは有能と勘違いする傾向は、断定的口調を自信の表れと思い込み易い心理からきている。しかし集団が大きく道を誤るきっかけは、不徳な人が上位者に就くことにある。
サイコパスやダークトライアドが上位にある集団は、自他に公害を撒き散らして終わる。
サイコパスやダークトライアドが上位にある集団は、自他に公害を撒き散らして終わる。
文化人の理想
道徳に基づき他人を攻撃するのは基本、ある性質をもった人間が自分に不利な行動傾向をもつ人々を統制する目的である。つまりある人の寛容さが低ければ低いほど、この攻撃性は頻繁に発揮されざるをえない。
日本社会に規制が多いのは、属する平均的な人々の寛容さが極端に低いからだろう(国連幸福度調査での該当項目が一傍証)。
一般的な知能指数と寛容さに正相関があるなら、ある集団が規制的であればあるほどその集団の平均知能指数は原則として低い事になる。
進歩や革新のきっかけは例外なので、ある集団に意外で新しい組み合わせの行動系列が相対的に継続し辛いなら、結局その集団の人々が幼稚だからである。
同じ様に、異質な他者理解にも感情・共感の知能含め、一般知能を程あれ用いる。いいかえれば他者より自己中心的な傾向のある人々(例えば伝統的に中華思想をもっている皇室の様な人々、或いは自文化中心で門地差別的な都民や京都市民の一部)はやはり、なんらかの平均知能指数が低い故にそうなのである。
人々の個性をより単純な分類にあてはめ、その属性によって差別する癖も同じ原因から出てくる(人種・民族・学歴・性別・国籍・肩書き単位での差別など)。
道徳的な攻撃性は、しばしばこれら認知の誤りも含んでいる。つまり自分の為に或る道徳説を使って他人を攻撃するのみならず、異質な他者への誤解や、分類による偏見をも重ねている場合がある。
裏返せば、単に寛容なだけでなく、異質な他者へ同情的理解力をもち、分類に囚われない人が真に道徳的だ。
この様な特徴をもった人を仮に「文化人」と呼ぶと、その種の性格であって尚且つ利他的なのが望ましい。究極で自己犠牲的なら聖徳に達している。
例えば飛虎将軍が台湾人に神格化されたのは、彼が単に文化的で台湾の或る村のくらしを守ろうとしていただけでなく、自己犠牲を省みなかったからだろう(参考資料1、2、3)。
日本社会に規制が多いのは、属する平均的な人々の寛容さが極端に低いからだろう(国連幸福度調査での該当項目が一傍証)。
一般的な知能指数と寛容さに正相関があるなら、ある集団が規制的であればあるほどその集団の平均知能指数は原則として低い事になる。
進歩や革新のきっかけは例外なので、ある集団に意外で新しい組み合わせの行動系列が相対的に継続し辛いなら、結局その集団の人々が幼稚だからである。
同じ様に、異質な他者理解にも感情・共感の知能含め、一般知能を程あれ用いる。いいかえれば他者より自己中心的な傾向のある人々(例えば伝統的に中華思想をもっている皇室の様な人々、或いは自文化中心で門地差別的な都民や京都市民の一部)はやはり、なんらかの平均知能指数が低い故にそうなのである。
人々の個性をより単純な分類にあてはめ、その属性によって差別する癖も同じ原因から出てくる(人種・民族・学歴・性別・国籍・肩書き単位での差別など)。
道徳的な攻撃性は、しばしばこれら認知の誤りも含んでいる。つまり自分の為に或る道徳説を使って他人を攻撃するのみならず、異質な他者への誤解や、分類による偏見をも重ねている場合がある。
裏返せば、単に寛容なだけでなく、異質な他者へ同情的理解力をもち、分類に囚われない人が真に道徳的だ。
この様な特徴をもった人を仮に「文化人」と呼ぶと、その種の性格であって尚且つ利他的なのが望ましい。究極で自己犠牲的なら聖徳に達している。
例えば飛虎将軍が台湾人に神格化されたのは、彼が単に文化的で台湾の或る村のくらしを守ろうとしていただけでなく、自己犠牲を省みなかったからだろう(参考資料1、2、3)。
アベガミ様のお告げ
民衆よ聞きなさい
私は安倍神です
絶対無謬にして唯一不変
天皇陛下の生まれ変わり
中国と朝鮮から移民してきた皇室の親族
長州閥侵略を信じなさい
私は景気をよくしました(改竄で)
私はお国をよくしました(嘘で)
外交のアベ(コロナとホワイト国除外コンボ)
ましなアベ(自民無能党)
邪神万歳
私は安倍神です
絶対無謬にして唯一不変
天皇陛下の生まれ変わり
中国と朝鮮から移民してきた皇室の親族
長州閥侵略を信じなさい
私は景気をよくしました(改竄で)
私はお国をよくしました(嘘で)
外交のアベ(コロナとホワイト国除外コンボ)
ましなアベ(自民無能党)
邪神万歳
自称神の国
いいですか?
私たち匿名衆愚は神なんですよ
多数決で悪事しまくれば
赤信号をみんなで渡れば
どんな大悪業も全部正当化できる
それが衆愚政治じゃないですか?
民主主義の堕落した姿
全員悪意で利己的に動き
他人を害する為に個性を潰していく
出た杭を打ちまくり
発展阻害し保守という
天皇陛下万歳
私たち匿名衆愚は神なんですよ
多数決で悪事しまくれば
赤信号をみんなで渡れば
どんな大悪業も全部正当化できる
それが衆愚政治じゃないですか?
民主主義の堕落した姿
全員悪意で利己的に動き
他人を害する為に個性を潰していく
出た杭を打ちまくり
発展阻害し保守という
天皇陛下万歳
宇宙の素描
誰もいない宇宙に産み落とされ
われらは無限に漂う
果てなく終わりなき虚無
しかし命はくり返され
あらゆる感情を呑み込み
やがて無に還る
地上の有様など動植物の体内で
再現される電気信号でしかない
意識を超え世界は続き
全ての情報は意図を持たず
次々現象を造り替える
生も死も超え
星が明滅する
われらは無限に漂う
果てなく終わりなき虚無
しかし命はくり返され
あらゆる感情を呑み込み
やがて無に還る
地上の有様など動植物の体内で
再現される電気信号でしかない
意識を超え世界は続き
全ての情報は意図を持たず
次々現象を造り替える
生も死も超え
星が明滅する
善の度合い
我々は他人の為に生きる事はできない。利他行動の究極の目的も、他人を幸を与える事による自分の良心の満足だからだ。それが偽善な時、我々の良心に曇りができるのが心苦しいからこそ、より利他的な道徳性について考究しようとする。善の度合いとはこの意味で、他者理解の質によっている。
常態
我々は普段のあり方のみに注意していればいい。急場で現れるのは普段の習性が強調されたものだからだ。
普段から賢い、或いは徳高い人に親しむべきで、逆をすべきではない。衆愚と慣れ親しんでいる人達は結局その一部であり、いざとなり違う集団と主張しても誰も信じないだけでなく同じ末路である。
普段から賢い、或いは徳高い人に親しむべきで、逆をすべきではない。衆愚と慣れ親しんでいる人達は結局その一部であり、いざとなり違う集団と主張しても誰も信じないだけでなく同じ末路である。
俗界のあり方
芸術家の世界は、メディアや美術館と組んで自己の喧伝をし、批評家や美術史家を味方につけ、作品や活動に箔をつけ世間を騙す人達が主流派ぶっている。そしてどの時代でもその種のサロン作家がいたし今後も恐らくいるだろう。
ソクラテスやイエスが偶像崇拝を批判したとして、当時の民衆は多神教を続けたかったかもしれない。それは私が天皇の広めた神道の邪教加減についていかに批判しても、現代日本の衆愚にとって、その邪教の中で生きていくのが自然で、彼ら自身の暗愚さに調度よいと考えている以上、今なお同じである。
今も思い出せるが、今から1年ほど前、愛知トリエンナーレ2019で或る芸術監督がスキャンダリズムを狙い明らかに不公平な男女比で展覧会を企図し、ツイッター上で芸術関係者らが非難していた時。当時の私はまだツイッターに参加し始めで色々な使い方の実験をしていたので、積極的に話題に加わってみた。
その際、ある匿名の雑魚が私を侮辱した。曰く「お前は誰だよw」、つまり某芸術監督になっていた自由記者が有名人なので、名前の売れていない人間は黙れというわけだ。
その後、私は呆れて場を離れ、議論の渦中に関わらないことにしたが、やはりというべきか某監督は唱道者ともども大炎上していた。
ここから私が学んだのは、世人一般は意見の正否など少しも関心がないのである。彼らに認知できるのは有名無名とか、世俗的肩書きの立派さ程度で、孔子の「人を見て言を廃せず」など遥か天上界の徳目なので、学閥とか地位とかで180度態度を変える。
福沢諭吉が嘆いた卑屈な愚民の態度と同じだ。
俗界で人気を博しているいかなる作家についても全く同じ現象があてはまる。重要なのは聖性の次元だけだ。
尤もその種の純粋に学術的な物の認知ができる人など、人類の中でも数えるほどしかいないので、優れた聖性の持ち主であればあるほど同時代でも後世でも孤高でいるしかない。
ソクラテスやイエスが偶像崇拝を批判したとして、当時の民衆は多神教を続けたかったかもしれない。それは私が天皇の広めた神道の邪教加減についていかに批判しても、現代日本の衆愚にとって、その邪教の中で生きていくのが自然で、彼ら自身の暗愚さに調度よいと考えている以上、今なお同じである。
今も思い出せるが、今から1年ほど前、愛知トリエンナーレ2019で或る芸術監督がスキャンダリズムを狙い明らかに不公平な男女比で展覧会を企図し、ツイッター上で芸術関係者らが非難していた時。当時の私はまだツイッターに参加し始めで色々な使い方の実験をしていたので、積極的に話題に加わってみた。
その際、ある匿名の雑魚が私を侮辱した。曰く「お前は誰だよw」、つまり某芸術監督になっていた自由記者が有名人なので、名前の売れていない人間は黙れというわけだ。
その後、私は呆れて場を離れ、議論の渦中に関わらないことにしたが、やはりというべきか某監督は唱道者ともども大炎上していた。
ここから私が学んだのは、世人一般は意見の正否など少しも関心がないのである。彼らに認知できるのは有名無名とか、世俗的肩書きの立派さ程度で、孔子の「人を見て言を廃せず」など遥か天上界の徳目なので、学閥とか地位とかで180度態度を変える。
福沢諭吉が嘆いた卑屈な愚民の態度と同じだ。
俗界で人気を博しているいかなる作家についても全く同じ現象があてはまる。重要なのは聖性の次元だけだ。
尤もその種の純粋に学術的な物の認知ができる人など、人類の中でも数えるほどしかいないので、優れた聖性の持ち主であればあるほど同時代でも後世でも孤高でいるしかない。
科学と道徳の本質的違い
科学は道具的知性、道徳は目的の知性。これゆえ科学を悪用する人は、合目的な結果を得ない。また特定科学の知能だけで全能と思い上がる人は、どこまでも愚者たらざるをえない。
科学に劣っていても目的の知能が高ければ、人生では正しい結果を得る。目的を穿っている方が大いに外すよりよいからだ。
科学に劣っていても目的の知能が高ければ、人生では正しい結果を得る。目的を穿っている方が大いに外すよりよいからだ。
海の物と山の物
この世で最も期待を持てないのは、愚か者に賢さを期待すること、また道徳について卑しい人に尊さを期待すること。
普段から暗愚だったり、卑賎だったりする言動をとっている人に知性や徳性を望むのは、海に入って山の物を求める様なもの。
普段から暗愚だったり、卑賎だったりする言動をとっている人に知性や徳性を望むのは、海に入って山の物を求める様なもの。
馬鹿向けの短文
お前みたいな馬鹿に
文章読んで欲しいわけないだろ?
だからわざと長文書いてるんだろ?
なんでお前みたいな
性格も悪ければ頭も悪く
何もいいところがない愚図が
わざわざ赤の他人様の文章読んで
文句つけてきてるの?
馬鹿の愚かさなんて分からない
短文読みたければ自分で書いてろよ
馬鹿向けの文を
文章読んで欲しいわけないだろ?
だからわざと長文書いてるんだろ?
なんでお前みたいな
性格も悪ければ頭も悪く
何もいいところがない愚図が
わざわざ赤の他人様の文章読んで
文句つけてきてるの?
馬鹿の愚かさなんて分からない
短文読みたければ自分で書いてろよ
馬鹿向けの文を
人間社会
僕が人間を嫌いで何が悪いの?
お前ら人間が立派だった試しがあるか
お前らの中に希にいる善人が
お前ら邪悪な人間にどう扱われてきたか
自称天皇や西日本から出てきたヤクザが
東京で馬鹿やってるだけの国で
お前ら自称人間に善のかけらも見当たらない
絶滅相当なのに繁殖している
下らない人間の社会
お前ら人間が立派だった試しがあるか
お前らの中に希にいる善人が
お前ら邪悪な人間にどう扱われてきたか
自称天皇や西日本から出てきたヤクザが
東京で馬鹿やってるだけの国で
お前ら自称人間に善のかけらも見当たらない
絶滅相当なのに繁殖している
下らない人間の社会
命の価値
あなたに価値なんてありません
あなたは無能で無力
無学で無知
無我で無駄
あるものなんてあるんですか?
