性格の悪い奴はなんでも性格の悪さを選択して普段からみてるんだな、というのが、某ドイツ系・某京都系東京人ツイッタラーら観察の結果。
リツイートする内容すら、どれもこれも大概が差別的言動とかでひどい。
この意味でポップに解釈すると、釈迦のいった
愚か者を見るな。その言葉を聞くな。またかれと共に住むな。愚人らと共に住むのは全くつらいことである。(以下略)は、愚かな人達の一種として悪人卑人を想定すると、彼彼女らの普段の興味の対象は、彼彼女らの日常みている主観的世界の枠内にあるのだから、といえる。
――ガウタマ・シッダールタ
『ウダーナヴァルガ』25章24
例えばワシにとってウサギは獲物にみえるだろうが、現代人が森で見かけたらあらー野うさぎちゃんだぁ可愛いね、と思うに違いない。
まったくおなじことが人類の間にもあてはまり、一般の東京人オタクとか穢れた目で物を見ているから、同人誌系の漫画みたいな彼らの下卑きったソドミーな性的興味がなにごとにつけ優先するのである。
あるいは僕がネット経由で一時期やりとりしていた或る奈良女とか、最終的にセクハラ冤罪してきたんだが、普段からイケメンがどうとか品性下劣な言い方で反出生主義ぶったメンヘラ自殺ネタ、学歴差別ネタ、反日親欧ネタ(但し現実と大分異なる、少女マンガ的な脳内妄想でのよくある西洋主義崇拝)をのぞけばその種の言説ばっかりしていた様な気がするし、もとから下品な人間が下品な物事に詳しく脳内がその種の妄執に支配されているというのは確かだと思われる。僕はその奈良女以外からそれら関西異世界の日常のありかたはきいたことがないのであった。驚くべきことに、毎日大阪の電車で痴漢にあっているといっていた。そんな異様な野蛮界が存在するとは?
彼女は奈良人の或るキリスト教系っぽい私大生だったのだが、大阪・神戸・京都人あるいは山口人・岡山人らと日常的につきあっており、又聞きではあるが、周辺人物も一様に下品なのだった。
関西弁って、当人達は渡来してきてからずっと傲慢で上位者面なんだが、はっきりいって下品な内容ばかり語ってるせいで下品な言葉になっているといわざるをえない部分があるし、東日本側だと特にダウンタウンの侵入後そういう印象を持つしかなくなってしまった。そしてそれは嘘なのではなくて、下品なことを言ってくる人達って普段から下品なだけなのである。だったらそんなのとつるんでいたからあなたも被害にあったんですね、としかいえないんだけど、僕からしたら救済的な文脈(愛の元では性は必ずしも否定されるべきものではないよ、との意味)で言った言葉にやたらめったら下賎きわまる口ぶりで濡れぎぬ着せまくってきて、明白に嫌がらせではない、自分側の真意は「性愛って絶対的否定に値する概念ではない。なぜなら有性生物はそれが自然の一部なのだから」にすぎない、と具体的説明で誤解を解いたにもかかわらず、その女は「そんなことどうでもええわ、うちらは冤罪なんてやり放題なんや」とか「不快ならなんでもセクハラ」うんぬんと、最近フェミニストがよくとる悪意しかない片寄りまくった絶対恣意的な論点を公然といってきて、僕側の善意や厚意や誠実加減に対し、はっきりと公言された悪意と人権乱用の陰謀で開き直られたので余計傷ついた。
しかしこれも、根の下品な人間、性悪ってのが表面上いかに繕っていようが、その本性を見抜く必要があることを教えているだけだろう。その奈良女は実際に当人がいっていたけどなんでもかんでもってレベルに繕っていた。僕に対して最初さも教育がある人間だといった風貌をしていただけでなく、現実でも周りの人達を騙して本性だしてないといって、その本性の側が色々と破綻気味でやばい。しかも学歴差別発言など連発し、実態的にはそれも一種独特の奈良教育ママ風な俗物主義まじりの小市民根性を仕込まれてきたとわかってからも、長々と相談・忠告その他で精神的な世話させられ、最終的に、後ろ足で砂かけられた形になったので、やっぱり性根の悪さとかって。どう転んでも根の方はかわらないのではないかと感じた。
