2007年1月18日

学校の程度

程度の低い学校へ通うくらいなら独学の方がどれだけましなものか。

自伝

次第に、若いながら私は人間性の中に一点の希望を見つけた。それは賢さの種だった。私は社会分子のほんの一部にではあるが、至当の知能を持つ人類を発見した。彼らは秀才の類だった。彼らは、混雑した大衆の中からでも密かに育ち、有識という芽を出していた。私は彼らの少しずつの生育の中に、地獄での蜘蛛の糸を見つけたようだった。しかし安心はできなかった。一人が油断すれば直ぐ様、その社会上流の風紀は崩れてしまうほど微々たる勢力でしかなかったからだ。私は手記を部分公開しなければならなくなった。きっと彼らのうちには天国へ関心のある者も居る。私の手紙は多く、彼らにとっての切符となる筈だ。

自伝

だが、君を育み得た暫時最良の体制が社会であることも事実だ。理想の幸福でさえ人間なのだ。
 私は古代ギリシャの哲人らが閑暇を利用して思索したことを餓死、漂流、自閉、社会不適合、どの語彙にも当てはめないだろう。

対処

この世で美徳を持つ連中と好んで付き合うが良い。彼らは君の献身に応じて進んで利益を恵んでくれるだろう。

自伝

少ないながらしばしば避け難い理由で奴らと協働しなければならなかったときより不幸な瞬間はなかった。私は猿と神との間に埋め難い格差を見いだして苦悩した。

2007年1月16日

文芸論

文芸に正解はない。啓蒙があるだけ。

都市観

芸術という理念の目的が文明環境の伝播にあるのは疑いづらい。
 われわれは更に趣味という方便を通じてこの数奇な目的を追求する。人工的合理性を淘汰式に捻出するべくわれわれは趣味を制作する。美意識が趣味を規定する。審美はこの批判の用語。感性が導くところの終局は常に、人工における普遍的合理の批判にある。
 崇高が芸術の最終表現なのは、上記の筋に則り、われわれを超えて無限なもの、つまり自然の等価概念たる文明の形相的実現だから。
 芸術の大きな価値は生活の逆規定を為すところに由る。ゆえ根本的には不用ならず、却って他のあらゆる用途へさえ模式を与える。
 文化とはある時代の社会慣習だから、むしろ芸術自体の創発性に反抗する。もし合理批判でない工芸があれば、それは骨董品と呼ばれる。文化財はいずれ芸術ではなく、骨董の保存という慣習に過ぎない。
 君が以上の論旨を悉く理解すれば、絶えず建設破格されていく都市運動の中にしか究極の宝をみいださないだろう。
 傑作は時代象徴としての運命に終始する丈。そして完成品という理念が文明の内部ではすべて幻影であることを認知すれば、君を取り囲む現実性の様相においてのみ、理想を漸進させる継起を確定する様。言い換えれば都市建設を以て芸術の奥義とみなすがいい。

2007年1月15日

民族と文化

「民族闘争」は世界共和国へ至る最初の段階である。文化的互譲だけがこの過度に対する沈静の薬を果たす。

2007年1月13日

業績

人は業績に関する限り、どれほど早熟でも過ぎはしない。というのは分野の探求は尽きる事がないばかりか、異なる世界へ挑戦する限り成熟も無限だから。

2007年1月12日

悪人

悪人は早速機械に交替されねばならない。

退廃

快苦の両極を択ぶが故に退廃する。

猿

猿とは会話する価値がない。

衆愚

彼らを幼児視する以外に賢士の世に処する仕方はない。彼らにはいつ如何なる場面と云えど、より効率よく方便を説かぬべきではない。

舞台設定

同じ条件で同じ役柄を繰り返す愚はない。文明が普遍的建設の基礎たるべきは後世人物らのより優美な劇を誘発するため。また彼ら劇団一員の目的も宇宙文明の完全さへの服従。

天才

天才は相対的な理念。それは他の人類が同時代の範囲では如何にしようと追いつけない傑出した能力を意味するにすぎない。蓋し、その才質が人類の範囲を超えることは永久にない。よって万能の天才と云えど神格は当為たる已。
 人間は競争を天才擁籃の方策として自然から一部採用する。彼らの究極の文明社会においてさえ、決して種内闘争が暫時階級の姿を取って現れない事はない。よって社会主義とは調整理念であり最後まで配分的事実にはならない。我々は同類を利用価値に関する絶対敵と見なす人物を必ずしも非難し得ない。彼は上記の筋書きを辿るごく自然な人間。智恵、倫理、技能といった諸能力でさえ搾取以外のどんな目的も見出せないが、その結果が文化的に波及するにあたって精神の計画が福祉という形で成功したのを我々は観察する。

2007年1月11日

自伝

Power eliteらの妄惑が愚衆政への片道切符であるのは知れている。事情私の多大な使命は民衆内への主体性の回復にあった。

 特に報道という手段は彼らへの最善の献身法であった。それは固有の一方通行性によって害を遮断し薬を投射するに好都合な便宜を有したのである。私は娯楽の合間に真理を巧妙に差し加えて彼らへ教養を与える才覚を絶えず鍛えた。

芸能論

君は自己神格化の絶対的な経過を通じてしか真に芸能の中央を極める事はできないだろう。現世演技の最高の表現は神的崇高性となる。

善導について

君が善導の生業に着くだけ哲学に優れた個性ならますます政治的地位は邪魔になる。というのは先導力とは建築性だからであり、文明之啓蒙を通じてしか真に指揮を執る訳にはいかないからだ。もしこれを避ければ単に近代以前の社会体制へ退行するしかなくなる。我々は達見を通してのみ大衆を正しく導くことができる。それが故に言論の解放的風紀の養成と人権の再生は体制常なる命令。
 もし具体的政権を通じて現時的政治を追求してもあらゆる善導は失敗もしくは不良燃焼にとどまらざるをえない。これは民主制の限界。すべて民主的政とは失敗の重奏でしかない。この様な問題へは先見の明なき中等の種類に積極関わらせるのが社会善に違いない。ならば究極の先導点は意見の極限的洗練に置かれねばならない。そしてそのような意見を報道する行為を以て社会体制を徐々に転回させる他どんな最良の大衆啓発もない。

学

無学どもへ如何なる教育と謂えど善である。

自伝

私は「盗み」を働いては居ない。人は解脱しても世間に身を処するかぎり堕落する。職業は分業的にしかあり得ない。

2007年1月9日

自然精神

自然精神は人間の遊戯的本性に応じて限りなく創造されていくような計画。
 我々は自律した主体としての人間精神がかの究極目的と益々一致するのを文明の建設に連れて観るにつけ、最高の実在としての精神を万世至上の理念と見なさぬわけにはいかない。
 又、究極原因としての神なる仮称についても、精神の種内現象に由来するのは明らかだ。それは当為たる最適化への方便。
 例え夢想の中で生化学研究の終局が来た日にも、我々は精神の実在を世界現象以外のいかなる隙間にも見いだせないだろう。
 思えば精神という概念は決して純粋理性の範囲に存在する事物ではない。
 結局、我々にとって運命の根源に遡ることだけが、その理念の内容をよりよく知るための道だ。かの努力のため今日に最も普通に使われている名詞が哲学。悠に、人間が理想のため生きる行為はみな本質的にこの哲学の姿。
 宇宙と文明は最良の点において調和する。人間精神の再創造はその自然精神の遊戯人たる本性。

2007年1月7日

文明の救済性

全知全能の神という仮定は道徳律の究極目的を定めるにあたり是非とも必要だった。実際カントはそうする事で彼の形而上学の体系を完成させた。
 今日我々はこの神格という理念を、単なる人格神という偶像に捧げることはできない。大衆の理解にとってはいざ知らず、形而上学の進展は主体の他の言語概念を隈なく相対化した。
 我々の信奉する理性は究極目的としての神格を形而上の命題と考える。そして全自然の解明が終わる日が来ても形而下にこの対象が姿をあらわすことは決してない。
 勿論、それは自然外の仮象だからであり、我々の理性が自ら理想する定言命令を実践する限りにおける研究対象だから。
 我々は後々に至ってさえ、哲学者の中に知恵の不完全な発表を観るに留まるだろう。にも関わらず、理想的にしか現実における神格の仮設は不可能である。
 人間は啓蒙をこの世の最高善と見なすだけにはあまねく倫理的に産まれついた、と敢えて言うことは人類上の正義の原則へ些かも劣るものではない。なぜなら彼らの文明は道徳的義務へ奉仕する以外にはいかなる意志をも持たないような主体についてさえ、知恵の求道的獲得および相互伝承への献身を社会の内部で追求させる他には、実践困難な命令を与えるほど不条理ではない。
 我々は義務の遂行を自由の範囲に定義する道徳的批判によってのみ、あらゆる想定にまつわる絶対善行の推究を個人の自律による判断の可否へいなし、従って社会的に相対化すると共にそうして多分の凡庸な人物たちへ時に応じて啓蒙の機会と事後合理化による救済の余地を与える。