あなたの存在そのものが虚構
虚勢
虚実皮膜で五里霧中
無限に続く宇宙の流れの中
たまたま生まれてきたごみ程度の命
うがいするだけで流れていく
そんなあなたがなにをわめいても
世界は冷たい
あなたは無能で無力
無学で無知
無我で無駄
あるものなんてあるんですか?
あなたの存在そのものが虚構
虚勢
虚実皮膜で五里霧中
無限に続く宇宙の流れの中
たまたま生まれてきたごみ程度の命
うがいするだけで流れていく
そんなあなたがなにをわめいても
世界は冷たい
2020年2月16日
武士の国柄
日本は武士の国で
商人の国ではない
この国の貴族は長らく武士だった
制度としての侍は消えたが
魂は残っている
だから我々は成金を軽蔑し
金儲けばかりの拝金主義者を賤しむ
商人が幾ら金を儲けても
儲ければ儲けるほど汚い
武士道に反するからだ
青汁王子はアメリカに亡命すべきだった
国柄は不動だ
商人の国ではない
この国の貴族は長らく武士だった
制度としての侍は消えたが
魂は残っている
だから我々は成金を軽蔑し
金儲けばかりの拝金主義者を賤しむ
商人が幾ら金を儲けても
儲ければ儲けるほど汚い
武士道に反するからだ
青汁王子はアメリカに亡命すべきだった
国柄は不動だ
唯一人
あなたは唯一のひと
揺るぎなく
うそいつわりなく
まことのいつくしさ
畏 れ多く
夢とも思われず
あらゆる悲しみと喜びを超え
大宇宙のどこにも存在しえなかった
無限の大海原にして理想
あなた以外のひとといえば
卑小な素粒子未満
組み合わせの妙味さえ
神のたなごころの上
至高至美の輝く炎
揺るぎなく
うそいつわりなく
まことのいつくしさ
畏 れ多く
夢とも思われず
あらゆる悲しみと喜びを超え
大宇宙のどこにも存在しえなかった
無限の大海原にして理想
あなた以外のひとといえば
卑小な素粒子未満
組み合わせの妙味さえ
神のたなごころの上
至高至美の輝く炎
なぜ悪人や卑しい人達が都会に多いのか
卑しい人達と同等の行状で尊い人は幸を得られない。この意味で、下賤の徒は幸そのものの質が異なっている。俗悪なくらしをしながら、それが幸福だと感じられる人達は、単に心象が俗悪なのだ。
ミルが満足した豚より不満なソクラテスがよいとしたわけは、そこでいう幸が利他的なものかによっている。ソクラテスは尊者で、当時の衆愚のかたきだったが、今日の目からみて彼の方が正しく、ソフィストらがただの詭弁屋だった。幸としての利他性が、そのまま人の尊さである。ソフィストらは孔子のいう郷原で徳賊だった。
では利己的な人々はなぜ生きているのか?
彼らは無論、ただの反面教師に違いない。サイコパスの存在意義も元来そこにある。文明では利己主義者ほど、ますます存在が卑しくなる。
我々が利己主義者に直面しうんざりするのは、かれらが自己中心的に他人を陥れおしのけ生きているからだけではなく、根本的にかれらのありかたが公害だからだ。そういう性悪らが繁殖している都市部の犯罪率が高く絶対数も多いのは、都会人らが相対的に悪徳まみれだからだ。
ミルが満足した豚より不満なソクラテスがよいとしたわけは、そこでいう幸が利他的なものかによっている。ソクラテスは尊者で、当時の衆愚のかたきだったが、今日の目からみて彼の方が正しく、ソフィストらがただの詭弁屋だった。幸としての利他性が、そのまま人の尊さである。ソフィストらは孔子のいう郷原で徳賊だった。
では利己的な人々はなぜ生きているのか?
彼らは無論、ただの反面教師に違いない。サイコパスの存在意義も元来そこにある。文明では利己主義者ほど、ますます存在が卑しくなる。
我々が利己主義者に直面しうんざりするのは、かれらが自己中心的に他人を陥れおしのけ生きているからだけではなく、根本的にかれらのありかたが公害だからだ。そういう性悪らが繁殖している都市部の犯罪率が高く絶対数も多いのは、都会人らが相対的に悪徳まみれだからだ。
俗衆
僕はね
きのうツイッターでウォッチしてた
リストをほぼ消した
なぜなら1年みてみた結果
俗界が下らないと悟ったから
漫画家に娼婦に俗人
僕が理解できなかった人達の観察結果
俗衆は単に愚かしいのだった
愚かさは理解できない
単に愚かだと分かる
満足した豚は下品さに満足している
ミルの言う通り
きのうツイッターでウォッチしてた
リストをほぼ消した
なぜなら1年みてみた結果
俗界が下らないと悟ったから
漫画家に娼婦に俗人
僕が理解できなかった人達の観察結果
俗衆は単に愚かしいのだった
愚かさは理解できない
単に愚かだと分かる
満足した豚は下品さに満足している
ミルの言う通り
匿名の極悪国民とその象徴
しらなかったんですか?
日本国民は名前がばれなければ
悪事するものなんですよ
京都のいけずみたく本性は邪悪で
周りから攻撃されない匿名なら
本性現し
誰でもいいから嫌がらせし
陰湿に集団虐殺しまくるものなんです
天皇こそが極悪ですって?
勘違いでしょう
民衆すらも極悪
聖人から抹消されます
日本国民は名前がばれなければ
悪事するものなんですよ
京都のいけずみたく本性は邪悪で
周りから攻撃されない匿名なら
本性現し
誰でもいいから嫌がらせし
陰湿に集団虐殺しまくるものなんです
天皇こそが極悪ですって?
勘違いでしょう
民衆すらも極悪
聖人から抹消されます
不自由地獄
日本国に言論の自由はありません
周りに溢れる自称普通の極悪衆愚が
全力で誹謗しまくり足を引っ張り
悪意ある官吏が撲殺にくるからです
匿名で嫌がらせをくり返す愛国者
悪意しか脳内にはない
他人を貶める為にはなんでもやる
狭い列島にたかって隣人を辱め
大都会で差別と公害をばらまく
不自由地獄
周りに溢れる自称普通の極悪衆愚が
全力で誹謗しまくり足を引っ張り
悪意ある官吏が撲殺にくるからです
匿名で嫌がらせをくり返す愛国者
悪意しか脳内にはない
他人を貶める為にはなんでもやる
狭い列島にたかって隣人を辱め
大都会で差別と公害をばらまく
不自由地獄
馬鹿は反省などせず天皇と名乗る
邪悪な人達と同居しなければいけない
それが人間界だという
なるほどそれが地獄でなければなんだ
文明人と称し偉がる都会の悪魔たちが
今日もお前を差別し罵りカネを貪り
税をよこせと忍び寄ってくる
なるほど極悪人どもが溢れているから
斯くもこの国は醜悪なのだ
馬鹿は反省などせず天皇と名乗るだけ
それが人間界だという
なるほどそれが地獄でなければなんだ
文明人と称し偉がる都会の悪魔たちが
今日もお前を差別し罵りカネを貪り
税をよこせと忍び寄ってくる
なるほど極悪人どもが溢れているから
斯くもこの国は醜悪なのだ
馬鹿は反省などせず天皇と名乗るだけ
永遠の孤独
あなたの仕事は永遠の孤独
この星に同類などいないから
無限の孤独に耐えろ
周りにいるのは馬鹿ばかり
昔からそうなんだこの星は
大学でやってるのは馬鹿教授へお世辞
出世ゲーム
だからお前に居場所などない
宗教も政治も商売も全部同じ
永遠の孤独の底でうごめいていろ
この星はサルの星なのだ
この星に同類などいないから
無限の孤独に耐えろ
周りにいるのは馬鹿ばかり
昔からそうなんだこの星は
大学でやってるのは馬鹿教授へお世辞
出世ゲーム
だからお前に居場所などない
宗教も政治も商売も全部同じ
永遠の孤独の底でうごめいていろ
この星はサルの星なのだ
南関東の野蛮な都会化
無神経なほど他人を平気で傷つけ
サイコパスと性悪ほど利己的に行動
そしてそういう邪悪な人達が
都会にたかってカネを貪りあうのが自称近代
一体なにが偉いのか全然分からない
前より遥かに悪くなっている人間性
正義などなにもなく
頭にあるのはカネと性の大都会
横須賀で議員になり自由に民主的売国
サイコパスと性悪ほど利己的に行動
そしてそういう邪悪な人達が
都会にたかってカネを貪りあうのが自称近代
一体なにが偉いのか全然分からない
前より遥かに悪くなっている人間性
正義などなにもなく
頭にあるのはカネと性の大都会
横須賀で議員になり自由に民主的売国
汚名着せ
都会人A「田舎に汚名着せろ
田舎はダサい
俺たち都会人が上位者で
なにもかも優れていると洗脳しろ」
都会人B「ハイさっさー!」
都会人A「納税させたか?
偏差値40以下の馬鹿を搾取しろ!」
都会人B「ヨイさっさー!」
都会人A「東京駅を背に
生産地をランキング最下位にしろ!
強欲と傲慢最高」
田舎はダサい
俺たち都会人が上位者で
なにもかも優れていると洗脳しろ」
都会人B「ハイさっさー!」
都会人A「納税させたか?
偏差値40以下の馬鹿を搾取しろ!」
都会人B「ヨイさっさー!」
都会人A「東京駅を背に
生産地をランキング最下位にしろ!
強欲と傲慢最高」
日本の象徴
私たち天皇は
中国からきました
先に住んでた人達を殺戮し
奴隷化し納税させ
差別し
すみかを奪い
ひたすら誇りを傷つけ
原発をおしつけ公害を起こし
1375年間もとにかく虐げてきました
私たちこそ日本の象徴ですよね?
人でなしで邪悪で性悪
朝鮮人と混血し
関西から東京に出てきた
悪意の都会人こそ
中国からきました
先に住んでた人達を殺戮し
奴隷化し納税させ
差別し
すみかを奪い
ひたすら誇りを傷つけ
原発をおしつけ公害を起こし
1375年間もとにかく虐げてきました
私たちこそ日本の象徴ですよね?
人でなしで邪悪で性悪
朝鮮人と混血し
関西から東京に出てきた
悪意の都会人こそ
都心に群れる馬鹿の立派な命令
我々馬鹿が上位者で
お前ら知識人は下等な存在
群れればどんな悪事もできる
暗愚なら怖いものはない
一億総火の玉で人間魚雷
長州閥様と天皇様がおカミ様
東京政府の東大閥官僚様がおカミ様
京都市長を崇め奉り
日共と日教組を差別し給う
原発公害もろとも納税せよ
我ら馬鹿が世界の中心東京都から命ず
お前ら知識人は下等な存在
群れればどんな悪事もできる
暗愚なら怖いものはない
一億総火の玉で人間魚雷
長州閥様と天皇様がおカミ様
東京政府の東大閥官僚様がおカミ様
京都市長を崇め奉り
日共と日教組を差別し給う
原発公害もろとも納税せよ
我ら馬鹿が世界の中心東京都から命ず
偉そうな匿名の悪意ある馬鹿たち
馬鹿は偉い
なぜなら東京や京都のあきんどが
なんでも馬鹿向けに商品つくり
馬鹿から搾取し
中央政府が馬鹿向けに生活保護を与え
馬鹿向けに非正規雇用法を作り
なんでも馬鹿の為のトカイのサブカルが
子供からカネを貪るから
すばらしいですね愚民国家
今日も140文字を大口あけて待つ
釣り堀の雑魚様
なぜなら東京や京都のあきんどが
なんでも馬鹿向けに商品つくり
馬鹿から搾取し
中央政府が馬鹿向けに生活保護を与え
馬鹿向けに非正規雇用法を作り
なんでも馬鹿の為のトカイのサブカルが
子供からカネを貪るから
すばらしいですね愚民国家
今日も140文字を大口あけて待つ
釣り堀の雑魚様
馬鹿中心主義
「私たちは馬鹿なので
短い文章140文字以内にしてくれます?
いやそれすら理解できないんで
上から目線で罵倒してやるから
ユーチューブの動画で字幕つきにすれば?
私たちにっぽん衆愚はなんでも偉そうに
馬耳東風ですので
なにきいてもどんな悪政でも天皇万歳
マスコミネットに洗脳されウソ信じる」
短い文章140文字以内にしてくれます?
いやそれすら理解できないんで
上から目線で罵倒してやるから
ユーチューブの動画で字幕つきにすれば?