現代の価値観だと生まれは無視される傾向にある。現実は遺伝的要素も大きくあると思う。Gentlemanって字義どおり、元来、うまれのよい男って意味である。ダーウィンの親戚フランシス・ゴルトンが優生学の創始者なのは決して偶然ではない。それを完全に政治化したヒトラーの方が極悪人あつかいになったのに比べ、ゴルトンの方は通常素通りされてるが、それというのも、紳士階級なるものが遺伝的選良の意図をも孕む制度だからだ。貴族制度自体にその趣があるわけで、そして全否定もしきれないところに、今の教育者たちが見逃している部分がある。
日本では華族令が消えてから、教育差別、いわゆる学歴に基づいて東大卒とかをエリートとかいってるが、全くの間違いである。後天的に学習で追いつける範囲なんてなんのことはなく、それをもたらした環境の差、あるいは努力差にすぎない。あたりまえといえばあたりまえだが、生物個体間の本性の違いはこれを遥かに超えた幅がある。しかも一般知能指数すら約半分は遺伝している、と書いてある行動遺伝学者の本もある(Robert Plomin. 1990 "Nature and nurture: An intro-duction to human behavioral genetics." PacificGrove, CA: Brooks/Cole-、ロバート・プロミン、安藤寿康・大木秀一 (訳) 1994『遺伝と環境 人間行動遺伝学入門』培風館)。
とかく僕は彼女のほかにも色々な人達とかかわった際、自分は広く交際する方ではないのでもし親しくなった場合はまぁできる限り深くかかわることになってきたのだが、この奈良女の残していったあらゆる諸現象は、ある種かけがえがなく特殊で、自分の中に幾つも反省点をみいださせた。それも大体は反面教師といおうか、こうなってはいけないんだな、というもので、端的にいうと一体どういう人が身売りとか下流的な行動してるのかの前座バージョンみたいなのを、間接的なやりとりとしてだが現場目撃させられたのである。
その人はいきなりパパ活とかいうのをやりだした。僕は当然止めたのだが、なんか発狂した様な言動で東京人の友達がやってるから悔しいのでわたしもやらねばならないみたいなアホでしかないことをいい、彼女は少なくともその前座までやっていた。僕が何度いおうがやめようとしない。彼女は経験して失敗しないと学べない。だからって日々のとんでもない行動を放置してたら逆恨みしてくるわ、いろんな意味でメンヘラ性を相手はもっていたのだが、自分があまりにいい人なのでそれを含めて、同情の様な物を感じてしまっていた。Pity is akin to love、と美禰子がいった。当時の自分の心情ってのは、同時期に自分の親しくつきあっていた人ら(約2名)に色々全て語っていたので分かっている人がいるに違いないのがまだ救いだ。
要は自分はこの奈良女に徹底的に振り回され精神的に消耗していた。自分は思いやり度がマックスなのかは知らんが、少女マンガに出てくるある種の典型的な男性キャラの性格みたいなもんで、女より女らしいほど優しい性格をしている。しかもプラトニックな傾向で、最近の漫画ではそうじゃないのかもしれないけど、女に全然交尾的に言い寄ろうとしない。だからといってオスじゃないわけでもないので女友達と一種差があるみたいな距離感ではありつつ、共感性が尋常じゃなく高いのですぐ同情してしまうし、というか絶えず深い思いやりの元にしか行動しないし、友情のある男性へもだけども、相手の為に自己犠牲もわりと平気で頻繁にやる。なので色々悲劇的な目にあう。
この場合もまさにそれで、自分は段々とこの奈良女に、まぁある種の愛情に似た物、だからといってただの恋というのには質が違うんじゃないか的なのを本格的に感じだし、一定距離を保ってはいたが、なんとかすくってあげないといけないんじゃないかな、いづれ自殺するとかいってるけど、と思い込んでいた。その最終局面(なのだろう、多分)で、セクハラ冤罪である。僕がわは
「君は性嫌悪障害といっていたがそれが表面的には、君は整形手術とかをやってから、昔同級生男子にブスといわれた劣等感とかを一見克服した様になって直ったのかもしれない、しかし自分はある種の残念さもある、なぜなら自分はあなたにこれまでの凄まじい家出相談などなど、留学相談などなど、宿題手伝わされたなどなどのなかで決して性的な官能性だけを目的にしたものではないらしい慈愛に近い感情を持たざるを得なくなっているからだ」
