2020年2月24日

低読解力者が求めているのは簡素な文ではなく、ただの中身が単純なできるだけ短い文

きのうツイッター民らが盛んにいう「簡素な文章を書ける人が賢い」という主張を聞いた。
 今からこれについて分析する。以前も『文体問題』などで考察したが、これでは不十分だったのがわかった。
 先ずこのツイッター民らに典型的にみられる主張は、表面的な主張(字面、文面)と、中身が違っている。その意味で主張する当人達が間違った言い方を使っているのが間違いない。
 実は彼らの主張は、「できるだけ短い一文でないと、私(たち)の言語知能では理解が難しい」といっていたのだ。
 なぜ彼らがその様に、本当に彼らの主張したい、主張すべき中身をいいあてて表現できないか。それは読解力が足りないのでもわかる通り、彼らの言語知能が一般に低いせいらしい。適切な語彙が足りず、真に論理的にふさわしい内容を表現できていない。
 私は彼らの主張が正しいか検討していた。というのも、自分は並々ならぬ文学ファンで、少なくとも10代半ばから猛烈な勢いで読書しまくり(ほとんど鬼の様に)、驚くなかれ(でもない)高校の授業なんて全部無視してずっと本読んでたのである。
 そういう自分は、実は彼らがいうまでもなく簡素文体のマニアだった。
 それで前回の分析では、彼らの主張する文面を素直にうけいれ、実際、どんな文体が簡素かを解析した。まあ情報理論を使えばもっと詳細に、数式とかで記述もできるだろう。例えば冗長性がどの程度低いかとかジップの法則の応用とかだ。これも僕は以前から興味もち、色々勉強し科学的文体研究もしてた。
 それで、自分は『枕草子』の文体(中身ではない)がかなり好きで形式すら模範にしてきたくらい、簡素主義とまではいかないが、経済性が極めて高い文体を好んできた。これで自分はかなりの卓越度を達したと思っており、もし文体への客観評価が正しければ少なくとも千年後もいや未来永劫読まれてる筈だ。

 なぜそういえるかなら、自分は上述のよう科学的分析を加え文体の精緻化をはかってきたのが事実で、もう論理的に考えこれ以上は簡素にできない限界までを常にギリギリの線でおいこんできたからだ。

 しかし、ツイッター民らはその研究済み文体を「冗長だ」という。これで私はびっくりしてしまった。
 まあ既に述べた通り、彼らは語彙と表現力が足りないばかりか読解力も低いので、一文もできるだけ短く、段落も140文字より短く区切り、思慮の中身も単純でなければ理解できないといっているにすぎなかったのだが。清少納言の言を換骨奪胎すれば
「下衆はいいたいことを的確に表現できていない」
 手間がかかる不良みたいだ。

 つまり次の様にいえる。
1.ツイッター民らの「短文にしろ」とか「簡単に書け」という口癖は、文字通りの意味ではなく、「読解力が低いので、140文字よりさらに短い段落で、一文ずつも短く、かつできたら単純な文節(ここでは日本語の最小単位。短文、に、しろ、などが入り組んでいない状態)でないと、私たちの言語知能には負担が重く、十分に理解が及ばないですよ」という意味である。
2.ツイッター民らの一部の上記口癖をまじめにうけとって、ごく簡素な文体をかれらに提示しても、余り意味がない。なぜなら彼らは文学ファンと同等以上の目的で文体研究をしていないし、そもそも文脈、文旨、文法、修辞など文の主要構成要素の巧拙は無論、一定より長い複文節(ここでは、一定+より+長い+文、など単文節が複数つらなったもの)さえまずよみとれていない。
3.さらにツイッター民(の一部)らは、合理化(言い訳。すっぱい葡萄の論理)のため、短い単位で中身が単純な文章を、そうでない文章より賢い証拠とみなそうと、適当な虚偽をならべ優れた文豪を誹謗したり、立派で典雅な文体へ集団破壊活動をしている。この意味で反知性主義的文体ヴァンダリスト。

