2021年1月17日

日本での孝行、日独両国での扶養義務は「途上国でない限り、ろくでなし」なのか

最近、サンドラ・ヘフェリン氏のツイッターを観察してきたのだが、三浦春馬氏が自殺した直後にツイッターで彼女が、春馬氏の母親を物凄く無礼な言い方で、おおよそ虚偽と考えられる曖昧情報まじりに名誉毀損・侮辱罪していたからである。具体的には春馬氏の親御さんを毒親同定できる文脈に置いたうえで「途上国でない限り、ろくでなし」といっていた。

刑法 第231条 (侮辱)
 事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。

いくら自分は利害関係のない第三者とはいえ、真偽不明なイエロージャーナリズムの週刊誌記事なぞに基づいて彼女が公然と死者・遺族へ日本で日本語で犯罪しているとしか捉えられない以上、看過できず、直接ツイッターアカウントへ返信の形で注意したのだが、即座に彼女はブロックしてきて、その直後に発狂した様に田舎差別の内容のリツイートを連打していた。
 これで彼女を危険人物だと認識し、以後は別アカウントなどで色々調べた。
 それから半年くらい経過した今の時点までに収集できた関連情報でわかったのは、彼女はドイツ自民族中心主義(German Ethnocentrism、ゲルマン・エスノセントリズム。いわばドイツ人が高文化的で世界の中央民族といった考え方)を多かれ少なかれ持っていて、それを直接東京に持ち込んできた上で、都会民族社会主義(Metropolitan National Socialism、都会ナチズム。いわば都会人なる民族単位を思考の中心に置いてその全体で社会正義を考える物の見方)の様な言動をしているらしい、という分析である。そしてこのドイツのミュンヘンから彼女個人がそのままもってきた考えを、東京中華思想に上書きしている。それゆえ自分が目撃した「途上国でない限り、ろくでなし」発言がでてきたらしい。
 しかし日本民法877条では直系血族に扶養義務があるし、いうまでもないことだが、ろくでなしなのは東京マスコミ中のイエロージャーナリズムによる私事権侵害にあたる三文記事であり、なおかつそれなどを種に死者・遺族へ名誉毀損罪する犯罪者の側である。

(日本)民法 第877条(扶養義務者)
  1. 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。
  2. 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。
  3. 前項の規定による審判があった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。

ドイツ民法1601条でも直系親族に扶養義務が定められている。

Bürgerliches Gesetzbuch §. 1601.
    Verwandte in gerader Linie sind verpflichtet, einander Unterhalt zu gewähren.

(ドイツ)民法 1601条
直系親族は互いに扶養(暮らしの糧を与え合うこと)を義務づけられている。

 では、サンドラ氏はなぜ扶養義務を「途上国でない限り、ろくでなし」と言ったのか。あまつさえ、日本での孝行は、ただのたかりであり、親子どちらかがろくでなしなのか?

 そもそも「途上国ならば、ろくでなしでない」という判定自体が、単なる国籍差別に思う。恐らくサンドラ氏は、脳内で、相対的に先進国よりなんらかの意味で絶対物質需給の水準で貧しい国を想定し、そこでは親子の助け合いに該当する扶養義務が当たり前であると考え、先進国水準ではそうでないべきだ、すなわち先進国民は一様に扶養義務を果たすべきでないという観念論(イデオロギー)を持っているのだろうが、私は最初にサンドラ氏の上記ツイートをみた時点でそれ自体に疑問であった。