私たちにっぽん衆愚はなんでも偉そうに
馬耳東風ですので
なにきいてもどんな悪政でも天皇万歳
マスコミネットに洗脳されウソ信じる」
トカい狼少年達
うそつきばかりのこの国
もうテレビなんてとっくにみてない
東京のは酷すぎる
大阪の見れたらもっと酷いんだろうか
自称偉い自称クール自称最先端
全部下品の極みなだけ卑俗の極み
なにが天皇だよ中国から来て
関西で殺人して回ってた邪教祖じゃん
自称偉いヤクザさん
山口から出てきて殺人自慢どすえ
もうテレビなんてとっくにみてない
東京のは酷すぎる
大阪の見れたらもっと酷いんだろうか
自称偉い自称クール自称最先端
全部下品の極みなだけ卑俗の極み
なにが天皇だよ中国から来て
関西で殺人して回ってた邪教祖じゃん
自称偉いヤクザさん
山口から出てきて殺人自慢どすえ
我慢ならない東京京阪商人の卑俗界
私たち東京京阪商人は
人類を不幸にする為に
全力でウソを広めます
皇帝に逆らったバレンタイン聖人の殉教日を
チョコ業界がチャラ男へ貢がせる日にし
イエスの誕生日をゲーム機販売の日にし
無理やり下品な恵方巻きを売りつける日にし
なんでも金儲け
とかく卑しいのが東京京阪商人
我慢して貰える?
人類を不幸にする為に
全力でウソを広めます
皇帝に逆らったバレンタイン聖人の殉教日を
チョコ業界がチャラ男へ貢がせる日にし
イエスの誕生日をゲーム機販売の日にし
無理やり下品な恵方巻きを売りつける日にし
なんでも金儲け
とかく卑しいのが東京京阪商人
我慢して貰える?
○×ゲーム
自分で考えたのこれ?
んじゃバッテーン0点です
これは? 教科書通り?
はい100点です
いいですかあ
日本では正解を先生が決めます
東大法学部卒の中央官僚が神様です
天皇陛下が神様です
はいあなたら愚民は命令従って
○×ゲームでランクづけ
一列に並んで!
順番にお金渡します
お上に逆らうな
んじゃバッテーン0点です
これは? 教科書通り?
はい100点です
いいですかあ
日本では正解を先生が決めます
東大法学部卒の中央官僚が神様です
天皇陛下が神様です
はいあなたら愚民は命令従って
○×ゲームでランクづけ
一列に並んで!
順番にお金渡します
お上に逆らうな
命令
A「愚民どもは朕の命令に従ったか?」
B「ははあ~陛下」
A「んで、特攻隊も?」
B「仰せの通りに」
A「ようやるのお。感謝、感謝じゃ」
C「陛下! 戦況が悪化しております」
A「そうか、朕の神器はどうじゃ?」
B「ご安心を陛下。しまってあります」
A「オッホッホ。これで朕は安泰安泰」
B「ははあ~陛下」
A「んで、特攻隊も?」
B「仰せの通りに」
A「ようやるのお。感謝、感謝じゃ」
C「陛下! 戦況が悪化しております」
A「そうか、朕の神器はどうじゃ?」
B「ご安心を陛下。しまってあります」
A「オッホッホ。これで朕は安泰安泰」
東大学閥官僚支配
我々東大法学部卒の官僚は
全ての知能が高く何もまちがえない
神に等しい
それに比べ紙の試験すらしなかった
なんの賢さの証拠もない愚民どもは
ひたすら我々学閥官僚に唯々諾々従う
奴隷に等しい卑屈なる存在である
さあ操られ働け
死ぬまで納税して命令通りに生きよ
自力で考える能力がない愚民ども
全ての知能が高く何もまちがえない
神に等しい
それに比べ紙の試験すらしなかった
なんの賢さの証拠もない愚民どもは
ひたすら我々学閥官僚に唯々諾々従う
奴隷に等しい卑屈なる存在である
さあ操られ働け
死ぬまで納税して命令通りに生きよ
自力で考える能力がない愚民ども
義務奴隷教育
「私たち日本人は
匿名で悪事する為
集団で弱い者虐めする為
義務教育で陰険にしつけられ
天皇と称する殺人教祖を崇め
死ぬまで働くのが仕事です」
「私たちに逆らう者は
誰であれ差別する」
「私たちは神の国だ」
「なんで群れないの?」
「なぜ自分の頭で考えるの?」
「奴隷が一番じゃないか!」
匿名で悪事する為
集団で弱い者虐めする為
義務教育で陰険にしつけられ
天皇と称する殺人教祖を崇め
死ぬまで働くのが仕事です」
「私たちに逆らう者は
誰であれ差別する」
「私たちは神の国だ」
「なんで群れないの?」
「なぜ自分の頭で考えるの?」
「奴隷が一番じゃないか!」
奴隷国家
「我々と同類になれ」
「我々は名前がない」
「我々は個性がない」
「我々は機械だ」
「我々は奴隷だ」
「お前は我々と違う」
「お前は排除されるべきだ!」
「我々は天皇陛下に納税する」
「我々は自由を憎む」
「我々は偉い労働者だ!」
「我々は働く為にいる」
「お前は集団虐待されるべきだ!」
「我々は名前がない」
「我々は個性がない」
「我々は機械だ」
「我々は奴隷だ」
「お前は我々と違う」
「お前は排除されるべきだ!」
「我々は天皇陛下に納税する」
「我々は自由を憎む」
「我々は偉い労働者だ!」
「我々は働く為にいる」
「お前は集団虐待されるべきだ!」
虚無文明
なにを作っても
誰かを幸に満たしても
この世は虚空なのだ
暗愚な人々が群れ
サルの様に繁殖している
彼らになにも期待できない
彼らの中身は空っぽなので
善意の人が何人いるか
聖者ほど迫害される人類界
死のみが救いと悟った人が言い
ほかになんの救済措置もない
自称文明の虚栄
虚無の馬乗りごっこ
誰かを幸に満たしても
この世は虚空なのだ
暗愚な人々が群れ
サルの様に繁殖している
彼らになにも期待できない
彼らの中身は空っぽなので
善意の人が何人いるか
聖者ほど迫害される人類界
死のみが救いと悟った人が言い
ほかになんの救済措置もない
自称文明の虚栄
虚無の馬乗りごっこ
虚ろな俗物都市
歌をうたいましょう
この世がなにもなくなるまで
宇宙が消えるまで
人という人が死滅し
この見苦しい日本国が亡び去り
元通り平和な自然がもどってきて
月がこの星と対話をやり直すまで
僕の目に天皇も東京も関西も
馬鹿者どもの戯れだった
都会の俗物どもが滅亡してはじめて
本当のこの国の姿になる
この世がなにもなくなるまで
宇宙が消えるまで
人という人が死滅し
この見苦しい日本国が亡び去り
元通り平和な自然がもどってきて
月がこの星と対話をやり直すまで
僕の目に天皇も東京も関西も
馬鹿者どもの戯れだった
都会の俗物どもが滅亡してはじめて
本当のこの国の姿になる
生きるに値しない島国
この島国が今まで
一度でも生きるに値した事があるのか
天皇と名乗る極悪殺人教祖が中国から来て
関西地方で我々を差別しだしてから
我々は少しも幸福になれなくなった
差別をまきちらす都会人達の群れの中で
ますます卑しい人達が移民してきた
平和だった島がどんどん悪くなり
俗物達が京都にたかった
一度でも生きるに値した事があるのか
天皇と名乗る極悪殺人教祖が中国から来て
関西地方で我々を差別しだしてから
我々は少しも幸福になれなくなった
差別をまきちらす都会人達の群れの中で
ますます卑しい人達が移民してきた
平和だった島がどんどん悪くなり
俗物達が京都にたかった
サイコパスの弱肉強食ごっこ
文字やことばが読めない
意味が受け取れない
長文どころか本すら読んだ試しがない
それだけならまだ分かる
匿名衆愚は悪意を持ち
正義面で悪業三昧している
サイコパスにネットを与えれば
テレビで社会学者ぶりはじめるだろう
万能面で人でなし発言をくり返し
カネを名誉を独占し
天皇や首相といいだす
意味が受け取れない
長文どころか本すら読んだ試しがない
それだけならまだ分かる
匿名衆愚は悪意を持ち
正義面で悪業三昧している
サイコパスにネットを与えれば
テレビで社会学者ぶりはじめるだろう
万能面で人でなし発言をくり返し
カネを名誉を独占し
天皇や首相といいだす
自称普通の極悪匿名日本人達
匿名で犯罪しまくる極悪衆愚
見つからなければ何でもやる犯罪集団
悪意で名と身元を隠しネット上で
ありとあらゆる悪業を集団で重ね続ける
それが自称普通の日本人
他人を不幸にする事しか楽しみがない
共に生きるに値しない極悪人達
見つからなければ何でもやる犯罪集団
悪意で名と身元を隠しネット上で
ありとあらゆる悪業を集団で重ね続ける
それが自称普通の日本人
他人を不幸にする事しか楽しみがない
共に生きるに値しない極悪人達
アベノミクス症候群の分析による財政健全化論
財政赤字を拡大すると、収益性の低い分野に或る国の資本を投下する結果として、国単位の経済成長率を引き下げる効果がある。
財政収支の均衡を、貨幣錯覚の解消説(フィリップス曲線が成立しない、即ち物価上昇に必ずしも実質賃金がついてこない場合はないと考える立場)によるインフレターゲットの立場から半ば後回しにする近代貨幣理論(MMT)の本質的欠陥は、因果関係を取り違えている点にある。
経済成長を伴う物価上昇(通貨膨張・貨幣インフレ)がみられるのは実質賃金が上がったことによるのだが、現代日本のよう、物価上昇にもかかわらず決して実質賃金が上がらない場合がある。これをここでは「アベノミクス症候群」という。
フィリップス曲線(物価上昇率と失業率の負相関)が成立する必要条件の一つは実質賃金の上昇にあるが、現代日本のよう非正規雇用への置き換え、設備機械の導入による業務自動化、経団連と癒着した自民寡頭政治による労組の弱体化などで、実質賃金が上がらない場合をMMTでは前提に置いていない。
アベノミクス症候群とは、「大規模な金融緩和の影響で円の貨幣価値が下がり、原材料の輸入費が相対的に増すため、国内の物価が上がるのにもかかわらず、労組を抑圧している政経体制下では、経営者による労働者の賃金抑制の鼓舞が働く」ことを意味している。物価上昇と実質賃金低下が同時に来る状態だ。
即ち、MMTでは
物価上昇→景気拡大
を主張しているが、真の因果関係は逆である。
(実質賃金上昇)→景気拡大→物価上昇
しかも、アベノミクス症候群を伴うとフィリップス曲線が表面上成立していても景気停滞に留まる。なぜなら低賃金労働者がふえていれば
(実質賃金抑制)→景気停滞→物価上昇
MMT論者は、因果関係と相関関係と取り違える、という統計分析の初歩的な誤りを犯している。
より詳しく場合分けすれば、相関ではなく因果によるフィリップス曲線を巡っては次の4つの場合がありうる。
1.フィリップス曲線(物価上昇率と失業率が負相関)
2.アベノミクス症候群(1.通常の負相関の裏で、実質賃金低下と物価上昇が正相関)
3.負のフィリップス曲線(物価上昇率と失業率が正相関)
4.負のアベノミクス症候群(3.負のフィリップス曲線の裏で、実質賃金低下と物価上昇が負相関)
現代日本が置かれているのは2.アベノミクス症候群であり、上述のよう真の因果関係は実質賃金の抑制が結果として景気停滞と物価上昇を同時に持ってくる状況なので、MMT論者の主張する「標的物価上昇(インフレターゲット)」の金融政策を行っても景気拡大は伴わず、寧ろ更に経済成長率が下がる。
冒頭に挙げたよう、財政赤字の拡大は非収益分野への資本投下にほかならず、国単位の経済効率を悪化させる。アベノミクス症候群下で財政赤字を拡大すると、国内に景気停滞と同時に低成長が襲ってくる為、開放貿易下では外資に有利になる。
よってなぜアベノミクスが全体で失敗したかは説明された。
では今後の財政方途がどうあるべきかだが、第一に計画経済から撤退し、民間委託を前提に、非収益性の高い農業や福祉、並びに僻地の交通や建設基盤の保全など公益事業を除いて、労働市場に干渉する国社的自民政策の轍を完全に出ることである。政経分離を貫き労組と経団連の賃金闘争を再開させるべきだ。
なぜなら、アベノミクス症候群の元凶が、経団連と癒着した自民党派閥が、健全な賃金闘争を抑圧してきたことによる実質賃金の低下なことは、経済停滞の因果関係を根本原因まで辿れば上記で説明済みだからである。
これに伴って、国会で企業献金禁止法を成立させ、政党と企業の癒着を禁じるべきだ。
次に、そもそも財政赤字の拡大こそ、国単位での資本投下収益率の低下による低経済成長率の原因なのだから、できるだけ財政出動の絶対費用を抑制する必要がある。しかしこれは公益事業をきりすてるべきという事を意味しない。非公益性の高い事業を民営化したり、公益分野でも民間委託を駆使すべきだ。
公務員の絶対数が少ない状態は、長い目でみて、国単位の経済力を増す結果になる。パーキンソンの法則を引くまでもなく、収益に関係しない職業だからだ。したがって公務員数を抑制または削減しながら、事務的な業務を機械におきかえたり、民間委託していくのが基本的筋である。
