2021年1月22日

絶対的利他性にあたる宗教感覚の一起源論

神経症傾向が高く、精神的に不安定な人とつきあう者は、生涯、心休まる暇がないだろう。
 その種の人を日本のネット俗語では「メンヘラ」(2chメンタルヘルス板の人、2ch mental health-er メンタルヘルサー → メンヘラ)と呼んでいるが、高頻度に自殺・自傷して周囲の人々に望むと望まざるとにかかわらず迷惑をかけているのも確かにこの類の人に多いらしく、普段から異様な自虐行動をして世話人の心身・物質面に負担をかけている傾向にもある。

 メンヘラを軽度のものを含むなんらかの精神病者とすると、これらの人々は嘗て、宗教その他の利他主義者の集団に属する事で世話人をあてがわれ、部分的に救済されていたのかもしれない。宗教の力が弱まっている現時点では、精神病者の相当部分に総じて身の置き場がなく、精神科や心療内科での治療と見守りを兼ね、辛うじて国が障害者年金を与えている状態である。
 精神病者を救う事は、医学的・精神分析学的な知識と実践経験のない一般人には現実のところ困難な場合があり、仮に試みたとしても、精神病でないといえる発達状態の人々は往々にして、かれらに大層振り回される事になるだろう。そして実はこの経験への適応性が、本来、とある宗教感覚、救済願望の一起源だったのだろう、と私は思う。

 飽くまで利他行為を習慣づける事は、利己的本能に逆らう。したがって心身の弱者を人助けし続けようとするのは理性によってしかよくなしえない。宗教的悟り以外で、この利他主義を不合理なまで自己犠牲に結びつけるのは難しかったのである。

 無宗教な人は裏を返せばこの絶対的な利他性への信仰に該当する、切実な宗教感覚(なんとしてでもあの弱者を救いたい、という感じ)を、十分に持たないだろう。自然に範をとる自然科学や、それを延伸させた社会進化論の中にある合理主義の枠内で、単なる互恵性(お返しの期待)を超えた絶対利他主義を説明するのは困難であり、実際、それが本能を超えているのであれば、人の宗教感覚の内部にしかありえない事でもあるのだ。

 世界宗教(多国籍・多民族間に広く信じられている宗教)の始祖ともなれば、この救済感を救世主願望(メサイア・コンプレックス)の体系として深めた結果、信仰の影響力がはなはだ大になったのであろう。