2021年1月22日

理論と技術の違い。感覚論と、前衛の意義

学問的な芸術家は、大抵、使い物にならない。
 学者は本質的に芸術家とあり方が異なっており、両者を高度に兼ねている場合は希である。
 よく作られている物は技術的高度さを伴っているが、単に理論的に何かを知っている、というだけでそれがよくなしえないのは、大抵の美術史家、あるいは美術批評屋に絵を描かせてみればよく分かるだろう。
 工学者と職人に違いがあるとすれば、理論的認識と、技術的認識にずれがある点である。

 芸術論の中で「感覚 sense」が問題になるのは、感覚の優れ方と、学問的認識の優れ方とは質が異なるからである。美学 aestheticsの原義は「感覚論 αἰσθητικός」で、この認識については、数学の様に、定義、公準、公理、命題といったユークリッド『原論』式の論理的段階を追って、誰もが一様に学ぶ事はできない。ある感覚について気づくか気づかないか、かなり生得的な問題なのだ。そして未知の感覚の拡張に関わるのが、芸術の前衛性の存在意義である。

この夕陽に含まれる全て

この夕陽には全てが含まれている
そして自分は永遠にそれに辿り着けない
自分にできるのはその光に含まれる全てを
なるだけ取りこぼさぬ様すくい上げ
写し取ることだけ
だがその絵もいづれ失われ
この夕陽と共に世界の一部にもどる

コロナで終了東京賄賂五輪

終わったざまあみろいなかにおしつけた原発でイケノブ再稼動公害ごりおし嘘つき安倍マリオ東京賄賂五輪

ツイッター終末論

ツイッターって魂がけがれるから
なるだけみないに越したことはない
そして1年半くらいやってみた結果
全く発信の仕方が分からない
恐らく永久にわからないのではないか
2chもどきみたいなものだと分かった
そこから得られるものは何もないのだろう
ひたすら下衆どもが中傷しあっており
そこで勝つ事もできないので
良心なき精神病質者が最後まで居座り
犯罪を連打してつぶれるのだろう

絶対的利他性にあたる宗教感覚の一起源論

神経症傾向が高く、精神的に不安定な人とつきあう者は、生涯、心休まる暇がないだろう。
 その種の人を日本のネット俗語では「メンヘラ」(2chメンタルヘルス板の人、2ch mental health-er メンタルヘルサー → メンヘラ)と呼んでいるが、高頻度に自殺・自傷して周囲の人々に望むと望まざるとにかかわらず迷惑をかけているのも確かにこの類の人に多いらしく、普段から異様な自虐行動をして世話人の心身・物質面に負担をかけている傾向にもある。

 メンヘラを軽度のものを含むなんらかの精神病者とすると、これらの人々は嘗て、宗教その他の利他主義者の集団に属する事で世話人をあてがわれ、部分的に救済されていたのかもしれない。宗教の力が弱まっている現時点では、精神病者の相当部分に総じて身の置き場がなく、精神科や心療内科での治療と見守りを兼ね、辛うじて国が障害者年金を与えている状態である。
 精神病者を救う事は、医学的・精神分析学的な知識と実践経験のない一般人には現実のところ困難な場合があり、仮に試みたとしても、精神病でないといえる発達状態の人々は往々にして、かれらに大層振り回される事になるだろう。そして実はこの経験への適応性が、本来、とある宗教感覚、救済願望の一起源だったのだろう、と私は思う。

 飽くまで利他行為を習慣づける事は、利己的本能に逆らう。したがって心身の弱者を人助けし続けようとするのは理性によってしかよくなしえない。宗教的悟り以外で、この利他主義を不合理なまで自己犠牲に結びつけるのは難しかったのである。

 無宗教な人は裏を返せばこの絶対的な利他性への信仰に該当する、切実な宗教感覚(なんとしてでもあの弱者を救いたい、という感じ)を、十分に持たないだろう。自然に範をとる自然科学や、それを延伸させた社会進化論の中にある合理主義の枠内で、単なる互恵性(お返しの期待)を超えた絶対利他主義を説明するのは困難であり、実際、それが本能を超えているのであれば、人の宗教感覚の内部にしかありえない事でもあるのだ。

 世界宗教(多国籍・多民族間に広く信じられている宗教)の始祖ともなれば、この救済感を救世主願望(メサイア・コンプレックス)の体系として深めた結果、信仰の影響力がはなはだ大になったのであろう。

真の愛国者と偽の愛国者の違い

匿名犯罪者達は日本の内なる天敵で、かれらは無法行為、悪業三昧をくり返す目的で、実名と素性を隠す、隠れ蓑を使う。
 かれらは都会の雑踏に紛れ、反日誤認のぬれぎぬあるいは純粋な悪意による名誉毀損、侮辱、スリ、詐欺、盗難、暴行、痴漢、殺人や集団虐殺など無際限な悪行をする。

 犯罪教唆の言論スラム・匿名掲示板2chで金儲けし、憲法に定める自由権に必ず伴うべき責任をなくそうとした無法者、東京・神奈川人ひろゆき一味は、あまたの有罪判決から逃れた亡命先でも、日本国とその法をこけにする天敵達の、実質的な首魁級であり続けている。
(なお公益を図る目的の公共の利害に関わる真実の指摘、ならびに、公訴以前の犯罪行為の指摘は、刑法230条の2により、名誉毀損罪にあたらない)

 匿名犯罪者らは、「反日ぬれぎぬゲーム」、「自称普通の日本人として公然と犯罪、悪行三昧するゲーム」その他、見るも穢れるほど卑しい暗愚な振舞いの数々で、表面上愛国者に偽装することがよくある。そして大抵の場合、匿名利用可能な電子掲示板・SNSや、2chまとめサイトのコメント欄などに集まって、自国の多数派、あるいは親日派と称して腐った中身と異なる看板にすげかえ、匿名犯罪を自己正当化する目的の犯罪衆愚の間にまぎれこみ、日々、日本国法ならびにわがくに人倫を卑怯にも、侵害し続けているのだ。
 いうまでもないことだが、これらの行いは全て、一般国民ならびにその中の善良な人々へわざわいをなそうとする卑賤な害意で行われており、真の反日勢力といえば、匿名卑怯者衆愚自身なのは論を待たない。まともな良識を僅かなりとももつ人は、どこの国であれ一般にそもそも匿名でインターネットを利用しようともしないし、当然、自己という責任所在を明らかにして言動するものだからだ。 さもなくば各国民がもっている言論の自由の権利も、他者へ害なす犯罪・違法行為に対する公権力の介入によってしか、保たれないのだからだ。

 実名と所在を明らかにして、ネットであれリアルであれ愛国活動をしている人々に関しては、上記の匿名卑怯者・匿名犯罪者衆愚とは異なる存在といえようが、わが国の真の保守主義者といっていいのは、まぎれなく、これらの実名信頼者にあたる公明正大な言論人・活動家だけである。
 例えば甚だ右派であった三島由紀夫がどこかで、彼の思想信条の主張に際し、卑劣にも出自や筆名・実名を隠していただろうか? わが国をいまだ占領中の米軍追放を安保法による属国体制の脱却ともども志し、自衛隊基地での軍事クーデターという極端すぎる行動に出た部分の違法性をまま差し置くとしても、堂々と現代の武士として振舞っていたのではないか。匿名卑怯者・犯罪者のネット右翼連中は、現実の所、わが国の順風美俗を自ら破壊する、さも右派かのごとく偽装した極悪衆愚にほかならず、実は右派にとりついた寄生虫に違いなく、また古今東西で最大の天敵というべきだ。

 日本語圏の匿名ツイッター民一般は、事実上、2ちゃんねらーの陋習的な残党といってもいいだろう。木村花氏は完全に、三浦春馬氏も恐らく、彼らの悪意ある濡れぎぬで、数え切れない名誉毀損・侮辱罪により心をずたずたに傷つけられたうえ、自殺までおいつめられ、集団虐殺されたに等しいのだった。
 そしてかれら匿名犯罪者達が、禍々しい追随者衆愚ともどもみな因果応報で亡び去ったあとで漸く、日本のインターネットは夜明けを迎えるのだろう。

2021年1月21日

カタカナ外来語への脱戦後対策

日本語の間で英語その他の外来語を頻用している人は、それと同等の日本語を知らないか、外国出羽守俗物主義で馬乗りしようとしていることが多い。
 しかし、嘗てこの方法で日本語は外来語ととりこんできたのも確かで、今では(方言とされる体系を含む)日本語の一部と思われている漢語も、和製の物を除けばそうだった。
 外来語頻用狂は多言語意識高い系といえるが、彼らのその種の言葉遣いの大部分は単に母語圏へ伝達効率が悪化するだけで、特に外国劣等感を持つ人々以外を程あれうんざりさせるだろう。

 通常、心理的に人は理解できた未知の情報量が多い(自分にとって希少性を伴った重要情報を十分消化できる形で一定時間に予想より沢山与えられた)程、その相手の言質を利口だとみなし易い。よって外来語頻用厨の利点があるとしても、その語彙でしか示しえない概念な場合または、言い換えの簡素さその他でより利便性が高い場合を除けば、まやかしによる衒学ぶりだけである。実際、我々にとって古文の範囲でも、当時の知識人らがその種の難読漢語を使った言い方をした晦渋な文については、今でも意味が取りづらいだけに、理解者に読解の手間をかけた上で擬似的達成感によって、或る種の無意味な選良意識を与えているのみなのだから。

 今の国際覇権言語のうち、中国語の方は漢訳(中文化)で一貫性があるのでこの問題が殆ど生じない。未知の外来漢訳語も、さもはじめから母語の一部だったかの様に扱えるからだ。
 一方、英語は古代ギリシア語からの翻訳語を含むラテン語彙が豊富にある為、殆どの事を自前で補えている。
 日常言語の一定の部分に、外来語が溢れているという特殊な事情は、一部の国々にしかないのだろう。そしてそのなかでも特に日本の事例が特殊なのは、明治以後に外来語を訳した和製漢語と、主に戦後、おそらく敗戦劣等感で流通する様になったカタカナ外来語の両者が混雑している上で、発音や語彙の変容を除けば殆ど外来語が和訳されなくなった事である。その種の怠惰は、戦後文化人のうち、特に言語使用を専業にしている語学者や、翻訳文芸を紡ぐ側が作り出している自業自得でもあり、一部の物理系の科学者などは今日の自然科学系論文が一般にそうであるよう英語で話すのを上等視して、ルー語(テレビ・タレントのルー大柴がふざけて使うえせ英語混じり話法)とあまり変わらない言葉遣いになっていたりする。これらは劣化した日本語流暢性を象徴しているというべきである。

 母語話者にわかり易い言葉遣いは、基本として母語に既にある語彙に求めるべきだし、本来の発音とずれているばかりか別の表音語彙化して余計意味がとりづらいカタカナ外来語を淘汰するには、一般的慣行として戦後怠惰世代の悪習を絶つしかないだろう。
 あるべきなのは新たな語彙にあたる外来語の和訳を、これまでどおり漢語か和語の語彙に象って流通させるか、これが特別な事情でできない時にかぎってカタカナ外来語を使い、その日本語での言い換えもなるだけ付記することだろう。

 例えば東京都知事・小池百合子が会見などで使ったアウフヘーベンは、ドイツ語では「拾い上げる」の一般語彙とされるのだろうが(ūf→auf「上へ」と、heben「上げる」から、「拾い上げる・持ち上げる」)、ヘーゲル思想のなかでは対話術(弁証法)での止揚、揚棄という特定の意味を持たされている。日常語として「拾い上げる」を使ったところで、それが弁証法上の哲学的意味づけをされていると気づく人は、専門家以外にとっては逆に少ないかもしれない。小池氏の言説は会見で当人がいうに、その意味の文脈(正反合の各命題)と厳密には同じではないが、少なくとも「止揚」という訳語の文字面の意味で使われていた。
 ここにあるのは和訳の文字面が本来の意味からずれて使われている、外来語馬乗りの一種だとの解釈が東京マスコミ界隈ではなされたが、なぜこの種の混乱が起きるかといえば、外来語劣等感への馬乗りが、奈良時代の遣隋使以来、あるいは明治時代の薩長藩閥以来、日本の関西から東京圏では常態的だからである。
 もしこの場合、適切な言葉遣いをしようとすれば、素直に止揚または揚棄というか、もし矛盾する2命題(ここでは築地移転反対派と賛成派の対立する両論)の止揚を意味させたいなら、「賛否両論の矛盾を持ち上げる」とドイツと類似の語感を使った方が、ドイツ語を知らない一般都民へ伝わり易かった事になるのだろう。もしそれが特に哲学用語アウフヘーベンと同じ意味で使われていると示したければ、止揚・揚棄の語彙を併記すれば(止揚は使用と音が重なるので、「賛否両論の矛盾を持ち上げる、揚棄する」など)、より日本語彙の内部で高度に専門的な意味の伝達効率が上がったのだろう。仮に止揚・揚棄の和製漢訳語が使われなければ、アウフヘーベン(アウヒーブン)をカタカナ外来語のまま使わねばならなかったが、auf+hebenの合成語であるという文字面の表意性も、元来の語彙の正確な表音性もカタカナでは失われているので、ドイツ語彙に詳しくなければ、未知の語彙の段階で意味を受け取るのは至難だろう。

アイヌ語・方言学推奨論

アイヌ語の語彙は、琉球方言(うちなーぐち)と異なり、日本語と文法構造そのものが大きく違うことを考慮して、アイヌ語単独の学習を語学の中に位置づけるべきだろう。例えば英語、中国語、その他の外国語を専攻する人と、アイヌ語を専攻する人を同じ立場から学校その他で選択させ、国内少数言語としてはじめからアイヌ語を使える人をふやす様にしなければならない。この絶滅しかねない言語学習の危急な重要性は、特になんの珍しさもない英語など話者数が多い覇権言語学習のそれより、遥かに高いといわなければならない。
 同じく、既に失われつつある方言とされている国内各地の言語体系も、郷土教育の中で各地のものが一般的に学ばれた上で、特定のものを国語の学習内で専攻として選択できる様にすべきである(茨城弁専攻、青森弁専攻など)。

間違った社交性

卑しい人達とつきあっているとその人達と似てくる。そして遂に同類になる。だから我々は社交性を努めて制限しなければならない。
 悪人達が集まって党派になり、やがて国を作ると、悪業を集団で公然と行う様になってしまう。だがその始まりは、卑しい人達と妥協してつきあう、もしくは、気づかぬうち不良に交わる、という間違った社交性だったのだ。

 松下村塾のテロ集団は、東亜一帯に凄まじい戦禍と悲惨をもたらした。中古奈良で天皇の元につどった神道教団は、やがて国内外に侵略蛮行を働き、教祖の名の下に大量虐殺を行った。
 これらの悪魔集団は、はじめ、彼らが悪徳を講じているとは知らなかった。自分達を絶対正義と信じきっているその不良仲間が増長した時、既に事態は手遅れだったのだ。
 松下村塾のテロリスト達は大勢がおよそ例外なく、その非人道性のため刑死になったり、あるいは戦で自滅したり、暗殺されたりした。天皇・神道信者らは侵略戦争その他で大量死した。そしてかれらの残党にあたる吉田松陰信者、天皇信者らは今も、悪魔崇拝が正義だと信じて疑えないのだ。

芸術の才能がない人、感性が死んでいる人、ある悪趣味な奈良人

芸術の才能がない人は、何が美しいのか知らない。
 感性が死んでいる人は、どれほど綺麗な田園風景の前にいても、何もないと言う。
 ある悪趣味な奈良人はいなかにある貴いものを中華思想で軽侮し、都会の下卑たものを周りの下衆にあわせ貴んでいた。

悪徳の束

某・反孝行論者のせいで気分が悪い
そいつのせいで
ナチスの悪行まで知ってしまった
悪いやつって
背後に悪徳の束みたいなのがあり
それが言わずと知れてしまうのではないか

雪融けヒーターつきソーラーパネル

積雪地の太陽光発電パネルには雪融けヒーターをしこんでおくことで、雪下ろしの負担も軽減され、自然エネルギーも無駄にしない。

2021年1月20日

立派な芸術の一生

我々は偉大なごみを作る
そしてそのごみを宝かのごとく崇める
だがそんな偶像崇拝も終わりが来て
遂に廃墟になる

悪い人達の日常

悪い人達は社会をより住みづらくしていく。

上智と下愚

低俗な人たちはずっと低俗。
軽薄な人たちはずっと軽薄。
立派な人たちはずっと立派。
高貴な人たちはずっと高貴。

科学と芸術の根本的な違い

科学は学びうる体系だが、芸術は学び得ない体系だ。

KPOPの外観主義批判

なんかこれ違うんじゃないかな、とニジューに感じていたものの正体がわかった。かもしれない。結局これって作り事の作り事、真似のまね、模倣の模倣で、二重模倣だから偽物臭いのだろうと思った。しかしその偽物臭さ、パチモン性が逆にある種の魅力というのか、「もともと日本製品をぱくっていた韓国製品風のままで、主要部品だけ日本製の韓国製品」なる相当の特殊分類に該当するので、流用芸術みたいな趣がないこともなく、それが自分をわりと混乱させるのだろうと思う。

 色々副次的要素もある。整形手術前提な外観主義のKPOPが、演出とかも拍手を音声で捏造していたり、ファンダムが無理やり順位操作する文化があったり、パチモン性があるのは当然として、そのJPOPのパチモン感を楽しんでいたのがいわゆるKPOPを日本側で聴いていた人達の感覚であった、はずだった。もしかして、そういう客観鑑賞をしていた人達がいる、って事を、KPOP側、特にパク・ジニョンは無自覚で、今度は素でパチモンを日本人女性を使ってやりだしたのかもしれない。
 はじめの領海侵犯はトゥワイスだった。しかしあれはもっと高度な技を使っており、東亜女性を多国籍集団化していた。台湾人、韓国人、日本人が含まれていた。ほかにも自分が観察してたかぎり「宇宙少女」には中国人が含まれており、アイズワンは秋元康AKB系の女衒手法をそのまま日韓混じってやっていた。

 大体、アイドル音楽はどれもこれも作り事で、そこでの役者(女優)自身は操り人形状態で、特に自由度が高いわけではないだろう。曲も振りつけも歌詞も演奏・演技する場もすべてプロデューサー側が作ってくるので、当人達はそこで舞うだけという、芸妓か妓生のうち舞妓的なもの。いわゆる本物の舞妓の方が個人的接待空間で踊るんだろうし、まだ自由度が高いかもしれない。J-KPOPアイドルの場合は公然と踊るだけに、そういう私的な揺らぎみたいなのは基本的になく、ライブとかでなんか話すとか別の番組にでて語ることもあるとかでしょう、多分。要はアイドル当人らはアーティストとなのっているが、配役としては応用芸術的な「役者(女優)」に近く、音楽家としては微妙な位置づけである。
 音楽ジャンルでこれと最も対極に位置づけられるのがシンガーソングライターとか作曲家、作詞家、オリジナル楽曲の演奏家でしょう。アイドルらは自分では基本的に何も作っていない、独創性の余地があるとすれば決まった踊りとか歌とかの微妙な部分にすぎないし、殆どAIとかの曖昧加減で賄える部分だけに、バーチャルアイドルが出てくる。初音ミク以後のボーカロイドもこのアイドル性を模倣した歌手であり、Vチューバーとかがその芸能性まで含めての存在といえよう。

 どっちにしても偽者性、よかれあしかれ非独創性、作り事感が最初から甚だあるのがこのアイドル音楽という分野であったのが、遂に開き直ってきた感があるのがニジューで、デビュー前になぜかモギケンがツイッターで大礼賛しており、なにいってんだこのヒト? と僕も驚愕していた。
 もう一度書くが、デビュー前に大礼賛。
 意味わかるだろうか。
 なにいってんだ? としかいい様がない。まじで。何をしたいのか。だからツイッターやっていたので、当時。返信欄でつっこみまくったが相手は全く無反応でした。まだデビューしてない段階のアイドルグループを大礼賛ってなんなんだろう。辛うじて1個だけMVがチューブにあがってたかもしれないけどさ。この人は芸術とかを評価しているのではないのである、何か別の物を評価している。質感原理主義とかそっちのけで。

 辛うじて推測できるのは、KPOP勢のパチモンを日本人使ってやるらしい、という事前評だけを聞いて、ブラックピンクとBTSに次ぐ存在になってほしい~みたいなことをモギケンはいっていた気がするが、これも素で意味不明。そういうことじゃないでしょ。音楽って。人気とりゲームじゃない。音楽の質がいいかどうか、多くの人たちに感動を呼ぶかどうかなんであって順位操作とか含め、一見人気っぽい姿でアメリカを文化侵略すりゃいいってもんじゃないのだ。僕(ら)が感動できない音楽をどこの国のヒットチャートで、例えあいてが軍事または経済覇権国だろうが、どんだけ流してようが自分には「あっそう」と昭和天皇みたいにいうしかなくなる。親が戦争でしにました、あっそう、お勉強なさいね。そんなである。違うけど。これは不適切なたとえであって、正確には「あんたのせいでしょ」なのだが。