という文面を言っていた。
それが突如セクハラ冤罪である。冤罪の時点で傷つくが、中身がセクハラとかいう僕が到底やりそうにもない事柄だけに余計、徹底的かつ抜本的に傷ついた。なんでかってその奈良女の周りには、そういうことをしそうな人間があまたいるんだろうが、だからこそ僕もその一員だとみなされ、そういう不躾きわまる言動を平気で相手は謎の上から目線でしてきたのだろうが、自分は確かに見た目こそ男なのかもしれんが、心のあり方からいったらいつもいってるけど、おそらく理想的な女らしい女の方にまだずっと近い。心のありようから言ったら『ドラえもん』の静香ちゃんとかにそれなりに似ているというか。似た様な感じだが、変なエリート主義をのぞけば、出来杉君の方かもしれんが。読んだことないけどベルサイユの薔薇とかにでてくるんじゃないだろうか。あれか、ブラックジャックみたいな感じである。是非とも見逃せない(見逃せば人でなしになる)正義に関すること以外なら、勝ち負けがとか基本無視して相手を思いやってしか言動しない人物で、女子供へは当然だが、人一般が不快だと思うことを自分から決してやらない。無論、どの年齢の男に対してもやらない。これは僕とこれまで全人生でかかわってきた全ての人にとって共通して証言しうる部分であろう。
だって自分は誰にも敵意というものを持っていない、所謂性善的人間なのである。
自分が全人生でその種の敵意と考えうる行動をとった(ゲーム的なものとか、単なる法律論・正議論など義務的なのを除いて)、そしてそれに後悔し即座に方針転換し、以後二度とやっていないのは、若狭君という小学校の同級生に教唆され、則次君という同級生への或るイジメ的な事、というかこどもじみた嫌がらせのいたづら――1度だけだけれども給食の味噌汁に消しゴムのカスを入れるというもの――になかば加わわされた経験である。
あれは若狭君と同じクラスだった小3だったかと思う、多分。まぁ僕は共謀というよりは比較的中立的な感じで単に止めなかっただけだったと思うが、それも広義で共謀の一種なのかもしれんし、それでも則次君当人に事がばれ自分も共犯みたく則次君にいわれたので、なるほどこうなるのか、というかこれはよくないことなのだろう、すまない事なのであろうと感じ、以後、若狭君のグループからの陰謀に対しても、それなりの距離感を持って対処する様になったと思う。――この若狭君という人が当時からして色々なイジメを主導しており、小学生って善悪とかよくわかっておらず自分は彼と割と親しい方にいたし、小学校中学年の頃とかほぼ一緒に遊んでいた様なものだけれども、今から考えると彼がクラスの隠れ不良集団の核心みたいなものであった。一方、自分はクラスで成績が一番いいだけに自動で学級委員長に先生から指名されるとかがデフォで誰も弾劾してこないみたいな、いつもニコニコしていて可愛げがあるんだろうし、特に女性の先生とか子ども好き系の男性の先生とかから好かれていた様に思うし、問題行動が基本的にまるでない立場であったため、あの場でたった1度だけだけれども自分に期待されているはず役割から公然と逸脱したと考えられるわけであり、則次君に謝罪もしていないだけに、今でも心残りなのである。そしてこれゆえ一定の内的距離があるので、つまり全面同調しているわけではない自分も若狭グループ(クラスで自分を含む、おそらく当時、小学校中学年期の精華少年団主要勢力の遊びの中心でもあった)から、1度無視という被害を受け、それは1日で終わったが、このときだったと思うがまじでお風呂で泣いて自殺を考えた。あれは小学5年だったはずだから、高学年まで同じクラスで一緒に遊んでいたことになるけれども。自分は実際のところ超繊細人間なので、尋常でなく傷つき易い。ちょっとしたことで酷く傷つく。なので一度うけた心の傷は一生忘れないし心的衝撃も普通の人の何千倍もくるらしい。自分は自分しか体験してないから、他の人たちがずけずけ生きてるのを気づいたのはかなりあとの方だが。精確に言うと今から数年前にHSPについて調べてて気づいた。いまだにその自分以外の他人の鈍感さがまるで信じられないでいるし。ま、多分自分は感覚性のギフテッドかなんかなんだろうけどそのとき小学生時の記憶も、アンネフランクの日記超えるレベルに一般人類にとってはまこと意外なほど感覚として克明に残っており、体験自体を詳述できるといっていいであろう。
