2021年1月18日

批評家と批評の批評文

批評家ってツマンネーと思う。
 批評家とか名乗ってる奴の意味がわからない。
 江藤淳とかこの時代に僕以外で読んだ人いないと思うし。いたとしてもさすがに文学部とかの人の一部だけだろう。かれの漱石論くらいだけども。
 要は批評って当時の悪口みたいなもんじゃないか。

 感動するレベルによい評論もある、筈だ。自分はまだ1つも読んだことがない。感想文を書かせるのは批評文の基礎段階みたいなつもりなんだろうけど、本気で特に意味がない。
 作品を読んだ段階でもうわかってるのであって、他人に解説する義務ってあるのだろうか。感動を分け合いたいだけなのだろうか? それなら他人にとって感想文によいもわるいもないのではないか。全て当人の感想であって、ある種の正解なのではないか。

 悪口のなかにも少しはみるべきものがあるかもしれない。ドリー登場以前は内田樹みたいな歯が浮く様な嘘くさい神戸田舎者連合みたいな批評しかなかった村上春樹小説への否定的論点とかもだが。賛否両論がないほどすばらしいものならいいが、明らかにそうでないものが持ち上げられまくっているとか、逆に高貴なるものを全員が貶しまくっている場合の反対世論を作る際とかに、批評が必要になるかもしれない。

 それとただ無意味に褒める系統の批評は全く意味がないのではないか。そういう系統でわずかなりともイイネと思ったものがない。自分がいいと思っている物を他人が褒めてると、心理的に客観視できてしまいなんか疑わしくなってくるし(Boaz Hameiriら"Paradoxical thinking as a new avenue of intervention to promote peace")。世間がけなしてるもののよい面を指摘するとか、それが批評的というのであって、褒めるだけなら賛辞だろう。
 周りが気づかなかったよい面をひきだしている、この場合だけ褒めても益があって害がない。もう十分分かってるよって点をやたらひっぱって連打してる人はまず意味がわからない。それって他人とか正確な評価とかどうでもよくて、半ば同類と同調目的に発情発狂してるミスチルかBTSファン級の猿女みたいな感じだろう。猿は猿に戻った方がいい。