2007年1月6日

歌唱術及び芸能論

歌唱なる音楽形式の限界は固有の芸能性にある。その内訳は結局、歌手の声音という楽器は個性の所残である他ないからだ。歌唱の音楽性はどれほど人間味に溢れた傑物による表現に依るのであれつまりは個性の自己顕示である他ない。従っていかなる天才による歌唱といえど最後まで芸術的な普遍性を獲得することはないだろう。我々は虫や獣の類が求愛のために歌を吟う場合をよく観るし、例えいかなる楽器類や手法を用いていたにせよ、人間が日々大衆の面前で飾り立てつつやっていることがそれとさほど変わらない事実を観察するにつけ、歌手という自称・芸術家へは冷めてなおぬるい感慨しか抱き得ない自分に気づくに違いない。そして彼ら動物側の歌曲はしばしば下手な歌手より高尚な趣に満ちている、というのは言葉を知らない彼らは意味を持たない純粋音楽へ興じるにはより適した環境にいるからだ。
 夏休みの鈴虫の風流な合唱とか、曙に合わせて毎日開かれるスズメと鶏の賑やかな演奏とか、深い森の奥でのカッコーやミミズクの寂しげな演出とかは殆どの人にとって好みに合わないうるさい流行歌、よりは普遍性を持っていると、感じられるかもしれない。
 実際、流行の文学性と音楽性とを適当に帯びた「私小説的な」芸能活動としていわゆるpopsは現代の低級大衆向けの大きな市場なのである。そしてこのようなベクトルはビートルズ以来のrockというgenreの成立から端を発し、今後も少しずつ時流に合わせ変形されながら、応用芸術の一種としてmass cultureの一部を担っていくのだろう。
 純粋音楽として充分鑑賞に足る楽曲でさえ大衆向けの人気を確保するために、歌詞と声色の個性的な芸能人との演技表現のために応用させられる現実に対しては、量産化の可能にかこつけた質的低俗化という一点の読み方で充分なのである。

 尤も我々がこれに一般に預かることについて音楽芸術の市場化という利点も見逃せない。従ってかしこい階級の上品な人物はこれらの動向を静観するだけでなく、却って煽り為してより高次な基本芸術の成果を大衆社会へ解体伝播させる努力に事欠かない。そのため、彼らに偶像性をこぞってまとわせ、更にstarを演じさせてピエロに仕立てて操り、大衆市場の掌握へ利用する訳だ。

 歌手がためのstarさあるいは偶像さ、idolさは、他のあらゆるiconと同様に、ideaの仮象的な存在化であり、多少あれ理想的価値の退廃を含むものだが、そこには偽造されたauraへの崇拝を通じて市場の独占体制を宗教化する、というproductionの意図に適うだけの必然性がある。
 我々はすべてのstarは偽造であり、あらゆる偶像は贋物である事を既に目的論の次元で知っているが、各形相の存在論的価値に関するかぎり、彼らピエロが一定以上の商品形態としての流通価値を持つことも又、容易に疑われまい。従って「音楽芸能」としてのpop musicをあながち無用の産物と見なす訳にも行かなくなるだろう。例えば文学においても、近来同様の市場化手法の援用が診られるのは偶然ではない。それらはmass societyへの芸術流通の応用から産まれてきた傾向であって、一概にたんなる一時の社会現象にすぎないとして否定し得ない。
 だがこういう芸能化が行き着くところは最終的には知れており、すなわち「人気、popularity」の演劇的実現、という世界精神に結実するのみである。そしてそのような役者あるいは有名人の社会的醸成とは、謂わば英雄、heroとか姫、heroineそれ以下の脇役などの文明内活躍を通じてある人間的模範たちの時代劇場を伝説化しようとする総合芸術からの要請に基づくのである。よって、こう結論できる。我々はたんなる舞台演出術たる純粋芸術以上のより高次の、芸術的総合の結果としてそういう、ある時代の主要登場人物たちの活躍を期待しているのである、と。そういう星々の瞬きは宇宙の調律とまったく変わりあるものではなく、それが故に限りない崇高美へ続く唯一にして最高の段階であると考えられねばならない。

文芸論

私は新造形主義、特にモンドリアンが『新しい造形』の中で述べている音楽や文学を含める普遍的総合芸術様式の確立を不可能だとは思わない。否、近未来にそういう構想は近代文明の名を借りて、人類史内へ浮上するだろう。いわゆる大衆社会がこの様な汎神的文明環境へ適合するために台頭してきたのはほぼ間違いがない様に、この時代からは見える。しかし、文学に関する追求を通じて、芸術家としての私個人はその論旨がたんなる敷衍の方式では決して建立できないと悟った。例えば各地域言語は固有の語族文化をもち、殆ど普遍化に耐えない。
 文芸における普遍化は、他の工芸に比べてずっと困難な過程を経なければ実現され得ないと私は思う。単なる明喩としての文脈という極めつきに重たい、固有の命題を背負っている事からも、音楽や造型美術より遥かに遅れてしか発展しない文芸或いは詩劇は、それでも翻訳という便宜を通じておおよそ国際的に実行されていくに相違ないだろう。文芸は内容表現上の展望に関するかぎり、無国籍の段階を経て次第に別の体系へと収斂していく。これは音楽の様な唯単なる音の越境に対して、差異を一層拡複しながら共感という段階で世界市民的な同胞感情をつくりだす様な営為である。
 我々は音楽内の歌詞においてすでに、こういった文芸的展開の端緒を鑑賞した試しがある。同じく、純文学(これは日本の文脈での反大衆文芸という内容に限らない、純粋芸術として文芸)の範囲では、いわゆる世界文学に加わる語族が広がりをもつ程に、彼らの扱う言葉もまた、普遍主義にふさわしい様相を帯びるに至るだろう。
 文化の多元さが文芸という造型芸術を発端に建設されていくことは間違いがない、と言って構わない。それは語族並立的であることによってしか決して現象し得ない芸術展開上の場面に、文明がもはや達しているからだ。

反復

私は建築における対象性が反復の方法にすぎないこと、また反復自体が建築の目的でありその造型上の最も主要な抽象の手法となりうることを疑わない。だから対称の破格が反復の便宜に叶うかぎりその美術的意義を確かに認める。一方で、回転・混乱または対称への美学的な固執という少なくとも文化遺産の希少に反するものでない限り、神は我々へ再創造の自由を与えた。その最善の用法は全人福祉の目指す点に一致している。
 絵画や彫刻は単体としての反復を旨とするべく産まれたのである。作品が独創の産物であるならば、差異の反復すなわち散種を造形の最大の実現として覚えられる。絵画は平面における色彩の差延を、彫刻は立体における形態のそれを認める。

審美論

対称についてでさえ建築美と絵画・彫刻についてのそれに関する解釈は異なる。
 西洋では古代ギリシア以来の整然への志向が左右反転を単体の理念とみなす。中国でも権威主義的な完全さ、円満の美鳳としてかの自然趣味を信奉してきた様にみえる。カントの様な西洋哲学者でさえ左右対称が美学であると疑う余地をもたない。がこれらはある複製合理化への類型であり、必ずしも普き根拠をもっていない。
 実際、審美観とは相対的な感覚論だったし、これからもそうである方がよい。いうなれば尺度は目的とはならない。単位についても同様に。それらは個別の文化であり、文明の普遍さに合わない。

美術論

絵画や彫刻について造型上の反復は目的らしくはないが、建築についてはそうでない。つまりごく単純なことで、建築は人体に比する規模の故にある単位を反復して用いることが否応なく要請される。対して絵画や彫刻では人間的尺度の故に必ずしもそうではない訳だ。
 だから造型系統によって合理性とはかなり違う概念であり、また各々の美の理想にも異なる影響を与えずにはおかないだろう。絵画や彫刻を建築とは違った文脈で批判しなければならない理由がここに見い出される。尤も、こういう認識でさえ、少なくとも審美術という次元ではとある芸術家へ定格を与えるだけにしか役立たない。
 我々はガウディとミースの、あるいは東照宮と桂の中におなじ反復という方法の利用を観るが、両者は違った様式的趣味のもとに建築されたが故に、相異なる姿をあらわすに留まる。

建築論

今日では私は新造形主義が造型美術の目的だとは思わない。モンドリアン以下のデ・ステイル派の為した活動が人類美術史上に傑出した意味をもつ事を疑わないが、他方ではその社会的適用に際しては必ずしも最良とはいえなかったことも知っている。
 ミース・ファンデル・ローエの様な芸術家は、彼らの原則としての教義には明確な距離を置きながら、むしろその本質的意義としての抽象を同時代で社会的に達成している事に注目すべきだ。謂わば芸術における原則とは、ある天恵が確立した様式を大多数へ伝承する際の方便にすぎない。我々は創造力が原則の破壊を旨とすることを美術史上に観るだろう。以上の気づきを以て今日の私は造型美術の究極目的が抽象にあることを疑わない。
 新造形主義やミース様式といった原則的指向は、私にとり所詮、先人の模倣に終始する制作上の誤謬、修養の方法でしかなかった訳である。

