なんかこれ違うんじゃないかな、とニジューに感じていたものの正体がわかった。かもしれない。結局これって作り事の作り事、真似のまね、模倣の模倣で、二重模倣だから偽物臭いのだろうと思った。しかしその偽物臭さ、パチモン性が逆にある種の魅力というのか、「もともと日本製品をぱくっていた韓国製品風のままで、主要部品だけ日本製の韓国製品」なる相当の特殊分類に該当するので、流用芸術みたいな趣がないこともなく、それが自分をわりと混乱させるのだろうと思う。
色々副次的要素もある。整形手術前提な外観主義のKPOPが、演出とかも拍手を音声で捏造していたり、ファンダムが無理やり順位操作する文化があったり、パチモン性があるのは当然として、そのJPOPのパチモン感を楽しんでいたのがいわゆるKPOPを日本側で聴いていた人達の感覚であった、はずだった。もしかして、そういう客観鑑賞をしていた人達がいる、って事を、KPOP側、特にパク・ジニョンは無自覚で、今度は素でパチモンを日本人女性を使ってやりだしたのかもしれない。
はじめの領海侵犯はトゥワイスだった。しかしあれはもっと高度な技を使っており、東亜女性を多国籍集団化していた。台湾人、韓国人、日本人が含まれていた。ほかにも自分が観察してたかぎり「宇宙少女」には中国人が含まれており、アイズワンは秋元康AKB系の女衒手法をそのまま日韓混じってやっていた。
大体、アイドル音楽はどれもこれも作り事で、そこでの役者(女優)自身は操り人形状態で、特に自由度が高いわけではないだろう。曲も振りつけも歌詞も演奏・演技する場もすべてプロデューサー側が作ってくるので、当人達はそこで舞うだけという、芸妓か妓生のうち舞妓的なもの。いわゆる本物の舞妓の方が個人的接待空間で踊るんだろうし、まだ自由度が高いかもしれない。J-KPOPアイドルの場合は公然と踊るだけに、そういう私的な揺らぎみたいなのは基本的になく、ライブとかでなんか話すとか別の番組にでて語ることもあるとかでしょう、多分。要はアイドル当人らはアーティストとなのっているが、配役としては応用芸術的な「役者(女優)」に近く、音楽家としては微妙な位置づけである。
音楽ジャンルでこれと最も対極に位置づけられるのがシンガーソングライターとか作曲家、作詞家、オリジナル楽曲の演奏家でしょう。アイドルらは自分では基本的に何も作っていない、独創性の余地があるとすれば決まった踊りとか歌とかの微妙な部分にすぎないし、殆どAIとかの曖昧加減で賄える部分だけに、バーチャルアイドルが出てくる。初音ミク以後のボーカロイドもこのアイドル性を模倣した歌手であり、Vチューバーとかがその芸能性まで含めての存在といえよう。
どっちにしても偽者性、よかれあしかれ非独創性、作り事感が最初から甚だあるのがこのアイドル音楽という分野であったのが、遂に開き直ってきた感があるのがニジューで、デビュー前になぜかモギケンがツイッターで大礼賛しており、なにいってんだこのヒト? と僕も驚愕していた。
もう一度書くが、デビュー前に大礼賛。
意味わかるだろうか。
なにいってんだ? としかいい様がない。まじで。何をしたいのか。だからツイッターやっていたので、当時。返信欄でつっこみまくったが相手は全く無反応でした。まだデビューしてない段階のアイドルグループを大礼賛ってなんなんだろう。辛うじて1個だけMVがチューブにあがってたかもしれないけどさ。この人は芸術とかを評価しているのではないのである、何か別の物を評価している。質感原理主義とかそっちのけで。
辛うじて推測できるのは、KPOP勢のパチモンを日本人使ってやるらしい、という事前評だけを聞いて、ブラックピンクとBTSに次ぐ存在になってほしい~みたいなことをモギケンはいっていた気がするが、これも素で意味不明。そういうことじゃないでしょ。音楽って。人気とりゲームじゃない。音楽の質がいいかどうか、多くの人たちに感動を呼ぶかどうかなんであって順位操作とか含め、一見人気っぽい姿でアメリカを文化侵略すりゃいいってもんじゃないのだ。僕(ら)が感動できない音楽をどこの国のヒットチャートで、例えあいてが軍事または経済覇権国だろうが、どんだけ流してようが自分には「あっそう」と昭和天皇みたいにいうしかなくなる。親が戦争でしにました、あっそう、お勉強なさいね。そんなである。違うけど。これは不適切なたとえであって、正確には「あんたのせいでしょ」なのだが。
問題を整理すると、順位操作系のKPOP音源総攻は常態的に卑怯な手として行われてくるから、その種のパチモン文化部分まで、ニジューはもちこんできている。だってデビュー直後になぜか紅白出演。僕はわりと毎日ユーチューブみてますが(おもに音楽とか教育系チャンネルの聴取で)、確かにニジューの最初の楽曲はなぜか、Jヒット系ランクでの上の方にいたが、曲自体はうーん、って感じであり、同時代的に存在するKPOP勢の中ではちょっと見劣りするんじゃないの、って位の質である。正直。それもあるだろうし、所詮パチモンみたいな感じでKPOP側のランクではあんまり上じゃなかった。大衆歌に質があるの? という話なら、きっとあるし僕はそれを見分けられる人間だ。ポピュラーソングを子供の頃からずーっと聴いてきて。単に長く聴いてたら見分けられるの? いや、僕はJPOPのちょっとした研究者くらいのもので、そこでのありようの変遷みたいなのを知っているので、これはいい曲、これは雑魚みたいな直感が働く方だ――もし謙遜なしにいえれば、ゆるぎなく働く可能性がある程度に、審美眼を鍛えようとしてきている、といわざるをえない。だって自分自身がその辺りに深刻な需要がある音楽ファンだからだ。よくない曲なんて聴きたくない。
