2020年2月13日

なぜ少子化が望ましいか

過去の人類の中にうまれた全ての賢者、人格者の中で、最も高度な段階に至っていたのは、俗に民族・国名から釈迦(シャカ)とか、サンスクリット語で悟った人という意味の敬称ブッダといわれている、本名ガウタマ・シッダールタという人ではないかと自分のこれまでの勉学の範囲でも思う。
 生前著作を残さなかったガウタマだが、死後に弟子がまとめた数ある経典のうち、この人の哲学を最もよく伝えているのは『ダンマパダ』(『ブッダの真理のことば、感興のことば』中村元訳、岩波文庫に所蔵)ではないかと思う。
 要するにガウタマ思想は、この世は不快(サンスクリット語だとドゥッカ、dukkha。漢訳で「苦」)に満ちているので、生まれるのは親の暗愚の証と考える。一旦生まれてしまえば自殺するのも不快に過ぎず、寧ろ無欲(nirvana。漢訳で「涅槃」)にとどまり、子を儲けず乞食して自然死していくべしという。
 数多いた人類の哲人の中でも、聖者といわれる段階以上に至っていた人達の中には現世を否定するタイプの考え方は色々あった。例えばイエスやムハンムドもその一種だったが、ガウタマのそれは来世を方便としてしか語っていない点が違う。
 今日の言い方なら、遺伝子や文化素(模倣子、ミーム)が次世代に受け継がれるのを前提に、生き残りを否定するのがガウタマの考え方だ。イエスもムハンムドも人類には自己犠牲を要求するが、ガウタマは必ずしもそうでない。孔子やアリストテレスでいう中庸と同じ中道概念で快苦の両極を避けよという。

 なぜガウタマの方が、上述した聖人級以上の知恵に到達していたといってもいいイエス、ムハンムド、孔子、アリストテレスらよりまとめて賢いと自分が思うかだが、のちの研究者が「解脱」と呼んだ概念、ガウタマ自身の言い方なら「再び母体に宿らない」事、つまり生殖の否定が理想視されている点である。
 性本能はドーキンスが指摘したよう元々、利己性に応じて続いている。我々が性嫌悪に陥る第一原因が、その種の野蛮さに飽き飽きするからである。逆に、性依存症になる人々も、自分に性的魅力なり性欲が有り余りすぎていたが故に、その利己性の連鎖にとりこになっている。
 親鸞はガウタマ思想を改変し、悪人正機説と呼ばれる独自の考え方を織り込んで、生殖を肯定した。親鸞の影響を受けた日本仏教は解脱を目的から外しはじめた。したがって親鸞以後の日本仏教は、自分の知る限りガウタマの教えを断章取義した派生物に過ぎない。
 ガウタマ自身は生殖を否定していたのだ。

 生存競争が不快の原因なのだから、その競争を無欲によって極力避けるだけでなく、生まれてくる事そのもの、すなわち生殖を否定すれば再び、不快が生じる事はない。これがガウタマの立場である。
 ニーチェはガウタマのこの点を虚無主義と批判し、苦痛を物ともしない絶対強者の超人を目指せと説いた。
 で、自分はニーチェのその考え方が正しいか検討したのだが、結局、次の結論を得た。
 生まれながら人は違うのでなんらかの点で強いのもそうでないのもいる。しかも強者がどれほど勝ってもライオンのオスのよういずれ別のライオンに負ける。ニーチェはこの点で生存競争を克服できていないのである。
 ということは、過去の数多の賢者らの中でも、人生観についてガウタマの洞察の正しさを否定しきれた人はいないことになり、自己犠牲の一つの究極が自己の生殖の否定なのは変わらない。人間界に不快が多いのは利己的な人が他害行動をするからなので、仏教国の一つの理想は自然死志願者らの集まりである。
 家出したガウタマが王子だったシャカ(シャーキヤ)国は、コーサラ国にその後滅ぼされるが、第一、当時の彼の目には王国の未来の趨勢は明らかだったのかもしれない。
 皇族が虚栄に耽る格差社会の令和日本とほぼ同じと考えれば、少し状況が見通せれば、没落は確定済みとなっていたのかもしれない。

 自分は更にガウタマの考えの是非を検討した。特に矛盾しているのが性欲の全否定なわけだが、そもそも生殖器が性ホルモンを出している限り、性欲を否定するのは自然に反する。即ち去勢なしに性欲を否定する事は、大脳新皮質による旧皮質への一種の抑圧の経過であり、それを仏教徒は修行といっていた。
 ある秋田の仏教僧にこの部分について尋ねたら、「加齢すれば自然に性欲はなくなる」と答えた。晩年の大江健三郎も同じ事を言っていたが、これらは若いうちの修行を否定できない。孔子の君子三戒でも同じ部分が訓戒されている。
 つまり最善の人格性は、若い頃に生殖を否定していた習性の問題なのだ。
 性ホルモンの分泌量も若い頃に多い為、この修行経過にできるだけ生殖につながる行動を否定すれば、将来的に上品な人柄ができあがるというわけだ。去勢という身体改造が苦痛や恐怖を伴うなら、単なる意識的な性の否定程度でも十分な出来になりうるというほかない。
 こうして、人として望める最善さは、上品さの程度なのである。上品、中品、下品とはもともと仏教語で悟り方の意味であり、最も上品な人は上述した様な洞察を得て、生き残りを否定している。少子化で困るといった考えは、所詮、天皇の強欲に実質的な奴隷階級である国民が洗脳されているからにすぎない。