ツイッター民の一部は、自己の言語知能の低さを正当化する為に、思考の短さを賢さと誤認している。なおかつこの為に文法の正しさや、語彙の豊富さ、修辞術も否定している。という事は彼らは深い思索や言語流暢性を否定しているに等しい。――すなわち哲学や、文芸一般を否定しているのである。
少なくとも日本語ツイッターでは猥褻漫画が何十万回もいいね! されているのに、少しなりとも知的な内容は(芸能人、インフルエンサーや有名人のそれを除き)およそ全く無視されていて、全体の話題にも先ず上がらない。
つまり一般化すると、「低(言語)知能の方が賢い」と大幅に誤っているばかりか、人生にとって致命的ですらある認識を、特有の傲慢さのあまり、ツイッター民の一部は自己正当化しているのだが、それは彼ら自身の言語知能の低さに程近い人の言動しか理解できないせいだ。
この層はツイッターでは頻繁に現れるので、短文厨と定義しよう。
言語性IQが一定より高い人は、 ツイッターにはあまりに愚かな人が多い様に感じるだろうが、それは決して間違っているわけではない。トレンド欄(ツイッター内で多く話題になっている事柄についての、ツイッター内での特集)をみれば、そこに集まっているのは大衆全体の中でも決して上等ではない部類の民である。
1ツイート140文字が基本で、400文字詰め原稿用紙半分に満たない(約3分の1)構造のせいで、思考が浅い人に有利な条件づけがされている。
もしそこで立派な言説を一定の長さで語ったとしても、いわゆる短文厨には理解できないので、単なる長さ(といっても短編小説にも満たない)だけをみるや異質なものとして排斥目的に、よってたかって荒らし行為を働き、袋叩きでダメにしてしまう事がよく起きる。
日本ではろくでもない集団虐待を目撃していても、民衆一般が余りに卑怯なので、進んでかばう擁護者は殆どいないものだ。事柄が知的な事なら、東京発の反知性主義サブカル漬けになれきっている上に、五人組的に甚だねたみ深い日本人民衆の事なので、なおさら悪化が良貨を駆逐するのである。
自分は箴言・警句の形式、或いは俳句・短歌の様な短い詩が、一般に長編小説の類より好みなので、ツイッターは自分に向いているのではないか、と感じていた。だがこれは勘違いで、上述の理由で、そこでは簡潔さが知性と一体化しているのではなく、単に重度の愚かさが賞賛されている2ちゃんねるの様な実態であった。
それでなるだけ早くやめたい、やめたいとばかり思って実際、周囲に相談もしているのだが、まだ完全に発信をやめる為の理由、やりきった感じが得られていないので、「もしかすれば、長く続ければ何かが得られるのかもしれない」という淡い期待を元に、色々な実験をしてしまっている。だがそれも全て無駄なのだろう。恐らく。
それというのも、自分と短文厨はまるで違う資質の人々で、相性も極度に悪いからだ。自分は経済的文が好みなのだが、短文厨は自分の愚かさに程近い短さまでしか文章が読めないだけである。『カラマーゾフの兄弟』とか『源氏物語』とかを読み通す事は、彼らに到底期待できる話ではない(私はどちらも読んだが、後者は語られている中身に比べ冗長すぎると感じたものの、10代で読んだ前者は、長さにおおよそふさわしい内容だろうなと感じた)。壮大な構想力を持つ大河的物語、或いは非常に深い思索といったある種の高い言語知能に独特の事を、短文厨は「馬鹿」だと言う。小鳥の歌より短い長さでしか短期記憶を使う事ができない。そんな人々が、ダークトライアド性をこめて誹謗してくる場所。日本語ツイッターは心ある人にとって、ひろゆきが金儲け目的で維持してきた某地獄とさして変わらなくなってしまった。ソーシャルメディアとして失敗したのである。
そして自分は、経済的文を一つの伝達の為の理想として長い間追い求めてきた過去に照らし、彼ら短文厨の言説の卑しさにほとほと呆れてしまった。幾ら簡素で最たる合理的な文体を獲得しようとも、読者の言語知能がそれに比べ余りに低いと、何も読み取れないというわけなのだ。そんな事がありうるなら、有名なだけの連中が適当に書いた何の意味もない一言の方が、聖言より人気を博してしまっても不思議はないし、現に短文厨の世界ではそうなっている。自分が彼らの一員だとみなされるのは耐えがたい苦痛だ。だとすれば、自分が目指そうとした文芸上の理想の境地も、何か勘違いした目的だったのかもしれない、と暗に感じるしかなくなるであろう。
一体それほど軽薄で卑賤な連中が過去どこにいただろう。日本語ツイッターの短文厨は、2ちゃんねらーよりもっと浅ましく、軽蔑すべき人々なのかもしれない。もし彼らが少しなりとも善意を持っていて、或いはまともに文章という営為から学ぶ意欲があるのならば、事情は違ったのだろうが。決してその様な事は期待できないだろうし、ますます彼らは反知性主義に耽って、幼稚な漫画アニメに夢中になって死んでいくのであろう。
自分は彼らと縁を切りたい。
芥川龍之介が谷崎潤一郎と論争した時、芥川は志賀直哉を引用しながら、筋のない小説を弁護した。谷崎の大長編主義はその後、源氏訳や『細雪』へ展開したのだろうが、自分は谷崎のぬめぬめとしていて不経済な文体そのものが気持ち悪くて読めなかった。自分の思考にとって、過度の冗長さはある種の忌避対象なのである。――それにもかかわらず、短文厨は、自分をさも冗長かの如く誤読・誤解する。これには前から辟易し、また或る義憤を感じ彼らの誤解を解こうと説明したのだが、唯の一人も、自分の本心や説明事項を理解できていなかった。彼らは谷崎にも同じ誹謗をするのだろうか? もししたとして、谷崎は何かを感じたろうか? 恐らく彼の何事につけ図太く、鈍い性格では、何も感じなかったと思う。短文厨らは、この意味で、全く間違った人の所へ進んできて、全く間違った誹謗を働いている。
自分にいえるのは、経済的文体は伝達効率のため相変わらず重要であり、それと、伝えるべき内容の豊富さはどれほど抽象化した所で一定より縮約できないという事だ――事実、自分には最も縮約した言語である数理論理学の記号で考えていた時期があった。所が、それでできる事は日常語の持っている機能の一部なのである。
また、特に相手が或る学識について一定より愚かだと分かっている時点では、抽象表現すれば殆ど何も伝わらなくなってしまう。イエスが倫理的主題を伝える際、頻繁に比喩を使ったのは間違いなくこの為で、やむを得ずやっていた筈だ。
結局、短文厨とは接触しないのが最も賢明なのだろう。説明しても何も伝わらない、しかも逆上してしまう以上、彼らは永久に愚かなままでいればよく、深い思索に入ってくる事はできないし、経済的文体と伝達内容の質量に違いを見分けるだけ、彼らの言語知能が高まる日も恐らく永久に来ないのだから。何か複雑な事柄を愚か者に説明するとは、それほど厄介な無理難題はないといえるだけ極めて困難、しかも最もやるかいがない仕事でもあるのだろう。なにしろ果てなく労力を費やしても愚か者は万に一つも理解できないものなのだし、分かった部分もあっという間に忘れてしまい、却って教えてくれた人を逆恨みすらしてくるのが常道的始末なのだから。「愚か者にはどの方面からも近づくな」