先ず古代ギリシアの人達、特に自由市民の一部で同性愛が常態だった上に、プラトンが『饗宴』で恋や性愛の神の名であるところのエロスを肉体への欲求から拡張され宇宙全体への愛に至るものと定義していたりした。
そこのエロスは今の「粋」「萌え」の延長にある東京都民らの(未成年か若い)女の性的物化と相当に別文脈だった。
で、静岡県沼津市・西浦地区のJAなんすんは『ラブライブ!サンシャイン!!』作ってるKADOKAWA、ランティス、サンライズら東京都の会社と組んで、その種の学生服きた未成年女子の性的物化的な目線含む漫画絵をいつものよう展示したら炎上した。
ルネサンス期の西洋美術の文脈となにが違うかといえば、ルネサンス絵画は基本、聖像(イコン)を描いているのだ。そこでのエロスはプラトン説のよう神性が表象される。古代ギリシアは多神教でそれぞれの神は人格神で肉体をもっている。その肉体が性的魅力をもつ場合も考慮され、裸像も作られていた。
尤もギリシア思想が栄えた当時は古代、日本で土偶が作られていた時期にあたり、当地の衣服も簡素だったからはだけた様な像が出土するのは単に、古代人らの日常を表現していたと解釈する方が自然だろう。
そのままユダヤ・キリスト教や土着信仰と混じって、古代ギリシア思想を再興したのが文芸復興。
ルネサンスとは仏語で再生(re- 再び + naissance 誕生)の意、和訳で文芸復興とされるのはギリシア思潮に遡れる古典、つまりヘレニズムを復活させようとする運動だったから。
そこでルネサンス絵画上のエロスは神性の表彰として、たとえ裸像でも人間を超えた神々しい色彩をまとう結果になる。
然るに『ラブライブ!シリーズ』はどうだろう。それに限らず東京民や京都民のオタクアートことサブカルは、東京なら遊郭(今でいう性風俗)とか、京都なら祇園などの売春社会と地続きだ。ラブライブは未成年扱ってんだろうから表面上その種の色彩は目立たないが、本質にある「萌え」は性的発情含む。
つまりラブライブのこの未成年女は、性的表象を媚態としてまとう、江戸・東京文化の文脈で描かれているのが凡そ間違いないだろう。そこにあるのはルネサンス絵画でいうエロスとは全く違う美意識である。典型的美学用語なら「粋」か「萌え」で解釈できるのが、わざとらしく股間にできた窪みである。
九鬼周造『いきの構造』の定義では、粋とは「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」で、まさにこの種の江戸・東京的美意識を、未成年女にまとわせているのがかの絵である。更にはオタク文化にみられる擬似好意感情「萌え」が混じる。
ではなぜ炎上したか? フェミニズムの難癖にすぎないのか?
寧ろ真に問題なのは、東京や京都のオタク文化が未成年少女を性的物化する傾向が孕む反社会性、不埒さなのである。都民や京都民は伝統的に未成年者含む性売買界を背後にもっているので、これに罪恥を感じないため異文化と摩擦がうまれる。
性道徳的に、精神年齢その他の面で判断力の未熟さが想定される未成年者、特に18才未満を性売買罪にかどわかすのは現行法上、売春防止法、性少年健全育成条例などで違法とされる。
即ち『ラブライブ!』ポスター炎上の本質は、女学生の粋・萌え的な性的物化が不道徳な視覚的誘導になりうる点にある。
これに対し、欧米の近現代美術界でも、マネが娼婦の裸体画を聖像群の間に公募展示するとか、クーンズがポルノ女優と自らの性交の様子を彫刻化し展示するとか、エロス表現のある種の変質がみられた。肉体を超え精神的愛、愛国心を経て宇宙全体への愛に至るプラトン思想や神性を無視する点で堕落だった。
村上隆はイギリスのガゴシアン・ギャラリーで漫画的に戯画化した性器彫刻を展示するなど、東京(及び京都)オタク文化の粋・萌えの美意識を海外に輸出しているといっていいだろうが、これは二重の意味で低俗だ。第一に西洋美術のエロスや聖性を無視、第二に江戸東京的な性の物化礼賛に過ぎないからだ。
全く同じ筋で、『異種族レビュアーズ』が東京・京都圏でしか放映されない筈だったが今では京都圏でしか放映されない異文化摩擦、或いは前回の兵庫出身同人誌系作家による『宇崎ちゃんは遊びたい!』ポスター炎上のそれも解釈できる。性産業やオタク文化が公に立派と思われているのは東京・京都が主と。
ではその種の都民・京都民らによる肝心の性の物化、特に未成年の性売買罪、売買春の道徳的是非だが、基本的に多数派は違法な性売買罪に加わっていない(厚労省調査によると、主要先進国最多の日本でも少なくとも86%が過去1年に未経験)。
では一連の都民らによるサブカルはなんなのか。一言でいえば彼ら自身の性の物化文化(最悪の時、慰安婦問題のよう深刻な人権侵害や国際問題に発展した前科がある)を、都外との異文化摩擦を考慮せず素で表現して炎上し、都外の「健全な文化」との落差に焦っていると解釈していいだろう。
最も典型的な客観視をすると、サブカルにみられる東京・京都文化とはある種の退廃主義を含む貧民窟(スラム)文化ともいいかえられよう。都民や京都民自身はそれを誇っているが、外部からみると芸妓に酌され喜んだり、性的接待を受け嬉しがったりしている人々の趣味は下賤と解釈される余地が十分ある。
然るに、都民・京都民一般又は一部は、皇居・御所による中華思想の影響でしばしば自文化中心主義に耽る傾向をもち、なぜ外部の彼らが地方と見下す「健全な文化」からは、未成年の性的物化が下品だとか下衆だとかみなされるかメタ認知できない。異文化理解の知能がないだけでなく、オタクが傲慢すぎる。
全く同じ観点は、既に江戸時代以前からあった。例えば記録に残っているだけでも烈公(徳川斉昭)が江戸の軽佻浮薄に子女を感染させない為と称し国元(水戸)で子育てを試みたり(『徳川慶喜公伝』)、四国方言の「戯作な」が卑猥なという揶揄の文脈で、江戸文化批判を含んでいる。
また『徒然草』226段で京都の俗物文化を逃れ、当時の関東で鎌倉政権が出現する様を描いた琵琶法師について詳述されている。141段では当時の関東人が、京都人の裏表のある風俗を批判している様子も記述される。上田秋成『雨月物語』序文も代表的な、中世文学の美意識による京都文化批判といっていい。
そもそもこれらの例をひくまでもなく、都市の退廃は凡そどの時代、どの地域でもあった。それも原因の一つか永続した都市文化はない。当の古代ギリシア(一代表都市アテナイ)滅亡の前提に、奴隷制のもと暇をもてあました自由市民らが虚栄的生活に耽っていた事実がある。
即ち萌えに媚びる必要ない。