2020年2月29日

武士道一つならず

自分は2人ほど、関西人で先祖が武家自慢する人と(ネットで)会話したことがある。
 そのどちらも、現実では品位にもとること甚だしい人達で、自分が堕落した人間だと知ってかしらずか、自己正当化の最後の言い分に、先祖が武士だったので自分はおちぶれても高貴なのだといいたいらしかった。
 勿論、没落貴族なんてよくある話で、皇族閥なんてほぼ確実に天皇家継げないんだから全部それに該当せざるをえない。身分差別の限界がそこにはある。
 だが私が彼らに感じた問題はもっと、遥か根深い。今からできるだけ分析する。第一に自分の為にだが、別の人が読んでも意味が取れる様に書く。
 自分が彼らに感じた大変な違和感と、彼らの遣る瀬無い卑しさとはとても混雑している上に複雑なので、糸口から一個ずつ紐解いていく必要がある。

 先ず自分の国、今でいう県からいえばこの地は武士の起源から最後の将軍までを持っている。最初の武士は新皇と称した将門、最後の武士は慶喜公だろう。
 途中では歴代幕府や戦国覇者も幾多いたし、名君もいた。ここで出自し各地に散らばっていったが、元々坂東武士と呼ばれる人達の出現率が極めて高かったのが私の生まれ育った県である。身近に色々な文化風物も残っているし、そもそも彼らが根にどんな気韻をもっていたかも体験的に多少あれ知っている。
 彼らは雄々しく猛々しく、時には天皇の悪政に反旗を翻し正義を貫かんとし、時には感慨深い徳政をし、時には刑罰で村ごと虐殺し、時には天下のため諫死し、時には大義の為に刀を納め自己犠牲した。数え切れない逸話の中には私の心を育んだ悲喜劇があり、単に表面的な制度などで到底語りきれない人達だ。
 つまり、私、もしくは我々にとって、武士は制度ではない(広義で関東人、あづまびと、東国人にとって、といってもいい。但し近代以後の東京圏は、天皇家ら関西からきた人達の気風が混じり中華思想に驕っている節があるのでもはやそんな意識も喪失しているだろうが)。
 武士、モノノフとは人間性だ。
 すなわち坂東武士は、関西地方の皇族や公家の世界と違い、血統による差別とか、身分制など存在しないに等しかった関東平野から出現し、荒くれ者たちを力や徳でまとめ、近畿と称していた関西地方からの悪政や、浅ましい差別的待遇を自力で覆してきた人々である。彼らの集まりを我々は幕府と呼んでいた。
 また、広く日本で「侍(サムライ)」とは時に美称で、例えば日米野球界で愛国英雄的な活躍をみせたイチロー等にその名義が与えられたりする。『平家物語』で平安期の堕落した受領政治のもと全国的混乱を全力で治めたのに、天皇の非情な命令で兄に討たれ死んだ、悲劇の英雄源義経などその原型と思う。
 鎌倉幕府が将門の政庁以来、最初の天皇公認幕府といってもいいだろうが、義経の兄こと頼朝が開祖だった。しかしこの幕府も元寇の功労を巡って次第に勢力を失い、再び京都界隈で贅に耽る室町を挟んで、安土桃山と混乱期に至る。戦国期を最後に治めたのが群馬の得川氏が出自と考えられる徳川家だった。
 徳川家以前から私の県は随分立派な武士の系譜、例えば伊達、武田、佐竹家などが統治していたわけだが、最終的に御三家が置かれ、名君の誉れ高い義烈両公を代表としていわゆる水戸学が興った。この徳川家の最後の将軍慶喜公の気位はさらに一等高く、禅譲を実行し尊皇の大義の前に身を犠牲にしたわけだ。
 我々が国家的危機に際し天皇政体のもと各大名の確執を超えた全国統一を果たし、少なくとも植民地化をのりきって今日の近代化を果たしたのは、一言でいえばこの水戸の徳川家の偉大な功績だといえるだろう。慶喜公がいなければもっと早く、薩長両国同然、欧米列強の餌食だったろう事は想像に難くない。
 その際、天皇家も危機に瀕した筈だ。そもそも水戸学がなければ戦国期以後、天皇をあれほど尊重する気風が全国に伝えられたとは思えない。
 中国歴代王朝の皇帝は革命勢力に弑された。日帝すら清皇帝を傀儡にしていた。
 だが義公がいたから天皇を身を挺して守るべくわが県わが国の武士が啓蒙された。
 確かに、明治維新には歴史学的にも国際政治学的にも民俗学・文化人類学的にも、問題が多い。第二次大戦という致命的敗戦もそうだが、明治から敗戦までの77年は好意的に見ても、松陰ら侵略論者の考え方による帝国主義の時代だった。薩長藩閥の言行は後世の批判に耐えるほど高貴な目的だったといえない。
 我々は、岡倉天心がむしろ欧米日の帝国主義を批判した『東洋の理想』冒頭「アジアは1つ」という文言を、大東亜共栄圏構想の一起源にしているが、本来、『茶の本』段階で天心は平和が戦争より尊い理想だといいたかったのだ。
 同じく新渡戸稲造も『武士道』で武士の究極の理想は平和だと書いている。
 即ち天心も新渡戸も武士の子、彼らは寧ろ親藩や岩手の古きよき武士道を奉じていたに等しく、薩長藩閥流儀の帝国主義侵略には程あれ疑義を呈していたといってもいい。
 徳川家は豊臣家の朝鮮侵略方針をうちきり通信使との外交を再興させた。倭寇の問題は内に抱えていたが、国際平和外交に等しかった。
 ではその帝国主義が2発の原爆で無残に打ち砕かれてからの日本はどうなったか。相も変わらず安倍晋三や麻生太郎のよう薩長藩閥の残党が国政を牛耳り、明治と変わらず寡頭政治の様相は否応にも残念である。暗愚な人達は、わが国での武士道の衰亡を嘆きもしない。それは彼らが道徳に劣っているからだ。
 私がネットで接したその2名余は、武士道など寸分も奉じていなかった。よく話を聴いた限り、戦国期島根と姫路の大名家に関係がある武士の末裔なり云々といっていた人々だったのだが、普段の行いは性売買罪を行うなど卑陋であり、名を名乗らず得々と農民を讒謗するなど人たる風上に置ける訳がない。
 敢えてつけ加えればもう1名、麻生家の親族なりとなのる都内官僚の娘をみたことがある。この人の場合はまた一風変わった人物で、血統の影響もきっとあると思うが野蛮な言行甚だしい。その点、麻生太郎氏そっくりである。外様大名下の一部武士が学業を疎かにしていた名残か、驕り高ぶり虚栄心甚だしい。
 これで私が悟っている所は、武士道は一つではない。いや極々多岐で、例えば私のみてきた水戸の武士道は尊皇大義が第一、桜田烈士に飛虎将軍の如く敬神愛民の敬虔なる清く貴き代物なのだが、それは殿様の気韻が乗り移ったものでしかないのだろう。別の統治者の下で育んだ別の武士道が無数にあるわけだ。