殆どの歌手・バンドは雑魚だからその場の流行で消えていくけれども、一部は名曲として度々カバーされるということが起きる。そして手法そのものが次世代に継承され、応用発展していくといった音楽史的な流れも、ちゃんとあるのだ。そこも、当然、音楽史の一部で、大衆音楽界なのである。
ポピュラーソングは音楽界では下の扱いされている。音大で軽音楽は美大で漫画くらいの扱いであろう。ない事はないが主分野とはみなされない。これは色々理由がある。主として調性音楽からの影響が本流としてあり、それをぶち壊した無調音楽があり、やがて電子音楽、そして民俗音楽などをとりこんだりすることもある現代音楽へという楽典の正統的な習得順序がある。そういう流れの上に立ってないと武満徹、上妻宏光、鈴華ゆう子とかが音楽史的に理解できないわけである。
これと同じ意味ではないが、このポップソング業界には別の文脈がある。それが上記した様なアイドル音楽の系列にも当てはまり、広くJPOP、KPOPといっても色々で、アイドル音楽とかちゃらちゃらしやがって、というJROCK勢みたいなのは普通にいる。タモリの音楽番組ミュージックステーションでも同じ日に同じ場に出ておきながらアイドル勢と一定の距離を置いて座り、飽くまで心理的距離だが、自分らはこいつらとは違うみたいな微妙な差がないわけではない。一番顕著だったのがその番組でラルク・アン・シエルがビジュアル系扱いされて切れて帰ったやつである。切れて帰ったのは話題づくりのためにロシアのアイドルデュオ・タトゥーもやっていたが、ラルクのは本気だ。
外部の目にはどんぐりの背比べじゃねーかって話なのかもしれないが、当人達からするとプライドを懸けた真剣勝負をしており、ラルクは自分達がロックバンドだといいたかったらしい。ロックンロールはビジュアル系の見た目派手なのが重要じゃなくて音楽性を評価されているのであって、一緒にされるとは心外ですねという意味で、テストステロン高い系の行動を誇示する形になったのでしょう。昔のロッカーは来日ライブでギターぶっ壊して吼えていたのもいるそうだが、僕はそういうのは嫌いだ。発情発狂してる女勢がいるライブ会場なるものには二度と近づかない。昔ミスチル桜井に発狂した猿から侮辱され心を傷つけられたから二度と行きたくない。それ以来、ミスチルもアイドル稼業の一種だったのか? と冷めてきて派生的にではあるけれども、自分の純粋な音楽趣味と一定以上の距離感を感じ、曲単体の評価とは別にバンドのサル山ハーレムぽいありよう自体はあんまり好きじゃなくなっていった。因みにミスチル桜井氏はそのときライブで赤シャツ(赤いTシャツ)着ていた。
ニジューにもどると、この人たちはパチモンのパチモンであるから、どこにもオリジナル感がない筈が、独特の独自性もあるといった多義的存在で、メンバーが京女と東京女だらけ、そのうえ石川県勢までいるといった風情でどれもこれも文化背景としてプライド高そうだしそれだけに馬合わないことが多そうだろうしそりゃー休業メンバーふえるでしょ、情緒不安定な未成年だし。という、祖国では餅ゴリラ視される人物による日本素人感満載のくみあわせなのも含め、韓国的なパクリ文化の極みみたいなものなわけだ? 誰もこれを指摘していないから僕がやるしかなかった。勿論、日本もパクリで成長してきたのであるし、他国も他国に影響を受け、まねあう、学びあうから発展していくのだし、プラトンの時代からアート模倣説もあるだけに、別にパクリだから悪と言っているのではない。しかしオリジナリティへの疑義とかいう既製品美術や模造、シミュラークルのメタ目線文脈でいってのパクリ、なのではないのだ、これ。JPOPをパクったKPOPをパク・ジニョンがパクったJPOP。そこには中身といえるものがいってよければ特になんにもなく、もともとKPOPには中身がほとんどないですが、それがさらに軽薄化されていると解釈されるしかないくせに、子供が真似易いあたりさわりのないティクトク系振りつけ曲に、メンバーさえなんか微妙な気がする感じだけは秋元康風という。最後のは偶然かもしれないけれども。つまりここでいわんとしているのは、この人達、ソロで売り出せる? ってレベルのヘタウマ感があるメンバーもいるのが確か。そんなもんだが、もともとアイドルなるものって。スマップ中居の歌とか。最初にオーディションで何人選ぶと決めてかかってるアサヤン形式だから、相対評価の結果であって、絶対的才能で個別に選んでるわけではない。