 問題を整理すると、順位操作系のKPOP音源総攻は常態的に卑怯な手として行われてくるから、その種のパチモン文化部分まで、ニジューはもちこんできている。だってデビュー直後になぜか紅白出演。僕はわりと毎日ユーチューブみてますが(おもに音楽とか教育系チャンネルの聴取で)、確かにニジューの最初の楽曲はなぜか、Jヒット系ランクでの上の方にいたが、曲自体はうーん、って感じであり、同時代的に存在するKPOP勢の中ではちょっと見劣りするんじゃないの、って位の質である。正直。それもあるだろうし、所詮パチモンみたいな感じでKPOP側のランクではあんまり上じゃなかった。大衆歌に質があるの? という話なら、きっとあるし僕はそれを見分けられる人間だ。ポピュラーソングを子供の頃からずーっと聴いてきて。単に長く聴いてたら見分けられるの? いや、僕はJPOPのちょっとした研究者くらいのもので、そこでのありようの変遷みたいなのを知っているので、これはいい曲、これは雑魚みたいな直感が働く方だ――もし謙遜なしにいえれば、ゆるぎなく働く可能性がある程度に、審美眼を鍛えようとしてきている、といわざるをえない。だって自分自身がその辺りに深刻な需要がある音楽ファンだからだ。よくない曲なんて聴きたくない。
 殆どの歌手・バンドは雑魚だからその場の流行で消えていくけれども、一部は名曲として度々カバーされるということが起きる。そして手法そのものが次世代に継承され、応用発展していくといった音楽史的な流れも、ちゃんとあるのだ。そこも、当然、音楽史の一部で、大衆音楽界なのである。

 ポピュラーソングは音楽界では下の扱いされている。音大で軽音楽は美大で漫画くらいの扱いであろう。ない事はないが主分野とはみなされない。これは色々理由がある。主として調性音楽からの影響が本流としてあり、それをぶち壊した無調音楽があり、やがて電子音楽、そして民俗音楽などをとりこんだりすることもある現代音楽へという楽典の正統的な習得順序がある。そういう流れの上に立ってないと武満徹、上妻宏光、鈴華ゆう子とかが音楽史的に理解できないわけである。
 これと同じ意味ではないが、このポップソング業界には別の文脈がある。それが上記した様なアイドル音楽の系列にも当てはまり、広くJPOP、KPOPといっても色々で、アイドル音楽とかちゃらちゃらしやがって、というJROCK勢みたいなのは普通にいる。タモリの音楽番組ミュージックステーションでも同じ日に同じ場に出ておきながらアイドル勢と一定の距離を置いて座り、飽くまで心理的距離だが、自分らはこいつらとは違うみたいな微妙な差がないわけではない。一番顕著だったのがその番組でラルク・アン・シエルがビジュアル系扱いされて切れて帰ったやつである。切れて帰ったのは話題づくりのためにロシアのアイドルデュオ・タトゥーもやっていたが、ラルクのは本気だ。
 外部の目にはどんぐりの背比べじゃねーかって話なのかもしれないが、当人達からするとプライドを懸けた真剣勝負をしており、ラルクは自分達がロックバンドだといいたかったらしい。ロックンロールはビジュアル系の見た目派手なのが重要じゃなくて音楽性を評価されているのであって、一緒にされるとは心外ですねという意味で、テストステロン高い系の行動を誇示する形になったのでしょう。昔のロッカーは来日ライブでギターぶっ壊して吼えていたのもいるそうだが、僕はそういうのは嫌いだ。発情発狂してる女勢がいるライブ会場なるものには二度と近づかない。昔ミスチル桜井に発狂した猿から侮辱され心を傷つけられたから二度と行きたくない。それ以来、ミスチルもアイドル稼業の一種だったのか? と冷めてきて派生的にではあるけれども、自分の純粋な音楽趣味と一定以上の距離感を感じ、曲単体の評価とは別にバンドのサル山ハーレムぽいありよう自体はあんまり好きじゃなくなっていった。因みにミスチル桜井氏はそのときライブで赤シャツ(赤いTシャツ)着ていた。

 ニジューにもどると、この人たちはパチモンのパチモンであるから、どこにもオリジナル感がない筈が、独特の独自性もあるといった多義的存在で、メンバーが京女と東京女だらけ、そのうえ石川県勢までいるといった風情でどれもこれも文化背景としてプライド高そうだしそれだけに馬合わないことが多そうだろうしそりゃー休業メンバーふえるでしょ、情緒不安定な未成年だし。という、祖国では餅ゴリラ視される人物による日本素人感満載のくみあわせなのも含め、韓国的なパクリ文化の極みみたいなものなわけだ? 誰もこれを指摘していないから僕がやるしかなかった。勿論、日本もパクリで成長してきたのであるし、他国も他国に影響を受け、まねあう、学びあうから発展していくのだし、プラトンの時代からアート模倣説もあるだけに、別にパクリだから悪と言っているのではない。しかしオリジナリティへの疑義とかいう既製品美術や模造、シミュラークルのメタ目線文脈でいってのパクリ、なのではないのだ、これ。JPOPをパクったKPOPをパク・ジニョンがパクったJPOP。そこには中身といえるものがいってよければ特になんにもなく、もともとKPOPには中身がほとんどないですが、それがさらに軽薄化されていると解釈されるしかないくせに、子供が真似易いあたりさわりのないティクトク系振りつけ曲に、メンバーさえなんか微妙な気がする感じだけは秋元康風という。最後のは偶然かもしれないけれども。つまりここでいわんとしているのは、この人達、ソロで売り出せる? ってレベルのヘタウマ感があるメンバーもいるのが確か。そんなもんだが、もともとアイドルなるものって。スマップ中居の歌とか。最初にオーディションで何人選ぶと決めてかかってるアサヤン形式だから、相対評価の結果であって、絶対的才能で個別に選んでるわけではない。

 ダンス文化が日本の義務教育に入ってきたのも僕は前からカワイソ、と思っている。日本人って基底が恥の文化、とも『菊と刀』『武士道』などの日本論ではいわれる。そこで踊らされるとか拷問に等しいから。今の子供の過半は拷問に耐えている。僕が子供だった時代の文科省の迷走じゃないから自分個人がそこまで辛い思いをしているわけではないが、子供当人達は相当自殺してるし、政府ぐるみでの強制辱めの結果もあるに違いない。そしてその恥知らずども中心の社会を作っているのがこれまた恥知らずの東京人どもであり、中央文科官僚であり、まさにKPOPモドキ世界観を植えつけているのがパク・ジニョン大権現による、二重パクリ系攻勢、すなわちJPOPパクリ文化逆輸入での日本侵略でもある。このあたり、パク自身がそれじゃダメだ、芸能音楽的にノンポリ(脱韓流、非民族主義)じゃないと音楽プロデュースとして生き残れないと発言していたりするし、同時に、各国では韓国政府による文化征服(いわばクール韓国)の意図通り、芸能母体である韓国そのものに好印象をもつ人々が無意識の洗脳過程によってふえている。かなり繕ったものとはいえ、理想美にかかわる、ほどあれ快適な情報を歌と踊りと演芸へ確実に結びつけてある以上、まるでアイドルみたいな人達が韓国にはあまたいるに違いない! 心身壮健なもしくは幾らか不良じみたセクシー系の美男美女だらけに違いない! なる妄想が韓流ファンには植えつけられるしくみである。そしてそれを利用し、しばしば素の韓国右派の政治性といおうか、地の民族主義を潜ませつつあったのがBTSで、派生的にナチハンターに見つかったからまだいいものの、そうでなかったらネトウヨ悪玉論の文脈でBTS大勝利! で日本でも片付けられ、彼らはなんら危険分子でなく、逆に日本人左派の大分勘違いして解釈した反日帝アイドルの神に成っていた可能性すらある。現実のBTS、特に毎度炎上するリーダーのRMって、韓国側で、最低でも秀吉の侵略、朝鮮併合の失敗以来潜在的にいるだろう、ただの反日分子を超えて、親米親韓、ファッション・ネオナチ肯定の傾向もみられる、恨ごっこっぽい民族主義者に近い政治思想の持ち主なんだろうけど。事実、かれらが日本人左派のアイドルになりつつあったのを僕は同時代的にツイッターでみていた、そして流れを変える必要を感じ、色々な論考によりネット上で批評していたのだった。
『BTSの分析』
『BTS楽曲のレディオヘッド楽曲との比較分析』
『KPOPのサルマネ商品曲で各国音楽チューン盗用侵略面は日本勢がわざわざまねても文化的多様性の本義からも国内市場規模からもなんら意味ない説』
『親韓無政府カルトとしてのBTS軍隊批判』
など。ほかにも色々書いたけど。要は、日本人左派は親米親韓系のグローバル反日分子として利用し易いキャラクターがでてきただけに、これを好機としてかれらをもちあげ、「ほらな、日本はダサい! 韓国の言う通り、欧米は神!」というかなり稚拙な一見文化論ぶった政治文脈を作ろうとしており(なにせ、文化ってのは多元論や相対論にもとづくかぎり飽くまでも上下関係ではないのに)、具体的にいうと又もモギケンがそうだったんだけども、これはさすがに薩長土肥すぎる不公平な文化論の観点だったので、御三家御三卿おわすどころか最後の将軍が輩出崩御された地域の一知性としてまーた脱亜入欧かと暗に反感を感じ、ひとりでぼろくそに叩いてやったのである。

 僕は親日反日二元論が政治哲学的にしょぼすぎる観点だと思って余り相手にしてない。三笠宮の言う通りであって、純然たる極左、例えば東アジア反日武装戦線みたいなのってちゃんと明快な観念論者として存在し、そういう一部の例外を除けば、別に日本単位でよしあしとか大概どちらでもなく、そんな白黒はっきりつかないわけである。

偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。
――三笠宮崇仁親王
三笠宮崇仁『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』光文社・カッパブックス、1959年、冒頭頁

親日の意図でやったら結果が反日、反日の意図でやったら結果が親日も常態的に起きているし、大体、全ての人にとって100%白黒どっちでもない行動がこの世の現象の殆どであろうし、それどころか親日・反日を利益に基づいて判断するかぎりどこまでいっても利己主義を免れずわが国が国際社会の天敵とならざるをえない。例えば他国に有害な行いでも自国の国益の為に行うべきだ、と判定され得、帝国主義と変わらない。だから親日反日二元論者は理論的に国際主義以前の自民族中心主義、それも実はただの自己愛に根ざした利己主義を引きずっているという意味では、単に子供じみた正義論の考え方というべきだろう。
 ジャンプの少年漫画ならわかる。悪が鬼で鬼をぶちころせばいいのだと。桃太郎みたいにね。アンパーンチとね。けれども、福沢諭吉が『ひびのおしえ』で桃太郎批判を書いてたが、鬼からみれば桃太郎が侵略犯なので偉くもなんともないと。伊藤博文、西郷隆盛、坂本龍馬、どれも彼らの内乱罪・外患誘致罪の被害者側、すなわち一般日本人とか一般韓国人からみたら偉くもなんともない。ただのテロリストである。いまだに明治政府に洗脳されてるやつを除き、歴史学者でかれらを正義の英雄と捉えてるのがいたら笑い者である。いまだ大河ドラマで参照しがちな司馬遼太郎とか、純然たる嘘つき稼業(小説屋)なのでもっぱら信じてはならない。小説ってのはもとが、東洋だとそういう非正統的かつ非科学的な俗話の出自なのである。ノベルの訳語に同じ語が適用されちゃったから混乱を招いているだけだ。

 しばしば二元論自体が現実分析にとってはあまりに単純すぎるんだろうし、少なくとも親日反日二元論に関しては、それで第二次大戦で負けたんでしょとしかいえないメタ認知のなさが半端なく、米英級の知能水準でよく生きてられますね、というのが僕の正直な感想でもある。日本軍が神の軍隊だと思い込んで大陸侵略し、罪なき人達たちの百人斬り競争やって死刑になったのもいたのが両薩長軍人なるものの一正体。であれば、そこにあるのはただの野蛮な殺戮、征服欲に基づいた利己性だけだろう。蛮族にとっては親日反日二元論で濡れぎぬ着せまくって暴力振るえば勝ち組だと思い込んで鼻高々なのかもしれないが、それってネット内外の自称右翼中に正真正銘の極悪人も人数不明に潜んでいる事しか示さない。かれらの相当部分は極東軍事裁判で処刑されざるを得なかった。南京事件その他の大量虐殺主導者にして軍部統帥権を持つ有責者の代表格といわざるをえない昭和天皇が生き延びたのが、幾らGHQ間接統治上の便宜だったとはいえ、世界倫理にとって不穏な話だけれども。じゃあ欧米勢のアジア・太平洋侵略の罪は? となると彼らも全く免罪できないが。

  もう一度BTSにもどると、モギケンはBTSを音源総攻で神扱いしていたので、既にKPOPなるものの文化に着いてこれていない。別についてくるつもりもないのだろうけど。KPOPでいうチャートってさほど機能してない。あれはファン投票みたいなもんだろう。ファン以外にとっては「で? 誰?」なのをファンダムが無理に引き上げる。JPOPでもその種の腐敗文化しか残らなかった。秋元康とつんく、今は亡きジャニー喜多川という計3人のアイドルプロデューサーが東京メジャー音楽圏をそういう焼け野原にしてしまった。それをそのままなぞっているのがKPOPの現状ということになる。CDうれなくなった途中から、だーれもオリコンとか信用しなくなったろう。ユーチューブの順位操作もそろそろそういう段階に入っている。無論、最低でもブラックピンクとBTS席巻ころから、ビルボードももはや同じ文脈で信用ならない部分が入ってきているだろう。日本勢がその流行の存在すら遅れて知った坂本九『上を向いて歩こう』の頃とは、ヒットチャートの成り立ち方が何もかも違っている。要は、多少あれ偽チャート化。

 ニジューの模造品感のなかには、日本女なるものが韓国女的な整形文化の中に巻き込まれていく様な要素がある。KPOPメジャーは悉く外観主義だからである。そしてこれは日本文化の古きよき魂を破壊する。新渡戸稲造が前掲『武士道』で書いたとおり、人の究極の価値は心であり、人の外見についてあれこれ評するのは下品、というのが日本の、少なくとも東国の伝統的な貴族道徳であった。一方、関西圏は昔から微妙に違う。それは京都はじめ古代中国・朝鮮人(弥生人・渡来人)移民地区だったし、そこに中国長安風の条里制、中華思想はじめ中国・朝鮮系の文化をまるごと移植して混和させてきたから、と解釈するのが自然で、そこから遠く離れ、より長い歴史を持つ先住人由来の独自文化圏をつくって維持してきた東日本の、特に江戸期以来の関西人移民地区であるといえるだろう東京・神奈川を除く圏(非東京圏)とは趣きが異なっている。中世京都人の手になる『源氏物語』には、末摘花なるしこめの描写があったり、明らかに外観主義の要素がある。そうであれば、現実に血統(Y染色体ハプログループO1b2系統の弥生系)的にも帰一の関西人一般が、非東京圏の東日本側より、韓国側に一部近い趣味趣向を持つとしても、そういうこともありえるとしかいえないだろう。在日韓国朝鮮人の大部分が、親和性の高い地域なんだろう、京阪神と東京、そして出入り口にあたる山口に集中している傾向なのもこれを裏づけるかもしれない。実際、偶然かもしれないが、トゥワイスの日本人メンバーは3人とも京阪神人だし、ニジューも過半が京都・東京人である。これらの人々が、歌舞プロデュース内での外観主義要素にさほど疑問を持っていないのは確かであろう。しかし見る人がみれば「こういうのはちょっと」ってなる。

 実際、僕は日本の精神主義にどっちかといえば親和的な考えを持っていた或るイギリス人が、KPOPを批判して、「貧しい家の子供が悪い大人に踊らされているのか? 気分が悪くなった」と感想を漏らしたのを聴いた。イギリスも確かに、特に中流以上では、日本と似た様な精神構造があって、人を外観で不躾にあれこれ差別するより、紳士らしい振る舞いとか思いやり深いプラトニックな感情の方が重要だ、と貴族精神の名残があるかもしれない。
 だとすると、韓国勢が親米化した結果として、ますます既存の外観主義――宗主国への貢物としての韓国女性(コンニョ、공녀、公女・貢女)への外貌選択も、飽くまでも奴隷として決して望ましい形ではないにせよ現実に存在したろうし、実際そこから奇皇后の様な元朝の皇妃にまで出世する者が出現した。また中世身分制のもとで一般韓国女自身にとって当時、先ず唯一の実力主義的(努力によって可能)な出世の糸口でもあったろう妓生文化に遡源をもつだろう傾向――に磨きをかけ、米国で通例の堕落したプラトニズム、肉体主義的美意識(三島由紀夫『若きサムライのために』で指摘されるところの、一種のマッチョイズム)に接近し、これをさらに強調・増長させているのは確かであろう。つまり、外観主義の面で韓国と米国の文化的美意識ははからずも相性がよかった。それをそのまま日本にもちこんできて、なんか違和感あるな、ってのがニジューの存在なのである。幾ら見た目がよくてもそういうことじゃないよね、人って。と直感で感じるわけだが、モギケンとか大体が鈍いし、子供は子供でアホも多いわけだから気づかないのだろう。それで実際に韓流にダメージくらいまくって、僕が「いやいや。外見とかじゃないでしょ。人の人たるよさって」とどれほどつっこもうが、20代前半の或る関西女とかガチで必死になって親の金分捕って整形手術していたし。しかも母親に泣かれて、家を追い出されて、その手切れ金で整形手術。カルチャーショックにもほどがあった、僕にとっては心底物凄い話だ。だって少し考えれば、大切な親から貰った顔を大事にしなきゃ、他の人と違う個性が私だもの、となるはずだ。男だろうが女だろうがだよ。なにゆえ周りに見た目なんぞで羨望されたいのか。どうでもいいではないか。両班家系除くとなのか、広く同族社会らしい韓国側では家名を誇るという武家的な発想がないのではないか。大体が武士に見た目とか別に必要なかった。強ければ、賢ければ、一端事あらば勇気があり、普段からなおのこと主君へ忠義厚く、世間様に義理を欠かさず、家内もしっかり治まっていればわがひたちの国のもののふなるものとは、それでよかったのだ。坂東武士ってそういうもんだ、武家の女性もさ、良妻賢母って気立てじゃん。見た目がーとかそう重要じゃないっしょ。東横おちゃらけ芸能人じゃあるまいし。自称京都の関西だか自称ひがし京都だかでさ、チャラってる公家だかさ、江戸っ子町人風情じゃあるまいしよ。まー僕は公務員家系だけど。血統的には農民と商人がまじって、明治維新で公務員になった人の子孫かもしれないけどさ。風紀の問題だ。
 古代奈良人だって飛鳥時代以後に移民してきた朝鮮系でしょ、元々。ナラは朝鮮語で国だし、当時の先進国語をいまでいうカタカナ外来語感覚でとりこんだに違いないのだ。同じ韓流が入ってきてても反応が大分違う文化(茨城側からみたら意味不明なくらいの無批判とりこみ反応)にふれて、奈良って昔も今も韓流移民地区なのかと再確認。かしまみこりーなとか水戸ご当地アイドルとかいた様な気がするけどさ、見た目がーとかじゃないと思うんだ。多分。あんまり興味なかったですけども、もっと奥ゆかしい精神があるんじゃないかな、さすがにこっちは。水戸の梅大使とかもそうだと思うよ。水戸の美意識はさすがに皇族・公卿・将軍・公爵とか貴人が移住してきてるだけに、みやび系じゃないだろうか? 日立さくらメイツとかいうのも、唯の美人コンテストの類ではないのではないか。逆に南関東圏、東京圏のミス何大とかいうしろものって、一部アイドルオーディション級に、下品な場合がある。なんていうのか表面的に整形がーとかの良さじゃないはずだ、茨城の公的判断でいう美って。そこに美があるとしても「奥ゆかしさ」じゃないかな? うーん、女性らしさの一種が内面性として現れている場合のよさを、茨城県だと公に褒める傾向にある様で、それってただの外観主義ではないし。美意識が韓国一般、特にソウル市での大衆商業芸能系のそれと、一定程度ちがうのはおよそ間違いがないと思う。勿論、東京でいう「萌え」でもまるでない。断定してもいいけど、茨城側で萌えってはやらないし。一部の人の中でははやってんのかもしれないけども、親も家族もだれもいってないし、友達らもいってなかった。いきだねえ、とかも基本的に全然いわない。茨城最北部って江戸・東京の影響はさほどなくて、粋文化圏でも萌え文化圏でもないのだろう。
 日本だと、特に東京地方や関西地方に中国から摂取した天皇中華思想が現役で残存し、それらの大都市部では出身・居住地差別が激しいので『翔んで埼玉』みたいなろくでもない地域差別漫画が存在する。埼玉って元々東京と同じ武蔵国なのにね。それって京都市『世界文化自由都市宣言』での観念論もだが、東京文化中華思想でもあり、茨城側から見ると悪趣味で酷いなあってのを東京人って褒めてる形跡が大いにある気がする。例えば僕からみたらアニメ『君の名は』って低俗すぎて到底みてられない。はっきりいうと吐き気がする。まぁほかの茨城人はみてられるのかもしれないけど。ほかにも、例えば裸像でもこっちって日本芸術院の重鎮で日展理事級の能島征二さん(都内出身)という人なんでしょうが、なんというのかお堅い戦後彫刻の系譜でしょう。ロダン経由で入ってきた佐藤忠良的なリアリズム文脈といおうか。正直いって彼の作品は、歴史的人物像以外の普段つくってらっしゃる女性像については以下で説明する理由で、僕は、微妙かなと思いますけども、ま、僕がまだ若いだけかもしれませんがね。年下が好むものって一般に、精神的にまだ浅い場合があります。わたしも子供の頃は伝統日本画とか渋みって一体何がいいのか、わかってなかったりしました。それというのもかれの普段の彫刻作品は、飽くまでポップな面白味がない、よかれあしかれ教科書的なものだから。THE普通の彫刻といってもいい。それで教科書に載る偉人をさほど強烈にデフォルメせず表現するなら向いている。まことに正格なので。しかし一般女性作られても、普通の人ですし、って感じである。そこにある種の静謐性を帯びさせようという試みが彼の彫塑なんでしょうが、成功してるね、と思った試しがないのが僕の感想。これは難しいに違いない。だってダビンチによる貴婦人像、いわゆるモナリザとかもそういう試みだろうけどさ、凄くまれなのだ。一般人がなんらかの神聖性を帯びるって。よほど注意深く作られないとただの人じゃん、となってしまう。ただの人を量産するのもなんらかの信仰のあかし、現代美術として面白いかとは別にヒューマニズムの表現ともいえますがね。チャック・クロース的といおうか。尤もしかしながら、東京で現代美術神扱いの村上隆の裸像に比べたらそれはそれはましでしょうね。品位の比較でだけども。もっとはるかに仏像っぽいもん、能島氏のは。みたらわかるけど、端的なエロスとかではない。裸像自体が古代ギリシアのまねごとどうなのっていう論点をここでは無視すると。 

