2020年2月24日

表現の質あるいは文化革命論

自分にとって読み易い、わかりやすい表現と、そうでない表現の差は、本質的に主観に依存している。なぜならある人の読解力、理解力や、趣味がその価値づけの主体だからだ。
 したがって、ツイッター民の一部が、赤の他人に「もっと簡単に書け」(単純な中身を短文で)と言っている場合、それは彼らの言語知能水準が他人に不可知である限り、事前に最適化できない。
 例えば3歳児向けの文と、標準を100とした言語性IQが70くらいの18歳の人向けの文と、言語性IQ100で古典文学に読書習慣のある35歳と、言語性IQ120で85歳のジョイス研究者にとって好ましい文は、相当違うわけだ。
 これらを前提に、なおかつ、悪文(醜文)も美文もあると私は思う。
 文体の美は3才に辛うじて読めるそれだろうと漢文素読程度しか中国語に理解力がない日本人にとっての和製の四六駢儷体だろうと、きっと存在する。
 が。低読解力ツイッター民一般の求める短文とは、所謂美文では全然ないのである。

 私がツイッターを1年あまり観察してて、これは酷い悪文家だと思った人は、怒らないでほしいのであるが、三浦瑠璃氏である。まずなにいってるか恐ろしいくらい分からない。当人にもわかってないだろうと思う。
 しかしだ。私は(も)文体マニアみたいなもんなのでそういう文もそれなりに興味深い。
 というのも、彼女の文は、逆に大衆を煙に巻く俗物文の模範だともいえるからである。その高踏的で空疎な言い回しの中には、小説中でいけすかない知識人を演じる御用学者的キャラクターと思えば随分ほほえましいものがある。まあ落合陽一氏と朝生でウーマン村本学歴差別で嘲笑とかは話にならんと思うが。
 であるが、上述したよう、このreadabilityは主観を免れない。だって自分の読解力や趣味が違えば、具体的には三浦女史自身にとっては、彼女の文が一番流麗だと感じられているはずである。まあ僕は謙遜してそれなりの文学ファンだからほかの古典とか作家とくらべられるけれども、それ抜きにして。
 すなわち、ツイッター民の一部の読解力水準とか質なんて事前に予想できない上に、それにあわせる必要も義務もない。しかも根本構造として、自分にとって最美の文体・文長は、必ずしも他人にとってもそうではない。
 ここでは文で考えたがほかの媒体でも基本同じだ。映像でも絵でも、曲でも声でも。

 で。ツイッターでは他人がなにいってこようが、そいつの(阿呆かあらひとがみかその他大勢かの)主観にすぎず、好き勝手自分の好きな文体で好きな長さの文を書きゃいいというこういう結論なのだが、それでもモード(文装)を超えて、あるスタイル(文体)の普遍的美は探求されるべきと私は思う。
 上述のよう、主観と無関係に、「美文」は普遍的に存在するというのが私の文芸論上の立場で、しかもそれは大部分が文体によっていると考える。
 美文を純粋に探求した試みとして、漱石『草枕』『虞美人草』あたりの文体とか、春樹なら『スプートニクの恋人』とか、私は装飾過剰と感じそこまでそうおもわぬが三島文学全般とかが挙げられる。古典だと『新古今和歌集』の修辞技巧に凝った傾向とか、散文なら和語の妙味がある『枕草子』がそれだろう。
 これらは日本文学で、海外のも含めると、シェークスピアとか、李白、杜甫、オマルハイヤーム、ムハンムドとか、これは私的で同意は得られづらいかもしれないがボーヴォワールなんかが入るんだろう。いづれにしても母語に比べ原文の華麗さが分かりづらくはあり、例として精確を期するには和文のがいい。
 ここで書きたいのは、言文一致体の出現後も、飽くまで文語が微妙に残っていて、それのよしあしって声にすると一部欠落する。だから美文家というのは別個にあるのだ。勿論それは瑣末なことで声でも伝わる範囲が主眼なんだろうけど、問題は、美文の追求には文体論中の文語技法がどうしても避けられない。
 僕は、この文語的なものが言語哲学上も結構、長い歴史を伴って議論されてきたのも一応というか当然しっている。
 デリダが代表的で、パロール(ここでは口語)とエクリチュール(文語)の価値転倒をはかろうと、差延とか脱構築とか概念ごと造語していた。一言でいうと文語に特有の優位さもあると。
 で、自分は口語の方は「沈黙は金」というよう、できるだけ寡黙なのが優れていると考えていて、なるだけ誰とも話さない。が文の方では全然そうではない。少なくとも古今東西に類例ない大文豪になろうとはしているし、必然、世界史に傑出すべき大望をもってそれ相応な努力をし尽くしてきたし今後もする。
 ところが、自分がピグとかツイッターで見かけた人達は、どういうわけか文と声を誤認している。多分、言文一致体が生まれた経緯もしらず、両者をみわけていないのだろう。彼らは僕の博覧強記さを認知すると、往々にして誹謗の目的でお喋りなどと侮辱してくる。全くの勘違いで僕は基本誰とも会話しない。
 自分は基本、会話が嫌いだ。それだけでなく口語自体が嫌いだ。噺家なども基本聞かないし、幾ら話術がたくみでも信用しない。
 だが文のよしあしには人一倍というか、命を預けるくらいには敏感である。よって、低読解力ツイッター民らがなんらかの目的で文に難癖してきても、飽くまで冷厳に検討する。
 なぜ自分が文に、多分、全人類史でも上位1位と自分では信じるが、最悪でも3位以内のどこかに入るだけこだわっているかなら、もともと自分は絵に全精神をのっけていたが、求道の途中で、文字も絵として認識できると気づいて、文筆も狭義で(口語除くし広義でない!)画業の一種と考えているからだ。

