2020年2月22日

東京商人の悪趣味は反面教師

映画とかマンガとかアニメとかに都内インタビューとかツイッターで「泣けました」とか「泣ける」いってる一般大衆ぶってる人達に前から軽蔑感じていたのだが、その理由が軽く分かった。彼らは自分のストレス解消の為に他人の苦しみを消費していて、物語の中の人達を物化しているのである。
 勿論それらの演劇的なものは虚構なので、根本的に同情していないとしてもまだ理解の範囲だが、仮にしてもその様な前提にすら立っていない人達の共感知能はなんらかの意味で低い。「可哀想だった」とか「辛くてみていられなかった」とかなら分かる。彼らは劇中人物の悲劇を物消費的に無駄遣いしている。
 Mr. Childrenの桜井和寿氏が曲『HERO』の歌詞で「駄目な映画を盛り上げる為に簡単に命が捨てられていく」と書いた。ここで指摘されてるのも同じ傾向で、自分の浄化の為に他人の一生をつかいすてる。東京商人的なものというべきか。実際彼らは新宿の雑踏で青年が倒れてても誰も助けてなかった。
 他人の一生が自分の感情を動かすと彼ら俗物都民らは「エモい」といい、そこでも他人を道具化している。物消費の対象に、赤の他人を含めているというわけだ。
 自分は映画も漫画アニメも基本的に余り好きではないというか殆ど下らぬ低俗メディアと思っているが、その根底にあるのは人の道具化だ。

 人が目的でなければならない、としたのはいわゆる人格主義と呼ばれる立場を表明したカントで、もっと昔なら厩の火事でも人だけ心配した孔子がそうだった。広義で生命全てへの慈しみを主張したのは釈迦だった。
 人の道具化、消費商品化が東京文化の傾向だが、これは偶像嗜癖や人身売買の一種だろう。
 例えば京アニみたいなアニメ会社、或いはVチューバーだのゆるキャラだの作らせてる全国自治体の長ら、その他アイドルや性売買罪している人らはその種の偶像嗜癖・人身売買の延長にあり、決して倫理的・趣味的に誇れる業ではない。寧ろ孔子が現代日本をみたら「後なからん」と俑と同じく難詰したろう。

 できるだけ、偶像嗜癖・偶像崇拝の邪宗(天皇や皇族を教祖、皇祖とされる人格神らを祭神とする神道も勿論全部含む)から離れ、カントのいう「単に道具としてのみならず」の付帯条件もできるだけへらし、「人間を目的として扱う」のがあるべき社会であり、風習だ。都内商人大衆は趣味の反面教師である。