 で、韓国だったら『外見至上主義』が特有の美意識、文化小中華思想風の図式(スキーマ)にあたり、見た目での差別が甚だしい社会だ、ということを、飽くまで儒学の『孝経』に反するわけだし、向こうなりに戯画化しているわけだろう。韓国社会にそこまで詳しくないだけに完璧にいいあてることはままならないものの、文物から読みとれるかぎりではモッ(멋)という昔からあった貴族的な美意識は廃れて、今は多分目立たないのだろう。代わりに出てきたのが、KPOPと韓流ドラマに代表される、整形前提の強烈な外観主義だったのだろう。多分。

 このあたりの事情を無視し、KPOPアイドルのパチモンいいよねとか意味がわからない。モギケンはいつもそうだが、取る観点が軽くて浅すぎる。それって深刻な外観差別に繋がって、内面はどうでもいいという不道徳かつ性的に不埒なだけの東京・京阪神の庶民圏では前からそれなりに普通だった町人社会風のありようでしかないのかもしれないけれども、そこで若い女が次々自殺しまくるのも、まあ、むべなるかなではないだろうか。もし自分が若い女で外観で差別されるのが前提の社会に生まれ育ち、そこで別に見た目がよくなくて整形手術もしたくない、となれば自殺もときに考えるであろうし、幾ら抵抗しようが外見至上主義のアホ過ぎる関西人、ゲスすぎる東京人、軽佻浮薄すぎる韓国人に囲まれ身動きとれず、逃げ出すことすらできないか、その外に別のまともな世界があると想像すらつかずに生きていたとして、そりゃー絶望して死ぬやつもいるだろうなって話。だってしばしば後天的な努力の結果として、精神、心が幾ら清く正しく優しくいい子だろうがそれは完全に無視され、紫式部とかいう三文作家の心無い描写みたいに生まれつき差別される社会って生きてて意味あるの? しかも当時身分制だし、二重に人権侵害で人でなしと思わざるを得ない。ついこないだも、そう(生きてる意味がないと)言ってたうごくちゃんとかいうやつが自殺してたらしいけど。

 その人個人が精神的に病んでいる奴だったのも含め、この辺りのコミュニティはもとからやばいのもある。端的にいうとユーチューバー事務所のゲーム実況界とかある種の文化的下流コミュ(どういう意味でかなら受けた教養教育と、自己修養の質が一般的に低い)なんだろうけども、しかも和ゲーマーって通例、外向性が高いリア充の逆系統なわけで(神奈川県立某高校の低偏差値系ティクトカーとかそっち系統も別の意味で、授業学業そっちのけで恥知らずのお馬鹿キャラもいるんだろうけども)、基本、チューバー側っていわゆる陰キャと呼ばれる根暗連中メインだろうし、そこが罷り間違って俗受け大衆市場になってしまっているのでどんどんある種の頭の悪さへ向かっての競争、内輪受けエネルギーで俗受け至上主義による人材淘汰が行われている風に思う。今にして思うとヒカキン・はじめしゃちょーら元祖・和チューバーがその最初期リーダーだったのだろう。
 かれらウーム系の追随者にすらなりきれなかった者らのなかではさらに低俗なものが沢山いて、逮捕された某迷惑系チューバー以後でゆとり全開の俗悪系のもまだ色々でてくる可能性が残っているのは予想がつく。誰か自殺した直後に煽り動画で売名系とかもめだつ様になっているが余りグーグル先生から規制されていない。まだ。

 どっちにしてもKPOPのパチモンは、その種の下流コミュとほぼ同じ層に訴えてきている、外観主義あおり的なものである。そしてそれがよい影響かといえば、生得的差別だの実現不可能な完璧主義による半永久挫折の不幸感だの、不孝、あるいは心の価値を無視または相対軽視させる不道徳だのをあおるだけに、慈悲ある社会にとってまこと悪い影響に違いないのだが、東京社会そのものが前からそんな自堕落レベルなのでそこでの大衆商業主義に反省もないだろうし、どうしようもなくなっている。近づかない。これが唯一の正解だ。モギケンにこの点、幾ら説教しようが反省などしないだろう。なにが問題かきっと気づけないんだもの。パク・ジニョンに幾ら説教しようが、別に見た目がどうあれはやっていたキロロや、反外観主義の要素を多分に含むノリアキなんざ多分、参考しないだろう。

 僕は物の本質を直感でみぬいているのでニジューはどうなんだろうなぁ微妙なんだけど。と大まかに上記の理由で思っている。その文化的影響が日本と世界の将来にとっては、社会風潮の軽薄化という負の要素を多分に孕んでいることは恐らく確かだ。それに気づいている人は潜在的にはいるだろうが、僕みたいに鋭敏な感受性を持つ人の方が先に、不可避にしかと自覚する。それでこういう論考を書かざるを得ないのだが、歌って歌が重要なのであって、見た目とか実際どうでもいい。本質を外した偽装。
 応用芸術ですと、1人のBTSアーミーがそういってきた。芸能が重要なので音楽性の本質とかどうでもいいといわれた。発情できて擬似恋愛対象になっていれば夢中で金を貢げるので、それがどんな偶像崇拝でもいいという内容を言っていた。なるほどそれは邪教である。音楽は邪教だろうか。僕は単なる芸術創作とその鑑賞だと思う。だから歌曲にせよ歌舞にせよ器楽曲にせよそれ単体で評価されるべきであり、別にその作者だか演者だか当人へ好意を感じるのがあってもいいが、それと芸術性そのものの評価は切り分ける必要があたりまえにある。純粋芸術の世界はそうなっているのだ。だってテレビ芸能娯楽界みたいなお遊戯発情ごっこの歌舞伎世界じゃないから。基本が。歌舞伎自体は一枚目、二枚目、三枚目の概念があった様におそらくそういう偶像ファンダム社会に近かったろうけども。歌手に発情がー。アイドルと握手権がー。全く意味がわからない。その歌自体がよいのか、その曲自体がよいのか、技術論、演奏論をするのが純粋音楽の話題で、歌舞であれば、その演舞性を芸術論の面で評価あるいは批評すべきなのである。
 即ちKPOP勢のファンのうち、上記の一BTSアーミーは純然たる野蛮であって、偶像と芸術をきりわけていない。そしてその野卑な風儀をそのまま日本にもちこんできて、女衒だか男衒みたいなのとつるんで、偉そうに東京で音楽プロデューサーぶってブイブイ言わせているのがいるのが今だけれども、そういう問題じゃないのである。僕は前からいっているではないか? 音楽性は? 歌舞性は? と。そこからみてくだらねーものならどんな外観だろうがその外観がいいだけね、で終わりなのである。後光効果でごまかそうが広末涼子『MajiでKoiする5秒前』とか佐々木希『ジン ジン ジングルベル』が、万古不易、即、至上至美の芸術となるわけではない。大抵の人々にとって、必ずそうなるとはかぎらない。大衆商業音楽じゃんと。芸能事務所の売り出してる、偶像稼業の一種じゃんと。楽曲自体の質を討論してないよね、あんたらと。芸能人に発情してるだけかいと。そういう質のリスナーがよってくるってのは、その時点で終わってんじゃねーですか、ってのが純粋音楽側の見方でもあり、つまりは出自と品位が違うんだけれども、すばらしい作曲家に拍手したいとかいう世界ではない。それって。キャーキャーギャーギャー大騒ぎしてライブ会場で。二度と行かないけど。あんなのまともな人間がいていい場所じゃないのだ。猿の世界。類人猿進化版の中でも下等の部類の世界。近づかなくてもネットのSNSとかでぐちゃぐちゃでてきて騒ぐからうざいだけだが、そんなの追放しろとすら思う。なにが紅白歌合戦だよと。消えろと。ゲス系の東京人は。くっだらねえ東京コロナカルチャーは。もういいよと。それに輪をかけ韓国ソウル系の一部大衆商業音楽も。全部とはいわないけどね、どっちもさ。そういう結論になるでしょ、ここまできたら。

 消えればいい連中が威張っている。それで本当にいい音楽家がでてこれなくなっているのだ、きっとそうだろう。
 例えば僕は村井秀清はとてもいい音楽家だと心からおもっているけど(例『世界ふれあい街歩き メインテーマ』)、そんなのがまれに水戸のジャズ喫茶だかで演奏会にきたとかで、さほど表に出てこれずに代わりにでてきてんのがラッドウィンプスとかなのである。瑛人とかなのである。ラッドもいいじゃんと、うーん。悪くはない曲ももしかしたらあるかもしれませんが(僕はまだ聴いた事がない)、歌詞がたまにサイコっぽいですよね。言霊を悪用している節がある。瑛人に関してはなんともいえない。モギケンがいい曲じゃんとこれまた褒めていたが、ただただ卑俗な感じがする、僕には。紅白でたらしい『香水』の話だけど。当人が作詞作曲してないらしいそれっぽさの擬態も含め、ああいう南関東ぽさが好きじゃないのだ、都会かぶれ感が。ドルガバの香水がー。そういう娼婦くせえトカイ女とかどうでもいいわ。その層界隈の自堕落さ、虚栄心、裏の汚さを新宿辺で育つ中でほどあれ間近に見てきた者の一員として。よくメンタリスト・ダイゴが港区女子なるものを典型ネタ化してディスってるけど、あれって身近でみてると、ほんと鼻持ちならない奴らだからにすぎないだろう。一度心底腐ったものを現実にみたらまずもって、進んでそれに近づくまい。だからサッチモも微妙だなあと。東京パーティナーイじゃないよ不良どもが。そのなかにあって、村井さんも横浜人なんだろうけど、育ちのいい音楽の田園詩みたいなもんだろうと思う。車運転しながらいつも聴いてきたのであるが。『マージドイメージ』の1と2。
 どうでもいい話を書くと僕が車の中でいつも聴く音楽の代表のうち3作品が、この村井秀清の上記2CDアルバムと、小沢健二のCDアルバム『球体の奏でる音楽』である(例:そのうちの1曲になっているタイトル曲『球体の奏でる音楽』)。これらは本当にお勧め。千回以上は聴いているかと思うが、特に飽きないし今も悪いと思わない。
 そういう心からいい音楽が表でめだつ社会が、一番いい音楽社会じゃないだろうか? 茨城は是非そういう世界になってほしい。今の知事はPCオタク趣味で、ハイアート方面は微妙に苦手っぽいけどさ。その方がいいわ、民芸不介入で却って。愛知周辺とか、あいちトリエンナーレ2019炎上後の泥仕合で、今やばいですからね。反天表現を公共展示でどうのとかさ、尊王の水戸学派の土壌からみたらさすがに関わらないに越した事はない。ちなみに津田大介さんは恩義のあるお師匠さんを訴えたらしいが。これって本質を外した私的係争になっているといわざるをえない。真の炎上の本体なのは津田氏個人の人格権への侵害勢の方なのではなく(そういう人達も機に乗じて相当まぎれているから、うち大兵が名指しで法廷闘争にひきずりこまれたのだろうが)、彼が愛知県知事・大村秀章氏らとともに芸術監督として企画した展示内容が合憲か? なのである。
 逆に僕は佳子内親王殿下の肖像画で、北茨城市の賞貰ったのだった。時期的にあいトリ2019の2年くらい前にだけども。なんで茨城新聞社長が賞くれたかしらんけど、尊王芸術という評価なのかもしれない。茨城は父が尊王志士だった大観含む五浦派以来、その伝統があるといってもあまり間違ってはいない。木村武山『徳川邸行幸』とかね。伝統守れとは言ってないが。
 私的になんかいっててもまだいいでしょう、思想と表現の自由権があるだけに。僕とか思想的に旧水戸学をもなるだけ批判しきって大分進んでいるといおうか、純粋国民主権の国づくりとして共和政も構想面で考慮に入れているだけに、しばしば右派の同時代的な停滞性あるいは皇室制度の受領政治的な堕落への牽制として、反天表現も使いどころを正義論で決め打ちして(天皇制や神道信仰の差別性批判や、上級国民の不徳非難・下級国民の弱者擁護の文脈で)使いますし。しかし公共の場で公費で一公人に近い立場で、無制限にそれをやっていいということにはさすがになるまい。なぜなら公の事は、個人的な思想信条と相反する場合があるからである。この辺りの公的倫理性、公徳、公私分別がないから。しまりがないってことだろうけど。今の愛知県庁。それで名古屋市長らとあいトリ2019での「表現の不自由展」大炎上事件から2年後の今も、愛民派vs尊王派でバトルになってしまっている。水戸の大義名分論だと尊王と愛民って矛盾しない、というか相互尊重の徳で両立させなければならないんだけども。象徴天皇制があるうちは、天皇陛下を公人として公共展示で侮辱するとか恐らくだが以ての外じゃないだろうか。法学的に、表現の自由の乱用といえるのではないだろうか。私的な領域なら統制してはならないだろうけど、愛知県の美術展で、各国の国旗損壊罪もどき(飽くまで外国侮辱が目的かは解釈が分かれる事例)も表現の自由です、象徴へのそれなりの皮肉による一見侮辱っぽい不条理な制度批判の表現(天皇コラージュ作品焼却事件への踏み絵でのあてつけ等)もありです、ってなるんだろうか。判例出してくれないとこの辺の法的見解が曖昧すぎ、さっぱり分からない。実際この案件、法学者の間でも意見がそれなりに分かれると思う。現行憲法下で反天・反各国家らしい表現が、政府自治体にとってどこまで可能かって。
(これらについて分析した小論『絵画の品位』)

 音楽にもどると、どっちにしても人類は全部が全部、外観主義の踊り子雑魚みたいな俗受け音楽しか書けないんだろうか。いや、僕はアイドル音楽すべてがダメといっているのではない。たとえば少女時代テヨンのソロ楽曲『HORIZON』『UR』とか名曲だろうし歌もとてもうまいと思っている。前から書いてるがトキオの『アンビシャスジャパン』も単純でいい曲なんじゃないか。トキオのはCDすら持っている。が、全てアイドル支配なら全然、佐村河内守プロデュースの『ヒロシマ』のがいいと思う。冗談ぬきで。盲目の作曲家っぽくしてた演出含めてね。似た様なもんじゃん。作り事のアイドル稼業なんだから。或る意味で、そういうポストモダンちっくな、ソーカル事件の偽論文じみたものを音楽界の内情暴露として晒しただけのキャラでしょ、佐村さんって。面白い! といっていいのでは。それを素でやってるか、隠してやってるかの違いでしょうに。素でやってるのがパク・ジニョンとかイ・スマンとかのやからであろうに? 佐村河内より悪じゃないのか、本気で作り事をつくるがわは。この辺、プラトンが批判してたからな、古代ギリシアで。お前ら作り事だからいらねーんだよ、消えろとプラトンは本気で言っていたのだ。『国家』で。詩人追放論で。

 或る意味プラトン批評なのがノリアキなのだろう。彼はリアルを表現している。それは模倣だらけ、偽物だらけの音楽業界への強烈なディスであり、ビーフであり、挑戦状である。 なにがリアルか、なにがリアルじゃないか。決めてやる、ここで勝負を決めてやる。

2021年1月19日

立派な人は何歳でも立派

何歳にもなって情けない、とかいってる奴ら
そいつらがその年齢になった頃みてみろ
凡そ全員がろくでなしのままだろうよ
立派な人は何歳でも立派なんだからな

人として必ず求めるべきもの

道徳的に正しいことを求めていない人は、その時点で人としては問題がある。この機能を満足に発達させず大人になり老齢化したひとは迷惑な幼児と本質が変わらない。
 人なるものは道徳性の高さ以外なにも必ず求めるべきものがない。

個性が成功の原理

自分が過去に照らし、確実にいえるのは、この世では自分の個性に逆らえば何事も陸に成功しないということだ。
 自分は聖なるものに反してはなにもうまくいかない。自分には俗なるものが個性に反するからだ。
 東京も京都も漫画もアニメもまるで合わない。それらが俗の極みだったから。だが俗人はそれらを好む。個性が違うとしかいえない。

HTML文法上、brタグを連打可にすべき

HTML文法上、brタグを連打すると間違い、pタグで囲まねばならないとかいうルールは現実の利便性に即していないので遠からず改正されざるをえないだろう。厳密にデザイン要素とコンテンツ要素を分けるという考え方自体、却って不便で実用性を損なっている。
 ウェブでは書く側も読む側も実利に基づいてより簡素な体系にその文法が進化させられるべきで、cssで全体調整もできるし、個別でデザイン指定しても変則的に可能、となるべきだろう。

ある在日ドイツ人の非ドイツ性について

ツイッターで某ドイツ系の東京人が
当人は絶対気づいてないだろうけども
田舎差別をまきちらしまくるせいで
あと三浦春馬の親を
週刊誌記事なんかうのみに
名誉毀損しまくってたせいで
僕の中ですげー印象わるくなりまくって
段々とドイツへの感情まで悪化してきて
遂に僕はナチスのユダヤ人大虐殺まで辿った
 
もしそいつさえいなければ
僕はナチスの人道犯罪について素人だった
 
ドイツ系自体が日本では少ない
在日ドイツ人は7301人
(2019年6月末、法務省・在留外国人統計)
茨城だったら85人しかいない
(2018年、同統計)

そのなかの東京の1人が
至極あくどい言動していたら
そりゃー印象づけられる
無論ほかのドイツ系と違うでしょう
しかし共通部分がどこかにあるかもしれぬ
両者の差がサンプル数1だと見分けつかない

一体そのドイツ人のどこが非ドイツ的なのか?
ドイツは今も自民族中心主義的なのか?
平気で田舎差別なる謎の人権侵害するのか?
その調子でユダヤ人まで大虐殺してたのか?
それともそれらは全てその一ドイツ人の個性?

遂にその一在日ドイツ人による
連日の差別的言動にうんざりし
僕はそいつと似た顔の奴まで嫌いになってきた
なぜならツイートが当人の顔アイコンつきで
差別的な不快情報と一緒に宣伝されてる

当人はまさか
そんな負の宣伝装置になってるなんて
一向に気づいていない筈だ
当人が顔出して言動してんだから
せめてドイツ系の日本での
一代表として見られてしまうと自覚し
差別的言動は慎んでいただきたい
特に東京人の悪徳中華思想にまぎれて
平気な顔で田舎差別しまくるのは最悪だ
東京人の悪徳を批判する側に回るならわかるが

回り道の雪解け

もしあなたが死んでしまえば
すでに宇宙に残された夢はない
のこされたのは亡骸(なきがら)
ひとつもない言葉の説明
なにも必要とされない世界で
のこされたのは世迷いごと
だがなにもなくなってから
あなたは消えていく

もしあなたが生きていれば
すでに町に降りしきる雪もない
のこされたのは

消えてよいもの

ツイッターがいかに我々を不幸にしてきたか?
最悪級の社交媒体
消えればいいですよSNSなんて全部
なにかよかったことがあるの
下らない連中が誹謗してくるだけでしょ
消えればいいです

雨情『黄金虫』の水あめ解釈論

黄金虫(こがねむし)は 金持(かねも)ちだ
金蔵(かねぐら)建(た)てた 蔵建(くらた)てた
飴屋(あめや)で水飴(みずあめ) 買(か)って来(き)た

黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
子供(こども)に水飴 なめさせた
――野口雨情『黄金虫』

松岡正剛が雨情の『黄金虫』の感想で
「金持ちなのに、
なぜ子供には水あめだけなのか。
わーんと泣いてしまった」とかブログでいってて

野口家の一ご近所人として
あるいは雨情の童謡を幼児から歌ってきて
雨情を偲ぶ会とか精華小でしてきた側としても
というか
しゃらしゃーらあしゃんしゃーん
すずつ~けえたー
と『雨降りお月さん』の
独唱パートを合唱で担当した
一テノールとしても
なに言ってんだこいつ? と思ってしまった

それまで松岡って人は
それなりの読書人なのかな?
と思っていたんだけども
全く読めてないのがばれる様な部分ってのは
リアル勢には分かってしまうわけで

もっというとさもしいゲス根性みたいなのが
その感想の中で晒されてるわけで
『黄金虫』の水あめの部分って
金持ちだから水あめを買ってもらえ舐められる
って部分であって
なんでそこで水あめだけなのとか思うのか

ちなみに僕の母方は蔵あった市内の商家で
恐らく雨情家が没落期にもまだぎりぎり
ここで歌われる様な状況にあったかもだが
その立場を想定しても僕の解釈しかできない
京都人なんだろうけど松岡正剛って
なんていうのか北茨城の事も知らずに
随分卑しい妄想で
素朴な歌詞を歪んだ解釈してるなと
僕はまた京都への印象を悪くしてしまった
それだけでなく松岡の
ブログ上にあったほかの論考も疑いだした
だって雨情を陸に読めてないんだもの

僕は地元の事を基本0歳からみてて
よく分かっている方だろうが
童謡の形だが雨情って
そこでの民謡詩人なのであって
飽くまでこの地の素朴な童心の表現なのである
その種の純朴さに一度も触れた事がない人
それが松岡さんなんだろうけども
あまりの解釈のギャップに
ぎょっとした上に気分も悪かった
やっぱり京都って意地悪(イケズ)な文化になるだけある
風紀がけがれてんだろう
水あめ買ってもらえてもっとくれってなんだ?
もっと贅沢三昧してたのか?
貪欲にも程があると思う

