2019年9月30日
現時点の自分の性的志向の自己分析
注意:私は今から大勢のキリスト教徒を発狂させるかもしれないので、東洋人への偏見がない人だけが読んで下さい。
私がけさ思ったから書いておきたいのは、吾輩の性的志向についてである。先ず自分は純愛主義者かつ純潔主義者だと思う。そして異性愛者である。
なぜこういえるかなら、私は一部のちかしい女性には言ったけれども、初恋の人がずっと好きなのである。そしてこれを超えることは多分ないかもしれない。そんで、その人はもう結婚しているであろう多分。であるからして純愛かつ純潔といえよう。
しかしここまではよくある話(でもない)と思うのだが、自分の心理をよく分析してみると、必ずしも型通りでもない動きもある。まあ最近の概念でいうと複数愛みたいなものである。
昔、ドナルド・キーンみたいなレディー・ジャネットと名乗るやつが2ch文学板の固定ハンドルにいて、僕に「男は機会があれば一夫多妻を望む筈」といった。僕は当時、なにいってんだこの『源氏物語』かぶれはと思ったのだが、その後、なんでそうこの人がいったか少しは分かりだした。理由は2つある。
第一に、ヒトの睾丸のサイズは浮気前提にできている。だから理性を完全に除去するとサルみたいに振舞う可能性もなくはない。ただ自分は酒飲んでも理性失った試しがないから基本そうならないらしい。
第二に、女性というか複数のメス側が同時に自分を好きなった時の対応だ。私は子供のころ見た目がかわいらしい稚児だったらしく女の子扱いされていたり、その後も、普段家にいたのは女ばっかだったからか、今も女性に近い感性をもっていると思う。で、人の気持ちが大変良く分かるというか、今の言い方ならEQは相当ある方であろう。余りにわかりすぎて一々傷つくので他人に会いたくないから、平安時代の貴族の女性みたく庭にしか出ないのである。自分は小さな庭に出ただけでもそこの自然の神秘な営みに圧倒され胸が一杯になって満足なので、裏を返せば引き籠もりを非難する商売人達は遺伝子の土台ががさつで野蛮なのである。
続けよう。私はこういうわけで女性らが同時に自分を好きになった場合(よくあるかまでは知りませんが)、それぞれを断るのは心苦しい(つつもたせ除く)。でよく考えると、第一の点みたく、自分で意図的に理性外せば、別に複数の女性と交際しても私の遺伝子的に利益があるわけで、相利的であろう。こういう道理で、私は上述の意見「男は誰でも機会があれば一夫多妻を択ぶ筈」には、ヒトを哺乳類とみる範囲では、一理あるんだろうなと考え直したのである。(これを女性や一夫一妻主義者一般が納得するには、改めて、一哺乳類としてヒトを分析できる必要がある)
しかしこの複数愛の考え方は、最初にあげた純愛純潔主義とは矛盾する。そして一夫一妻主義の女性というのがいる(正確にいうと、自分が他のメスに比べ絶対に最優遇の立場でしか交際したがらない女性がかなりの数にのぼる。これは遺伝的利己心もあれば純愛の故でもある)ので、ことは複雑になってくる。したがって現時点の自分の性的志向は、時間差浮気(いわゆる離婚ですね)をするキリスト教世俗派(特にプロテスタント世俗派)の倫理観とは一定程度ずれがある感じがする。
但し、或るフランス人女性(パリジェンヌ)と或るSNS上で親しく会話した所、普通にフランスの(まあ少なくとも都会の)カトリシズム世俗派というか最早宗教も特に深くはないのだろうけど、パリ人くんだりは、同時的な複数愛なんて当たり前みたいなこといわれた。その女性も複数の男性とつきあっているらしく性関係すら毎日あるみたいだった。都会の退廃とも解釈できるにせよ(何せ或るイギリス田舎紳士とこの件について同SNS上で議論した所、自分は絶対そうならないとの頑なな態度でした。偉いか素朴なんでしょう多分)、このパリ的考えは私にそれなりに影響した。
いいかえると、イスラム教徒が奥さんは最大4人までとムハンムドから『コーラン』でいわれているとして、そして例えば日本史の中でも明治以前、貴族の側は上位者ほど一夫多妻だったのを考えると、純潔純愛主義とはなんぞやということになる。
結論、キリスト教を無視すると、一夫一妻主義とは明治政府が西洋化しようとした制度といえるでしょう。この制度は、例えば僕が子供の頃読んだ漫画(『ドラゴンボール』『ドラえもん』)やったゲーム(『ドラゴンクエスト5』『マザ-2』)で、一夫一妻主義が一番清らかで正当なのだとの洗脳を施した。具体的にいうと、孫悟空は幼馴染というか最初に出会ったチチという田舎娘が結婚してけろとかいったので成人後もその婚約を忘れず他の女に目もくれずその女としか結婚しないし、ドラクエ5でいうと幼馴染の田舎娘ビアンカと金持ちの都会娘フローラどっち択ぶっていう成人後の有名な選択肢で物語が変わるわけだけども、これは純朴に考えるとビアンカしか選べないわけなんですね。(それでフローラ択ぶやつはろくでなしみたいな世論もあれば、何せ箱入り娘だから他にもお見合い相手なんて一杯いる上に自分を特に好きでもない政略婚のフローラ択ぶと、その後、自分を好きな上にずっと旅に連れ添っていた糟糠の幼馴染ビアンカは寂しく余生を送ることになり悲劇的な結末になるし、自分はそれをしらずとも最初からビアンカ択んだけれども、余生見なくても想像するだけでビアンカ振るのは可哀想だから普通はビアンカと結婚するのを前提に語ったつもりだったと、作った堀井雄二さん当人が仰っていた)
すなわち自分は、鳥山明とか堀井雄二に、洗脳されていたのかもしれない。
そこまで真剣に文化考察しなくとも、祖父母・父母をみてても親族も全部一夫一妻だし、周りもそれが当たり前の感じなので、当然、これを疑うこともないのが、いわゆるTHE中流的世界観、近代日本の普通なんだろうけど。(片親が多様性で擁護されだしたのは、小泉・安倍格差社会以後でつい最近ですからね)
特に性的志向の面で、その一夫一妻イデオロギーの刷り込みは甚だあったであろうと思う。(但し自分にはロマンチック・ラブ・イデオロギーの刷り込みはなかった。少女漫画もそこまで真剣に読んでなかったし、親も祖父母もお見合いであるのが影響していると思うが。田舎生まれで性売買の文化風土もない)
だから自分が最初に『源氏物語』読んだ時、大体20代の前半くらいか、本当にふざけた浮気皇族野郎のろくでもない話だなと思い、京都腐ってて心底ろくでもねえと疑いを深める原因にもなったし、要は、キリスト教的純潔純愛主義と全く対立する性的志向、一夫多妻徹底淫行主義が、そこでは象徴化されている。
そんでだ。自分は17だかで『ノルウェイの森』も、反抗児だったので(飽くまで進学校ですからヤンキー的派手なのじゃなく、先生が子供を型にはめる東大受験なんてクソ、俺は茨の道で美術やるみたいな、内向的で大人しいものなんですが)授業無視して読んでたのだが、そこで語られている早稲田大界隈での淫行三昧の下賤な話も、まあ当時から馬鹿じゃねえのかこの頭の悪そうな神戸くんだり(『風の歌を聴け』も当然読んでました)から出てきた軟派連中はと、言語化はしてなかったけど普通に思っていた。その後スーフリ事件とか起きてさもありなんとなったけども、今から思っても、私の祖父の母校を荒らしているとんでもねえ不良だなとしかいいようがない。自称グレートブリテン島のノーベル賞予想屋に煽られていますが、世間が淫行正義と勘違いしたらどうするのか。まあすでに江戸っ子ぶったアホ都民の大半なんて男女問わず、原発だの賄賂五輪再開発で出まくったCO2や不法投棄のゴミは他県にばらまきながら好き好んで乱倫三昧してます、江戸時代からしてますし、下々はどうせどうもしないんでしょうが。
で、その後、2ch文学板という場所で春樹とか綿矢りさらしきやつとも会話して(なりすましかもしれませんが)から思ったのだが、今も、コイツラ京阪神だか東京神奈川の一部自称文化人気取り淫行小説屋って表も裏も猿なんじゃないかと思えてくるし、それは鳥山明や堀井雄二的な正統キリスト教的な純潔純愛倫理観を植えつけられていれば当然そう感じるであろう。別の言い方をすると、この春樹とか綿矢りさとかって、京都関西文化から出てきて源氏物語みたいな一夫多妻淫行主義を素で根に持ってる上に、それを江戸東京町人文化と混ぜてしまった人達なのです。それでただの性的下品さを文学界の中で正当化しちゃって、もののあわれぶっている
だから僕はこの京都・東京的淫行一夫多妻主義は嫌いなんですよね。彼らか彼らのなりすましは、更に私の実名になりすましたりしてありとあらゆる下賤な内容を書き散らし私の名誉を徹底して穢し、2chで匿名荒らし行為により、こっぴどく犯罪しまくりました。それは私を完全にトラウマにさせ、数年のあいだ毎晩、京都を地上から永久に亡ぼしてくれるようカミサマに祈っていた(本当に)くらいですから、私を酷く京都嫌いにさせる最大原因になりました。
イエス自身は現代科学からみたら婚外子みたいなもんだし、もっと深くなぜ一夫一妻主義でなければならないか問うと余計複雑でもある。これは神学解釈だけど、イエスは自分の生を許す昇華で博愛を説いたわけで、厳密には一夫一妻主義でもないし、娼婦を許していたし、結婚契約と許しを両立させていた。
けれどももっと素朴にみると、自分は同性愛ではないが、『葉隠』みたく片想いのまま死ぬのが一番美しいんだよみたいなプラトニック・ラブに至ると、純潔純愛主義が究極の一夫一妻主義でもあって、そこからいうとだが(僕も墓参りまで行ったんだけども)漱石なんてのも堕落した男であろう。若い頃、医者の待合室でみた気立てのいい女をずっと想って純潔のまま死んだならいいけども、途中で金持ちだか上級官吏だかの娘の鏡子とお見合い結婚しながらに手紙の中では「うつくしい細君がもらえると思っていた」とかいって、実質的に見た目からして理想の妻ではないと言っているわけだ。そんなら最初から結婚するなよともいえるし、『明暗』で最後まで初恋の人っぽい性愛の(別に性行為してないけども)幻影を追いかけて死んでいる。
ま、漱石は世間的には明治の一夫一妻主義に順応、弟子の芥川とも違い芸妓だか娼婦だかと遊び気が狂うこともなかったわけで(事実か知らんが、芥川は自殺直前に売笑婦と遊んだと『或阿呆の一生』に書いてある。犯罪者とか自殺者が死に直面した時、本能で性欲が高まってよくやる行動だ)、別にそれ(少なくとも漱石の方)は現実には非難される一生でもなかったと思いますが、もっと深く性的誠実さという面で考察すると、かなりいかがなものかといえる言動も取っていると。それは別に性衝動そのものが悪いといっているのではなく、単に自分の心理に対する感情論的誠実さという面で、である。
つまりだ。まあ私の本能としては奥さん「最低でも」4人くらいよこせと思うのだが(できたら1000人くらいいた方がいいが現実的に異性同士でも、同性とも、しばしば法律上もバトルになりかねないので難しい)、しかしこれを実行に移すとなると、第一に女の側の理屈からすると、余程の金持ちじゃないと子育て面でも不利だし、そもそも俳優歌手ユーチューバーみたいな人気者に発情してんだから余りそうならない。だから今後金持ちなり人気者になればいいのだが。がこれは一夫一妻制に矛盾するから事実婚しかない。
しかし、もっと深く考えると、自分が4人以上妻なり恋人なり愛人がいる合理性というのは、性的快楽が導因にはなってんのかもしれないけども、実際には子孫に遺伝的バリエーションをつけたいというものであろう。なお飽くまでこの項は、性衝動なり心理の理性的考察を完全に無視し、本能ではですよ。
で、仮にそういう利己的本能があるとして、自分が素朴に信じてきた純潔純愛主義とは「表面的には」大いに矛盾する。もっと分析的にいうと、いわゆるもののあわれ的浮気と表が似てしまい、僕が嫌っている中世京都人的風紀とか、江戸東京町人商人的な下流世界とどこが違うの? となってしまいかねない。
理屈的には大分違うというか、上述したよう系統発生が違っていて、自分のは純潔純愛主義の複数愛版なのであって、根底には女性の気持ちを裏切れないというのがある。だから自己犠牲なのだ、或る意味。これは嘘ではない。一定程度より親しい女性には、或いはそうでなくても、きっと分かると思うけども。
僕個人は、最初に書いたよう初恋の人というか、悟空的な考え方で、子供時代に身近にいた好きな人が消えちゃったからどうすっぺという感じなのである。しかし、自分を好きになった女性がいた場合これを断るのも、まあ何度かやったのだが後から自分が(も)傷つくのを悟った。
一方、京都的なもののあわれ論というのは、普通に浮気ですよね。これは異論はないでしょう。唯の軽薄な皇族だか公家だかの浮気感情だからこそ、浮舟は救われないのである。現代の関西女に話をきいてもそうですよ。関西地方の男達はいまだに女をそんな風に扱っている、要はただの肉体関係目的の浮気相手にしているのを何度もみた。だから私は本居宣長をずっと馬鹿だと思っているし、淫行したさに性欲を自己正当化してんな、サルめがとしか思わない。同じ意味で進次郎官邸前溺婚自慢も、開き直るしかなかったんだろうが、婚前交渉サルかと恥知らずめがとしか思わない。
で、江戸東京町人商人文化からみるとこの浮気癖は同様に堕落していて、要は性売買とか、ただの淫行目的の肉欲だけになってくるわけだ。こっちの場合、ま京都人とか関西人の文化風土も似た様なもんだけども、『偽田舎源氏』『春色梅児誉美』(読んでない)、『たけくらべ』からなんにも変わっていない。
だから下流的なもの、もしくは売買春は違法であり退廃的なものというべきで、京阪神と東京は色んな指標の相関係数が高いので、やれお茶屋遊びだなんだの祇園芸妓遊びだの公家文化の名残だってほぼ、江戸東京の性風俗文化みたいなのと多かれ少なかれ一体化してんですよね。
そういうわけで、僕の性的志向は中世京都人的もののあわれ(例えば『源氏物語』『蹴りたい背中』みたいなもん)でもなければ、江戸東京人的淫行主義(例えば『たけくらべ』『ノルウェイの森』みたいなもん)でもない。
自分に一番影響したのは、『ドラゴンボール』での悟空の立ち位置とか、『ドラゴンクエスト5』でのビアンカ択んだ物語であろうと思われ、理性的には純潔純愛主義なのは間違いない。
しかし、ここが特殊なのだけども、でも本能でみたらできるだけ多く遺伝子残した方がいいでしょという無意識と、同時に、女性を裏切るのは可哀想なばかりか自分も傷つく(長い目でみると生殖の機会失って後悔するという生物的意味もあれば、女性側の本能的・無意識的な生殖願望への期待に気づいてあげられなくて申し訳ないという自責もあるだろう)為、受動的複数愛の一種の性質がある感じがする。
こういう道理で、異性愛の純潔純愛主義かつ或る種の受動的複数愛というのが現時点の自分の性的志向かなと思うのだが、これは一夫一妻の結婚制度に完全適合していないと思うし、キリスト教的でもなければイスラム教的でもないし、もののあわれ的でもなければ性売買的でもないと、特殊なものな気がする。なおかつ、自分はとにかく繊細で気を使うし気が利くから、プラトニック・ラブの傾向もある。
今流行の性的少数者を大切にみたいな流れからすると、自分の性的志向は異性愛だから無視されたり、ただの浮気扱いされかねない上に、外見的には文通しかしないみたいな感じでブッダか詩人にしかみえないだろうし、目立たない性的少数者だと思うのである。
そしてここまで書いてみて改めて思うのは、この自分の或る種の性的少数者性というのは、子供の頃からすでにあった気がする。
なぜかなら、自分は小学校低学年くらいの頃に、姉から姉の友達が遊びにきてたときかなんかに、誰が好きなの? といわれ、よくわからんので、焦って、幼馴染の或る同級生の女子が自分を小学校で好きだといってるのを脳裏に思い出して、まあ確かにその女性は大人しい人物だったし自分もただの異性として全く好意がないわけでもなかったのでとっさにその人が女性としては一番好きなのかなと解釈し(これは子供なので性欲ではないんですが)、その子の名前を教えてあげたら、からかったような口調で姉が(多分姉の友達も)、はやしてきた。
で、自分がここで初恋の人といってるのは、実際にはこの人ではないんですねこれが。その女性と別のクラスになったのもあるかもしれませんが、前書いたからブログのどこかに残ってると思うが、僕が猫のふりしてカーテンに絡まって日向ぼっこし、相手の気を引こうとしていたピアノ少女の方を指している。
この部分の自分の心理の動きをよく分析し直してみると、すでに最初から受動的複数愛みたいな傾向があったんじゃないかと思う。そして、それは自分の能動的純潔純愛主義と矛盾なく脳内では同時並列しているんではないか。こうして成長後に、やっと意識的に言語化できる様になったということなのだろう。
私がけさ思ったから書いておきたいのは、吾輩の性的志向についてである。先ず自分は純愛主義者かつ純潔主義者だと思う。そして異性愛者である。
なぜこういえるかなら、私は一部のちかしい女性には言ったけれども、初恋の人がずっと好きなのである。そしてこれを超えることは多分ないかもしれない。そんで、その人はもう結婚しているであろう多分。であるからして純愛かつ純潔といえよう。
しかしここまではよくある話(でもない)と思うのだが、自分の心理をよく分析してみると、必ずしも型通りでもない動きもある。まあ最近の概念でいうと複数愛みたいなものである。
昔、ドナルド・キーンみたいなレディー・ジャネットと名乗るやつが2ch文学板の固定ハンドルにいて、僕に「男は機会があれば一夫多妻を望む筈」といった。僕は当時、なにいってんだこの『源氏物語』かぶれはと思ったのだが、その後、なんでそうこの人がいったか少しは分かりだした。理由は2つある。
第一に、ヒトの睾丸のサイズは浮気前提にできている。だから理性を完全に除去するとサルみたいに振舞う可能性もなくはない。ただ自分は酒飲んでも理性失った試しがないから基本そうならないらしい。
第二に、女性というか複数のメス側が同時に自分を好きなった時の対応だ。私は子供のころ見た目がかわいらしい稚児だったらしく女の子扱いされていたり、その後も、普段家にいたのは女ばっかだったからか、今も女性に近い感性をもっていると思う。で、人の気持ちが大変良く分かるというか、今の言い方ならEQは相当ある方であろう。余りにわかりすぎて一々傷つくので他人に会いたくないから、平安時代の貴族の女性みたく庭にしか出ないのである。自分は小さな庭に出ただけでもそこの自然の神秘な営みに圧倒され胸が一杯になって満足なので、裏を返せば引き籠もりを非難する商売人達は遺伝子の土台ががさつで野蛮なのである。
続けよう。私はこういうわけで女性らが同時に自分を好きになった場合(よくあるかまでは知りませんが)、それぞれを断るのは心苦しい(つつもたせ除く)。でよく考えると、第一の点みたく、自分で意図的に理性外せば、別に複数の女性と交際しても私の遺伝子的に利益があるわけで、相利的であろう。こういう道理で、私は上述の意見「男は誰でも機会があれば一夫多妻を択ぶ筈」には、ヒトを哺乳類とみる範囲では、一理あるんだろうなと考え直したのである。(これを女性や一夫一妻主義者一般が納得するには、改めて、一哺乳類としてヒトを分析できる必要がある)
しかしこの複数愛の考え方は、最初にあげた純愛純潔主義とは矛盾する。そして一夫一妻主義の女性というのがいる(正確にいうと、自分が他のメスに比べ絶対に最優遇の立場でしか交際したがらない女性がかなりの数にのぼる。これは遺伝的利己心もあれば純愛の故でもある)ので、ことは複雑になってくる。したがって現時点の自分の性的志向は、時間差浮気(いわゆる離婚ですね)をするキリスト教世俗派(特にプロテスタント世俗派)の倫理観とは一定程度ずれがある感じがする。
但し、或るフランス人女性(パリジェンヌ)と或るSNS上で親しく会話した所、普通にフランスの(まあ少なくとも都会の)カトリシズム世俗派というか最早宗教も特に深くはないのだろうけど、パリ人くんだりは、同時的な複数愛なんて当たり前みたいなこといわれた。その女性も複数の男性とつきあっているらしく性関係すら毎日あるみたいだった。都会の退廃とも解釈できるにせよ(何せ或るイギリス田舎紳士とこの件について同SNS上で議論した所、自分は絶対そうならないとの頑なな態度でした。偉いか素朴なんでしょう多分)、このパリ的考えは私にそれなりに影響した。
いいかえると、イスラム教徒が奥さんは最大4人までとムハンムドから『コーラン』でいわれているとして、そして例えば日本史の中でも明治以前、貴族の側は上位者ほど一夫多妻だったのを考えると、純潔純愛主義とはなんぞやということになる。
結論、キリスト教を無視すると、一夫一妻主義とは明治政府が西洋化しようとした制度といえるでしょう。この制度は、例えば僕が子供の頃読んだ漫画(『ドラゴンボール』『ドラえもん』)やったゲーム(『ドラゴンクエスト5』『マザ-2』)で、一夫一妻主義が一番清らかで正当なのだとの洗脳を施した。具体的にいうと、孫悟空は幼馴染というか最初に出会ったチチという田舎娘が結婚してけろとかいったので成人後もその婚約を忘れず他の女に目もくれずその女としか結婚しないし、ドラクエ5でいうと幼馴染の田舎娘ビアンカと金持ちの都会娘フローラどっち択ぶっていう成人後の有名な選択肢で物語が変わるわけだけども、これは純朴に考えるとビアンカしか選べないわけなんですね。(それでフローラ択ぶやつはろくでなしみたいな世論もあれば、何せ箱入り娘だから他にもお見合い相手なんて一杯いる上に自分を特に好きでもない政略婚のフローラ択ぶと、その後、自分を好きな上にずっと旅に連れ添っていた糟糠の幼馴染ビアンカは寂しく余生を送ることになり悲劇的な結末になるし、自分はそれをしらずとも最初からビアンカ択んだけれども、余生見なくても想像するだけでビアンカ振るのは可哀想だから普通はビアンカと結婚するのを前提に語ったつもりだったと、作った堀井雄二さん当人が仰っていた)
すなわち自分は、鳥山明とか堀井雄二に、洗脳されていたのかもしれない。
そこまで真剣に文化考察しなくとも、祖父母・父母をみてても親族も全部一夫一妻だし、周りもそれが当たり前の感じなので、当然、これを疑うこともないのが、いわゆるTHE中流的世界観、近代日本の普通なんだろうけど。(片親が多様性で擁護されだしたのは、小泉・安倍格差社会以後でつい最近ですからね)
特に性的志向の面で、その一夫一妻イデオロギーの刷り込みは甚だあったであろうと思う。(但し自分にはロマンチック・ラブ・イデオロギーの刷り込みはなかった。少女漫画もそこまで真剣に読んでなかったし、親も祖父母もお見合いであるのが影響していると思うが。田舎生まれで性売買の文化風土もない)
だから自分が最初に『源氏物語』読んだ時、大体20代の前半くらいか、本当にふざけた浮気皇族野郎のろくでもない話だなと思い、京都腐ってて心底ろくでもねえと疑いを深める原因にもなったし、要は、キリスト教的純潔純愛主義と全く対立する性的志向、一夫多妻徹底淫行主義が、そこでは象徴化されている。
そんでだ。自分は17だかで『ノルウェイの森』も、反抗児だったので(飽くまで進学校ですからヤンキー的派手なのじゃなく、先生が子供を型にはめる東大受験なんてクソ、俺は茨の道で美術やるみたいな、内向的で大人しいものなんですが)授業無視して読んでたのだが、そこで語られている早稲田大界隈での淫行三昧の下賤な話も、まあ当時から馬鹿じゃねえのかこの頭の悪そうな神戸くんだり(『風の歌を聴け』も当然読んでました)から出てきた軟派連中はと、言語化はしてなかったけど普通に思っていた。その後スーフリ事件とか起きてさもありなんとなったけども、今から思っても、私の祖父の母校を荒らしているとんでもねえ不良だなとしかいいようがない。自称グレートブリテン島のノーベル賞予想屋に煽られていますが、世間が淫行正義と勘違いしたらどうするのか。まあすでに江戸っ子ぶったアホ都民の大半なんて男女問わず、原発だの賄賂五輪再開発で出まくったCO2や不法投棄のゴミは他県にばらまきながら好き好んで乱倫三昧してます、江戸時代からしてますし、下々はどうせどうもしないんでしょうが。