ダンス文化が日本の義務教育に入ってきたのも僕は前からカワイソ、と思っている。日本人って基底が恥の文化、とも『菊と刀』『武士道』などの日本論ではいわれる。そこで踊らされるとか拷問に等しいから。今の子供の過半は拷問に耐えている。僕が子供だった時代の文科省の迷走じゃないから自分個人がそこまで辛い思いをしているわけではないが、子供当人達は相当自殺してるし、政府ぐるみでの強制辱めの結果もあるに違いない。そしてその恥知らずども中心の社会を作っているのがこれまた恥知らずの東京人どもであり、中央文科官僚であり、まさにKPOPモドキ世界観を植えつけているのがパク・ジニョン大権現による、二重パクリ系攻勢、すなわちJPOPパクリ文化逆輸入での日本侵略でもある。このあたり、パク自身がそれじゃダメだ、芸能音楽的にノンポリ(脱韓流、非民族主義)じゃないと音楽プロデュースとして生き残れないと発言していたりするし、同時に、各国では韓国政府による文化征服(いわばクール韓国)の意図通り、芸能母体である韓国そのものに好印象をもつ人々が無意識の洗脳過程によってふえている。かなり繕ったものとはいえ、理想美にかかわる、ほどあれ快適な情報を歌と踊りと演芸へ確実に結びつけてある以上、まるでアイドルみたいな人達が韓国にはあまたいるに違いない! 心身壮健なもしくは幾らか不良じみたセクシー系の美男美女だらけに違いない! なる妄想が韓流ファンには植えつけられるしくみである。そしてそれを利用し、しばしば素の韓国右派の政治性といおうか、地の民族主義を潜ませつつあったのがBTSで、派生的にナチハンターに見つかったからまだいいものの、そうでなかったらネトウヨ悪玉論の文脈でBTS大勝利! で日本でも片付けられ、彼らはなんら危険分子でなく、逆に日本人左派の大分勘違いして解釈した反日帝アイドルの神に成っていた可能性すらある。現実のBTS、特に毎度炎上するリーダーのRMって、韓国側で、最低でも秀吉の侵略、朝鮮併合の失敗以来潜在的にいるだろう、ただの反日分子を超えて、親米親韓、ファッション・ネオナチ肯定の傾向もみられる、恨ごっこっぽい民族主義者に近い政治思想の持ち主なんだろうけど。事実、かれらが日本人左派のアイドルになりつつあったのを僕は同時代的にツイッターでみていた、そして流れを変える必要を感じ、色々な論考によりネット上で批評していたのだった。
『BTSの分析』
『BTS楽曲のレディオヘッド楽曲との比較分析』
『KPOPのサルマネ商品曲で各国音楽チューン盗用侵略面は日本勢がわざわざまねても文化的多様性の本義からも国内市場規模からもなんら意味ない説』
『親韓無政府カルトとしてのBTS軍隊批判』
など。ほかにも色々書いたけど。要は、日本人左派は親米親韓系のグローバル反日分子として利用し易いキャラクターがでてきただけに、これを好機としてかれらをもちあげ、「ほらな、日本はダサい! 韓国の言う通り、欧米は神!」というかなり稚拙な一見文化論ぶった政治文脈を作ろうとしており(なにせ、文化ってのは多元論や相対論にもとづくかぎり飽くまでも上下関係ではないのに)、具体的にいうと又もモギケンがそうだったんだけども、これはさすがに薩長土肥すぎる不公平な文化論の観点だったので、御三家御三卿おわすどころか最後の将軍が輩出崩御された地域の一知性としてまーた脱亜入欧かと暗に反感を感じ、ひとりでぼろくそに叩いてやったのである。
僕は親日反日二元論が政治哲学的にしょぼすぎる観点だと思って余り相手にしてない。三笠宮の言う通りであって、純然たる極左、例えば東アジア反日武装戦線みたいなのってちゃんと明快な観念論者として存在し、そういう一部の例外を除けば、別に日本単位でよしあしとか大概どちらでもなく、そんな白黒はっきりつかないわけである。
偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。
――三笠宮崇仁親王
三笠宮崇仁『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』光文社・カッパブックス、1959年、冒頭頁
親日の意図でやったら結果が反日、反日の意図でやったら結果が親日も常態的に起きているし、大体、全ての人にとって100%白黒どっちでもない行動がこの世の現象の殆どであろうし、それどころか親日・反日を利益に基づいて判断するかぎりどこまでいっても利己主義を免れずわが国が国際社会の天敵とならざるをえない。例えば他国に有害な行いでも自国の国益の為に行うべきだ、と判定され得、帝国主義と変わらない。だから親日反日二元論者は理論的に国際主義以前の自民族中心主義、それも実はただの自己愛に根ざした利己主義を引きずっているという意味では、単に子供じみた正義論の考え方というべきだろう。
ジャンプの少年漫画ならわかる。悪が鬼で鬼をぶちころせばいいのだと。桃太郎みたいにね。アンパーンチとね。けれども、福沢諭吉が『ひびのおしえ』で桃太郎批判を書いてたが、鬼からみれば桃太郎が侵略犯なので偉くもなんともないと。伊藤博文、西郷隆盛、坂本龍馬、どれも彼らの内乱罪・外患誘致罪の被害者側、すなわち一般日本人とか一般韓国人からみたら偉くもなんともない。ただのテロリストである。いまだに明治政府に洗脳されてるやつを除き、歴史学者でかれらを正義の英雄と捉えてるのがいたら笑い者である。いまだ大河ドラマで参照しがちな司馬遼太郎とか、純然たる嘘つき稼業(小説屋)なのでもっぱら信じてはならない。小説ってのはもとが、東洋だとそういう非正統的かつ非科学的な俗話の出自なのである。ノベルの訳語に同じ語が適用されちゃったから混乱を招いているだけだ。
