2020年2月18日

最高善という自己犠牲願望

脳の肥大化したサル、エイプの延長に過ぎないヒトの命で、神という空想上の全知に日々近づこうとする努力に一体なんの意味があったのか?
 旧皮質に本能を維持したままそうしたところで、単に世人から聖者のようみられる為の演技が板につくだけ、孔子のいう従心に至るだけ。自尊心の補完。良心の快。
 アリストテレスは純粋に理論的な存在、観想のみを行う存在が神と定義していた。ではこの意味での哲学者が最も神性に近づけるとして、一体それがなんだというのだろう?
 尤もヒト自体になにか重要さがあるわけではない。サルの変種の観察でしかない。だからこの意味での神性の方がまだましなのだが。

 ガウタマとアリストテレスがもし対話したとして、彼らはほぼ類似の幸福観をもっていたといえるだろう。彼らは理論家としての人生が至上だと考えていた。つまり哲学者タイプだった。確かに理屈の中に篭もる限りそれは永遠にできるゲームかもしれない。言葉の組み合わせを高度化し続けるだけなのだから。
 だが一体その言語の新たな組み合わせがなんだというのか? もし哲学できるAIができたら、その方が人より高尚な言語を用いうるのではないか?
 より利他性の高い判断を積み重ねる言語の用法を深層学習させる。過去全ての哲学をのりこえる発想も、類似傾向のくみあわせで生み出せるかもしれない。

 また私は次の事も知った。そもそもPC上で再現できるあらゆる情報は、言語の順列である。プログラミング言語を紐解けば当然そうなる。視聴覚情報の殆どもこの領域内にあるのだから、人はやがて芸術AIによって充足する甘美な表現を得るだろう。ディープフェイクの作る淫靡なポルノから至上の聖言まで。
 勿論、その種の表現はただの道具であり、目的でない事は明らかだろう。ヒトの作ったAIがヒトを超えた目的とは、そもそも作り手の矛盾だからだ。
 ここから逆算すると、芸術も、言語芸術の一種というべき哲学、即ち全ての学問も、所詮、ヒトにとっての道具でしかありえない。ヒトの最後の役割は何か?

 道徳的に生きる事は、本能の利己性を制御し、少なくとも自己犠牲を最高段階として、より善き人を利する。
 我々は悪人が幸を得ると不快に思い、転落を願う。しかし善人が不幸のままだと残念に感じ、悲劇の死を遂げると神格化する。このとき道徳は、ある人に認知できる最大の利他性によっている。
 哲学も、それを表現したと解釈できるどの芸術も、或いはそれらを流通させる経済、それらの偏りを調整する政治などの社会活動全般が、ある人の道徳を目的にしているといっていい。ここでいう道徳は、AIに補完されないのではないか? 道徳相対主義を考慮しても、人が生きるのは道徳への奉仕ではないか?
 はじめ言葉の暴走にすぎなかったはず道徳が、やがて脳を乗っ取り、我々の生や死に意味づけする。
 自分の言語知能で考えるより、他人に意味づけされた方が気楽だという人々がいて、そういう人達は特定の宗教を信じている。嘗ての哲人がうみだした思想を教条化する信徒として、教祖に洗脳された人達。
 本当の所は、生も死も特に意味などもっていない。命の起源として海の中にいた藍藻だの、有機物を構成した炭素循環だのにどんな意味があったというのか。ただの自然現象、くみあわせの偶然だ。
 脳細胞が言葉の羅列を特定の順列にしたとき立ち上がる意味の質感に、目的意識を織り込んだのが道徳だ。

 結局、我々は、というべきか、人の相当数は、道徳なる妄想に囚われがちな種族で、特に良心の満足を突き詰めると必ず自己犠牲に辿りつく。あらゆる快楽でもこの快は致死的で毒性が強いのだが、救済あるいは名誉とのラベルをつけられていたりする。サイコパスは良心の認知力が低くこの点で自由なのだが。
 神性とか仏性とか悟性とか理性とか知性とか、色々な哲学用語で呼び習わしてきたものの正体は、端的にまとめればなんらかの道徳妄想だったといってもいいだろう。さらにいえば良心そのものが或る心の妄念なのである。しかし、我々は一般にそれを教育や生育過程で知らずしらず身につけ、鍛えようとする。
 確かに、良心的な人間がそうでない人間より尊い。それは自分にとってそういうお人よしが自己犠牲してくれた方がありがたいからにすぎないのだが。だから良心を鍛える事は呪われた仕業である。文明と称する自意識過剰の野卑で利己的な集団は、構成員らの恣意に悩んでいて、敬虔な少数者が希少である。
 冒頭にもどる。アリストテレスのいう神性とはなんだったのか? それがもし全徳という意味で最高の良心、すなわち最高善の別名であったなら、アステカ帝国で心臓を彼らの神の祭壇に捧げていた少年少女の様なものにすぎないのではないか?
 競争的な本能と同様に、良心も呪われているのではないか?
 これが真実なら、中庸や中道などの言い方で、平凡な人間が次善化されてしまいかねないが、道徳が極端に優れた人は単に聖人で模範的なままだ。正確には、良心は聖人自身にとっての呪縛だといってもいい。

 縄文時代以前の方が徳の面ではより文明的だった。この点で拝金主義は原始共産制に劣っている。
 今日の資本主義化した社会で利他的に振舞うのは、当然ながら極貧になる事を意味している。この面でも、現代文明は聖人君子を二重に呪っている。最善者が良心に基づき行動せざるをえず、競争で他人からカネを奪えないのが第一の呪い。そして清貧を飽くまで辱める皇族や成金らの存在が第二の呪い。
 神性は幻想にして虚妄で、良心もまた互いにカネを貪りあう資本主義集団の中ではほぼ実用的効果をもっていない。
 そうして拝金観が新たな道徳の顔をして、人々の上に振りまかれる。だが梅岩による町人倫理の時点から、いやもっと遡れば米経済下にあった弥生人移民の頃から同じだったのだ、それは。

 自分にいえるのは、良心に基づいて生きる事は、利己的な人達、いいかえれば他人を自分の本能に利用する邪心をもった人達が混じっている集団中では、常に困難だったのだ。天皇が全国民を奴隷化し洗脳している時、その専権を除く力を得て打倒するのは、ドラゴンクエストの勇者が竜王を倒すより難しい。
 最高善は到達し難い。自己犠牲をはかるのは本能に逆らうからだ。だがそれは当為だ。
 神性、すなわち神らしさとは自分の本能的要素をのりこえられた程による資質なのだから、本質からいっても遺伝しえない。ある個体が繁殖する時点で本能に堕しているからだ。道徳はミームの遺伝子への勝利度である。
(もし道徳が妄想にすぎないなら、いや、そうなのだが、一体そんな妄想の為に命を犠牲にする意味がどこにあるというのだ? 自分で落とし前をつけているだけ。他人からの名声など最初から意味をもっていないし、自己犠牲したところで利己的で卑しい人々は歯牙にもかけずお前を踏みにじるだけだろうに)