普通に考えて北茨城の子供だったら
それで十分満足して
やったーみずあめだーと喜んでる筈
そんな感じの純粋田舎町的牧歌時空である
僕もそうである
大体僕が人生で最も嬉しかった事の1つって
父親がパチンコの景品で
僕が中学の頃
当時欲しかったたまごっち貰ってきた事だ

というかエンゲル係数とか持ち出すと
京都って2018年時点でも
日本で一番食費負担率が高い
一昔前はもっとだったのかもしれない
逆に茨城って日本で4番目に食費が楽だ
この辺りの文化落差もある筈だ
我々茨城人一般には貪欲って普通じゃない
端的にいうと比較的恵まれているのである
『常陸国風土記』冒頭にも書いてあるけど
昔からとても豊かな土地なので
本当の話そこまでの貧困って
北茨城で見たことがない
皆十分に食べられるくらい余裕はある

僕が初めて浮浪者をみたのは東京でだった 

なので松岡の『黄金虫』解釈は
明らかに異文化のもの
しかも随分と浅ましい解釈で
ゲスの勘繰りに近い
悪解釈系の誤読箇所がある
京都がいかに裏では貧しいかの証拠だ
幼児の時点でそんなにせこかったとは
これぞお里が知れるの実例である

ちなみにもう少し専門的にいうと
雨情って初期は社会主義の傾向があった
その頃の影響がある歌だろう黄金虫の文脈
つまりは金持ちはいいねって意味が入っている
しかし飽くまで上品な皮肉に留まっている
雨情は童心芸術論者であり
子供の心に社会主義的な精神
ここでは平等を愛する心を
自然に植えつけたかったのだろう

職業

我々は成りたい者になるだろう
成りたい者に近づいていくだろう

自称親日結束主義者の群れ

犯罪集団に呑み込まれ
自分は身動きがとれない
自称普通の日本人と称する悪魔達
凡そ全数が恐ろしいくらい暗愚なので
匿名で善人を集団虐殺しかしていない
そしてそういう極悪衆愚を囲い込み
邪教祖が全員を洗脳し
納税奴隷化している
一体どうやれば
このうぬぼれ悪魔衆から逃れられるのだ

過程が無茶で結果正しいのを偶然という

イケノブが政治は結果が全てだから
日本のコロナ対策は世界一成功だといっていた
無為無策で成功じゃねーわとみな思っているが
有名なブロッカーだから誰もつっこめない
じゃあ事故みたら原発政策も結果失敗だろうに
最後は金目で何でも解決できる筈もない
あわれなはなし
ただ日本人の平均的資質が
和ぽかっただけだろう
全員一律の集団行動させたら
よかれあしかれナチス級
勿論冗談にならない皮肉であるが
だって明治からドイツ式教育うけてますから
総じて奈良時代から和を以て貴しと為させられ
マスゲームなら大得意
そのうち天皇陛下万歳といって
皆兵論者の三浦瑠麗だの
財閥論者のアトキンソンだのに従わされ
また竹槍特攻でもするんじゃないですか
過程が滅茶苦茶で結果が正しいって
計算力の結果じゃないだろうに

東京人一般のいつものジャイアニズム例

ナイジェリア系の筑波大生が財布届けて
祖国に褒められたってさ
で毎度ながら茨城の話だろうに
東京人がそういう時だけ日本単位にする
相手の手柄は自分のもの
自分の手柄は自分のもの
鹿島アントラーズが世界2位の時もそう
東京人自身が茨城名指し報道する時は
最低最低と違憲な差別しかしてこない
死ぬほど汚い偏見で
不公平不平等
偏利偏党中華思想
東京ファシズムに驕りきった報道姿勢
いつになったら直るの?

2021年1月18日

博士淘汰論

馬鹿は無限にふえる。仲間を無限に作る。
 高学歴に馬鹿が多いのは事実だ。博士とか。自分がみてきたかぎり、博士になる様な人って間違いなくある種の馬鹿だけである。その人って一般的な思考を遮断してるからそうなった。脳死状態でないと、博士課程までなんも考えず、教授の言う通りの行動とか続けてられない。通常、賢いほど自力で考えて動き始める。その教授の側もかなりの馬鹿なので、無限ループみたいに蛸壺に入って思考しているのだ。
 そのうちAIが博士を淘汰するだろう。

批評家と批評の批評文

批評家ってツマンネーと思う。
 批評家とか名乗ってる奴の意味がわからない。
 江藤淳とかこの時代に僕以外で読んだ人いないと思うし。いたとしてもさすがに文学部とかの人の一部だけだろう。かれの漱石論くらいだけども。
 要は批評って当時の悪口みたいなもんじゃないか。

 感動するレベルによい評論もある、筈だ。自分はまだ1つも読んだことがない。感想文を書かせるのは批評文の基礎段階みたいなつもりなんだろうけど、本気で特に意味がない。
 作品を読んだ段階でもうわかってるのであって、他人に解説する義務ってあるのだろうか。感動を分け合いたいだけなのだろうか? それなら他人にとって感想文によいもわるいもないのではないか。全て当人の感想であって、ある種の正解なのではないか。

 悪口のなかにも少しはみるべきものがあるかもしれない。ドリー登場以前は内田樹みたいな歯が浮く様な嘘くさい神戸田舎者連合みたいな批評しかなかった村上春樹小説への否定的論点とかもだが。賛否両論がないほどすばらしいものならいいが、明らかにそうでないものが持ち上げられまくっているとか、逆に高貴なるものを全員が貶しまくっている場合の反対世論を作る際とかに、批評が必要になるかもしれない。

 それとただ無意味に褒める系統の批評は全く意味がないのではないか。そういう系統でわずかなりともイイネと思ったものがない。自分がいいと思っている物を他人が褒めてると、心理的に客観視できてしまいなんか疑わしくなってくるし(Boaz Hameiriら"Paradoxical thinking as a new avenue of intervention to promote peace")。世間がけなしてるもののよい面を指摘するとか、それが批評的というのであって、褒めるだけなら賛辞だろう。
 周りが気づかなかったよい面をひきだしている、この場合だけ褒めても益があって害がない。もう十分分かってるよって点をやたらひっぱって連打してる人はまず意味がわからない。それって他人とか正確な評価とかどうでもよくて、半ば同類と同調目的に発情発狂してるミスチルかBTSファン級の猿女みたいな感じだろう。猿は猿に戻った方がいい。

ざこ終末論

お前らは全員つまんねーんだよ全員消えろこの星から

なぜ自分が全女性に恋愛の文脈でもそれ以外でもどこまでも中立から喜ばせしかしえないか

性格の悪い奴はなんでも性格の悪さを選択して普段からみてるんだな、というのが、某ドイツ系・某京都系東京人ツイッタラーら観察の結果。

 リツイートする内容すら、どれもこれも大概が差別的言動とかでひどい。

 この意味でポップに解釈すると、釈迦のいった

愚か者を見るな。その言葉を聞くな。またかれと共に住むな。愚人らと共に住むのは全くつらいことである。(以下略)
――ガウタマ・シッダールタ
『ウダーナヴァルガ』25章24
は、愚かな人達の一種として悪人卑人を想定すると、彼彼女らの普段の興味の対象は、彼彼女らの日常みている主観的世界の枠内にあるのだから、といえる。

 例えばワシにとってウサギは獲物にみえるだろうが、現代人が森で見かけたらあらー野うさぎちゃんだぁ可愛いね、と思うに違いない。
 まったくおなじことが人類の間にもあてはまり、一般の東京人オタクとか穢れた目で物を見ているから、同人誌系の漫画みたいな彼らの下卑きったソドミーな性的興味がなにごとにつけ優先するのである。

 あるいは僕がネット経由で一時期やりとりしていた或る奈良女とか、最終的にセクハラ冤罪してきたんだが、普段からイケメンがどうとか品性下劣な言い方で反出生主義ぶったメンヘラ自殺ネタ、学歴差別ネタ、反日親欧ネタ(但し現実と大分異なる、少女マンガ的な脳内妄想でのよくある西洋主義崇拝)をのぞけばその種の言説ばっかりしていた様な気がするし、もとから下品な人間が下品な物事に詳しく脳内がその種の妄執に支配されているというのは確かだと思われる。僕はその奈良女以外からそれら関西異世界の日常のありかたはきいたことがないのであった。驚くべきことに、毎日大阪の電車で痴漢にあっているといっていた。そんな異様な野蛮界が存在するとは?
 彼女は奈良人の或るキリスト教系っぽい私大生だったのだが、大阪・神戸・京都人あるいは山口人・岡山人らと日常的につきあっており、又聞きではあるが、周辺人物も一様に下品なのだった。
 関西弁って、当人達は渡来してきてからずっと傲慢で上位者面なんだが、はっきりいって下品な内容ばかり語ってるせいで下品な言葉になっているといわざるをえない部分があるし、東日本側だと特にダウンタウンの侵入後そういう印象を持つしかなくなってしまった。そしてそれは嘘なのではなくて、下品なことを言ってくる人達って普段から下品なだけなのである。だったらそんなのとつるんでいたからあなたも被害にあったんですね、としかいえないんだけど、僕からしたら救済的な文脈(愛の元では性は必ずしも否定されるべきものではないよ、との意味)で言った言葉にやたらめったら下賎きわまる口ぶりで濡れぎぬ着せまくってきて、明白に嫌がらせではない、自分側の真意は「性愛って絶対的否定に値する概念ではない。なぜなら有性生物はそれが自然の一部なのだから」にすぎない、と具体的説明で誤解を解いたにもかかわらず、その女は「そんなことどうでもええわ、うちらは冤罪なんてやり放題なんや」とか「不快ならなんでもセクハラ」うんぬんと、最近フェミニストがよくとる悪意しかない片寄りまくった絶対恣意的な論点を公然といってきて、僕側の善意や厚意や誠実加減に対し、はっきりと公言された悪意と人権乱用の陰謀で開き直られたので余計傷ついた。
 しかしこれも、根の下品な人間、性悪ってのが表面上いかに繕っていようが、その本性を見抜く必要があることを教えているだけだろう。その奈良女は実際に当人がいっていたけどなんでもかんでもってレベルに繕っていた。僕に対して最初さも教育がある人間だといった風貌をしていただけでなく、現実でも周りの人達を騙して本性だしてないといって、その本性の側が色々と破綻気味でやばい。しかも学歴差別発言など連発し、実態的にはそれも一種独特の奈良教育ママ風な俗物主義まじりの小市民根性を仕込まれてきたとわかってからも、長々と相談・忠告その他で精神的な世話させられ、最終的に、後ろ足で砂かけられた形になったので、やっぱり性根の悪さとかって。どう転んでも根の方はかわらないのではないかと感じた。

 現代の価値観だと生まれは無視される傾向にある。現実は遺伝的要素も大きくあると思う。Gentlemanって字義どおり、元来、うまれのよい男って意味である。ダーウィンの親戚フランシス・ゴルトンが優生学の創始者なのは決して偶然ではない。それを完全に政治化したヒトラーの方が極悪人あつかいになったのに比べ、ゴルトンの方は通常素通りされてるが、それというのも、紳士階級なるものが遺伝的選良の意図をも孕む制度だからだ。貴族制度自体にその趣があるわけで、そして全否定もしきれないところに、今の教育者たちが見逃している部分がある。
 日本では華族令が消えてから、教育差別、いわゆる学歴に基づいて東大卒とかをエリートとかいってるが、全くの間違いである。後天的に学習で追いつける範囲なんてなんのことはなく、それをもたらした環境の差、あるいは努力差にすぎない。あたりまえといえばあたりまえだが、生物個体間の本性の違いはこれを遥かに超えた幅がある。しかも一般知能指数すら約半分は遺伝している、と書いてある行動遺伝学者の本もある(Robert Plomin. 1990 "Nature and nurture: An intro-duction to human behavioral genetics." PacificGrove, CA: Brooks/Cole-、ロバート・プロミン、安藤寿康・大木秀一 (訳) 1994『遺伝と環境 人間行動遺伝学入門』培風館)。

 とかく僕は彼女のほかにも色々な人達とかかわった際、自分は広く交際する方ではないのでもし親しくなった場合はまぁできる限り深くかかわることになってきたのだが、この奈良女の残していったあらゆる諸現象は、ある種かけがえがなく特殊で、自分の中に幾つも反省点をみいださせた。それも大体は反面教師といおうか、こうなってはいけないんだな、というもので、端的にいうと一体どういう人が身売りとか下流的な行動してるのかの前座バージョンみたいなのを、間接的なやりとりとしてだが現場目撃させられたのである。
 その人はいきなりパパ活とかいうのをやりだした。僕は当然止めたのだが、なんか発狂した様な言動で東京人の友達がやってるから悔しいのでわたしもやらねばならないみたいなアホでしかないことをいい、彼女は少なくともその前座までやっていた。僕が何度いおうがやめようとしない。彼女は経験して失敗しないと学べない。だからって日々のとんでもない行動を放置してたら逆恨みしてくるわ、いろんな意味でメンヘラ性を相手はもっていたのだが、自分があまりにいい人なのでそれを含めて、同情の様な物を感じてしまっていた。Pity is akin to love、と美禰子がいった。当時の自分の心情ってのは、同時期に自分の親しくつきあっていた人ら(約2名)に色々全て語っていたので分かっている人がいるに違いないのがまだ救いだ。

 要は自分はこの奈良女に徹底的に振り回され精神的に消耗していた。自分は思いやり度がマックスなのかは知らんが、少女マンガに出てくるある種の典型的な男性キャラの性格みたいなもんで、女より女らしいほど優しい性格をしている。しかもプラトニックな傾向で、最近の漫画ではそうじゃないのかもしれないけど、女に全然交尾的に言い寄ろうとしない。だからといってオスじゃないわけでもないので女友達と一種差があるみたいな距離感ではありつつ、共感性が尋常じゃなく高いのですぐ同情してしまうし、というか絶えず深い思いやりの元にしか行動しないし、友情のある男性へもだけども、相手の為に自己犠牲もわりと平気で頻繁にやる。なので色々悲劇的な目にあう。
 この場合もまさにそれで、自分は段々とこの奈良女に、まぁある種の愛情に似た物、だからといってただの恋というのには質が違うんじゃないか的なのを本格的に感じだし、一定距離を保ってはいたが、なんとかすくってあげないといけないんじゃないかな、いづれ自殺するとかいってるけど、と思い込んでいた。その最終局面(なのだろう、多分)で、セクハラ冤罪である。僕がわは
「君は性嫌悪障害といっていたがそれが表面的には、君は整形手術とかをやってから、昔同級生男子にブスといわれた劣等感とかを一見克服した様になって直ったのかもしれない、しかし自分はある種の残念さもある、なぜなら自分はあなたにこれまでの凄まじい家出相談などなど、留学相談などなど、宿題手伝わされたなどなどのなかで決して性的な官能性だけを目的にしたものではないらしい慈愛に近い感情を持たざるを得なくなっているからだ」
という文面を言っていた。
 それが突如セクハラ冤罪である。冤罪の時点で傷つくが、中身がセクハラとかいう僕が到底やりそうにもない事柄だけに余計、徹底的かつ抜本的に傷ついた。なんでかってその奈良女の周りには、そういうことをしそうな人間があまたいるんだろうが、だからこそ僕もその一員だとみなされ、そういう不躾きわまる言動を平気で相手は謎の上から目線でしてきたのだろうが、自分は確かに見た目こそ男なのかもしれんが、心のあり方からいったらいつもいってるけど、おそらく理想的な女らしい女の方にまだずっと近い。心のありようから言ったら『ドラえもん』の静香ちゃんとかにそれなりに似ているというか。似た様な感じだが、変なエリート主義をのぞけば、出来杉君の方かもしれんが。読んだことないけどベルサイユの薔薇とかにでてくるんじゃないだろうか。あれか、ブラックジャックみたいな感じである。是非とも見逃せない(見逃せば人でなしになる)正義に関すること以外なら、勝ち負けがとか基本無視して相手を思いやってしか言動しない人物で、女子供へは当然だが、人一般が不快だと思うことを自分から決してやらない。無論、どの年齢の男に対してもやらない。これは僕とこれまで全人生でかかわってきた全ての人にとって共通して証言しうる部分であろう。

 だって自分は誰にも敵意というものを持っていない、所謂性善的人間なのである。

 自分が全人生でその種の敵意と考えうる行動をとった(ゲーム的なものとか、単なる法律論・正議論など義務的なのを除いて)、そしてそれに後悔し即座に方針転換し、以後二度とやっていないのは、若狭(わかさ)君という小学校の同級生に教唆され、則次(のりつぎ)君という同級生への或るイジメ的な事、というかこどもじみた嫌がらせのいたづら――1度だけだけれども給食の味噌汁に消しゴムのカスを入れるというもの――になかば加わわされた経験である。
 あれは若狭君と同じクラスだった小3だったかと思う、多分。まぁ僕は共謀というよりは比較的中立的な感じで単に止めなかっただけだったと思うが、それも広義で共謀の一種なのかもしれんし、それでも則次君当人に事がばれ自分も共犯みたく則次君にいわれたので、なるほどこうなるのか、というかこれはよくないことなのだろう、すまない事なのであろうと感じ、以後、若狭君のグループからの陰謀に対しても、それなりの距離感を持って対処する様になったと思う。――この若狭君という人が当時からして色々なイジメを主導しており、小学生って善悪とかよくわかっておらず自分は彼と割と親しい方にいたし、小学校中学年の頃とかほぼ一緒に遊んでいた様なものだけれども、今から考えると彼がクラスの隠れ不良集団の核心みたいなものであった。一方、自分はクラスで成績が一番いいだけに自動で学級委員長に先生から指名されるとかがデフォで誰も弾劾してこないみたいな、いつもニコニコしていて可愛げがあるんだろうし、特に女性の先生とか子ども好き系の男性の先生とかから好かれていた様に思うし、問題行動が基本的にまるでない立場であったため、あの場でたった1度だけだけれども自分に期待されているはず役割から公然と逸脱したと考えられるわけであり、則次君に謝罪もしていないだけに、今でも心残りなのである。そしてこれゆえ一定の内的距離があるので、つまり全面同調しているわけではない自分も若狭グループ(クラスで自分を含む、おそらく当時、小学校中学年期の精華少年団主要勢力の遊びの中心でもあった)から、1度無視という被害を受け、それは1日で終わったが、このときだったと思うがまじでお風呂で泣いて自殺を考えた。あれは小学5年だったはずだから、高学年まで同じクラスで一緒に遊んでいたことになるけれども。自分は実際のところ超繊細人間なので、尋常でなく傷つき易い。ちょっとしたことで酷く傷つく。なので一度うけた心の傷は一生忘れないし心的衝撃も普通の人の何千倍もくるらしい。自分は自分しか体験してないから、他の人たちがずけずけ生きてるのを気づいたのはかなりあとの方だが。精確に言うと今から数年前にHSPについて調べてて気づいた。いまだにその自分以外の他人の鈍感さがまるで信じられないでいるし。ま、多分自分は感覚性のギフテッドかなんかなんだろうけどそのとき小学生時の記憶も、アンネフランクの日記超えるレベルに一般人類にとってはまこと意外なほど感覚として克明に残っており、体験自体を詳述できるといっていいであろう。

 自分はこの則次君の件があって以来、いまからすると学級委員長的な判断力でといってもいいが、スポーツ万能まではいかないにせよ相対学力面で最も高い側の、いわばクラス全体の統率に権限もってる人間がイジメに加わってはいけないものである、と、当時言葉は知らないにしても業の認識という形で薄々と認識し、まじの話、大体これ以後に意図的に誰かを悪意で虐めるとかしたこと一度もない様に思う。思い返してもそうだと思う。
 厳密にいうとこれ以後も、若狭一味の戯れの中で、野中君にその種のものにみえなくもないおふざけをしていた気もするが、僕はむしろ若狭君より野中君と親しかったので殆ど毎日くらい野中んちにチャリで坂のぼって遊びにいっていたのだから、所謂イジメの類ではなかったといえなくもない、というか決していえないであろう。小学校の男子とかは、体の発達が早く力の強い側が、それが遅れてるかもとからひ弱な遺伝で力の弱い側とプロレス的な遊びをする場合、弱い側がやられる形になる。そこに僕も入ってたわけていたと思うが、野中君は攻撃力が弱いため防戦一方で若狭君らから攻撃を受けまくる様な場合があったのは確かである。そしてそれもたまに余りに力差があって第三者がみたら一方的な虐待風になっていたのかもしれんが(うおおお、みたいな感じで防戦一方にぼこられるみたいな)、当時、『ドラゴンボール』がはやっていたので戦闘時、負ければ容赦なくボコボコにされるのが当たり前みたいな感じも暗にあり、完璧なイジメだとはいえないだろう。多分、嫌がらせですらないだろうし。今のいじめ概念の一般水準からみるとグレーっぽい場面もあった気がするが、ガチの戦闘でもないし、虎の子とかががやっているプロレス的な格闘技ごっこみたいな感じであるといえるかもしれない。
 若狭一味はこれ以外でも今から考えるといじめでしかない行動は確かにしていた。だから彼とその共謀者に関しては決して免罪できないであろう。僕は主体的に共犯していたわけではないにしても、しばしばその種の行動を目撃することがあったし、力差というか背の高さの差がある以上、容易に退治もできないし、そもそも端から一緒に遊んでいる主要なご近所友達グループなので退治するとかですらなかった。この意味では『ドラえもん』みたいなわかり易いいじめ社会の構図では全然ない。若干、不良っぽいやつがそのなかに混じっていて、いたづらと見分けがつかない位の悪事といえるだろうことを大人の目に見えない部分でやっており、全体の流れでそれはおふざけとして行われているので周りとしても止めるとかいう話ではない、って感じ。そこまで極端にエスカレートしなかったからそのまま流れて今に至るが。どのギャングエイジの少年グループでも、大体似た様な面はあるのかもしれない。
 ま、いづれにしても僕はこの則次・野中関連で、若狭一味へご近所の同級生友達グループとして不可避にまきこまれていたのを除けば今まで一度たりとも誰かに嫌がらせをしたためしがない。そんなものがこの世に存在するという想像すらしたことがない。僕が被害を受ける事はたまにあったが、やる側が土台バカなのもそうだが、そんな時間と費用と精神的配分と人生とを無駄にしている悪人なんぞに自分が列する可能性はひとかけらもない。だって自分は最初の則次君の件で、既に心理的に暗に反省し、その逆に自分を置いて、いわゆる卵と壁のたとえでいう卵側にしか立ってないのである。野中君に対しても当時は間違いなく僕が一番一緒になって遊んでいた側で、小学校中~高学年時の最たる友達が自分だったといってもいいだろうし。ほぼ毎日、野中くんちまでいって弟とも遊んでいたのである。総じて格闘技プロレスの状況上で、さけようもない場合(小学生っぽい格闘物語的な文脈で野中君に攻撃を加える必要があるみたいな場合)にしか、それも比較的中立でしか若狭君側に立っていなかった様に思うし。