財政収支の均衡を、貨幣錯覚の解消説(フィリップス曲線が成立しない、即ち物価上昇に必ずしも実質賃金がついてこない場合はないと考える立場)によるインフレターゲットの立場から半ば後回しにする近代貨幣理論(MMT)の本質的欠陥は、因果関係を取り違えている点にある。
経済成長を伴う物価上昇(通貨膨張・貨幣インフレ)がみられるのは実質賃金が上がったことによるのだが、現代日本のよう、物価上昇にもかかわらず決して実質賃金が上がらない場合がある。これをここでは「アベノミクス症候群」という。
フィリップス曲線(物価上昇率と失業率の負相関)が成立する必要条件の一つは実質賃金の上昇にあるが、現代日本のよう非正規雇用への置き換え、設備機械の導入による業務自動化、経団連と癒着した自民寡頭政治による労組の弱体化などで、実質賃金が上がらない場合をMMTでは前提に置いていない。
アベノミクス症候群とは、「大規模な金融緩和の影響で円の貨幣価値が下がり、原材料の輸入費が相対的に増すため、国内の物価が上がるのにもかかわらず、労組を抑圧している政経体制下では、経営者による労働者の賃金抑制の鼓舞が働く」ことを意味している。物価上昇と実質賃金低下が同時に来る状態だ。
即ち、MMTでは
物価上昇→景気拡大
を主張しているが、真の因果関係は逆である。
(実質賃金上昇)→景気拡大→物価上昇
しかも、アベノミクス症候群を伴うとフィリップス曲線が表面上成立していても景気停滞に留まる。なぜなら低賃金労働者がふえていれば
(実質賃金抑制)→景気停滞→物価上昇
MMT論者は、因果関係と相関関係と取り違える、という統計分析の初歩的な誤りを犯している。
より詳しく場合分けすれば、相関ではなく因果によるフィリップス曲線を巡っては次の4つの場合がありうる。
1.フィリップス曲線(物価上昇率と失業率が負相関)
2.アベノミクス症候群(1.通常の負相関の裏で、実質賃金低下と物価上昇が正相関)
3.負のフィリップス曲線(物価上昇率と失業率が正相関)
4.負のアベノミクス症候群(3.負のフィリップス曲線の裏で、実質賃金低下と物価上昇が負相関)
現代日本が置かれているのは2.アベノミクス症候群であり、上述のよう真の因果関係は実質賃金の抑制が結果として景気停滞と物価上昇を同時に持ってくる状況なので、MMT論者の主張する「標的物価上昇(インフレターゲット)」の金融政策を行っても景気拡大は伴わず、寧ろ更に経済成長率が下がる。
冒頭に挙げたよう、財政赤字の拡大は非収益分野への資本投下にほかならず、国単位の経済効率を悪化させる。アベノミクス症候群下で財政赤字を拡大すると、国内に景気停滞と同時に低成長が襲ってくる為、開放貿易下では外資に有利になる。
よってなぜアベノミクスが全体で失敗したかは説明された。
では今後の財政方途がどうあるべきかだが、第一に計画経済から撤退し、民間委託を前提に、非収益性の高い農業や福祉、並びに僻地の交通や建設基盤の保全など公益事業を除いて、労働市場に干渉する国社的自民政策の轍を完全に出ることである。政経分離を貫き労組と経団連の賃金闘争を再開させるべきだ。
なぜなら、アベノミクス症候群の元凶が、経団連と癒着した自民党派閥が、健全な賃金闘争を抑圧してきたことによる実質賃金の低下なことは、経済停滞の因果関係を根本原因まで辿れば上記で説明済みだからである。
これに伴って、国会で企業献金禁止法を成立させ、政党と企業の癒着を禁じるべきだ。
次に、そもそも財政赤字の拡大こそ、国単位での資本投下収益率の低下による低経済成長率の原因なのだから、できるだけ財政出動の絶対費用を抑制する必要がある。しかしこれは公益事業をきりすてるべきという事を意味しない。非公益性の高い事業を民営化したり、公益分野でも民間委託を駆使すべきだ。
公務員の絶対数が少ない状態は、長い目でみて、国単位の経済力を増す結果になる。パーキンソンの法則を引くまでもなく、収益に関係しない職業だからだ。したがって公務員数を抑制または削減しながら、事務的な業務を機械におきかえたり、民間委託していくのが基本的筋である。
2020年2月15日
卑しい人々の目的
卑しい人々は、他人を不幸にする為の情報を発信する。それは彼らが悪意に満ち、他人を自分より不幸にする痛快が目的だからだ。
性悪やサイコパスはこの意味で、他人を陥れるべく活動している。それら悪しき人々の情報に触れるな。皇室も差別を種にしたサイコパスの一典型と悟り、縁を遠ざけよ。
性悪やサイコパスはこの意味で、他人を陥れるべく活動している。それら悪しき人々の情報に触れるな。皇室も差別を種にしたサイコパスの一典型と悟り、縁を遠ざけよ。
情報
愚かな人達の情報を見聞きするな
都会の卑しい情報を見聞きするな
卑しい人達の情報を見聞きするな
人は見聞きした物に染まるからだ
都会人達は差別をまきちらし驕りに耽る
それは彼らが悪徳に満ちているからだ
卑しい人々と交わってはいけない
彼らの悪意を見聞きしてはいけない
孤高でいるがいい
都会の卑しい情報を見聞きするな
卑しい人達の情報を見聞きするな
人は見聞きした物に染まるからだ
都会人達は差別をまきちらし驕りに耽る
それは彼らが悪徳に満ちているからだ
卑しい人々と交わってはいけない
彼らの悪意を見聞きしてはいけない
孤高でいるがいい
失笑
資本共産主義の理想を一度も自ら思慮せず米政府の為すがままに洗脳され米兵の傀儡としていきのびた殺人教祖天皇とA級戦犯を逃れたCIAスパイの孫に格差の底で身も心も奴隷化される日本人衆愚に失笑を禁じえない豊かになった中国人たち
全死の必然
僕は全人類が絶滅するとしても特に同情が湧かないだって彼彼女その他らが普段からどんな悪業をし尽くしてきたか現場を生まれて以来あらゆる場所で逐一みてきたのだから
全死ウィルスで全人類がばたばた死んでいくとてそれは彼彼女その他らの普段の業をみていれば必然といわざるをえないのではないか
全死ウィルスで全人類がばたばた死んでいくとてそれは彼彼女その他らの普段の業をみていれば必然といわざるをえないのではないか
馬鹿の国
曲のパプリカに吐き気したこれはひどいこんなの子供にしつけるな
この後に及んで安倍首相はよくやっているとほざく正真正銘の馬鹿の国で望める最善の政治的態度とは衆愚からの公害を避ける為の国外逃亡に過ぎない
この後に及んで安倍首相はよくやっているとほざく正真正銘の馬鹿の国で望める最善の政治的態度とは衆愚からの公害を避ける為の国外逃亡に過ぎない
2020年2月14日
天皇がわが国をけがしている最大の元凶
天皇と称する極悪殺人教祖が暴力を独占してきたのでこの国では善良な人々、うつくしい地域が、中華思想の醜悪な平城京、平安京、東京都心からつねづね貶められてきたのである。
報道や公教育による洗脳は、日本人と呼ばれる衆愚にとって脳をのっとられる第一原因だが、両方とも天皇が独裁している。
報道や公教育による洗脳は、日本人と呼ばれる衆愚にとって脳をのっとられる第一原因だが、両方とも天皇が独裁している。
2020年2月13日
民族史の経過
この世では、最も利他的な人々が最後に最高の地位を占める。つまり民族史とは集団間で最も公徳的な習性をもつ人々を炙り出していく経過である。
もし他害的、もしくは公害でありながら高い地位を占めようとする集団があれば、被害を受けた他集団によって復讐や応報を受け、結局没落する。
もし他害的、もしくは公害でありながら高い地位を占めようとする集団があれば、被害を受けた他集団によって復讐や応報を受け、結局没落する。
都会人の死んだ目
卑しい人は尊い光景の前で「何もない」という。都会人らが地平線まで輝く稲穂をみて「何もない」というのは、彼らが拝金都市の中で生まれ育ち、水田がなんの光景なのか知らないだけではなく、毎日食べている米を作っている人々の労苦と立派な成果と、都民の搾取罪に、想像力と感謝と懺悔がないからだ。
なぜ少子化が望ましいか
過去の人類の中にうまれた全ての賢者、人格者の中で、最も高度な段階に至っていたのは、俗に民族・国名から釈迦(シャカ)とか、サンスクリット語で悟った人という意味の敬称ブッダといわれている、本名ガウタマ・シッダールタという人ではないかと自分のこれまでの勉学の範囲でも思う。
生前著作を残さなかったガウタマだが、死後に弟子がまとめた数ある経典のうち、この人の哲学を最もよく伝えているのは『ダンマパダ』(『ブッダの真理のことば、感興のことば』中村元訳、岩波文庫に所蔵)ではないかと思う。
要するにガウタマ思想は、この世は不快(サンスクリット語だとドゥッカ、dukkha。漢訳で「苦」)に満ちているので、生まれるのは親の暗愚の証と考える。一旦生まれてしまえば自殺するのも不快に過ぎず、寧ろ無欲(nirvana。漢訳で「涅槃」)にとどまり、子を儲けず乞食して自然死していくべしという。
数多いた人類の哲人の中でも、聖者といわれる段階以上に至っていた人達の中には現世を否定するタイプの考え方は色々あった。例えばイエスやムハンムドもその一種だったが、ガウタマのそれは来世を方便としてしか語っていない点が違う。
今日の言い方なら、遺伝子や文化素(模倣子、ミーム)が次世代に受け継がれるのを前提に、生き残りを否定するのがガウタマの考え方だ。イエスもムハンムドも人類には自己犠牲を要求するが、ガウタマは必ずしもそうでない。孔子やアリストテレスでいう中庸と同じ中道概念で快苦の両極を避けよという。
なぜガウタマの方が、上述した聖人級以上の知恵に到達していたといってもいいイエス、ムハンムド、孔子、アリストテレスらよりまとめて賢いと自分が思うかだが、のちの研究者が「解脱」と呼んだ概念、ガウタマ自身の言い方なら「再び母体に宿らない」事、つまり生殖の否定が理想視されている点である。
性本能はドーキンスが指摘したよう元々、利己性に応じて続いている。我々が性嫌悪に陥る第一原因が、その種の野蛮さに飽き飽きするからである。逆に、性依存症になる人々も、自分に性的魅力なり性欲が有り余りすぎていたが故に、その利己性の連鎖にとりこになっている。
親鸞はガウタマ思想を改変し、悪人正機説と呼ばれる独自の考え方を織り込んで、生殖を肯定した。親鸞の影響を受けた日本仏教は解脱を目的から外しはじめた。したがって親鸞以後の日本仏教は、自分の知る限りガウタマの教えを断章取義した派生物に過ぎない。
ガウタマ自身は生殖を否定していたのだ。
生存競争が不快の原因なのだから、その競争を無欲によって極力避けるだけでなく、生まれてくる事そのもの、すなわち生殖を否定すれば再び、不快が生じる事はない。これがガウタマの立場である。
ニーチェはガウタマのこの点を虚無主義と批判し、苦痛を物ともしない絶対強者の超人を目指せと説いた。
で、自分はニーチェのその考え方が正しいか検討したのだが、結局、次の結論を得た。
生まれながら人は違うのでなんらかの点で強いのもそうでないのもいる。しかも強者がどれほど勝ってもライオンのオスのよういずれ別のライオンに負ける。ニーチェはこの点で生存競争を克服できていないのである。
ということは、過去の数多の賢者らの中でも、人生観についてガウタマの洞察の正しさを否定しきれた人はいないことになり、自己犠牲の一つの究極が自己の生殖の否定なのは変わらない。人間界に不快が多いのは利己的な人が他害行動をするからなので、仏教国の一つの理想は自然死志願者らの集まりである。
家出したガウタマが王子だったシャカ(シャーキヤ)国は、コーサラ国にその後滅ぼされるが、第一、当時の彼の目には王国の未来の趨勢は明らかだったのかもしれない。
皇族が虚栄に耽る格差社会の令和日本とほぼ同じと考えれば、少し状況が見通せれば、没落は確定済みとなっていたのかもしれない。
自分は更にガウタマの考えの是非を検討した。特に矛盾しているのが性欲の全否定なわけだが、そもそも生殖器が性ホルモンを出している限り、性欲を否定するのは自然に反する。即ち去勢なしに性欲を否定する事は、大脳新皮質による旧皮質への一種の抑圧の経過であり、それを仏教徒は修行といっていた。
ある秋田の仏教僧にこの部分について尋ねたら、「加齢すれば自然に性欲はなくなる」と答えた。晩年の大江健三郎も同じ事を言っていたが、これらは若いうちの修行を否定できない。孔子の君子三戒でも同じ部分が訓戒されている。
つまり最善の人格性は、若い頃に生殖を否定していた習性の問題なのだ。
性ホルモンの分泌量も若い頃に多い為、この修行経過にできるだけ生殖につながる行動を否定すれば、将来的に上品な人柄ができあがるというわけだ。去勢という身体改造が苦痛や恐怖を伴うなら、単なる意識的な性の否定程度でも十分な出来になりうるというほかない。