 私がいくらか同種の考え、要は途上国差別に近い言動をはじめて聴いたのは或るイギリス人からで(合計すると今まで人生全体で計2名から聴いて、別の所で書くけどもう1人は或る奈良女からだった)、彼は「第一世界 (The) First World」という表現を使った。 明らかに第二次大戦時の趨勢を経た、冷戦時の用語で、僕にとってはどこの古人なのだろうって質感を持つことばであり一瞬呆気にとられたものだ。我々の学問水準はもうそんな次元はとっくに通り越してしまい、文化人類学の系統とかデフォなので、僕は親友の小野君と中沢新一の講義を多摩美にもぐりで聴きに行ったこともあった。とはいえなんか退屈な、だって本を読み上げてるみたいな講義だったので、それなら本読めばいいじゃんって話で、耳では聴きながらノートとる感じでメモ書いてたが。そのメモしたノートはなぜか小野君にあげたが。そんでそこからみたらだが、そのイギリス人(なおニューカッスルの人)はかなり昔の帝国主義の価値観を、いまだに引きずってる様に感じられても仕方ないし、実際、彼はそういう考えでいた。中東諸国とかアフリカ諸国とか中国とか、下手するとKPOPとかもまるごと含め韓国までもを、僕に向け、君も彼らを一段下に見て当然だろう? という様な、NATO的なものといおうか、一種独特の仲間意識みたいな感じで腐す文脈で語ってくるのである。
 冷静に考えるとそこに参加してたら勝ち組になれる可能性が高いからそこに参加した第一次大戦は日本も戦勝国側でそれなりの国益を受けたものの、実際、彼らと敵対してしまうことになった第二次大戦経てもへなくても僕はそれらの国々になんの軽蔑の念も持っておらず、どっちかというなら尊敬の念とかある種の憧れさえもってきたのであり、まぁ中東諸国とか中国奥地とかならテレビの自転車旅番組「グレートジャーニー」とか、「進め!(進ぬ!) 電波少年」系の猿岩石のユーラシア横断旅行とか本も番組も全部みてきて、現地人の心や懐の深さとか、インドあたりだったかでの森脇と現地女性の恋物語とか、最後まで旅終えて藤井フミヤの『白い雲のように』プロモーション後に没落、復活有吉の毒吐き芸風への展開含め、なんというのか我々からは当然だが見慣れない雰囲気の別の社会の出来事で異国情緒まじりに見えるがその中で、どうみても我々と同じ人間性の紡ぐ命の姿などに魅せられていた上で。違う世界で生きる同じ人達。NHK「世界ふれあい街歩き」でアフリカ都市部で音楽かけて歌って踊りながら露天商やってる人とかみたら、あるいは徳仁氏が皇太子時代アフリカは憧れの地です発言(あなたらの作った渡来系奈良人発の民族宗教・神道に於ける祖先神アマテラスが、ミトコンドリア・イブと認めてるの?)とかみてそこまでアフリカに悪い印象もつわけもなく。一言でいえば(ひねくれた意味ではなく)普通の日本人ってアジアをなぜか見下してみる欧米と同じ感覚で育ってきてるわけじゃないかと思うが。本当の話、ユーラシア大陸的な物を、基本、ニュートラルにみているはずだ。そのうえ『コーラン』のイスラム(絶対服従)も、『武士道』の忠義の観念に似てるなぁとも感じたり、大体、僕は漢詩や中国文学のファンだ。李白も杜甫も陶潜も路遥も、ノーベル文学賞を無量大数個で補えないだけ、心からすばらしい詩人だと僕は思っている。しかも韓国音楽も同時代的に時間差なく年中聴いているわ、そもそも韓国史の中で李退溪らの朱子学論争がどう哲学的に位置づけられてきたか、或いは韓国の建築・庭園様式とか社会制度とか、そのなかで漢詩以外に、万葉仮名の起源である「吏読」の用法を離れて時調やハングルがどう生まれ、やがて日本の演歌に影響受けたトロット経て、JPOPに影響されKPOPがいかに発生・発展したか、とかの流れも興味深く調べてきた。アジア諸国の端くれの極東のまさに日が出づる処、Orient、日本の日立の国界隈の人としてなんというのか、そのイギリス人が見ている目線とまるで違うのであったが、そのイギリス人のいわんとしている西洋中心主義みたいなのもそういやむかし薩長土肥って浅はかすぎてそういう感じだったよな、名誉白人ぶってて野卑な連中だったよ、大正民主主義弾圧して軍閥に耽ってたが華族令ごと消えたけど、安倍晋三・麻生太郎、或いは小泉親子一味とか一部の残党除けば大部分は、という明治批判の観点からだけど分からなくはないので、やんわりと「僕らは第一世界なんかじゃないですよ、滅茶苦茶な国政ですよ。みてくださいよ、政教分離もできてないんですぜ?」って返すことしかできなかった。易姓革命を前提とする中国史に対し、水戸学の日本独自哲学として皇国史観に基づく祭政一致論を唱えたわが国の烈公の手前、ある種の知的謙遜なんだが、恐らくそこに含まれる名誉革命・明治維新後に日英間で各国政が辿った、逆さなすれ違いの諧謔は伝わってないであろう。