で、その後、2ch文学板という場所で春樹とか綿矢りさらしきやつとも会話して(なりすましかもしれませんが)から思ったのだが、今も、コイツラ京阪神だか東京神奈川の一部自称文化人気取り淫行小説屋って表も裏も猿なんじゃないかと思えてくるし、それは鳥山明や堀井雄二的な正統キリスト教的な純潔純愛倫理観を植えつけられていれば当然そう感じるであろう。別の言い方をすると、この春樹とか綿矢りさとかって、京都関西文化から出てきて源氏物語みたいな一夫多妻淫行主義を素で根に持ってる上に、それを江戸東京町人文化と混ぜてしまった人達なのです。それでただの性的下品さを文学界の中で正当化しちゃって、もののあわれぶっている
だから僕はこの京都・東京的淫行一夫多妻主義は嫌いなんですよね。彼らか彼らのなりすましは、更に私の実名になりすましたりしてありとあらゆる下賤な内容を書き散らし私の名誉を徹底して穢し、2chで匿名荒らし行為により、こっぴどく犯罪しまくりました。それは私を完全にトラウマにさせ、数年のあいだ毎晩、京都を地上から永久に亡ぼしてくれるようカミサマに祈っていた(本当に)くらいですから、私を酷く京都嫌いにさせる最大原因になりました。
イエス自身は現代科学からみたら婚外子みたいなもんだし、もっと深くなぜ一夫一妻主義でなければならないか問うと余計複雑でもある。これは神学解釈だけど、イエスは自分の生を許す昇華で博愛を説いたわけで、厳密には一夫一妻主義でもないし、娼婦を許していたし、結婚契約と許しを両立させていた。
けれどももっと素朴にみると、自分は同性愛ではないが、『葉隠』みたく片想いのまま死ぬのが一番美しいんだよみたいなプラトニック・ラブに至ると、純潔純愛主義が究極の一夫一妻主義でもあって、そこからいうとだが(僕も墓参りまで行ったんだけども)漱石なんてのも堕落した男であろう。若い頃、医者の待合室でみた気立てのいい女をずっと想って純潔のまま死んだならいいけども、途中で金持ちだか上級官吏だかの娘の鏡子とお見合い結婚しながらに手紙の中では「うつくしい細君がもらえると思っていた」とかいって、実質的に見た目からして理想の妻ではないと言っているわけだ。そんなら最初から結婚するなよともいえるし、『明暗』で最後まで初恋の人っぽい性愛の(別に性行為してないけども)幻影を追いかけて死んでいる。
ま、漱石は世間的には明治の一夫一妻主義に順応、弟子の芥川とも違い芸妓だか娼婦だかと遊び気が狂うこともなかったわけで(事実か知らんが、芥川は自殺直前に売笑婦と遊んだと『或阿呆の一生』に書いてある。犯罪者とか自殺者が死に直面した時、本能で性欲が高まってよくやる行動だ)、別にそれ(少なくとも漱石の方)は現実には非難される一生でもなかったと思いますが、もっと深く性的誠実さという面で考察すると、かなりいかがなものかといえる言動も取っていると。それは別に性衝動そのものが悪いといっているのではなく、単に自分の心理に対する感情論的誠実さという面で、である。
つまりだ。まあ私の本能としては奥さん「最低でも」4人くらいよこせと思うのだが(できたら1000人くらいいた方がいいが現実的に異性同士でも、同性とも、しばしば法律上もバトルになりかねないので難しい)、しかしこれを実行に移すとなると、第一に女の側の理屈からすると、余程の金持ちじゃないと子育て面でも不利だし、そもそも俳優歌手ユーチューバーみたいな人気者に発情してんだから余りそうならない。だから今後金持ちなり人気者になればいいのだが。がこれは一夫一妻制に矛盾するから事実婚しかない。
しかし、もっと深く考えると、自分が4人以上妻なり恋人なり愛人がいる合理性というのは、性的快楽が導因にはなってんのかもしれないけども、実際には子孫に遺伝的バリエーションをつけたいというものであろう。なお飽くまでこの項は、性衝動なり心理の理性的考察を完全に無視し、本能ではですよ。
で、仮にそういう利己的本能があるとして、自分が素朴に信じてきた純潔純愛主義とは「表面的には」大いに矛盾する。もっと分析的にいうと、いわゆるもののあわれ的浮気と表が似てしまい、僕が嫌っている中世京都人的風紀とか、江戸東京町人商人的な下流世界とどこが違うの? となってしまいかねない。
理屈的には大分違うというか、上述したよう系統発生が違っていて、自分のは純潔純愛主義の複数愛版なのであって、根底には女性の気持ちを裏切れないというのがある。だから自己犠牲なのだ、或る意味。これは嘘ではない。一定程度より親しい女性には、或いはそうでなくても、きっと分かると思うけども。
僕個人は、最初に書いたよう初恋の人というか、悟空的な考え方で、子供時代に身近にいた好きな人が消えちゃったからどうすっぺという感じなのである。しかし、自分を好きになった女性がいた場合これを断るのも、まあ何度かやったのだが後から自分が(も)傷つくのを悟った。
一方、京都的なもののあわれ論というのは、普通に浮気ですよね。これは異論はないでしょう。唯の軽薄な皇族だか公家だかの浮気感情だからこそ、浮舟は救われないのである。現代の関西女に話をきいてもそうですよ。関西地方の男達はいまだに女をそんな風に扱っている、要はただの肉体関係目的の浮気相手にしているのを何度もみた。だから私は本居宣長をずっと馬鹿だと思っているし、淫行したさに性欲を自己正当化してんな、サルめがとしか思わない。同じ意味で進次郎官邸前溺婚自慢も、開き直るしかなかったんだろうが、婚前交渉サルかと恥知らずめがとしか思わない。
で、江戸東京町人商人文化からみるとこの浮気癖は同様に堕落していて、要は性売買とか、ただの淫行目的の肉欲だけになってくるわけだ。こっちの場合、ま京都人とか関西人の文化風土も似た様なもんだけども、『偽田舎源氏』『春色梅児誉美』(読んでない)、『たけくらべ』からなんにも変わっていない。
だから下流的なもの、もしくは売買春は違法であり退廃的なものというべきで、京阪神と東京は色んな指標の相関係数が高いので、やれお茶屋遊びだなんだの祇園芸妓遊びだの公家文化の名残だってほぼ、江戸東京の性風俗文化みたいなのと多かれ少なかれ一体化してんですよね。
そういうわけで、僕の性的志向は中世京都人的もののあわれ(例えば『源氏物語』『蹴りたい背中』みたいなもん)でもなければ、江戸東京人的淫行主義(例えば『たけくらべ』『ノルウェイの森』みたいなもん)でもない。
自分に一番影響したのは、『ドラゴンボール』での悟空の立ち位置とか、『ドラゴンクエスト5』でのビアンカ択んだ物語であろうと思われ、理性的には純潔純愛主義なのは間違いない。
しかし、ここが特殊なのだけども、でも本能でみたらできるだけ多く遺伝子残した方がいいでしょという無意識と、同時に、女性を裏切るのは可哀想なばかりか自分も傷つく(長い目でみると生殖の機会失って後悔するという生物的意味もあれば、女性側の本能的・無意識的な生殖願望への期待に気づいてあげられなくて申し訳ないという自責もあるだろう)為、受動的複数愛の一種の性質がある感じがする。
こういう道理で、異性愛の純潔純愛主義かつ或る種の受動的複数愛というのが現時点の自分の性的志向かなと思うのだが、これは一夫一妻の結婚制度に完全適合していないと思うし、キリスト教的でもなければイスラム教的でもないし、もののあわれ的でもなければ性売買的でもないと、特殊なものな気がする。なおかつ、自分はとにかく繊細で気を使うし気が利くから、プラトニック・ラブの傾向もある。
今流行の性的少数者を大切にみたいな流れからすると、自分の性的志向は異性愛だから無視されたり、ただの浮気扱いされかねない上に、外見的には文通しかしないみたいな感じでブッダか詩人にしかみえないだろうし、目立たない性的少数者だと思うのである。
そしてここまで書いてみて改めて思うのは、この自分の或る種の性的少数者性というのは、子供の頃からすでにあった気がする。
なぜかなら、自分は小学校低学年くらいの頃に、姉から姉の友達が遊びにきてたときかなんかに、誰が好きなの? といわれ、よくわからんので、焦って、幼馴染の或る同級生の女子が自分を小学校で好きだといってるのを脳裏に思い出して、まあ確かにその女性は大人しい人物だったし自分もただの異性として全く好意がないわけでもなかったのでとっさにその人が女性としては一番好きなのかなと解釈し(これは子供なので性欲ではないんですが)、その子の名前を教えてあげたら、からかったような口調で姉が(多分姉の友達も)、はやしてきた。
で、自分がここで初恋の人といってるのは、実際にはこの人ではないんですねこれが。その女性と別のクラスになったのもあるかもしれませんが、前書いたからブログのどこかに残ってると思うが、僕が猫のふりしてカーテンに絡まって日向ぼっこし、相手の気を引こうとしていたピアノ少女の方を指している。
この部分の自分の心理の動きをよく分析し直してみると、すでに最初から受動的複数愛みたいな傾向があったんじゃないかと思う。そして、それは自分の能動的純潔純愛主義と矛盾なく脳内では同時並列しているんではないか。こうして成長後に、やっと意識的に言語化できる様になったということなのだろう。
2019年9月29日
やくざと守銭奴の身内争いについて
安倍晋三に投票したな
山口4区だか5区だか知らんが
お前らと小泉の横須賀だ
お前らは日本中を貧乏にした
そして弱肉強食の上で婚前交渉している
やくざの末路がこれですよ
売国奴の末路がこれ
農家潰しの末路がこれ
アメリカの犬政治
自分さえよければいいと
アベノミクス投資で税金貪る
お前がやってることは赤い貴族だよ
日銀の国費と庶民の年金を間接的に貪る
それが投資家きどりですか笑えます
金儲けしかできないんでしょ拝金奴隷だから
私はそういう汚い人達が嫌いなので
心から軽蔑してるんですよね
近づかないで欲しい
お前が金を儲けだしたら
次々馬鹿が寄ってくる
連中はお前のおこぼれに与ろうと
あらゆる手を尽くし媚び諂う
だがお前は奴らに踊らされるか
さもなければ全員を切り捨てるか
どちらか択ぶしかない
踊らされた奴の末路は見たろう
商売は役人の掌の上
断頭台に乗るのは商人か
それとも天皇か
2つに1つ
山口4区だか5区だか知らんが
お前らと小泉の横須賀だ
お前らは日本中を貧乏にした
そして弱肉強食の上で婚前交渉している
やくざの末路がこれですよ
売国奴の末路がこれ
農家潰しの末路がこれ
アメリカの犬政治
自分さえよければいいと
アベノミクス投資で税金貪る
お前がやってることは赤い貴族だよ
日銀の国費と庶民の年金を間接的に貪る
それが投資家きどりですか笑えます
金儲けしかできないんでしょ拝金奴隷だから
私はそういう汚い人達が嫌いなので
心から軽蔑してるんですよね
近づかないで欲しい
お前が金を儲けだしたら
次々馬鹿が寄ってくる
連中はお前のおこぼれに与ろうと
あらゆる手を尽くし媚び諂う
だがお前は奴らに踊らされるか
さもなければ全員を切り捨てるか
どちらか択ぶしかない
踊らされた奴の末路は見たろう
商売は役人の掌の上
断頭台に乗るのは商人か
それとも天皇か
2つに1つ
或る画家と称する人が嫌う人達の描写
画家は偉いですね
一円にもならない絵を描いてますからね
あんたら労働者は時給仕事
いつも妬んで攻撃してきますよね差別したり
しかしあんたら金欲しさにしか動かないでしょ
私は10兆積まれても嫌ならやらないよ
正義の為にしか行動しない
あんたらろくに勉強しないから正義も知らない
利己しかない
あなたら労働者共は絵なんて買わない
買ったとしても漫画でしょうが
少なくとも私の絵は買わない
だってあんたらは芸術がわからないから
あんたらにわかるのはアニメの絵だろ
若い女がチャラってる絵しかわからんだろ
エロマンガしかわからんのだろ
だから私に近づかないで下さい
私は労働者が嫌いです
画家なんて死んだらいいと
あなたらは私を餓死させようとする
なるほど悪意しかないね君らには
じゃあそれでいいじゃないか
私が餓死したらそれで満足だろう
あなたらは一生時給仕事でもしていろ
金を貪ってFIREとかいっていろ
美術といえば京アニグッズ
それがお前らだろうがよ
私はあなたが嫌いです
一円にもならない絵を描いてますからね
あんたら労働者は時給仕事
いつも妬んで攻撃してきますよね差別したり
しかしあんたら金欲しさにしか動かないでしょ
私は10兆積まれても嫌ならやらないよ
正義の為にしか行動しない
あんたらろくに勉強しないから正義も知らない
利己しかない
あなたら労働者共は絵なんて買わない
買ったとしても漫画でしょうが
少なくとも私の絵は買わない
だってあんたらは芸術がわからないから
あんたらにわかるのはアニメの絵だろ
若い女がチャラってる絵しかわからんだろ
エロマンガしかわからんのだろ
だから私に近づかないで下さい
私は労働者が嫌いです
画家なんて死んだらいいと
あなたらは私を餓死させようとする
なるほど悪意しかないね君らには
じゃあそれでいいじゃないか
私が餓死したらそれで満足だろう
あなたらは一生時給仕事でもしていろ
金を貪ってFIREとかいっていろ
美術といえば京アニグッズ
それがお前らだろうがよ
私はあなたが嫌いです
どうでもいいこと
愛
だがそれも気の所為
唯の幻惑
性欲の美化が恋にすぎない
だからお前の愛など
なにか感情で糊塗した性欲なのだ
利他主義などどれも偽善
所詮は自分の社会適応の手段
名誉も要らぬ
しかし良心は捨てない
それならお前は良識の奴隷だ
利己心などどうでもいい
死さえ
実際どうでもいいことだ
だがそれも気の所為
唯の幻惑
性欲の美化が恋にすぎない
だからお前の愛など
なにか感情で糊塗した性欲なのだ
利他主義などどれも偽善
所詮は自分の社会適応の手段
名誉も要らぬ
しかし良心は捨てない
それならお前は良識の奴隷だ
利己心などどうでもいい
死さえ
実際どうでもいいことだ
現代の薩長閥による売国独裁出来レース
田舎も電気使ってるでしょ
だから俺らが使う量なら原発いらねーんだわ
こっちは電気を卸してやってるの
余計な量なの
それもお前ら都会人の原発じゃねえか
他人の土地に置くな公害野郎
金渡せばいいだろと石原伸晃がいった
金で命が買えるか馬鹿が
故郷が金で買えるんですか
自然が金で買えるんですか
少女が障害もってたら虐めてはいけません
だから無敵です
中年男性なら死んでもどうでもいいでしょ
だから最弱者です
国連権力を使って原発おしつけ
二酸化炭素ネタで大量虐殺の対象になってくれ
それがお前ら田舎者の末路だから
俺らは都心の例のナイトプールで淫行するから
分かったらグレタ崇めてろ
この偽学者は
あるのは実態のない肩書馬乗りだけ
東大博士さえあれば無敵だからな日本なら
朝生とかいう出来レースで金儲け売名
お前如きに芸術語られて笑えてきたよ
お前のやってたのは安倍礼賛だけだろうに
違憲立法連打する馬鹿を崇める馬鹿東大卒
どこまで魂腐ればそうなれるんだ
三島模範にしてろ
アメリカ人はインディアンの食料を奪い
簡単に先住人を駆逐した
アメリカ人は権力欲しさに媚売る長州人を手先に
日本人の食料を奪い簡単に
息の根を止めた
絶滅しかけた日本先住人は簡単に米政府に従った
それで侵略戦争に投入し次々殺戮兵器にされた
気が狂った日本人は長州人に従い次々
自殺攻撃した
鹿児島から出てきたやくざの一家が
神奈川の横須賀から政府を乗っ取った
食料をアメリカ政府に渡し
弱肉強食を自己責任と言い換え
次々先住日本人を見殺しにしていった
相手は何も悪くないイラク侵略の責任は取らず
アメリカ政府に土下座する犬の一家は
売国奴として婚前交渉しながら
首相の座を狙った
だから俺らが使う量なら原発いらねーんだわ
こっちは電気を卸してやってるの
余計な量なの
それもお前ら都会人の原発じゃねえか
他人の土地に置くな公害野郎
金渡せばいいだろと石原伸晃がいった
金で命が買えるか馬鹿が
故郷が金で買えるんですか
自然が金で買えるんですか
少女が障害もってたら虐めてはいけません
だから無敵です
中年男性なら死んでもどうでもいいでしょ
だから最弱者です
国連権力を使って原発おしつけ
二酸化炭素ネタで大量虐殺の対象になってくれ
それがお前ら田舎者の末路だから
俺らは都心の例のナイトプールで淫行するから
分かったらグレタ崇めてろ
この偽学者は
あるのは実態のない肩書馬乗りだけ
東大博士さえあれば無敵だからな日本なら
朝生とかいう出来レースで金儲け売名
お前如きに芸術語られて笑えてきたよ
お前のやってたのは安倍礼賛だけだろうに
違憲立法連打する馬鹿を崇める馬鹿東大卒
どこまで魂腐ればそうなれるんだ
三島模範にしてろ
アメリカ人はインディアンの食料を奪い
簡単に先住人を駆逐した
アメリカ人は権力欲しさに媚売る長州人を手先に
日本人の食料を奪い簡単に
息の根を止めた
絶滅しかけた日本先住人は簡単に米政府に従った
それで侵略戦争に投入し次々殺戮兵器にされた
気が狂った日本人は長州人に従い次々
自殺攻撃した
鹿児島から出てきたやくざの一家が
神奈川の横須賀から政府を乗っ取った
食料をアメリカ政府に渡し
弱肉強食を自己責任と言い換え
次々先住日本人を見殺しにしていった
相手は何も悪くないイラク侵略の責任は取らず
アメリカ政府に土下座する犬の一家は
売国奴として婚前交渉しながら
首相の座を狙った
科学は永遠の疑義に過ぎない
証拠が或る実証的再現性や統計的有意差を伴っている時、それが「科学的」なので信憑性が高いとみなす前提づけが危険なのは、これが所詮、現時点での主要な学会員らの諸実験の角度に於ける確かさでしかありえないからだ。潮流論と同じく、それ以外からでも常に、科学とは自明の前提を疑うことである。
グレタの盾で原発公害東京都民のかねもうけ
東京の環境偽善者に殺される原発推進する言い訳で
原発で田舎を殺戮するためにグレタ盾にす邪悪な東京都
みっともない少女叩くな原発を田舎に押しつけ極悪東京
少女なら障害者なら弱者なり中年男性虐ぐ偽善者
中年の男性なんてやっちまえ代わりにグレタを崇め原発
原発で人殺しする言い訳にグレタ盾にす東京の悪魔
東電と日本原電東京の会社と知らず電気貪る
東電の最大株主都庁とさえ知らず貪る原発の電気
田舎潰し何もないとほざき都内から農工貪る卑しきあきんど
東京で皇族とつるみ税むさぼり田舎に原発おしつけグレタす
原発で田舎を殺戮するためにグレタ盾にす邪悪な東京都
みっともない少女叩くな原発を田舎に押しつけ極悪東京
少女なら障害者なら弱者なり中年男性虐ぐ偽善者
中年の男性なんてやっちまえ代わりにグレタを崇め原発
原発で人殺しする言い訳にグレタ盾にす東京の悪魔
東電と日本原電東京の会社と知らず電気貪る
東電の最大株主都庁とさえ知らず貪る原発の電気
田舎潰し何もないとほざき都内から農工貪る卑しきあきんど
東京で皇族とつるみ税むさぼり田舎に原発おしつけグレタす
田舎いじめの東京国連共犯体制
東京には公然猥褻罪は存在しません
ソドム衆愚がそれを求めるから
東京には公害が存在しません
極悪都民は他人を虐殺して平気だから
東京には生物倫理が存在しません
生き物は換金できると考えるから
東京では農民に感謝しません
田舎を差別し搾取自慢します
億ションでワイン飲むユーチューバーだから
何一つ美しいところなどない東京から
全国民全人類を騙し自画自賛の虚構をばらまく
挙句に原発で大量虐殺
川まで干あげて生き物殺し
淫行猥褻し放題の無法スラムで億ション自慢
それが上品だとのたまう税金収奪殺人邪教祖
最早笑えてくるよ
余りの暗愚さにね
自称首都合戦を京都とやって
差別していろ
魅力度最下位最下位レッテル貼って差別する
魅力のない人なんていない様に
お前に魅力をみいだす能力が欠けているだけだよ
他人と比べた魅力は本物の魅力じゃないの
お前は人を愛する能力が欠けているんですよ
お前とは日本人全員だよ
お前には差別の能力しかない
要するに下賤な人間なんだお前は
毎日の食卓を作ってくれている人
農民様ですよ
田舎は何もないと都会で金儲けしながらいう
馬鹿なのか
田んぼで米つくって下さってるだろうが
工場でお前の家や服作って下さったんだろうが
お前の金儲けはどうでもいい
卑しいだけ
食べ物と道具の作り手を差別する
都会あきんどの浪費自慢はうんざりだ
あの長野女は
冬の田んぼをみて何もない荒野だといった
じゃあ一生米食うな
遺伝子組み換え食品でもモンサントから買え
私はある夏に稲敷市を通りました
地平線まで稲穂で大いに感動しました
瑞穂の国といいました
今ではどうですか地平線までコンクリート砂漠
何がエライんだ東京の
反省し石食ってろ
原発は田んぼの真ん中に作りましょう
なにもないから
THE東京官僚はんがそうおっしゃる
東大で何を学んだんだこの馬鹿は
税金で何を学んでいたんだお前は
米を汚染し田畑を汚染し
野菜も卵も米も食えなくなってアメリカ頼り
馬鹿かお前は
いや正真正銘の馬鹿者である
烈公の農人形を食卓に置いて祈れ
ゴミを不法投棄にくるのも
車盗みにくるのも
バスだのブルーギルだの放したのも
お前ら東京人だよ馬鹿が
挙句の果てに川の生き物殺してやるという
全国の愚民に晒し物にして金儲けだという
てめーの金儲けなんざどうでもいいんだわ
生き物を平気でころす極悪犯罪者は失せろ
金儲け賄賂五輪を原発で搾取した金で開きます
つきましてはCO2大量に出しますのでご留意を
果ては廃棄物のたぐいは何もない田舎に不法投棄で
お米を汚染し野菜を汚染し生き物を汚染し
田舎者に全てのゴミをおしつけ万々歳でございます
さあ万歳三唱といきましょうか
天皇陛下万歳万歳万歳
酒を飲みます
わたしはね
田舎には何もないといってる都民の
その頭の中身が空っぽと知っているの
確かに東京にはなにもないよ
ムだよ無
空虚すぎて笑えるくらいだよ
自然破壊の悪意しかないし
生き物をゴミだと思ってるし
暴力でうずまっているし
卑しい性売買罪人しかいないし
そこに電気なんて卸すな
悪用される
じゃあ教えてあげますよ
東京都民の頭の中身は卑しい差別心で一杯
中心に鎮座する渡来人がそれだもん
先住日本人を差別して1300年
何をしてきたと思うの彼ら
邪教で洗脳して大量虐殺
中華皇帝ぶって税を貪り淫行三昧ですよ
そんなのが威張ってる野蛮な国なんだ日本は
東京も京都もエラクナイ
差別の塊
いいか茨城人ども
我々は民放なんていらねーんだわ
みてみろ東京のテレビ
とんでもねえ嘘ばっか流して差別三昧
愚民洗脳の装置なんてない方がいい
そのせいで偏見でみられても
嘘ニュースで愚民騙すよりずっといい
みていろ東京のテレビに洗脳された衆愚を
全員地獄堕ちのレミングス
真理を自ら探せ
僕が子供の頃
山の中にある農業用水の溜め池の沼
既にブルーギルがいた
ルアー垂らすとすぐ食いついてきた
あれがフナを殺して
生態系をぶっ壊してきた存在なのは
どうみても日本的じゃない棘姿でよくわかった
だが渡来人天皇はんが流したんですよ
東京から
馬鹿なのかお前らは
自作自演してんじゃねえ
生き物殺し放題
なぜなら私は都民ですから
田舎を差別し放題
なぜなら私は京都ですから東京ですから
なぜなら私は皇族ですから
ワタシガエライ
お前ら土民は税金貢げ
ワタシタチトライジンガエライ
お前ら先住人は奴隷だ
神道崇めて中華皇帝を祭れ
THE日本政府様に従え
そして公害原発で電気よこせよ
科学はエライ
原爆でヒロシマ・ナガサキを殺戮できたから
科学はエライ
原発でフクシマを殺戮できたから
科学はエライ
炭疽菌でイラクを殺戮できたから
科学はエライ
学歴で他人を差別できるから
科学はエライ
理想でしかない道徳を馬鹿にできるから
科学はエライ
全生命体を絶滅させられるから
田舎にゴミを不法投棄して五輪施設を作り金を儲けます
それが東京都民たる誇りです
悪のために生きてます
ついでに原発まで田舎に押しつけ差別します
田舎に米卵肉魚服家具機械でも作らせ
自分達はそれを買い叩き高く売りつけます
そして億ション自慢で田舎者を睥睨します
理由は虚栄心の塊だからです
私は金があるからエライです
東京都民で金持ってるからエライ
空威張りしかできないからエライ
中身は空っぽで群れてるからエライ
なんにも考えずアニメみてるからエライ
金があるふりしてるからエライ
私はとにかくエライんです
なぜなら東京様ですから
門地差別が好きでしょう?