 何が書きたかったか。
 大分紐解かれてきたと思うが、この様なわが郷里わが県わが国固有の歴史に準じた大意の経緯があって、その2名余の「われは武士の末裔にして高貴なり」と述べる由と、私のみている武士なるものが余りに違いすぎ、やりとり以前に文化が180度違って共通認識がとれないのだった。
 それで私が感じたのは、坂東武士、分けても常陸国茨城県水戸の武士と、関西西国のそれは全く違うのだ。辛うじて新渡戸が体系的に記述した盛岡風の武士道とは相通じる点が数多あるので、恐らく、東国武士道の方には一定かつ暗黙の共有知があるのだろう。だが西へ行くほどなのか、全く内容が違ってくる。
 私は、まず一度も西郷隆盛や木戸孝允らの薩長武士道に感動した事がない。なんと卑劣な連中だとは感じるが、権術第一のサイコパスだったといっていいだろう西郷が、単なる西軍の都合で行動したすぎないのに、山形の朴訥な武士が良知の如く騙されていた点なども第三者としてみて、心底がっかりする。
 ある佐賀出身弁護士の研究家が『葉隠』に範を取り、水戸学に難癖つけつつ、葉隠が正義なりと述べているブログ等も網羅的に読んだが、特に道理があるでもなかった。「自集団ひいきの妄想」中で自己愛に耽っているだけの話で、『葉隠』は例えば学術的に洗練されなかった戦国期の考えで殉死を勧めている。
 私は寧ろ水戸学を批判的に考証してきた点では現代までの世界史に類例がない人物として確実に文化史に残る仕事はしてきたと、最大限客観し自負できる。祭政一致論とロックの王権神授説反駁をぶつけ、天皇民間化(皇室民営化)を主張するなどはその第一点だが、理論的に正しく反論し、初めて意味がある。
 その武士の末裔となのる関西人2名が第二にこんがらがっているのは、この種の体系的な倫理学説という意味を持っている武士道を無視し、単なる身分差別の指標としてその名義をいわば盗用している点である。発祥の平安期ですら『平家物語』にみられるよう名乗り合いの風儀はあったのに、それさえしない。
 尤も、名も名乗れぬ卑賤な振る舞いをしながら、なのったとて公爵を最高位としてつい75年前まで制度として存在した名家の系譜に匹敵する連中とは到底思えないので、中途半端に先祖へなんらかの虚名がひっかかってくると、逆にその虚勢が先立ち現実にはろくでもない人間が先祖がえりするいい実例に思う。
 皇族はいうまでもなく公卿も公家もだが、彼らが名のある系譜だったとて現実には無能だった実例ばかりがある。というか、特に平安京で上述の受領政治が発生した頃から、『源氏物語』で虚構化された類の退廃的好色遊びが当時の官僚らの日常で、実権はほぼ喪失していたからこそ、武士が世直しに出てきた。
 いわゆる承平天慶の乱、上述の将門と、藤原純友がほぼ同時に腐敗した中央政治に反し、今でいう和歌山県知事の仁坂吉伸氏(前からみてたが名君だ。カジノ構想だけは疑問符だが)の様、独自判断で地方統治をはかろうとしたわけだ。つまり武士は本来、有能者の名義であって、肩書きによる身分制ではない。
 その意味でいえば仁坂氏は暴れん坊将軍の地元だけあって、正に肯定的な意味で、武士でありもののふというべきだろう。実際、実話集の山川菊栄『武家の女性』とか、こっちは脚色はいってるが『八重の桜』とかでもわかる話だが、武家の娘も同じ意味で公を私に優越しつつ家内を掌る気丈婦の必要があった。
 現代では女権が拡張されたので、女性首相も珍しくなく、女性天皇なり女系天皇なりを排除しようという伝統(どうとでも変わる過去の正当化)に基づかないばかりか無謀な挙は、完全に惨めな性差別でしかない。天皇が女系血統で品位がおちるという人達は、Y染色体をもたない女帝を蔑視しているといえる。

