2020年2月25日

感情文法について

日本人、だけじゃないかもしれないが、日本語ツイッター民のうち、相当部分の人達は、何かそのひとにとって致命的に重要な知識、知見を親切のつもりで教えても逆切れしてくる。彼らは感情、情緒の動物で、理性とか知性にはとんと縁がない。以前から日本人論でよく言われる観点だが、正にその通り。
 したがって善意から、彼ら日本人らに何かを教えるべきではないのだと思う。無知のままにしておき、死ぬならしぬ、自滅するなら自滅する、なにも啓蒙せず業のままにしておけばいいのだろう。
 随分前から自分は啓蒙が不可能だと悟っているのだが、日本人大衆に向けては尚更だろう。
 ツイッターの使い道としても全く同じで、原則、返信を使わない方がいい。
 愚者は虚栄心が激しいもので、当人の信じているなんらかの妄想(科学すら究極では妄想だ)に、或る矛盾があると伝えられただけでも発狂してしまう。それだけ愚かな人達なのだから、無限の誤りがあっても反省は永遠にしない。

 裏返せば、自己の誤り易さを自覚し、数多ある意見のうち最も正しいと思われる見解を常に自己批評し続けるだけでなく(つまり方法懐疑)、そもそもあらゆる自見を恒常的信念と思わないことが重要だ。いわゆる無我。
 よく愚者に見られる類型で他見を「論破」するといっているが、これゆえ無意味だ。

 感情知能はそれ自体に巧拙がある。優れた感情表現を使えば日本人のよう、相対的に理知が弱い種族又は文化集団を扇動することはできる。
 こちらの手法は悪用される可能性がある限り、私の生前に自分の得ている手法を公にすべて説明するつもりはないが、感情論には固有の脆弱性がある。
 その脆弱性を突けば、全体を特定目的に向け操作できる。この点は、理知も手法は違えど多かれ少なかれ似ているが(例えば先端科学は常に固有文法を使った扇動だろうし、道徳論はどれも個人教義の部分にほかならない)、感情の方がより瞬発的で、極端に流れ易い(例えば神道は情念による洗脳が目的だ)。
 SNSは総じて権力闘争の場といってよくその内部には特有の文法とその規則がある。これも使い道によっては乱用されうるが、最善の目的に向け指揮すれば、公益に合致する。
 ここでいいたいのは、感情論に弱い民族・語族はその内部文法の熟達者に統治されているということだ。啓蒙しなくとも結果は同じ。