しばしば二元論自体が現実分析にとってはあまりに単純すぎるんだろうし、少なくとも親日反日二元論に関しては、それで第二次大戦で負けたんでしょとしかいえないメタ認知のなさが半端なく、米英級の知能水準でよく生きてられますね、というのが僕の正直な感想でもある。日本軍が神の軍隊だと思い込んで大陸侵略し、罪なき人達たちの百人斬り競争やって死刑になったのもいたのが両薩長軍人なるものの一正体。であれば、そこにあるのはただの野蛮な殺戮、征服欲に基づいた利己性だけだろう。蛮族にとっては親日反日二元論で濡れぎぬ着せまくって暴力振るえば勝ち組だと思い込んで鼻高々なのかもしれないが、それってネット内外の自称右翼中に正真正銘の極悪人も人数不明に潜んでいる事しか示さない。かれらの相当部分は極東軍事裁判で処刑されざるを得なかった。南京事件その他の大量虐殺主導者にして軍部統帥権を持つ有責者の代表格といわざるをえない昭和天皇が生き延びたのが、幾らGHQ間接統治上の便宜だったとはいえ、世界倫理にとって不穏な話だけれども。じゃあ欧米勢のアジア・太平洋侵略の罪は? となると彼らも全く免罪できないが。
もう一度BTSにもどると、モギケンはBTSを音源総攻で神扱いしていたので、既にKPOPなるものの文化に着いてこれていない。別についてくるつもりもないのだろうけど。KPOPでいうチャートってさほど機能してない。あれはファン投票みたいなもんだろう。ファン以外にとっては「で? 誰?」なのをファンダムが無理に引き上げる。JPOPでもその種の腐敗文化しか残らなかった。秋元康とつんく、今は亡きジャニー喜多川という計3人のアイドルプロデューサーが東京メジャー音楽圏をそういう焼け野原にしてしまった。それをそのままなぞっているのがKPOPの現状ということになる。CDうれなくなった途中から、だーれもオリコンとか信用しなくなったろう。ユーチューブの順位操作もそろそろそういう段階に入っている。無論、最低でもブラックピンクとBTS席巻ころから、ビルボードももはや同じ文脈で信用ならない部分が入ってきているだろう。日本勢がその流行の存在すら遅れて知った坂本九『上を向いて歩こう』の頃とは、ヒットチャートの成り立ち方が何もかも違っている。要は、多少あれ偽チャート化。
ニジューの模造品感のなかには、日本女なるものが韓国女的な整形文化の中に巻き込まれていく様な要素がある。KPOPメジャーは悉く外観主義だからである。そしてこれは日本文化の古きよき魂を破壊する。新渡戸稲造が前掲『武士道』で書いたとおり、人の究極の価値は心であり、人の外見についてあれこれ評するのは下品、というのが日本の、少なくとも東国の伝統的な貴族道徳であった。一方、関西圏は昔から微妙に違う。それは京都はじめ古代中国・朝鮮人(弥生人・渡来人)移民地区だったし、そこに中国長安風の条里制、中華思想はじめ中国・朝鮮系の文化をまるごと移植して混和させてきたから、と解釈するのが自然で、そこから遠く離れ、より長い歴史を持つ先住人由来の独自文化圏をつくって維持してきた東日本の、特に江戸期以来の関西人移民地区であるといえるだろう東京・神奈川を除く圏(非東京圏)とは趣きが異なっている。中世京都人の手になる『源氏物語』には、末摘花なるしこめの描写があったり、明らかに外観主義の要素がある。そうであれば、現実に血統(Y染色体ハプログループO1b2系統の弥生系)的にも帰一の関西人一般が、非東京圏の東日本側より、韓国側に一部近い趣味趣向を持つとしても、そういうこともありえるとしかいえないだろう。在日韓国朝鮮人の大部分が、親和性の高い地域なんだろう、京阪神と東京、そして出入り口にあたる山口に集中している傾向なのもこれを裏づけるかもしれない。実際、偶然かもしれないが、トゥワイスの日本人メンバーは3人とも京阪神人だし、ニジューも過半が京都・東京人である。これらの人々が、歌舞プロデュース内での外観主義要素にさほど疑問を持っていないのは確かであろう。しかし見る人がみれば「こういうのはちょっと」ってなる。
実際、僕は日本の精神主義にどっちかといえば親和的な考えを持っていた或るイギリス人が、KPOPを批判して、「貧しい家の子供が悪い大人に踊らされているのか? 気分が悪くなった」と感想を漏らしたのを聴いた。イギリスも確かに、特に中流以上では、日本と似た様な精神構造があって、人を外観で不躾にあれこれ差別するより、紳士らしい振る舞いとか思いやり深いプラトニックな感情の方が重要だ、と貴族精神の名残があるかもしれない。