エライもんはエライ
イギリスの王室なんて
ドイツだかフランスから来た侵略者でしょ
日本の皇室なんて
中国だか南北朝鮮から来た侵略者でしょ
威張り散らす道理がない
謙虚ぶって税金収奪し自己神格化の儀式です
いいですよそんなの
家のない人に食べ物配ってくださいよ
私は全資産34万しかないです
消費税とるの楽しいか
あんたら田舎者なんてね
はっきりいって我々大都会東京横浜人からいうと
みんな死んでも平気なんですよ
食べ物ならアメリカ様から直輸入し
東北だの茨城だの新潟なんて潰せばいいと
だれもいわないけど思ってんですよ皇室政府様は
アメリカ様とお前ら田舎者とどっちが強い?
暴力と金
これが全てなので
お前ら田舎者に原発おしつけてる訳?
そりゃエゴイズムですよ
東京人の私さえよければいい
神奈川人の私さえよければいい
千葉人の私さえよければいい
埼玉人の私さえよければいい
当たり前でしょ?
茨城なんざどうでもいい
新潟なんざどうでもいい
青森なんざどうでもいい
福島なんざどうでもいい
自分のことしか考えていない東京人
だがテレビとユーチューブで洗脳
一発で関西だか東北だかの田舎者だませる
余裕っしょ?
金さえあればメディアでだませるんだから
アホなガキ向けユーチューバー使えばいい
億ションでゴキブリと格闘すればいい
猫動画でいい人ごっこ
皇室動画の背景にクラシックです
東京のねしょぼい雑居ビル2階あたりから
社員数人でね疑似統計とるの
そしてね全国民だます魅力度差別するの
田舎にゃなんにもないってねいって
米と野菜と肉と魚奪うの
それがね東京人になりすました福井人なの
渋谷で働くのね社長なの
金儲けなの
偉いでしょ神でしょ
メディアでね洗脳するの
馬鹿を
ああグレタは偉いね
二酸化炭素が温室効果ガスだって建前で
学校行かなくていいしユタボンよりいいよ
子供虐めの義務教育なんざ消えていいんだから
田舎虐めの大都会なんざ消えていいんだから
あんたら偉い偉い
ああ偉いグレタユタボンを神と思おう
そうすれば救われるんだから
原発で殺されるんだから
最近オタクがね
良きよきっていうの気持ち悪い
よきって体言必要でしょ連体形なんだから
よき何?
オタク女が良きよきいうの
秋葉原でねいうの
しかもなんか発情していうのね二次元偶像に
あと尊いってオタ語も気持ち悪い
だって全然卑しいのにいうんだもん
あの人らね尊卑みわけられないの馬鹿だもん
わたしはね
イケメンとかいった時点でその女を軽蔑している
それは下品な東京語ですよ
もっというと渋谷ギャル語だろ?
イケてるメンズってメンで複数形だから
イケてる男物って意味だから英語で
馬鹿なの
まあそれはいいとしても見た目で人を判断するな
見た目だけの下衆に発情交尾してる下衆は失せろ
ベトナムは偉いなあ
アメリカに戦争で勝ったからじゃなくて
アメリカに唯々諾々と従わなかったからだ
山口県民ってなんなの
水戸学教えてやったら徳川裏切りやがった
それはまあゆるしてやるとして
東北北海道沖縄荒らして東アジア中荒らして
今度はアメリカに臣従ですよ
根性なしどもが
私は神奈川人は雑魚だと思ってます
ちゃんと理由をいいますね
米軍基地に依存してるからだよ
私の県は米軍基地追放したんだ
その跡地は世界で有名なネモフィラの丘ですよ
平和公園に変えたんだから偉いもんですよ
お前らも追い出せ
自衛隊と市民軍で守れないなら愛国名乗るなよ
進次郎に言ってるんだが
私の親戚に新渡戸稲造って人がいる
家系図みたら遠いところにいた
血は私に入ってないけども
この人は国連事務次長をしていたと書いてある
それで自分は思うんだが
事務総長しないと超えられない
だから私は日本の首相って雑魚だと思っている
ノーベル賞も雑魚だと思う
国連改革で常任理事国撤廃しよう
言っておくけど
欧米列強というか米英仏露なんて悪だからね
どこがかというと殖民侵略していた
あんなの正当化できるわけないんだから
クジラだって俺の地元まで来て採ってたんだから
それを戦争に勝ったから威張っているんですよ
常任理事国制度なんてぶっ壊せよ
全人類で話し合え
北朝鮮だけ虐めるな
外来魚はワルモノです
天皇が放したんじゃん
外来魚釣る都民がワルモノです
木村拓哉と糸井重里だろ
マザー2はいいけど
外来魚駆逐番組です
だからお前ら都民が放したんでしょ?
お前らが五輪のごみ不法に捨てに来るんでしょ
原発と廃棄物撒き散らしてるんでしょう?
外来種はワルモノです
天皇だよ
救世主コンプレックスをいだき原発推進
そして俺を殺すのがグレタの暴力なら
スウェーデン人の偽善を許してやるべきか
都合がいい東京都民は有頂天で
今日も福島を尻目に木を貼った競技場作り
CO2を死ぬほど排出しながら原発推進
お前など死んだらいいといいながら
魅力度差別で田舎に負担を押し付ける
鹿島が1位だやったー
したっけ安倍がね
強いから東京によこせだって
馬鹿なの
僕が小学生の時からいるんだけど
応援してたんだけど
お前Jリーグなめてんのか安倍晋三
温暖化悪玉論を正当化する為
国連ぐるみの少女キャンペーン
もういいから嘘は
真偽不明な複雑系を種に科学濫用
どっちともいえるから
温暖化の原因も結果の善悪も分からない
お前の女傑ごっこに付き合えと
そして工業国叩きですよ西洋人が
お前らが産業革命したんだろうが
この利己主義者どもが
ソドム衆愚がそれを求めるから
東京には公害が存在しません
極悪都民は他人を虐殺して平気だから
東京には生物倫理が存在しません
生き物は換金できると考えるから
東京では農民に感謝しません
田舎を差別し搾取自慢します
億ションでワイン飲むユーチューバーだから
何一つ美しいところなどない東京から
全国民全人類を騙し自画自賛の虚構をばらまく
挙句に原発で大量虐殺
川まで干あげて生き物殺し
淫行猥褻し放題の無法スラムで億ション自慢
それが上品だとのたまう税金収奪殺人邪教祖
最早笑えてくるよ
余りの暗愚さにね
自称首都合戦を京都とやって
差別していろ
魅力度最下位最下位レッテル貼って差別する
魅力のない人なんていない様に
お前に魅力をみいだす能力が欠けているだけだよ
他人と比べた魅力は本物の魅力じゃないの
お前は人を愛する能力が欠けているんですよ
お前とは日本人全員だよ
お前には差別の能力しかない
要するに下賤な人間なんだお前は
毎日の食卓を作ってくれている人
農民様ですよ
田舎は何もないと都会で金儲けしながらいう
馬鹿なのか
田んぼで米つくって下さってるだろうが
工場でお前の家や服作って下さったんだろうが
お前の金儲けはどうでもいい
卑しいだけ
食べ物と道具の作り手を差別する
都会あきんどの浪費自慢はうんざりだ
あの長野女は
冬の田んぼをみて何もない荒野だといった
じゃあ一生米食うな
遺伝子組み換え食品でもモンサントから買え
私はある夏に稲敷市を通りました
地平線まで稲穂で大いに感動しました
瑞穂の国といいました
今ではどうですか地平線までコンクリート砂漠
何がエライんだ東京の
反省し石食ってろ
原発は田んぼの真ん中に作りましょう
なにもないから
THE東京官僚はんがそうおっしゃる
東大で何を学んだんだこの馬鹿は
税金で何を学んでいたんだお前は
米を汚染し田畑を汚染し
野菜も卵も米も食えなくなってアメリカ頼り
馬鹿かお前は
いや正真正銘の馬鹿者である
烈公の農人形を食卓に置いて祈れ
ゴミを不法投棄にくるのも
車盗みにくるのも
バスだのブルーギルだの放したのも
お前ら東京人だよ馬鹿が
挙句の果てに川の生き物殺してやるという
全国の愚民に晒し物にして金儲けだという
てめーの金儲けなんざどうでもいいんだわ
生き物を平気でころす極悪犯罪者は失せろ
金儲け賄賂五輪を原発で搾取した金で開きます
つきましてはCO2大量に出しますのでご留意を
果ては廃棄物のたぐいは何もない田舎に不法投棄で
お米を汚染し野菜を汚染し生き物を汚染し
田舎者に全てのゴミをおしつけ万々歳でございます
さあ万歳三唱といきましょうか
天皇陛下万歳万歳万歳
酒を飲みます
わたしはね
田舎には何もないといってる都民の
その頭の中身が空っぽと知っているの
確かに東京にはなにもないよ
ムだよ無
空虚すぎて笑えるくらいだよ
自然破壊の悪意しかないし
生き物をゴミだと思ってるし
暴力でうずまっているし
卑しい性売買罪人しかいないし
そこに電気なんて卸すな
悪用される
じゃあ教えてあげますよ
東京都民の頭の中身は卑しい差別心で一杯
中心に鎮座する渡来人がそれだもん
先住日本人を差別して1300年
何をしてきたと思うの彼ら
邪教で洗脳して大量虐殺
中華皇帝ぶって税を貪り淫行三昧ですよ
そんなのが威張ってる野蛮な国なんだ日本は
東京も京都もエラクナイ
差別の塊
いいか茨城人ども
我々は民放なんていらねーんだわ
みてみろ東京のテレビ
とんでもねえ嘘ばっか流して差別三昧
愚民洗脳の装置なんてない方がいい
そのせいで偏見でみられても
嘘ニュースで愚民騙すよりずっといい
みていろ東京のテレビに洗脳された衆愚を
全員地獄堕ちのレミングス
真理を自ら探せ
僕が子供の頃
山の中にある農業用水の溜め池の沼
既にブルーギルがいた
ルアー垂らすとすぐ食いついてきた
あれがフナを殺して
生態系をぶっ壊してきた存在なのは
どうみても日本的じゃない棘姿でよくわかった
だが渡来人天皇はんが流したんですよ
東京から
馬鹿なのかお前らは
自作自演してんじゃねえ
生き物殺し放題
なぜなら私は都民ですから
田舎を差別し放題
なぜなら私は京都ですから東京ですから
なぜなら私は皇族ですから
ワタシガエライ
お前ら土民は税金貢げ
ワタシタチトライジンガエライ
お前ら先住人は奴隷だ
神道崇めて中華皇帝を祭れ
THE日本政府様に従え
そして公害原発で電気よこせよ
科学はエライ
原爆でヒロシマ・ナガサキを殺戮できたから
科学はエライ
原発でフクシマを殺戮できたから
科学はエライ
炭疽菌でイラクを殺戮できたから
科学はエライ
学歴で他人を差別できるから
科学はエライ
理想でしかない道徳を馬鹿にできるから
科学はエライ
全生命体を絶滅させられるから
田舎にゴミを不法投棄して五輪施設を作り金を儲けます
それが東京都民たる誇りです
悪のために生きてます
ついでに原発まで田舎に押しつけ差別します
田舎に米卵肉魚服家具機械でも作らせ
自分達はそれを買い叩き高く売りつけます
そして億ション自慢で田舎者を睥睨します
理由は虚栄心の塊だからです
私は金があるからエライです
東京都民で金持ってるからエライ
空威張りしかできないからエライ
中身は空っぽで群れてるからエライ
なんにも考えずアニメみてるからエライ
金があるふりしてるからエライ
私はとにかくエライんです
なぜなら東京様ですから
門地差別が好きでしょう?
エライもんはエライ
イギリスの王室なんて
ドイツだかフランスから来た侵略者でしょ
日本の皇室なんて
中国だか南北朝鮮から来た侵略者でしょ
威張り散らす道理がない
謙虚ぶって税金収奪し自己神格化の儀式です
いいですよそんなの
家のない人に食べ物配ってくださいよ
私は全資産34万しかないです
消費税とるの楽しいか
あんたら田舎者なんてね
はっきりいって我々大都会東京横浜人からいうと
みんな死んでも平気なんですよ
食べ物ならアメリカ様から直輸入し
東北だの茨城だの新潟なんて潰せばいいと
だれもいわないけど思ってんですよ皇室政府様は
アメリカ様とお前ら田舎者とどっちが強い?
暴力と金
これが全てなので
お前ら田舎者に原発おしつけてる訳?
そりゃエゴイズムですよ
東京人の私さえよければいい
神奈川人の私さえよければいい
千葉人の私さえよければいい
埼玉人の私さえよければいい
当たり前でしょ?
茨城なんざどうでもいい
新潟なんざどうでもいい
青森なんざどうでもいい
福島なんざどうでもいい
自分のことしか考えていない東京人
だがテレビとユーチューブで洗脳
一発で関西だか東北だかの田舎者だませる
余裕っしょ?
金さえあればメディアでだませるんだから
アホなガキ向けユーチューバー使えばいい
億ションでゴキブリと格闘すればいい
猫動画でいい人ごっこ
皇室動画の背景にクラシックです
東京のねしょぼい雑居ビル2階あたりから
社員数人でね疑似統計とるの
そしてね全国民だます魅力度差別するの
田舎にゃなんにもないってねいって
米と野菜と肉と魚奪うの
それがね東京人になりすました福井人なの
渋谷で働くのね社長なの
金儲けなの
偉いでしょ神でしょ
メディアでね洗脳するの
馬鹿を
ああグレタは偉いね
二酸化炭素が温室効果ガスだって建前で
学校行かなくていいしユタボンよりいいよ
子供虐めの義務教育なんざ消えていいんだから
田舎虐めの大都会なんざ消えていいんだから
あんたら偉い偉い
ああ偉いグレタユタボンを神と思おう
そうすれば救われるんだから
原発で殺されるんだから
最近オタクがね
良きよきっていうの気持ち悪い
よきって体言必要でしょ連体形なんだから
よき何?
オタク女が良きよきいうの
秋葉原でねいうの
しかもなんか発情していうのね二次元偶像に
あと尊いってオタ語も気持ち悪い
だって全然卑しいのにいうんだもん
あの人らね尊卑みわけられないの馬鹿だもん
わたしはね
イケメンとかいった時点でその女を軽蔑している
それは下品な東京語ですよ
もっというと渋谷ギャル語だろ?
イケてるメンズってメンで複数形だから
イケてる男物って意味だから英語で
馬鹿なの
まあそれはいいとしても見た目で人を判断するな
見た目だけの下衆に発情交尾してる下衆は失せろ
ベトナムは偉いなあ
アメリカに戦争で勝ったからじゃなくて
アメリカに唯々諾々と従わなかったからだ
山口県民ってなんなの
水戸学教えてやったら徳川裏切りやがった
それはまあゆるしてやるとして
東北北海道沖縄荒らして東アジア中荒らして
今度はアメリカに臣従ですよ
根性なしどもが
私は神奈川人は雑魚だと思ってます
ちゃんと理由をいいますね
米軍基地に依存してるからだよ
私の県は米軍基地追放したんだ
その跡地は世界で有名なネモフィラの丘ですよ
平和公園に変えたんだから偉いもんですよ
お前らも追い出せ
自衛隊と市民軍で守れないなら愛国名乗るなよ
進次郎に言ってるんだが
私の親戚に新渡戸稲造って人がいる
家系図みたら遠いところにいた
血は私に入ってないけども
この人は国連事務次長をしていたと書いてある
それで自分は思うんだが
事務総長しないと超えられない
だから私は日本の首相って雑魚だと思っている
ノーベル賞も雑魚だと思う
国連改革で常任理事国撤廃しよう
言っておくけど
欧米列強というか米英仏露なんて悪だからね
どこがかというと殖民侵略していた
あんなの正当化できるわけないんだから
クジラだって俺の地元まで来て採ってたんだから
それを戦争に勝ったから威張っているんですよ
常任理事国制度なんてぶっ壊せよ
全人類で話し合え
北朝鮮だけ虐めるな
外来魚はワルモノです
天皇が放したんじゃん
外来魚釣る都民がワルモノです
木村拓哉と糸井重里だろ
マザー2はいいけど
外来魚駆逐番組です
だからお前ら都民が放したんでしょ?
お前らが五輪のごみ不法に捨てに来るんでしょ
原発と廃棄物撒き散らしてるんでしょう?