 では、低読解力ツイッター民らの求める「中身の薄い短文」が、果たして自分の美文目的にどれだけ役立つかだ?
 無論、文の基本としてそれは思想の(音形意味を使った)表現形にすぎないので、中身、つまり意味の方も無視できない。上では文体論(音・形)に限っていたがそれでは不十分といえる。
 第一に、低読解力ツイッター民らは、中身のよしあし、即ち哲学性には特に関心がないのではないかと思われる由があった。彼らの言説をまとめると、短くしろ、簡単にしろ、というばかりで、そしてそれが賢さの証というばかりで、例えば長文で思想を著したプラトンすら彼らにかかれば愚かになってしまう。
 第二に、低読解力ツイッター民らは、文体にも実はなんの関心もなさそうだった。彼らの指摘中で私が大変驚いたのは、なんと前置詞とか修飾語を特に除け、といっているだけでもかなり仰天したが(並の小学生より文章構成力がないのである)、主語や指示代名詞を抜けなど文法を素で理解していなかった。


「やさしい日本語」という青森の言語学教授(佐藤和之ら)が開発した人工言語があって、之は私も勉強し、時にそれなりに意識して書いているんだが、低読解力ツイッター民らはその種の在日・来日外国人らより日本語の読み書き力はないか、最大でも同じくらいの可能性がある。大体小学校3年生級。
 以前からおもってたが、そのうち優秀な移民の方が、その種の日本人愚民を遺伝的に駆逐すると思う。だって母語が日本語で恵まれた条件にあるのに、言語・視力障害除くけど、普通に外国人の方が和文の読み書きできるとなりうる状況がめのまえにあるのだ。というか規定路線で宿命みたく駆逐されると見た。