だとすると、韓国勢が親米化した結果として、ますます既存の外観主義――宗主国への貢物としての韓国女性(コンニョ、공녀、公女・貢女)への外貌選択も、飽くまでも奴隷として決して望ましい形ではないにせよ現実に存在したろうし、実際そこから奇皇后の様な元朝の皇妃にまで出世する者が出現した。また中世身分制のもとで一般韓国女自身にとって当時、先ず唯一の実力主義的(努力によって可能)な出世の糸口でもあったろう妓生文化に遡源をもつだろう傾向――に磨きをかけ、米国で通例の堕落したプラトニズム、肉体主義的美意識(三島由紀夫『若きサムライのために』で指摘されるところの、一種のマッチョイズム)に接近し、これをさらに強調・増長させているのは確かであろう。つまり、外観主義の面で韓国と米国の文化的美意識ははからずも相性がよかった。それをそのまま日本にもちこんできて、なんか違和感あるな、ってのがニジューの存在なのである。幾ら見た目がよくてもそういうことじゃないよね、人って。と直感で感じるわけだが、モギケンとか大体が鈍いし、子供は子供でアホも多いわけだから気づかないのだろう。それで実際に韓流にダメージくらいまくって、僕が「いやいや。外見とかじゃないでしょ。人の人たるよさって」とどれほどつっこもうが、20代前半の或る関西女とかガチで必死になって親の金分捕って整形手術していたし。しかも母親に泣かれて、家を追い出されて、その手切れ金で整形手術。カルチャーショックにもほどがあった、僕にとっては心底物凄い話だ。だって少し考えれば、大切な親から貰った顔を大事にしなきゃ、他の人と違う個性が私だもの、となるはずだ。男だろうが女だろうがだよ。なにゆえ周りに見た目なんぞで羨望されたいのか。どうでもいいではないか。両班家系除くとなのか、広く同族社会らしい韓国側では家名を誇るという武家的な発想がないのではないか。大体が武士に見た目とか別に必要なかった。強ければ、賢ければ、一端事あらば勇気があり、普段からなおのこと主君へ忠義厚く、世間様に義理を欠かさず、家内もしっかり治まっていればわがひたちの国のもののふなるものとは、それでよかったのだ。坂東武士ってそういうもんだ、武家の女性もさ、良妻賢母って気立てじゃん。見た目がーとかそう重要じゃないっしょ。東横おちゃらけ芸能人じゃあるまいし。自称京都の関西だか自称ひがし京都だかでさ、チャラってる公家だかさ、江戸っ子町人風情じゃあるまいしよ。まー僕は公務員家系だけど。血統的には農民と商人がまじって、明治維新で公務員になった人の子孫かもしれないけどさ。風紀の問題だ。
古代奈良人だって飛鳥時代以後に移民してきた朝鮮系でしょ、元々。ナラは朝鮮語で国だし、当時の先進国語をいまでいうカタカナ外来語感覚でとりこんだに違いないのだ。同じ韓流が入ってきてても反応が大分違う文化(茨城側からみたら意味不明なくらいの無批判とりこみ反応)にふれて、奈良って昔も今も韓流移民地区なのかと再確認。かしまみこりーなとか水戸ご当地アイドルとかいた様な気がするけどさ、見た目がーとかじゃないと思うんだ。多分。あんまり興味なかったですけども、もっと奥ゆかしい精神があるんじゃないかな、さすがにこっちは。水戸の梅大使とかもそうだと思うよ。水戸の美意識はさすがに皇族・公卿・将軍・公爵とか貴人が移住してきてるだけに、みやび系じゃないだろうか? 日立さくらメイツとかいうのも、唯の美人コンテストの類ではないのではないか。逆に南関東圏、東京圏のミス何大とかいうしろものって、一部アイドルオーディション級に、下品な場合がある。なんていうのか表面的に整形がーとかの良さじゃないはずだ、茨城の公的判断でいう美って。そこに美があるとしても「奥ゆかしさ」じゃないかな? うーん、女性らしさの一種が内面性として現れている場合のよさを、茨城県だと公に褒める傾向にある様で、それってただの外観主義ではないし。美意識が韓国一般、特にソウル市での大衆商業芸能系のそれと、一定程度ちがうのはおよそ間違いがないと思う。勿論、東京でいう「萌え」でもまるでない。断定してもいいけど、茨城側で萌えってはやらないし。一部の人の中でははやってんのかもしれないけども、親も家族もだれもいってないし、友達らもいってなかった。いきだねえ、とかも基本的に全然いわない。茨城最北部って江戸・東京の影響はさほどなくて、粋文化圏でも萌え文化圏でもないのだろう。
日本だと、特に東京地方や関西地方に中国から摂取した天皇中華思想が現役で残存し、それらの大都市部では出身・居住地差別が激しいので『翔んで埼玉』みたいなろくでもない地域差別漫画が存在する。埼玉って元々東京と同じ武蔵国なのにね。それって京都市『世界文化自由都市宣言』での観念論もだが、東京文化中華思想でもあり、茨城側から見ると悪趣味で酷いなあってのを東京人って褒めてる形跡が大いにある気がする。例えば僕からみたらアニメ『君の名は』って低俗すぎて到底みてられない。はっきりいうと吐き気がする。まぁほかの茨城人はみてられるのかもしれないけど。ほかにも、例えば裸像でもこっちって日本芸術院の重鎮で日展理事級の能島征二さん(都内出身)という人なんでしょうが、なんというのかお堅い戦後彫刻の系譜でしょう。ロダン経由で入ってきた佐藤忠良的なリアリズム文脈といおうか。正直いって彼の作品は、歴史的人物像以外の普段つくってらっしゃる女性像については以下で説明する理由で、僕は、微妙かなと思いますけども、ま、僕がまだ若いだけかもしれませんがね。年下が好むものって一般に、精神的にまだ浅い場合があります。わたしも子供の頃は伝統日本画とか渋みって一体何がいいのか、わかってなかったりしました。