外来種はワルモノです
天皇だよ
救世主コンプレックスをいだき原発推進
そして俺を殺すのがグレタの暴力なら
スウェーデン人の偽善を許してやるべきか
都合がいい東京都民は有頂天で
今日も福島を尻目に木を貼った競技場作り
CO2を死ぬほど排出しながら原発推進
お前など死んだらいいといいながら
魅力度差別で田舎に負担を押し付ける
鹿島が1位だやったー
したっけ安倍がね
強いから東京によこせだって
馬鹿なの
僕が小学生の時からいるんだけど
応援してたんだけど
お前Jリーグなめてんのか安倍晋三
温暖化悪玉論を正当化する為
国連ぐるみの少女キャンペーン
もういいから嘘は
真偽不明な複雑系を種に科学濫用
どっちともいえるから
温暖化の原因も結果の善悪も分からない
お前の女傑ごっこに付き合えと
そして工業国叩きですよ西洋人が
お前らが産業革命したんだろうが
この利己主義者どもが
マッチポンプの生物虐殺東京都民
川干上げて殺した魚や色んな生き物の生涯無視して映さずゴミ出てキタネーさすが魅力度最下位っていいたいだけだろ偏見の塊の極悪東京テレビ局差別主義大量虐殺罪人ども
アダルトビデオに出ている素人と称する下賤な東京女の甚だしい淫行ぶりには心底うんざりする
金儲けで同類を貪るしか頭にない邪悪な都民のエゴで生き物の大量虐殺を晒し者にするために川を干上げるとほざく動物倫理を完全に破壊する蛮行の番組は今すぐ潰れろ極悪人ども
川の魚ではなく東京都民が絶滅した方がどれだけ生き物全体が救われることか原発ばらまき川から水を抜き大量虐殺しかしない極悪衆愚が
わたすぅは都会人ですので生き物の命の価値なんてわかりませんので川なんて水抜いて外来魚駆逐ぶってりゃそこにどんなタガメが生きてようがしったこっちゃねーですのでスポンサー大企業からの金なくっちゃいきていけねーですのでいなかのひとにゃ悪いがどうかしんでけろお魚さんだち
悪ふざけ東京都民が生き物を殺して映すゴミ捨て嘲笑
大都会生き物殺しゴキ殺しカラス殺して鼠とコンビニ
身売りして金を貪る東京人生き物殺し原発ばらまく
東京人外来魚放しマッチポンプ金儲けのため生き物虐殺
アダルトビデオに出ている素人と称する下賤な東京女の甚だしい淫行ぶりには心底うんざりする
金儲けで同類を貪るしか頭にない邪悪な都民のエゴで生き物の大量虐殺を晒し者にするために川を干上げるとほざく動物倫理を完全に破壊する蛮行の番組は今すぐ潰れろ極悪人ども
川の魚ではなく東京都民が絶滅した方がどれだけ生き物全体が救われることか原発ばらまき川から水を抜き大量虐殺しかしない極悪衆愚が
わたすぅは都会人ですので生き物の命の価値なんてわかりませんので川なんて水抜いて外来魚駆逐ぶってりゃそこにどんなタガメが生きてようがしったこっちゃねーですのでスポンサー大企業からの金なくっちゃいきていけねーですのでいなかのひとにゃ悪いがどうかしんでけろお魚さんだち
悪ふざけ東京都民が生き物を殺して映すゴミ捨て嘲笑
大都会生き物殺しゴキ殺しカラス殺して鼠とコンビニ
身売りして金を貪る東京人生き物殺し原発ばらまく
東京人外来魚放しマッチポンプ金儲けのため生き物虐殺
2019年9月28日
虐殺の都民
金貪り原発ばらまき犯罪し差別で驕る虐殺の都民
ヤゴトンボメダカにタガメカエル殺しテレビ企画とほざく虐殺の都民
生き物を殺して金金ほざく都民視聴率かせぎ虐殺にくる
邪悪なる天皇放した外来魚駆除してやると虐殺する都民
外来魚放したのはお前ら都民だろう今度は更に虐殺にくると
極悪の都民がほざく何もない生物生きる自然を破壊す
極悪の都民がほざく何もない河川で暮らす生物虐殺
極悪の都民がほざく何もない田舎で暮らす日本人虐殺
極悪の都民がほざく何もない地方で暮らす国民収奪
極悪の都民が今日も下衆どもで性売買罪犯し少子化
極悪の都民が今日も天皇と魚殺しで金を貪る
金儲けするため五輪招致して原発稼働命じる東京
電気代ケチる為なら田舎者殺し田畑汚染する都民
浅ましき皇族どもと原発で税金収奪自慢する都民
浅ましき東京都知事と原発で五輪代金貪る醜態
東電の株や日本原電で田舎を収奪貪る東京
東京の悪業三昧みながらに悪事に加担す卑しき南関
横浜にたかって東京の悪事援護しまくる共犯
千葉にたかり東京の悪事援護しまくる共犯
埼玉にたかる東京の悪事援護しまくる共犯
栃木たかり東京の悪事援護しまくる共犯
群馬たかり東京の悪事援護しまくる共犯
首都圏で東京の悪事援護しまくる共犯
悪友と縁を切るべし東京の公害見逃す即ち犯罪
原発をばらまく東京即罪人公害止めぬ者も共犯
ヤゴトンボメダカにタガメカエル殺しテレビ企画とほざく虐殺の都民
生き物を殺して金金ほざく都民視聴率かせぎ虐殺にくる
邪悪なる天皇放した外来魚駆除してやると虐殺する都民
外来魚放したのはお前ら都民だろう今度は更に虐殺にくると
極悪の都民がほざく何もない生物生きる自然を破壊す
極悪の都民がほざく何もない河川で暮らす生物虐殺
極悪の都民がほざく何もない田舎で暮らす日本人虐殺
極悪の都民がほざく何もない地方で暮らす国民収奪
極悪の都民が今日も下衆どもで性売買罪犯し少子化
極悪の都民が今日も天皇と魚殺しで金を貪る
金儲けするため五輪招致して原発稼働命じる東京
電気代ケチる為なら田舎者殺し田畑汚染する都民
浅ましき皇族どもと原発で税金収奪自慢する都民
浅ましき東京都知事と原発で五輪代金貪る醜態
東電の株や日本原電で田舎を収奪貪る東京
東京の悪業三昧みながらに悪事に加担す卑しき南関
横浜にたかって東京の悪事援護しまくる共犯
千葉にたかり東京の悪事援護しまくる共犯
埼玉にたかる東京の悪事援護しまくる共犯
栃木たかり東京の悪事援護しまくる共犯
群馬たかり東京の悪事援護しまくる共犯
首都圏で東京の悪事援護しまくる共犯
悪友と縁を切るべし東京の公害見逃す即ち犯罪
原発をばらまく東京即罪人公害止めぬ者も共犯
在来種も外来種も侵略虐殺の東京明仁殿
外来種放して今度は駆除という東京
外来種釣りにき今度はころす都民
他県の川壊し威張れる都民ども
他県へとゴミを捨てける都民ども
他県へと原発置きける邪悪都民
在来種ころして天皇名乗るかな
外来魚放して上皇名乗るかな
在来種ころして侵略上皇殿
下水五輪福島よごしつ賄賂配る
外来種釣りにき今度はころす都民
他県の川壊し威張れる都民ども
他県へとゴミを捨てける都民ども
他県へと原発置きける邪悪都民
在来種ころして天皇名乗るかな
外来魚放して上皇名乗るかな
在来種ころして侵略上皇殿
下水五輪福島よごしつ賄賂配る
東京大量虐殺民族
東京だの横浜だので生まれ育った人間は
川をドブだと思って生まれて死ぬので
そこに生きているいろんな生物を
テレビ局が金儲けの為殺しまくるのを
なんとも感じないらしい
ヤゴを殺し
アメンボを殺し
メダカを殺し
ブラックバスを殺し
フナを殺し
下衆な南関蛮族の視聴率を稼ぐ屑どもが
全員極悪人だ
糸井重里や木村拓哉が
バス釣りだといって霞ヶ浦にきて
明仁がブルーギルを全国に放流した
東京だの横浜だののドブ川で
下水同然の川で生まれ育ち
外来魚をもちこんできた南関蛮族が
今度はテレビで大量絶滅の様子を撮るという
心底下劣な連中だ
毎度のことながら犯罪者どもが
原発の次は川の生物虐殺
金欲しさに
都内大企業から広告費をもらう為
品性下劣な衆愚に媚びを売るテレビ都民
その代わり他県の市を唆し
川の生き物を大量死させようとはかる
最低最悪の極悪虐殺民族東京都民
普段から金のため汚い淫行ばかりし
恥と罪を売りまくり原発をばらまく
遂には生き物を直接殺しにくるとは
神の裁きを
東京の東電・日本原電原発で
日本人を大量虐殺
東京下水五輪で
世界中の選手を病気にさせ
今度は東京のテレビ局が
ブルーギルばらまいた極悪天皇と一緒になって
川の生物を全滅させるつもり
果てしなく汚い東京
果てしなく邪悪な東京
金を貪り驕り高ぶる巨悪の衆愚
一刻も早く神が天罰を与えて欲しい
いいですか金儲けの為なら
川なんて幾らでも潰していい
そこに生きている生物なんて
外来魚駆除の言い訳で皆殺しでいい
スポンサーの大企業とつるんで
田舎者騙して金回し合ってりゃいい
それがTHE東京都民でっせ
いいかお前ら生き物なんてどうでもいい
田舎なんて潰せばいい
原発で天皇陛下万歳といえ
金の為ならどんなに大量虐殺しても
誰も文句などいわない
トランプ様に安倍様に明仁様をみよ
ブルーギルも放流し放題
外来魚駆逐の体面でマッチポンプ虐殺放題
全部東京のテレビで視聴率稼ぎだから
金儲け税金収奪も贅沢代だから
それが大和王朝で外来種の自称天皇だから
わかったら在来種は駆逐されろ
川をドブだと思って生まれて死ぬので
そこに生きているいろんな生物を
テレビ局が金儲けの為殺しまくるのを
なんとも感じないらしい
ヤゴを殺し
アメンボを殺し
メダカを殺し
ブラックバスを殺し
フナを殺し
下衆な南関蛮族の視聴率を稼ぐ屑どもが
全員極悪人だ
糸井重里や木村拓哉が
バス釣りだといって霞ヶ浦にきて
明仁がブルーギルを全国に放流した
東京だの横浜だののドブ川で
下水同然の川で生まれ育ち
外来魚をもちこんできた南関蛮族が
今度はテレビで大量絶滅の様子を撮るという
心底下劣な連中だ
毎度のことながら犯罪者どもが
原発の次は川の生物虐殺
金欲しさに
都内大企業から広告費をもらう為
品性下劣な衆愚に媚びを売るテレビ都民
その代わり他県の市を唆し
川の生き物を大量死させようとはかる
最低最悪の極悪虐殺民族東京都民
普段から金のため汚い淫行ばかりし
恥と罪を売りまくり原発をばらまく
遂には生き物を直接殺しにくるとは
神の裁きを
東京の東電・日本原電原発で
日本人を大量虐殺
東京下水五輪で
世界中の選手を病気にさせ
今度は東京のテレビ局が
ブルーギルばらまいた極悪天皇と一緒になって
川の生物を全滅させるつもり
果てしなく汚い東京
果てしなく邪悪な東京
金を貪り驕り高ぶる巨悪の衆愚
一刻も早く神が天罰を与えて欲しい
いいですか金儲けの為なら
川なんて幾らでも潰していい
そこに生きている生物なんて
外来魚駆除の言い訳で皆殺しでいい
スポンサーの大企業とつるんで
田舎者騙して金回し合ってりゃいい
それがTHE東京都民でっせ
いいかお前ら生き物なんてどうでもいい
田舎なんて潰せばいい
原発で天皇陛下万歳といえ
金の為ならどんなに大量虐殺しても
誰も文句などいわない
トランプ様に安倍様に明仁様をみよ
ブルーギルも放流し放題
外来魚駆逐の体面でマッチポンプ虐殺放題
全部東京のテレビで視聴率稼ぎだから
金儲け税金収奪も贅沢代だから
それが大和王朝で外来種の自称天皇だから
わかったら在来種は駆逐されろ
地上の浄化
私は全人類の亡びを求めている
なぜなら私は人が嫌いだから
人類の善良さなど先ずみたことがない
邪悪な拝金生物など消えた方が良い
東京関西愛知仙台
威張り散らして金を貪る連中を
一から十まで見たがなんの徳もない
虫けらよりずっと卑しい
邪悪な人類がいなくなれば
どれだけ地上が浄化されよう
なぜなら私は人が嫌いだから
人類の善良さなど先ずみたことがない
邪悪な拝金生物など消えた方が良い
東京関西愛知仙台
威張り散らして金を貪る連中を
一から十まで見たがなんの徳もない
虫けらよりずっと卑しい
邪悪な人類がいなくなれば
どれだけ地上が浄化されよう
正義の影
お前は正義
だからお前は破れない
脱構築すらされない
あらゆる人の上で輝く北極星
だがお前は孤独の余り
だれも仲間がいない
俗悪で衆愚な世俗の真上で
至善にとどまり続けている
だがいずれお前は嘘に塗り固められ
人の世にそしられる
お前こそ正義
永遠に敗れない真理
私はともし火
お前の影
だからお前は破れない
脱構築すらされない
あらゆる人の上で輝く北極星
だがお前は孤独の余り
だれも仲間がいない
俗悪で衆愚な世俗の真上で
至善にとどまり続けている
だがいずれお前は嘘に塗り固められ
人の世にそしられる
お前こそ正義
永遠に敗れない真理
私はともし火
お前の影
東京の魚殺し番組
東京の下衆なあきんど金儲け魚殺して威張り散らせる
俗受けの拝金テレビ流すため魚殺して威張る東京
道の駅かねをむさぼり魚殺す卑しき東京都民のテレビ局
驕りける東京都民が今日もまた命奪いて大衆を騙す
大量の命奪いて驕りける卑しき都民天罰下るべし
外来魚放し貪る天皇家東京都民は斯くも浅まし
中華思想東京都民が今日も驕りカネが欲しさに生き物殺せる
原発をばらまきカネを貪れる東京テレビで田舎を差別す
下劣なる東京都民がカネ欲しさ生き物殺す蛮行に驕る
わが県へ原発ばらまき犯罪し命殺してごみ捨てる都民
浅ましき原発都民を絶滅し外来魚救う神ぞ祈れる
俗受けの拝金テレビ流すため魚殺して威張る東京
道の駅かねをむさぼり魚殺す卑しき東京都民のテレビ局
驕りける東京都民が今日もまた命奪いて大衆を騙す
大量の命奪いて驕りける卑しき都民天罰下るべし
外来魚放し貪る天皇家東京都民は斯くも浅まし
中華思想東京都民が今日も驕りカネが欲しさに生き物殺せる
原発をばらまきカネを貪れる東京テレビで田舎を差別す
下劣なる東京都民がカネ欲しさ生き物殺す蛮行に驕る
わが県へ原発ばらまき犯罪し命殺してごみ捨てる都民
浅ましき原発都民を絶滅し外来魚救う神ぞ祈れる
ガウス少年は本当のところどんな数列をどんな解法で解いたのか
(ガウスが瞬時に解いたとされる等差数列の逸話について)
○●
○●●
○○●
○●●●
○○●●
○○○●
…
こんな感じでピタゴラス学派は、三角数の小石並べからn(n+1)/2と自然数の和の一般式を導いたと学んだんだけど、ウィキ調べ直したら、ガウスの伝記創作によるので、逸話の原典では出題された等差数列の詳細や解法はわからないと書いてありました。
ガウスを文化英雄化し、少年を勇気づける物語の為に、色んな逸話が創作されてきた、とこの論文筆者は考えている模様。
実際はどうだったのか?
○●
○●●
○○●
○●●●
○○●●
○○○●
…
こんな感じでピタゴラス学派は、三角数の小石並べからn(n+1)/2と自然数の和の一般式を導いたと学んだんだけど、ウィキ調べ直したら、ガウスの伝記創作によるので、逸話の原典では出題された等差数列の詳細や解法はわからないと書いてありました。
Brian Hayes “Gauss's Day of Reckoning--A famous story about the boy wonder of mathematics has taken on a life of its own” (American Scientist, 3 (Scientific Research Society) 2006) の調査結果によれば、文献で逸話の原典と思われるWolfgang Sartorius von Waltershausenによる伝記 "Gauss zum Gedächtniss"に、出題された等差数列の項の具体的な値やガウスの解法の詳細については記述されていない。 ――カール・フリードリヒ・ガウス該当論文を辿ると、伝記の系譜によって途中でこの逸話の数列が出現していて、複数解法のバリエーションがあるとされている。
ガウスを文化英雄化し、少年を勇気づける物語の為に、色んな逸話が創作されてきた、とこの論文筆者は考えている模様。
実際はどうだったのか?
Why you have to be vanish Tokyo from the earth sadly
(Tweets for Ms. Greta Thunberg)
Hi, Ms. Greta. I'm a Japanese poor painter.
I must say you a sad thing.
At first, I hope that Tokyo should be vanish from this earth.
Because the part of Tokyo people are trying to restart a nuclear power plant to earn money greedy.
I am living in neighbor Fukushima, I have experienced a very scary nuclear accident.
But they, Tokyo people had never reflected on their power plant pollution.
The power plant has been placed on far from their city.
This is an egoism of the metropolitan.
You said that the capitalism was evil, on UN.
However, the nuclear power plant is also evil. This is a truth on my pollution environment experience.
You said we must change to stop CO2 emission.
However, if you want to stop it on our Japan, you have to force mass killing for the nuclear power plant incidents.
Our Japan has many big earthquakes or tsunamis, other natural disasters. Those bring new fatal incident on the nuclear power plants. We will die for the effort decreasing CO2 emission only.
I wish to stop the mass killing by the nuclear power plant's company in Tokyo, but maybe, you will disturb it.
Of course, our contexts are very different.
Of course, I have appealed to stop the nuclear power plant of the Tokyo companies, but Tokyo people have never listened me. They are very greed justly.
At end, I must say, if you hope to stop CO2 emission, you would shall change to be vanish Tokyo from the earth.
If you cannot do so, not your will, CO2 emission decreasing ideology does mass killing on Japanese. Including me.
For this point of view I said, this was a sad thing.
(If you have never known about the names, Tokyo is a capital metropolis name, in a far East islands. Japan is a state name of the islands. I am living in the main island, most far East part)
Hi, Ms. Greta. I'm a Japanese poor painter.
I must say you a sad thing.
At first, I hope that Tokyo should be vanish from this earth.
Because the part of Tokyo people are trying to restart a nuclear power plant to earn money greedy.
I am living in neighbor Fukushima, I have experienced a very scary nuclear accident.
But they, Tokyo people had never reflected on their power plant pollution.
The power plant has been placed on far from their city.
This is an egoism of the metropolitan.
You said that the capitalism was evil, on UN.
However, the nuclear power plant is also evil. This is a truth on my pollution environment experience.
You said we must change to stop CO2 emission.
However, if you want to stop it on our Japan, you have to force mass killing for the nuclear power plant incidents.
Our Japan has many big earthquakes or tsunamis, other natural disasters. Those bring new fatal incident on the nuclear power plants. We will die for the effort decreasing CO2 emission only.
I wish to stop the mass killing by the nuclear power plant's company in Tokyo, but maybe, you will disturb it.
Of course, our contexts are very different.
Of course, I have appealed to stop the nuclear power plant of the Tokyo companies, but Tokyo people have never listened me. They are very greed justly.
At end, I must say, if you hope to stop CO2 emission, you would shall change to be vanish Tokyo from the earth.
If you cannot do so, not your will, CO2 emission decreasing ideology does mass killing on Japanese. Including me.
For this point of view I said, this was a sad thing.
(If you have never known about the names, Tokyo is a capital metropolis name, in a far East islands. Japan is a state name of the islands. I am living in the main island, most far East part)
日本画と洋画、現代美術の間にある様式的混乱の系統分析
(「印象派を褒めつつ現役の極貧前衛画家に一円も支援しない日本人は正真正銘の俗物」の続き)
この主題について補足で続けて書きますが(自分以外、この宇宙で誰も書かないだろうから、多分、茂木さん含め誰かの役に立つでしょう)、黒田清輝は、今日に至るまでの東京芸大及びそこをとりまく東京画壇に、二重のねじれを生じさせた。
第一に彼が直輸入したのは当時パリで流行していた印象派の方ではなくて、寧ろボザール(芸大)流の官学風の写実作風だった(ボザール教授になったラファエル・コランに師事したのが影響しているらしい)。それで黒田は、薩長藩閥を背景に、前小論で出した芸大内政争で天心排斥の台風の目になって、いまだに残る洋画と日本画の分裂を招いたばかりか、悪名高いというべきでしょう石膏デッサンの「THE受験勉強」みたいなのを真似させた(自分もやりまくらされた)。
芸大の方はというと、黒田らの模範にしたボザールと同じで、流行についていけないばかりかそれへ反動的な(いわば足を引っ張る)役割を果たす、保守派と権威づけのガラパゴス同業組合みたいになっていく。