自分はこの則次君の件があって以来、いまからすると学級委員長的な判断力でといってもいいが、スポーツ万能まではいかないにせよ相対学力面で最も高い側の、いわばクラス全体の統率に権限もってる人間がイジメに加わってはいけないものである、と、当時言葉は知らないにしても業の認識という形で薄々と認識し、まじの話、大体これ以後に意図的に誰かを悪意で虐めるとかしたこと一度もない様に思う。思い返してもそうだと思う。
厳密にいうとこれ以後も、若狭一味の戯れの中で、野中君にその種のものにみえなくもないおふざけをしていた気もするが、僕はむしろ若狭君より野中君と親しかったので殆ど毎日くらい野中んちにチャリで坂のぼって遊びにいっていたのだから、所謂イジメの類ではなかったといえなくもない、というか決していえないであろう。小学校の男子とかは、体の発達が早く力の強い側が、それが遅れてるかもとからひ弱な遺伝で力の弱い側とプロレス的な遊びをする場合、弱い側がやられる形になる。そこに僕も入ってたわけていたと思うが、野中君は攻撃力が弱いため防戦一方で若狭君らから攻撃を受けまくる様な場合があったのは確かである。そしてそれもたまに余りに力差があって第三者がみたら一方的な虐待風になっていたのかもしれんが(うおおお、みたいな感じで防戦一方にぼこられるみたいな)、当時、『ドラゴンボール』がはやっていたので戦闘時、負ければ容赦なくボコボコにされるのが当たり前みたいな感じも暗にあり、完璧なイジメだとはいえないだろう。多分、嫌がらせですらないだろうし。今のいじめ概念の一般水準からみるとグレーっぽい場面もあった気がするが、ガチの戦闘でもないし、虎の子とかががやっているプロレス的な格闘技ごっこみたいな感じであるといえるかもしれない。
若狭一味はこれ以外でも今から考えるといじめでしかない行動は確かにしていた。だから彼とその共謀者に関しては決して免罪できないであろう。僕は主体的に共犯していたわけではないにしても、しばしばその種の行動を目撃することがあったし、力差というか背の高さの差がある以上、容易に退治もできないし、そもそも端から一緒に遊んでいる主要なご近所友達グループなので退治するとかですらなかった。この意味では『ドラえもん』みたいなわかり易いいじめ社会の構図では全然ない。若干、不良っぽいやつがそのなかに混じっていて、いたづらと見分けがつかない位の悪事といえるだろうことを大人の目に見えない部分でやっており、全体の流れでそれはおふざけとして行われているので周りとしても止めるとかいう話ではない、って感じ。そこまで極端にエスカレートしなかったからそのまま流れて今に至るが。どのギャングエイジの少年グループでも、大体似た様な面はあるのかもしれない。
ま、いづれにしても僕はこの則次・野中関連で、若狭一味へご近所の同級生友達グループとして不可避にまきこまれていたのを除けば今まで一度たりとも誰かに嫌がらせをしたためしがない。そんなものがこの世に存在するという想像すらしたことがない。僕が被害を受ける事はたまにあったが、やる側が土台バカなのもそうだが、そんな時間と費用と精神的配分と人生とを無駄にしている悪人なんぞに自分が列する可能性はひとかけらもない。だって自分は最初の則次君の件で、既に心理的に暗に反省し、その逆に自分を置いて、いわゆる卵と壁のたとえでいう卵側にしか立ってないのである。野中君に対しても当時は間違いなく僕が一番一緒になって遊んでいた側で、小学校中~高学年時の最たる友達が自分だったといってもいいだろうし。ほぼ毎日、野中くんちまでいって弟とも遊んでいたのである。総じて格闘技プロレスの状況上で、さけようもない場合(小学生っぽい格闘物語的な文脈で野中君に攻撃を加える必要があるみたいな場合)にしか、それも比較的中立でしか若狭君側に立っていなかった様に思うし。