 そういうわけでこの奈良女の件は、まじで、自分の全人生にとって大変な衝撃であり、まさか自分がセクハラ冤罪の被害にあうとか思ってもいなかっただけに、なにいってんだこのヒト? と、奈良人全数に偏見を持つまでは行かないが関西圏ってやっぱ自分の属する文化と、一から十まで違う部分が大きいんじゃなかろうか? と異質さを再確認せざるをえなかった。明白にこっちの意図を説明しているのに相手の性悪さみたいなのを前提にしてくるとか信じ難い話で、昔見た神戸の議員が涙で謝罪してた場面でも、彼の誠意を関西人達は自分がみてたかぎりひとりの例外なくあたりまえみたいに全否定しており、嘘泣き扱いしていた。関西圏って性格悪いやつらばかりなんだと驚いたものだ。
 だからそこで慶喜公が天皇へ進んで禅譲した場面でも、関西人一般特有の性悪ハートだと、何か陰謀に見えたに違いないのである。けど茨城側、特に旧常陸国にあたる側とかってまったくこれとちがって根底が性善説。ひととして善良さを前提にするのが普通の社会といわざるをえない優等生的な風土、義公の時点であたりまえみたいに兄の子へ禅譲している。代々尊王の水戸家の将軍が、大政奉還、無血開城。別に水戸学をはぐくんだ茨城側からみたら何の不思議もない話なのに、根っこの部分で180度、文明社会の向きが違うんだから、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通など西軍側の陰謀と性悪の無政府国家転覆系恐怖主義者を勝手に英雄化している連中にして、天皇傀儡化の権化であるところの関西地方とか薩長土肥勢とどこまでも馬が合うはずもない。わざわざ悪い方と馬を合わせるべきでも当然一切ないが。

 自分が旅行した範囲だと奈良ってよい意味で悠久の田舎で、ほかの京阪圏みたいに魂がけがれてないんじゃないかと思っていたんだ。それがおもいっきり実例で裏切られた。話をきけばきくほど関西だった。日常が。ものすっげえ下品なことばっかりしていた。内部が腐っているのは間違いない。関西弁って「アホ!」とか連発してるけどあれって嘘ではない。日常が愚かだからああいう言葉が日常表現として使われているのである。関西人達って、一般的に普段からひどく愚かしい言動をよくいって、それをあとづけで冗談めかす為にアホ! っていう。けどこれって実は関西人が冗談好きだからではなかった。リアルに生活を逐一みてみるとよくわかる。単純にバカなのである。特に、思いやりが全然ないに等しい、こっちから比べるとだけど。

 一番驚いたのがしりあいが自傷したって報告したら、東日本ではまずありえないことだとおもうけど、その奈良女がサイコなのを顧慮しても爆笑されて、心底びっくりした。そこまで冷酷無慈悲な人間なんてまじで、そいつ以外だったら合計2名、ある自称鎌倉女(ピグ史でいう「天使」)と、ある兵庫系東京人(同史でいう「とつげき東北」)しかみたことがなかった。
 関東圏の北部、東北圏の南部とかの基本水準を、遥かに下回る思いやり度しかない社会みたいなのである、関西圏、少なくとも大阪南部から奈良北部って。まーこれも、所詮サンプル数1でしょといわれるだけの話かもしれんけども、僕はほかにも色々、それに類した情報をもっているだけに、看過できない次元に、でも現実はこうなんだよなあと感じる。関西地方の人達って一般化すると、例えば東北圏一般に比べはるかに性悪なのである。日本史でもそれはえみしあつかいで先住日本人を彼ら関西への渡来人らが差別しながらいじめまくってきたので示されているが、イケズ、意地悪。イジリ、虐め。これって京都と大阪の独特の文化だけど、要は性悪さの現れ方が京阪風のものになっているだけ。相手を思いやらない文化があたりまえだから西洋人とかには親しみ易いだろう。西洋人一般も、基本的に個人主義でずけずけと生きているので、相手をそこまで深々と思いやったりしない。しかしこれの逆類型が東北勢だと思う。新渡戸稲造『武士道』とか、ある佐賀出身の弁護士が死ぬほど批判的に否定してたのだが、そりゃーそうだろうな『葉隠』の佐賀だもんと思う。先住日本人の系統のうち、縄文系の文化は、一般的に物凄く思いやりを前提にしている。だから数十万年も殺人すらなく、平和だったのだ。ただ飽くまで相対的にだけども(仙台みたいに都市化したのは例外としても、絶対的思いやりなんて神のもので、この世の人たるものに期待できるわけではないという意味で)。それでも十分なほどそうである。もっというと、比較的、性善的前提に立っているのである。だから相手の為にこうしてくれるだろう、この人は、という太宰治『走れメロス』的常識による見通しが立て易い。相手ならきっとこうしてくれるよね、という。僕はこの友情というのか互恵性みたいなのが当たり前の風土で生きてきたのだ。うそ抜きで。
 そしてそれは東京圏とか関西圏にはまったくないしろものであった。異文化。

 特に関西圏ってまるでその逆であった。ちなみに東京圏も、関西圏に近くて首都圏北部(北関東圏)とはさすがに一部似た関東の地味というか、坂東武士道的なものが0ではないが(しばしばみられる「潔く謝ればゆるす」みたいなのとか)、特に江戸時代以後なんだろうけど凄く大坂(坂は当時の書き方)化、明治以後はエセ京都化されてしまっているのは確かだ。最低でも、日本の本来の姿といえる、東北圏(但し第二東京みたいな要素が0ではない仙台のぞく)とはまるで違う文化であった。

 その奈良女は、関西圏の文化に骨の髄まで染まっており、思いやりとか当たり前みたく0に近かった。なんでもかんでも利己。僕はこんな人間生きてんのか? とうまれてはじめてみた生物に一々カルチャーショックであった。だから興味深いから結構深入りして情報収集にあたったんだけども。
 僕はこれで聖者であって、危うきに近づかない。それでも敢えて、ネット上で言葉・データのやりとりするだけにかぎって彼女から聴く話に約1年ちょっとくらいだろうけど耳を傾けまくったかというと、未知の関西圏の興味深い内情を色々聴けたからだ。異世界の内情である。
 それはそれは凄かった。ここで書き尽くす事もできないが、無論、客観的に事実と考えられる部分だけでも想像を超えた展開ばかりであった。しかも、総じて醜悪で酷い方にだけども。

 飽くまでその女から見た主観を排除してでも、科学的事実と考えれるだろう要素だけでも、である。

 関西人一般ってプライドばっかり高いって意味では、東京人一般とそこもそっくりである。だから根が一緒なんだろうなと思う。大阪商人の派生が江戸っ子だ。
 文化自体が東京と似ている。だって遺伝的には都区部の人らとか、基本、大阪人移民ですからね。というか双子みたいなもんだろう。両津勘吉が漫画の中で大阪人とライバル争いしてたが。
 だが決定的な違いも幾つもあって、そのうち決定打といえそうな部分を色々と自分は又聞きしたのであった。

 ピガー(ピグやってた人)、ツイッタラーを通じて色々学べたことのなかでも、最も下らない成果が、僕のある種の関西通情報になるのだろうが、飽くまで比較文化論として、関西地方ってのは日本のなかでも最も特殊な世界だといっていいだろう。そしてその独特さは、外人の目にはTHE日本とみえてるだろうが実際決してそうではない。あれは渡来系の古代朝鮮人たちがつくってきた別の植民地文化である。そしてその偽文化が背乗(ハイの)りし、日本面する様になったのが飛鳥時代から鎌倉時代の覇権陥落を挟んでの室町時代まで、割と短い期間だったのだ。長さからいっても最低数万年以上ある縄文時代が日本史のメインなんだし。
 この日本史学上のコペルニクス的転回(関西ってやっぱ古代中国系弥生人・古代朝鮮系渡来人らの定着してきた移民地区じゃん)をあいてが図らずも、新皇と最後の将軍の事例に続きまたも関西っぽくくだらねー性悪的な冤罪でもたらしてきやがったともいえるから、その奈良女が、わが国の国学に間接的に果たした役割も大だったといえようが、僕としては彼女には、もっとましな形で貢献してほしかった。無理なんだろうけど。
 僕は異性愛者で独身であるが、全女性に万一、自由恋愛の文脈でなにかしたとしても性的喜ばせしかしない。だって「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」「己のされたいように相手にせよ」という孔子とイエスの文言を守っているからだ。

牛タン弁当

牛タン弁当たべたしぬほどおいしい牛さん可哀想

まぼろし

もしきみのみているすべてが
さもまぼろしであったなら
そこにはなにもない
僕の生きている世界も
そこにはなにもない
だからこの手にのせられた花束も
あの言葉のなかに込められた愛も
のどから手が出ないほど欲しくない
すべてのまぼろし

もしきみのみていたすべてが
さもまぼろしであったなら
そこにはゆめもない
きみの生きている世界も
そこにはゆめもない
だからこの足がふんできた地面も
あの魔法のなかに込められた恋も
目がとびでないほど珍しくない
すべてのまぼろし

もしきみのしっているすべてが
さもまぼろしであったなら

この世に広げられたレジャーシート
そのうえで営まれるおひるゴハン
消えていった記憶のなかに
すべてのまぼろし

自分は政治思想面で愛国主義・民族主義とかとっくに超えて最善さについて研究を続けてきているから、些細な言葉尻を捉えた安直かつ浅はかな決めつけ論点による反日・親日二元論ごときで分析できる筈もない

ある1つのネット右翼サイトから、別にネトウヨなんざ相手にもしてねーのに、どうせ言葉尻を捉えてだろうけど、なぜか個人としてぬれぎぬされいつもの「だれでも反日扱い」で名誉毀損罪されている最中なんだが、右派も左派も中道もノンポリも皇室すら、僕は誰も政治理論的に相手にしていない。

 僕がいまの政治哲学面で理想的におもな相手にしているのは自分の中の良識で、それに照らした政治理論の適切な整合性だけである。
 勿論、現実政治で現時点までに最も重視してきているのは人間愛あるいは諸生物を含む慈悲であり、超時代的かつ普遍的な人道主義であり、一道学者として究極的に徹底した人権擁護である。

 自分は不可知論に近い――真理は諸々の限界を含む人知という仮の立場を超えて存在しうるかに、単なる信仰にまつわる神学を超えた確信を持てていない上に、あるいは持つべきでもないかもしれないと感じなくもないし、実のところ絶対懐疑的――真理は科学的な物を含め、対話術などの諸方法で哲学的に絶えず再獲得しうるにすぎないと考える傾向なので、これらの理論的・現実政治的な立場も全て変えるかもしれないが。

ツイッター短文厨の趣味趣向と大分遠い、僕の脱構築主義的な物語手法の開発がなされた経緯あるいは「わかりそうでわからない語り手」について

ツイッター短文厨のよくいうせりふに
「短くまとめられる方が頭がいいと思うけどね」
という誹謗の仕方がある。

 これもずーっと謎で、なにいってんだこいつ? って感じであった。僕が全人生でこの言動を聴いたのはツイッターでが初めてだったが、最初、河野太郎支持の神奈川ヤンキーが言ってるみたいだなぁと思っていたらほかにもウヨウヨと似た様な言動してる中学生とかが湧いてきた。恐らくかれらの中では流行している誹謗の仕方の一つなのだろう。
 なにせ短くまとめること自体は一つの才能かもしれないにしても、頭のよさ一般と関係している論拠も不明だわ、頭が一般的にいいのに短くまとめることが苦手な人もいるかもしれないし、あるいは頭が特別にいいのに短くまとめていない人もいるかもしれないなど、短くまとめる能力があっても実際にその場で使うとも限らないわけで、本当に短文厨のいわんとしていることは僕の目には最初から非科学的妄想にしか見えなかったのだ。
 敢えて、かれらの代わりにふさわしいまとめにいいかえてさしあげると
「私に分かる程度に噛み砕いて、しかもなるだけ短くいってもらっていいですか?」
これだけの話。なぜそれを誤った一般化して、さも、短文主義者のみが賢者みたいに拡大解釈してしまうのか? 不知の自覚どころか自分がバカだとおもわれたくないばっかりに、下らないプライドばっかり守ろうとして、自他に誤解をまねきまくる、一見真理ぶった愚にもつかない悪口の謎。

 色々この人達について分析してわかってきた部分でいうと、彼らは言語能力が低い。それはまぁしょうがない、そういう人もいるだろう。言語知能が低いからすなわち人間失格ではない。ただ、例外的障害の持ち主をのぞけば、容易に後天的に鍛えうる部位だけに、当人が不勉強のあかしを自慢してて恥ずかしくねーのかなとは感じるにせよ、要はメモリ容量が少ないから、一定より長い文だと文脈が読みとれなくなるのだろう。
 しかし自分はプロ級以上の技術を使って書いている文章は別にあって、今は「物語」分類にしてる前衛小説の類などだ。脱構築主義的(ここでは多義性を敢えて揺らがせる意図を持つ表現趣向の意味)といおうか、ジョイス以後で最も崩した文体を開発しようとしている。それは当然、素人に読みとれないものが多いはずだ。文学マニアにも難しいはずのことというのは当然ある。ただのそこでの複雑さって長文とかそういうレベルの話ではない。

 で、言語障害を除く低言語知能の人達のいちじるしい短文志向は、ツイッターだと特に顕著だが、かれらが愚民化されているということ以外なにも示していないのが残念な話である。
 僕は厳密には基本が短文志向の書き手だ。このブログがその証拠でどれもこれも短文しか置いていない。長文志向の人の典型例は、近代なら谷崎潤一郎とか村上春樹、海外ならスティーブン・キングとかで、長編小説を主に書く。古典なら紫式部とかドストエフスキーとかプルーストとかだ。一方、短文志向の人達は箴言とか短詩とかショートエッセイとかが得意で僕もどっちかならそっちに属するといえるのだろう、今のところ――こっちは近代なら短編小説・短文・俳句しか残さなかった芥川龍之介、海外でいえばプロポなる短い(といってもツイッター短文厨にとっては大長文くらいの長さの)コラム形式にこだわってたアランことエミール=オーギュスト・シャルティエとか、古典なら例えば名箴言集残したパスカルとか名俳句集のこした松尾芭蕉、名短文集残した清少納言なんかが代表者だろう――ただ実は僕は別の独自長編構想も持っていて実行してきているのだけれども。しかしふたたび今のところ、僕の書いたものを読む人達は、総じて最大でも中篇の長さしかないな、というしかありえないであろう。現実には非公開で長文あるけど。公開されてるブログも全部、短編以下の長さであろう。
 じゃあツイッター短文厨は何者なのか。この人達、文学素人なのはいうまでもないけど、もっと別の何かで、一言でいうと愚民だと思う。新手の。

 ゆとり教育――それが真に学力低下につながったかについては、TIMSSでは相関性がある様にみえるが、PISAでは途中までゆとり教育を受けていた世代の方が成績がよかった矛盾した点がみつかる、途中で調査対象国がふえているなど、対象に介入する要素が不確定な世代間平均学力なる複雑系の議論であることに加え、学力自体の定義も多様化している現時点まで結局、究極で真偽不明な世代論の、しばしば愉快犯的だったり真摯かつ絶望的な憂慮だったりする一観点にすぎないのだが――そのゆとり下で安倍晋三一味のはぐくんだ、ある種の愚民。それがツイッターに寄生して、短文厨ワールドをつくっている。ドナルド・トランプの肖像権を侵害したアイコンの顔連打とか大分すさまじい行動で。

 春樹がそこに近づかないと公言しているのは、以前はいかにも春樹っぽいことをいう偽アカウントはあったけれども、嘘つき稼業者にとっての真実ならば(反語)、要は短文厨ワールドを見下してんであろう。僕は2ch文学板の春樹スレッドとか文壇BARとかいう雑談スレで色々酷い目にあってからというもの、段々春樹小説の確立していた体系から手法ごと離脱することになって今に至る。この文の読み手は知らなかったし別にしりたくもなかったあらましかもしれないが、最初、僕がこのブログ書き始めた頃って、20歳くらいだったと思うけど、当時、僕は2chおよび2chアリの穴とかいう小説投稿サイトに素で、大量に評論、エッセイ、小説、詩を書いていた。今より連日書きまくっていた。ところが「勿体無いからブログにまとめた方がいいよ」と忠告してくれた人がいたから(そうかも)、と感じ、その通りにしだした。それでライブドアブログで「文明訓」とかいうタイトルとかで書き紡いでいたのを自製したワードプレスのブログへひっこし、そこらさらにこれへ丸ごと移して美術系統の作品集とまとめ、今に至るのだけど、要は最初、まだ春樹に影響を受けていた。掌編しかここには置いてないが当時の小説はブログ序盤の頃に幾つか残っているはずだ。
 今適当にとりだしてみたが『新宿』『月見』『雑踏の上で』『走行』『六本木の猿』このあたりとか。若書きなるものは普通(下手に感じる、当時の自意識を含む主観が迫ってくるなど)恥ずかしいから読み返したくないはずなのであんまり推敲していないが、いまからよんでも、ある種の自分らしさ、本来絵描き独特の客観写生っぽさとかも入ってる部分はある、とは感じるが、少々『アフターダーク』や、『神の子どもたちばみな踊る』(短編)、『品川猿』風に、僕が都内にいた当時の都会人を結構美化した観点から描いてる面など、春樹小説構図的な磁場から完全に出た段階とは言いがたい面もある。この後相当経って僕が地元に帰ってきてから漸く、本格的に東京的なる物を批判的に検証しまくる段階に入っていくので、このブログは同時期に書き出した科学哲学集『北茨城学』(現在の題、昔は「北茨城科学日誌」とか色々だった)ともども、わたしの思索の軌跡が入っているかと思うが。そしてそういう反都会主義の局面に入ってから東日本大震災・福島原発事故を一当事者として原発近隣で経験して自分が感じたことや、詩的あるいは学術的観点からの分析・展望・啓蒙論も、これらのブログには入っている。

 いづれにせよ自分ははじめ、高校のときから最たるマニアックなファンの第一人者みたいなもん――但し、芸術の先人としてあいての仕事を理解しつつ追っていたのであって、ある種の文筆家としての先生なんだろうな、とは思っていたが、いわゆるハルキスト風の狂信者では端からないとは思うけど――で、春樹の文体模倣をしていたのである。序盤は。
 少し似た様な面があるなあと感じ観察しているのが、デビット・ライスという人で、かれの『道徳的動物日記』は最近僕が気づかぬうち書き足されてた部分以外全部読んだが、特に春樹に影響うけてライス氏当人が気づくと気づかぬとにかかわらずライス文体がどう変遷したかという点を(自分の場合と照らして)興味深く読んでいたのだが、ライス氏の世界観の方は、春樹的なものを(『村上春樹いじり』のドリー氏レベル以上に)完全に反命題の立場から批判的検証しきっているわけではない。そこが僕とは全然違う。僕は地元が北茨城だったので、地元独特の文化、いわば雨情童謡文化とそれを包む水戸学の風土が背後にあり、もっと奥にはそれらに上書きされるよりもっと前の、我々の文化的根底にあって今なお(皇国なるものを含む関西・西日本の弥生系文明とは別の世界として)持続発展してきたものとも解釈できる縄文文明への共鳴性があって、全く違う思想詩的な内容へ展開していった。僕の作ったゲームのうち、『うみのまえのれこなー』は、ダウンロードすればまだウィンドウズで多分開けると思うけども、『常陸国風土記』を下敷きに、『アテルイ伝』の先住史観を参考にして、渡来系の古代中国人の末裔と捉えられるヤマトタケルが奈良から侵略してくる前・侵略中の縄文側の世界観を表現したものであった。他方、ライス氏の物の見方は、外国人系特有の斜め目線のつっこみ感が日本人側の目線ではある様にみえるものの、京都から東京にでてきて、そこで春樹が書いてきたDINKS生活様式の延長上から全然移動していない風だ。さっきリンク張る為にツイッターみたら、いまでは批評家になったと書いてある。この辺も自分とは違う。自分は文芸批評は飽くまで文芸社会に参考になる議論をおこなう副分野だと思っており、詩が文芸の核心で、なされるべき主分野だと思っているのだから。
 大体、自分が小説形式を否定する様になったのも、脱春樹の試みが始原であった。つか精確には春樹当人ぶっていたちゃねらー(当人かどうかはしらん)に直接、2chだったかアリの穴とかいう小説投稿サイトで「そろそろ春樹から卒業してもいいんじゃない?」といわれたので。それで(そうなのかなあ? こいつ自分の追随者をカヴァーバンドの方がやがて偉くなる的危険分子として潰したいだけじゃ?)とその時は感じ即座には全力で離れてなかったんだが、段々と純粋美術の探究と共に、理論的にカントの『判断力批判』での語りより詩を最高の言語芸術と定義してあるのを見つけたのもあって、次第に中国語の「小説」なるノベルの訳語があらわしてきた三文分野(司馬遼太郎のえせ歴史小説世界みたいなの)を疑うと共に、詩分野の方に惹かれていき、詩的なるものを極める方面で自分の散文詩風の物語も進化させられてきているのである。ときに韻踏んでラップっぽい脱構築主義的な表現は、ジョイスや漱石の美文を前例として経て、それをのりこえようとしてきた僕独自の理論的探究のもとにある文章なので、よんだやつに統合失調症の妄言みたいにみられてんのかもしれないが、基本的にそうではない。統合失調症の妄言が文芸にされれば、余り見分けがつかないのかもしれないが、僕は飽くまで神がかりっぽく無意識にしばしば降りて自動筆記性を応用しながらもメタ理性的に作っているので、よく研究すれば違うのが分かる筈だ。なぜかというと僕のあれらの物語風散文詩作品は或る情報学的な言語理論に基づいた、いってみれば現代的な文芸手法の結晶だからである。 