が戦時中に西洋から米国へ亡命した画家らにより、主要美術界が米国へ移り、彼我の落差は敗戦を経て極端になりすぎたのもあるんだろうけど、東京芸大には先端芸術表現科なるものが設えられたわけでしょ。(ここはここで相当な有様というか、要は仮設美術(インスタレーション)派がはびこってから悪い意味でも正になんでもありで、ここで深く立ち入らない)それで似非前衛が他科にも伝染し、例えば小磯良平なんかに典型化されていた旧写実画的なガラパゴス古典性(それも黒田通じコランの影響を受けたので疑似古典派みたいなので、イギリスのラファエル前派みたくルネサンスに範をとるようなある種の正格ではない)は段々肩身が狭くなっていく。
で。僕が芸大受験した頃は、村上隆らサブカルの影響受けた(ここでは大雑把な立論の立場なので、まとめて語られることがある奈良美智さんには、この点で異論があるでしょうが)表現をしていた人達まで登場し、この混乱が最頂点に達していた。講師は全然指導できていなかった。何を教えていいかわからない状態で、立場上偉そうに虐めてくるのだから始末に負えない。
つまり、黒田が芸大洋画科に移植した代物は、コラン流フランス芸大(ボザール)風の疑似古典様式だった影響で、そこを巣立った佐伯祐三なんて、当時のパリにいって野獣派のブラマンクから「アカデミック!」と罵倒され、アイデンティティ喪失まで経験している。印象派的構図を彼我2倍にしてある。
黒田が明治画壇に藩閥政治を持ち込んだ歪みは今日に至るまで全国公募展・会派全体に影響を与え、そもそも日本人が日本で描いたら日本画でしょ、なる素材論様式論の矛盾をずっと抱え込んだまま、洋画なる異様な分類(写実風疑似古典もどきしか認められない完全ガラパゴス世界)がまだ現役なんですよ。
茂木さんは以前、日展を頂点とする官学風画壇を「ダサい(田舎い)」、世間知らずでガラパゴス化した欧米美術(特に最近は米英)の流行についていけていない上に、サブカル比で独自性もない紛い物として、かなりきつい言葉で非難を加えていた。この第一原因が、既に黒田と印象派の逆ベクトルにある。
第二に、天心はどうだったかというと、黒田より先にフェノロサと欧米美術館巡りをやって、当時の彼の記述を読むと欧米美術は表面的な代物、精神の気韻を表現できている点で、大和絵を規範とする日本画(浮世絵ではない)の方が優れた点が多いと見なした。これはよく考えるべきことで一理も二理もある。
なぜそういえるかなら、当時の西洋画は元々古代ギリシア(日本でいえば縄文土器みたいな)の神像に範をとる裸体画の解釈から、結構入り組んだ論争に入り込んでいて、マネ『オランピア』は娼婦をそうとわかるよう描き公募展に出品されているのだが、様式は神話画風でもあるからスキャンダルになったと。元々、フランスのサロン・ド・パリ(仏王立絵画彫刻アカデミー主催の公募展、官展)で古代ギリシア風の裸像を鑑賞する時の審美感は、女性への性的な目線か、それとも神々の物語への同一化した共感なのか、猥褻物論争を呼ぶ結果になっていた。
で、こういうマネの如何わしい行動を端緒に、上記の落選展とかセザンヌみたいな、パリ界隈なりフランスにいた画学生らの分裂がみられ、ルソーとかロマン派の人権思想とか自然・感情賛美を背景に、アトリエ(貧乏な画学生・若い画家らだったんで大概が屋根裏部屋でしょう)から外にでて即興で絵を描きつつ、田舎に引きこもったりして色んな画風を探求する若手が出てきたと。これらの凡そ全ての流れを天心はみて、いってみれば形式主義に過ぎないと考えたのでしょう。
この裸体画論争は、黒田がまあフランス・ボザール(芸大)かぶれといっていいでしょうが『智・感・情』などで日本にも直接もちこんできていて、更に事を複雑にしている。日本の場合は、女性の裸体を直接表現するのは浮世絵・春画など、今で言うサブカル的な領域の下品なことだったのだが裏返してしまった。
天心からみて、仏画、水墨画、大和絵、琳派といった日本画なるものの伝統は、黒田らボザール追随者とも、印象派ら当時の前衛西洋美術とも違い、内容主義というべき高貴な精神的主題を扱っていた。この美学は『東洋の理想』で語られていたわけで、西洋かぶれ明治政府と折り合わず在野に排斥されたと。この精神の表現を尊ぶ構図は、天心に師事した大観、春草、武山、観山、飛田周山(五浦に天心を直接案内した芸大生で画家)らの中で形をとり、空気を表現できないかといった天心の趣味に叶ういわゆる朦朧体を生み出し、天心死後に琳派をとりこみ、今日までの日本画の非形式主義の原型になったと。
そしてですよ、何を隠そう大観とか、上述の武山の絵をご覧に入れたらおわかりになりますよう、彼らは常陸(茨城)水戸徳川家による治世下の子ですので(他に下村観山も和歌山の出なので紀州徳川系の子です)、要するに武士道的な忠義で、水戸学的に、天皇、徳川旧将軍、日本に魂で仕えていたのです。まあ彼らは明治期に突入したから芸大入ってそこで魂の師として愛国心に燃える天心を仰ぎ、画家になったけど、大観や春草らは徳川体制が続いてたらお侍さんのままだったと。しかし黒田派は明治政府の権力使ってフランス芸大かぶれの裸体画とか偉そうにおしつけてきて、反りが合うはずもないわけですよ。
この構図は、和魂洋才みたいな型にはまった思考原理で、明治以前の日本の良い面をも一緒くたに否定しつつ、浅はかな薩長閥が西洋の表面だけまねしたといういつもの事例なのだけど(帝国主義まねた松陰の侵略思想だって、今に至るまで安倍政権として続いてるがそんなもんでしょ)、美術版でもあったと。
で、この第二のねじれというのは、日本画なるものと、洋画なるものの間にあるねじれなわけです。(第一のねじれは上述したよう、その洋画なるボザール(フランス芸大)流疑似古典風のガラパゴスなものと、欧米前衛美術とのねじれです)
更に副産物で日本画なるものと欧米前衛美術のねじれも生じる。
茂木さんが好きなイギリスにも、実はこの島国特有の、帝国的大陸文化の流行からの遅れなりずれやそれに応答した相克はあって、上述したラファエル前派は、少なくともそれで、イタリアルネサンスに対応した独自美学として生まれた。が、日本の美学の入り組み方というのは印象派辺りから凄まじい物があるのですよ(だからこそ前小論で書いた様、自分は現に前衛画家の悲劇の中で生きているのに加え、日本人一般が近代化の最初期に雑誌などで情報が入ってきたためTHE絵画だとすっかり思いこんでいる印象派を、単純に愉快がって綺麗だね、と楽しめない面もある)。
イギリス美術は、ずっと古代ギリシア、イタリア、そして近代フランスという西洋美術の大帝国からみて、ど田舎のペンペン草しか生えてないと見下される位置にあり、漱石だってターナーしかいないとかフランスいきゃよかったとか(これは余計だが)、美術における被差別的地位を認めていたわけですよ。そんで、大英帝国博物館だって、正直いって盗品ばっかり展示してあるわけで、そこにやっとラファエル前派がシェークスピアを描き、朦朧体みたいなターナーが出現し、サージェントが出てきて、隣国から変人(ベーコン、褒めている)が来て、賑やかになってきただけで、ターナー賞エラクないのです。
僕はターナー賞の展覧会を六本木ヒルズで昔みましたけど、確かに全然エラクなくてびっくりしたわけで、ハーストとカプーアしかいないくらいで、超マイナー作家の巣窟、イギリス人は貴族ぶってはいるが「芸術文化的に」閑散としてる田舎国なわけです。これは権威づけに英政府が創った素人操業の賞です。
ほんで、彼らはサザビーズとかクリスティーズみたいな、競売会社で有名になっているけれども、これだって美術文化全体から見たら如何物なんですよね。ここでは深く立ち入らないが。そういうのを揶揄してバンクシーがブリストルというさらなる田舎で騒いでいる状態だから、荒れ果てた国といってもいい。そんなロックで荒廃した国を、略奪経済沈没したからもうロックアート自慢しかやることないだけなのに、恥知らずにも漫画版で日本政府が「ルール・ブリタニア」の元ネタも知らず、クールジャパンっていいだした。あれは村上隆ならずとも恥ずかしいですしいまだに勘違いは京アニ系逆ひいきで続いている。
ここでいう京アニ系逆ひいきとは、浮世絵の逆ひいきと同じ構図で、遣隋使から始まる「外国(先進国)劣等感」のまんま、外人(戦争が強い国)が褒めたら便所紙(浮世絵です)でも礼賛するというやつで、ろくに知りもしないのに京アニは日本の誇りなんていいだしてしまう。ま黒田からなんの進歩もない。
ここで書いてみたのは、黒田清輝さんは別に極悪人でもなかったのかもしれないが、当時の先端だった印象派含む以後のエコール・ド・パリにまんじりとも直接学ぼうともせず、なぜかボザール(仏芸大)に習ってしまう上に、全てを悟っていた先輩格の天心さんを排斥運動する二重の愚行で、大混乱の礎ってこと。
最後につけくわえておくと、僕も田舎生まれだし都会暮らしの結果で田舎が好きなので、イギリス的な田舎好きに共感もするし(この点では埼玉・九州系で、思春期以後の東京かぶれが酷い茂木さんとは対立する思想的視座も毎度多いが)、フランスでも田舎美術が先端を切り拓いたし、都会礼賛ではないです。
(上図は水戸の徳川家を明治天皇が訪問した時の絵で、2代義公以来、皇室を神の如く仰いできた水戸家にとって、慶喜公の大政奉還後に尊皇心を確かめに来たのだ
なぜこの絵を日本画なるものの例に出したか。文脈論では、のちのオールオーバー様式とか、ミニマリズム要素とか、既に花鳥画や大和絵・琳派風の文脈上で形式的に先取りしているし、彼らの開発した朦朧体も枝の奥行きに生かしているわけで、内容もしっかりしていて、彼我に超越する立派な絵だからです。
私は実物は未見だが、質感論なり感覚論、精神論でいうと、国花でもある桜の、舞う鳥と祝うべき、明治の春の日の圧倒的な見事さを前にした明治帝が、「しかし目に見えない(尊皇の)魂の方が有り難いのだ」と歌われた場面で、その技巧を駆使した表現的美質を象徴的に否定するところまで描かれていると。まあ西洋画でも米国画でも、いいかえればこういう文学的・哲学的含意を含んだ象徴表現(イデアの表出)は、正に上記のラファエル前派以後なら、文脈とか無視してワイエスとか一部の人に片鱗しかみられない。後はデュシャン的形式主義の方に偏っているともいえる。その意味で、日本画にも傑出点はある)
この主題について補足で続けて書きますが(自分以外、この宇宙で誰も書かないだろうから、多分、茂木さん含め誰かの役に立つでしょう)、黒田清輝は、今日に至るまでの東京芸大及びそこをとりまく東京画壇に、二重のねじれを生じさせた。
第一に彼が直輸入したのは当時パリで流行していた印象派の方ではなくて、寧ろボザール(芸大)流の官学風の写実作風だった(ボザール教授になったラファエル・コランに師事したのが影響しているらしい)。それで黒田は、薩長藩閥を背景に、前小論で出した芸大内政争で天心排斥の台風の目になって、いまだに残る洋画と日本画の分裂を招いたばかりか、悪名高いというべきでしょう石膏デッサンの「THE受験勉強」みたいなのを真似させた(自分もやりまくらされた)。
芸大の方はというと、黒田らの模範にしたボザールと同じで、流行についていけないばかりかそれへ反動的な(いわば足を引っ張る)役割を果たす、保守派と権威づけのガラパゴス同業組合みたいになっていく。
が戦時中に西洋から米国へ亡命した画家らにより、主要美術界が米国へ移り、彼我の落差は敗戦を経て極端になりすぎたのもあるんだろうけど、東京芸大には先端芸術表現科なるものが設えられたわけでしょ。(ここはここで相当な有様というか、要は仮設美術(インスタレーション)派がはびこってから悪い意味でも正になんでもありで、ここで深く立ち入らない)それで似非前衛が他科にも伝染し、例えば小磯良平なんかに典型化されていた旧写実画的なガラパゴス古典性(それも黒田通じコランの影響を受けたので疑似古典派みたいなので、イギリスのラファエル前派みたくルネサンスに範をとるようなある種の正格ではない)は段々肩身が狭くなっていく。
で。僕が芸大受験した頃は、村上隆らサブカルの影響受けた(ここでは大雑把な立論の立場なので、まとめて語られることがある奈良美智さんには、この点で異論があるでしょうが)表現をしていた人達まで登場し、この混乱が最頂点に達していた。講師は全然指導できていなかった。何を教えていいかわからない状態で、立場上偉そうに虐めてくるのだから始末に負えない。
つまり、黒田が芸大洋画科に移植した代物は、コラン流フランス芸大(ボザール)風の疑似古典様式だった影響で、そこを巣立った佐伯祐三なんて、当時のパリにいって野獣派のブラマンクから「アカデミック!」と罵倒され、アイデンティティ喪失まで経験している。印象派的構図を彼我2倍にしてある。
黒田が明治画壇に藩閥政治を持ち込んだ歪みは今日に至るまで全国公募展・会派全体に影響を与え、そもそも日本人が日本で描いたら日本画でしょ、なる素材論様式論の矛盾をずっと抱え込んだまま、洋画なる異様な分類(写実風疑似古典もどきしか認められない完全ガラパゴス世界)がまだ現役なんですよ。
茂木さんは以前、日展を頂点とする官学風画壇を「ダサい(田舎い)」、世間知らずでガラパゴス化した欧米美術(特に最近は米英)の流行についていけていない上に、サブカル比で独自性もない紛い物として、かなりきつい言葉で非難を加えていた。この第一原因が、既に黒田と印象派の逆ベクトルにある。
第二に、天心はどうだったかというと、黒田より先にフェノロサと欧米美術館巡りをやって、当時の彼の記述を読むと欧米美術は表面的な代物、精神の気韻を表現できている点で、大和絵を規範とする日本画(浮世絵ではない)の方が優れた点が多いと見なした。これはよく考えるべきことで一理も二理もある。
なぜそういえるかなら、当時の西洋画は元々古代ギリシア(日本でいえば縄文土器みたいな)の神像に範をとる裸体画の解釈から、結構入り組んだ論争に入り込んでいて、マネ『オランピア』は娼婦をそうとわかるよう描き公募展に出品されているのだが、様式は神話画風でもあるからスキャンダルになったと。元々、フランスのサロン・ド・パリ(仏王立絵画彫刻アカデミー主催の公募展、官展)で古代ギリシア風の裸像を鑑賞する時の審美感は、女性への性的な目線か、それとも神々の物語への同一化した共感なのか、猥褻物論争を呼ぶ結果になっていた。
で、こういうマネの如何わしい行動を端緒に、上記の落選展とかセザンヌみたいな、パリ界隈なりフランスにいた画学生らの分裂がみられ、ルソーとかロマン派の人権思想とか自然・感情賛美を背景に、アトリエ(貧乏な画学生・若い画家らだったんで大概が屋根裏部屋でしょう)から外にでて即興で絵を描きつつ、田舎に引きこもったりして色んな画風を探求する若手が出てきたと。これらの凡そ全ての流れを天心はみて、いってみれば形式主義に過ぎないと考えたのでしょう。
この裸体画論争は、黒田がまあフランス・ボザール(芸大)かぶれといっていいでしょうが『智・感・情』などで日本にも直接もちこんできていて、更に事を複雑にしている。日本の場合は、女性の裸体を直接表現するのは浮世絵・春画など、今で言うサブカル的な領域の下品なことだったのだが裏返してしまった。
天心からみて、仏画、水墨画、大和絵、琳派といった日本画なるものの伝統は、黒田らボザール追随者とも、印象派ら当時の前衛西洋美術とも違い、内容主義というべき高貴な精神的主題を扱っていた。この美学は『東洋の理想』で語られていたわけで、西洋かぶれ明治政府と折り合わず在野に排斥されたと。この精神の表現を尊ぶ構図は、天心に師事した大観、春草、武山、観山、飛田周山(五浦に天心を直接案内した芸大生で画家)らの中で形をとり、空気を表現できないかといった天心の趣味に叶ういわゆる朦朧体を生み出し、天心死後に琳派をとりこみ、今日までの日本画の非形式主義の原型になったと。
『徳川邸行幸』木村武山、1930年、聖徳記念絵画館壁画(解説は後述)
要するに、印象派を巡る黒田vs天心という絵画美学論争の緒は、天心は福井の侍の子、横浜生まれですので、親藩だったのだが、薩摩の侍側の黒田が西洋かぶれ的猿真似構図を、美術領域に直接もちこんで暴政的な排斥運動の目になっていたことから、今日までの決定的亀裂を生み出し、画壇混乱の元なのです。そしてですよ、何を隠そう大観とか、上述の武山の絵をご覧に入れたらおわかりになりますよう、彼らは常陸(茨城)水戸徳川家による治世下の子ですので(他に下村観山も和歌山の出なので紀州徳川系の子です)、要するに武士道的な忠義で、水戸学的に、天皇、徳川旧将軍、日本に魂で仕えていたのです。まあ彼らは明治期に突入したから芸大入ってそこで魂の師として愛国心に燃える天心を仰ぎ、画家になったけど、大観や春草らは徳川体制が続いてたらお侍さんのままだったと。しかし黒田派は明治政府の権力使ってフランス芸大かぶれの裸体画とか偉そうにおしつけてきて、反りが合うはずもないわけですよ。
この構図は、和魂洋才みたいな型にはまった思考原理で、明治以前の日本の良い面をも一緒くたに否定しつつ、浅はかな薩長閥が西洋の表面だけまねしたといういつもの事例なのだけど(帝国主義まねた松陰の侵略思想だって、今に至るまで安倍政権として続いてるがそんなもんでしょ)、美術版でもあったと。
で、この第二のねじれというのは、日本画なるものと、洋画なるものの間にあるねじれなわけです。(第一のねじれは上述したよう、その洋画なるボザール(フランス芸大)流疑似古典風のガラパゴスなものと、欧米前衛美術とのねじれです)
更に副産物で日本画なるものと欧米前衛美術のねじれも生じる。
茂木さんが好きなイギリスにも、実はこの島国特有の、帝国的大陸文化の流行からの遅れなりずれやそれに応答した相克はあって、上述したラファエル前派は、少なくともそれで、イタリアルネサンスに対応した独自美学として生まれた。が、日本の美学の入り組み方というのは印象派辺りから凄まじい物があるのですよ(だからこそ前小論で書いた様、自分は現に前衛画家の悲劇の中で生きているのに加え、日本人一般が近代化の最初期に雑誌などで情報が入ってきたためTHE絵画だとすっかり思いこんでいる印象派を、単純に愉快がって綺麗だね、と楽しめない面もある)。
イギリス美術は、ずっと古代ギリシア、イタリア、そして近代フランスという西洋美術の大帝国からみて、ど田舎のペンペン草しか生えてないと見下される位置にあり、漱石だってターナーしかいないとかフランスいきゃよかったとか(これは余計だが)、美術における被差別的地位を認めていたわけですよ。そんで、大英帝国博物館だって、正直いって盗品ばっかり展示してあるわけで、そこにやっとラファエル前派がシェークスピアを描き、朦朧体みたいなターナーが出現し、サージェントが出てきて、隣国から変人(ベーコン、褒めている)が来て、賑やかになってきただけで、ターナー賞エラクないのです。
僕はターナー賞の展覧会を六本木ヒルズで昔みましたけど、確かに全然エラクなくてびっくりしたわけで、ハーストとカプーアしかいないくらいで、超マイナー作家の巣窟、イギリス人は貴族ぶってはいるが「芸術文化的に」閑散としてる田舎国なわけです。これは権威づけに英政府が創った素人操業の賞です。
ほんで、彼らはサザビーズとかクリスティーズみたいな、競売会社で有名になっているけれども、これだって美術文化全体から見たら如何物なんですよね。ここでは深く立ち入らないが。そういうのを揶揄してバンクシーがブリストルというさらなる田舎で騒いでいる状態だから、荒れ果てた国といってもいい。そんなロックで荒廃した国を、略奪経済沈没したからもうロックアート自慢しかやることないだけなのに、恥知らずにも漫画版で日本政府が「ルール・ブリタニア」の元ネタも知らず、クールジャパンっていいだした。あれは村上隆ならずとも恥ずかしいですしいまだに勘違いは京アニ系逆ひいきで続いている。
ここでいう京アニ系逆ひいきとは、浮世絵の逆ひいきと同じ構図で、遣隋使から始まる「外国(先進国)劣等感」のまんま、外人(戦争が強い国)が褒めたら便所紙(浮世絵です)でも礼賛するというやつで、ろくに知りもしないのに京アニは日本の誇りなんていいだしてしまう。ま黒田からなんの進歩もない。
ここで書いてみたのは、黒田清輝さんは別に極悪人でもなかったのかもしれないが、当時の先端だった印象派含む以後のエコール・ド・パリにまんじりとも直接学ぼうともせず、なぜかボザール(仏芸大)に習ってしまう上に、全てを悟っていた先輩格の天心さんを排斥運動する二重の愚行で、大混乱の礎ってこと。
最後につけくわえておくと、僕も田舎生まれだし都会暮らしの結果で田舎が好きなので、イギリス的な田舎好きに共感もするし(この点では埼玉・九州系で、思春期以後の東京かぶれが酷い茂木さんとは対立する思想的視座も毎度多いが)、フランスでも田舎美術が先端を切り拓いたし、都会礼賛ではないです。
(上図は水戸の徳川家を明治天皇が訪問した時の絵で、2代義公以来、皇室を神の如く仰いできた水戸家にとって、慶喜公の大政奉還後に尊皇心を確かめに来たのだ
花ぐはしさくらもあれどこのやどの代代のこころをわれはとひけりと明治帝に歌われた場面で、水戸藩や茨城文化からすると重要な内容の作です。
なぜこの絵を日本画なるものの例に出したか。文脈論では、のちのオールオーバー様式とか、ミニマリズム要素とか、既に花鳥画や大和絵・琳派風の文脈上で形式的に先取りしているし、彼らの開発した朦朧体も枝の奥行きに生かしているわけで、内容もしっかりしていて、彼我に超越する立派な絵だからです。
私は実物は未見だが、質感論なり感覚論、精神論でいうと、国花でもある桜の、舞う鳥と祝うべき、明治の春の日の圧倒的な見事さを前にした明治帝が、「しかし目に見えない(尊皇の)魂の方が有り難いのだ」と歌われた場面で、その技巧を駆使した表現的美質を象徴的に否定するところまで描かれていると。まあ西洋画でも米国画でも、いいかえればこういう文学的・哲学的含意を含んだ象徴表現(イデアの表出)は、正に上記のラファエル前派以後なら、文脈とか無視してワイエスとか一部の人に片鱗しかみられない。後はデュシャン的形式主義の方に偏っているともいえる。その意味で、日本画にも傑出点はある)
2019年9月27日
朝敵どけち愛知ファースト表現自由権の乱
税金で天皇燃やす権利くれ津田りまくるじゃん愛知県知事
天皇を愛知県税焼きにけり津田られ大村訴訟じゃん
大村家対天皇家津田氏が御膳立てするドケチ茶番
愛知県天皇燃やせる特別区大津田正義の朝敵ファースト
燃やす燃やす天皇燃やす愛知県大村知事が火をつけ回る
天皇を燃やして7800万国民貪る愛知県知事
表現自由を盾に媒体活動家どけち愛知を操り天皇を焼く
天皇を愛知県税焼きにけり津田られ大村訴訟じゃん
大村家対天皇家津田氏が御膳立てするドケチ茶番
愛知県天皇燃やせる特別区大津田正義の朝敵ファースト
燃やす燃やす天皇燃やす愛知県大村知事が火をつけ回る
天皇を燃やして7800万国民貪る愛知県知事
表現自由を盾に媒体活動家どけち愛知を操り天皇を焼く
都民一般が僭称する日本代表は大抵ただの東京代表な下衆の極みでしかない
東京都民一般は俗悪な環境から常態的に下品な上に世間が狭く、天皇を範に中華思想に陥っており傲慢なので、自分達の代表者を日本代表と名乗るが、都外からみるとその勝手に代表を名乗っている人物は、下衆の極みでしかない。
グレタ大正義説
学業をばんばん怠ける言い訳に環境使えよグレタ流逃避
大正義グレタの元に集え愚民みなでトランプラッダイト起こせ
現代のジャンヌ・ダルクぞグレタ女傑馬鹿な大人を啓蒙し給う
ゆたぼんとグレタのコラボ期待しつ進次郎税でステーキげっぷす
大革命グレタとゆたぼん進次郎ポピュリズムの渦大正義なり
大正義グレタの元に集え愚民みなでトランプラッダイト起こせ
現代のジャンヌ・ダルクぞグレタ女傑馬鹿な大人を啓蒙し給う
ゆたぼんとグレタのコラボ期待しつ進次郎税でステーキげっぷす
大革命グレタとゆたぼん進次郎ポピュリズムの渦大正義なり
About you
Why are you living in the earth?
As a heartbreaker
As a living of dead
As a changing climate
As a snob information
Why are you short in the life?
Just a talking
Just a stepping
Just a feeling
Just a tempering
About you
As a heartbreaker
As a living of dead
As a changing climate
As a snob information
Why are you short in the life?
