インターネット上の赤の他人、特に匿名の衆愚の言動を色々みた感じ、彼らに好かれることは百害あって一利もないのではないかと感じる。
匿名でも善良で賢明な人はいるのかもしれないが、基本的にそういう人が匿名でいる利益がないので、優れた人は基本的に、実名の名誉の中にいる。
それで、その匿名のうち衆愚としかいえない荒らしの類は、色々と批評以前の誹謗をするのだけれども(一見、批評めかしてるのでたちが悪い)、散々思慮をめぐらし彼らの言動を分析し直しても、あきれ返るほど中身がない。最後まで分析しきっても、往々にしてあとに残るのは彼らの悪意だけなので最悪だ。
それで基本的には、衆愚の逆張りするに越したことはない。だってどうみても暗愚なだけでなく悪意ある人達なんだから、基本的には彼らの言説は間違っているわけだ。
例えれば乱射銃みたいなもので相手が嫌がれば点数と思ってるだけだから、事実上、適当な誹謗がランダムに行われるだけだろう。
もし、親切に忠告してるつもりで、しかもそれが正しく賢い意見なら分かる。批評文は真偽判断できれば、道徳学説又は美学としても、真理かどうか一般的に分かる。が、衆愚の誹謗の類は「衆愚の仲間には、一見正しそうに見える虚偽」、つまり詭弁が多い。彼らの目的は仲間を擾乱することにすぎないのだ。
こうして、匿名衆愚の行動規則は、ひたすら一見正しそうに見えるが科学的・道徳的に正しくない無数の詭弁をひねりだしつつ、多数派を偽装し、相手を混乱させようとし、嫌がらせすることにすぎないので、基本的には彼らの言動を聴かない方が得策だ。
むしろ自分より賢い人達から学ぶ時間に使うべき。
ツイッター民全般に、賢い忠告を求めるのは海に山の物を求めるのと似ている。全て聞いたわけではないが、自分が1年余りいて、そういう的確な忠告が得られたことはまだない。
賢人がいてもただ黙って読んでいるか、そもそもいないか、自分に興味がないか、みつかっていない、いづれかと思われる。
辛うじて、簡単な間違い、ケアレスミスを指摘してくれた人はいた。それについては教えてくれた人に感謝したのだが、頻繁にそういう訂正してくれる人がいるでもない。僕があんまり間違えてないからなのか、それ以外なのかもよくわからない。つまり、知性をツイッター民一般に期待できないわけである。
僕的には、私見は全て間違ってるだろう、くらいに思っているので、僕の本来の生きているべき場所だと、何か書いたら100%色んな人達から批評され、しかも自分より遥かに優れた意見が無数に飛び交っているので、無限に学習できる。が、日本語ツイッターはそういう場所では全然ないらしい。なぜなのか。
1.僕が日本平均水準からみて恐ろしく賢いので周りが全部、的確に批判できない
2.僕の意見がそもそも批評に値しないほど下らない(この可能性が最も高いのだろうが、自分的には現代世界の古典書いてるつもりなのだが)
3.ツイッターでまだ賢者に見つかっていない
4.ツイッターに賢者がいない
ダニクル効果を無視すると、4.が正しいのかもしれない。確かにこれは、といえる人(世界文化史に必須項目で載るレベルの人)を、最大限謙遜さっぴいて自分以外みたことがないし、そうなら最初からやめるべきなのかも。
豚に真珠で、賢者がいない場で真理を説いても意味がない。
僕は、飽くまで親切のつもりでここにいる。
昔、親友が言っていた。僕が今みたく世俗に呆れていて、世人に教え説くのは意味がないんじゃないかといったら、「偉人が飽くまでも説教したから大衆の一部が啓蒙されたともいえる」云々。
確かに一理あるかと思ったが、その偉人は苦痛だったに違いない。
生まれつき賢愚があり啓蒙がもともと根本的に不可能な限り、法施だの教化だのは、慈善活動の一部でしかない。
但し、慈善をし慣れている人とそうでない人がいれば、慣れている人のがよりよくやれるのは、バフェットとゲイツの交流からも明らかだし、僕はその親友の忠告を受け毎日慈善活動してきた。
匿名の衆愚は啓蒙できない。
できるのは、ツイッター民中でも比較的ましな人(孔子のいう中人以上)に、なんらかのよい影響を与えるまでだ。しかしそれで十分と考えるべきだろう。なにせ、全く慈善家がいないときに比べれば平均の良識度があがるだろうし、僕の聖徳が極々高ければ上限を更新できる。