それというのもかれの普段の彫刻作品は、飽くまでポップな面白味がない、よかれあしかれ教科書的なものだから。THE普通の彫刻といってもいい。それで教科書に載る偉人をさほど強烈にデフォルメせず表現するなら向いている。まことに正格なので。しかし一般女性作られても、普通の人ですし、って感じである。そこにある種の静謐性を帯びさせようという試みが彼の彫塑なんでしょうが、成功してるね、と思った試しがないのが僕の感想。これは難しいに違いない。だってダビンチによる貴婦人像、いわゆるモナリザとかもそういう試みだろうけどさ、凄くまれなのだ。一般人がなんらかの神聖性を帯びるって。よほど注意深く作られないとただの人じゃん、となってしまう。ただの人を量産するのもなんらかの信仰のあかし、現代美術として面白いかとは別にヒューマニズムの表現ともいえますがね。チャック・クロース的といおうか。尤もしかしながら、東京で現代美術神扱いの村上隆の裸像に比べたらそれはそれはましでしょうね。品位の比較でだけども。もっとはるかに仏像っぽいもん、能島氏のは。みたらわかるけど、端的なエロスとかではない。裸像自体が古代ギリシアのまねごとどうなのっていう論点をここでは無視すると。
で、韓国だったら『外見至上主義』が特有の美意識、文化小中華思想風の図式(スキーマ)にあたり、見た目での差別が甚だしい社会だ、ということを、飽くまで儒学の『孝経』に反するわけだし、向こうなりに戯画化しているわけだろう。韓国社会にそこまで詳しくないだけに完璧にいいあてることはままならないものの、文物から読みとれるかぎりではモッ(멋)という昔からあった貴族的な美意識は廃れて、今は多分目立たないのだろう。代わりに出てきたのが、KPOPと韓流ドラマに代表される、整形前提の強烈な外観主義だったのだろう。多分。
このあたりの事情を無視し、KPOPアイドルのパチモンいいよねとか意味がわからない。モギケンはいつもそうだが、取る観点が軽くて浅すぎる。それって深刻な外観差別に繋がって、内面はどうでもいいという不道徳かつ性的に不埒なだけの東京・京阪神の庶民圏では前からそれなりに普通だった町人社会風のありようでしかないのかもしれないけれども、そこで若い女が次々自殺しまくるのも、まあ、むべなるかなではないだろうか。もし自分が若い女で外観で差別されるのが前提の社会に生まれ育ち、そこで別に見た目がよくなくて整形手術もしたくない、となれば自殺もときに考えるであろうし、幾ら抵抗しようが外見至上主義のアホ過ぎる関西人、ゲスすぎる東京人、軽佻浮薄すぎる韓国人に囲まれ身動きとれず、逃げ出すことすらできないか、その外に別のまともな世界があると想像すらつかずに生きていたとして、そりゃー絶望して死ぬやつもいるだろうなって話。だってしばしば後天的な努力の結果として、精神、心が幾ら清く正しく優しくいい子だろうがそれは完全に無視され、紫式部とかいう三文作家の心無い描写みたいに生まれつき差別される社会って生きてて意味あるの? しかも当時身分制だし、二重に人権侵害で人でなしと思わざるを得ない。ついこないだも、そう(生きてる意味がないと)言ってたうごくちゃんとかいうやつが自殺してたらしいけど。
その人個人が精神的に病んでいる奴だったのも含め、この辺りのコミュニティはもとからやばいのもある。端的にいうとユーチューバー事務所のゲーム実況界とかある種の文化的下流コミュ(どういう意味でかなら受けた教養教育と、自己修養の質が一般的に低い)なんだろうけども、しかも和ゲーマーって通例、外向性が高いリア充の逆系統なわけで(神奈川県立某高校の低偏差値系ティクトカーとかそっち系統も別の意味で、授業学業そっちのけで恥知らずのお馬鹿キャラもいるんだろうけども)、基本、チューバー側っていわゆる陰キャと呼ばれる根暗連中メインだろうし、そこが罷り間違って俗受け大衆市場になってしまっているのでどんどんある種の頭の悪さへ向かっての競争、内輪受けエネルギーで俗受け至上主義による人材淘汰が行われている風に思う。今にして思うとヒカキン・はじめしゃちょーら元祖・和チューバーがその最初期リーダーだったのだろう。
かれらウーム系の追随者にすらなりきれなかった者らのなかではさらに低俗なものが沢山いて、逮捕された某迷惑系チューバー以後でゆとり全開の俗悪系のもまだ色々でてくる可能性が残っているのは予想がつく。誰か自殺した直後に煽り動画で売名系とかもめだつ様になっているが余りグーグル先生から規制されていない。まだ。
どっちにしてもKPOPのパチモンは、その種の下流コミュとほぼ同じ層に訴えてきている、外観主義あおり的なものである。そしてそれがよい影響かといえば、生得的差別だの実現不可能な完璧主義による半永久挫折の不幸感だの、不孝、あるいは心の価値を無視または相対軽視させる不道徳だのをあおるだけに、慈悲ある社会にとってまこと悪い影響に違いないのだが、東京社会そのものが前からそんな自堕落レベルなのでそこでの大衆商業主義に反省もないだろうし、どうしようもなくなっている。近づかない。これが唯一の正解だ。モギケンにこの点、幾ら説教しようが反省などしないだろう。なにが問題かきっと気づけないんだもの。パク・ジニョンに幾ら説教しようが、別に見た目がどうあれはやっていたキロロや、反外観主義の要素を多分に含むノリアキなんざ多分、参考しないだろう。