Just a talking
Just a stepping
Just a feeling
Just a tempering
About you
無為の拝金国
老害も若害も自分の金儲けしか頭にない
そして果てしなく馬鹿だ
だからこの国になんの期待もない
今すぐ滅びてもいいと思う
しかしそこで生きることすらままならない
では一体どうすればいい
どうする必要もない
なにもしなくていい
そんな国の一員なのだから
だれもうらまずだれもを諦めていろ
下らない連中の愚行などみなくていい
そして果てしなく馬鹿だ
だからこの国になんの期待もない
今すぐ滅びてもいいと思う
しかしそこで生きることすらままならない
では一体どうすればいい
どうする必要もない
なにもしなくていい
そんな国の一員なのだから
だれもうらまずだれもを諦めていろ
下らない連中の愚行などみなくていい
2019年9月26日
フランス・バカロレア哲学試験2019の自己解答集
問い「時間から逃れることは可能か?」
時間は主観的には、光速度に対する認知の継起的経過と考えられるので、物理的実在を超え思考或いは感覚することはできない。つまり時間から逃れるのは人間の意識にとっては事実上不可能である。時間から逃れられるのは、物質が時間の完全に停止した引力が極大値の場にある場合のみである。
問い「芸術作品を説明することは何になるのか? 」
芸術作品は主観にとってそれ自体に複数の解釈の余地があるが、それを説明するのはそれら解釈の幾らかを他人に伝達する為である。この説明はある作品へ共通の部分を持つ、又は程あれ異なる解釈を他人に気づかせる。したがって芸術作品を説明する意味は、主観に複数の解釈を再反射させることである。
問い「道徳は最良の政策なのか? 」
道徳は広義で人類が実践すべき当為一般なので、少なくとも最高善に関する限り、そのポリシーは公徳と一致する。他の主観にとっての道徳が、自己のそれとずれている時、より高次の最高善がなければならず、さもなければいずれかの道徳が最良ではない。
問い「労働は人々を分断するのか?」
或る労働が資本主義の下にある時、経営目的に向け人々を協力させる。一方、個々の労働者は時間を仕事に拘束され(株主資本を含む)経営資本によって程あれ手段化される。したがって資本主義下の労働一般は個々の経営目的の違いで同時に分断される。社会・共産主義下では政府の目的にもより、同様。
問い「文化の多元性は、人類の一体性を妨げるのか?」
文化多元性(多様性、複数性)は相互に自文化にない観点に気づかせ、参照によって反省的な進歩のよすがになる。また異文化理解を通じ或る文化の価値観を相対化、客観視させ、自文化中心主義がもたらす諸々の自己中心性に陥るのを防がせる。したがって文化多元性は人類を反省的に一体化させる。
時間は主観的には、光速度に対する認知の継起的経過と考えられるので、物理的実在を超え思考或いは感覚することはできない。つまり時間から逃れるのは人間の意識にとっては事実上不可能である。時間から逃れられるのは、物質が時間の完全に停止した引力が極大値の場にある場合のみである。
問い「芸術作品を説明することは何になるのか? 」
芸術作品は主観にとってそれ自体に複数の解釈の余地があるが、それを説明するのはそれら解釈の幾らかを他人に伝達する為である。この説明はある作品へ共通の部分を持つ、又は程あれ異なる解釈を他人に気づかせる。したがって芸術作品を説明する意味は、主観に複数の解釈を再反射させることである。
問い「道徳は最良の政策なのか? 」
道徳は広義で人類が実践すべき当為一般なので、少なくとも最高善に関する限り、そのポリシーは公徳と一致する。他の主観にとっての道徳が、自己のそれとずれている時、より高次の最高善がなければならず、さもなければいずれかの道徳が最良ではない。
問い「労働は人々を分断するのか?」
或る労働が資本主義の下にある時、経営目的に向け人々を協力させる。一方、個々の労働者は時間を仕事に拘束され(株主資本を含む)経営資本によって程あれ手段化される。したがって資本主義下の労働一般は個々の経営目的の違いで同時に分断される。社会・共産主義下では政府の目的にもより、同様。
問い「文化の多元性は、人類の一体性を妨げるのか?」
文化多元性(多様性、複数性)は相互に自文化にない観点に気づかせ、参照によって反省的な進歩のよすがになる。また異文化理解を通じ或る文化の価値観を相対化、客観視させ、自文化中心主義がもたらす諸々の自己中心性に陥るのを防がせる。したがって文化多元性は人類を反省的に一体化させる。
環境論に於けるグレタ・イデオロギーの相対化分析
グレタ氏についてもう少し考えてみたが、この人はスウェーデンと国連が既成事実としたい「温暖化悪玉論」の合意づけの為、少女で或る精神障害をもっている社会的弱者として矢面に立って活動するよう、環境左派のポピュリズム、そして彼女の両親から独特の政治活動を後援されているということだ。
直感的に偽善のにおい、特に胡散臭さを感じられる人には感じられると思うが、欧米人の一部も指摘するよう環境左派が温暖化悪玉論の合意づけの為、喧伝意図で「少女」「障害者」という、叩きづらい対象を軍隊の先頭に立つよう誘導している。環境右派や一般人が、操り人形と指摘するのも尤もなのである。
勿論この少女自身は、その年齢と知能に最も合理的かつ科学的事実に基づいて考えて、温暖化悪玉論を「確証バイアス」で糊塗している。精神年齢と、白黒はっきりつけないと気が済まないと当人がいう(恐らく障害もあわさっている)性格特性からすると、その様な、非反証的思考に陥るのは必然でもある。
1.温暖化が起きているのは事実かもしれない(この部分だけをグレタ氏は国連演説で証拠集めしている)
2.しかし温暖化の直接的原因はよくわからない
3.CO2排出量取引(京都議定書以後の国連による政治活動)は科学哲学的合意とみても決して確定的なものではない、つまり温暖化の原因がCO2か不明
4.温暖化自体が人類全体、又は一部に負の影響だけをもたらすかも不確定(縄文海進などの例をとると嘗て人類が生きていた時代にも海面上昇はしているし、太陽活動周期で温暖化が起きている説もあり、寧ろその観点では2020年代に寒冷化がくると予想されている)
5.温暖化善玉論、温暖化中立論、温暖化否定論、寒冷化論、局所的気候変動論など、今日の地球環境の分析には複数の理論が同時並列的に検討されている状態なので、国連・スウェーデンのライト・ライブリフッド賞財団が、温暖化悪玉論へ合意の空気を作ることに傾いているのは政治的事実
6.先進国企業連合は、国連や西洋の属するNATOに都合がいい、先進国(特に排出量取引で有利な西洋諸国)中心主義の環境観として、温暖化悪玉論を政治的合意づけしようとする既成事実づくりに、環境左派の急先鋒であるスケープゴート(いけにえ)的少女を利用する鼓舞があると考えられる
国別側では、CO2排出量取引上、不利な順に
中国>アメリカ>インド>ロシア>日本>ドイツ>韓国
となる。(2016年の排出割合)
英仏やスウェーデンはこの取引では勝ち組に入るので、温暖化悪玉論を推進する動機づけは十分あるといわざるをえない。
科学は恣意的に引用すれば、自らの(しばしば利己的な)倫理的目的の裏づけに使用なり、濫用できる。今回の国連演説内で、グレタ氏は温暖化悪玉論の前提となる温暖化の事実を引用していた。がこれらの事実と、温暖化悪玉論は、実は論理的連関性がない。温暖化の事実とその価値づけの議論は別だからだ。つまり、今回のグレタ氏の国連演説に胡散臭さを感じ取っていた人は、少なくとも彼女の詭弁に直感的に気づいていた面があるかもしれない。温暖化の事実がもし複数みつかっても、それが即ち悪で大量絶滅に繋がるとの後半部分とは、論理的な繋がりがないわけだ。逆に、生物の繁茂に繋がる可能性もある。
更に問題が複雑なのは、温暖化の事実といわれる物と、矛盾した事実または反証する事実もあり(局所的には日本でも冷夏があったりする)、特に代表的なのが太陽の活動周期による気候変動論で、寧ろ寒冷化していく予想すらあることだ(例えばNASA、Langley Research Center、Martin Mlynczak氏による)。
イギリス、労働党コービン党首の兄・Piers Corbyn氏は天気予報士なり気象学者としてといってもいいだろうが、下記の様、「地球温暖化はCO2と全然関係がない。寧ろ寒冷化していく」と、当人がはっきり述べている。
彼らに対し自分の説は、温暖化は熱帯植物にとって好都合なので、環境運動の圧力と半ば無関係に植生は盛んになり(また伐採も寧ろCO2吸収率の低い極相林を減らし、原生林以後の遷移領域拡大に有利なので)、遷移中の植物による吸熱反応たる光合成によって、逆に寒冷化の端緒にもなりうるというものだ。
もし自分の説にも一理あるとしたら、又それに一理もないとしても、主に太陽活動周期による寒冷化説にも、現時点ではそれなりの信憑性があるので、CO2排出量取引を含む京都議定書の科学哲学的見地に、批准初期から自分は反対してきたし今も反対だ。それ以後の国連もこの点では悪意があると思っている。
そこでグレタ氏が出てきた。彼女は温暖化悪玉論急進派の女傑として、特に今回の国連演説で最早世界的に偶像化されたといってもいいであろう。彼女の担っている環境論的視座への科学的・哲学的批判者らは、彼女の無敵の鎧と盾である「幼気な少女」「障害者」の前で無惨に弾かれ、悪者扱いされてしまう。
で、自分はこの無敵の鎧と盾は、なんの効果もないんですよ、という為、次の短歌(狂歌)を囀った。
東京都庁なり東京都民には、危険施設を他県におしつけつつ、都内電力会社が暴利を貪れる画期的収奪装置、即ち、これまでの日本経産省スキームであった「CO2を排出しない夢の発電所」たる原発推進に好都合な生贄として、グレタ氏を肯定的文脈で政治利用する鼓舞がある。それを先回りし皮肉った歌。
所が、自分がこの歌を囀った直後に(因果関係はないかもしれないけど)、茂木健一郎氏が動画でグレタ擁護論陣を張り始めた。自分はこの動画ツイートへ返信し、以前は黒幕(国連・西洋諸国と原発企業連合)を刺激しないよう曖昧めかしたが、今回ははっきり構図を抉ってみた。
東京五輪なんて石原都知事による誘致時点から、ほぼ都内の大企業系列団体がぶら下がる商業的な再開発目的なんだから(それゆえ一般庶民はずっと迷惑だとか福島復興が先だろと多数派反対なわけで)、そこで排出されるCO2考えて、都内の会社原電による東海第二再稼働準備を許可・放置してるのは偽善だ。
茂木氏は、彼の人格特性を鑑みると、少女叩きは社会的弱者への攻撃なので良くないでしょ、という単純な正義感に立っての動画ツイートだったと思うのだけども、自分はそんなの重々承知で(恐らく自分より正義感の強い、鋭い人間は過去も未来も人類中にそう多くいない)、寧ろ彼女の偽善を暴いたのだ。
そして、更に根本的に言うと、ツイッター上でも散見されたが、人類悪玉論とか近代文明悪玉論をとると、そもそも現生人類なり近代文明人なりが温暖化の影響で大量死するなら、それは寧ろ彼らの犠牲になっている多くの他生物に救いになりうるのではないか、という観点を、グレタ氏は全然とれていない。
なぜグレタ氏は人類悪玉論・近代文明悪玉論を無視してしまうか、更に温暖化で寒冷環境が不可逆変化しうる北国中心論をとるかだが、これは西洋的近代理性とか個人主義を全然超えていないからだ。人間中心な上に自己中心に物を考えている。人類滅び他生物は天敵が消える。近代文明が消え部族は生き残る。現生人類や近代文明が実際に、温暖化で絶滅することもなければ、植物が絶えた超寒冷期の方が全生物の瓶首になってきた地球史(特に恐竜絶滅)を思うと、温暖期は生物全体の多様性を高める可能性の方が高いと、冷静に見て思えるわけで、一スウェーデン人のエゴで全生物を馬鹿にしていると言うしか無い。
現実にスウェーデンで森林火災を毎年体験してると、確かに、十分深い科学哲学的考察をしていない少女の純粋でうぶな目からは、「畜生、近代文明の野郎。金儲けの為に私の森を壊すんじゃねえやい」と思えるのはよくわかるので、ムーミン谷が大変だ! みたいな北欧的文脈は素朴な共感を呼びやすい。近代化を果たした国々、又今も果たしている国々では、開発によって、多かれ少なかれ嘗ては無害な面で感性的に私達を楽しませてくれていた自然破壊に心を痛めている人々が、かなりの部分を占めている筈で、グレタ的文脈の根底には、茂木氏のいう(passionの語源である、キリストの)「受難」たる感情苦が近代文明憎悪として、潜んでいる。
それでグレタ女史の演説には、憎悪表現の色彩があり、環境右派というべき開発原理主義者らを、目の敵にする、或る意味では人類史との対決姿勢が現されている。そもそも空き地や清流で色んな生物と遊べた子供時代の方が、都市化された今より楽しかったし、原発事故の汚染や恐怖もなかったし、東京圏、西日本、中部、仙台、札幌だのの自称都会・田舎コンプ人がネットやマスメディアで田舎差別してくることもなかった。なので僕はこの点に共感できることはできる。
全く似た様な、近代文明の罪なる主題は、例えば宮崎駿が自作で『風の谷のナウシカ』からずっと考察してきているだろうし、映画『マトリックス』で人類は地球がん細胞だとの定義も、本質的に環境原罪みたいに人類を見直す視座といえる。グレタ氏もいずれ人間中心主義の脱構築が必要になると思う。
石原慎太郎という人(兵庫から湘南、東京へ出てきた強姦・暴力小説家にして元都知事)は、国交省や日本政府が、栃木・福島地域への遷都で計画していた、自然と調和する新政府を東京中心主義で政治的に迫害し、潰した。その後、彼には天譴論で「天罰」と感じられた大津波と原発事故の災害に襲われた。そしてその石原が誘致しだしたのが五輪で、CO2をガンガン排出しながら、東京都庁が最大の大株主として暴利を貪っていた福島原発東電事故の被災者支援打ち切りとともに、偽善の都内建築業者利権まがいの設計変更で作った木を貼り付けた鉄筋コンクリート製スタジアムの元、原発再稼働命じて下水で泳ぐ。
要するに、この東京五輪なる代物は、自称文明人の代表面のTHE大都会人ぶっている田舎上がりの連中(皇族も京都出身者も含む)が、自然を痛めつけ、平和な田舎住まいを原発で金儲け目的の電気料金貪りの犠牲にしつつ、正に天罰を待ち受けるべくしてごり押ししている、禍々しい呪われた賄賂の塊である。
グレタ氏は、東京五輪が都会原罪の塊であり、同時に、背後では原発推進でCO2排出量の少ない田舎暮らしを差別的に犠牲にしている邪悪な構図へ、なんの批判的反応も示していない。彼女は日本がみえていないからだ。日本の田舎で生まれ都会で育って、日本人なるものの卑しさや汚さを悟っていないからだ。原発をめぐる事情は、グレタ氏のスウェーデンにもあるであろう。が地震が少ないから余裕ぶっこいて、CO2減らせといい化石燃料はダメといいながら、日本でそれをおしつけると、東京・横浜市・千葉市、京阪神、名古屋、福岡、愛媛、石川、仙台、札幌など相対都会人の田舎人殺しに説を悪用させてしまう。
原発問題に関しはっきりいうと、日本人全般はほぼある種の道徳観念が致命的にない、サイコパス度が非常に高い民族だといって構わないであろう。それは都会人さえ金を貪れれば、田舎に住んでいる人間など皆殺しにしてもいい、という原発推進論が多数派な時点で明らかであり、彼らに反省などありえない。
だから私は言ったのだ、グレタ氏は偽善くせえなと。なぜなら彼女の文脈を日本に適用すると、東京都民一般の原発による日本人大量虐殺へ手を貸してしまうからなのだ。その背後には、大企業暴利を含む資本主義という本丸の悪意に加え、更に敵陣の中枢には中華思想の狂人一家たる天皇家まで鎮座している。天皇からみると、東京都民一般の原発や大企業による暴利なんて、納税奴隷の自己奉仕だから、税金使いニコニコ宮内記者会通じ適当に評してたらいい。原発とめろとか田舎守れとかいうはずもない。そもそも皇室史を鑑みると飛鳥時代からずっと、皇居から遠いほど自動的蛮族扱いで虐殺しまくっている。
皇室、皇族は、まあ今日の目からいうと、1300年以上(大化改新から今年で1374年)自己中心で自文化中心主義の権化な殺人教祖一家であって、本物の野蛮人は11万年以上(砂原遺跡から)平和に暮らしていた先住日本人ではなく、中韓くんだりから侵略殺戮かねて徴税ぶり贅沢三昧してきた天皇一族の方だが、洗脳済み衆愚には貴ばれているので救いがない。
そういうわけで、グレタ氏の演説がもつ文脈は、実に狭い西洋中心主義とか人間中心主義の枠を全く超えていないし、しかも各国の置かれている全然異なる状況へ無理やりそれをあてはめると逆に、大悪業になりかねない。特に日本では原発推進派による自国民殺しへ大いに加担させてしまうので要注意である。
直感的に偽善のにおい、特に胡散臭さを感じられる人には感じられると思うが、欧米人の一部も指摘するよう環境左派が温暖化悪玉論の合意づけの為、喧伝意図で「少女」「障害者」という、叩きづらい対象を軍隊の先頭に立つよう誘導している。環境右派や一般人が、操り人形と指摘するのも尤もなのである。
勿論この少女自身は、その年齢と知能に最も合理的かつ科学的事実に基づいて考えて、温暖化悪玉論を「確証バイアス」で糊塗している。精神年齢と、白黒はっきりつけないと気が済まないと当人がいう(恐らく障害もあわさっている)性格特性からすると、その様な、非反証的思考に陥るのは必然でもある。
1.温暖化が起きているのは事実かもしれない(この部分だけをグレタ氏は国連演説で証拠集めしている)
2.しかし温暖化の直接的原因はよくわからない
3.CO2排出量取引(京都議定書以後の国連による政治活動)は科学哲学的合意とみても決して確定的なものではない、つまり温暖化の原因がCO2か不明
4.温暖化自体が人類全体、又は一部に負の影響だけをもたらすかも不確定(縄文海進などの例をとると嘗て人類が生きていた時代にも海面上昇はしているし、太陽活動周期で温暖化が起きている説もあり、寧ろその観点では2020年代に寒冷化がくると予想されている)
5.温暖化善玉論、温暖化中立論、温暖化否定論、寒冷化論、局所的気候変動論など、今日の地球環境の分析には複数の理論が同時並列的に検討されている状態なので、国連・スウェーデンのライト・ライブリフッド賞財団が、温暖化悪玉論へ合意の空気を作ることに傾いているのは政治的事実
6.先進国企業連合は、国連や西洋の属するNATOに都合がいい、先進国(特に排出量取引で有利な西洋諸国)中心主義の環境観として、温暖化悪玉論を政治的合意づけしようとする既成事実づくりに、環境左派の急先鋒であるスケープゴート(いけにえ)的少女を利用する鼓舞があると考えられる
国別側では、CO2排出量取引上、不利な順に
中国>アメリカ>インド>ロシア>日本>ドイツ>韓国
となる。(2016年の排出割合)
科学は恣意的に引用すれば、自らの(しばしば利己的な)倫理的目的の裏づけに使用なり、濫用できる。今回の国連演説内で、グレタ氏は温暖化悪玉論の前提となる温暖化の事実を引用していた。がこれらの事実と、温暖化悪玉論は、実は論理的連関性がない。温暖化の事実とその価値づけの議論は別だからだ。つまり、今回のグレタ氏の国連演説に胡散臭さを感じ取っていた人は、少なくとも彼女の詭弁に直感的に気づいていた面があるかもしれない。温暖化の事実がもし複数みつかっても、それが即ち悪で大量絶滅に繋がるとの後半部分とは、論理的な繋がりがないわけだ。逆に、生物の繁茂に繋がる可能性もある。
更に問題が複雑なのは、温暖化の事実といわれる物と、矛盾した事実または反証する事実もあり(局所的には日本でも冷夏があったりする)、特に代表的なのが太陽の活動周期による気候変動論で、寧ろ寒冷化していく予想すらあることだ(例えばNASA、Langley Research Center、Martin Mlynczak氏による)。
イギリス、労働党コービン党首の兄・Piers Corbyn氏は天気予報士なり気象学者としてといってもいいだろうが、下記の様、「地球温暖化はCO2と全然関係がない。寧ろ寒冷化していく」と、当人がはっきり述べている。
"CO2 has never driven, does not drive and never will drive weather or climate. Global warming is over and it never was anything to do with CO2. CO2 is still rising but the world is now cooling and will continue to do so." -- Piers Corbyn環境急進左派たるグレタ説はそこからみると非科学的なわけだ。
彼らに対し自分の説は、温暖化は熱帯植物にとって好都合なので、環境運動の圧力と半ば無関係に植生は盛んになり(また伐採も寧ろCO2吸収率の低い極相林を減らし、原生林以後の遷移領域拡大に有利なので)、遷移中の植物による吸熱反応たる光合成によって、逆に寒冷化の端緒にもなりうるというものだ。
もし自分の説にも一理あるとしたら、又それに一理もないとしても、主に太陽活動周期による寒冷化説にも、現時点ではそれなりの信憑性があるので、CO2排出量取引を含む京都議定書の科学哲学的見地に、批准初期から自分は反対してきたし今も反対だ。それ以後の国連もこの点では悪意があると思っている。
そこでグレタ氏が出てきた。彼女は温暖化悪玉論急進派の女傑として、特に今回の国連演説で最早世界的に偶像化されたといってもいいであろう。彼女の担っている環境論的視座への科学的・哲学的批判者らは、彼女の無敵の鎧と盾である「幼気な少女」「障害者」の前で無惨に弾かれ、悪者扱いされてしまう。
で、自分はこの無敵の鎧と盾は、なんの効果もないんですよ、という為、次の短歌(狂歌)を囀った。
本当にグレタのやつは偽善くせえな原発五輪の東京潰せよこれは、グレタちゃん叩いちゃダメ、少女で障害なのにエライでしょ的空気を壊す目的で、原発推進派を揶揄したのだ。
東京都庁なり東京都民には、危険施設を他県におしつけつつ、都内電力会社が暴利を貪れる画期的収奪装置、即ち、これまでの日本経産省スキームであった「CO2を排出しない夢の発電所」たる原発推進に好都合な生贄として、グレタ氏を肯定的文脈で政治利用する鼓舞がある。それを先回りし皮肉った歌。
所が、自分がこの歌を囀った直後に(因果関係はないかもしれないけど)、茂木健一郎氏が動画でグレタ擁護論陣を張り始めた。自分はこの動画ツイートへ返信し、以前は黒幕(国連・西洋諸国と原発企業連合)を刺激しないよう曖昧めかしたが、今回ははっきり構図を抉ってみた。
東京五輪なんて石原都知事による誘致時点から、ほぼ都内の大企業系列団体がぶら下がる商業的な再開発目的なんだから(それゆえ一般庶民はずっと迷惑だとか福島復興が先だろと多数派反対なわけで)、そこで排出されるCO2考えて、都内の会社原電による東海第二再稼働準備を許可・放置してるのは偽善だ。
茂木氏は、彼の人格特性を鑑みると、少女叩きは社会的弱者への攻撃なので良くないでしょ、という単純な正義感に立っての動画ツイートだったと思うのだけども、自分はそんなの重々承知で(恐らく自分より正義感の強い、鋭い人間は過去も未来も人類中にそう多くいない)、寧ろ彼女の偽善を暴いたのだ。
そして、更に根本的に言うと、ツイッター上でも散見されたが、人類悪玉論とか近代文明悪玉論をとると、そもそも現生人類なり近代文明人なりが温暖化の影響で大量死するなら、それは寧ろ彼らの犠牲になっている多くの他生物に救いになりうるのではないか、という観点を、グレタ氏は全然とれていない。
なぜグレタ氏は人類悪玉論・近代文明悪玉論を無視してしまうか、更に温暖化で寒冷環境が不可逆変化しうる北国中心論をとるかだが、これは西洋的近代理性とか個人主義を全然超えていないからだ。人間中心な上に自己中心に物を考えている。人類滅び他生物は天敵が消える。近代文明が消え部族は生き残る。現生人類や近代文明が実際に、温暖化で絶滅することもなければ、植物が絶えた超寒冷期の方が全生物の瓶首になってきた地球史(特に恐竜絶滅)を思うと、温暖期は生物全体の多様性を高める可能性の方が高いと、冷静に見て思えるわけで、一スウェーデン人のエゴで全生物を馬鹿にしていると言うしか無い。