 信頼できない語り手ってのがあるけど、僕のはそれどころかなにいってんだか殆どわからない語り手である。別の言い方をすれば、「わかりそうでわからない語り手」。例えばノリアキの曲の歌詞には幾らかそういう要素があったと思うが、要は谷崎・芥川論争でいう筋の否定を、さらに詩の抽象性の方へ舵を切ったら、僕の立場に一定程度近づいてくる。詩は語り物と違って筋を無視できる、唐突な言い方で文脈を無視したヴァースを重ねてくることができる。この特徴を僕は物語風の連環の中に導入し、なおかつ、色々な理論を使って、より複雑な文体を作ろうとした。一作ごとに一定程度、異なる理論を応用しているから、もし後世なり同時代の研究者が自分の物語風散文詩を研究したら、なるほどこういうことねっていう僕が実際にみいだしていた理論体系を幾つも導きだすことだろう。AIに適当に吐き出させたら似た様になるでしょ、とまったくいえなくもないが、多分、その同一理論に到達しないかぎり完全に似たものはつくれないのではないか。

 そもそも最たる前衛趣味の僕以外の人が必要としていない理論だから、その文芸理論を公表していない。が、それというのも僕は文学マニアで面白い文章が読みたくて絶えず探してきた。だがこれは! といえるのがみあたらないから自分で書くしかなかったから、わりかしつくりながら脳内で理論まで捉えて実作してきたのである。これは絵とか音楽、建築についても同じで、もし自分以外の人が自分の理想の作品をつくってくれていたらわざわざ、苦労して自分でつくる意味もないだろう。自分の趣味、好み、鑑賞眼を満足させる作品をほかの人が量産してくれていたら、観客である方がどうかんがえても楽なのだから。

令和日本の素描

都会人どもが毎日毎日死の病をばらまきつつ
上から目線で田舎差別を連発しつづける
天皇中華思想、京都文化中心主義
根っから浅ましい都会ファシストどもにとって
東京圏の外は飛んで埼玉
首都圏の外はど何もない荒野やろと
卑しい妄想で見下してきた悪因悪果
ソドム人の虚栄心にとりついた死の病
東京・横浜人達「田舎はなーんにもない!」
ある京女「ださ、ぼっとん便所なんやろ」
ある大阪人警官「この土人が!」
田舎の農民の作った米、野菜、肉を食い漁り
都会にたかる移民達が連日連夜原発公害
驕り高ぶり悪徳の限りを極めながら
死の病をばらまきつつ全国民を差別し続ける
天皇家だけ逃がそうとした菅直人一味
山口・岡山県から出てきて反国民行為
118回国会で嘘をついた無法者・安倍晋三一味
昭和天皇「原爆は仕方なかったと思ってます」
あるネット右翼「お前は反日! しねや!」

多数派が腐敗した場所は離れるしかない

僕はここ1年半くらい、大分向かうべき道を間違えた様に思うので、今日づけで行路を調整するだろうと思う。

 僕がなにをミスったかといえば、トランプ一味に呼応してツイッター界に入り込みすぎた。しかし1年半くらいやってわかったのは、あれは本当に有害なだけであった。何か得したことがあったかといえば何もない。連日損害だけした。今後も何も得しないと思う。基本的にどうみても愚かな人達に誹謗されるだけで、基本何も得られなかった。1年半やって得たものは1個だけで、僕がくまけんの勤めてたのは日建設計だとばかり思い込んでいたら、ちがかった。日本設計だった。それを指摘してきてくれたやつがいたのはいいんだけど、ツイッターってのははっきりいって不良と下流の集まりなので指摘の仕方が品性下劣で、傷つける様な侮辱の形で言ってくるのである。無駄な馬乗り目的に。そういう雰囲気がある所って学校でもなんでも悪い学校、不良校だと思うし、そんな場所に長居すべきではないだろう。
 ほかにも僕がマルクスについて語ってたら、マルクスはそんなこといってないとか指摘してきた北海道のなんかの精神疾患か発達障害かと自称していた人がいた。僕はケアレスミスを除けば基本的に記憶力が自分よりいい人は見たことがない位の話なので山川出版の倫理用語集の一節を暗記していた箇所だけに、ちゃんとたどりなおして見たらマルクス筆『ゴータ綱領批判』というのに出典上の根拠がある文章であった。それでこういう理屈でこれは私が引用した通りみたいですよ(資本、社会、共産主義の三段階説ってやつ)と返信したら相手はだんまりして消えた。これもどうかと思う。教えてもらったら普通、ありがとうといわなければならないわけだし、その程度の礼儀もない時点で「この人おかしいんじゃないか」と、育ちというのか相手のしつけを疑うし、それどころか当人が誤った指摘をし相手に時間ロスの迷惑かけたんだからなおさら最低謝罪はしなければならない筈だ。手間かけてごめんなさいわたしがわの間違いでしたとね。

 しかるに自分は気づいた。そういう大分外道みたいな感じの人達がたわけてる場所だったのだ。ツイッターって。論外のスラム。かの悪評高き無法者(連続有罪系の賠償踏み倒し亡命者)の居場所って時点で怪しんだ方がいいだろう。
 もしかすると少数は賢者もいるのかもしれない。だけどそういうひとたちは総じて専読なので、ツイートが流れてくることはまずもってごく少ないらしい。

 なので自分はツイッターでなにかをさえずる事は今後、基本的にないだろうと思う。大体、返信の形も試していたんだけどこれも、余計な人達が読んでしまうのがダメなのだった。その余計な人達にも読める汎用化した形で専門的内容を返信していたのだけどそれですらダメで、 長い長いと140文字程度で大分おろかしいこといってくるほど知的程度が低い人多くて、全くお話にならない。小学生低学年とかならぎりぎりわかるけど、僕ですらその頃にはもうちゃんと本は読んでいたのだ。クラスの本棚にあった『吾輩は猫である』が面白くて夢中になって僕が読んで二宮金次郎みたいに家に持って返ってきてまで読んでいたのって、小学校4年とかだったと思う。だったと思うというか、僕の勘違いでなければ2年か4年かどちらかだった。『ずっこけ三人組』シリーズとか図書館で借りてもっと小さな頃から普通に読んでいたし、栫井俊介(千葉在住の或る投資顧問)という人もユーチューブで、その1つに影響されたといっていた。その時点の自分ら小学生より言語知能が低い、40代以上っぽい人って、失読症除けばさすがにどうなってんだろうって話である。しかもそういう漫画ふきだし級の低質言語知能派が、しかも往々にして匿名で(約8割が)ものすげー威張っているのだ日本語ツイッターって。
 ある時、短文厨特有の文句つけてきた神奈川の湘南あたりの、いかにもな南関ヤンキーに、じゃあこれで、って短歌送ってやったらものすげー逆切れしてきて酷い目にあった。そいつらの一員がツイッターに有る非公開の直接通信機能・ダイレクトメール(Direct Mail, DM)で殺害予告までしてきたのだ。
 ここでもう一度このときのことを書くけど、河野太郎のツイッターアカウントが年がら年中いろんな人達をブロックしており、僕も別に当人のアカウントに触れてないのにエゴサでどっか引っかかったらしくブロックされていたのもあって、河野大臣がブロックしてくるよねって井戸端会議してる所をみかけ、1個だけ、米国大統領のアカウントがブロックするのは表現自由侵害で違憲と判定されたニュースを僕が貼りつけただけ。そしたらわけのわからん神奈川ヤンキーが絡んできて、140文字以内で返信してたら長い長いとさらにわけのわからんこといってきた。しかも言ってきてるのはなぜか主語を省けとか接続詞や修飾語を減らせとか文法学・修辞学全否定の謎発言。日常語で数学基礎論ですかと思ったがそれを言ってもどうせ相手はわからなそうなので、じゃあ57577が基本韻律、31文字程度の短歌で返したのだ。そしたら相手は大発狂し、殺害予告をDMで送ってきた。凄まじいスラムというべきじゃないだろうか、神奈川圏ツイッター全域がそうかは知らないけども、河野太郎信者のそいつは確実にやばい育ちなのは間違いないと思う。一体全体、皇族にも同じことしやがるのか? 毎年はじめ歌会始で? 女系天皇容認論者だけに明治憲法イデオロギー薩長藩閥系とはついぞ混じりあわないだろう、自民党の異端児であるところの河野太郎一味支持者ら、神奈川ヤンキークラスの伝統行事で? 短歌おくられて殺害予告が?

 ちなみに茨城だったら奈良時代の時点で連歌の道があるくらい風流だったのは、筑波の道という古語に『万葉集』東歌群だけでなく間接的にも残っているし、現にそこで嬥歌があったわけで茨城新聞でも茨城文芸として、その種のみやびやかなといおうか、奥ゆかしい伝統は続いているのだが。山梨の酒折の翁が『古事記』で、ヤマトタケルに返歌した。そのくらいやってくるもんじゃないの、というのがわが県武士の基礎教育次元だろうと思うんだけども。僕もだし。一もののふではあれ、飽くまで文士かもしれないが。

ヤマトタケル「新治筑波(にいばり つくば)を過ぎて幾夜か寝つる」
火ともしの翁「かがなべて夜(よ)には九夜(ここのよ)日には十日(とおか)を」
――『古事記』

 とかく何か気の利いたことを返歌してくるのかなぁと思ったら、しぬほど無礼千万な蛮言で中傷されまくり、高々米国のニュース貼っただけで大発狂して殺害予告までしてくるとか、神奈川文化の質に軽蔑感を覚えざるを得なかった。そういうデフォで風紀の悪い、犯罪的風土だから起きたのだ、植松被疑者によるひめゆり園での精神障害者大量虐殺事件、あるいは首吊り士の大量自殺幇助事件とかって。神奈川人、特に横浜人あたりって東京人と同調し同程度に虚栄心ばかり激しいから、決して認めたがらないが。彼ら横浜あたりの人間って一般に通例、どれほど犯罪的なキャラでも独特の自文化中心主義によって、「我々都会人」はなにごとにつけ洗練されている上位者、という平等権違反で違憲な嘘ばかりつくのが目につく。まぁナチスや神道右派とあまり変わらない。都会ファシスト。内外に仮想敵を偽造し、ユダヤ人とか田舎者とかをさも劣等種みたいに悪意ある偏見や浅ましい差別心で措定し、自分達が相対的に上で無謬、とする自己愛妄想に耽ることで思考停止しつつ、共同幻想の同調域を作りたがるのが彼ら東横ヤンキー的な思考の典型的企てである。似た様な構図をとりたがるのは、関西だったら上京区中華思想、反東京大阪至上主義を種に共謀者を囲い込もうとする京阪ヤンキーも大体同じなのだけれども、多少違う点があるとすれば、京都ヤンキーと大阪ヤンキーは、東京ヤンキーと横浜ヤンキーと微妙に違って、割と互いを差別的に見下しあっており仲が悪い傾向もあるということだ。東横の場合、東京ヤンキーは横浜ヤンキーを一段劣る偽都会と見下しているが、横浜ヤンキーは東京ヤンキーにつねに同調したつもりになっていて、スネオ的位置づけにいたがる、という点が違う。

 小室圭氏が横浜育ちで湘南江の島海の王子だという。それに発情されてしまわれた眞子内親王殿下にしてみると、横浜・湘南あたりの神奈川ブランドも魅力だったのかもしれない。
 しかし僕からしてみると強姦殺害小説屋・石原慎太郎の地盤・湘南にも、ピグで散々いなか差別しまくってきたとある石工の地元・横浜にも、鎌倉人と称するダークトライアド系悪女に色々酷い目にあったこともあるし(肖像画頼まれて油絵で描いてネットでみせてやったら嬉しがっていながらに金も払わないわ、のち虚偽情報で名誉毀損罪しまくってきた)、そこに暮らす人間たちと接した上での相手側の平均した質という点で、神奈川自体にも結構大分悪い印象しかないに近い。上記のだけでも公民的にどうなのって感じで、まあその相手以外にも色々、犯罪的な面で問題あるのは確かな場所なのでなるだけ近づかない様にしているのだ。一時が万事ということもある。

 悪所を善所に変える。それができるのは君子の業なのかもしれない。しかしそれがついぞできない場所もあるだろう。僕の目には匿名犯罪の場ツイッターもそうだし、元祖2chもそうだし、東京都区部や京都市上京区界隈の差別的風土もそうだ。東京に同調するばかりで国策賭博罪まで誘致しようとする横浜も多分そうなのだろう。なぜかそうなるのかといえば、かれらは自分達が悪所だと気づいていないし、メタ認知力が低すぎる上に集団的な自己愛妄想が激しすぎ逆に驕り高ぶっている。反省する以前の話で、傲慢すぎ、中華思想からきた田舎差別の言動など、諸人権侵害に自覚すらない。福島や福井が彼らの犠牲になっていても平気な顔で田舎にはなにもないなどと嘘をついて、或いは本気で死んだ感性、知性、道徳性で罵っているのである。第一次産業、第二次産業がなければ第三次産業がなりたつはずもないのに、彼らが食べている米だの肉だの野菜だのお魚だのカップヌードルだのビールだのお茶漬けの素だのをそのいなかの茨城が作ってあげていて、水や電気まで送ってあげていて、感謝してくるどころか暴利搾取を自慢しながら自称京都のその東京人どもは金刷って只で買いあさっての見下しぶり、連日連夜の差別っぷり腐敗公家ぶり天皇ぶりである。
 ソドムとゴモラの逸話は、多数派が腐っている場所は神あるいは自然に亡ぼされるしかない、それ以外ではついぞ改善されなかった、逃げるしかなかったというユダヤ人の言い伝えで寓話なのだろうと思う。

狂った科学者の信徒衆

倫理的無能が科学的知性を持っていると殊に悪い結果。この組み合わせが狂った科学者を生み出す。そしてそういう悪魔を敬っている人も、自らの悪事で一様に破滅せざるをえない。

真の野蛮人は自分たちが最上で完成された文明人だと称している

京都、近畿などはこの種の中華思想の証拠で、事実、中世に平安京が作られて以来 この渡来人の植民都市は傲慢の限りを尽くしてきた。『枕草子』や『源氏物語』から『世界文化自由都市宣言』に至るまでいかに自文化・自民族中心主義による差別的言動が自称京都人らの手になり残されてきたことか。

 差別主義者は加害欲でそうしていることが殆どなので、彼らの加害のみが悪いのだが、逆に京都独特の差別観を人権侵害と指摘された際の彼らの逆上ぶりといったらこの上ない。「なんでも関西のせいにする悪い癖がある」などと陰湿な言い逃れで京都中華思想の批判者へぬれぎぬを着せる、卑劣で意地悪な言説はいつもの通り。あるいはまたこの中華思想を東京へもちこんできた天皇一味とその手先も同様だ。奈良への渡来人邪教祖は絶対者で、華夷秩序は正義と疑えず、要は一般の先住系日本人を差別的地位へ押し込め、都心から辱め、納税奴隷化する以外なんの目的もないのだ。

 その内情を一から十まで知っている私の目には、真の蛮族が自称天皇一味で、彼らの周囲に侍るダークテトラド的都会人どもだと悟り切っている。そして彼らは永久に反省せず、ひたすら悪業と虚栄心を積み増し、神の手になる溶岩がソドムやゴモラを滅ぼすまで続く。コロナ禍はまさにその一例である。

2021年1月17日

漫特襲来

漫画特別高等警察(漫特)A
「漫画を描け! 漫画だあ。
 我々愛国者様はアニメが大好物だ!」

漫特B
「なんや貴様あ。土人が!
 この絵はなんや? 馬鹿!」

漫特C
「描いていいのは、これや。
 未成年者の女がメイド服で酒飲んでお股ひらいてるエロマンガだけやで。ウゲヒヒイ。
 大文明大都会様で認められるのは同人誌だけや。こーの都会コンプレックスのゲスがあ。

 なんやこれ、漫画やないやないか!
 はーん? きっさまのけったいなへったくそな油絵? このドアホが。
 日の出の絵? なんも描いてないに等しいやないか。
 萌えは? 萌えもしらんのか、この野蛮人!
 田園の絵? なんもないやん。草はえとるやないか。田んぼ? なんやそれは。なんもないやん。荒れ地描くなバカ。田舎者! あるといっていいのは高層ビルの商業施設だけなんやで?

 ええから猥褻な服装させた目の大きな未成年の女を描け! そうや。なんやこれ。あほが。西洋式デッサンなんかしるか! 陰影法つかったらあかん。線描オンリー。そう。べたぬりや。リアルに描いたらあかんで。顔は漫画風に歪ませて、しかも媚態を含ませて描け。粋やイキ。体はエロティックにボンキュッボンの卑猥な二次性徴を強調して描く。そうやで。なにい? 子供だからそうなってないって? しったことかアホが。性の物化は絶対や。未成年女だから妄想の中で性奴隷化できてええんやないか! 胸は張り裂けそうに大きく描く。わざとらしく! なんでって? そんなん貴様らいなかもんが行った事もない大都会の同人誌即売会ことコミックマーケットに行けばええ。うちら愛国オタク上級国民様が自慰に使う道具だからにきまっとるやろ! コスプレもしたことない? あほか。きょうび腐女子も萌えファッションの参考にするんやで。ほんならパンツをミニスカートからつねに覗かせろや。そうや。しかも誰でもトイレの前で! ええのう、そうや。そうや。それで売れるで。ウゲヒッヒ。ティクトクでもどこでも同じや。京ではな。
 児童ポルノ。さもなければ百合。それ以外、うちら洗練された大都会のほうではいまどき日本画とちゃうねんで。アホ。そんなこともしらんのかこのいなかもんの童貞が! はずかし。芸子遊びもしらんのか。風俗もいったことないんやろ。きたなそー。もう性器たたないんとちゃう? わろてまう。あんたのいうことなんて全部セクハラやわ。きも。

 まあええ。おんどれら野蛮で野卑ないなかもんヤンキーの絵なんか焼き捨てたったわ。
 ハッ。ていうスタンス。

 国連様で認められし、うちら崇高なる大文化京都人様、それに次ぐ偽首都東京えびすどもの描きはった、このすんばらしい御名画の数々をみろや! うちら大渡来人自治区京都華夷秩序で、だーれもしらない下位中の下位。茨城ごときのいなかもんがああ!
 けいおん! 響けユーフォニアム!
 これは、君の名は! ほんま、ええやろお、西新宿ー。いなかもん憧れの地! おお、おお、大都心やのお。
 こっちは会田誠のあぜ道! ええのお? おっどこからともなく拍手や、ほめたれ褒めたれ。
 これは奈良美智の幼女。ほれみいや。女子供にも大人気やないか! わかっとうのか。
 あれこそは村上隆画伯の! 欧米様では何十億円もしはる、かの有名な乳首から出た母乳縄跳び像と、立派な自慰像や。六本木ヒルズ森美術館のおんかたがたも、おそれおおくも今上天皇陛下も村上画伯をお認めにならしゃって、ほんまに、ほんまにのう、うちら世界文化中心の大京都画壇の大画聖たるものとしても、村上画伯は、ああ、村上御大画伯こそはわが国の誉れ高くあらしゃいます。みーんな鼻高々やで。ヴェルサイユ宮殿で日本人初! 一大展覧会であらしゃいます。
 ええか! 日本画といえば漫画や。
 名誉白人といえばアニメーター!
 ほかは認めんからな。この売れない退廃芸術家が!
 ほーれ外人はんがみーんなそういうとるで。わかっちょるのか馬鹿もんが」

漫特D
「貴様! おいコラ。
 逆らうなら死刑やぞ。
 有る事無い事書きつけ名誉毀損したるぞ、アトウィキで。
 削除依頼には応じんからな、反日!
 漫画だ漫画。漫画以外描くな! ボケが。
 我々ネトウヨ大愛国者軍に逆らう奴は反日や覚えとけ!」

漫特E
「明治帝国万歳! 平成安倍さん万歳!
 天皇陛下は操り人形、皇太子に生まれるのは不幸と偉大なる伊藤博文初代総理が仰っておられる。
 流石長州閥。信頼できるわあ。樺太沖縄東日本アジア侵略に無政府反天テロリズムをお教えくださいました吉田松陰の大先生」

