2020年2月18日

愚かさを知るとは錯誤型の収集

愚かさの中身、つまり過ち方は予想外の場合が多く、理解し難い。そもそもその種の誤りをする前提条件が不明だったりもする(定式的に論理学的でなかったり、誤った前提を置いていたり)。
 しかし、既により客観的正解に近い見解を自分がもっているとき、ある見解が愚かだという形式だけが分かる。
 この意味で愚かさの型(パターン)を調べること、つまり錯誤型の認識収集についてしか、愚かさを理解できた、とはいえない。愚かさ自体は理解できない。
 数学教師などにこの認識は役立つ。よくある誤りの様なQ&Aパターン集をもっていると、より滑らかに生徒へ、典型的思考を教えられるからだ。

 海千山千といい、小人は下達すというが、愚かさの理解度とは上述の枠組みのため、ありうる錯誤型という形式の知識量を超えない。いいかえると、愚かな人の誤り易さに一定の型がみいだせないとき、単純にその人の間違いは理解し難い。が一つ新たな例外をうみだす点で、愚かさは文化史上に意味をもつ。
 これと逆に、特定の賢さは収束進化している節があるが、それは特に自然科学の様な分野で明らかで、自然の分析についてはより正しい見解があるだけで解釈の余地は無限にはないからだろう。裏返せば、愚かさは拡散進化する体系なのだろう。
 が賢さ全てが収束的ではない。独創もありより複合的である。
 深層学習する様なAIが、既存の科学知識を習得した場合、その収束的見解は大抵の愚かな人類を超えている筈だ。しかしそれ以上の発見について必ずしもそうでない――最もありうるわけは、偶然の誤りが異なる発想を呼ぶことがあるからだ。この意味で賢さの一部には、愚かさの形式的な応用余地がある。
 例えばよく知られている例として、ニュートンの前で偶然林檎が落ちて引力の発想に繋がった説話とか(真偽は不明)、単に日本人の例だけでも田中耕一、白川英樹、江崎玲於奈らは偶然の誤りから重要な発見をしたことになっている
 つまり愚かさには意外性という意味がある。
 なぜ人類に愚かな人達が斯くも多いか。IQだけでみてもかなりのばらつきがあるまま集団が残るのは、生存上、愚かな方が有利な場面があるだけではないだろう。特にミーム界で、賢さの一部に含まれる形式的誤りには創造を促す効果がある点を見逃せない。突然変異のよう予想外のくみあわせを生じ易いのだ。冒頭に挙げた「愚かさの形式」を調べること、つまり錯誤型の収集には、もし自分に賢さと呼べる点があるなら、寧ろその発想に柔軟性をもたせる効果がありうると考えるべきだろう。無論愚かさは誤りに繋がるが、例えば喜劇のようそのエラー値を滑稽さや風刺など、なんらかの有意価値に繋げる営みもある。

 私が示しておきたかったのは次のことだ。
 私は福沢諭吉の記述に学び海千山千、つまり全知を志した。しかし愚かさ自体は知れないと最近悟った。拡散構造をもつ愚かさにとって、できるのは錯誤型の収集だけだからだ。しかも愚かさを知るのは賢さを知るのに比べ価値が一等低い。基本は反例にすぎない。
 また釈迦は「愚かな者やその言葉を見聞きするな」と『ウダーナヴァルガ』25:24で述べている。つまり釈迦は福沢と違って愚かさの形式を知る必要はないと考えていた。孔子が『論語』でいう「異端を攻めるは害のみ」とほぼ同質の意見だろう。
 全知に必要なのは無限の錯誤型の効率的収集だけなのだろう。