審美論

芸術の目的は質でなければならず、量という概念はいずれ犠牲にされなければその普遍的定義を十全にまっとうすること能わない。人が以上の命題を精密な理解で達するには次のことを一考してみるで事足りる。
 個人の独創は生涯という時空間の限定の範囲でのみ有効な理念でしかあり得ず、同時にそうであるかぎり、芸術はその他大勢へ範例を垂れる為に叫ばれる合格適意の尊称にすぎない。よって創意の抽象でたとえば文芸において、君は後世のとるにたらぬ衒学者の連中が、同時代の制作上の生産技術力水準に比するある芸術家の個人的な創造的努力の成果を謂わば揺るがぬ権威として定義する場合を散見するやも知れぬ。
 日本の文芸に限って言えば、我々は物語の出来栄えがかの作品が有した量の故にさえ突出していると認識させられがちである。しかしながらこの視点は誤りだ。我々は作品の質の故にその芸術を記憶しているのである。実際、かの場合についてはその文芸的な質を達成するために否応なくある一定の長さを要しただけだ。むしろ長々しい物語という形式に頼らなければならなかった分、それはかの作者の結晶力的無能を意味してもいる訳である。彼らは自分の信ずる作品上の質を達するがためには時代の平均生産量に対して相対的に多くの叙説が必要だった訳だ。つまり、量感そのものが作品の本質的実態に仕組まれた場合もなきにしもあらず。だが同様の破格の場合を我々は鑑賞しうるかもしれない。無論君がもし注意深い芸術思潮の観察者なら、真に傑出した作品は必ずしも莫大でないのを観るだろう。芸術にとって重要なのはいつでも、時間的あるいは空間的な容量ではなく、その創作が到達する時空の質に他ならない。そうであればこそ、芸術は万人へ万世開かれた作為の競戯であることができるし、又その可能性の体制を維持し続けることこそ芸術史の最高の命題なのであった。
 結局、無知が量を審美観の対象に付するなら世人の趣味は少なからぬ過ちに導かれるだろう。というのは、我々は作品自体の到達した美の境地をでなくその量を愛でるなら、まったく取るに足らない多くの俗物の結集を当世文化の粋と取り違えて美学者面で蝶々する弊に陥るに違いないから。

2007年1月5日

国際論

中国の敗因は官民不和にある。永きにわたる権力偏重のガタは民情の腐敗に結びつく。事実、中華人民の世論程度は世界中で最も悲惨なものの一つである。
 民情は世論と縁起する。両者は国の感情的または論理的な側面。


 アメリカは衆愚化に陥りだしている。建国に由来する直接民主主義の過剰信奉が煽動政治家を生み出している。

 一方では、我々は世界中の人民、特に途上国民との親愛を今からどんなに深めていても足りない。そうする程地球人類から我々への単なる人間的な信義が極まるだろう。そして日本国が最高の名誉と考えるものは、他国民からの絶対的と云える国際的信義である。
 また、イスラエルの正式成立以来、日本人とユダヤ人との協賛の必要はますます高まっている。

2007年1月4日

現代政治論

現代人は人権平等という理念を功利主義的命題[最大多数の最高幸福、すなわち福祉]
の有力な方法として採用する代わりに、
「選挙」という工夫で改良されたaristocracyを追求しているのだった。

官僚制: bureaucracyはこの内部現象としてあらわれる。

 民主政: democracyが理想的最高段階の政治体制ではない事は以上をもって明らかだ。
それは隠蔽された貴族政である。

もしたんなる民主政、すなわち政策における直接選挙的な傾向をおろかにも追求すれば、
その国家は――Polybiosの政体循環論よろしく――衰退へ向かいやがて滅びるだろう。

衆愚政: mobocracyとは官僚主義が極まった社会体制の名称であり、
そこでは不徳な寡頭的我が侭が進路のすべてに優先するのである。
 事実、公的体制の透明化を徹底する以外のやり方では官僚主義の教派: sect化を防ぎ得ない。

 そして衆愚的煽動を行う似非(えせ)政治家があらわれた際、
かつ直接民主主義的傾向が不幸にもその国民の理想であったならば、
独裁的全体主義が政党支配的になるのは避けられないだろう。

そのような腐敗した国家体制は、
いかなる伝統を持つのにせよ、
遅かれ早かれ必ずや自滅するだろう。

そして治療策はresetの他ない。
 どうしてかならかような風紀を生み出した民情は万世の士気そのものであり、
一月今夕で変動できるものではないからだ。

衆愚政に陥った国家からは誰であれ急いで亡命するに如(し)くはない。

 危険の最大の兆候は《直接民主主義の信仰》にある。
それは現代社会においてはまるで誤りなのだ。
 民主政は王政へのひとつながりの輪であって、容易に退行しうるものである。



 対して一民主国家が文明度を上げるほどに世論政治が可能になる。
現代福祉の理想は世論政: publicracyの中に見出せる。

民主政の名を借りて選挙された貴族政は我々にとって、世論政へ至る途中levelに過ぎない。

もし世論程度の高尚を中庸的民主主義の根本目的に定めるなら、
人類はAristoteles政治哲学への誤解を完全にほどきうるはずである。

公正な間接選挙は福祉のため意見を精選する。
そして人類政治の現代的な理想は、彼ら主権者自身が世論向上を政事目的に定めることによるのである。

寡頭官僚煽動体制による衆愚化を防ぐにはjounalismの勃興の他にいかなる方便もない。
 政治的正義の中枢は報道の自由独立の死守にある。

音楽論

君はある世界史的音楽作品を構想する。それは完全に都市化された純粋抽象楽曲を含み、各地の自然音や様々な民族的音色を込めた具体音楽の間を旅するように流れ込む。
 音楽は音波を利用した時間の芸術である。我々はかの作品世界を経過したあとでは、すっかり万世の諸地方を旅してきた気分になるであろう。

踏み段

カント以降の倫理哲学者が、彼が言う道徳律の最高目的性自体を批判しなかったのは、かなり不自然なこと。
 どうして人類がそんなに尊いと彼は信じていたろう。彼の人間性への無条件な絶対信頼には多少のだまされやすさが皮肉づけられよう。我々の史実は、想像しうるほとんどあらゆる過ちを甘んじて犯して進む様な、もっとも不器用な自然の御者に過ぎなかったというのに。ムダな同士討ちの頻度については、むしろ大部分、他の動物にさえ劣ることを反省できる。
 自然の狡智はヘーゲルが云う理性のそれに比べてずっと包括的な理念であり続ける。端的に言ってしまえば我々は中世の文脈で云う神様による失敗作。
 我々の理性はかつてより身近な部族を守ることにしか役に立たなかったし、人類脳蓋が依然この大きさで、かつ手を加えられないかぎり今後もさほど伸長しないだろう。我々の共感能力には一定度の限界が設けられている。いかなる慈善家がいかにやさしくていねいに高等倫理学説を説明しようと、今日のごとき半開文明における大半の知性には、当為という観念の人格主義的な定義さえわからない筈。
 そこには必ずしも矛盾があるわけでもない。我々に宿命された遺伝子は共感能に遠近性を特徴づけて、他人の子どもと比較した可愛さにおのれの命を勝利へ導くべく日夜画作する。理性は本能の変種。
 種内競争の醸成はまた、文明体制を効きよく築く便利として普く機能していく。現代人類は後構造主義以来、神様を理性より優勢に置くほどただの語学上の問題で混乱してはいないが、しかしながら普遍的共感を政治抗争の上位に置く概念として一般化するほど優れた段階を到達した社会にいるわけでもない。
 国際連帯の組織が超大国を覇権委譲へ導くためにはまだ幾つかの踏み段が必要。

近代的理性への反省

比較的優れた知能を誇る動物が居ても構わなくとも、彼らが唯我独尊の境地で理想を最高目的と自省する事には幾分かの偽善がある。
 彼らは単にいくらかの知能という特徴を持つ進化の枝葉にすぎない。彼らに相対的存在価値があるかどうかはいずれ環境が決める。勿論我々の脳髄にはつねなる容量的限界があり、恐らく宇宙最大級の知能特化型生命のはずはない。
 人間の道徳は人間のための道徳であり、他のための形而上図像ではない。
 彼らが自律性を認識し、環境への適応行為を理性的に創発しうる限りにおいて、人間の存在価値はおのずから仮設していけるもの。善は我々の文明にとっての合倫理性を試す語義。よって、かつて理性は我々が人間とみなす以外の生物へは適用し得なかった。
 何らかのための手段をとらない理想する行為が、善意志の最も純粋な表現である事は疑われないが、それを生の目的にするには我々はあまりに縁起的ないきものではないのか。実際に、善意志は人間以外の動物へ対しても必ずしも愛玩の道具としてだけでなく、たんなる適意として養護という命題を課す。われわれは道端に捨てられた子猫のたぐいへただの同情から保護するかもしれない。
 我々の理想は己れが繁栄を嘔歌するための演技というだけではない。生物への福祉環境を自由の範囲で調整する機能。謂わば理性とは自然の道具であり、古代人類が妄想したように無比の能力ではないだろう。我々はさほど遠くない日に、生化学的にこの精神現象の客観的な仕組みを解明できるだろう。
 理性の範囲を狭く、人類の適応行動の適性に限定して反省しなければならない。まず種内における、そして種外へいたる行動原理の普遍的・形式主義的確立が現代倫理学の命題に置かれねばならない。