漫特F
「薩長藩閥万歳! 任那日本府と太閤秀吉に続く大陸征服万歳! 西郷どんに坂本龍馬は神やわあ。
 大正民主主義? 天皇家と団結して弾圧したったわ、身の程しらずクソ臣民のカスども。
 ほれ会津人。
 なんやおいどんに逆らうつもりでごわすか?
 イギリス製の武器さえあれば勝てば官軍。
 殺したもんがち。
 朝敵ぬれぎぬ着せたもんがち。逃げたら逃げたで臆病者。逆らったら逆らったで朝敵扱い。どっちにしても悪者扱い。ウゲヒョヒョホイ。外国製の武器さえあれば、どんな卑怯な手使おうが西軍全員から袋叩き、弱い者イジメはこっちのもん。大義名分? 裏切り? 一般市民虐殺? しったことか。明治維新こと戊辰侵略で負け組が悔しいか? 雑魚が!
 原発公害やったもんがち、儲けもん。東京は儲けた金で賄賂五輪、コロナ禍強行また一儲け。大大勝利大勝利。
 茂木健一郎東大博士様の薩長サブカル礼賛に従えや! この金も権力もない、学歴すらない下級国民どもめがああ」

漫画以外アートではない愛国結束主義者党独裁国家

日本では純粋美術を志してはならないという
漫画しかアートではないという
それで絵を描いていると全力で差別される
ネトウヨと称する極悪人達がアトウィキを作り
君の実名で名誉毀損罪ページをつくり
嘘まじりの悪意で個人情報を晒しながら
よってたかってアニメ以外の絵を中傷
ファインアートは退廃芸術だ!
漫画家以外はニートだ! という

感性が死んだ人

自然や田園をみて何もないといっている人は感性が死んでいる。

なぜ原発公害が終わらないか

極悪人がお前を殺しにくるぞ
奴らは常にお前を監視し
匿名で誹謗中傷をネットに書き込み
大都会から上から目線の卑しい偏見で
差別してくるぞ
極悪人は自称普通の日本人
愛国者面で犯罪と公害を連打しながら
お前の尊厳を貶めてくるぞ
左翼は悪だといいながら
あらゆる進歩を拒絶
弱者を踏みにじり
強者に媚び諂(へつら)い
異質な他人を虐殺しまくる
反日だと言いながらお前へ濡れぎぬ
素朴な田舎者などいないと言い
お前へ疑獄 
浅ましい言動でお前の良心を陥れてくるぞ
天皇へ忠実に仕えれば朝敵の汚名を着せ
天皇へ恭順し禅譲すれば臆病者と罵り
倒幕だといいながら
恐怖主義暴力団同士裏で手を組み
京都や東京と称し天皇家と名乗って
お前の一族を蝦夷と呼び納税奴隷化にくるぞ
ほら見たことか
この島に侵略してきた蛮族どもが
東京から原発公害の限りを尽くしているぞ

匿名殺人犯たる自称普通の日本人愛国者

毎日恐怖で動けない
自称普通の日本人愛国者は
匿名で個人情報を晒しながら名誉毀損しまくり
とかく濡れぎぬを着せ殺そうとしてくるのだ

ひろゆき一味に牛耳られた日本語圏の匿名ネットスラムからみてもなお、恣意的言論統制は米国ビッグテックの文化的自殺点説

ツイッターの色んな問題点はあるが、そのなかでも気持ち悪いのが俗物的な部分である。特に市川健春ってアカウントに間接的に名誉感情を落とされる文脈で絡まれたあたりで、前から薄々勘づいていた事が確信に変わった。要するにあの場にいる連中ってフォロワースノッブ、追随者俗物みたいな原理で動いている。
 荒らしを含む追従勢が全体主義的・全会一致の幻想的・集団原理的に少数意見弾圧の和を作っているのだった。

 それを一参加者としては未体験でまだ十分しらなかった時点の僕は、色々なことを考慮し、大体1年半くらい前にそれまでロム専(専読)で使っていたところで本格的にツイートしだしてみた。色々な実験をしながら。もう自分に害しかないと悟ったのでそれはやめたが。具体的にはトランプら欧米高官らが毎日くらい使い出していたのでもう公器になってるんじゃないかと感じ、そこで公見をだしてないと文明の爪弾きじゃないかなと感じていた。
 だがこれは半分見込み違い、というか、大幅に間違った方に着地した。目立ってはメルケルだけだ、トランプ排斥を非難した公人って。

 トランプ排除のGAFA系はこれまでどおり自由言論の担い手という顔はできなくなるだろう。トランプによる暴徒扇動かも曖昧な事例で、どちらかといえば彼は抑止演説後は娘ともども暴徒鎮圧に回っていたのに、これで米巨大IT企業共謀の本性が露わになったといってもいい。彼らは規約という囲いで恣意的な判断をする。前からその事は日本語ツイッター圏では指摘されてきていた。ツイッター日本法人の社長はグローバルポリシーに従っているだけ、歯がゆいこともあると発言していた。ところが蓋を開けてみたらその全球方針の方がとんでもない言論弾圧に繋がっている。トランプは暴動するなと演説した直後に、米巨大IT企業から一斉排除された。これで自由派は、中国政府を一方的に非難できなくなったわけだ。
 GAFA側からすると、暴力扇動の違反容疑で、見逃すと利用者や株主、利害関係者からの反発が考えられたので、現実的経営判断をしたのだろう。トランプは負け犬として追い払われたわけである。彼はそれまでビッグテックへ権力を背景に、ティクトク買収令など脅しを効かせていたのだが。
 その歴史的現場に居合わせてみると、古代アテネの崩壊に近い何かがあると感じられた。暴徒側は民主主義的な多数政体の腐敗を示しており、アリストテレスが『政治学』などでその体制を「民衆支配 デモクラティア(demos 民衆 + kratia 支配)」と呼んで、あしき政体と定義していたのはまさにその通りだった。

 GAFAは民衆支配の別権力で、国権に馬乗りしてしまった。メルケルはこれをみて国法に従うべきだと発言した。 GAFA側は独自ルールで言論統制していることを見抜かれても――もとより僕の知り合いの西洋人らは前からそれを危惧し、個人情報含む米国ビッグテック囲い込みの外に出ようとしていたのを僕はみていたが――営利性に基づいて囲い込みをしてきているから、一朝一夕で態度を変えられない。

 あまつさえ日本のネットは地獄である。匿名衆愚があれだけ連日延べつ幕なし全力で犯罪する場になっているのは、何はともあれわが国ネット史に照らしひろゆきその人が元凶だろうが、彼はモギケンはじめあの世代の東京文化人なるものら――というか、もっと生真面目な文化人も、例えば東大にも関わっている名の知れた学者なら山岸俊夫とか長谷川真理子など当然同時代的に別にいるといっていいわけだから、精確には「東京ネット芸人」――から半ば神扱いされており、現に勝者面である。彼の実態をほどあれ知っている側からするとちゃんちゃらおかしい話で、推定無罪段階のカルロス・ゴーンより遥かに邪悪な有罪確定の山をつくり、まんまと亡命中な指名手配犯の極みみたいな輩である。そして自分は彼の末路が「後なからん」なのも確信している。
 いづれにしてもひろゆき一味の悪徳に感染し、匿名卑怯者文化の中で、僕がみてるさなか最低でも2人以上のツイッター民が自称普通の日本人から実際のところ虐殺された。1人は木村花。1人は三浦春馬だ。両者とも自殺という形をとってはいるけど実態的には、匿名衆愚からの集団殺人罪だろうと思う。遺書に近いメモが非公開で死の真意不明な春馬氏に比べ、特に花氏の方は当人がツイッターで致命的に傷つけられた旨を周囲に相談していたのでそれについて誰も疑義を挟めない。
 かれら匿名犯罪者らは自分へも具体的に殺害予告、個人情報を虚実まじりに晒しながら名誉毀損罪・侮辱罪を数多やってきているし、妄想でなく具体的に或るページで今もやられている。かれらは自らの破滅的な悪性ぶり、極悪非道ぶりに反省などできない。できていればとうにそんな蛮行から足を洗っていたろう。自他の誰も得せず全員が損害しかしえない行動をくりかえすとは、その時点で世界で最も邪悪な連中以外何者でもないというだけのことだ。ひろゆき一味が擁護し、囲い込み、広告収益搾り取り目的にはぐくんできたのはその悪魔的言論スラム民である。

 GAFAのうちGoogleは「邪悪になるな Don't be evil」のポリシーがあった。

And remember… don’t be evil, and if you see something that you think isn’t right – speak up!
---Google Code of Conduct
Last updated September 25, 2020

そして思い出して下さい……邪悪になるな、そしてもしあなたが正しくないと思える何かを見つけたら――声を挙げよ!
――グーグル行動規範
最終更新2020年9月25日

「サイコですよっと。。。 Let's be psycho」が暗黙ポリシーの2chだが、本気で日本のみならず全世界で一番怪しげなサイトといえば恐らくそこであろうと思う。なにしろ管理人が法律に従わないし(裁判に欠席し続け、敗訴しまくっても賠償金を払わない)、人権侵害の無法地帯でしかないのだから最初から。そんなのGAFAに比肩できる筈もなく、今の今まで東京地下の不良界でしかないだろう。得意の赤羽団地中華思想で茨城差別してきて以来、その管理人とやらは僕(やもっと以前から警察)からしたら天敵以外何者でもないんだが。ナチハンターならぬひろゆきハンターは各地にあまた潜み、彼のサイトから受けた心の傷から塞ごうにも流れ出て留まることのない血の量だけで四海を赤く染める重大犯罪被害に耐えてきたのだ。
 ひろゆき語録で一番やばいのはアイフォンなんて1ヶ月後に消えてる発言だ。茂木健一郎博士曰くそういうやつが「賢さのグランドチャンピオン」らしいのであの界隈がどれほど欺瞞に満ちていても誰も疑問をもてない。要は東京論壇芸人同士で地位のお膳立てしあう腐りきった謎有識者カルテル。さすがにそこから皆兵論者までもちあげられ赤紙くるかもしれないとはガースー冗談きつすぎるのだが、その内部者は自分達の利権から決して逃れる事はない。ひろゆきがそれまで暇つぶしとほざいていた2chに(自分が被告なら無視していたのに、原告なら司法制度を利用する憲法12条違反のえせ国民)ダブスタ権術主義でしがみつく様になったのは金の為だ、と嘗ての盟友に分析されているが、ほぼ確実にその通りだろう。

日本国憲法 第十二条 (自由及び権利の保持義務と公共福祉性)

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
江戸っ子は酔い越しの金を持たず、金に淡白ですよっと。。。ぶった神奈川県うまれ1代目北区育ち風貌はもう跡形もない。あとはただただ、アノニマス面の鼠小僧ですらない無法者の代表格、天下一のよごれ役として東電原発の周りに溜まっていっている真っ黒なフレコンバッグ群ほどの悪業と被害者らの恨みを背負ってこの世から去っていくのだろう。モギケン氏は前から自称・基本アナーキーだとか基本リバタリアンなので、法学士にもかかわらず、法秩序の破壊など瑣末なことなのであろう。修身・斉家・治国・平天下の儒学者からみたらこれもまた天敵みたいなキャラなんだが。どちらにしてもここにいるのは東京不良集団である。自称リベラルとか横文字で曖昧にいってるが、やってきていることは公然たる人権侵害系犯罪教唆掲示板づくり共犯でしかないからだ。誰の話かは敢えて明示しませんが、全身ナイキでおフランス意識高い系リベラル気取って粋がって、人権侵害の女工哀史スウッシュ自慢。ツイートで客観的検証を含む指摘されまくっても強制労働防止法案阻止のロビー活動無視はさすがにすごかった。逆に、何でそこまで滑れるのか。どう見ても人権擁護論的に破綻してる立場で、飽くまで粘っていた仲間もだけど。なにを勘違いしやがった末なのか。表面かっこつけたいだけ、かねもうけたいだけ、報道倫理も良識もなにもあったものではない東京圏三流マスコミに寄生する、横文字リベラルごっこどものせいで、ウィグル人らは永久に救われないのか。やはりナイキ擁護派のモーリー・ロバートソン氏が大河ドラマ内で不平等条約おしつけてきやがったペリー役なのに謎に尊攘論批判と同程度に奇跡的ですらある。ひとりの日系ハーフ米国民としてそれで、本当にとる歴史観はいいのだろうか。果たしてその種の濫りな押しつけがましさが尾を引き、真珠湾攻撃・原爆投下・三島切腹に至ったのではないのか。日米摩擦の強調が、真の太平洋を股に掛ける歴史学の相互理解と、それを応用した相互尊重に基づく国際交流上の威儀なのだろうか。江戸幕府の交渉役・松崎柳浪(まつざき りゅうろう)が、飽くまで平和裏に条約締結後「日米同心」とペリーを抱きしめて言ったのはなんだったのだろう?

 よく聴く話だが、若いうちに不良行為してたやつらが、学ばぬまま年取ると惨め晒すというが、なにはともあれ2ch創設者の既往の一生ほどこの文脈で公益に値する実例ってないのではないかと思う。釈迦もこういっている。

学ぶこと少ない人は、牛のように老いる。かれの肉はふえるが、かれの知恵はふえない。
――ガウタマ・シッダールタ
『ダンマパダ』152 
頭髪が白くなったからとて長老なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷(そこ)なわず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ長老と呼ばれる。
――ガウタマ・シッダールタ
『ダンマパダ』 260-261

 冒頭にもどると、ツイッターってある種、もう究極的に真の自由派にとっては使えないんだろうなと思う。最初から使えなかったし、発信側としては。大体、自由になにかいうとツイッター・ルール違反でもない筈なのに、偏った主観的判定で勝手に消されるし。それなのに明らかなヘイト発言は普通に放置されてるし。なにか発信すると文の読めてなさと140文字以内へ「長い」の口癖から言語知能(特に短期記憶容量と基礎読解力)が低い感じの人達、短文厨の中でも、悪質なタイプ、つまり低言語知能系の荒らしがよってきてあれこれ下らないそしりをしてくる場だ、日本語ツイッターって。その時点で2chと変わらない。インフルエンサーが売名稼業しにきたあたりで本格的に終わりだしたのだろうが。ユーチューブもそうだった。
 この世では、高文化的最適化と、拝金的最適化は恐らく一致しないのだろう。資本主義的諸現象の中で、前者は営利性を二の次にし、貴族義務が優越する。後者は往々にして自堕落な衆愚政治の姿をとる。ある教団が偉いのは前者の場合だけで、後者に移り変わりつつある時点で手早く荷物をまとめ、是非とも一刻でもその場を早く離れねばならない。僕がみたSANAAは明らかに前者の段階だったし、その熱は彼らを崇高な努力へ向け動かし続けていた。
 ひろゆきら扇動屋にとって好適な場所は、聖者にとっては地獄である。ソクラテス、プラトン、アリストテレスらはイエスと共に、望むと望まざるとにかかわらず、その場から去ることになった。被害を受ける前に逃れていれば彼らもロトの様に、衆愚からの濡れぎぬ暴走というソドムやゴモラの溶岩に巻き込まれはしなかったろう。

時代の粋

あらゆる時代の芸術家らは
その時にできた最善の為事(しごと)を残したろう
この時代に最美の何かを残せなければ
その技は完成ではなかったのだ

日本での孝行、日独両国での扶養義務は「途上国でない限り、ろくでなし」なのか

最近、サンドラ・ヘフェリン氏のツイッターを観察してきたのだが、三浦春馬氏が自殺した直後にツイッターで彼女が、春馬氏の母親を物凄く無礼な言い方で、おおよそ虚偽と考えられる曖昧情報まじりに名誉毀損・侮辱罪していたからである。具体的には春馬氏の親御さんを毒親同定できる文脈に置いたうえで「途上国でない限り、ろくでなし」といっていた。

刑法 第231条 (侮辱)
 事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。

いくら自分は利害関係のない第三者とはいえ、真偽不明なイエロージャーナリズムの週刊誌記事なぞに基づいて彼女が公然と死者・遺族へ日本で日本語で犯罪しているとしか捉えられない以上、看過できず、直接ツイッターアカウントへ返信の形で注意したのだが、即座に彼女はブロックしてきて、その直後に発狂した様に田舎差別の内容のリツイートを連打していた。
 これで彼女を危険人物だと認識し、以後は別アカウントなどで色々調べた。
 それから半年くらい経過した今の時点までに収集できた関連情報でわかったのは、彼女はドイツ自民族中心主義(German Ethnocentrism、ゲルマン・エスノセントリズム。いわばドイツ人が高文化的で世界の中央民族といった考え方)を多かれ少なかれ持っていて、それを直接東京に持ち込んできた上で、都会民族社会主義(Metropolitan National Socialism、都会ナチズム。いわば都会人なる民族単位を思考の中心に置いてその全体で社会正義を考える物の見方)の様な言動をしているらしい、という分析である。そしてこのドイツのミュンヘンから彼女個人がそのままもってきた考えを、東京中華思想に上書きしている。それゆえ自分が目撃した「途上国でない限り、ろくでなし」発言がでてきたらしい。
 しかし日本民法877条では直系血族に扶養義務があるし、いうまでもないことだが、ろくでなしなのは東京マスコミ中のイエロージャーナリズムによる私事権侵害にあたる三文記事であり、なおかつそれなどを種に死者・遺族へ名誉毀損罪する犯罪者の側である。

(日本)民法 第877条(扶養義務者)
  1. 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。
  2. 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。
  3. 前項の規定による審判があった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。

ドイツ民法1601条でも直系親族に扶養義務が定められている。

Bürgerliches Gesetzbuch §. 1601.
    Verwandte in gerader Linie sind verpflichtet, einander Unterhalt zu gewähren.

(ドイツ)民法 1601条
直系親族は互いに扶養(暮らしの糧を与え合うこと)を義務づけられている。

 では、サンドラ氏はなぜ扶養義務を「途上国でない限り、ろくでなし」と言ったのか。あまつさえ、日本での孝行は、ただのたかりであり、親子どちらかがろくでなしなのか?

 そもそも「途上国ならば、ろくでなしでない」という判定自体が、単なる国籍差別に思う。恐らくサンドラ氏は、脳内で、相対的に先進国よりなんらかの意味で絶対物質需給の水準で貧しい国を想定し、そこでは親子の助け合いに該当する扶養義務が当たり前であると考え、先進国水準ではそうでないべきだ、すなわち先進国民は一様に扶養義務を果たすべきでないという観念論(イデオロギー)を持っているのだろうが、私は最初にサンドラ氏の上記ツイートをみた時点でそれ自体に疑問であった。

 私がいくらか同種の考え、要は途上国差別に近い言動をはじめて聴いたのは或るイギリス人からで(合計すると今まで人生全体で計2名から聴いて、別の所で書くけどもう1人は或る奈良女からだった)、彼は「第一世界 (The) First World」という表現を使った。 明らかに第二次大戦時の趨勢を経た、冷戦時の用語で、僕にとってはどこの古人なのだろうって質感を持つことばであり一瞬呆気にとられたものだ。我々の学問水準はもうそんな次元はとっくに通り越してしまい、文化人類学の系統とかデフォなので、僕は親友の小野君と中沢新一の講義を多摩美にもぐりで聴きに行ったこともあった。とはいえなんか退屈な、だって本を読み上げてるみたいな講義だったので、それなら本読めばいいじゃんって話で、耳では聴きながらノートとる感じでメモ書いてたが。そのメモしたノートはなぜか小野君にあげたが。そんでそこからみたらだが、そのイギリス人(なおニューカッスルの人)はかなり昔の帝国主義の価値観を、いまだに引きずってる様に感じられても仕方ないし、実際、彼はそういう考えでいた。中東諸国とかアフリカ諸国とか中国とか、下手するとKPOPとかもまるごと含め韓国までもを、僕に向け、君も彼らを一段下に見て当然だろう? という様な、NATO的なものといおうか、一種独特の仲間意識みたいな感じで腐す文脈で語ってくるのである。
 冷静に考えるとそこに参加してたら勝ち組になれる可能性が高いからそこに参加した第一次大戦は日本も戦勝国側でそれなりの国益を受けたものの、実際、彼らと敵対してしまうことになった第二次大戦経てもへなくても僕はそれらの国々になんの軽蔑の念も持っておらず、どっちかというなら尊敬の念とかある種の憧れさえもってきたのであり、まぁ中東諸国とか中国奥地とかならテレビの自転車旅番組「グレートジャーニー」とか、「進め!(進ぬ!) 電波少年」系の猿岩石のユーラシア横断旅行とか本も番組も全部みてきて、現地人の心や懐の深さとか、インドあたりだったかでの森脇と現地女性の恋物語とか、最後まで旅終えて藤井フミヤの『白い雲のように』プロモーション後に没落、復活有吉の毒吐き芸風への展開含め、なんというのか我々からは当然だが見慣れない雰囲気の別の社会の出来事で異国情緒まじりに見えるがその中で、どうみても我々と同じ人間性の紡ぐ命の姿などに魅せられていた上で。違う世界で生きる同じ人達。NHK「世界ふれあい街歩き」でアフリカ都市部で音楽かけて歌って踊りながら露天商やってる人とかみたら、あるいは徳仁氏が皇太子時代アフリカは憧れの地です発言(あなたらの作った渡来系奈良人発の民族宗教・神道に於ける祖先神アマテラスが、ミトコンドリア・イブと認めてるの?)とかみてそこまでアフリカに悪い印象もつわけもなく。一言でいえば(ひねくれた意味ではなく)普通の日本人ってアジアをなぜか見下してみる欧米と同じ感覚で育ってきてるわけじゃないかと思うが。本当の話、ユーラシア大陸的な物を、基本、ニュートラルにみているはずだ。そのうえ『コーラン』のイスラム(絶対服従)も、『武士道』の忠義の観念に似てるなぁとも感じたり、大体、僕は漢詩や中国文学のファンだ。李白も杜甫も陶潜も路遥も、ノーベル文学賞を無量大数個で補えないだけ、心からすばらしい詩人だと僕は思っている。しかも韓国音楽も同時代的に時間差なく年中聴いているわ、そもそも韓国史の中で李退溪らの朱子学論争がどう哲学的に位置づけられてきたか、或いは韓国の建築・庭園様式とか社会制度とか、そのなかで漢詩以外に、万葉仮名の起源である「吏読」の用法を離れて時調やハングルがどう生まれ、やがて日本の演歌に影響受けたトロット経て、JPOPに影響されKPOPがいかに発生・発展したか、とかの流れも興味深く調べてきた。アジア諸国の端くれの極東のまさに日が出づる処、Orient、日本の日立の国界隈の人としてなんというのか、そのイギリス人が見ている目線とまるで違うのであったが、そのイギリス人のいわんとしている西洋中心主義みたいなのもそういやむかし薩長土肥って浅はかすぎてそういう感じだったよな、名誉白人ぶってて野卑な連中だったよ、大正民主主義弾圧して軍閥に耽ってたが華族令ごと消えたけど、安倍晋三・麻生太郎、或いは小泉親子一味とか一部の残党除けば大部分は、という明治批判の観点からだけど分からなくはないので、やんわりと「僕らは第一世界なんかじゃないですよ、滅茶苦茶な国政ですよ。みてくださいよ、政教分離もできてないんですぜ?」って返すことしかできなかった。易姓革命を前提とする中国史に対し、水戸学の日本独自哲学として皇国史観に基づく祭政一致論を唱えたわが国の烈公の手前、ある種の知的謙遜なんだが、恐らくそこに含まれる名誉革命・明治維新後に日英間で各国政が辿った、逆さなすれ違いの諧謔は伝わってないであろう。