僕は物の本質を直感でみぬいているのでニジューはどうなんだろうなぁ微妙なんだけど。と大まかに上記の理由で思っている。その文化的影響が日本と世界の将来にとっては、社会風潮の軽薄化という負の要素を多分に孕んでいることは恐らく確かだ。それに気づいている人は潜在的にはいるだろうが、僕みたいに鋭敏な感受性を持つ人の方が先に、不可避にしかと自覚する。それでこういう論考を書かざるを得ないのだが、歌って歌が重要なのであって、見た目とか実際どうでもいい。本質を外した偽装。
応用芸術ですと、1人のBTSアーミーがそういってきた。芸能が重要なので音楽性の本質とかどうでもいいといわれた。発情できて擬似恋愛対象になっていれば夢中で金を貢げるので、それがどんな偶像崇拝でもいいという内容を言っていた。なるほどそれは邪教である。音楽は邪教だろうか。僕は単なる芸術創作とその鑑賞だと思う。だから歌曲にせよ歌舞にせよ器楽曲にせよそれ単体で評価されるべきであり、別にその作者だか演者だか当人へ好意を感じるのがあってもいいが、それと芸術性そのものの評価は切り分ける必要があたりまえにある。純粋芸術の世界はそうなっているのだ。だってテレビ芸能娯楽界みたいなお遊戯発情ごっこの歌舞伎世界じゃないから。基本が。歌舞伎自体は一枚目、二枚目、三枚目の概念があった様におそらくそういう偶像ファンダム社会に近かったろうけども。歌手に発情がー。アイドルと握手権がー。全く意味がわからない。その歌自体がよいのか、その曲自体がよいのか、技術論、演奏論をするのが純粋音楽の話題で、歌舞であれば、その演舞性を芸術論の面で評価あるいは批評すべきなのである。
即ちKPOP勢のファンのうち、上記の一BTSアーミーは純然たる野蛮であって、偶像と芸術をきりわけていない。そしてその野卑な風儀をそのまま日本にもちこんできて、女衒だか男衒みたいなのとつるんで、偉そうに東京で音楽プロデューサーぶってブイブイ言わせているのがいるのが今だけれども、そういう問題じゃないのである。僕は前からいっているではないか? 音楽性は? 歌舞性は? と。そこからみてくだらねーものならどんな外観だろうがその外観がいいだけね、で終わりなのである。後光効果でごまかそうが広末涼子『MajiでKoiする5秒前』とか佐々木希『ジン ジン ジングルベル』が、万古不易、即、至上至美の芸術となるわけではない。大抵の人々にとって、必ずそうなるとはかぎらない。大衆商業音楽じゃんと。芸能事務所の売り出してる、偶像稼業の一種じゃんと。楽曲自体の質を討論してないよね、あんたらと。芸能人に発情してるだけかいと。そういう質のリスナーがよってくるってのは、その時点で終わってんじゃねーですか、ってのが純粋音楽側の見方でもあり、つまりは出自と品位が違うんだけれども、すばらしい作曲家に拍手したいとかいう世界ではない。それって。キャーキャーギャーギャー大騒ぎしてライブ会場で。二度と行かないけど。あんなのまともな人間がいていい場所じゃないのだ。猿の世界。類人猿進化版の中でも下等の部類の世界。近づかなくてもネットのSNSとかでぐちゃぐちゃでてきて騒ぐからうざいだけだが、そんなの追放しろとすら思う。なにが紅白歌合戦だよと。消えろと。ゲス系の東京人は。くっだらねえ東京コロナカルチャーは。もういいよと。それに輪をかけ韓国ソウル系の一部大衆商業音楽も。全部とはいわないけどね、どっちもさ。そういう結論になるでしょ、ここまできたら。
消えればいい連中が威張っている。それで本当にいい音楽家がでてこれなくなっているのだ、きっとそうだろう。
例えば僕は村井秀清はとてもいい音楽家だと心からおもっているけど(例『世界ふれあい街歩き メインテーマ』)、そんなのがまれに水戸のジャズ喫茶だかで演奏会にきたとかで、さほど表に出てこれずに代わりにでてきてんのがラッドウィンプスとかなのである。瑛人とかなのである。ラッドもいいじゃんと、うーん。悪くはない曲ももしかしたらあるかもしれませんが(僕はまだ聴いた事がない)、歌詞がたまにサイコっぽいですよね。言霊を悪用している節がある。瑛人に関してはなんともいえない。モギケンがいい曲じゃんとこれまた褒めていたが、ただただ卑俗な感じがする、僕には。紅白でたらしい『香水』の話だけど。当人が作詞作曲してないらしいそれっぽさの擬態も含め、ああいう南関東ぽさが好きじゃないのだ、都会かぶれ感が。ドルガバの香水がー。そういう娼婦くせえトカイ女とかどうでもいいわ。その層界隈の自堕落さ、虚栄心、裏の汚さを新宿辺で育つ中でほどあれ間近に見てきた者の一員として。よくメンタリスト・ダイゴが港区女子なるものを典型ネタ化してディスってるけど、あれって身近でみてると、ほんと鼻持ちならない奴らだからにすぎないだろう。一度心底腐ったものを現実にみたらまずもって、進んでそれに近づくまい。だからサッチモも微妙だなあと。東京パーティナーイじゃないよ不良どもが。そのなかにあって、村井さんも横浜人なんだろうけど、育ちのいい音楽の田園詩みたいなもんだろうと思う。車運転しながらいつも聴いてきたのであるが。『マージドイメージ』の1と2。