  で、とにかくサンドラ氏もこのニューカッスル人とほぼ似た様な、西洋中心主義なわけである。しかもたちが悪い事に旧ナチ本部のミュンヘン育ちであるのにもかかわらず、ドイツ民族中心主義的な言動で、比較文化論もどきを年中乱用しているきらいがある。
 これは比較文化論をきちんと大学学部くらいの学識水準(複雑な数式とか統計的分析とか基本使わず、割とカルチャーセンター的にだれでもわかる範囲で、触れたことさえあればこういう感じね、という、さして専門的とも言いがたいレベル)でやったことがあれば一発で見抜ける話だから、彼女が比較文化論者としてはちょっと認められない素人次元の、単なる異文化摩擦をネタにするエッセイスト、ドイツ出羽守なのは一定より教育水準があればみなわかっているのだろうけど――特に、お転婆メーガン一味を追放したイギリスなどと違って、共和政ドイツに至った一間接的な素因でもあるだろうところの向こうでの貴賎結婚正義論をもちだしての日本国民総パワハラ呼ばわりの時は、さすがにヤフコメ民とかが、皇室支持者ともども猛反発していたがそのアーカイブ)――この比較文化論の専攻者ではない一放送大教養学部生の僕からみても、サンドラ氏のドイツ文化優越論は残念ながらまことに傍ら痛い事この上ない。彼女はまじめな話ちゃんと勉強しなおした方がいい。だって比較文化論でおよそ最初にやることって、「文化の間に上下はありませんよ、全ての文化は等しい価値を持っているのでそんなの偏見で、或る文化と別のそれとの違いの間に価値等級をつけてはなりませんよ」という基本構図なのである。余りに基礎的な態度すぎてわざわざ講義の1回目とかで言わない事すらあるが。当該学問上の基本倫理というか。本当にそうなのだからしょうがない。これは西洋でいう構造主義、日本でいう柳田民俗学あたりから一貫してそうで、異文化だから下とか絶対禁止レッドカード即退場なのに、それを平気でいってしまっているのは、まじでこれは冗談ではないのだが、無教養なるものの態度でも一番最悪の類型でしょう。だって、それによって異文化を潰そうとしていた帝国主義(皇民化ですね、日本なら。アメリカナイゼーション、西洋化とか)が何を見落としていたかを反省するところのものが日欧界隈での比較文化論であって、文化人類学であって、或いはそれ以前から有る民俗学 folkloreその他の、多文化研究の、現代先進国に於ける欠かせない一意義なのであるから。