2007年1月3日

文明学

文明の永続的発展の基礎には必ずや文明学の成功がなければならない。博学者の哲学的総合によらなければ一文明の将来は覚束ない。
 我々は世界史中に多くの文明の興亡を観てきた。又生物種が環境変化に適応して来た様に、文明も時代の唯物史的変遷に応じてその姿を変えて行くだろう。
 我々自身は実存的な参加によって世界史を動かす個々の主体。文明学説は人類思想へ影響を与えて彼らの中に格差をつくる。時代の技術水準への適応に成功した文明は栄え、失敗すれば人々は没落する。
 もし真に賢い人々が存在すれば、技術水準の編成へ度々進化して着いていくに違いない。我々が文明学説を必要とする由縁。
 しばしば何々主義と名づけるところのIdeologieは大抵個々一文明学説の名称。
 私は諸々の文明学説の中で、とくに体系化された科学に値するものを文明学と呼びたい。普遍的に共有しうる形に抽出された理論は時代を問わずに社会体制の理想へ適合する筈。
 文明を永きにわたり保障するには文明学理の積み重ねがなければならない。数知れず多くの学説を擁藍帰納し、確立された既成学理から演繹推察し、仮説を検証する経過を通じて人間社会の新たな指導法則へと思想を展開させて行かなければならない。
 以上の哲学的な志向は人類の本能だけでなく、理性の普遍的願望にも叶う理想だろう。

都市化

都会では思想の多律により、生活から文化的伝統儀式が消滅するのを観るだろう。功利は寧ろそうした万全日常化の結果を呼ぶ。現行中世人類は世界の均質化を嘆くが、世界中の都心が同じ条件へ向かい等値並列することは人類史上でのある達成を意味する。地球遊民の登場は地球文明の段階を象徴する。彼らは文化から自律しており、国籍ではなく資本運動が、彼らのidentityの規律となる。都会人とは、必ずしも良い意味ではないが、彼らの通称であるだろう。
 彼らには語族でさえ有効ではないだろう。そして実効性のために、方言を単に捨ててしまうだろう。文学は普遍言語の流通へ反抗するのではなく、むしろ翻訳によって協賛する。文化的な微妙な差異表現は、翻訳の巧みを養成する材料にすぎない。

海景の描像

遠い空に浮かんでいる雲が君の足下にやって来て、時間の彼方へ自由を連れていく。それが正しいか知れない。波は飽くなき今を追求して止まないだけ。かなしみそのものが海のあいだへにじみ出す。夕焼けのあとには薄闇のあおさしか残らない。
 人という体制が育つまでしばらくの間、青い星の主体を構成してきた水素の行き先。また生き物たちは水を媒介にして価値ある文化をつみあげた。世界はそこから始まった。いつかそこへ帰る。
 太陽と月が見下ろしている砂浜の形は時々刻々とうつりかわり、まちからの声をしばしとどめては削除するまっ更な画布である。
 人物は小さな点景として、造化の力学に含まれた見えない要素。我々日常の建設とは異なる文脈で、宇宙の再構築に参政している場所だってある。想えばいつでも君はそこにある。
 失われるものを求めてはいけない、とひとは言った。失われるものは求めるためではなく、それでなお遊ぶためにあるのだから。
 崇高さとは定量化できない大自然への絶対畏怖と似たもの。君にとっての空間的地平に似たもの。さればこそ波打ち際は一時もやまぬ音楽の源として万象運動の姿を示す。

場面音楽論

音楽は場面に合った雰囲気をつくりだすための機構である。まず音楽家は自然の中にこの音楽的演出性のための最初の例をみいだすだろう。森の葉ずれの音、清流のせせらぎ、砂浜の絶え間ない波浪、雀や鶏の鳴き声、工場の音、戦乱の音、飛行機の航空音、バイクのマフラー音、高層ビル建設の音、コンサートやライブという演劇体験のための音、CDに納められ生活の中に入り込み時代をあらわす流行歌。
 全て我々を取り囲む音楽環境とは場面に対する演出装置の役目を果たす。
 実際、人間の聴覚が地球環境の基本的空気・空間構成にとって合生存の中庸適性を持って成立したのは確かである。そして我々が楽器という方法を用いて、この適応感調査のための感覚を合目的再創造に用いうることを覚えたとき、音楽はたんなる実利のためだけの存在を越えて虚構の定義を獲得した。そうして生活の感受的雰囲気を、程度をもって人為的に操作する機能を持った。
 アンビエンスという用語は音楽のこの様な現代における機能的側面を定理として言い表したものである、と考えてよい。
 音楽家はもはや、流れる場面というものを無視して現代音楽をつくることはないだろう、市場掌握の手法。一方で、場面を超えた普遍的構成をたんなる純粋音楽の為の命題として芸術する指向は否定されるべきものではない。
 一度市場で共有されれば作品の流れ方は必ずしも予測できない。音楽家が同時代を代表する名作を合成するべく試行せねばならぬのは、場面と音響とをいかなる関係のもとに作曲するかという課題であるだろう。事実、作品はなりひびく文脈から完全に離れて成立することはなく、また同時にその形態性という特性上、文脈にのみ完全に依存するものではない。
 我々にできるのは場面と音響との緩やかな繋がりをある調和的な作為の元に再生するだけだ。

2007年1月2日

政治参観主義

以下哲学者は同時代政治にどの程度かかわるべきかの問題を解く。理論的指導という命題は常に、哲学者の政治術にとり現実的。学究閑暇の欠如により、哲人政治家の政事やまつりごと実践は不完全なものにとどまらざるを得ない。現実の代表使者は応急のため、理想的哲学者は永世のためにある。近遠の方法論確立が彼らの職能差異。日常市民言論の福祉向上と社会学的功績が、哲学者の政事にとっては最も適為だと考えられる。主として前者は議論の善導により、後者は政治学献での達見論述による。大秦王安敦の如き哲人政治の成功が史上一般に可能だったことはない。有能な政治家は指導実践術に長け、だが必ずしも理想的ではなかった。我々には始皇帝へ学識的に馬鹿の分子をより多く看、孔子の中により少なく観るのが偶然ではないと知れる筈だ。政治術には野性の狡智がしばしば必要であって、政治学には特に文明の理念が必要なだけ。智略の用法は文化多元的。哲学者は世論の側から批判することが民主主義の文明化へ役立つと知る。よって彼らの仕事は政治参加ではなく、目指しうる限りでの在野な独立された政治の理解でなければならない。我々は実存主義思想をこえて、言論は政治的実践とは独立した見識であればこそ哲学的であることを認めうる。言い換えれば政治的拘束から自由を目指す善導の源にのみ、philosophyの当為を見てとる。なぜなら理想は功利へかかわらずの最高目的、即ち政治学的世界市民主義の基本原理。そしてそれが実践術の理念を永きにわたり統括する役目を持ってこそ、哲学は史上政治学の水準を達成する。単なる政策は実用主義の範囲に属するものであり、理念にとり使い捨ての道具であるに過ぎない。だから時と場合により価値が変動し、すなわち同じ策でも善し悪しの境界線を流行曖昧中にしか見ない。
 私は暫く以上をもって哲学者の政治参観主義を唱える。彼らが担うべき言論政は大衆向け短期につき学者向け長期につき、あるいはまた賢衆へ向けた中期的見解にあれ在野独立の地位にあってのみ正義であると考える。我々は功利主義とは無縁の自律福祉術を追求するためだけに、政治的立身や具体的献身の成果を棄てなければならない。尤も、この最後の文脈が経済功利を否定する内容ではない事に注意せよ。ここでは政治学的功利主義とは公民制裁理論としてのそれを意味する。

趣味主義の基本

我々は数理科学によって世界認識のための抽象的方法論を発達させられた。仮証法的な漸進理解の際にのみ科学は成立する。文明とは精神に因果をもつ別体系の自然である。我々の理性とは最高目的としての思索する主体性の意味。結局、我々は理性を厳密には自然に対置し得ない。反自然的理性の定義は近代思想の誤解だった。理性とは自然が産み出した精神にすぎない。
 ところで我々は理性を究極目的にもつ精神実在を至高と見なすためにはあまりに恵まれた時空場にありはしないか。我々は未だなにも知らない。我々は宇宙世界の赤子に等しい。我々の文明は殆ど野性と言ってもよいほど幼稚で憐れで惨めなものでしかない。その様な最古代における人類の一員として、私は理性を観想における至上命題と考えたくはない。少なくともそう仮定することは理性批判という点から幾分なりとも建設的。無論、野蛮の旧弊にあった、形而上的人格観念たる神のせいにする気はないが、我々にとり理性という観念は常に、非我へのinterfaceを文脈づけるものでしかないだろう。
 我々が自然に働きかける仕方には促進とか、禅譲とか、回復とか養護とか再生とか、近代思想とは別の現代的見識も生まれうる。なぜなら主体性は媒介物とは別の理念であり、別の地位。我々は理性を自然の延長にある自律的精神として最定義する。それはしばしば後構造主義哲学の様に文脈上の道具にもなりうるし、また最高目的善化もされうるに違いない。
 自然と矛盾しない、その粋的見識を理性に対して描像するなら、我々は理想主義と道具主義とを止揚する新たな思念の立場を持つに至るだろう。いわば趣味主義という考えはこの範囲に属する。
 我々は理性を、entropyの次元でたえまなく遊戯する自然の、生化学的に抽出された本性とみなす。

博物学

問。人間とは大宇宙において如何なる存在なのか。精神とは銀河史においてなんの意味なのか。太陽系における地球の中で、人類とは、また個人とはなんの体系内価値をもつものなのか。造物・creationの理由と芸術・recreationの理由。
 繁栄の目的はなにか。なぜその目的が哲学合理づけられるのか。世界の化学的要因。生物が繁殖した組成原因と予測される結果を解け。彼らが生存闘争を生み出した理由はなにか。その背景と結論。
 可能なかぎりにおける、趣味の科学的な分析と理論化。正義や真理についても同様に。