現実にスウェーデンで森林火災を毎年体験してると、確かに、十分深い科学哲学的考察をしていない少女の純粋でうぶな目からは、「畜生、近代文明の野郎。金儲けの為に私の森を壊すんじゃねえやい」と思えるのはよくわかるので、ムーミン谷が大変だ! みたいな北欧的文脈は素朴な共感を呼びやすい。近代化を果たした国々、又今も果たしている国々では、開発によって、多かれ少なかれ嘗ては無害な面で感性的に私達を楽しませてくれていた自然破壊に心を痛めている人々が、かなりの部分を占めている筈で、グレタ的文脈の根底には、茂木氏のいう(passionの語源である、キリストの)「受難」たる感情苦が近代文明憎悪として、潜んでいる。
それでグレタ女史の演説には、憎悪表現の色彩があり、環境右派というべき開発原理主義者らを、目の敵にする、或る意味では人類史との対決姿勢が現されている。そもそも空き地や清流で色んな生物と遊べた子供時代の方が、都市化された今より楽しかったし、原発事故の汚染や恐怖もなかったし、東京圏、西日本、中部、仙台、札幌だのの自称都会・田舎コンプ人がネットやマスメディアで田舎差別してくることもなかった。なので僕はこの点に共感できることはできる。
全く似た様な、近代文明の罪なる主題は、例えば宮崎駿が自作で『風の谷のナウシカ』からずっと考察してきているだろうし、映画『マトリックス』で人類は地球がん細胞だとの定義も、本質的に環境原罪みたいに人類を見直す視座といえる。グレタ氏もいずれ人間中心主義の脱構築が必要になると思う。
石原慎太郎という人(兵庫から湘南、東京へ出てきた強姦・暴力小説家にして元都知事)は、国交省や日本政府が、栃木・福島地域への遷都で計画していた、自然と調和する新政府を東京中心主義で政治的に迫害し、潰した。その後、彼には天譴論で「天罰」と感じられた大津波と原発事故の災害に襲われた。そしてその石原が誘致しだしたのが五輪で、CO2をガンガン排出しながら、東京都庁が最大の大株主として暴利を貪っていた福島原発東電事故の被災者支援打ち切りとともに、偽善の都内建築業者利権まがいの設計変更で作った木を貼り付けた鉄筋コンクリート製スタジアムの元、原発再稼働命じて下水で泳ぐ。
要するに、この東京五輪なる代物は、自称文明人の代表面のTHE大都会人ぶっている田舎上がりの連中(皇族も京都出身者も含む)が、自然を痛めつけ、平和な田舎住まいを原発で金儲け目的の電気料金貪りの犠牲にしつつ、正に天罰を待ち受けるべくしてごり押ししている、禍々しい呪われた賄賂の塊である。
グレタ氏は、東京五輪が都会原罪の塊であり、同時に、背後では原発推進でCO2排出量の少ない田舎暮らしを差別的に犠牲にしている邪悪な構図へ、なんの批判的反応も示していない。彼女は日本がみえていないからだ。日本の田舎で生まれ都会で育って、日本人なるものの卑しさや汚さを悟っていないからだ。原発をめぐる事情は、グレタ氏のスウェーデンにもあるであろう。が地震が少ないから余裕ぶっこいて、CO2減らせといい化石燃料はダメといいながら、日本でそれをおしつけると、東京・横浜市・千葉市、京阪神、名古屋、福岡、愛媛、石川、仙台、札幌など相対都会人の田舎人殺しに説を悪用させてしまう。
原発問題に関しはっきりいうと、日本人全般はほぼある種の道徳観念が致命的にない、サイコパス度が非常に高い民族だといって構わないであろう。それは都会人さえ金を貪れれば、田舎に住んでいる人間など皆殺しにしてもいい、という原発推進論が多数派な時点で明らかであり、彼らに反省などありえない。
だから私は言ったのだ、グレタ氏は偽善くせえなと。なぜなら彼女の文脈を日本に適用すると、東京都民一般の原発による日本人大量虐殺へ手を貸してしまうからなのだ。その背後には、大企業暴利を含む資本主義という本丸の悪意に加え、更に敵陣の中枢には中華思想の狂人一家たる天皇家まで鎮座している。天皇からみると、東京都民一般の原発や大企業による暴利なんて、納税奴隷の自己奉仕だから、税金使いニコニコ宮内記者会通じ適当に評してたらいい。原発とめろとか田舎守れとかいうはずもない。そもそも皇室史を鑑みると飛鳥時代からずっと、皇居から遠いほど自動的蛮族扱いで虐殺しまくっている。
皇室、皇族は、まあ今日の目からいうと、1300年以上(大化改新から今年で1374年)自己中心で自文化中心主義の権化な殺人教祖一家であって、本物の野蛮人は11万年以上(砂原遺跡から)平和に暮らしていた先住日本人ではなく、中韓くんだりから侵略殺戮かねて徴税ぶり贅沢三昧してきた天皇一族の方だが、洗脳済み衆愚には貴ばれているので救いがない。
そういうわけで、グレタ氏の演説がもつ文脈は、実に狭い西洋中心主義とか人間中心主義の枠を全く超えていないし、しかも各国の置かれている全然異なる状況へ無理やりそれをあてはめると逆に、大悪業になりかねない。特に日本では原発推進派による自国民殺しへ大いに加担させてしまうので要注意である。
2019年9月25日
流れの中で
もし君がいなければ
自分の存在は宇宙のどこかに消え失せ
地上は夜で埋まってしまう
だからそらに飛び交う雲の中に
夜空を行き交う無数の星屑の中に
自分を融かして消してしまえ
もし君がいなければ
小さな花の声すら
数え切れない魔法みたいに
時を押し流す
ろくでもない自由
だが自分など要らないのだ
自分など
存在を壊し尽くす流れの中で
自分の存在は宇宙のどこかに消え失せ
地上は夜で埋まってしまう
だからそらに飛び交う雲の中に
夜空を行き交う無数の星屑の中に
自分を融かして消してしまえ
もし君がいなければ
小さな花の声すら
数え切れない魔法みたいに
時を押し流す
ろくでもない自由
だが自分など要らないのだ
自分など
存在を壊し尽くす流れの中で
エネルギー政策にみる現実感
とりあえず炭素悪玉論も、温暖化悪玉論と同じくらいインチキ科学哲学だということである。現実的には、太陽光パネルを屋根に乗っけさせ蓄電池つきの自家発電を助成するのと、藻発電の開発投資でしのいで、原発はなるだけ早く順番に古いのから止めて石油石炭ガスでやっていくしかなかろう。
どうせ進次郎もインチキ農政(アメリカ企業への売国的な種子法だの、戸別所得補償うちきりで農家の協同組合潰しだの、モンサント・グリホサート漬けだの)と同じで環境相も、首相になる繋ぎで適当やって終わるんだろうし、人気とれりゃなんでもいいのである。本気で彼を扱う方がおかしいのである。
自分が知ってる範囲では藻とメタハイ(メタン・ハイドレート)か有力な新エネルギーないけど、メタハイの方は地震原因説の因果がはっきりしてないのが気になる。鳩山氏もそれに類した指摘してたけど、海底で結着剤みたいになってるメタハイを掘り起こし、地底が動かないなんてあるだろうか。大爆発で海溝できた例あるのに。
国とか県、市、あるいは家としての目標は、なるだけ再生可能エネルギー比率を上げる方に注力し、炭素悪玉論と温暖化悪玉論は科学哲学的根拠が薄弱だから保留した方がいい。特に炭素悪玉論派は、原発推進をおしこんでくるから要注意。
どうせ進次郎もインチキ農政(アメリカ企業への売国的な種子法だの、戸別所得補償うちきりで農家の協同組合潰しだの、モンサント・グリホサート漬けだの)と同じで環境相も、首相になる繋ぎで適当やって終わるんだろうし、人気とれりゃなんでもいいのである。本気で彼を扱う方がおかしいのである。
自分が知ってる範囲では藻とメタハイ(メタン・ハイドレート)か有力な新エネルギーないけど、メタハイの方は地震原因説の因果がはっきりしてないのが気になる。鳩山氏もそれに類した指摘してたけど、海底で結着剤みたいになってるメタハイを掘り起こし、地底が動かないなんてあるだろうか。大爆発で海溝できた例あるのに。
国とか県、市、あるいは家としての目標は、なるだけ再生可能エネルギー比率を上げる方に注力し、炭素悪玉論と温暖化悪玉論は科学哲学的根拠が薄弱だから保留した方がいい。特に炭素悪玉論派は、原発推進をおしこんでくるから要注意。
グレタ問題で(多分)都会暮らしをしながら途上国並の生活に戻ろうともせずみっともない偽善の姿を晒す自称社会なんちゃら学者とその協賛者らの分析
フォロワー1万人以上いる社会なんちゃら学者のヒトが、「スウェーデンのお嬢ちゃんが温暖化訴えるのは、途上国の人々はどう思うんだろう?」みたいなのは、先進国民がなにもしないため途上国を利用しててみっともない、といってるのにリツイート数千ついてて、何重ひねくれてるんだこいつらと思った。
先ず問題を整理すると、スウェーデン人が途上国開発を抑圧する言動してるのは偽善だろう。自分らは電気ガス水道道路病院ありの環境から、それらが全くない所の人類の過半数超える人達に「温暖化だからお前らは先進国並の生活するな」というのは、正に偽善である。スウェーデン人の偽善。他ではない。
次に、日本人の一人が、「スウェーデン人にそれが言えた義理か。お前らも罪人なんだから先ず途上国開発に文句つける前に自分らの贅沢な暮らしから戒めていろ」というのは、先進国民全体が相対的に沈没すべきだといってるのであって、何もしない言い訳ではない。寧ろ何もせず絶滅せよといってるのだ。
この社会なんちゃら学者の言い分が気持ち悪いのは、通俗的な陽明学の理屈というか、「行動する者は、理論を作るものよりエライ」といういつもの行動主義、知行合一の無謬説が前提にあることだ。私はこの考え方、本当に大嫌いで、じゃあてめえら天狗党の末路みてみろと言いたい。行動すればエライのか。浅はかな意図で行動し、社会に公害をまきちらすばかりか、自滅してどうしようもない末路になる。日本軍を見てみろと言いたい。薩長軍が東北で何したか、きちんと史跡巡って、現場巡ってつぶさにみてみたことがあるんだろうか? 満州国を放棄して逃げた。行動すればエライ。意味が分からない。
愚者ほど行動主義に走り、最悪の結果を招く。これが歴史の鉄則だ。だからグレタ女史が温暖化悪玉説で国連だの環境左派の表面だけの知識人ごっこ、要は裏側で途上国開発を抑圧しながら自分だけ開発済み先進国で贅沢三昧の言い訳のでくになっているとして、まあ落ち着いて温暖化が悪か見直せという話だ。
わが県の例でいうと、いわゆる縄文海進あたりなんて半分は海の底にあったみたいなもんだ。僕の住んでる場所だって山で貝の化石こどものころ掘り当てたし、いまだに沢蟹が山に住んでて、むかし海の底だった。多少の温暖化なんて人類全体が死ぬみたいな現象ではないのだ。海面上昇ごときよくあったのだ。
で、じゃあこの社会なんちゃら学者殿がなんでこんな二重三重の詭弁を使わなきゃいけなくなってしまっているかだが、先ずこのヒトはツイッター的構図、フォロワー受けする知識人ごっこしなければいけない構図で、無理やり理屈を立てている。それでひねくれ方が3重くらいになって何いってるかわからん。
ある社会なんちゃら学者が数千人のツイッタラーといいねいいねいってる
1.グレタ氏は先進国側にいるのに途上国開発の抑圧を煽ってるのだから、利己的なのは間違いない
2.グレタ氏の言説の自己中心性を指摘するのは先進国民がなにもしない言い訳ではない
3.寧ろ行動が理論より上位にあるという前提が間違い(悪い行動なら何もしないほうが優れている上に、アリストテレスのようそもそも神性に属する理論のほうが獣性に近い行動より上位にあるという考え方もある)
4.先進国民がなすべきなのは相対的自滅であって途上国開発への抑圧ではない
5.温暖化は必ずしも悪ではない
6.経済開発は単なる贅沢の為の電気浪費や都市化を目的にした傲慢な環境破壊などだけでなく、医療や衛生環境の整備など必要不可欠なものを含んでいる
7.森林植生と経済開発は決して矛盾するものではない
8.熱帯雨林など先進国用(特に日本)の木材や燃料を供給している地帯は一部の国にあるので、先進国のみの都合で内政干渉は不可
9.いちスウェーデン人が他国の森林をわが物かのよう操作したがるのは唯のエゴ
10.地球規模の温暖化は主に先進国民の植民地化含めた開発のエゴがもたらしたものなのだから(これだって複雑系の問題だから確証ないけど、もし温暖化ガスが原因ならという仮説に立った場合)、これから開発が進む途上国民の手前、まずは自分達の開発を辞めて絶滅してくれないといけない(特に電力消費量や二酸化炭素排出量の多い大都会部)
この社会なんちゃらが煽ってる「先進国民の行動」とは、「ぜんぶ大人が悪い」といいながら、現実には途上国が医療インフラ整備するのをその国民に安く作らせた情報機器で妨害するという、話にならないほどあくどい代物だが、何重にもひねくれながら行動無謬論を唱えているのは、一体どんな学者なのか。
まあ日本は、この都市部で進んで絶滅するというサイコパスモデルには、最低でも江戸時代からずっと適合してるのであって、今も全くそうなっている。東京に進んで若者が突っ込んできて最悪の環境で出生率をガシガシ下げ、頭のおかしな変態性欲とか異常生態を発生させつつどんどん絶滅していってくれる。もっと遡ると平城京を天皇が作った時点からこうなっていたから、奈良も京都も東京も、中華思想の邪悪な大都市自体、日本人ホイホイになっていたのだろう。いわゆる都市墓場説は、人口統計みるかぎり恐らく事実だろう(現時点で自分に認知できる範囲で)。
即ち、現実的解法は、東京京都みたく都市に若者集め退廃生活(生涯独身子なしの自称サブカル生活なんだけど)させつつ口減らしとなる。
11.森林伐採は悪ではなくて、むしろそこに再び植生することで植物の成長中に最も二酸化炭素の吸収も光合成による吸熱反応も進むので、森を壊すなというのは理屈がおかしい
12.スウェーデン人も日本を模範に、どんどん一極集中(又は多極集中)を進め、環境最悪の過密大都市を作ってそこに口減らしのため若年人口を惹きつける洗脳を施すべき
13.結果、先進国の人口減少で、先進工業国は没落、相対的に温室効果ガスの排出が縮小する
うーん。多少詳しく分析してみたけど、やっぱりその社会なんちゃら学者のいってることは詭弁ではあるんだけど、なにか気持ち悪い点が残った。そこには何重にもひねくれた偽善があるのだが、完全に摘出できていない。
まず「先進国」、英語でいう発展した国 developed countryの自称そのものが一種の選良意識による欺瞞なのだが(なにせ蛙跳び都市みたらわかるよう偶然、先に発展しただけなのだから元が優れていたのではない)、これを全く無視、「自分ら東大生なんだから偉くて当然でしょ」みたいなウソをついている。
で、この欺瞞の上に立って、「でもグレタちゃんはカワイイから許す! しかしお前らは駄目だ。行動してないから」という。要はひいきってのは一種の差別で、本当にエライのは国連でぐちゃぐちゃ途上国開発に不利な西洋企業連合の手のひらの上でエラそうに演説やってることじゃなく、里山暮らしだろう。
「社会なんちゃら学者のひねくれウソでのグレタ擁護をリツイートしつつ、てめーは都会で原発依存のままか? 先進国民は行動だといい、カーボン知識人ごっこかい。イケハヤみたく山奥で暮せば? 電気だってソーラーパネル屋根に乗っければ。具体的に田舎でくらしてるの?」って話になるわけだ。
グレタは一種のプロレス子役で、実は、トランプの共犯かもしれない。なぜなら「途上国開発をやめさせて!」ってスウェーデン嬢ちゃんの本音をニューヨーク国連本部が喧伝すると、トランプは「よっしゃやったるわ」つって。「んじゃ工場アメリカで」ってなるからだ。この茶番劇を本気で正視せず、その幼稚な演芸に普通に騙され、国連ぐるみのフェイクニュース作りだからアホなカーボン知識人ごっこレベルなら騙されるだろうなとも若干思うが、実際に、その社会なんちゃら学者みたくまんまと術策にはまり、「子供に比べ、先進国民なにやってるの?」と言い出すと。
ほぼ完璧に把握したが、気分が悪いのはツイッター民の、質の低い言論の民度と、中途半端な知識人ごっこもどき(進次郎報道への異様な偏向みても、世間を排斥されたファッション左派がいかに日本語圏ツイッター界に多いことか!)、そしていつもながら陰湿きわまりない日本人全般の民族性である。
なお子供が勘違いすると思うから敢えて付け加えるが、私の政治的立場は、右派でも左派でも中道でも無関心でもない。それら全てを超えてあり、それら全てに離反して批判的であり、同時に、無関心でもない或る外部監査者だ。政治的二元論ではない。ファッション左派といってるからといって右翼ではない。
カーボン知識人なる語はさっき発明したが、脱炭素概念そのものが科学哲学文脈でおかしいし、生命循環は炭素循環なんだから脱炭素なんてできない。呼吸し土に還る。動植物になり、水を出し雨となり、湖から川へ、海へ下り、命の営みをくり返す。すなわちカーボンコピーみたいな脱炭素論に立つ偽の知識人、との意味である。
まあその社会なんちゃら学者とフォロワー1万人含む数千人のツイッタラーや、浅はかな都会ぐらしの原発依存俗物どもは天罰下って自然と思うが、海面上昇で霞が関は真の霞ヶ浦状態になればいいのだ。徳川家のおうちであった江戸城にまだ強盗籠城中の皇居も江戸湾に戻ればいい。
先ず問題を整理すると、スウェーデン人が途上国開発を抑圧する言動してるのは偽善だろう。自分らは電気ガス水道道路病院ありの環境から、それらが全くない所の人類の過半数超える人達に「温暖化だからお前らは先進国並の生活するな」というのは、正に偽善である。スウェーデン人の偽善。他ではない。
次に、日本人の一人が、「スウェーデン人にそれが言えた義理か。お前らも罪人なんだから先ず途上国開発に文句つける前に自分らの贅沢な暮らしから戒めていろ」というのは、先進国民全体が相対的に沈没すべきだといってるのであって、何もしない言い訳ではない。寧ろ何もせず絶滅せよといってるのだ。
この社会なんちゃら学者の言い分が気持ち悪いのは、通俗的な陽明学の理屈というか、「行動する者は、理論を作るものよりエライ」といういつもの行動主義、知行合一の無謬説が前提にあることだ。私はこの考え方、本当に大嫌いで、じゃあてめえら天狗党の末路みてみろと言いたい。行動すればエライのか。浅はかな意図で行動し、社会に公害をまきちらすばかりか、自滅してどうしようもない末路になる。日本軍を見てみろと言いたい。薩長軍が東北で何したか、きちんと史跡巡って、現場巡ってつぶさにみてみたことがあるんだろうか? 満州国を放棄して逃げた。行動すればエライ。意味が分からない。
愚者ほど行動主義に走り、最悪の結果を招く。これが歴史の鉄則だ。だからグレタ女史が温暖化悪玉説で国連だの環境左派の表面だけの知識人ごっこ、要は裏側で途上国開発を抑圧しながら自分だけ開発済み先進国で贅沢三昧の言い訳のでくになっているとして、まあ落ち着いて温暖化が悪か見直せという話だ。
わが県の例でいうと、いわゆる縄文海進あたりなんて半分は海の底にあったみたいなもんだ。僕の住んでる場所だって山で貝の化石こどものころ掘り当てたし、いまだに沢蟹が山に住んでて、むかし海の底だった。多少の温暖化なんて人類全体が死ぬみたいな現象ではないのだ。海面上昇ごときよくあったのだ。
で、じゃあこの社会なんちゃら学者殿がなんでこんな二重三重の詭弁を使わなきゃいけなくなってしまっているかだが、先ずこのヒトはツイッター的構図、フォロワー受けする知識人ごっこしなければいけない構図で、無理やり理屈を立てている。それでひねくれ方が3重くらいになって何いってるかわからん。
ある社会なんちゃら学者が数千人のツイッタラーといいねいいねいってる
「スウェーデンのお嬢ちゃんが温暖化訴えるのは、途上国の人々はどう思うんだろう?」みたいなのは、先進国民がなにもしないため途上国を利用しててみっともないこの理屈は、
1.グレタ氏は先進国側にいるのに途上国開発の抑圧を煽ってるのだから、利己的なのは間違いない
2.グレタ氏の言説の自己中心性を指摘するのは先進国民がなにもしない言い訳ではない
3.寧ろ行動が理論より上位にあるという前提が間違い(悪い行動なら何もしないほうが優れている上に、アリストテレスのようそもそも神性に属する理論のほうが獣性に近い行動より上位にあるという考え方もある)
4.先進国民がなすべきなのは相対的自滅であって途上国開発への抑圧ではない
5.温暖化は必ずしも悪ではない
6.経済開発は単なる贅沢の為の電気浪費や都市化を目的にした傲慢な環境破壊などだけでなく、医療や衛生環境の整備など必要不可欠なものを含んでいる
7.森林植生と経済開発は決して矛盾するものではない
8.熱帯雨林など先進国用(特に日本)の木材や燃料を供給している地帯は一部の国にあるので、先進国のみの都合で内政干渉は不可
9.いちスウェーデン人が他国の森林をわが物かのよう操作したがるのは唯のエゴ
10.地球規模の温暖化は主に先進国民の植民地化含めた開発のエゴがもたらしたものなのだから(これだって複雑系の問題だから確証ないけど、もし温暖化ガスが原因ならという仮説に立った場合)、これから開発が進む途上国民の手前、まずは自分達の開発を辞めて絶滅してくれないといけない(特に電力消費量や二酸化炭素排出量の多い大都会部)
この社会なんちゃらが煽ってる「先進国民の行動」とは、「ぜんぶ大人が悪い」といいながら、現実には途上国が医療インフラ整備するのをその国民に安く作らせた情報機器で妨害するという、話にならないほどあくどい代物だが、何重にもひねくれながら行動無謬論を唱えているのは、一体どんな学者なのか。
まあ日本は、この都市部で進んで絶滅するというサイコパスモデルには、最低でも江戸時代からずっと適合してるのであって、今も全くそうなっている。東京に進んで若者が突っ込んできて最悪の環境で出生率をガシガシ下げ、頭のおかしな変態性欲とか異常生態を発生させつつどんどん絶滅していってくれる。もっと遡ると平城京を天皇が作った時点からこうなっていたから、奈良も京都も東京も、中華思想の邪悪な大都市自体、日本人ホイホイになっていたのだろう。いわゆる都市墓場説は、人口統計みるかぎり恐らく事実だろう(現時点で自分に認知できる範囲で)。
即ち、現実的解法は、東京京都みたく都市に若者集め退廃生活(生涯独身子なしの自称サブカル生活なんだけど)させつつ口減らしとなる。
11.森林伐採は悪ではなくて、むしろそこに再び植生することで植物の成長中に最も二酸化炭素の吸収も光合成による吸熱反応も進むので、森を壊すなというのは理屈がおかしい
12.スウェーデン人も日本を模範に、どんどん一極集中(又は多極集中)を進め、環境最悪の過密大都市を作ってそこに口減らしのため若年人口を惹きつける洗脳を施すべき
13.結果、先進国の人口減少で、先進工業国は没落、相対的に温室効果ガスの排出が縮小する
うーん。多少詳しく分析してみたけど、やっぱりその社会なんちゃら学者のいってることは詭弁ではあるんだけど、なにか気持ち悪い点が残った。そこには何重にもひねくれた偽善があるのだが、完全に摘出できていない。
まず「先進国」、英語でいう発展した国 developed countryの自称そのものが一種の選良意識による欺瞞なのだが(なにせ蛙跳び都市みたらわかるよう偶然、先に発展しただけなのだから元が優れていたのではない)、これを全く無視、「自分ら東大生なんだから偉くて当然でしょ」みたいなウソをついている。
で、この欺瞞の上に立って、「でもグレタちゃんはカワイイから許す! しかしお前らは駄目だ。行動してないから」という。要はひいきってのは一種の差別で、本当にエライのは国連でぐちゃぐちゃ途上国開発に不利な西洋企業連合の手のひらの上でエラそうに演説やってることじゃなく、里山暮らしだろう。
「社会なんちゃら学者のひねくれウソでのグレタ擁護をリツイートしつつ、てめーは都会で原発依存のままか? 先進国民は行動だといい、カーボン知識人ごっこかい。イケハヤみたく山奥で暮せば? 電気だってソーラーパネル屋根に乗っければ。具体的に田舎でくらしてるの?」って話になるわけだ。
グレタは一種のプロレス子役で、実は、トランプの共犯かもしれない。なぜなら「途上国開発をやめさせて!」ってスウェーデン嬢ちゃんの本音をニューヨーク国連本部が喧伝すると、トランプは「よっしゃやったるわ」つって。「んじゃ工場アメリカで」ってなるからだ。この茶番劇を本気で正視せず、その幼稚な演芸に普通に騙され、国連ぐるみのフェイクニュース作りだからアホなカーボン知識人ごっこレベルなら騙されるだろうなとも若干思うが、実際に、その社会なんちゃら学者みたくまんまと術策にはまり、「子供に比べ、先進国民なにやってるの?」と言い出すと。