 まぁとにかくひどい。その酷さは語るに落ちるものだからもう誰もつっこんでないだけだろう。僕だってわざわざこんな下らない説教じみた随筆なんざ書きたくない。これは僕にとって時間の無駄であるばかりか、サンドラ氏側からしたら「そうかー。文化の違いって、基本的に優劣じゃなかったんだー」と反省するまでもなく逆切れしてくるかもしれないだけで、ドイツ国民一般はナチスには反省したかもしれないが、その根底にある自民族中心主義については反省してない可能性すらこの遠い極東の一国民が疑いだす次元にまずいでしょう。メルケルもそうだ。多文化主義の失敗なんてそう簡単に言えた義理ではない。飽くまで試み続けねばならない異文化共生を(だって異文化は国内外に常にありますから!)、少しばかりあるいはかなり困難だからって挫折したつもりにしたせいで、ドイツがアーリア人優越論者を持ち上げすぎゾンダーコマンド使った悲劇を生じたのであって、僕の国だって天皇支持者が「蝦夷を持って蝦夷を討つ」渡来人侵略犯の悪徳戦術を素で戊辰戦時の西軍側から平田学派の尊王秋田に入り込んでやったせいでひどいことになった。これは東北勢で一定より地誌に覚えがあれば皆知っている悲惨だろう。一方、イギリスでも薩長勢に武器を横流しして内乱の傀儡に使うとか、先住民同士に殺し合わせるのと同じ陰謀を実質的に裏表で徳川政府・薩長土テロリスト勢間を操る様に使う、アメリカ先住民の食糧狩りで絶滅試みるなど、大なり小なり似た様な野蛮さがあったが。米国での戦時中の日系人の強制収容とか、欧米で長らく続いてきた黒人・黄人差別(奴隷制、黄禍論)とか。しかしフランスみたいにブルカ禁止とかも決してよろしくないにせよ、まだ、フランスは自由・平等・友愛が国是だけに、日本の人種差別撤廃提案にも一回目で賛成してくれたし、米英にいじめられた日本が敗れてから国連憲章で人権さだめたところで「じゃあ最初から賛成しとけ」が日本の本音としかいいようがないであろう。南京らに申し訳ないばかりか原爆もらい損である。
 要は、サンドラ氏をみてると、西ドイツの一ミュンヘン育ち人の中では、ドイツ民族中心主義が、ヘーゲル・カント以来脈々と、いや、もっと遡ればもしかすればゲルマン民族の大移動あたりから延々と続いてきている可能性が0ではない。それはそれは恐ろしい話で、たった1人のハーフの中にもその種の侵略帝国オレタチ万歳みたいな利己性がバリバリ生きてるとすると、福沢諭吉が『文明論之概略』中でその種のゲルマン性を不羈独立と形容したのも、あながち間違ってはいなかったのかもしれないが、どうみてもこわい。僕は直感が優れているらしく一瞬で本質を見抜いてしまう傾向にあり、ドイツってなんかこわいと思って基本近づいてなかったんだけど、ますますそのおそろしさの本質、本性がわかってくると、自分が感じていた事はこれだったのか、と、建物ごと消されたユダヤ人焼却場の隅に埋められて判別しづらくなっていたメモ書きに図らずも確認することになった。そしてそのサンドラ氏と東京人は、関東大震災で罪なきひとを大虐殺した過去がありながら毎年の慰霊すら拒否するとんでもない不届き者都知事を再選させてしまう集団の中にいて、なおかつその自集団の道徳的落ち度を批判的に啓蒙しようとすらせず同調同化しようとしており、いまだ18万人も人種差別論者に2020年都知事選で投票するなど、そりゃー馬があうだろうなって感じで、野蛮さが半端ないのだ。18万人ってなんだ。僕の近隣で一番大きな都市のひとつである日立市とほぼ同じ人口数が東京では、憲法違反の極悪人なのである。現実に。東京人は1400万人近くいるからその1%くらいじゃんとかいわれても意味がない。東京蛮族の大移動みたいに18万人が大量虐殺に走ったら一巻の終わりである。そして、それをいつでもあおりかねねーな、てか毎日煽ってる様なもんだなってのが、サンドラ氏ら東京人による普段からの田舎差別の言説の数々で、現に福島県ら、東京本社の原発立地自治体とか都内発の魅力度差別自治体とかがそれで犠牲になってるのに平気な顔で、自己中にも賄賂コロナ五輪しろオレタチの電気代けちる為に再稼動しろだとかやんややんや衆愚やっているのである。

 すさまじい蛮族がすぐ南に住んでいて、その人達の無知からきた偏見と、全国地方差別心に驕る傲慢ぶりといったら凄まじいのだが(実は空っぽの中身を隠す為の江戸っ子くずれな虚勢、新東京人の俗物根性による空威張りなんだが)、情報技術の発展でなんの時間差もなく即座に、かれらの普段の卑しい言動が見える様になった今では恐怖しかない。戦後憲法前文に定める恐怖と欠乏から免れようとしている国際社会で名誉有る地位なんて到底しめえていないこの国で(なにせ常任理事国入りすら関係諸国に拒絶される始末)、現にそこの中央政府が置かれている首都が、恐怖をまきちらす。毎日毎日だ。コロナ禍もそうだけど。
 どうみても地方差別的言動をツイッターだのテレビや雑誌やインターネットだので平気でばらまいて、万事うえから目線。上級国民の皇族様は絶対者であって貴様ら田舎者は浮浪者同然やろ! みたいな口ぶりで、自分達都民も平均すればろくに金がなく、エンゲル係数(食費負担率、要は家計の圧迫感)その他からみても茨城の平均より酷い暮らしぶりだろうに(東京は甚だ格差社会だけに、平均してすら47中11位が結果である! 僕が都内にも暮らしてきて、この目で実態はみた。なお食糧産地茨城は首都圏にもかかわらず44位)、勿論、南関東人がそんな虚ろさを自覚することはない。だってひたすら傲慢なたちなのだから。知事同士でもだが、東京人が福島人にごめんちゃいした場面って一度もみたことがない。プライドだけで保っている様な巨神兵。いつ崩れてきもおかしくない。どろどろに溶けた体といえば猛烈な腐臭がする。そしてそのなかに詰まっているのは都会民族社会主義だか天皇中華思想だか都会結束主義だかなんだかわけのわからない悪意悪徳で頽廃しきって混ざりきった汚物の塊。一刻も早く逃げおおせよ。僕は一足先に逃げたノアさ。