そういうわけでこの奈良女の件は、まじで、自分の全人生にとって大変な衝撃であり、まさか自分がセクハラ冤罪の被害にあうとか思ってもいなかっただけに、なにいってんだこのヒト? と、奈良人全数に偏見を持つまでは行かないが関西圏ってやっぱ自分の属する文化と、一から十まで違う部分が大きいんじゃなかろうか? と異質さを再確認せざるをえなかった。明白にこっちの意図を説明しているのに相手の性悪さみたいなのを前提にしてくるとか信じ難い話で、昔見た神戸の議員が涙で謝罪してた場面でも、彼の誠意を関西人達は自分がみてたかぎりひとりの例外なくあたりまえみたいに全否定しており、嘘泣き扱いしていた。関西圏って性格悪いやつらばかりなんだと驚いたものだ。
だからそこで慶喜公が天皇へ進んで禅譲した場面でも、関西人一般特有の性悪ハートだと、何か陰謀に見えたに違いないのである。けど茨城側、特に旧常陸国にあたる側とかってまったくこれとちがって根底が性善説。ひととして善良さを前提にするのが普通の社会といわざるをえない優等生的な風土、義公の時点であたりまえみたいに兄の子へ禅譲している。代々尊王の水戸家の将軍が、大政奉還、無血開城。別に水戸学をはぐくんだ茨城側からみたら何の不思議もない話なのに、根っこの部分で180度、文明社会の向きが違うんだから、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通など西軍側の陰謀と性悪の無政府国家転覆系恐怖主義者を勝手に英雄化している連中にして、天皇傀儡化の権化であるところの関西地方とか薩長土肥勢とどこまでも馬が合うはずもない。わざわざ悪い方と馬を合わせるべきでも当然一切ないが。
自分が旅行した範囲だと奈良ってよい意味で悠久の田舎で、ほかの京阪圏みたいに魂がけがれてないんじゃないかと思っていたんだ。それがおもいっきり実例で裏切られた。話をきけばきくほど関西だった。日常が。ものすっげえ下品なことばっかりしていた。内部が腐っているのは間違いない。関西弁って「アホ!」とか連発してるけどあれって嘘ではない。日常が愚かだからああいう言葉が日常表現として使われているのである。関西人達って、一般的に普段からひどく愚かしい言動をよくいって、それをあとづけで冗談めかす為にアホ! っていう。けどこれって実は関西人が冗談好きだからではなかった。リアルに生活を逐一みてみるとよくわかる。単純にバカなのである。特に、思いやりが全然ないに等しい、こっちから比べるとだけど。
一番驚いたのがしりあいが自傷したって報告したら、東日本ではまずありえないことだとおもうけど、その奈良女がサイコなのを顧慮しても爆笑されて、心底びっくりした。そこまで冷酷無慈悲な人間なんてまじで、そいつ以外だったら合計2名、ある自称鎌倉女(ピグ史でいう「天使」)と、ある兵庫系東京人(同史でいう「とつげき東北」)しかみたことがなかった。
関東圏の北部、東北圏の南部とかの基本水準を、遥かに下回る思いやり度しかない社会みたいなのである、関西圏、少なくとも大阪南部から奈良北部って。まーこれも、所詮サンプル数1でしょといわれるだけの話かもしれんけども、僕はほかにも色々、それに類した情報をもっているだけに、看過できない次元に、でも現実はこうなんだよなあと感じる。関西地方の人達って一般化すると、例えば東北圏一般に比べはるかに性悪なのである。日本史でもそれはえみしあつかいで先住日本人を彼ら関西への渡来人らが差別しながらいじめまくってきたので示されているが、イケズ、意地悪。イジリ、虐め。これって京都と大阪の独特の文化だけど、要は性悪さの現れ方が京阪風のものになっているだけ。相手を思いやらない文化があたりまえだから西洋人とかには親しみ易いだろう。西洋人一般も、基本的に個人主義でずけずけと生きているので、相手をそこまで深々と思いやったりしない。しかしこれの逆類型が東北勢だと思う。新渡戸稲造『武士道』とか、ある佐賀出身の弁護士が死ぬほど批判的に否定してたのだが、そりゃーそうだろうな『葉隠』の佐賀だもんと思う。先住日本人の系統のうち、縄文系の文化は、一般的に物凄く思いやりを前提にしている。