どうでもいい話を書くと僕が車の中でいつも聴く音楽の代表のうち3作品が、この村井秀清の上記2CDアルバムと、小沢健二のCDアルバム『球体の奏でる音楽』である(例:そのうちの1曲になっているタイトル曲『球体の奏でる音楽』)。これらは本当にお勧め。千回以上は聴いているかと思うが、特に飽きないし今も悪いと思わない。
そういう心からいい音楽が表でめだつ社会が、一番いい音楽社会じゃないだろうか? 茨城は是非そういう世界になってほしい。今の知事はPCオタク趣味で、ハイアート方面は微妙に苦手っぽいけどさ。その方がいいわ、民芸不介入で却って。愛知周辺とか、あいちトリエンナーレ2019炎上後の泥仕合で、今やばいですからね。反天表現を公共展示でどうのとかさ、尊王の水戸学派の土壌からみたらさすがに関わらないに越した事はない。ちなみに津田大介さんは恩義のあるお師匠さんを訴えたらしいが。これって本質を外した私的係争になっているといわざるをえない。真の炎上の本体なのは津田氏個人の人格権への侵害勢の方なのではなく(そういう人達も機に乗じて相当まぎれているから、うち大兵が名指しで法廷闘争にひきずりこまれたのだろうが)、彼が愛知県知事・大村秀章氏らとともに芸術監督として企画した展示内容が合憲か? なのである。
逆に僕は佳子内親王殿下の肖像画で、北茨城市の賞貰ったのだった。時期的にあいトリ2019の2年くらい前にだけども。なんで茨城新聞社長が賞くれたかしらんけど、尊王芸術という評価なのかもしれない。茨城は父が尊王志士だった大観含む五浦派以来、その伝統があるといってもあまり間違ってはいない。木村武山『徳川邸行幸』とかね。伝統守れとは言ってないが。
私的になんかいっててもまだいいでしょう、思想と表現の自由権があるだけに。僕とか思想的に旧水戸学をもなるだけ批判しきって大分進んでいるといおうか、純粋国民主権の国づくりとして共和政も構想面で考慮に入れているだけに、しばしば右派の同時代的な停滞性あるいは皇室制度の受領政治的な堕落への牽制として、反天表現も使いどころを正義論で決め打ちして(天皇制や神道信仰の差別性批判や、上級国民の不徳非難・下級国民の弱者擁護の文脈で)使いますし。しかし公共の場で公費で一公人に近い立場で、無制限にそれをやっていいということにはさすがになるまい。なぜなら公の事は、個人的な思想信条と相反する場合があるからである。この辺りの公的倫理性、公徳、公私分別がないから。しまりがないってことだろうけど。今の愛知県庁。それで名古屋市長らとあいトリ2019での「表現の不自由展」大炎上事件から2年後の今も、愛民派vs尊王派でバトルになってしまっている。水戸の大義名分論だと尊王と愛民って矛盾しない、というか相互尊重の徳で両立させなければならないんだけども。象徴天皇制があるうちは、天皇陛下を公人として公共展示で侮辱するとか恐らくだが以ての外じゃないだろうか。法学的に、表現の自由の乱用といえるのではないだろうか。私的な領域なら統制してはならないだろうけど、愛知県の美術展で、各国の国旗損壊罪もどき(飽くまで外国侮辱が目的かは解釈が分かれる事例)も表現の自由です、象徴へのそれなりの皮肉による一見侮辱っぽい不条理な制度批判の表現(天皇コラージュ作品焼却事件への踏み絵でのあてつけ等)もありです、ってなるんだろうか。判例出してくれないとこの辺の法的見解が曖昧すぎ、さっぱり分からない。実際この案件、法学者の間でも意見がそれなりに分かれると思う。現行憲法下で反天・反各国家らしい表現が、政府自治体にとってどこまで可能かって。
(これらについて分析した小論『絵画の品位』)
音楽にもどると、どっちにしても人類は全部が全部、外観主義の踊り子雑魚みたいな俗受け音楽しか書けないんだろうか。いや、僕はアイドル音楽すべてがダメといっているのではない。たとえば少女時代テヨンのソロ楽曲『HORIZON』『UR』とか名曲だろうし歌もとてもうまいと思っている。前から書いてるがトキオの『アンビシャスジャパン』も単純でいい曲なんじゃないか。トキオのはCDすら持っている。が、全てアイドル支配なら全然、佐村河内守プロデュースの『ヒロシマ』のがいいと思う。冗談ぬきで。盲目の作曲家っぽくしてた演出含めてね。似た様なもんじゃん。作り事のアイドル稼業なんだから。或る意味で、そういうポストモダンちっくな、ソーカル事件の偽論文じみたものを音楽界の内情暴露として晒しただけのキャラでしょ、佐村さんって。面白い! といっていいのでは。それを素でやってるか、隠してやってるかの違いでしょうに。素でやってるのがパク・ジニョンとかイ・スマンとかのやからであろうに? 佐村河内より悪じゃないのか、本気で作り事をつくるがわは。この辺、プラトンが批判してたからな、古代ギリシアで。お前ら作り事だからいらねーんだよ、消えろとプラトンは本気で言っていたのだ。『国家』で。詩人追放論で。
或る意味プラトン批評なのがノリアキなのだろう。彼はリアルを表現している。それは模倣だらけ、偽物だらけの音楽業界への強烈なディスであり、ビーフであり、挑戦状である。 なにがリアルか、なにがリアルじゃないか。決めてやる、ここで勝負を決めてやる。