僕はここ1年半くらい、大分向かうべき道を間違えた様に思うので、今日づけで行路を調整するだろうと思う。
僕がなにをミスったかといえば、トランプ一味に呼応してツイッター界に入り込みすぎた。しかし1年半くらいやってわかったのは、あれは本当に有害なだけであった。何か得したことがあったかといえば何もない。連日損害だけした。今後も何も得しないと思う。基本的にどうみても愚かな人達に誹謗されるだけで、基本何も得られなかった。1年半やって得たものは1個だけで、僕がくまけんの勤めてたのは日建設計だとばかり思い込んでいたら、ちがかった。日本設計だった。それを指摘してきてくれたやつがいたのはいいんだけど、ツイッターってのははっきりいって不良と下流の集まりなので指摘の仕方が品性下劣で、傷つける様な侮辱の形で言ってくるのである。無駄な馬乗り目的に。そういう雰囲気がある所って学校でもなんでも悪い学校、不良校だと思うし、そんな場所に長居すべきではないだろう。
ほかにも僕がマルクスについて語ってたら、マルクスはそんなこといってないとか指摘してきた北海道のなんかの精神疾患か発達障害かと自称していた人がいた。僕はケアレスミスを除けば基本的に記憶力が自分よりいい人は見たことがない位の話なので山川出版の倫理用語集の一節を暗記していた箇所だけに、ちゃんとたどりなおして見たらマルクス筆『ゴータ綱領批判』というのに出典上の根拠がある文章であった。それでこういう理屈でこれは私が引用した通りみたいですよ(資本、社会、共産主義の三段階説ってやつ)と返信したら相手はだんまりして消えた。これもどうかと思う。教えてもらったら普通、ありがとうといわなければならないわけだし、その程度の礼儀もない時点で「この人おかしいんじゃないか」と、育ちというのか相手のしつけを疑うし、それどころか当人が誤った指摘をし相手に時間ロスの迷惑かけたんだからなおさら最低謝罪はしなければならない筈だ。手間かけてごめんなさいわたしがわの間違いでしたとね。
しかるに自分は気づいた。そういう大分外道みたいな感じの人達がたわけてる場所だったのだ。ツイッターって。論外のスラム。かの悪評高き無法者(連続有罪系の賠償踏み倒し亡命者)の居場所って時点で怪しんだ方がいいだろう。
もしかすると少数は賢者もいるのかもしれない。だけどそういうひとたちは総じて専読なので、ツイートが流れてくることはまずもってごく少ないらしい。
なので自分はツイッターでなにかをさえずる事は今後、基本的にないだろうと思う。大体、返信の形も試していたんだけどこれも、余計な人達が読んでしまうのがダメなのだった。その余計な人達にも読める汎用化した形で専門的内容を返信していたのだけどそれですらダメで、 長い長いと140文字程度で大分おろかしいこといってくるほど知的程度が低い人多くて、全くお話にならない。小学生低学年とかならぎりぎりわかるけど、僕ですらその頃にはもうちゃんと本は読んでいたのだ。クラスの本棚にあった『吾輩は猫である』が面白くて夢中になって僕が読んで二宮金次郎みたいに家に持って返ってきてまで読んでいたのって、小学校4年とかだったと思う。だったと思うというか、僕の勘違いでなければ2年か4年かどちらかだった。『ずっこけ三人組』シリーズとか図書館で借りてもっと小さな頃から普通に読んでいたし、栫井俊介(千葉在住の或る投資顧問)という人もユーチューブで、その1つに影響されたといっていた。その時点の自分ら小学生より言語知能が低い、40代以上っぽい人って、失読症除けばさすがにどうなってんだろうって話である。しかもそういう漫画ふきだし級の低質言語知能派が、しかも往々にして匿名で(約8割が)ものすげー威張っているのだ日本語ツイッターって。
ある時、短文厨特有の文句つけてきた神奈川の湘南あたりの、いかにもな南関ヤンキーに、じゃあこれで、って短歌送ってやったらものすげー逆切れしてきて酷い目にあった。そいつらの一員がツイッターに有る非公開の直接通信機能・ダイレクトメール(Direct Mail, DM)で殺害予告までしてきたのだ。
ここでもう一度このときのことを書くけど、河野太郎のツイッターアカウントが年がら年中いろんな人達をブロックしており、僕も別に当人のアカウントに触れてないのにエゴサでどっか引っかかったらしくブロックされていたのもあって、河野大臣がブロックしてくるよねって井戸端会議してる所をみかけ、1個だけ、米国大統領のアカウントがブロックするのは表現自由侵害で違憲と判定されたニュースを僕が貼りつけただけ。そしたらわけのわからん神奈川ヤンキーが絡んできて、140文字以内で返信してたら長い長いとさらにわけのわからんこといってきた。しかも言ってきてるのはなぜか主語を省けとか接続詞や修飾語を減らせとか文法学・修辞学全否定の謎発言。日常語で数学基礎論ですかと思ったがそれを言ってもどうせ相手はわからなそうなので、じゃあ57577が基本韻律、31文字程度の短歌で返したのだ。そしたら相手は大発狂し、殺害予告をDMで送ってきた。凄まじいスラムというべきじゃないだろうか、神奈川圏ツイッター全域がそうかは知らないけども、河野太郎信者のそいつは確実にやばい育ちなのは間違いないと思う。一体全体、皇族にも同じことしやがるのか? 毎年はじめ歌会始で? 女系天皇容認論者だけに明治憲法イデオロギー薩長藩閥系とはついぞ混じりあわないだろう、自民党の異端児であるところの河野太郎一味支持者ら、神奈川ヤンキークラスの伝統行事で? 短歌おくられて殺害予告が?