こうして、人として望める最善さは、上品さの程度なのである。上品、中品、下品とはもともと仏教語で悟り方の意味であり、最も上品な人は上述した様な洞察を得て、生き残りを否定している。少子化で困るといった考えは、所詮、天皇の強欲に実質的な奴隷階級である国民が洗脳されているからにすぎない。
生前著作を残さなかったガウタマだが、死後に弟子がまとめた数ある経典のうち、この人の哲学を最もよく伝えているのは『ダンマパダ』(『ブッダの真理のことば、感興のことば』中村元訳、岩波文庫に所蔵)ではないかと思う。
要するにガウタマ思想は、この世は不快(サンスクリット語だとドゥッカ、dukkha。漢訳で「苦」)に満ちているので、生まれるのは親の暗愚の証と考える。一旦生まれてしまえば自殺するのも不快に過ぎず、寧ろ無欲(nirvana。漢訳で「涅槃」)にとどまり、子を儲けず乞食して自然死していくべしという。
数多いた人類の哲人の中でも、聖者といわれる段階以上に至っていた人達の中には現世を否定するタイプの考え方は色々あった。例えばイエスやムハンムドもその一種だったが、ガウタマのそれは来世を方便としてしか語っていない点が違う。
今日の言い方なら、遺伝子や文化素(模倣子、ミーム)が次世代に受け継がれるのを前提に、生き残りを否定するのがガウタマの考え方だ。イエスもムハンムドも人類には自己犠牲を要求するが、ガウタマは必ずしもそうでない。孔子やアリストテレスでいう中庸と同じ中道概念で快苦の両極を避けよという。
なぜガウタマの方が、上述した聖人級以上の知恵に到達していたといってもいいイエス、ムハンムド、孔子、アリストテレスらよりまとめて賢いと自分が思うかだが、のちの研究者が「解脱」と呼んだ概念、ガウタマ自身の言い方なら「再び母体に宿らない」事、つまり生殖の否定が理想視されている点である。
性本能はドーキンスが指摘したよう元々、利己性に応じて続いている。我々が性嫌悪に陥る第一原因が、その種の野蛮さに飽き飽きするからである。逆に、性依存症になる人々も、自分に性的魅力なり性欲が有り余りすぎていたが故に、その利己性の連鎖にとりこになっている。
親鸞はガウタマ思想を改変し、悪人正機説と呼ばれる独自の考え方を織り込んで、生殖を肯定した。親鸞の影響を受けた日本仏教は解脱を目的から外しはじめた。したがって親鸞以後の日本仏教は、自分の知る限りガウタマの教えを断章取義した派生物に過ぎない。
ガウタマ自身は生殖を否定していたのだ。
生存競争が不快の原因なのだから、その競争を無欲によって極力避けるだけでなく、生まれてくる事そのもの、すなわち生殖を否定すれば再び、不快が生じる事はない。これがガウタマの立場である。
ニーチェはガウタマのこの点を虚無主義と批判し、苦痛を物ともしない絶対強者の超人を目指せと説いた。
で、自分はニーチェのその考え方が正しいか検討したのだが、結局、次の結論を得た。
生まれながら人は違うのでなんらかの点で強いのもそうでないのもいる。しかも強者がどれほど勝ってもライオンのオスのよういずれ別のライオンに負ける。ニーチェはこの点で生存競争を克服できていないのである。
ということは、過去の数多の賢者らの中でも、人生観についてガウタマの洞察の正しさを否定しきれた人はいないことになり、自己犠牲の一つの究極が自己の生殖の否定なのは変わらない。人間界に不快が多いのは利己的な人が他害行動をするからなので、仏教国の一つの理想は自然死志願者らの集まりである。
家出したガウタマが王子だったシャカ(シャーキヤ)国は、コーサラ国にその後滅ぼされるが、第一、当時の彼の目には王国の未来の趨勢は明らかだったのかもしれない。
皇族が虚栄に耽る格差社会の令和日本とほぼ同じと考えれば、少し状況が見通せれば、没落は確定済みとなっていたのかもしれない。
自分は更にガウタマの考えの是非を検討した。特に矛盾しているのが性欲の全否定なわけだが、そもそも生殖器が性ホルモンを出している限り、性欲を否定するのは自然に反する。即ち去勢なしに性欲を否定する事は、大脳新皮質による旧皮質への一種の抑圧の経過であり、それを仏教徒は修行といっていた。
ある秋田の仏教僧にこの部分について尋ねたら、「加齢すれば自然に性欲はなくなる」と答えた。晩年の大江健三郎も同じ事を言っていたが、これらは若いうちの修行を否定できない。孔子の君子三戒でも同じ部分が訓戒されている。
つまり最善の人格性は、若い頃に生殖を否定していた習性の問題なのだ。
性ホルモンの分泌量も若い頃に多い為、この修行経過にできるだけ生殖につながる行動を否定すれば、将来的に上品な人柄ができあがるというわけだ。去勢という身体改造が苦痛や恐怖を伴うなら、単なる意識的な性の否定程度でも十分な出来になりうるというほかない。
こうして、人として望める最善さは、上品さの程度なのである。上品、中品、下品とはもともと仏教語で悟り方の意味であり、最も上品な人は上述した様な洞察を得て、生き残りを否定している。少子化で困るといった考えは、所詮、天皇の強欲に実質的な奴隷階級である国民が洗脳されているからにすぎない。
2020年2月12日
2020年2月11日
天皇国体の落日
なぜ日本が没落したか。答えは愚民が多すぎるからだ。
理非を分かてず、東京の極悪人達の虚報に簡単に扇動され、最善者に濡れ衣を着せ、極悪人の提灯をもつ。そんな衆愚が、立派な先進国と自称できるはずがない。必然的に亡びたのである。
かれらはまだ驕っているが、落日の瞬間はその様に来た。
世界で最長の王朝。それを国体とした義公は、平成末期から令和の亡国の有様をみてなんというだろう。
水戸学の表層だけなぞり、反政府テロリズムと侵略思想にくみかえた長州閥の末裔が、遂に150年後その本性を露わに卑しさ極まる独裁体制を敷き、ますます衆愚は最悪政治に得意になっている。
悪しき王朝が長ければ長いほど悪い。皇室は国とともに亡ぶだろう。日本の国体は腐敗の極度に達し、既に皇室は法を破って恥じていない。法なき皇は唯の暴力団長である。
しかし日本国が国体ごと滅び去って初めて、わが国に本来の姿であった共和政体がもどってくる。天皇滅亡は衆愚自身の因果応報だ。
理非を分かてず、東京の極悪人達の虚報に簡単に扇動され、最善者に濡れ衣を着せ、極悪人の提灯をもつ。そんな衆愚が、立派な先進国と自称できるはずがない。必然的に亡びたのである。
かれらはまだ驕っているが、落日の瞬間はその様に来た。
世界で最長の王朝。それを国体とした義公は、平成末期から令和の亡国の有様をみてなんというだろう。
水戸学の表層だけなぞり、反政府テロリズムと侵略思想にくみかえた長州閥の末裔が、遂に150年後その本性を露わに卑しさ極まる独裁体制を敷き、ますます衆愚は最悪政治に得意になっている。
悪しき王朝が長ければ長いほど悪い。皇室は国とともに亡ぶだろう。日本の国体は腐敗の極度に達し、既に皇室は法を破って恥じていない。法なき皇は唯の暴力団長である。
しかし日本国が国体ごと滅び去って初めて、わが国に本来の姿であった共和政体がもどってくる。天皇滅亡は衆愚自身の因果応報だ。
要らない物
そうなんですよ
必要ない
中国も台湾も香港も日本も
北朝鮮も韓国もロシアもアメリカも
必要ない
国とかどうでもいい
人間もどうでもいい
宇宙は必要ない
西洋もアフリカも
オセアニアもアメリカ大陸も
ユーラシア大陸も南極北極も中東も
僕には要りません
地球とか世界とか
なにも要らないのです
必要ない
中国も台湾も香港も日本も
北朝鮮も韓国もロシアもアメリカも
必要ない
国とかどうでもいい
人間もどうでもいい
宇宙は必要ない
西洋もアフリカも
オセアニアもアメリカ大陸も
ユーラシア大陸も南極北極も中東も
僕には要りません
地球とか世界とか
なにも要らないのです
南関蛮族成金の象徴
この福岡人は東京で調子のりすぎだろう関東北部をなめてんじゃねえわ下衆町人文化なんて南関蛮族しか好んでねえから
高々金儲けしただけでこの上から目線はなんなんだお前になにがあるというんだよ福岡からでてきてカネ貪ってだけの外道が汚い東京級の性売買罪どこでもやってるみたいな事ほざくんじゃねえよ下衆が
まあいいお前が没落してくのも俺にはどうでもいいことだお前の醜態は逐一みていたがこんな動画二度と世間にばらまくんじゃねえよ九州からでてきて東京で蛮行三昧の野蛮人め
高々金儲けしただけでこの上から目線はなんなんだお前になにがあるというんだよ福岡からでてきてカネ貪ってだけの外道が汚い東京級の性売買罪どこでもやってるみたいな事ほざくんじゃねえよ下衆が
まあいいお前が没落してくのも俺にはどうでもいいことだお前の醜態は逐一みていたがこんな動画二度と世間にばらまくんじゃねえよ九州からでてきて東京で蛮行三昧の野蛮人め
大衆性
なぜこの世に俗人がこれほど多いかなら、彼らは互いに混じりあってより卑俗になる方へ力を尽くしているからだ。都会に近づくべきではないのはこの為で、より俗化圧力が激しい場所ほど人口密度が高い傾向にある。
同じ事は文化全般にもあてはまる。より多くの人達が共通して喜ぶ代物ほど低俗である。
同じ事は文化全般にもあてはまる。より多くの人達が共通して喜ぶ代物ほど低俗である。
類友
人は似た者同士で集まる、類は友を呼ぶ。そうであれば、よりよい人を見つけその集団に入るべきで、もし自分より優れた人がみつからなければ孤高でいた方がよい。是非とも誰かとかかわらねばならないなら、自分より劣った人達の中でも、最もましな人を択ぶしかない。
2020年2月10日
無人の大都会
ここは凍りつき
既に人がいない
魔法の様に宇宙は虚空に
はてなく嘘をばらまく
たっとい人は死に絶え
のこったのは悪魔
文明と称する地獄で
ひとりのこらず互いを裏切る
虚勢を張って互いを傷つける
はてなく愚かな都会の底で
あなたは震えて死んだ
だれもみていない隙間に
葬られていく
無人のビル群
既に人がいない
魔法の様に宇宙は虚空に
はてなく嘘をばらまく
たっとい人は死に絶え
のこったのは悪魔
文明と称する地獄で
ひとりのこらず互いを裏切る
虚勢を張って互いを傷つける
はてなく愚かな都会の底で
あなたは震えて死んだ
だれもみていない隙間に
葬られていく
無人のビル群
2020年2月9日
積悪と積善
方言によって意味や微差が異なる様な場合を除き、進んで汚い言葉を使ったり、人を傷つけ喜んでいたり、日ごろ差別的言動をしている人は、単に心底が卑しいのである。そしてそういう卑しい人が突然、尊い心にいれかわったりはしない。尊さは積善による人徳だからだ。
中国人すべてが感染者ではない
兵庫から出てきて中国人差別とか東京都知事小池は首都圏と関西と全国共通の恥にして極悪人ほんとさっさと公約詐欺の原発再稼働公害の賄賂五輪中止でバンクシーらしきどぶネズミの絵と一緒に下水泳いで政界から消えていただきたい
2020年2月8日
地獄におちる人達
コロナで全人類死滅すれば生物界もっとよくなるかも人類はろくでもない世界史みかえしたらわかるほとんど差別と殺戮の連鎖だしいまだに原発公害に無反省で都会貪りあいやってるからなもっと強烈な生化学兵器ウィルス頒布でいずれどこかのマッド科学者が絶滅めざして地球救おうとするんじゃないだろうか
日本女の一部は気持ち悪いとかキモイとか感情的な言葉で自分の発情相手以外のあらゆる男性を好き勝手にそしりまくってるが女側が叩かれるとフェミニストに防衛させ絶対安全な位置からガールズちゃんねるとかで善人へ陰口三昧してるからいずれ地獄におちるに違いないよ
人の脳でも利他性に関連した部分が発達してる度合いに応じてしか善意って発揮されないから所詮ヒト全体は類人猿もどきで飽くまで自己本位にしか動けないわけでその種の利他性低い種なり生育歴のがいきのこってるほど人類は邪悪たりうる世界は徐々によくなってる説は平均IQ向上フリン効果と関連あるかも
情報機器の発達のせいか負のフリン効果がみられるから世界は徐々によくなってる説も限界があるのかもしれないし一時的反動かもしれないがいずれにしても人類ががん細胞くらいしか天敵いないのをいいことに他生物を家畜化してもてあそんで捨てたり遊びで殺したり都会人の傲慢さは果てしなく生物界の公害
自称文明実質野蛮の近代人は部族社会に比べても維持できない刹那主義の環境破壊をやめられないしもう詰んでるに等しいのではないか特に東京人や京阪人の大部分みたいな自分のカネのことしか頭にない品性下劣な都会衆愚が原発公害まきちらし人類だけでなくほかの生物も汚してるのは致命的落ち度で救えぬ
グレタは科学哲学的に雑魚だしただのアジテーターと思うしさして相手にするかいがあると私は思ってないけども公私ダブスタで原発推進を容認してるのとかも所詮常磐圏だのチェルノブイリ圏のリアルをしらないからそういう舐め腐った事がいえる想像力の欠けたかねもうけ雑魚キャラはおまえもだよグレタ