2007年1月1日

生

何を為して何を為さぬのかは人の可能性を確立する。行動原理の探求が人生観を造る。

地階の住宅

 半地下に掘りぬいた、過半が地中にある週末住宅。鋼板で囲われている。天井面に大きなトップライトをとり、ひよけを設けて光度を調整。天気の精細な変化がじかに感じられる。トップライトの一部は太陽光発電装置をかねており、昼間以外も電気代を抑制している。室内の主な仕切りはカーテンにより、ゆるやかな一室空間がいろとりどり見え隠れする。この住宅は地下が地上より温度変化がすくない好条件を活かして、縄文時代の竪穴式住居がもっていた先駆的な利点を現代へ摂り返す事になるだろう。

内観

 
大まかな部屋毎に段差のある内部空間。それぞれの部屋ごとに独特のおちつきと、たかい天井高を確保できる。



庵



2006年12月31日

美術館

都市という総合芸術は文芸の前提に存在する。我々は文芸という観念造形的営為を暇つぶしの仕方として用いる。小説なる形式は、かの演劇術のために設らえられた台本の役割を果たす。
 我々は暗喩にあれ、人間活劇の方法論において小説を読む。万人のための脚本として模範を示す目的が文芸にはある。音楽、絵画、彫刻、建築、そして詩歌と順に次元を上げていく芸術構造は演劇という最終形式で完成するだろう。そして我々は芸術におけるモダニズムが普遍化を旨とする事を知っている。現代芸術家は審美という道を辿り、個性のための表現をやめて、やがて万人のための世界をかたちづくる。
 我々は自然への抽象という作為の結果、自らが芸術界の住人である事を悟る。彼らの環境作法を規律するための合目的方法論に関する試行が、芸術という適応営為なのである。則ち、演劇術、生活術において君は人生を崇高な作為と認識するだけの環境的恵みを必要とし、その演繹還元上の帰結として日常における合理観を調える。
 演技とは、合目的性あるいは合理観の演劇芸術的実行である。
 文明芸術の総合は、芸能人生においてその審美目的を達するのである。この様な当為的未来における芸術の完成のあとには、現代人類が認知する芸術とは違う概念が市民へ自覚共有されているだろう。現世人類までに至る我々は、芸術という形而上イメージをまずたんなる工芸分野区割の工夫に用いてきたにすぎない。また、その発展として、趣味という範畴を通じて生産工芸品を非体系的に民主審査し、環境学的合理性の時代適応度を再三試験してきたにすぎない。未来人または文明人が芸術という用語をつかうのは純粋技術の意味においてのみである。それは今日におけるごとき応用方便、或いは付加価値創発的な遊びを内容しない、ただの人間原理上の合理作為を表現するために表現されることばとなるのだ。それは特権的理念である事をやめるだろう。またしばしば高尚理想であるとすら意識されないだろう。創意工夫のとるにたらぬ独創や天才を指すものですらなくなる。我々は芸術というイデアを人間の環境再創造行為の基本主義として普通一般に認識するに至る。いわゆる造型美術における美術館の役目はそれまでのあいだ、大衆を啓蒙しつづける、暗喩下の社会環境模式を示した公民学校となることだ。更に、美術家とはここでの指導者を意味し、彼らの公務は想像しうるかぎりにおける普遍感覚の導引なのである。

善導

我々は言語概念を利用していずれ文明を促す。哲学は言語の用法を記述するに過ぎない、というヴィトゲンシュタインのideaは正当でないと批判できる。なぜなら言葉は道具であり、脱構築的にあれ実用的にあれある思想を形相づける方法。言語学批判に限らず。
 我々は言語固有の文化を持つ。よって普遍的観念即ち概念を創造するため、つまり啓蒙のために必要な文脈は各々異なる。脱構築という哲学的批判の方法は、文脈の相対化に役立つに過ぎない、それは語族に由来する仲間性を文学から排除する。脱構築とは文学批評専門の道具。そして無論、破格そのものは目的ではない。
 我々は破格によって哲学の終点へ辿り着く訳でもない。思想潮流による近代化をおこなうのは、文章の善導的使用の歴史的努力に違いない。文明は哲学を善導の中枢と見なす。

2006年12月30日

芸術教育論

芸術家一切の予備訓練は人文教養の涵養に他ならない――『判断力批判』
 いわゆる技法の洗練には多くの選択肢が要されるの必至だが、そこであやまたず、より適切な形相構成条件を導出させて止まぬ源泉こそ、かの勉励により育まれる高い人間性に違いない。我々にとって、芸術アカデミーにおける審美指導という事は全く不可能に属する。というのは、趣味の左右とは体系学のあずかり知らぬ所においてのみ有効だからである。則ち一般に知られる如く芸術それ自体は術であり、全くに学ではない。史学と審美は相異なる観念である。従ってフランス・ボザール式の芸術アカデミーの地球的伝播は多大な過ちを侵している。それは中世ルネッサンスへの潮流的規範意識から端を発する、古典主義への退行に寄与してきたに過ぎない。
 我々は、芸術教育とは究極、師弟間でしか十全な姿を取らぬ事を知っている。理念に対する人間的姿勢としてしか審美観の伝承はできない。巨匠が亡くなれば遺された傑作の模倣から、規範となるべき思想の跡を幾分汲みあげる事ができるだけである。我々の社会にとり芸術アカデミーに存続の価値があるとするならば、第一にそこで人文教養の滋養とみなされるべき、文化人類学的なliberal arts教育が行われる限りにおいてである。第二に、時代において最も基本的な方法としての造型技術が、極めて体系的に専門伝授される限りにおいて。そして第三において、又これこそが死活命題ともなろうが、当世第一流の芸術家を教授として招聘しえる限りにおいてである。
 だが人々は時代の先鋭に対しては否応なく無理解を以て応えるものであった。感性の先導、それが芸術の意義でもあるのだ。よって究極的に、芸術アカデミーは第二流以下の芸術家を以て仮に、暫時少なからず悪例としての審美学的授業における教授役の歴へ当たらす他には現況、致し方無いのである。大抵の我々がモダニズムのベクトルはanti-academicに発して行くのを史上に観察するなら、それはことごとくみなこの第三の理由に因るものである。即ち、凡そ芸術アカデミーにはたんなる審美観を生かす術においては常に、二流以下の啓発しか行えない仕組みになっている。我々は今後も永らく第一流の芸術家がいつでも芸術アカデミーの影響のない純正無垢な場所から生まれ出すのを幾度とも、歴史実中に観察するだろう。それは彼らが必修の第一、人文教養と第二、専門技術および第三、審美観とを独習で覚えて来たからであり、かねてより神話化され闇に封じられてきた天才による訳とも必ずしも言えないのだ。
 そして第三、審美観の養生は一流の師弟間感化、または去りし巨匠の模倣、さもなければ広範深遠な芸術史学によってしか育たぬ以上、いわゆる卒業単位取得がため二流以下の芸術教授とやらがため無理にでもおのれが作風を堕落せねばならなかった悪弊を補うだけの価値は、独習の苦労にはいつでも充分ある訳だ。我々がもし近未来のより素晴らしい、新たな芸術風土を生み出したいと願うならボザール流の既成芸術アカデミーをその権威ともども根本廃絶しなければならない。尤も、この学究的先覚が専ら百年のあいだ大衆一般からの理解を得ることはなかろう。従って我々は漸進的改良、即ち徐々の芸術アカデミー撤廃と新体制の樹立を以て来たるべき現代芸術家養成の環境を整えていかねばなるまい。我々には今でも第一、人文教養は一般大学のいわゆるliberal artsあるいは教養学部で補えることがわかるし、第二、専門技術に関しては、特殊な工芸の専門学校または通信教育のような技術専門の教育制度の意義を再認識し改良、かつ勃興奨励することで養成していけるだろう。そして第三、審美眼については、飽くまで個人の自律に基づく修業法の選択がなければならない。ある人の恩師がある人の反面教師であることは、芸術に限っていえば必然的にある事を思えば。
 尚日本の現状に即するため付与していえば、今では芸術アカデミーが少なからず兼ねているいわゆる芸術家サロンの役割を果たすための便宜を図り、我々は一般大学教養学部中に専門技術伝授の機関と相互提携した各芸術専攻の学部を設けるべきである。そうすればボザール式の古典主義的錯誤から起こっている、この様な用語はあり得ないが審美学的授業の単位制度による、多大な弊害、審美観退行の制度的強要を避けることができる。
 専ら三大基本芸術、音楽、建築、文学に関して言えば、今は音楽大学で専攻させている音楽部および美術大学での建築学部を、一般大学中のいわゆる文学部と合わせ教養学部・芸術専攻・各科に改造すべきである。因みにここでいう建築、architectureとは絵画と彫刻という部分技能を含む。また、映画やイラストレーション、漫画またはデザインといった応用芸術の類は、教育についてこれらの基本芸術の後にあるべきであろう。即ち、大学自身の財務的方針如何によりけりで事前専攻美術者のため便宜を図り、増設を行うべきものである。

