2020年2月18日

自賛引用リツイート勢は政略・知性の両面で過度に傲慢な失敗例説

自分を褒める内容を自画自賛でリツイートし直す人達が全く理解できなかったが(先ず謙虚の対極にある行動だし、自分なら無闇に褒められたら寧ろ己の過ちにより注意深くこそなれ決して手放しで自尊心に浸れないものだから)、自己愛性のmoral grandstanding(道徳スタンドプレー)と考えると納得いく。
(参考:Joshua B. Grubbsらの"Moral grandstanding in public discourse: Status-seeking motives as a potential explanatory mechanism in predicting conflict", 2019年
https://yuchrszk.blogspot.com/2020/01/blog-post_11.html

 彼らは己の無謬さを前提に、他人が己を賞賛していると更に別の他人へ誇示する事で、自尊心を補完できると(恐らく無意識に)感じ、その種の第三者の目には不快でしかないリツイートを連打するらしい。自分とは大分違う脳の持ち主達だ。
 そう考えると、名声を求めている類の俗物度が高いほど、自賛リツイートの頻度も高い様に思う。
 ではなぜ自分が「なぜこの人達は他人の目には醜悪でしかない自賛の引用を繰り返すのか?」と感じてきたかだが、自分にはその種の俗物性が低い為に、彼らの行動動機の内容、思考回路が理解し難いのだ。

 では自分がどういう内容を求めているかだが、先ずよい意味で自分の意見に批評的・批判的な意見である。
 といっても当然ながら誹謗中傷の類ではなく、成程と思う様な学術的超克があって、しかも単に、私の尊厳を貶めるサイコパス的荒らしの悪意でなく、知徳を問う善意で語られている類のものである。

 今までその種の返信はみたことがなく、逆に謎の礼賛とムイミな誹謗が多すぎたので時を浪費しないため通知をきることにしたらツイッターが使える様になった。ツイッターに学術的良識、共知 conscienceをもっている人がまれにいても返信してこないか、そもそも私の意見に興味がないか、いずれかだろう。
 一度だけ、自分がマルクス解釈を引用したらその種の言説をマルクス自身はしていないといった人がいたので、原典辿ったら、やはりマルクス自身がしていた。それで呆れてしまい、学術的知性の劣る人達が適当な文句をつけて回っている場所なのだと気づいた。当然といえば当然だが、2ch級民度だったのだ。
 で、もしよい意味で批評的・批判的・criticalな返信なり、引用リツイート(こちらは自分のフォロワーに晒し者にする悪意での反論が多いのでより悪質だと思っている)があっても、自分はそれなら公益の為リツイートしてもいいんだけど、不思議な事にというかそういう面白い通知は基本的にないのである。

 しかし、上記した道徳スタンドプレー派は、元々自己愛の強いnarcissistなのもまた確かだろうし、批判的返信をみたら気分を悪くするだけなのかもしれない。
 実はきのうまた実験しようと思って通知欄をつけてみたのだが、なんか褒めてるぽいのが出て、自分としては相当困る感じがした。
 なぜなら、先ず褒めるという行動はその自分の言動がその人の私益、又はなんらかの公益に該当する際の賞美と基本解釈できるが、実際には社会的策略で褒めごろしとか皮肉とか色々な派生パターンがある。謙虚なほど褒められると後者に注意深くならざるをえない。自分は昔からそういう性格なのが確かだ。
 例えば小学校のとき、自転車競技会とかいうのが自分の地域にあるんだがそこで優勝して、表彰台で賞状貰ってから振り返って会場の人らに無意識に頭下げたんだが、これも同じ感覚で、大体その人達を踏みのけたんだから感謝すべきなのは他の競合者へだ。降りてから皆に頭下げる必要ないと大人にいわれた。
 すなわち、毀誉褒貶は所詮、地位を巡る政治ゲームでしかない。政治は政治で理解できるとして。
 意見の客観的是非を人格ときりはなし議論するのが学術的知性で、自分は多分そちらに主な関心があるのだが、ツイッター上に溢れているのは先ずただの荒らしで、自見に固執か、悪意で混乱させたいだけだ。

 冒頭の「自賛引用リツイート勢」はインフルエンサーが多い。自己愛が激しいのに(日本の様な固定度の高い定常成員の集団で)政治的知能に劣るほど、自己主張が過度に激しかったり、他人を踏みのけて平気でいたりするのは、彼らが程あれ悪質なサイコパスに近い、と示しているに過ぎない様に思う。
 一般論として、謙虚さとは定常成員の中で一定以上の地位を得る政略であり、性格上の適応である。いわゆる出る杭は打たれる、で固定メンバー間に利害関係が発生していれば、利益独占し易い傲慢な成員からねたみを買い、潰される。
 しかし知的謙虚さはこれではなく、自見への自己批判的な留保である。
 科学が最も典型的だが、どの仮説にも反証可能性が担保されていなければならないし、或る知識段階で、特定の仮説を否定する根拠が不足している点での信憑性しか主張できない。だから科学的知性をもっていれば自見を強く主張できない筈で、ニュートンの例のよう生前は無限の疑義の中にあらざるをえない。

 自分が言いたいのは、「自賛引用リツイート勢」は、この2つの謙虚さ、政治的謙虚と科学的謙虚の2面で共に失敗例である。私個人は彼らを反面教師にしているし、その通りの結果になるだろう。ツイッター政治を長期でみてアダムスミス『道徳感情論』式に共感を得る必要があり、自見の吟味も必要だから。