 僕としては別に、その種のウィンブルドン現象に悲哀を感じるかでいえば、低読解力ツイッター民らと約半日、返信欄でやりとりしてみた感じ、何一つ同情の念は湧かない。彼らは漫画のせりふ級の稚拙な短文しか認知したくない、と叫んでるだけでもわがまま不良かよって小咄で笑えるが、傲慢で救いがない。
 これと逆に、別に難解晦渋な文体をひたすら高度化し続けていた官風漢文学性(例えば和文なら初期の平野啓一郎作品、康煕字典応用した『日蝕』みたいなの)を僕が賞賛していた試しなんて一度だってない。つまり、どっちかといえば実は、僕は低読解力ツイッター民の、史上最大の応援団長だったのである。
 であるが、彼ら低読解力ツイッター民の一部は、僕をなぜか侮辱しまくった。こっちが命懸けてる文体に(上記分析の通り)道理の立たぬ文句つけ、悪意で人格毀損までしまくってきたのだ。
 敵と味方をとりちがえているのは絶対に疑いないにしても、僕も阿呆ではないからそれとすぐわかり適当に流した。
 んで、約2日後(2020年2月22日土曜日深夜に絡まれた)にこうして彼らの口上を全和文史に照らしみたび考察しているが、結局、憐憫にも値しないと思うし、彼らの求める「中身薄い短文」には怨嗟まではいかないがかなりの憎悪の念さえ感じはじめた。だってそんな邪悪な連中が強要する低俗性なのだから。
 最大限慈悲にもどって、彼らの暴威の根源因をみると、文化貧困があるのは凡そ間違いなさそうだ。簡単にいうと貧乏人(又は貧困家庭)なので本も買えないし、マンガしか読めない馬鹿がうじゃうじゃネットにいて、理想的な貧者みたく根が善良ならまだいいもののその逆で、荒らしやっているわけである。
 親鸞以後の日本の大乗系通俗仏教なら、どっかの愛知の寺(浄泉寺)みたく下衆に媚売って金儲けしかねないわけだけど、貴族どころか神めざした僕がそれに呼応なんざするはずもない。全く同じ意味で、同人誌はじめ衆愚文化が東京など大都会中心に感染域を広めてるのが最早現状ではないかと思う。

 じゃあ自分がどうするか?
 自分は飽くまで最善最美の文をめざす。だから低読解力ツイッター民がなんといおうが文装も文体も好きに使うし、中身だって全宇宙の全知的生命未踏の高尚度を素でのりこえようとあらゆる修行を繰り返すだけだろう。
 読解貧者向けには全年齢向けRPGとかも作ってたし。

 ツイッターで、全年齢向け表現を実名アカウントでやるべきか?
 あまりそうは思わない。だって別に読まれようがよまれまいが、僕としては自分の為に書いてるんであって関係ないからだ。単に他人が読んでも役立つ様に、できるだけ読みやすい形で公開してるだけ。要は、荒らしはろくな批評力もない。

 で、この記事の趣旨から逸れるから詳しくは別項に譲るが、文化貧者へ救済措置を私がはかるべきかだ。サブカルって救いがない。書き手が半ば商売目的の外道だし俗受けするほどカネ儲かるんだから自然卑近になる。子供でも家庭か資質がまともなのなんてそんなのにうんざりしかしないだろう。
 元々商業大衆芸術なんて基調がろくでなしなので江戸文化も大坂文化も正直鼻摘みものなんだが、都民や大阪民は自文化中心に判定するし、頭の随分悪い外人もほめちぎるもんだから調子に乗っている。でも、そんなの他人事だから僕としては遠巻きに見て軽蔑し、反面教師にするだけだ。文事も同じである。
 哀れなのは貴種か良家の子で、そういう人らに向け自分は程あれ良識RPG作っていたんだが、それだけやってるとこっちまで幼稚園の先生みたいな脳になってきそうだし中断した。でも必要なのかもしれない。小学校の頃の夢の1つが、糸井重里氏、堀井雄二氏みたいなゲームクリエイターだったのも同目的だ。

 思えば、低読解力ツイッター民の中には高校生らしきのも1匹混じっていた。これは僕としても幾分『平家物語』の熊谷直実的感慨を感じなかったといえば嘘になる。幾ら下等な荒らしだろうが、先ある高校生が荒れ果てたネット砂漠に出入りし、それ以前からかもしれないが卑俗な言動の癖を身につけていた。
 なぜああいう育ちの悪い人間ができてしまうか。当たり前だが文化に主要因があると断じる。特にサブカルが悪いのである。ツイッター民も2chねらーもピグ民もユーチューブコメンターもガールズちゃんねらーもティクトカーもヤフコメ民も基本全部悪いが。子供の成育にとって最悪の国内情報環境だ。
 その国内の最悪媒体さを作っている主な人達も、これまたほぼ都会人である。具体的には東京人とか京阪人。善良又は高潔な物を排除し、卑猥で悪趣味な物を銭絡みで徹底礼賛する。唾棄すべき非道。

 だが、彼らが幾ら罪業に満ちた反社会的衆愚だといっても反省力も期待できないし、自力でガレージ、或いは小さなこの書斎(祖父の設計図によると、もとサンルーム)から文化大革命始めるしかない。