仏陀がこの世は悪い穴、dukkhaだといっていたが、確かに自分もそう思う。個体は食事はじめ適応行動を再獲得し続けないと生存すらままならない。しかも資本主義文明は日々、我意で他人を貪ろうと躍起なので競争がますます激しくなる一方で、少しも救いに繋がらない。自殺で解脱した人々を責められない。
この世に居残った人々のうちでも、鈍感かつ性悪で他者理解に欠けた人ほど利己のままに生きられる為、一見楽そうにみえる。しかし社会的地位が高いとされる強欲で傲慢な人々だけでなく、刑務所内に多いのもこのタイプである。
然るに、そういった人達が模範に足るわけではない。寧ろ反面教師である。
勿論、自称普通の中流が全ての面に優るわけではない。単に彼らは傑出した長所がないだけだ。
この世で最も模範に足るのは、慈悲深く、他者理解に長けているだけでなく、技芸や知識の面でも他に優り、できるだけ多くの人々にできるだけ質高く利他的に振舞える人である。彼らは一般に聖者といわれる。
人々にとって貴重で、しかも徳の面で公益があるのは、その種の聖者である。
自然科学から道徳は導き出せない。道徳は人為だからだ。科学者と呼ばれるほど個別の知識に長じた専門家らに高い道徳は期待できないので、科学者が人間界のあらゆる事情について正しい判断ができると思い込んではならない。
寧ろ、集団内の聖者の質が高くその量が多いほど或る社会が生きていくに値する。文明とは、文化相対主義を超え、その種の異文化理解を含む聖者を育む装置である。
逆に地域ごとに邪悪な人々、俗人が多いほどその社会は公害であり、不幸をかこつだけでなく、間接的に生きるに値せず自殺もふえる筈だ。
死がこの俗人だらけの生きづらい星からの最終的な救いだとしても、少なくとも俗人らも性欲などで繁殖してしまうため、できるのは生き残った人々にとって少なくとも生きるに値する文明を作っておく設計である。
それは恒常的に知識や道徳の水準を上げ続け、自らの聖性を高める生き方だ。
他人の聖性を高める工夫は、啓蒙の手段としての芸術が主に担ってきた。より高度な技術でよりよい趣味を啓発するのは、総じて、人々の感覚を通じより深い道徳を認知させる目的である。
情報伝達の洗練度が芸術性であり、より優れた文明では技によって、よりたやすくより高い聖性が理解できるだろう。