芸術家の世界は、メディアや美術館と組んで自己の喧伝をし、批評家や美術史家を味方につけ、作品や活動に箔をつけ世間を騙す人達が主流派ぶっている。そしてどの時代でもその種のサロン作家がいたし今後も恐らくいるだろう。
ソクラテスやイエスが偶像崇拝を批判したとして、当時の民衆は多神教を続けたかったかもしれない。それは私が天皇の広めた神道の邪教加減についていかに批判しても、現代日本の衆愚にとって、その邪教の中で生きていくのが自然で、彼ら自身の暗愚さに調度よいと考えている以上、今なお同じである。
今も思い出せるが、今から1年ほど前、愛知トリエンナーレ2019で或る芸術監督がスキャンダリズムを狙い明らかに不公平な男女比で展覧会を企図し、ツイッター上で芸術関係者らが非難していた時。当時の私はまだツイッターに参加し始めで色々な使い方の実験をしていたので、積極的に話題に加わってみた。
その際、ある匿名の雑魚が私を侮辱した。曰く「お前は誰だよw」、つまり某芸術監督になっていた自由記者が有名人なので、名前の売れていない人間は黙れというわけだ。
その後、私は呆れて場を離れ、議論の渦中に関わらないことにしたが、やはりというべきか某監督は唱道者ともども大炎上していた。
ここから私が学んだのは、世人一般は意見の正否など少しも関心がないのである。彼らに認知できるのは有名無名とか、世俗的肩書きの立派さ程度で、孔子の「人を見て言を廃せず」など遥か天上界の徳目なので、学閥とか地位とかで180度態度を変える。
福沢諭吉が嘆いた卑屈な愚民の態度と同じだ。
俗界で人気を博しているいかなる作家についても全く同じ現象があてはまる。重要なのは聖性の次元だけだ。
尤もその種の純粋に学術的な物の認知ができる人など、人類の中でも数えるほどしかいないので、優れた聖性の持ち主であればあるほど同時代でも後世でも孤高でいるしかない。