自伝

凡そ考えつく限り、その職業が労苦に充分値するものだとも信じていなかった。というのは、思想とはしばしば文章の形で発表するほうがずっと割りのよい仕事なのは知っていたから。現攻、present specialtyの考えを導入する実証先駆けにもなった、と分かってもらう他ない。

芸術論

行為の痕跡という点まで遡ってこそ、芸術の根源的な意図は果たされるだろう。我々が文明都市を築くのはこの為だけだ。いいかえれば我々は生命の記録の為に懸命に生活体の粋を抽象しているのである。君は多くの遺跡のうちにのみ、このような芸術家の努力の痕とその意義を認める。
 美術郷土品として発掘される幾多の作品は都市遺跡の部分の意味で、我々へある時代背景を技法の次元で伝えるのだ。それが天才の手になるものか、あるいは大多数の凡人の手になるものかは重要ではない。というのは、模範的な指導者は他の全般諸工作へ影響を与えずにはおかなかったから。
 我々が文明の記録を後世へ延べ伝える使命には都心が携わらねばならない。実際には、都市計画の指揮を執る建築家にしかこの仕事の創造は不可能である。又、我々は音楽や文芸をこの都市総体の一部として建置する。どの側面が遺されるにせよ、文明建設の造型表出として芸術の史的位値はある。そして伝統に価する創意の結実こそが文明の証拠として芸術の普遍目的になる。

業

互恵的学業は効率の為のみ。副業は息抜きの仕方。

自伝

実際、私は次の規則を守っていた。科学・哲学・芸術とは異なる体系である。
 Kantを引用する迄もなく、それらは別個の学術体系であって、当然、学習法も教授法も、適宜応用すら異なる。にも関わらず私自身はそれらへ「等価に」参加することを必勢とした。いいかえれば私は、私が経過した学習能率の便宜を説明するために、殆ど忙殺にも値する多大な工夫、すなわち教育学を要しなければならなかった。
 それは批判哲学の簡略化というかたちをとり、私の講義の主たる支柱として常に導引、educationのため利用されねばならなかった。学識の禅譲には不当な援用だとは知りながら、である。生徒への直接な批判はいつでも適切ではない。すべて現場で発生する誤りの原因は教員自分の立場にある。また我々は自らの自律の知性が及ぶ限りについてのみ、分野横断は正当である。他人から教授された学問手段は所詮かれらの個性に合致せずいずれガラクタなのである。
 だから次のように言える。私は諸般に及ぶつまらぬscholarshipを利用して天性の生徒に通学用の無駄な労費を負わせ、青春の貴重な時を暇潰しさせ、換言「教授」なる自己欺瞞のため堂々搾取していたのだ、と。講義は謂わば、学究にまつわる芸能小咄の類に過ぎなかった、とここで明言しても良い。私は世間では輝かしい称号と信じられている天才という言葉を、ある種の蔑称、つまり通常の努力のおかげではなく遺伝子の突然変異のせいにして人間性を隔離するものとして受け取った。そうせざるを得ない事情は世界にはない。必竟、文明思慮の不足の前に無力な教育制度の拙劣に帰する。そして大責任を請け負うのは唯、世界中で私ひとりだと信じていた。それがたんなる気負いに過ぎないとしてであれ、私には自らの塵労を尽くして処方を改革しなければならなかったのだから必ずしも無駄な認識ではない。結局のところ私は教育者としての成功を素直によろこぶだけの余裕を、引退のその日までもまったく持ち得なかった。
 理由を述べる。第一に、研究の問題がいつも頭を支配していたからと言おう。第二にこれが自認する真実なのだと言うが、いわゆる担任後進生の中においてですら、originalな業績を果たすためには独学の姿勢が肝要であるとはっきり悟りきっていたからだ。老いても私は教員なるものに、学際的な慈善心を満たす副業、あるいは盆栽風な私的文化としての価値しかみいだせなかったのだと思う。よく云われるように、先天性は教育によって伸びるものではない。教育によって伸ばしうるのは後天性だけだ。そして後天的に得られることによって達成できる諸学而領域とは、所詮は「普通の程度」に過ぎない。それが、私が教育制度の中ではたったの一度も本物の天才には出会えかった理由なのだといまだに思っている。我々が高度教育によりはぐくみうるのは秀才だけだ。真の天才はおのずから生長し、我々のはるか頭上を自在に飛翔して、史上に滞るあらゆる疑問を難なく解決してくれるものなのだ。

2006年12月29日

分野

活動を整理する便宜としてしかジャンルは内容を持たない。

事件史学の目的

民族とか国家という観念は文明化の方途に現れた。競争は彼らへ協力の必要を悟らせる為の、自然からの課題だった。我々個人は社会において、事件を左右しなければならない。唯物史的必然と個人主義的偶然とが交わり、歴史を動かすのはその一点において。
 しかし君は次の事を知ると良い。好転か悪化か、事件には歴史的意義がある。
 そして偉業を導くものは広範な博識による熟慮断行であり、愚挙に堕するものは悉く無知から来る狂気。我々は歴史哲学を通じて、競争過度による戦を避け、協和の方便へ人民を導く最善の洞察力を得ることができるだろう。先覚者の巧妙な指導が事件史学の研究目的。それは温故知新的実用主義に貫かれた解釈学の体系でなければならなかったろう。

脱亜観

現状日本の東Asiaでの地位を鑑みれば、近い将来に予想される南北朝鮮の統一や中華人民共和国の崩壊と中華民国の確立とに期を譲らず、我々は飽くまで北側に立ち、「殆ど独立州・United Statesの一員と変わらぬもの」として一向平気に振る舞う方が得策だろう。軍備の如何、国政におけるその合理化の仕方如何に関わらず、である。とはいえこれは必ずしも万古不易の法律ではない。
 少なくとも我々にとり、脱途上と先進入とは明治維新以来の宿願であった。それは利己心ばかりでなく、福祉の為の必要でもあった。実際、白色人種とされてきた者以外の先進国民とやらは未だ日本人の他にいないのだから。ならば我々の世界文明史中での一挙手一投足はすべて後輩へ発展の勇気を与えるものだと自覚せよ。それはいかなる異民族無知からの抑圧にも構わず、前進を旨として模範的文明を築く使命である。我々の活躍だけが文明史中に多民族共栄時代への突破口を開くものだと信じなければならない。
 足を引っ張るものには圧倒的格差を見せつけないべきではない。

2006年12月28日

経済学

我々には元より完全な資本主義経済も完全な共産主義経済も不可能。重要なのは世界情勢に見合わせた国策によって両者の中道を執る事に過ぎない。
 我々にはこの経済的中道思想を要約する新しい言葉と、現代社会学理論が必要。仮に私はここで、調整と分配を旨とする経済体制の思考を協調論と名づけよう。事実、アリストテレスの経済学の知識の中には既に前掲の命題が予見されている。専ら我々はそれを適宜現代化して再生するだけだ。

労働者

夜明け前の大地にはどんな影もない。人々は沈黙の闇に沈み、語られない言葉は消えた。それでも太陽は昇る。誰にも止められはしない。君はあたかも自然に起きる。世界の建設へ参加する為の一日が始まったから。文明からの序曲がやがて周囲を満たす。君は朝日に溶けて、その限りない光へ身を浸す。働くだけで救われるなら安いものじゃないかと、君は自分に問いかける。懸命に献身するだけで良い。後は何も要らない。素晴らしく合理的な仕組みだ。社会は生産を能率化する事に集中していく。君は仕事を功利化していく事に集中していく。誰にそれらを邪魔できるのだ。働かねばならないと、君は呟いた。宇宙は私に関わらず続いている。進め。誰の為でもなく、生き延びる為だけに。

人類

地球の塵界に紛れ君独りだけ至高たれ。

2006年12月25日

美術論

私は絵と彫刻が建築の中に家具として消滅すべきだ、と感じる。それらを独立して扱って来たのは過去の事で、我々がかつて分業の形に工夫を凝らしたに過ぎない。誰が造ったかは問題ではなくその環境がある、という事が重要だ。

文明論

いかなる神格的天才と言えども愚者の分子を含まぬものではない。只人間精神には程度の差があるだけ。そしていかなる高貴も、如何なる愚劣もすべてこの範囲に属する。我々が学ぶのはより高級な格式へ到達したいからであり、それは社会内在化された生存競争の型であると言う事もできるだろう。
 我々は学習の密度によって智略を図り、結果として種内福祉を達成する。哲学は言語概念を利用して以上の図式を能率づける便法。その主要な手段は時代適応活動の思想による合理化。だから、あらゆる哲学は主体を離れては存在せず、謂わば常に時代精神に束縛される。この点で、哲学は時代の奴隷。
 にも関わらず思索の方式は次の事を示す。普遍性は仮象であったにせよ、哲学的合理化の中に暫定的な姿を現す、と。定言命令とか良心の声とか呼ぶ我々の理性概念は人間社会にとり不易なるもの。もし思想に価値があるとするならば、愚かさの程度に属する時代内主体へ理性概念を啓蒙し、天才の程度に属する者の道徳を益々普遍性へと引き上げる事だろう。言語概念はこの命題、文明論を推進する為の便利。我々はこの道具を巧みに扱う事を要する。
 究極には意味を取れない事、つまり差延とか、文脈を民主的歓待の次元へ揚棄する事、脱構築とか、いわゆるpost構造主義の分析哲学は修辞学の分野に属するものであり、言語の哲学的使用という文明論の基本命題に答えられない限り誤謬である、と見なされなければならない。

