なぜ人は(特に凡愚)は、自分にとってわかり易い程度の言動をとる人を賢いと勘違いし易いか?
これは典型的な詐欺に弱いタイプといっていい。相手の知的水準に合わせ詭弁を弄する相手を、真理を説く人物より賢いと思い込んでしまうのに、「賢い人はわかり易く説く」と妄信しているからだ。
賢愚を仮に客体物とする。例えば地動説(更には地上では私しかまだ認知内にはっきり概念としてもっていないだろうが、銀河流動含む全天体移動説)を知らない人にとって、天動説が中世人の理解度にふさわしい知識だったとする。
そのとき未知の理論は自分の定常的理解の様式から遠いほど分かり辛い。
いわば人の認知内にある賢愚の判定は、常にヘッドライト的なもので、その範囲内でしか道と落とし穴を区別できない。しかしこれは主観的賢愚である。だから目前のヘッドライトが照らしていない理解度の範囲にある真の賢さを、当人はそうと認められない。即ち賢さ一般を当人のわかり易さと勘違いする。
然るに、第三者の理解度は一般に未知である。例えば、逆に学力試験を行って一定知識の有無を前提に話をする場合などは、理解度の前提を過度に低く見積もる必要がなく一種の公理系の役割を果たす。足きりある進学校などで教養系の会話がなりたつのも同様の理屈により、一種の高文脈が使えるからだ。
が一般人を相手取ると、その潜在的多様性が高いほど最大公約数となる最低限度の知識は限定せざるをえず、それ自体にも定義からやり直す必要性がますので低文脈化し、自然に冗長な説明が必要となるだろう。
相手の無知が想定されればされるほどこの作業が煩瑣となり、説明言語も幼稚となるだろう。
つまり、説明の前提となる相手の知識体系とその理解度が事前に信号として伝わっていなければ、又は会話途中で相手側から適宜なその種の情報提供がなければ、そもそも相手にとってわかり易い説明を最適化するのは困難である。
ではなぜ凡愚はこの手間がないと思い込んでいるのか?
彼らは第一に自分の理解度が相手にわかっていない状態を想定するだけの知能がない。それで当然の如く相手が自分の理解度に最適化した説明をできると思い込んでいる。裏返せば、普段から自分と同質の相手(ある事柄について同程度に暗愚なのだろう)と馴れ合って暮らしていて高下文脈を理解していない。
即ちもし説明者が丁寧かつ冗長に何事かを教えてくれているなら、自分の前提知識如何に関わらず低文脈を使ってくれているのだから、相手の負担は重く、感謝して当然なのである。
だが凡愚はこの逆の態度である。上から目線で簡単にいえ等の非道な罵倒は無論、無礼千万働きつつ群れて得々としている。
接客業者に「モンスタークレーマー」と呼ばれる種類の人達も正にこの変奏で、己の物分りが悪いのを棚に上げている馬鹿である。ツイッター民の一部にいる匿名衆愚も同様で、高文脈に話されればついてこれないのは明らかなのに、暗愚だからこそダニクル効果の高慢が激しく観察できる。
では我々はその種の凡愚をどう扱うべきか?
接客業者は低文脈を前提に、ある事柄の説明技術をためていくしかない。例えば通俗的な視聴率稼ぎのYouTuberとかも。だが一般にその種の凡愚と接するのは百害あって一利ないであろう。
よって基本的に我々は高文脈で会話するのがいいのだ。
普段の言葉遣いで、大抵の人は中文脈を使っている。前提知識がないとわかりづらいこと(知的内容かに関わらず内輪受けともいいかえられる)について部外者にも程ほどに分かる表現を用いるなどだ。例えばwから派生したネット俗語で「草」と書かず「笑」と書くとか。若者言葉や方言を標準語にするとか。
しかしこれは普遍的に説明する必要がある場合で、不特定多数が読めるツイッターの様な場では却って不合理でもある。なぜなら上述の俗に言う「クソリプ(糞replyの略で、客観的に下らない誹謗などの返信)」を送ってくる人達にもおおよそ誤解させつつ、辛うじて認知できてしまうからだ。
冒頭に挙げたよう、究極の賢愚(必ずしも他の主観からの客観視という意味ではない)は認知ヘッドライトの外にあり、それは自分の主観的判定を超えているとすると、高文脈を使い可読者を意図して絞っても、自分に理解不能なほど賢い返信その他はどうせ網にかからない。神の言葉は聞けないのである。
では高文脈を使う不合理がどこにあるというのだろう? 自分の文や表現が愚者(多くの場合、悪人を含む)に近づき難いだけでも十分効果があるし、唯でさえ更に高文脈な賢者はそれでも冗長に感じるだろうからだ。
結論としていえるのは、我々は高文脈表現を日頃から用いれば衆愚よけになるという話。
もし凡愚のしがちな勘違い「わかり易さが賢さ」を反面教師とするなら(大抵のサルにとってヒトよりましなサルが賢い様に)、「自分にとって分かり辛い範囲に真の賢さがある」と考えるべきだ。既に分かっている範囲の賢愚は所詮、自分と似た程度の賢愚、即ち小賢小愚でしかない。大賢大愚は想定し難い。
(上では文脈論で解読したが、それを応用すると、例えば英語帝国主義者の傲慢などは高文脈系モンスタークレーマーの一種と解釈できよう。非母語話者にとっての英語は多かれ少なかれ低文脈たらざるをえないが、それをピジン方言(母語話者らにとっての第三言語)とみなさず、自文化中心にみているから)