 では、その武士の末裔と称する関西人2名は?
 彼らは一方は男で、一方は女だった。彼らの自慢する所、いや特にその女の方(戦国島根の末裔という)が不躾な農民差別(農本徳政水戸家の足元にも及ばない)などに用いる所の血統とは、一体如何なる物だろうか。殺人業者がそれゆえに、高貴なのだろうか。
 天皇すら徳がなければ虚名に過ぎない。だからこそ、英知ある義公は『古文孝経』序を引いて「君君足らずと雖も臣臣足らざるべからず」尊皇論を説いた。即ち臣下の代行責任で君主無答責を踏み行えとのわけで、いわゆる水戸学用語の大義名分だ。
 然るに西日本ではこの種の道義が、端から欠如してきた。
例えば大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らは天皇機関説に立って「玉」などと呼び、天皇を道具扱いしていた記録が残っている。
(木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・伊藤博文らの「玉」発言等
1.木戸公伝記編纂所・編『木戸孝允文書』第二、巻七
四十七「品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」
336ページ、日本史籍協会、1929-1931年
2.1868(慶応4)年1月17日、大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』「玉簾」「玉体」との表現で象徴的天皇を否定
3.『岩倉公実記』「具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事」「討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事」「小御所会議ノ事」等での岩倉による「倒幕密勅」偽造等
4.宮内省御用掛『ベルツの日記』、伊藤が天皇を笛を吹かれて踊る操り人形と物まねする記述)