博学

正しい実践理性的見識を導くものは唯、ひたすらな博学。
 正しい思索の基礎には学習の蓄積がなければならない。見解の誤る率を最小化する為に哲学者は科学を推し究めるべき。

現代文学論

Nationalismを自主解体する事が現代政治の主要な目標なのは明白。国家の健全な国際的発展、乃ち漸進的連邦化への潮流は、国際競争における基本的対策。それは人民を尚一層雑種にし、独立自由の世界市民の発生を促す。紛れようもなく彼らの文民的結託だけが国際連合へ軍事権力を委譲させる原動力となる。人々は国家が仮の宿りである事を自覚せねばならないだろう。事実、国際経済の必然的展開は人間から国籍やnationalityを遊離する。なぜなら福利に反する体制は資本の自己運動に不能。いわゆる文学は、この新たな型の民情を養成する為に最も役立つだろう。世界文学は地球人類の統一された文明へ向かう準備の為に専ら、用意されなければならないだろう。
 独立した民族国家の形態は工業生産段階の過途的現象にすぎない。彼らの国力こそはより普遍的な文明結合、つまり国際連邦を産出する為の便宜。例えば民族間の好敵心は産業形態をより高度化せしめんとする競争により、功利の推究になおも適う。
 だが人々は富強先進国に俄然太刀打ちし得ぬ事を悟る時、自ずから民族思想を脱出する。そして産業に関する互恵制を目的として連邦を形成する。これらの結果、現代世界史は連邦同士の関係にまで発展しなければならない。やがて彼らは軍事力が邪魔になるだろう。なぜなら国益を乱すものこそ過剰な軍事浪費と気づくなら。極めて多くの場合、自由主義的統一世界において国際侵略じみた戦闘行為は国益に反する。それは技術水準への反建設的営為であるのが明らかだから。今日極めて限定的にしか販売不可能な武器に対して、利器は常に国際購買力を喚起する。
 以上の筋道を辿り、かの覇権国を含む最終的全連邦は軍事力を法的に共有化しなければならなくなる。現代世界文学がもたらすのはそのような世界像への展開を人民へ情動的に伝え知らせる事。

歴史学

歴史は学術的応用に関する技術革新とその敷衍により姿を変えて行く。産業水準が社会体制を築き、やがて文明の形相を変える。
 だが、唯物史観が歴史の一面である事も疑えない。個々人の努力なしに学術の精錬もなく、その体制的展開もない。
 人間の社会学は世界精神の担い手たる個人と、又彼らの置かれた環境との絶えざる相互作用のうちに見出されねばならない。言い換えれば、より高度の歴史認識には、ヘーゲル的精神史観とマルクス的唯物史観とは止揚さるべき訳だ。我々はこの新しい歴史観を名称して事件史観と呼ぼう。人類は事件の研究を通じて、歴史のより精密な理解に到達できるだろう。

自伝

若い私は海を好んでいた。そこで繰り広げられるdramaは常に寛大である。私にとって、海辺にどこまでも広がった砂浜と、地平線が織りなす景色は紛れない原風景だった。常に私はそこへ帰ろうとしていたのだ、と思う。にも関わらず、文明は都市化を要求する。私自身も例に漏れず、都心へと惹き付けられなければならなかった。私はどこまでも広がった大都市の夜景を上空から見た。超高層ビルの展望台から、いつまでも飽きずにその光の興演の中で繰り広げられる幾多の劇を夢想していた。

医学

人間の訳。彼らは何者なのか。
 精神を生化学的に立証し、形而上学的理性の段階を脱出しなければならない。それは全人類の啓蒙にかなり叶う筈。
 わが医学研究の主要で純粋な目的はこの精神の生化学的解明という興味熱情に支えられる。医術なるものは派生される已。その高度は理論の応用であり、主として後進生の役に立つだろう。

人類学

人類が大宇宙の中でいかなる地位にあり、どんな理由と原因で何の為に存在し、またこれからどうやって生存して行く見込みがあり、実際にはいかなる方途を辿り行くのかを説明せよ。そもそも大宇宙とはいかなる対象あるいは環境で自我はそこで何の意味を持つものなのか。
 彼らの繁殖活動の本質には何の目的と必要があり、あるいは自由と従事があり、人間はどんな経過を以てそこを通って来、また今後行くのか。
 社会の目的と現状の差異は一体何であり、我々が理想を達成するため可能な手段は何か。言語の成立と、統括整理した上でその方便を説き、或いは使用法を普遍的に定義し、実際に用いる例として以上を説話する論考。

合理的研究の為に

先ず仮説を数学的に論証し、後inductiveに実証せよ。
 この基本的な順序を誤れば君は、時間の大半を煩多な形式的作業に浪費しなければならなくなったろう。洞察を好奇より先に置けばこその知性だった。

2006年12月24日

自伝

君が動物園に住まわなければならない事態を想像せよ。実際、自己自身を高めれば高めるほど、世俗の事物は耐えがたい苦痛になる。いずれ我々の目的は堕落にはない。専ら人類内進化は知能の如何に懸けられる。

物理学

数理を定律する思考形態について学べ。論理の限界について知る事。
 なぜ微積分は流率法を駆逐したか。なぜニュートンは後者に拘泥したか。力学の可能性と限界を覚えよ。三次元運動に対する抽象的認識の方法論としての力学は、例えば建築技術を規定するのである。彼は世界を自律した運動組織と考えることでやっと、永久性に関する脱神学的認識に到達し得た。ならば脱力学的建築は異なる重量場でどの程度の可能があるか。相対論的認識に関する三次元建築における応用を覚えよ。
 なぜアインシュタインは確定性にこだわったか。彼が定常宇宙を空想した理由は何か。かの哲学はユダヤ教の神観念と不可分なのである。従ってからに、知性よりも信仰を優先させねばならなかったのである。
 現在までに得られた観測結果と最先鋭の学説とを相互参照せよ。また、量子論はどこが相対論と調和しづらいのか。その理由は何か。原因は何か。何を改善または工夫すれば問題は解決するのか。
 思想をより精密にして行くだけだ。それが知能にとり、最高の慰めである事は疑えない。
 生物が誕生し、盛衰し、進化し、繁殖する理由はなにか。彼らは何を目指す種なのか。
 以上をこなす化学的組成を覚えよ。なぜそれが発生したのか、地球天文の地学的環境を知れ。我々の確率、地球の確率、自分の確率、ユーモアの化学的組成の確率、宇宙の生成する確率、現宇宙の如き微妙な膨張をもつモデルを成型する確率、及びそこでの物理現象を誘導しうる現象論上の確率。暗喩としてのそれ。
 知能が導くのは何か。文明が築かれる理由は繁殖の合理化としての環境改良。知的生命体とは多少あれ自律した時空運動体の名称。彼らが為す所は繁殖の確率を環境改良によって達成せんとする生存活動。精神はこの生存欲求の自律的具現。
 では、他星に知的生命体がどの程度どう分布し今後何年後どう接触し、そのことで文明にいかなる変遷が起こり結局はどうなるのか天文学的に実証せよ。

博物学

なぜ宇宙は膨張しているのか。なぜentropyは増大するのか。人間精神とはいかなる生化学的現象なのか。彼らの芸術が宇宙で何の意味を持って存在しているのか。自然との違いは何か。違いがあるならその理由はなにか。どんな結果をもたらすのか。
 宇宙の終わりを予測し論証せよ。宇宙とは何か。どうして始まりがあったのか。時間とは何か、空間とは何か。
 数理とはなにか。我々はなぜそれを用いるのだろうか。認識とは何か。宇宙を認識することは一体何を意味するのか。Energieが創造性を持つ理由を分析せよ。論理とは何か。我々はなぜそれを用いるのか。
 文法とは、文明とは、人間とは何か。伝達の理由。我々は言語を通じて何を情報するか。思想の意味と限界について論及せよ。
 性別の理由は何か。生物はそれを通じて何を達成したかったか。文明と体制についての関係論を普遍的定義に結ぶ哲学を習え。脱構築する理由と結果。言葉は何を為しえるか。
 宇宙はそれを通じて何を意図されなければならないのか。人類の普遍的地位についての定義を為せ。生と死の生物学的定義とそれを合理化する理論の構築。法律の理想について、その方便性について。
 万物を統合して扱う理論により、彼らが到達する地位はどこか。芸術の普遍的確立を達成する事。

自伝

私は芸術の消滅、つまり普遍美の社会的実現を確かに予見するに到った。例えば、制作には常に「工学的背景」がつきまとう。我々はこの、時代の技術水準から独立に業を運ぶ事を許されない。即ち、科学と芸術は根元で不可分に絡まりあっている。私はLeonardo Da Vinchが既に、同様の課題に深く携わっていた事を知るに至った。同じく私にも、工学のみならず、純粋科学へ、また哲学へと興味が伸びていくのが自然だった。

2006年12月23日

不運

衆愚との接触を可能なかぎり間接化し、かつ遠避けることはかしこい処世だと言われねばならない。名分、すなわち肩書きはこの方便として有用。国際関係についても同様で、上級生は下流へ直接係わるべきではない。それは不効率であるばかりか、しばしば害をもたらす。つまり不運を。