少女なら少年なら偉いのかおまえも俺も子供だったんだがそしたら偉かったのか子供だからひいきするやつは卑怯だ子供が大人を殴って殺すのはよく大人がそれを注意したらダメとはなにか意味が全く分からない子供だったらどんな悪事してもいいのかどんな嘘ついて扇動してもいいのか宮内記者会かお前は
原発公害ばらまいて福島人だの茨城人だの青森人だの新潟人だのころしてるのは一体どこの誰か自称環境論者のグレタでしょうが少なくとも大量殺人鬼といって何一つ過言ではないそれほどの大悪業を高々温暖化ごときでやってのける温暖化したら豊作で食べ物安くなるじゃねえかよおまえは何を騒いでるんだ
それだけね人類なんて邪悪自分の国は地震がろくにないから余裕ぶって公私のいいわけ作って原発推進ですとお前がやってるのは殺人なの生命財産をおびやかす大蛮行なの気づけサルお前ら自称都会人全国の田舎からあつまってきてる蛮族どもに言ってるんだよ天皇とか称してる中朝渡来系殺人鬼一家お前らもだ
左様なら人類わたしはあなたがたが嫌いなので永遠にわたしにかかわらない様にしてほしいわたしもあなたがたにかかわらないよう最大限努力するので是非とも人類とは違う星に住んで違う国で生きたいわたしに人類は大害でしかなかったし人類の側もわたしを自殺寸前においつめる一方で一円もよこさなかった
わたしにとって人類は天敵だこれまで35年間あらゆる場所で人類はわたしに悪意で害をなそうとしてきたことこそあれ何かわたしのためになる事を善意でしようとしたヒトなどみたことがないそれだけ邪悪な生物がなにが万物の霊長だ自分のカネ儲けで他人を奴隷化するしか頭にない差別で頭が一杯のエイプめ
わたしは人類絶滅後にはじめて息がつけるそして人類絶滅は必然でもう避けようもないだろうし絶滅した方がよいなにしろお前らが福島原発事故のさなか何をしたかそれ以前から何をしていたか私は逐一目撃していたのだからな貴様らは2chで匿名悪業三昧していた他人になりすまし濡れ衣着せカネを貪っていた
あれだけの悪業の限りを尽くしておいていやもっと前から南京でも虐殺するわ弥生時代から村ごと撲殺して回ったりろくなことをしていなかった特に弥生人という連中の邪悪さ愚かしさは凄まじく自ら皇帝となのって殺人ゲームを1375年もくり返してきたなんと浅ましい象徴だ税を収奪し差別で偉ぶる侵略外道
いいかね人類どもおまえらが今日全滅しようがわたしに同情を求めるなよなにしろおまえらはわたしの生前ありとあらゆる悪意で誹謗中傷を匿名でやりまくってきていただけではない私以外のあらゆる人間に対してやっていたではないかそんな極悪人どもが絶滅しなかったら一体どの生き物が絶滅するべきなのか
わたしは邪悪な人類の味方でもなければそういうあしき集団が今日絶滅してもほとんど痛快さしか感じないだろうこれは私がサイコパスだからではないむしろ良心の権化だからこそ悪因悪果を見通しているのだよお前ら匿名で犯罪しまくってる卑怯の極度である極悪人どもつまり自称普通の人に言っているのだよ
家畜にしたヒヨコをオスなら生まれた途端シュレッダーかけてるあるいは自分が都会で安くくいちらかしたいから牛さんもーもーをぶっ殺しまくりのお前ら極悪人がな肉片ごと消えうせたらこの世に悲惨はもっと減るだろうよほかの生物で楽しみのためだのカネで買い散らかして捨てるため生物殺しなんていない
日本女の一部は気持ち悪いとかキモイとか感情的な言葉で自分の発情相手以外のあらゆる男性を好き勝手にそしりまくってるが女側が叩かれるとフェミニストに防衛させ絶対安全な位置からガールズちゃんねるとかで善人へ陰口三昧してるからいずれ地獄におちるに違いないよ
人の脳でも利他性に関連した部分が発達してる度合いに応じてしか善意って発揮されないから所詮ヒト全体は類人猿もどきで飽くまで自己本位にしか動けないわけでその種の利他性低い種なり生育歴のがいきのこってるほど人類は邪悪たりうる世界は徐々によくなってる説は平均IQ向上フリン効果と関連あるかも
情報機器の発達のせいか負のフリン効果がみられるから世界は徐々によくなってる説も限界があるのかもしれないし一時的反動かもしれないがいずれにしても人類ががん細胞くらいしか天敵いないのをいいことに他生物を家畜化してもてあそんで捨てたり遊びで殺したり都会人の傲慢さは果てしなく生物界の公害
自称文明実質野蛮の近代人は部族社会に比べても維持できない刹那主義の環境破壊をやめられないしもう詰んでるに等しいのではないか特に東京人や京阪人の大部分みたいな自分のカネのことしか頭にない品性下劣な都会衆愚が原発公害まきちらし人類だけでなくほかの生物も汚してるのは致命的落ち度で救えぬ
グレタは科学哲学的に雑魚だしただのアジテーターと思うしさして相手にするかいがあると私は思ってないけども公私ダブスタで原発推進を容認してるのとかも所詮常磐圏だのチェルノブイリ圏のリアルをしらないからそういう舐め腐った事がいえる想像力の欠けたかねもうけ雑魚キャラはおまえもだよグレタ
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原発公害ばらまいて福島人だの茨城人だの青森人だの新潟人だのころしてるのは一体どこの誰か自称環境論者のグレタでしょうが少なくとも大量殺人鬼といって何一つ過言ではないそれほどの大悪業を高々温暖化ごときでやってのける温暖化したら豊作で食べ物安くなるじゃねえかよおまえは何を騒いでるんだ
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左様なら人類わたしはあなたがたが嫌いなので永遠にわたしにかかわらない様にしてほしいわたしもあなたがたにかかわらないよう最大限努力するので是非とも人類とは違う星に住んで違う国で生きたいわたしに人類は大害でしかなかったし人類の側もわたしを自殺寸前においつめる一方で一円もよこさなかった
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わたしは人類絶滅後にはじめて息がつけるそして人類絶滅は必然でもう避けようもないだろうし絶滅した方がよいなにしろお前らが福島原発事故のさなか何をしたかそれ以前から何をしていたか私は逐一目撃していたのだからな貴様らは2chで匿名悪業三昧していた他人になりすまし濡れ衣着せカネを貪っていた
あれだけの悪業の限りを尽くしておいていやもっと前から南京でも虐殺するわ弥生時代から村ごと撲殺して回ったりろくなことをしていなかった特に弥生人という連中の邪悪さ愚かしさは凄まじく自ら皇帝となのって殺人ゲームを1375年もくり返してきたなんと浅ましい象徴だ税を収奪し差別で偉ぶる侵略外道
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わたしは邪悪な人類の味方でもなければそういうあしき集団が今日絶滅してもほとんど痛快さしか感じないだろうこれは私がサイコパスだからではないむしろ良心の権化だからこそ悪因悪果を見通しているのだよお前ら匿名で犯罪しまくってる卑怯の極度である極悪人どもつまり自称普通の人に言っているのだよ
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偉い水戸や国内自治体
中国にマスク送りまくって本気で地元になくなり売ってすらないので自分も必要なのに手に入らないガチで偉い水戸が首都の茨城県や誇るべき国内自治体よ
原発公害をばらまく低民度の極み下衆の東京に比べ水戸は自己犠牲払ってまで友好都市にマスクあげるなんて偉さの格が違うとしかいいようがないのが歴史上の事実オタクカルチャーだの性売買罪のあきんど東京はさっさと政治都市やめて中央政府水戸に渡せ本気でその方が全人類の為と断言する
原発公害をばらまく低民度の極み下衆の東京に比べ水戸は自己犠牲払ってまで友好都市にマスクあげるなんて偉さの格が違うとしかいいようがないのが歴史上の事実オタクカルチャーだの性売買罪のあきんど東京はさっさと政治都市やめて中央政府水戸に渡せ本気でその方が全人類の為と断言する
自由至上主義者
他人がどうなろうと
わたしの知った事ではない
必要なのは絶望だけ
金持ちとはそういうもの
世間の人達がどうなろうと
自分の利益の為に動き
原爆を落とし
罪なきひとを殺し
維新は成功だったといい
ふところに金を入れ
悪意を美化し
自己満足のため寄付する
すばらしいではないか
天皇に憧れるか
わたしの知った事ではない
必要なのは絶望だけ
金持ちとはそういうもの
世間の人達がどうなろうと
自分の利益の為に動き
原爆を落とし
罪なきひとを殺し
維新は成功だったといい
ふところに金を入れ
悪意を美化し
自己満足のため寄付する
すばらしいではないか
天皇に憧れるか
世界の意味
もしあなたがいなければ
僕の存在は空っぽ
だがあなたがいることで
この世に縛りつけられ
ただの動物にもどされる
右にも左にもあるのは
尽きせぬ嘘ばかりで
僕は世界を信じられない
だがあなたの声だけは
自分の心を揺さぶり
海の歌のよう
宇宙の色をぬりかえる
さもあなたがいなければ
無意味な世界
僕の存在は空っぽ
だがあなたがいることで
この世に縛りつけられ
ただの動物にもどされる
右にも左にもあるのは
尽きせぬ嘘ばかりで
僕は世界を信じられない
だがあなたの声だけは
自分の心を揺さぶり
海の歌のよう
宇宙の色をぬりかえる
さもあなたがいなければ
無意味な世界
自称付加価値如何様稼業
文字か声を羅列して
誰かに感動させる技
それでうただとか物語といい
誰かを騙して乞食
作家だか学者だか知らないが
やってるのは詐欺行為
ただし商売人はもっとひどく
農民漁民工員の物を
適当に転売しかねを懐に入れる
もっと酷いのが天皇とその手先で
自分はなにもせず暴力でかねを奪う
自分で刷る
誰かに感動させる技
それでうただとか物語といい
誰かを騙して乞食
作家だか学者だか知らないが
やってるのは詐欺行為
ただし商売人はもっとひどく
農民漁民工員の物を
適当に転売しかねを懐に入れる
もっと酷いのが天皇とその手先で
自分はなにもせず暴力でかねを奪う
自分で刷る
自称先進東京サル山
貧乏人は死ぬに値し
金持ちだけが生きるに値する
それが自称先進ニホンコク
北欧は小さい国だとうそぶき
それより税金多いのに自民党の悪さ代
皇族の見栄張るイギリス留学代
浮浪者みくだし月旅行
そんなサルの集まったコンクリ山で
おサルの大将してる
山口や奈良からでてきたおサルたち
今日も裸踊り
金持ちだけが生きるに値する
それが自称先進ニホンコク
北欧は小さい国だとうそぶき
それより税金多いのに自民党の悪さ代
皇族の見栄張るイギリス留学代
浮浪者みくだし月旅行
そんなサルの集まったコンクリ山で
おサルの大将してる
山口や奈良からでてきたおサルたち
今日も裸踊り
異文化盗用のバサラ文脈
ジブリファンの或るフランスの女性とか、日本側の文脈が分からないからフランスだと異文化尊重キャラでかっこよくみえてるんだろうけど、日本からみるとただのアホにみえるんだけども。その辺が、サブカルの持っている本質というか、子供や大衆に分かり易くへつらってて恥ずかしい物という構造がある。
ほぼ似た事は外人が浮世絵をやたらほめてると感じるのであり、あれも江戸の町人芸術だったから出自が卑俗なので、恰も日本代表の絵みたく内外で誇られると地元にあたる東京人除いて基本的には困るわけだ。アメリカ人にノーマンロックウェルを米国代表作家だといったら同じ様な反応返ってくるだろう。
問題なのは、サブカルなり大衆商業芸術のだいぶ卑俗な出自をわかってて扱ってないところで、わかってて扱うならまだ傍ら痛くないのかもしれない。極度乾燥(しなさい)がアンダーカルチャーと「わかってて」ハイファッションの一部にとりいれるみたいな。しかし分かってないと素でアホにしかみえない。
ということは、外国かぶれの一部なり大部分は、似た様な文化盗用的勘違いを多かれ少なかれしている傾向にあって、自集団内ではその傍ら痛さに気づいてる人が少ないので輸入学問的薩長的鹿鳴館的天皇的偽物になりさがって羽振り利かせているわけだ。異文化をまとったバサラな自称先端人間として。
ほぼ似た事は外人が浮世絵をやたらほめてると感じるのであり、あれも江戸の町人芸術だったから出自が卑俗なので、恰も日本代表の絵みたく内外で誇られると地元にあたる東京人除いて基本的には困るわけだ。アメリカ人にノーマンロックウェルを米国代表作家だといったら同じ様な反応返ってくるだろう。