だから数十万年も殺人すらなく、平和だったのだ。ただ飽くまで相対的にだけども(仙台みたいに都市化したのは例外としても、絶対的思いやりなんて神のもので、この世の人たるものに期待できるわけではないという意味で)。それでも十分なほどそうである。もっというと、比較的、性善的前提に立っているのである。だから相手の為にこうしてくれるだろう、この人は、という太宰治『走れメロス』的常識による見通しが立て易い。相手ならきっとこうしてくれるよね、という。僕はこの友情というのか互恵性みたいなのが当たり前の風土で生きてきたのだ。うそ抜きで。
そしてそれは東京圏とか関西圏にはまったくないしろものであった。異文化。
特に関西圏ってまるでその逆であった。ちなみに東京圏も、関西圏に近くて首都圏北部(北関東圏)とはさすがに一部似た関東の地味というか、坂東武士道的なものが0ではないが(しばしばみられる「潔く謝ればゆるす」みたいなのとか)、特に江戸時代以後なんだろうけど凄く大坂(坂は当時の書き方)化、明治以後はエセ京都化されてしまっているのは確かだ。最低でも、日本の本来の姿といえる、東北圏(但し第二東京みたいな要素が0ではない仙台のぞく)とはまるで違う文化であった。
その奈良女は、関西圏の文化に骨の髄まで染まっており、思いやりとか当たり前みたく0に近かった。なんでもかんでも利己。僕はこんな人間生きてんのか? とうまれてはじめてみた生物に一々カルチャーショックであった。だから興味深いから結構深入りして情報収集にあたったんだけども。
僕はこれで聖者であって、危うきに近づかない。それでも敢えて、ネット上で言葉・データのやりとりするだけにかぎって彼女から聴く話に約1年ちょっとくらいだろうけど耳を傾けまくったかというと、未知の関西圏の興味深い内情を色々聴けたからだ。異世界の内情である。
それはそれは凄かった。ここで書き尽くす事もできないが、無論、客観的に事実と考えられる部分だけでも想像を超えた展開ばかりであった。しかも、総じて醜悪で酷い方にだけども。
飽くまでその女から見た主観を排除してでも、科学的事実と考えれるだろう要素だけでも、である。
関西人一般ってプライドばっかり高いって意味では、東京人一般とそこもそっくりである。だから根が一緒なんだろうなと思う。大阪商人の派生が江戸っ子だ。
文化自体が東京と似ている。だって遺伝的には都区部の人らとか、基本、大阪人移民ですからね。というか双子みたいなもんだろう。両津勘吉が漫画の中で大阪人とライバル争いしてたが。
だが決定的な違いも幾つもあって、そのうち決定打といえそうな部分を色々と自分は又聞きしたのであった。
ピガー(ピグやってた人)、ツイッタラーを通じて色々学べたことのなかでも、最も下らない成果が、僕のある種の関西通情報になるのだろうが、飽くまで比較文化論として、関西地方ってのは日本のなかでも最も特殊な世界だといっていいだろう。そしてその独特さは、外人の目にはTHE日本とみえてるだろうが実際決してそうではない。あれは渡来系の古代朝鮮人たちがつくってきた別の植民地文化である。そしてその偽文化が背乗りし、日本面する様になったのが飛鳥時代から鎌倉時代の覇権陥落を挟んでの室町時代まで、割と短い期間だったのだ。長さからいっても最低数万年以上ある縄文時代が日本史のメインなんだし。
この日本史学上のコペルニクス的転回(関西ってやっぱ古代中国系弥生人・古代朝鮮系渡来人らの定着してきた移民地区じゃん)をあいてが図らずも、新皇と最後の将軍の事例に続きまたも関西っぽくくだらねー性悪的な冤罪でもたらしてきやがったともいえるから、その奈良女が、わが国の国学に間接的に果たした役割も大だったといえようが、僕としては彼女には、もっとましな形で貢献してほしかった。無理なんだろうけど。
僕は異性愛者で独身であるが、全女性に万一、自由恋愛の文脈でなにかしたとしても性的喜ばせしかしない。だって「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」「己のされたいように相手にせよ」という孔子とイエスの文言を守っているからだ。