2006年12月21日

男女の別の現実性

現実にどこまで女権を拡張して良いのか判断すべき時には、絶体絶命な状況の義務以外、と答えられるだろう。

2006年12月20日

科学論

科学は証明しうるかぎりにおいて、真実と仮定さるべき体系でなければならない。

世界宗教論

世界宗教の教義をまとめて、新しい一行に託さねばならない。すべて社会体制に残存する不条理に対する救いとして、信教は人間に不可欠なものだ。
 国際社会が発展するほど全人類統一教義の必要が自覚されるに違いない。それが聖人による意図の他の仕方で自立することはない。統一された世界宗教は新興されねばならない。それは宗教学者の手になることは疑いようがない。飽くまで現行世界宗教の特質を分別し、新たな体系を発明し且つ広めねばならない。

理想

君は生きる限り、人間に関わる。とすればその分、彼らを教化しうるだけ教化せよ。

自衛隊論

現代の軍は単に、国際福祉の介護役たる已だろう。

政治学

古代、唐の科挙は人民への官戸からの搾取を意図されていたが、あたかも公平な制度として開陳されていた。
 一方ほぼ完全に仕業が透明になった官公庁組織へと文明化が進んでいけば、争いの元になる侵略の誘引としての個々の富と蓄財への過度の利己性が緩和された暁に、無用の長物と化した政府機能としての防衛兼調整の縮小と消滅を予見しえる。人類間での淘汰作用は、軍拡競争の不経済性に比べた共生し易さから、おそらくこの平和な社会造りの気質を他の侵略主義なものより長期には生き残らせるだろうから。

 法の公共は理解の差によって、人々の意識をより道徳化する仕組みだろう。そしてそれは社会にとって中途の段階をこえない。
 法の理解度は人々の中に善悪の格差をつくりだしている、一つの現実策になっている。立法の原理が道徳の理念からのみ考えだされるのも似た構造だろう。いわば共感知能のよい生態に恵む、将来予知の才覚がそこには選択されるべき、といった人類社会の原型質がありそうだ。

2006年12月19日

Memo

金が本当に尊いものだと信じるずいぶんとおつむのわるくない御人は、墓場に迄それを持って逝くがいい。

金を動かすことは金を守ることより常に偉い。
かの威光は経済ゲームの熟知による。

道徳とは

人間関係自体を道具化しようとする意志はあらゆる悪意の中でも一番酷いものだ。にも関わらず、我々自然の本性はこれを競合心として残した。
 他人を利用すること、また究極的には人間関係の総体たる体制を利己的に援用する工夫。これらは他ならぬ倫理として、すべての聖人君子により正当化されて来たのだ。倫理は社会体制への功利的適応条件。我々はもはやこの悪意を普遍的正義と見なさざるを得ない。謂わば倫理は、彼らの社会を時代の産業水準へ整合づける使い捨て思想に過ぎない。我々は道徳を学ぶこと、乃ち哲学する行為を通じて、万人を奴隷化する方法に尚も長ける。たとえば他人を目的として扱うために必要な、愚か者への丁寧な言葉遣いを覚える。と同時に、実はそこから生ずる福祉として、世界中の人民への啓蒙という副産物がもたらされるだろう。
 他人の思想に浴する恩恵とはつまり、学習の伝承。

文明論

政経は学術より低い体系なのは疑えない。前者は基礎であり、後者は建物である。
 我々はどちらの体系をも必ずやつくるのだが、前者は後者に悉く指揮支配される。それは頭脳と肉体の関係にも喩えうる。より高度な部位はそれ以下をおのが統括下に置き、目的のため律して活動させる。
 而して人間社会の目的は文明であり、学術の最先端は常に社会自他の模式図となる。政経は後からこれらの理想に何とか追い着き実現しているに過ぎない。

政策案内

専らの現代日本が執るべき舵先は、
必要武装を「正当防衛専用」の方便と為し、
飽くまで十全経済力の一事で世界最大国土たる威信を全うする事である。
なぜなら平和主義は最高策意であるから。
それは建前と本音を適宜合理的に使い分けることで無敵国立根本を成す。

国風が文弱に流れることを憂う者には、国際親善試合でのsportsman shipを教えよ。
 軍隊、これは最早単なる「威嚇便宜」の贋物に過ぎず。

現代の実態たる武強国威は、世界スポーツ大会での優勝勢独占にある。

然らば軍備は縮小しうるだけ縮小し、限界ギリギリに切り詰めてよいのである。
 我々は軍人を飽くまで時代遅れの馬鹿野郎として軽蔑しうるだけ軽蔑してよい。

軍人、これは謂わば犬と同然である。
何もかも鵜呑みにし、右向けと言えば右を向く、左向けと言えば左を向く馬鹿力の阿呆は
文明の国土に一切不要の無能劣等種類である。
これらは雇われ奴隷に同然の野蛮猿奴に等しい。
少なくとも批判力によりて世論を為すNEET以下の愚民なり。
 一流スポーツマンにでもならぬ限り、日本国民として最下等の人種として日常から顰蹙の対象に違いない。

あらゆるかの家族からの抵抗を私は天下一人、甘んじて受け入れる。
馬鹿に馬鹿と諭すことは紛れない正義だから。

度胸と競技の関連性

スポーツは度胸の涵養で、限界状況への挑戦を繰り返すことでより大胆になり得る。

学問論

政治経済は形而下学に過ぎない。必要最小限度の忠告だけが政経社相への最良の貢献な由。

見識

人間の見識はどれほど高くても決して高すぎない。浮世に属する実存を有する限り、人間は永劫に成熟していく。中庸性は尚も、その極まり方次第で愚物を遥かに導く。学問の競合は彼らの種内生存力を文明度へ誘導する。蓋し、君はゆとりこそがあらゆる理由から鑑みても、彼らの文明度を養育するのを観る。社会集団は同胞感情を用いて、学習された情報の共有によって互いに競うのである。それを人類の生存のための競戯と名づけてよい。彼らは権益という餌の為に鎬を削り、やがては普遍的組織へと至る。

2006年12月17日

文芸論

自らの文体に唯一の正解がない様に、他のいかなる語の文体にも同様に唯一解はありえない。では、我々はなぜ文法を習いうるのか、と考えるだろう。一つには前例を手本にするためである。だから、ある時代において最も質の高い文芸が、およそ未来の教科書となる。二つには創造の為だった。破格されざる文体はない。
 言語表現の妙は、新しい型を絶えずつくりつつ情報伝達の密度を向上させる事であり、我々が文明を緻密にするほど以上の命題は抽象という形式であらわれる。文学は主として、抽象表現を全人的に示す語法上の手本の役割を果たす。口語でさえ暫しここへ従うものだ。なぜなら記録されない音は破棄されるから。

2006年12月16日

大空

冬のはじめどこまでも清き大空

教授

一流に習うものだけが一流に成る。

2006年12月15日

思索

程度として完璧に善悪へ分かち得ぬことによってのみ、人間は同類的である。この中庸錬性において人類各々の倫理は推し測れる。

仁慈

強弱の絶対差による仁慈は人間道徳の根本。

大学

大学は社会に反するのではない。また、社会の道具でもない。

程

万能は程。

余裕

賢者が人生へ十二分にゆとりを確保するわざもまた、処世の才の一つ。

道徳として育つに至った理性

人間は社会展開にあたって余暇を拡充させるだろう。最小労役と最大余暇による自由の享受は人類という自律有機体の普遍的命題。
 如何なる宗教といえどもこの文明の解放を破壊することはできない。道徳として育つに至った理性こそは暫定地球環境への適応行動なのだから。
 我々はより深く懐疑することによってしか思考を発達させ得ない。そして文明がもたらす福祉は常に、野蛮不文の混沌たる憂世を優る幸福をもたらす。

性差

分協業は人類文化の基礎だったし、性差はそうして生産手段へ合理的に体制づけられた。
 我々に自覚があれば、却ってこの便宜へ最適化する事により尚一層権益を拡張することも出来よう。事実、彼ら、時代の性差を全うした個体だけが生き残るのだろう。
 性差の流れは仮に、凡そ生産手段の技術革新によると見なさないべきではない。
 自然は知能を性別に創りたもうた。
 性差は人工的だが、条理に適うかぎりの自然である。

2006年12月14日

協業

不効率な協働をしなければならない以上の不条理はない。

2006年12月13日

専門

今の人生を100年と見積もっても、それだけの閑暇に為しうる研究は高が知れている。則ち、ひとは必ずや他人と分業せざるを得ない。そして協業法の巧みなほど人は大きな達成に近づける。一方で君をそれらへ最適化する方途が専門であることを認識せよ。

学

少年老い易く学成り難し。では彼らが学ぶのは何か。

2006年12月10日

間近

いい天気澄んだ青空間近な冬

2006年12月9日

詩歌論

全人類の魂を救済することを詩の最終目的に置かねばならない。

音楽論

西洋楽音は目的でなく、専ら音楽調律のため利用さるべき道具である。それはつねに仮設的なものであり、予てより練習されてきた抽象の手法でもある。
 結議、純音だけが唯一普通の音色を発する。万世の共有手段となりうる、本質まで音波還元された純音だけが現代音楽の基本原理にふさわしい。蓋し、純音の組み合わせだけが宇宙的律動を精密に顕しうる。そしてその様な楽曲だけが本来の未来派の環境音楽を隈無く形成する。