 で、例えば晦渋な文体を使う文人ってのは無数にいて、僕はそういう人達と真逆の立場だったので、そもそも彼ら文体ヴァンダリストの主張には「本当にそうかな?」と、上記の分析をする必要がでてきたというわけだ。真の簡素さをめざし膨大な試行錯誤した第一人者として是非とも考えきる必要があった。
 自分は20代の間中、一人でその文体作りに励んでいた。世間にだしてないけれども多分何千枚か以上ある手記で実用文体を極めようとしたり、小説で文体実験ばっかりやっていた。その果てに今の文体になっているので、これで簡素でなかったらそれ以上どう試行錯誤すればいいのか事実上不明だったのである。

 続けて考えるが、ではそういう現状だとして、我々は読解力の低いツイッター民の一部をどう扱うべきかだ。

 彼らは文学に親しむなんて終ぞないタイプで、恐らく漫画しか読んだ事がない。短編どころか掌編にも達しない長さでもう溺れアップアップいっている。『カラマーゾフの兄弟』で発狂するだろう。
 最近特に、そういう低読解力層に訴求する目的でユーチューブ動画流してる人達がふえている。僕はその事態や意図を観察してたのだが、2つの意味で間違っていると思った。
 現時点では商人らがその様な行動をとっているが、訴求標的が低学力者らである。よって視聴回数稼ぎはできるが愚者を集める。
 もう一つは、表面的には訴求者がふえる様にみえるが、もともと低読解力の人々は、言語障害のとき除いて、文に限らず理解力が足りない人達なのである。だから音声や動画にしたところでやはり、よくわかっていない。通俗的わかり易さには、漫画やアニメなどサブカルじみた幼稚さが要求されるという事だ。
 この「サブカル的通俗性」は、実は簡素さ、つまり冗長性の低さや情報伝達の経済性と特に関係がない。むしろ低俗さ(幼稚でありながら下卑た性質)といいかえた方がいいだろう。
 既にこの事を自分はゲーム製作・販売まで一連のプロセスで学んだ。サブカルファンは内容が高尚な時点で離れてしまう。
 視聴回数稼ぎのゲームとして、ユーチューブ動画もブログもみていた商人(ビジネス系ユーチューバー、アフィブロガー)らは、この意味で文学的・演劇的目的は二の次と思っている。私みたく芸術中心に物をみてる人とは全然違う媒体観といってもいいだろう。
 端的にいうとサブカルも同じだ。

 つまりはこういうことである。
1.文を動画にしたところで低読解力層は基本的に理解力が低い人達なのでやはりよく分かっていないまま
2.もし馬鹿の視聴回数を目的にするとどうしても低俗な内容にせざるをえず芸術としての品位が下がる一方

よって
3.長文中心に高尚な内容を探求した方が遥かまし

 難解な文体とか、無駄に冗長であればよいといっているのでは当然ない。この無駄な冗長さというのも文学としてみたら自動筆記や意識の流れの延長というかそれなりに面白い分野なので決して自分は馬鹿にしていないし、文体のモード、硬軟難易も使いどころだろうが、一般論として長文が馬鹿よけになる。
 売文通俗作家にとっては違うんだろうけど、僕はそもそも大衆商業分野には向いていない、合っていない、全然好きになれないのがよくわかっているので飽くまで純粋芸術を極めるつもりだが、ツイッターにかぎらず今日、文芸や演劇についていえるのは上に書いたことである。
「愚者を遠ざけ賢者に親しめ」
(例えば、ワンフレーズ政治といわれた小泉父など、今のビジネス系ユーチューバーと同じで、低理解力の愚者を扇動する目的に最適化していたといっていい。結果は酷いものだし、古希のデマゴーグから事の真相は同じであり、衆愚扇動の手法に熟達している人達は要注意というべきだろう)

(続き『匿名卑怯者文化をなくすには』