2021年1月21日

カタカナ外来語への脱戦後対策

日本語の間で英語その他の外来語を頻用している人は、それと同等の日本語を知らないか、外国出羽守俗物主義で馬乗りしようとしていることが多い。
 しかし、嘗てこの方法で日本語は外来語ととりこんできたのも確かで、今では(方言とされる体系を含む)日本語の一部と思われている漢語も、和製の物を除けばそうだった。
 外来語頻用狂は多言語意識高い系といえるが、彼らのその種の言葉遣いの大部分は単に母語圏へ伝達効率が悪化するだけで、特に外国劣等感を持つ人々以外を程あれうんざりさせるだろう。

 通常、心理的に人は理解できた未知の情報量が多い(自分にとって希少性を伴った重要情報を十分消化できる形で一定時間に予想より沢山与えられた)程、その相手の言質を利口だとみなし易い。よって外来語頻用厨の利点があるとしても、その語彙でしか示しえない概念な場合または、言い換えの簡素さその他でより利便性が高い場合を除けば、まやかしによる衒学ぶりだけである。実際、我々にとって古文の範囲でも、当時の知識人らがその種の難読漢語を使った言い方をした晦渋な文については、今でも意味が取りづらいだけに、理解者に読解の手間をかけた上で擬似的達成感によって、或る種の無意味な選良意識を与えているのみなのだから。

 今の国際覇権言語のうち、中国語の方は漢訳(中文化)で一貫性があるのでこの問題が殆ど生じない。未知の外来漢訳語も、さもはじめから母語の一部だったかの様に扱えるからだ。
 一方、英語は古代ギリシア語からの翻訳語を含むラテン語彙が豊富にある為、殆どの事を自前で補えている。
 日常言語の一定の部分に、外来語が溢れているという特殊な事情は、一部の国々にしかないのだろう。そしてそのなかでも特に日本の事例が特殊なのは、明治以後に外来語を訳した和製漢語と、主に戦後、おそらく敗戦劣等感で流通する様になったカタカナ外来語の両者が混雑している上で、発音や語彙の変容を除けば殆ど外来語が和訳されなくなった事である。その種の怠惰は、戦後文化人のうち、特に言語使用を専業にしている語学者や、翻訳文芸を紡ぐ側が作り出している自業自得でもあり、一部の物理系の科学者などは今日の自然科学系論文が一般にそうであるよう英語で話すのを上等視して、ルー語(テレビ・タレントのルー大柴がふざけて使うえせ英語混じり話法)とあまり変わらない言葉遣いになっていたりする。これらは劣化した日本語流暢性を象徴しているというべきである。

 母語話者にわかり易い言葉遣いは、基本として母語に既にある語彙に求めるべきだし、本来の発音とずれているばかりか別の表音語彙化して余計意味がとりづらいカタカナ外来語を淘汰するには、一般的慣行として戦後怠惰世代の悪習を絶つしかないだろう。
 あるべきなのは新たな語彙にあたる外来語の和訳を、これまでどおり漢語か和語の語彙に象って流通させるか、これが特別な事情でできない時にかぎってカタカナ外来語を使い、その日本語での言い換えもなるだけ付記することだろう。

 例えば東京都知事・小池百合子が会見などで使ったアウフヘーベンは、ドイツ語では「拾い上げる」の一般語彙とされるのだろうが(ūf→auf「上へ」と、heben「上げる」から、「拾い上げる・持ち上げる」)、ヘーゲル思想のなかでは対話術(弁証法)での止揚、揚棄という特定の意味を持たされている。日常語として「拾い上げる」を使ったところで、それが弁証法上の哲学的意味づけをされていると気づく人は、専門家以外にとっては逆に少ないかもしれない。小池氏の言説は会見で当人がいうに、その意味の文脈(正反合の各命題)と厳密には同じではないが、少なくとも「止揚」という訳語の文字面の意味で使われていた。
 ここにあるのは和訳の文字面が本来の意味からずれて使われている、外来語馬乗りの一種だとの解釈が東京マスコミ界隈ではなされたが、なぜこの種の混乱が起きるかといえば、外来語劣等感への馬乗りが、奈良時代の遣隋使以来、あるいは明治時代の薩長藩閥以来、日本の関西から東京圏では常態的だからである。
 もしこの場合、適切な言葉遣いをしようとすれば、素直に止揚または揚棄というか、もし矛盾する2命題(ここでは築地移転反対派と賛成派の対立する両論)の止揚を意味させたいなら、「賛否両論の矛盾を持ち上げる」とドイツと類似の語感を使った方が、ドイツ語を知らない一般都民へ伝わり易かった事になるのだろう。もしそれが特に哲学用語アウフヘーベンと同じ意味で使われていると示したければ、止揚・揚棄の語彙を併記すれば(止揚は使用と音が重なるので、「賛否両論の矛盾を持ち上げる、揚棄する」など)、より日本語彙の内部で高度に専門的な意味の伝達効率が上がったのだろう。仮に止揚・揚棄の和製漢訳語が使われなければ、アウフヘーベン(アウヒーブン)をカタカナ外来語のまま使わねばならなかったが、auf+hebenの合成語であるという文字面の表意性も、元来の語彙の正確な表音性もカタカナでは失われているので、ドイツ語彙に詳しくなければ、未知の語彙の段階で意味を受け取るのは至難だろう。