問題なのは、サブカルなり大衆商業芸術のだいぶ卑俗な出自をわかってて扱ってないところで、わかってて扱うならまだ傍ら痛くないのかもしれない。極度乾燥(しなさい)がアンダーカルチャーと「わかってて」ハイファッションの一部にとりいれるみたいな。しかし分かってないと素でアホにしかみえない。
ということは、外国かぶれの一部なり大部分は、似た様な文化盗用的勘違いを多かれ少なかれしている傾向にあって、自集団内ではその傍ら痛さに気づいてる人が少ないので輸入学問的薩長的鹿鳴館的天皇的偽物になりさがって羽振り利かせているわけだ。異文化をまとったバサラな自称先端人間として。
負のカルチャーショック
東京や京都の自称トカイで人気でかねが儲かっているという最近の漫画が一体どういうものかツイッターで散々リスト化しまくって調べつくしてみたが単にひたすら下品で馬鹿みたく低俗なだけで呆れ返っただけでなく大衆の一部って絶滅しても当然なほどとても卑しいんだなと負のカルチャーショック受けた
なぜ下品な表現をする人がいるか
普段から品性下劣な表現をくり返している人々は、ゲイン・ロス(得失)効果の落差とかオタク文化、粋や雅やもののあわれや萌えや、キッチュやキャンプ、スーパーフラットなどの美学によるひいき目ぬきに、単に下品な人なのである。
自己犠牲の限界
人が正義に基づかない限り、悪意ある人々を尊重するのは全くの間違いだ。自己犠牲が卑しい人、性悪や悪人の救済を目的に行われたとき、その行為は自分のお人好しさを示す効果しかない。
しかし身分差別は尊卑を最も偽装し易い。学位学歴教育歴もこれを補完する形でしかない。
正義でないとき自己犠牲は匹夫の勇にすぎない。
だが異なる個人間で正義を共有するのは難しい。それは個人同士に道徳観を構成する異なる要素があるからだ。自己犠牲の究極目的は、この意味で良心の満足に違いない。相手に意味が受けとれない利他性は、全てこの領域をでない。
しかし身分差別は尊卑を最も偽装し易い。学位学歴教育歴もこれを補完する形でしかない。
正義でないとき自己犠牲は匹夫の勇にすぎない。
だが異なる個人間で正義を共有するのは難しい。それは個人同士に道徳観を構成する異なる要素があるからだ。自己犠牲の究極目的は、この意味で良心の満足に違いない。相手に意味が受けとれない利他性は、全てこの領域をでない。
2020年2月7日
下品な自称京都文化
恥ずべき下品で
稚拙で
幼稚で
下らない低俗な文化を
さも日本代表面でほめちぎり
大金をやり
無理やり権威づけ
自慢しまくっておしつけてくる
東京や京都のマンガアニメ
品性下劣な下衆と同じにされたくない
しかし彼らは暗愚で傲慢
ひたすら悪意で
周りの上品な人達を見下している
稚拙で
幼稚で
下らない低俗な文化を
さも日本代表面でほめちぎり
大金をやり
無理やり権威づけ
自慢しまくっておしつけてくる
東京や京都のマンガアニメ
品性下劣な下衆と同じにされたくない
しかし彼らは暗愚で傲慢
ひたすら悪意で
周りの上品な人達を見下している
野蛮人
私たち関西人は
生まれたら東京に出て
もっと北の先住系日本人を差別しつつ
天皇と称します
なぜなら私たちは中国と朝鮮から
入ってきた移民の末裔で
私たちの方が文化的に上で
文明人だからなのです
それで侵略できるんです
罪のない人を差別して
1375年間も虐げながら
ひたすら暴利貪り傷つけてます
生まれたら東京に出て
もっと北の先住系日本人を差別しつつ
天皇と称します
なぜなら私たちは中国と朝鮮から
入ってきた移民の末裔で
私たちの方が文化的に上で
文明人だからなのです
それで侵略できるんです
罪のない人を差別して
1375年間も虐げながら
ひたすら暴利貪り傷つけてます
うそつきの仕事
空気を読んで
うそをつけ
周りの顔色を伺い
新卒で就職したら一生働け
役立たずの勉強をくり返し
永遠にロボットをしろ
それがお前ら日本国民の仕事
自称天皇のA級戦犯を崇め奉る
理由は殺人鬼だから
中国からきた自称偉い人だから
虚構でできた天皇史
移民の殺人犯が『史記』神話の末裔
うそつきの政
うそをつけ
周りの顔色を伺い
新卒で就職したら一生働け
役立たずの勉強をくり返し
永遠にロボットをしろ
それがお前ら日本国民の仕事
自称天皇のA級戦犯を崇め奉る
理由は殺人鬼だから
中国からきた自称偉い人だから
虚構でできた天皇史
移民の殺人犯が『史記』神話の末裔
うそつきの政
うそつき集団
いいですか
真実をいってはいけない
本当のことをいってはいけない
ひたすら世間にあわせ
自分をおしころしなさい
それ以外で日本には生きられない
この島国にいるのは極悪人ばかり
少しでも列をはみ出せば
全国で匿名でネットで中傷し
ひたすら陰険にぬれぎぬを着せ
集団いじめで自殺においつめられる
真実をいってはいけない
本当のことをいってはいけない
ひたすら世間にあわせ
自分をおしころしなさい
それ以外で日本には生きられない
この島国にいるのは極悪人ばかり
少しでも列をはみ出せば
全国で匿名でネットで中傷し
ひたすら陰険にぬれぎぬを着せ
集団いじめで自殺においつめられる
不自由の列島
この国では王様は裸といえない
天皇が殺人教祖だとばらせば
狂信者に囲まれ脅迫される
首相が馬鹿だとばらせば
自称普通の人に袋叩きにされる
それが日本という不自由の列島
自称凄い都会人が
各地の農村から出てきて
田舎者を差別しまくる為の場所だ
空威張りで欧米猿真似
東亜を見下す薩長土肥みたく
天皇が殺人教祖だとばらせば
狂信者に囲まれ脅迫される
首相が馬鹿だとばらせば
自称普通の人に袋叩きにされる
それが日本という不自由の列島
自称凄い都会人が
各地の農村から出てきて
田舎者を差別しまくる為の場所だ
空威張りで欧米猿真似
東亜を見下す薩長土肥みたく
なぜわざと難解な言い回しを使うのか
なんで三浦瑠璃って人はいつもなに言ってるかさっぱりわからないの? なぜ分かり易く話そうとすらしないの? 村本を落合と2018年元日の朝生で違憲に教育差別したのも含めわざとなの? 衒学や詭弁にすら満たない晦渋さが高踏的な政治学権威づけの作法とでも思ってらっしゃるのですか? 甚だ疑問
単により簡素な言い回しをつかう動機がないだけでなくそもそも学閥の上から庶民を騙して御用学者で飯食って売名した経歴の職業病みたいなもんで主張の本体がばれると右翼すら煙に巻けないからってソフィストじみた態度に出るとか東大はもうペテン師作りのための亡国装置みたいなもんだろ税金全部かえせ
単により簡素な言い回しをつかう動機がないだけでなくそもそも学閥の上から庶民を騙して御用学者で飯食って売名した経歴の職業病みたいなもんで主張の本体がばれると右翼すら煙に巻けないからってソフィストじみた態度に出るとか東大はもうペテン師作りのための亡国装置みたいなもんだろ税金全部かえせ
極めて都会
僕は昔から絹谷幸二の絵が本当にひどすぎと感じそんなのが威張ってる場所に混じりたくもなければああもなりたくないと思って芸大受験やめたくらいなんだが30才頃から大観が理解できる様になったから加齢するとそのうち極めて都会にしかみえない画伯の絵も共感できる様になっちゃうんだろうか
東京オタク文化による異性の性的物化
馬鹿オタクは二次性徴やたら強調した不自然な性的物化同性キャラが気色悪いと自覚ないからどっかの女オタクが現実にありえない超絶美男子の性器強調した下品極まりない漫画を公然と献血のお礼だとかいって配り歩いてほぼ相似の事してやれば少しは自覚するんじゃん下衆な東京文化限定でやってほしいけど
にわか評論
宮台真司って人が芸術は心を傷つけるものとかいってたが、それはセンセーショナリズム狙った一部の過激な代物で、食べ物でいったら暴君ハバネロみたいなのだろ。ボナールのどこに傷ついたのか小一時間といつめたくもない。にわか乙。
因みに茂木健一郎氏もクオリア日記の端々で類似趣旨のこといってたが、そっちの文脈は脳にとって想定外の表現が思い込みを覆しシナプス回路を作りかえる的理屈で少しは理科じみててまだ理解できるし、寧ろグリーンバーグ的前衛を補完する理論かと思う。
しかし宮台説は芸術全体を一般化しすぎだな。
前衛芸術なり、過激な表現は、芸術一般からみたら決して普遍的ではない。しかし美術用語の語彙が足りずに、宮台氏が「芸術」をファインアートなりアバンギャルドの分類に限って使ってる可能性もあるが、それなら舌足らずといわざるをえまい。中途半端に美術評論の専門家ぶるのは色々と宜しくない。
因みに茂木健一郎氏もクオリア日記の端々で類似趣旨のこといってたが、そっちの文脈は脳にとって想定外の表現が思い込みを覆しシナプス回路を作りかえる的理屈で少しは理科じみててまだ理解できるし、寧ろグリーンバーグ的前衛を補完する理論かと思う。
しかし宮台説は芸術全体を一般化しすぎだな。
前衛芸術なり、過激な表現は、芸術一般からみたら決して普遍的ではない。しかし美術用語の語彙が足りずに、宮台氏が「芸術」をファインアートなりアバンギャルドの分類に限って使ってる可能性もあるが、それなら舌足らずといわざるをえまい。中途半端に美術評論の専門家ぶるのは色々と宜しくない。
拝金文化
ボクたち都民にとって
かねが一番大事でしょ
他人を傷つけてナンボ
うそついてナンボ
善悪なんてあってないようなもの
学歴の看板でうそつきゃ愚民は洗脳される
いなか者と中年男性ひとくくりに
ひたすら虐めりゃ本が売れるんだよ
テレビに出れて
馬鹿女が寄ってくる
それが東京なんです
憧れちゃうか
かねが一番大事でしょ
他人を傷つけてナンボ
うそついてナンボ
善悪なんてあってないようなもの
学歴の看板でうそつきゃ愚民は洗脳される
いなか者と中年男性ひとくくりに
ひたすら虐めりゃ本が売れるんだよ
テレビに出れて
馬鹿女が寄ってくる
それが東京なんです
憧れちゃうか
文明は構成員の平均的な聖性の高度さ
仏陀がこの世は悪い穴、dukkhaだといっていたが、確かに自分もそう思う。個体は食事はじめ適応行動を再獲得し続けないと生存すらままならない。しかも資本主義文明は日々、我意で他人を貪ろうと躍起なので競争がますます激しくなる一方で、少しも救いに繋がらない。自殺で解脱した人々を責められない。
この世に居残った人々のうちでも、鈍感かつ性悪で他者理解に欠けた人ほど利己のままに生きられる為、一見楽そうにみえる。しかし社会的地位が高いとされる強欲で傲慢な人々だけでなく、刑務所内に多いのもこのタイプである。
然るに、そういった人達が模範に足るわけではない。寧ろ反面教師である。
勿論、自称普通の中流が全ての面に優るわけではない。単に彼らは傑出した長所がないだけだ。
この世で最も模範に足るのは、慈悲深く、他者理解に長けているだけでなく、技芸や知識の面でも他に優り、できるだけ多くの人々にできるだけ質高く利他的に振舞える人である。彼らは一般に聖者といわれる。
人々にとって貴重で、しかも徳の面で公益があるのは、その種の聖者である。
自然科学から道徳は導き出せない。道徳は人為だからだ。科学者と呼ばれるほど個別の知識に長じた専門家らに高い道徳は期待できないので、科学者が人間界のあらゆる事情について正しい判断ができると思い込んではならない。
寧ろ、集団内の聖者の質が高くその量が多いほど或る社会が生きていくに値する。文明とは、文化相対主義を超え、その種の異文化理解を含む聖者を育む装置である。
逆に地域ごとに邪悪な人々、俗人が多いほどその社会は公害であり、不幸をかこつだけでなく、間接的に生きるに値せず自殺もふえる筈だ。
死がこの俗人だらけの生きづらい星からの最終的な救いだとしても、少なくとも俗人らも性欲などで繁殖してしまうため、できるのは生き残った人々にとって少なくとも生きるに値する文明を作っておく設計である。
それは恒常的に知識や道徳の水準を上げ続け、自らの聖性を高める生き方だ。
他人の聖性を高める工夫は、啓蒙の手段としての芸術が主に担ってきた。より高度な技術でよりよい趣味を啓発するのは、総じて、人々の感覚を通じより深い道徳を認知させる目的である。
情報伝達の洗練度が芸術性であり、より優れた文明では技によって、よりたやすくより高い聖性が理解できるだろう。
この世に居残った人々のうちでも、鈍感かつ性悪で他者理解に欠けた人ほど利己のままに生きられる為、一見楽そうにみえる。しかし社会的地位が高いとされる強欲で傲慢な人々だけでなく、刑務所内に多いのもこのタイプである。
然るに、そういった人達が模範に足るわけではない。寧ろ反面教師である。