  で、とにかくサンドラ氏もこのニューカッスル人とほぼ似た様な、西洋中心主義なわけである。しかもたちが悪い事に旧ナチ本部のミュンヘン育ちであるのにもかかわらず、ドイツ民族中心主義的な言動で、比較文化論もどきを年中乱用しているきらいがある。
 これは比較文化論をきちんと大学学部くらいの学識水準(複雑な数式とか統計的分析とか基本使わず、割とカルチャーセンター的にだれでもわかる範囲で、触れたことさえあればこういう感じね、という、さして専門的とも言いがたいレベル)でやったことがあれば一発で見抜ける話だから、彼女が比較文化論者としてはちょっと認められない素人次元の、単なる異文化摩擦をネタにするエッセイスト、ドイツ出羽守なのは一定より教育水準があればみなわかっているのだろうけど――特に、お転婆メーガン一味を追放したイギリスなどと違って、共和政ドイツに至った一間接的な素因でもあるだろうところの向こうでの貴賎結婚正義論をもちだしての日本国民総パワハラ呼ばわりの時は、さすがにヤフコメ民とかが、皇室支持者ともども猛反発していたが(そのアーカイブ)――この比較文化論の専攻者ではない一放送大教養学部生の僕からみても、サンドラ氏のドイツ文化優越論は残念ながらまことに傍ら痛い事この上ない。彼女はまじめな話ちゃんと勉強しなおした方がいい。だって比較文化論でおよそ最初にやることって、「文化の間に上下はありませんよ、全ての文化は等しい価値を持っているのでそんなの偏見で、或る文化と別のそれとの違いの間に価値等級をつけてはなりませんよ」という基本構図なのである。余りに基礎的な態度すぎてわざわざ講義の1回目とかで言わない事すらあるが。当該学問上の基本倫理というか。本当にそうなのだからしょうがない。これは西洋でいう構造主義、日本でいう柳田民俗学あたりから一貫してそうで、異文化だから下とか絶対禁止レッドカード即退場なのに、それを平気でいってしまっているのは、まじでこれは冗談ではないのだが、無教養なるものの態度でも一番最悪の類型でしょう。だって、それによって異文化を潰そうとしていた帝国主義(皇民化ですね、日本なら。アメリカナイゼーション、西洋化とか)が何を見落としていたかを反省するところのものが日欧界隈での比較文化論であって、文化人類学であって、或いはそれ以前から有る民俗学 folkloreその他の、多文化研究の、現代先進国に於ける欠かせない一意義なのであるから。

 まぁとにかくひどい。その酷さは語るに落ちるものだからもう誰もつっこんでないだけだろう。僕だってわざわざこんな下らない説教じみた随筆なんざ書きたくない。これは僕にとって時間の無駄であるばかりか、サンドラ氏側からしたら「そうかー。文化の違いって、基本的に優劣じゃなかったんだー」と反省するまでもなく逆切れしてくるかもしれないだけで、ドイツ国民一般はナチスには反省したかもしれないが、その根底にある自民族中心主義については反省してない可能性すらこの遠い極東の一国民が疑いだす次元にまずいでしょう。メルケルもそうだ。多文化主義の失敗なんてそう簡単に言えた義理ではない。飽くまで試み続けねばならない異文化共生を(だって異文化は国内外に常にありますから!)、少しばかりあるいはかなり困難だからって挫折したつもりにしたせいで、ドイツがアーリア人優越論者を持ち上げすぎゾンダーコマンド使った悲劇を生じたのであって、僕の国だって天皇支持者が「蝦夷を持って蝦夷を討つ」渡来人侵略犯の悪徳戦術を素で戊辰戦時の西軍側から平田学派の尊王秋田に入り込んでやったせいでひどいことになった。これは東北勢で一定より地誌に覚えがあれば皆知っている悲惨だろう。一方、イギリスでも薩長勢に武器を横流しして内乱の傀儡に使うとか、先住民同士に殺し合わせるのと同じ陰謀を実質的に裏表で徳川政府・薩長土テロリスト勢間を操る様に使う、アメリカ先住民の食糧狩りで絶滅試みるなど、大なり小なり似た様な野蛮さがあったが。米国での戦時中の日系人の強制収容とか、欧米で長らく続いてきた黒人・黄人差別(奴隷制、黄禍論)とか。しかしフランスみたいにブルカ禁止とかも決してよろしくないにせよ、まだ、フランスは自由・平等・友愛が国是だけに、日本の人種差別撤廃提案にも一回目で賛成してくれたし、米英にいじめられた日本が敗れてから国連憲章で人権さだめたところで「じゃあ最初から賛成しとけ」が日本の本音としかいいようがないであろう。南京らに申し訳ないばかりか原爆もらい損である。
 要は、サンドラ氏をみてると、西ドイツの一ミュンヘン育ち人の中では、ドイツ民族中心主義が、ヘーゲル・カント以来脈々と、いや、もっと遡ればもしかすればゲルマン民族の大移動あたりから延々と続いてきている可能性が0ではない。それはそれは恐ろしい話で、たった1人のハーフの中にもその種の侵略帝国オレタチ万歳みたいな利己性がバリバリ生きてるとすると、福沢諭吉が『文明論之概略』中でその種のゲルマン性を不羈独立と形容したのも、あながち間違ってはいなかったのかもしれないが、どうみてもこわい。僕は直感が優れているらしく一瞬で本質を見抜いてしまう傾向にあり、ドイツってなんかこわいと思って基本近づいてなかったんだけど、ますますそのおそろしさの本質、本性がわかってくると、自分が感じていた事はこれだったのか、と、建物ごと消されたユダヤ人焼却場の隅に埋められて判別しづらくなっていたメモ書きに図らずも確認することになった。そしてそのサンドラ氏と東京人は、関東大震災で罪なきひとを大虐殺した過去がありながら毎年の慰霊すら拒否するとんでもない不届き者都知事を再選させてしまう集団の中にいて、なおかつその自集団の道徳的落ち度を批判的に啓蒙しようとすらせず同調同化しようとしており、いまだ18万人も人種差別論者に2020年都知事選で投票するなど、そりゃー馬があうだろうなって感じで、野蛮さが半端ないのだ。18万人ってなんだ。僕の近隣で一番大きな都市のひとつである日立市とほぼ同じ人口数が東京では、憲法違反の極悪人なのである。現実に。東京人は1400万人近くいるからその1%くらいじゃんとかいわれても意味がない。東京蛮族の大移動みたいに18万人が大量虐殺に走ったら一巻の終わりである。そして、それをいつでもあおりかねねーな、てか毎日煽ってる様なもんだなってのが、サンドラ氏ら東京人による普段からの田舎差別の言説の数々で、現に福島県ら、東京本社の原発立地自治体とか都内発の魅力度差別自治体とかがそれで犠牲になってるのに平気な顔で、自己中にも賄賂コロナ五輪しろオレタチの電気代けちる為に再稼動しろだとかやんややんや衆愚やっているのである。

 すさまじい蛮族がすぐ南に住んでいて、その人達の無知からきた偏見と、全国地方差別心に驕る傲慢ぶりといったら凄まじいのだが(実は空っぽの中身を隠す為の江戸っ子くずれな虚勢、新東京人の俗物根性による空威張りなんだが)、情報技術の発展でなんの時間差もなく即座に、かれらの普段の卑しい言動が見える様になった今では恐怖しかない。戦後憲法前文に定める恐怖と欠乏から免れようとしている国際社会で名誉有る地位なんて到底しめえていないこの国で(なにせ常任理事国入りすら関係諸国に拒絶される始末)、現にそこの中央政府が置かれている首都が、恐怖をまきちらす。毎日毎日だ。コロナ禍もそうだけど。
 どうみても地方差別的言動をツイッターだのテレビや雑誌やインターネットだので平気でばらまいて、万事うえから目線。上級国民の皇族様は絶対者であって貴様ら田舎者は浮浪者同然やろ! みたいな口ぶりで、自分達都民も平均すればろくに金がなく、エンゲル係数(食費負担率、要は家計の圧迫感)その他からみても茨城の平均より酷い暮らしぶりだろうに(東京は甚だ格差社会だけに、平均してすら47中11位が結果である! 僕が都内にも暮らしてきて、この目で実態はみた。なお食糧産地の茨城は首都圏にもかかわらず44位)、勿論、南関東人がそんな虚ろさを自覚することはない。だってひたすら傲慢なたちなのだから。知事同士でもだが、東京人が福島人にごめんちゃいした場面って一度もみたことがない。プライドだけで保っている様な巨神兵。いつ崩れてきもおかしくない。どろどろに溶けた体といえば猛烈な腐臭がする。そしてそのなかに詰まっているのは都会民族社会主義だか天皇中華思想だか都会結束主義だかなんだかわけのわからない悪意悪徳で頽廃しきって混ざりきった汚物の塊。一刻も早く逃げおおせよ。僕は一足先に逃げたノアさ。

2021年1月16日

悪人の役割

悪人達は反面教師になるべく存在する。そしてなぜかれらが悪辣なのかも、かれらの行路が甚だしい苦難の道だからだ。
 聖書に狭き門から入れ、とある。
狭き門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない。
――『旧約聖書』マタイ、7:13-14
 もし君がかれらの一員の如くなれたとしてなりたいだろうか。悪人とはそういうもので、悪役に憧れるといっている人は、単に自滅を求めて生きているだけ倫理的に無知なのである。

悪人監視の目的

悪人を監視する真の目的は
彼らの禍を未然防止することだ
ナチハンターを手本にせよ

薩長藩閥信者の批判

単一民族結束主義者は亡国の徒
明治帝国の滅亡に無反省の明治懐古派は
三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひと しんのう)が言う通り最も日本に害がある

偽自由派

善悪を取り違え、悪人に寛容な者は心が広いのではなく、単に愚かなのだ。

口の悪い者、おべっか使い、馬鹿者、正直者

そしる者は自ら天に唾を吐いている。

 下衆を褒める者は悪評を得る。

 よい者を悪く言い、悪い者をよく言う者は愚か者に好かれ破滅する。

 自他の善悪について正直に評する者は信頼を得る。

子孫も業から逃れえない

悪人達がネットやリアルで犯罪を繰り返し
自分達は安全だと思い込んで子供を殖やす
だがその業はみな残っているので
末代までも逃げられない

南日本の素描

恐ろしい馬鹿や悪人が繁殖している
そんな国でなにをいおうと
ひたすら悪意で貶めてくるばかり
善人へ濡れぎぬを着せ威張り散らす悪性どもが
毎日西日本から東京へやってきて
差別と公害をまきちらし金と権力を貪る
ノーベル賞を得て自慢し
外人と一緒に田舎差別ばかりしている

悪魔で埋まった全世代

上の世代も下の世代も悪魔ばかり
同世代すらだれもよい人がいない
それで君は絶望しなぜこんな世の中に
うまれてこなければならなかったか
なぜこんな世の中でいきていかねばならないか
全く疑問だった

都会民族至上主義は悪魔崇拝

東京ナチス、京都ナチスは
中華思想に基づき全国差別してきた
その根拠になっている天皇家や将軍家は
単なる暴力団長である
つまり彼らには神聖性など全くない
 
権力闘争に勝利したとは暴力の証拠だ
多数決は数の横暴にすぎない
権力者は最も卑しい公僕である

東京ナチス、京都ナチスは
田舎差別を犯すゆえ全国で最も卑しい
都会民族至上主義は悪魔崇拝である

なぜ福島が京都・東京結束主義の犠牲に2度までもなったか

東京人、京都人らの相当数は
都会結束主義で田舎差別の言動をし
絶えず人権侵害を犯している
この極悪集団は要するにナチなのだ
 
自集団と異なる集団を措定し
その集団を便宜的に敵視・恫喝することで
自民族の悪事を正当化しようとする
 
東京・京都人にとっては
たまたま自分達と異なる性質の集団が
「田舎」だったので
自集団の衆愚をかどわかし
田舎差別の言動をとることで
自分たち都会民族社会主義者の蛮行を煽れる

こうして福島は犠牲になった
一度目は京都人が侵略した会津戦争で
二度目は東京人が侵害した原発公害で
 
京都人も東京人もその相当部分が
都会ナチスの集団蛮行に感染し得意がって
全く自分達の犯してきた罪を反省しないだろう
今も日々彼らは田舎差別の言動をとり
都会結束主義を中華思想に重ね強化
天皇家が都心に暮らす国家的差別体系の権化
傲慢は都会ナチスの板についた癖で直らない
彼らがGoToでばらまくコロナ禍をみるがいい
今後とも反省する余地などないのだろう

原発公害による東京衆愚、田舎差別による東京の悪人、京都文化中心主義による異文化差別の京都人らの弁別

東京人達の大部分は
自分達が原発公害集団だと気づいていない
彼らは「東京衆愚」である
だが気づいていても看過し
田舎や他者へ差別やあまたの禍なす人も多い
彼らは「東京の悪人」である
 
京都人達の相当数は自文化中心主義による
差別的言動が人権侵害だと気づきながら
知らないふりをしているのだろう
さもなければいまだ中世の中華思想で
自己中心に京都や近畿と自称しつつ
あちこちで会うたび不躾に初対面で
陰険に差別してくるなどまずありえない
彼らは「異文化差別の京都人」か
無意識でその種の犯罪をしているならば
単なる精神病質的な犯罪人格や性悪である

東京や京都の中華思想論者と即座に悪縁を切るべし

悪徳に満ちた人達を観察していると
彼らは本当に毎日卑しい事を考えてしている
そうであれば彼らと悪縁を切るしかないのだ
 
ドイツ人がナチスに支持を与えたのは業
単に彼ら自身の中にユダヤ人差別があった
ヒトラーはそれを代理した指導者だったのだ
もし当時ドイツにユダヤ人として生きていたら
どうあがいてもナチに強制収容・虐殺された
彼らにできたのはドイツと早く縁を切ること

私はこれに悟った
なぜドイツであれだけ人道犯罪が起きたか
彼らが自己中心的な考えを持っていたからだ
ヘーゲルもあのカントさえそうだ
彼らはドイツ民族が文明人で
他国の人間は多少あれそれ以下とみなした
その考えをアーリア人優越論に繋げたのが
かの悪名高いヒトラーだった
所が彼の本部があった西ドイツの
ミュンヘン出身者たるそのサンドラは
いまだにヘーゲル・カント式の西洋中心主義
わけてもドイツ民族中心主義を疑っていない
ドイツ文化の核心部には
今も自民族中心主義が内在されている
現に「多文化主義は完全に失敗した」と
今もドイツ首相のメルケルが言った

全く同じことが中華思想にもあてはまる
東京や京都の大勢が天皇中華思想に感染し
東京や京都を自民族中心主義に重ね
全国を田舎・地方などと差別しているのは周知
そこにサンドラはやってきて
正にドイツ式の自民族中心主義と
符合点をみいだし
連日ウェブ中心に田舎差別の言動をとっている

これが行き着く果ては民族大量虐殺である
知らない人々を平気な顔で罵るのは
傲慢な差別意識の証拠だが
ドイツの特にネオナチ
東京や京都のおもたる都会優越論者自体に
その種の悪徳が内在され
日常から悪事を重ねているのだが
時に暴発し侵略罪や民族虐殺事件を起こす
原発公害が最近起きた同様の事例
彼らは福島辺の「田舎者」を大量虐殺し平気だ
 
彼ら都会ファシストの
恐るべき自民族中心主義性の根底にあるのは
天皇中華思想、東京・京都中華思想と
同様の悪意であり
全て自分が利己的に振舞うのが
事柄にかかわらず自明に正義という傲慢さ
もっといえば虚栄心に耽る野蛮さであり
異文化や他者への無知と驕りである
ナチズムや天皇制ファシズムは
それら甚だしい悪徳の暴走形態にすぎない
普段から彼らは同然のあくどい言動をしている
 
だからこういえる
日本に今暮らしている良識派はなるだけ早く
東京や京都の衆愚から縁を切るしかないのだ
一刻でも早く
さもなければナチズム下のユダヤ人と
同じ目にあう
関東大震災時の朝鮮人と同じ目にあう
原発事故時の福島周辺人と
同じ目にあうだろう

極悪人というのは普段からそうである
ドイツ人がユダヤ人差別を
普段から迎撃していれば
絶対にあの様な悲惨な大量虐殺が
起きる筈もなかった
現に東京人に混じって
既に人権侵害の罪を連日犯している以上
彼らはいつでも政治権力者に
同様の罪を犯させかねないことだろう

2021年1月15日

反中華思想

京都人一般が全国民を差別するのはOK
東京人一般が全国民を差別するのはOK
一茨城人が京都や東京を嫌うのはNG
お前ら京都と東京はどこまでも傲慢だな

王道

徳川慶喜は下衆がどれ程ぬれぎぬしてきても
ただ彼の良心に従って尊王の大義に殉じた
彼は周りの下衆がどれほど中傷してこようと
西軍の蛮族がどれほど汚名を着せてこようと
天皇陛下に一身を投げ出して仕えていた
茨城県には偉大な先人がいる
その風土にあってなぜ自分が
高々ネットの衆愚ごときに極悪人どもごときに
この人たる道を譲るべきか
何があろうと自分の良心に従って生きるべきだ
そしてそれが堂々としている余り
何億人の日本人と称する下衆に理解できずとも
何億人もの悪魔どもはわが王道に敗れるだろう

学風

放送大学の茨城学習センター行くと
ひとりのおばあちゃんが勉強してた
僕はここは本当にいい学校なのだと悟った
尊敬すべき学生の間で学ぶがいい

お前が一番反日だ

お前は自称普通の
陸に学問しなかった親の元で生まれ育って
賃金労働者になる事しか頭にない
核家族でアメリカ化されてるわけだ
だから貴族が家を相続し
学術の発展に尽くしてるのをみてニートと貶す
お前が一番反日だよ
佳子内親王殿下に土下座して毎朝拝んでろ

脱構築小説を統合失調症扱いする馬鹿

へえ~脱構築主義系の散文詩って統合失調症なんだぁお前の中ではポストモダン全体がな

好みが違うだけで反日認定してきたやつへ

何でお前はお前の好みと違う好みの人を反日認定してるの? 馬鹿ですか? お前の好みが何で俺の好みと同じでなければならないの? お前が俺に合わせるならまだわかるが何で俺がお前ごときにあわせろと?

人の好き嫌い、京都嫌い、東京嫌いに文句つけられる筋合い

えっ私がこれまで相当数の京都人らに色々イケズな人権侵害され東京人全般から現に原発公害されてても彼らの母集団を敢えて崇めなければならない理由って何? 君の自己愛妄想?

反日・親日二元論が一番お国の害

お前ごときにさ
お前は天皇か?
天皇ですらねえんだろ?
天皇ですらないやつがさ
何が親日か何が反日か判定できるわけねえわ
天皇も勝手に決めてんだろうが
天皇が一番日本の害悪かもしれんだろうし
お前ごときの知能に決めれるか?
誤認したら責任とれる? 極刑になる?
なんだお前は神のつもりか
何でも二分法か?
全て親日反日の2つしかいないのか? あ?
この世にあるものは2つか?
お前の知能の低さを疑え
世界は2種類か?
全人類は2種類か?
天皇ですらないのに何を偉そうに
日本に役立つ奴をお前が決めれるつもりだよ
その天皇が一番反日だったらどうすんだ?
何が日本の役に立つか昭和天皇に決めれる?
昭和帝に親日認定された奴らが国を亡ぼしたし
天皇も程あれ馬鹿で崇めるお前も馬鹿だろうが
そもそも100%日本に役立つものある?
定義もせず日本の利害を勝手にお前が認定? 
え? 誤認しまくっても科学面なの?
大体なんでそんなに役立ちたいの?
生き物なんて唯生きてるだけだろうが
神は何の役にも立たないよ
神の方が人より上じゃないの
日本の役に立つ奴が世界の役に立たないとか
世界の役立ずが日本役かもしれんだろうが
なによりお前が一番役に立たないよ
お前の反日認定が一番お国の役に立たないよ