 同じ武士なり公家なりといっても、志操は全然違う。回天神社の1865祭神らは尊皇の大義の前に進んで自己犠牲し、死んだ。しかし最上有力者ですら斯くの如き西日本にその種の誠心は先ずない。
 いわば、その武士の末裔と称する関西人らは、我々の身近にみる大義に散った数多の武士達とは全然違う人達の子孫である。いや、勿論唯のウソなり虚構で、彼らは実際にはなんらかの名のあった血統ではないかもしれないが。
 もしどちらだったとしても、確実な真として、彼らは卑しい振舞いをしている。
 目の前で下賤な言行をとる。例えばその兵庫姫路出身の男(今は東京を経て仙台に住んでいるらしい)が性売買罪を謎に自慢しているとか(違法行為なり人身売買の一種なりは明らかに愧ずべき事だと思うのだが)、島根出で奈良や大阪兵庫に暮らす女が金ほしさに身売りに手を染めつつ、酷く愚かだとして。
 彼らは想像できるかぎり最も落ちぶれながら(尤も違法ではあっても性産業業者からすると誇り高い仕事なのかもしれないが)、最後のプライド、虚栄心の根拠を中古の「武士」名義に求める。しかも私を農民かなどと侮辱しながら。
 実になんとも情けない連中なのだが、一言でいいきれない憐れみがある。

 より細かく書けば、その姫路出の男の方は引越しホームページ業者とかであぶく銭を稼ぎ、それで仙台から性売買罪を行って大層自慢げに、私を散々罵ってきた。一定期間、ネット(ピグ)で観察していたのだが、離婚した妻との間に娘がひとりいるとかで、なんとも言いがたい醜悪な関西弁商人だったのだが。
 その奈良女の方はまだつきあい(といってもネットでの文通程度)がなくなったわけでもなく詳しくは書かないし、いづれにしても特定可能な個人情報は伏せる。だが私が感じた「関西圏での武士なるもの」の用語法と意味内容がしばしば、上述した坂東武士の系譜や威厳と全く違うのは間違いない事実に思う。

 単なる文化摩擦だろう。
 覇者を経て中世から近代日本を公儀輔翼の末、畏れ多くも実現した複数の徳川公爵家の御末裔が身近にいらせられ彼らの高徳さや生き様を、間接的にとはいえ目の当たりにしている私と、単なる小大名下で木っ端役人が空威張りしていただけの、野卑な殺人稼業の末裔とは武士道が違う。
 徳川宗家の御当主の方も、静岡では既に国会議員に当選しないほど名声が落ちている。でも茨城の方なら違う様に思う。東京、和歌山、愛知、その他の旧親藩はどうだろうか? 恐らく最も、現地の徳川家が偉かったのは水戸であり茨城だろう。市域だけでなく今も総じて尊敬されているのは間違いないと思う。
 前知事橋本昌氏は「水戸徳川家は茨城の宝」と申されていたが、僕もそう思う。彼らの残した文化遺産や徳政の証はひとり、わが県の名誉や誇り、未来への啓発なだけではなく、決して身びいきでなく世界史上に傑出した点が多い。義公や慶喜公の禅譲は崇高だし、そもそも民衆のため善政していた名君の家だ。

 私がこうして、その関西人2名による「武士の末裔」との名乗りに混成して起きた、悲嘆とも憐憫ともつかぬ感慨の正体を掴もうと一文を物したのは、結局、水戸の徳川家の崇高さに比べ、余りに卑屈すぎる偽武士、いや名義借りの連中に呆れ返ったからなのではないか。
 天地の別人。それほど徳は人を変える。