勿論、自称普通の中流が全ての面に優るわけではない。単に彼らは傑出した長所がないだけだ。
この世で最も模範に足るのは、慈悲深く、他者理解に長けているだけでなく、技芸や知識の面でも他に優り、できるだけ多くの人々にできるだけ質高く利他的に振舞える人である。彼らは一般に聖者といわれる。
人々にとって貴重で、しかも徳の面で公益があるのは、その種の聖者である。
自然科学から道徳は導き出せない。道徳は人為だからだ。科学者と呼ばれるほど個別の知識に長じた専門家らに高い道徳は期待できないので、科学者が人間界のあらゆる事情について正しい判断ができると思い込んではならない。
寧ろ、集団内の聖者の質が高くその量が多いほど或る社会が生きていくに値する。文明とは、文化相対主義を超え、その種の異文化理解を含む聖者を育む装置である。
逆に地域ごとに邪悪な人々、俗人が多いほどその社会は公害であり、不幸をかこつだけでなく、間接的に生きるに値せず自殺もふえる筈だ。
死がこの俗人だらけの生きづらい星からの最終的な救いだとしても、少なくとも俗人らも性欲などで繁殖してしまうため、できるのは生き残った人々にとって少なくとも生きるに値する文明を作っておく設計である。
それは恒常的に知識や道徳の水準を上げ続け、自らの聖性を高める生き方だ。
他人の聖性を高める工夫は、啓蒙の手段としての芸術が主に担ってきた。より高度な技術でよりよい趣味を啓発するのは、総じて、人々の感覚を通じより深い道徳を認知させる目的である。
情報伝達の洗練度が芸術性であり、より優れた文明では技によって、よりたやすくより高い聖性が理解できるだろう。
安倍政権は反日経済グローバリスト
右派論客の小説家・百田尚樹氏が安倍自民は反日まがいだから子供へアメリカ移住させた方がいいとさえずってた。
これ二重の意味で興味深い。
第一に右派として米属国思考と認めてるし、第二に右派の統領の国のが居心地いいなら経済グローバリズムの安倍を保守政権とみなしてた矛盾が露呈。
もし安倍が経済面で愛国派なら、TPPだって国ごとに調整できる個別の関税に比べ日本に不利なんだからトランプみたいに離脱するだろうし、農業だってイギリス自給率70%以上に補助金政策で守るだろうに。日本単体に幾らか不利でも世界経済を成長させるべきと考えてるから著書でも経済グローバリズム派。
原発政策も、少なくとも致命的に国土汚染したり、国民自身の生命財産を脅かすのみならず、廃棄物や事故処理で長期国益損なうのは実証済みなんだから、経済愛国派なら脱原発なり減原発なりへ新エネルギー転換の政策とるに決まってるでしょ。しかし安倍はそうしてこなかった。国なんて彼の権術手段なの。
尤も対外貿易的に、農業面で米国のゴミ捨て場にして自給率向上放棄の点を除いて、広域の開放経済をめざす傾向は、どうせ不可避である以上、問題を先送りしない施政で正しいと思うが。しかしTPPでは不十分なのであって、印中圏や南北朝鮮いれた、できるだけ各国に公平な広域貿易協定を結ぶべきだ。
これ二重の意味で興味深い。
第一に右派として米属国思考と認めてるし、第二に右派の統領の国のが居心地いいなら経済グローバリズムの安倍を保守政権とみなしてた矛盾が露呈。
もし安倍が経済面で愛国派なら、TPPだって国ごとに調整できる個別の関税に比べ日本に不利なんだからトランプみたいに離脱するだろうし、農業だってイギリス自給率70%以上に補助金政策で守るだろうに。日本単体に幾らか不利でも世界経済を成長させるべきと考えてるから著書でも経済グローバリズム派。
原発政策も、少なくとも致命的に国土汚染したり、国民自身の生命財産を脅かすのみならず、廃棄物や事故処理で長期国益損なうのは実証済みなんだから、経済愛国派なら脱原発なり減原発なりへ新エネルギー転換の政策とるに決まってるでしょ。しかし安倍はそうしてこなかった。国なんて彼の権術手段なの。
尤も対外貿易的に、農業面で米国のゴミ捨て場にして自給率向上放棄の点を除いて、広域の開放経済をめざす傾向は、どうせ不可避である以上、問題を先送りしない施政で正しいと思うが。しかしTPPでは不十分なのであって、印中圏や南北朝鮮いれた、できるだけ各国に公平な広域貿易協定を結ぶべきだ。
2020年2月6日
御用大学
金儲け東大老害が大勢群れて
安倍のアホを忖度しまくる
理由は金欲しいから
名誉欲しいから地位欲しいから
それが御用学者で右派論客だってさ
馬鹿なのかな
福島原発が爆発してる最中
近所の僕のテレビで
東大学者が爆発しない安全といった
あとから嘘だと分かっても開き直り
理科ぶって自慢してたぜ
安倍のアホを忖度しまくる
理由は金欲しいから
名誉欲しいから地位欲しいから
それが御用学者で右派論客だってさ
馬鹿なのかな
福島原発が爆発してる最中
近所の僕のテレビで
東大学者が爆発しない安全といった
あとから嘘だと分かっても開き直り
理科ぶって自慢してたぜ
趣味の模範を示すのが美術の仕事
寧ろ炎上商法もどきなんてハイカルチャーの主要手法の一部だったのであって、宇崎同人誌作家らサブカル側が歴史的に経験不足すぎるの。マネのスキャンダリズムだのゴッホの耳きりだの、カラヴァッジオの人殺しだの、ウォーホルの偽電話だの、日本も忖度第一の狩野派から反官前衛の五浦派まで色々いた。
ハイカル側は世間を挑発とか、扇情行為とか、反政府活動とか、逆に戦争礼賛とか、まるきり何でもありで、無差別格闘技が際限なく続いてもうやる事ないわ、となった成れの果てが現代アートにすぎず、しかもどの時代でもそう。和製サブカルもスパフラ派が包摂済み。性の物化論争でびびるのは意味不。
単純にね、宇崎ポスターとクーンズの『メイドインヘブン』と村上隆の性器彫刻比べてみなよ。自称キッチュだかスパフラな同時代ハイカルチャー側が、猥褻物陳列罪のどぎつさなら圧倒的に上だから。訴訟前提にやってるのが伝統なんだから、アーティストはある種の表現ヤクザなんだよ。政府と戦うの。
問題はね、赤十字社が一般人に向け、特にまともな女性からみたら下品極まりない二次性徴強調した下品ポスターにドン引きしただけの話で、同人誌オタクは根っから品性下劣なだけだよ。昔からだし。性の物化とか偶像崇拝を素でやってる、バーチャル性犯罪目的のただの邪教集団なんだから当然でしょう。
そこには何一つとして高尚な理屈とかないから理論武装とか一切ない状態で一般社会の理論派というべきフェミニストとまともにぶつかって負けただけでしょう。よくある話だ。カラヴァッジオも聖人図かきなおしてたしな。
社会的戦略抜きに、同人誌出身の漫画家がペド趣味の扇情絵面を公に売っただけ。
今は無視されてるけど、同人誌オタク、東京人中心コミケ75万人の醜態が国連の人権機関に通達された日には、今回の比じゃない世界的大炎上がくるから。だって中で売られてるのは他国だったら処刑確定ペドフィリア満開の淫行マンガだもんね。しかも実際にコスプレイヤーとの交尾ビデオ販売者までいるし。
だからいってんだよ。東京文化はろくでもない、都会は反面教師と。もう終わってるどころの騒ぎじゃなくて、下賎の底は完全に抜けきっててソドムでしかない。今更救済もできないし。当人達が馬鹿すぎ、素でオタク趣味が世界に誇るアートと思っちゃってんだから。
東京だの京都が日本代表面しないで。
外人からみたら東京や京都の下衆な商業大衆文化が日本全体だと思い込んでるから、はっきりいって公害以外なにものでもないんだよね。当人達は自分が上だ、田舎はダサいとかいっているが全くの真逆なんだが。嘘抜きで。
自分がみた限り最悪の悪趣味なのが都心じゃん。天皇も公家も税浪費の成金根性。
東宮御所だの東京駅にせよ、京都の桂離宮だの修学院離宮にせよ、僕が現実にみて酷いなと思ったよ。なぜかって僕の県には既に立派な模範があったからな。六角堂だの西山荘だの弘道館を先にみてると、東京や京都の建物がただの下品な駄作にしかみえない。所詮、天皇や公卿、薩長土肥が品性下劣だった。
この意味で、立派な芸術を残しておく事がいかに、後世の人間を啓蒙するか分かったものではないね。趣味の模範が既に脳裏にあったからこそ、自分は京都で世界遺産だのマイナーなどの建物みてもクダラネ、東京のどの最新建築みてもハイハイとなった。僕の仕事も過去の茨城人と同等以上の正格を達したい。
僕はこれまで10個くらいゲーム作った気がするけど、サブカル系の応用芸術メディアでも同じ原則があてはまるのではないだろうか。売れたとかウケタとかいってる人達は芸術の本質的機能が、趣味の啓蒙だと知らないのだ。商品と混同しているからそういう致命的間違いを犯す。それも転ばぬ(宇)さきの杖。
サブカルオタクは美術側がもっと本気で社会と戦ってるのを知らない。なぜなら金儲けのぬるま湯で楽して暮らしてるからだ。極貧の中で死と直面しながら、圧倒的無理解の中で何十年も戦い続けてる人達と、挫折したり死んで行く人達ばかりなのに、カネほしさに下らない作品を量産してる側の罪は重いよ。
ハイカル側は世間を挑発とか、扇情行為とか、反政府活動とか、逆に戦争礼賛とか、まるきり何でもありで、無差別格闘技が際限なく続いてもうやる事ないわ、となった成れの果てが現代アートにすぎず、しかもどの時代でもそう。和製サブカルもスパフラ派が包摂済み。性の物化論争でびびるのは意味不。
単純にね、宇崎ポスターとクーンズの『メイドインヘブン』と村上隆の性器彫刻比べてみなよ。自称キッチュだかスパフラな同時代ハイカルチャー側が、猥褻物陳列罪のどぎつさなら圧倒的に上だから。訴訟前提にやってるのが伝統なんだから、アーティストはある種の表現ヤクザなんだよ。政府と戦うの。
問題はね、赤十字社が一般人に向け、特にまともな女性からみたら下品極まりない二次性徴強調した下品ポスターにドン引きしただけの話で、同人誌オタクは根っから品性下劣なだけだよ。昔からだし。性の物化とか偶像崇拝を素でやってる、バーチャル性犯罪目的のただの邪教集団なんだから当然でしょう。
そこには何一つとして高尚な理屈とかないから理論武装とか一切ない状態で一般社会の理論派というべきフェミニストとまともにぶつかって負けただけでしょう。よくある話だ。カラヴァッジオも聖人図かきなおしてたしな。
社会的戦略抜きに、同人誌出身の漫画家がペド趣味の扇情絵面を公に売っただけ。
今は無視されてるけど、同人誌オタク、東京人中心コミケ75万人の醜態が国連の人権機関に通達された日には、今回の比じゃない世界的大炎上がくるから。だって中で売られてるのは他国だったら処刑確定ペドフィリア満開の淫行マンガだもんね。しかも実際にコスプレイヤーとの交尾ビデオ販売者までいるし。
だからいってんだよ。東京文化はろくでもない、都会は反面教師と。もう終わってるどころの騒ぎじゃなくて、下賎の底は完全に抜けきっててソドムでしかない。今更救済もできないし。当人達が馬鹿すぎ、素でオタク趣味が世界に誇るアートと思っちゃってんだから。
東京だの京都が日本代表面しないで。
外人からみたら東京や京都の下衆な商業大衆文化が日本全体だと思い込んでるから、はっきりいって公害以外なにものでもないんだよね。当人達は自分が上だ、田舎はダサいとかいっているが全くの真逆なんだが。嘘抜きで。
自分がみた限り最悪の悪趣味なのが都心じゃん。天皇も公家も税浪費の成金根性。
東宮御所だの東京駅にせよ、京都の桂離宮だの修学院離宮にせよ、僕が現実にみて酷いなと思ったよ。なぜかって僕の県には既に立派な模範があったからな。六角堂だの西山荘だの弘道館を先にみてると、東京や京都の建物がただの下品な駄作にしかみえない。所詮、天皇や公卿、薩長土肥が品性下劣だった。
この意味で、立派な芸術を残しておく事がいかに、後世の人間を啓蒙するか分かったものではないね。趣味の模範が既に脳裏にあったからこそ、自分は京都で世界遺産だのマイナーなどの建物みてもクダラネ、東京のどの最新建築みてもハイハイとなった。僕の仕事も過去の茨城人と同等以上の正格を達したい。
僕はこれまで10個くらいゲーム作った気がするけど、サブカル系の応用芸術メディアでも同じ原則があてはまるのではないだろうか。売れたとかウケタとかいってる人達は芸術の本質的機能が、趣味の啓蒙だと知らないのだ。商品と混同しているからそういう致命的間違いを犯す。それも転ばぬ(宇)さきの杖。
サブカルオタクは美術側がもっと本気で社会と戦ってるのを知らない。なぜなら金儲けのぬるま湯で楽して暮らしてるからだ。極貧の中で死と直面しながら、圧倒的無理解の中で何十年も戦い続けてる人達と、挫折したり死んで行く人達ばかりなのに、カネほしさに下らない作品を量産してる側の罪は重いよ。