ちなみに茨城だったら奈良時代の時点で連歌の道があるくらい風流だったのは、筑波の道という古語に『万葉集』東歌群だけでなく間接的にも残っているし、現にそこで嬥歌があったわけで茨城新聞でも茨城文芸として、その種のみやびやかなといおうか、奥ゆかしい伝統は続いているのだが。山梨の酒折の翁が『古事記』で、ヤマトタケルに返歌した。そのくらいやってくるもんじゃないの、というのがわが県武士の基礎教育次元だろうと思うんだけども。僕もだし。一もののふではあれ、飽くまで文士かもしれないが。
ヤマトタケル「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
火ともしの翁「かがなべて夜には九夜日には十日を」
――『古事記』
とかく何か気の利いたことを返歌してくるのかなぁと思ったら、しぬほど無礼千万な蛮言で中傷されまくり、高々米国のニュース貼っただけで大発狂して殺害予告までしてくるとか、神奈川文化の質に軽蔑感を覚えざるを得なかった。そういうデフォで風紀の悪い、犯罪的風土だから起きたのだ、植松被疑者によるひめゆり園での精神障害者大量虐殺事件、あるいは首吊り士の大量自殺幇助事件とかって。神奈川人、特に横浜人あたりって東京人と同調し同程度に虚栄心ばかり激しいから、決して認めたがらないが。彼ら横浜あたりの人間って一般に通例、どれほど犯罪的なキャラでも独特の自文化中心主義によって、「我々都会人」はなにごとにつけ洗練されている上位者、という平等権違反で違憲な嘘ばかりつくのが目につく。まぁナチスや神道右派とあまり変わらない。都会ファシスト。内外に仮想敵を偽造し、ユダヤ人とか田舎者とかをさも劣等種みたいに悪意ある偏見や浅ましい差別心で措定し、自分達が相対的に上で無謬、とする自己愛妄想に耽ることで思考停止しつつ、共同幻想の同調域を作りたがるのが彼ら東横ヤンキー的な思考の典型的企てである。似た様な構図をとりたがるのは、関西だったら上京区中華思想、反東京大阪至上主義を種に共謀者を囲い込もうとする京阪ヤンキーも大体同じなのだけれども、多少違う点があるとすれば、京都ヤンキーと大阪ヤンキーは、東京ヤンキーと横浜ヤンキーと微妙に違って、割と互いを差別的に見下しあっており仲が悪い傾向もあるということだ。東横の場合、東京ヤンキーは横浜ヤンキーを一段劣る偽都会と見下しているが、横浜ヤンキーは東京ヤンキーにつねに同調したつもりになっていて、スネオ的位置づけにいたがる、という点が違う。
小室圭氏が横浜育ちで湘南江の島海の王子だという。それに発情されてしまわれた眞子内親王殿下にしてみると、横浜・湘南あたりの神奈川ブランドも魅力だったのかもしれない。
しかし僕からしてみると強姦殺害小説屋・石原慎太郎の地盤・湘南にも、ピグで散々いなか差別しまくってきたとある石工の地元・横浜にも、鎌倉人と称するダークトライアド系悪女に色々酷い目にあったこともあるし(肖像画頼まれて油絵で描いてネットでみせてやったら嬉しがっていながらに金も払わないわ、のち虚偽情報で名誉毀損罪しまくってきた)、そこに暮らす人間たちと接した上での相手側の平均した質という点で、神奈川自体にも結構大分悪い印象しかないに近い。上記のだけでも公民的にどうなのって感じで、まあその相手以外にも色々、犯罪的な面で問題あるのは確かな場所なのでなるだけ近づかない様にしているのだ。一時が万事ということもある。
悪所を善所に変える。それができるのは君子の業なのかもしれない。しかしそれがついぞできない場所もあるだろう。僕の目には匿名犯罪の場ツイッターもそうだし、元祖2chもそうだし、東京都区部や京都市上京区界隈の差別的風土もそうだ。東京に同調するばかりで国策賭博罪まで誘致しようとする横浜も多分そうなのだろう。なぜかそうなるのかといえば、かれらは自分達が悪所だと気づいていないし、メタ認知力が低すぎる上に集団的な自己愛妄想が激しすぎ逆に驕り高ぶっている。反省する以前の話で、傲慢すぎ、中華思想からきた田舎差別の言動など、諸人権侵害に自覚すらない。福島や福井が彼らの犠牲になっていても平気な顔で田舎にはなにもないなどと嘘をついて、或いは本気で死んだ感性、知性、道徳性で罵っているのである。第一次産業、第二次産業がなければ第三次産業がなりたつはずもないのに、彼らが食べている米だの肉だの野菜だのお魚だのカップヌードルだのビールだのお茶漬けの素だのをそのいなかの茨城が作ってあげていて、水や電気まで送ってあげていて、感謝してくるどころか暴利搾取を自慢しながら自称京都のその東京人どもは金刷って只で買いあさっての見下しぶり、連日連夜の差別っぷり腐敗公家ぶり天皇ぶりである。
ソドムとゴモラの逸話は、多数派が腐っている場所は神あるいは自然に亡ぼされるしかない、それ以外ではついぞ改善されなかった、逃げるしかなかったというユダヤ人の言い伝えで寓話なのだろうと思う。