ほぼ完璧に把握したが、気分が悪いのはツイッター民の、質の低い言論の民度と、中途半端な知識人ごっこもどき(進次郎報道への異様な偏向みても、世間を排斥されたファッション左派がいかに日本語圏ツイッター界に多いことか!)、そしていつもながら陰湿きわまりない日本人全般の民族性である。
なお子供が勘違いすると思うから敢えて付け加えるが、私の政治的立場は、右派でも左派でも中道でも無関心でもない。それら全てを超えてあり、それら全てに離反して批判的であり、同時に、無関心でもない或る外部監査者だ。政治的二元論ではない。ファッション左派といってるからといって右翼ではない。
カーボン知識人なる語はさっき発明したが、脱炭素概念そのものが科学哲学文脈でおかしいし、生命循環は炭素循環なんだから脱炭素なんてできない。呼吸し土に還る。動植物になり、水を出し雨となり、湖から川へ、海へ下り、命の営みをくり返す。すなわちカーボンコピーみたいな脱炭素論に立つ偽の知識人、との意味である。
まあその社会なんちゃら学者とフォロワー1万人含む数千人のツイッタラーや、浅はかな都会ぐらしの原発依存俗物どもは天罰下って自然と思うが、海面上昇で霞が関は真の霞ヶ浦状態になればいいのだ。徳川家のおうちであった江戸城にまだ強盗籠城中の皇居も江戸湾に戻ればいい。
拝金立国
お前の仕事は全く価値がない
この世でかねになるのは馬鹿話
さもなくば肩書きの偽薬
科学と名づけた名ばかりの偏見
わかったら降参し
あとは死
労働奴隷になれないのだろう
では皇族の贅沢代を払い
老人へ貪られ少子化絶滅するがいい
死死死
それともまだ繁殖したいのか
老人と勝ち組以外は死
発情繁殖できなければ死
地獄の日本に生まれたのだろう
この世でかねになるのは馬鹿話
さもなくば肩書きの偽薬
科学と名づけた名ばかりの偏見
わかったら降参し
あとは死
労働奴隷になれないのだろう
では皇族の贅沢代を払い
老人へ貪られ少子化絶滅するがいい
死死死
それともまだ繁殖したいのか
老人と勝ち組以外は死
発情繁殖できなければ死
地獄の日本に生まれたのだろう
信用ならない日本人
日本人なんて誰も助けてくれませんよ
僕を助けてくれたのは親だけ
あとは障害者扱いでいじめられていた少女1人
だから私は日本を信用していない
皇族閥にこびを売り
原発で人殺ししながら田舎差別
そんな連中が都会人ぶって東京に集まり
満員電車におしあいへしあい金儲け自慢
なにが偉いのですか
僕を助けてくれたのは親だけ
あとは障害者扱いでいじめられていた少女1人
だから私は日本を信用していない
皇族閥にこびを売り
原発で人殺ししながら田舎差別
そんな連中が都会人ぶって東京に集まり
満員電車におしあいへしあい金儲け自慢
なにが偉いのですか
2019年9月24日
墓守
僕は死の淵に立ち
全人類の墓場をみる
なるほど絶滅して当然だ
利己的で愚かな連中が
他人を貶め威張っていた
だからこうして跡形もなく掃除され
心からよかったと思う
あとに残ったのが墓場だけ
連中は生前悪意を撒き散らし
売名しかねをむさぼり
他人をやたらめったらそしりつつ
性欲のままふえていたものだ
僕は最後の人類として
この墓場を管理して死ぬのだ
全人類の墓場をみる
なるほど絶滅して当然だ
利己的で愚かな連中が
他人を貶め威張っていた
だからこうして跡形もなく掃除され
心からよかったと思う
あとに残ったのが墓場だけ
連中は生前悪意を撒き散らし
売名しかねをむさぼり
他人をやたらめったらそしりつつ
性欲のままふえていたものだ
僕は最後の人類として
この墓場を管理して死ぬのだ
偽善者の温暖化対策
右を見ても左を見ても
金儲け俗物が愚にもつかない戯言を吐き
暗愚な売名に耽っている自称先進国
その中でますます偽善に吐き気がしても
連中に反省力など最初からない
見なければいい
情報遮断し交流を断て
引き籠もりが最善
文明など意味がなかった
この星が冷たくなって凍りつき
絶滅すればいい
金儲け俗物が愚にもつかない戯言を吐き
暗愚な売名に耽っている自称先進国
その中でますます偽善に吐き気がしても
連中に反省力など最初からない
見なければいい
情報遮断し交流を断て
引き籠もりが最善
文明など意味がなかった
この星が冷たくなって凍りつき
絶滅すればいい
グレタ氏ファッション左派のでく説
自分が直感的に感じたところでは、この地球はグレタ氏の主張の正反対に進むだろうな、ということだ。それは彼女の理屈が悉く破綻してる(先進国は開発済みだから途上国は開発するな、森守ってろ、が偽善だ)からだけではなく、そもそも温暖化は人類全体にとって危険ではないからだと思う。
これと似た様なことは前にも一度あった。シールズ騒ぎの時だ。あの時、僕はシールズのボスのあの名前忘れたけどなんとか君にどっちかといえば共感していて、がんばれえ~と思っていた。しかし彼と同世代の20代の人らの意見を見たら、悉く正反対で、冷めまくっていた。応援してたのは主に老人だった。
その時、僕も20代後半か30代前半くらいだったが、老人達がなぜシールズのボスを応援してるかはなんとなく分かった。全共闘の幼稚版にみえたから懐かしかったのだ。
全共闘世代が自衛隊に鎮圧され、挫折後、日本は文化大革命と真逆の、資本主義金儲け拝金カルチャーにまっしぐらに進んだ。
シールズも案の定、簡単に挫折し、当時、全共闘左派の残党であった老人らは彼らを死ぬほど持ち上げていたのだが、またもあっさりと引き上げ、全く話題にもしなくなった。それで僕はシールズ自体が根性なかったんだな、やっぱりと思うのとは別に、その老人らの浅い働きにもまあまあ呆れた。またかと。
元々、この全共闘世代が国家権力と飽くまで戦って、皇室ごと暴力革命でぶっ倒し、三島宜しく米軍排斥し、共産国なり共和国を造れなかったのは、彼らが自衛隊や米軍と最後まで徹底抗戦する覚悟がなかったからだ。今の中国人とは根性のレベルが違ったのだろう。大正デモクラシー弾圧された時もだが。
前書いたが、この「敵が強大だと分かるとすぐ諦めて我先に逃げる」という日本人固有の特徴は、『荒野行動』の国際サーバーと日本サーバーでやり比べるとすぐ分かる。中国人は1人になっても飽くまで戦って逆転してきたりするが、日本人は形勢不利になるだけで多勢でも自分から逃げるのが多い卑怯者だ。
根気がない。それでシールズのゆるゆるファッション左派運動も、いつものようあっという間に空中分解し、雲散霧消した。今回、グレタ氏巡り言説している人達、というか茂木健一郎氏一人だけれども、そこにぶら下がってきた1人の老人の言説みて、ああこれまた同じいつもの日本的左派と感じたのである。
多分だが、この日本的左派なるものは、根性がなくて命を懸けてひたすら自説を曲げず、最後の1人になるまで特攻を続けるという、日本的右派のもっている絶対的信念がない。なぜなら、彼らの思想信条は西洋パクリのファッション言説で、知性派ぶってるだけで自分の頭で考えてないからなのだろう。
なぜ日本の左派運動が、これまでも挫折してきたか。それは彼らの言説が、自分自身のルーツに根ざした思想信条じゃないからなのだ。その思想の為に命を捨てていいですか? あなたはそれを死を賭して信じられますか? となった時、簡単に方向転換し、色をなし逃げ出す。だから左派が勝てなかったのだ。
津田大介氏や東浩紀氏は、最近、あいちトリエンナーレ2019炎上事件で、少なくとも東氏の方はさっさと天皇燃やしてごめんちゃいみたいに方針転換してしまった。飽くまで「天皇燃やして何が悪いんだ?」「それってえとなにかい。御真影のおつもりかい?」「政教分離はどうなったんだい?」といえばいい。津田氏は、社会党系の親だったからか、少なくとも撒菱まきながら直接闘争を回避するみたいに行動し今に至るけど、ここでも飽くまで天皇制批判、慰安婦像問題批判の点を堅持する、という態度ではなくて、「でも表現自由じゃん?」「色んな見方できるよね」とはぐらかす。本気の左派じゃないのである。
グレタ氏の問題も、いわば環境左派の言説であろう。温暖化悪玉論で、先進国並の開発は無理だよね、途上国民の絶対貧者共が私達と同じ暮らしするなんて以ての外よね。元奴隷どもよ、どうしても開発したければ排出量取引はらいなさいな! と、いつもの列強的偽善を、少女革命家使ってやってのけている。
で。正直、日本人全般はグレタ問題を、すげー遠くの国でなんかやってるな、って他人事としてみてるであろう。それよりは、進次郎アホ発言恥ずかしい(マスコミの切り取りフェイクだが)の方が身近に感じているであろう。つまり、ここでもファッション左派がグレタ問題をネタ化していると予想される。まあそこまで政治的知性ない次元だと、青汁劇場のネタみてるだけで、そもそもグレタって誰って話だと思うが、どっちにしても、「ファッション左派は信用ならない」とシールズネタの時に見抜いていた20代の人らは、政治的無関心を超えて、ただの現実感として正しかったのである。
今回も、全く同じ層が全く同じファッション左派言説をしているだけだと、私は確信をもつ。そして私は言いたい。お前はグレタ氏の為に命を捨ててついていく覚悟があるのか。彼女の旗振りの元で革命の列に加わり、魔女裁判で処刑されても文句ないのか。それならいい。喜んで天狗党の一員になれと。私は天狗党の末路を回天神社でみて戦慄しまくったが、グレタ氏の革命も、それと同じだけの末路は当然用意されているものだと思う。西洋人の野蛮さをなめてはいけない。ジャンヌダルクも火炙りにされたと思うし、国王すら首チョンパにするのであるから、彼女もスケープゴートなのは間違いないであろう。
なぜ彼女が、あれほどプッシュされてるのか。答えは、環境問題の両義性、「あれ、CO2て気候問題に関係なくね」「あれ温暖化って寧ろプラスじゃね」と次第次第にばれている京都議定書のウソを、大規模に国連的隠蔽するためフェイクニュースの旗手として誘導されている。これが、間違いない事実である。
いよいよ、科学者の鉄槌が下されよう。途上国民の殆どが、西側諸国の捏造した女傑の掲げる旗が、嘘八百で塗り固められた疑似科学(精確には、データの恣意的引用)だったと悟った時、「てめーら排出量取引税かえせや」「はあ? なんでうちらが開発しちゃいけねえんだよ」と環境一揆になるであろう。そしてグレタ女史包囲網が、恰も西郷隆盛を小高い丘の頂きにおいつめていく錦旗の赤のよう燃え広がった頃、とっくの昔に彼女を裏切った日本のファッション左派共は、ミーハー根性で、次のファッション左翼ネタを、意識高い系気分でもちあげているであろう。哀れなるかなグレタ女史。誰が貴女の味方か。
寧ろだ。私は、いや私こそが、私は寧ろグレタの偽善者め、目立ちたがり屋の小娘め、アイパッドいじってるならチベットの山奥で石版で算数やってみろと思っていたのだが、ここまでくれば、彼女の最後の守護者になるしかない。ファッション左派はどうせ裏切るでしょ。都合悪くなったら。目に見えている。
アリアナ・グランデ問題の時もそうだった。アホな日本女らしきのが、七輪は7 ringsじゃねえよとウソをついた。それでアリアナ発狂、自分は「いや多義語でしょ」と説明したが炎上ネタ化し、アリアナ女史は日本なんて大嫌いになってしまわれた。陰湿な日本に近づかなくて却ってよかったかもしれんが。
グレタはでくだ。しかも、環境問題を大して「科学的に」考えていない上に(霞ヶ浦なんて元々内海でしたよ)、哲学的・人類史的にも全く温暖化悪玉論で、国連正義で、途上国開発しねしね詐欺をやって恥じない連中の。哀れなり、少女革命家。一体誰が最後まで彼女の守護で戦い抜くか見ているべきである。
これと似た様なことは前にも一度あった。シールズ騒ぎの時だ。あの時、僕はシールズのボスのあの名前忘れたけどなんとか君にどっちかといえば共感していて、がんばれえ~と思っていた。しかし彼と同世代の20代の人らの意見を見たら、悉く正反対で、冷めまくっていた。応援してたのは主に老人だった。
その時、僕も20代後半か30代前半くらいだったが、老人達がなぜシールズのボスを応援してるかはなんとなく分かった。全共闘の幼稚版にみえたから懐かしかったのだ。
全共闘世代が自衛隊に鎮圧され、挫折後、日本は文化大革命と真逆の、資本主義金儲け拝金カルチャーにまっしぐらに進んだ。
シールズも案の定、簡単に挫折し、当時、全共闘左派の残党であった老人らは彼らを死ぬほど持ち上げていたのだが、またもあっさりと引き上げ、全く話題にもしなくなった。それで僕はシールズ自体が根性なかったんだな、やっぱりと思うのとは別に、その老人らの浅い働きにもまあまあ呆れた。またかと。
元々、この全共闘世代が国家権力と飽くまで戦って、皇室ごと暴力革命でぶっ倒し、三島宜しく米軍排斥し、共産国なり共和国を造れなかったのは、彼らが自衛隊や米軍と最後まで徹底抗戦する覚悟がなかったからだ。今の中国人とは根性のレベルが違ったのだろう。大正デモクラシー弾圧された時もだが。
前書いたが、この「敵が強大だと分かるとすぐ諦めて我先に逃げる」という日本人固有の特徴は、『荒野行動』の国際サーバーと日本サーバーでやり比べるとすぐ分かる。中国人は1人になっても飽くまで戦って逆転してきたりするが、日本人は形勢不利になるだけで多勢でも自分から逃げるのが多い卑怯者だ。
根気がない。それでシールズのゆるゆるファッション左派運動も、いつものようあっという間に空中分解し、雲散霧消した。今回、グレタ氏巡り言説している人達、というか茂木健一郎氏一人だけれども、そこにぶら下がってきた1人の老人の言説みて、ああこれまた同じいつもの日本的左派と感じたのである。
多分だが、この日本的左派なるものは、根性がなくて命を懸けてひたすら自説を曲げず、最後の1人になるまで特攻を続けるという、日本的右派のもっている絶対的信念がない。なぜなら、彼らの思想信条は西洋パクリのファッション言説で、知性派ぶってるだけで自分の頭で考えてないからなのだろう。
なぜ日本の左派運動が、これまでも挫折してきたか。それは彼らの言説が、自分自身のルーツに根ざした思想信条じゃないからなのだ。その思想の為に命を捨てていいですか? あなたはそれを死を賭して信じられますか? となった時、簡単に方向転換し、色をなし逃げ出す。だから左派が勝てなかったのだ。
津田大介氏や東浩紀氏は、最近、あいちトリエンナーレ2019炎上事件で、少なくとも東氏の方はさっさと天皇燃やしてごめんちゃいみたいに方針転換してしまった。飽くまで「天皇燃やして何が悪いんだ?」「それってえとなにかい。御真影のおつもりかい?」「政教分離はどうなったんだい?」といえばいい。津田氏は、社会党系の親だったからか、少なくとも撒菱まきながら直接闘争を回避するみたいに行動し今に至るけど、ここでも飽くまで天皇制批判、慰安婦像問題批判の点を堅持する、という態度ではなくて、「でも表現自由じゃん?」「色んな見方できるよね」とはぐらかす。本気の左派じゃないのである。
グレタ氏の問題も、いわば環境左派の言説であろう。温暖化悪玉論で、先進国並の開発は無理だよね、途上国民の絶対貧者共が私達と同じ暮らしするなんて以ての外よね。元奴隷どもよ、どうしても開発したければ排出量取引はらいなさいな! と、いつもの列強的偽善を、少女革命家使ってやってのけている。
で。正直、日本人全般はグレタ問題を、すげー遠くの国でなんかやってるな、って他人事としてみてるであろう。それよりは、進次郎アホ発言恥ずかしい(マスコミの切り取りフェイクだが)の方が身近に感じているであろう。つまり、ここでもファッション左派がグレタ問題をネタ化していると予想される。まあそこまで政治的知性ない次元だと、青汁劇場のネタみてるだけで、そもそもグレタって誰って話だと思うが、どっちにしても、「ファッション左派は信用ならない」とシールズネタの時に見抜いていた20代の人らは、政治的無関心を超えて、ただの現実感として正しかったのである。
今回も、全く同じ層が全く同じファッション左派言説をしているだけだと、私は確信をもつ。そして私は言いたい。お前はグレタ氏の為に命を捨ててついていく覚悟があるのか。彼女の旗振りの元で革命の列に加わり、魔女裁判で処刑されても文句ないのか。それならいい。喜んで天狗党の一員になれと。私は天狗党の末路を回天神社でみて戦慄しまくったが、グレタ氏の革命も、それと同じだけの末路は当然用意されているものだと思う。西洋人の野蛮さをなめてはいけない。ジャンヌダルクも火炙りにされたと思うし、国王すら首チョンパにするのであるから、彼女もスケープゴートなのは間違いないであろう。
なぜ彼女が、あれほどプッシュされてるのか。答えは、環境問題の両義性、「あれ、CO2て気候問題に関係なくね」「あれ温暖化って寧ろプラスじゃね」と次第次第にばれている京都議定書のウソを、大規模に国連的隠蔽するためフェイクニュースの旗手として誘導されている。これが、間違いない事実である。
いよいよ、科学者の鉄槌が下されよう。途上国民の殆どが、西側諸国の捏造した女傑の掲げる旗が、嘘八百で塗り固められた疑似科学(精確には、データの恣意的引用)だったと悟った時、「てめーら排出量取引税かえせや」「はあ? なんでうちらが開発しちゃいけねえんだよ」と環境一揆になるであろう。そしてグレタ女史包囲網が、恰も西郷隆盛を小高い丘の頂きにおいつめていく錦旗の赤のよう燃え広がった頃、とっくの昔に彼女を裏切った日本のファッション左派共は、ミーハー根性で、次のファッション左翼ネタを、意識高い系気分でもちあげているであろう。哀れなるかなグレタ女史。誰が貴女の味方か。
寧ろだ。私は、いや私こそが、私は寧ろグレタの偽善者め、目立ちたがり屋の小娘め、アイパッドいじってるならチベットの山奥で石版で算数やってみろと思っていたのだが、ここまでくれば、彼女の最後の守護者になるしかない。ファッション左派はどうせ裏切るでしょ。都合悪くなったら。目に見えている。
アリアナ・グランデ問題の時もそうだった。アホな日本女らしきのが、七輪は7 ringsじゃねえよとウソをついた。それでアリアナ発狂、自分は「いや多義語でしょ」と説明したが炎上ネタ化し、アリアナ女史は日本なんて大嫌いになってしまわれた。陰湿な日本に近づかなくて却ってよかったかもしれんが。
グレタはでくだ。しかも、環境問題を大して「科学的に」考えていない上に(霞ヶ浦なんて元々内海でしたよ)、哲学的・人類史的にも全く温暖化悪玉論で、国連正義で、途上国開発しねしね詐欺をやって恥じない連中の。哀れなり、少女革命家。一体誰が最後まで彼女の守護で戦い抜くか見ているべきである。
科学教育の限界
今日の教育(日本でいえば明治以後の近代科学を主とする教育)の致命的落ち度は、各対象の知識には、道徳に対する応用的価値しかないこと、つまり哲学にとって科学は道具にすぎないことへの無自覚だ。また数学なるものも科学言語でしかない。だから対象の分析を超えた感情や徳目は数理で説明できない。
天才と凡人は各々違う仕事に集中し分業しなければならない
最近、シュンペーターのイノベーション理論を受けて、「クリエイティブ」「創造的」という言葉がやたら濫用されてるきらいがあるが、リアル芸術家のガチ天才からみると、これは完全に商売人の勘違いだと思う。
本当に創造的な人というのは脳が既に普通の人でないから自然にそうなってしまうだけだ。
僕の場合、専門学校で設計課題だされて、普通に出したのに全て講師に理解できない設計だったらしく(自分には完全にわかるのだが)、全部落とされ、侮辱されまくり、ずっと徹底した嫌がらせを2年間受け続けていた。校長にまで訴え、やっと卒業したが、今度は建築士試験も設計課題で全部落とされた。その様に、創造性というのはそれ以外ありようがない人の有様なのであり、追随者の人達が真似事で創造しようとするのは、職能を間違っていると私は思う。寧ろ僕の実人生で体験済みのよう、言われた通りに課題を遂行してるのにできあがったものが「普通ではない」らしく、全部落とされてみたら分かる。
建築の専門学校とか建築士試験みたいに、課題のパターンがあってそこに適合する設計にすれば受かるという場合でも、それらを全てクリアしてきっちり仕上げても、全体が創造的(個性的)だと排除される工業規格的場面では、そもそも創造性というのは発揮できないし、創造的個人は迫害されるのである。
自分は建築以外、例えば絵画分野でも、日本の教育体制では「普通」「無個性」で「理解できる」「定型的」なものを選好する場面で、あらゆる面で迫害を受けまくってきた。美大芸大も全部落とされたし、予備校でも講師らにひたすら侮辱され続けていた様なものだ。創造性とはそういう必然の状態なのだ。
だから、イノベーター理論を応用して「創造的」な仕事を選好すると言っている場面で、芸術家の比喩を使っていたジョブスは、僕は馬鹿だと思っている。このジョブスという男は本物の創造性をなめきっているのである。彼は僕みたいにあらゆる場所で徹底的迫害を受けまくった経験があるんだろうか?
真の創造性は、あらゆる「自称普通の人」「凡愚」から理由なく最大限の敵意と悪意で、徹底的妨害を受ける宿命の元にある。そしてその創造性は、凡人にまねられるものでもなければ、そもそも人間性の成り立ちから、おそらく遺伝子の変異ですら異なっているのだ。だから創造性など真似するべきではない。創造的な仕事は、天才に全面的に依存しているし、すべてを天才自身に帰するべきだ。これは私自身がその一種だから断言できる。天才自身は或る意味、遺伝子の操り人形の様なもので、その創造性自体を統御できないのである。だから凡愚がその様な状態をまねてもまねられないし、職分が全く違うのだ。
凡人は凡人らしく生きるべきである。例えば私のきょうだいなんてそれだった。途中で漫画家・アニメーターの道あきらめて常人になっている。それは天才以上の戦いに着いてこれないのを悟ったからだ。しかし自身を動かしている力がどの程度のものか悟っていれば天才が諦めるとかありえないのだ。
天才という言葉の無駄に含意するものが多いので、別の言葉にすれば、「内なる声」(ソクラテスのダイモニオンの声みたいだが)がある人は、その声に従うしかない。その声が自分を叫ばせようとするのであって、その声に従わないと自分は酷く無意味になってしまう。だから内なる声に従うしかない。「内なる声」は自分に憑依し、自分を内面から突き動かし、何事かを語らせ、何物かを作らせ、自分を含む人類を啓蒙する。だからそれは神の導きの様なもので、そもそも創造性を付与されている肉体は、その魂の操り人形でしかない。
有名なアップルのCMもこの点を勘違いしていると思うのある。
カントの言い方を借りると、詩人を考えてみるといい。詩なんて全くなんの規則もない場所に、いきなり語れといわれても、余程の才能がないと好きに歌うことすらできない人達が殆どではないだろうか? しかし詩心がある人は、自分もだけど無限に語るべきことがあるからそのほんの一部しか表せないのだ。創造性を衒う、という態度は、こうして、なんの意味も持っていない。それは種族の違う生物が別の生物に擬態しても、所詮は偽物になるのと同じだ。寧ろ凡人は凡庸さにしか為し得ない仕事に集中し、天才自身の飛翔を妨害せずその恩恵に浴する方が、よほど全人類の為になるのは疑うべくもない。
天才を妨害する。その翼を折り、表現されたはず偉大な精神、全人類を遥かに進歩させる重要な革新が全貌を現す前に、妬みと無理解のなか人類史から永久抹消する。これが東京都民全体のもっている、悪意ある精神的態度であった。私はそこを去ったし今後も近づかないつもりだが、事実、創造性のない街だ。
創造的な街は、少なくとも、天才を理解できる人がいなかったとしても、その個人を放っておくべきである。勿論、天才を理解できる人がいる、即ち天才らの集まりである方が望ましいが。私の町(北茨城市)は、この点では私を幾らか評価しているのも含め、常に放置してくれる点が気に入っている。
私にとって東京都は最悪の環境だった。それは、私の行動、活動の全てを悉く過干渉で迫害してきたからである。この点で彼らは悪い意味で最も非創造的な人達だと確信している。そしてその環境から、真の天才は永遠に出現できないであろう。創造的な他人を、群れる悪意で陥れる様な衆愚集団なのだから。
世間の愚物は、東京は都会だから開放的だと勘違いしているが、事実は全く正反対だった。私の故郷の田舎町の方が、よほど他人の行動に干渉してこない。単に干渉してこないどころか、芸術に対する理解度も、ひいき抜きで東京全体に比べ遥かにずっとある方だ。だから私はこうして生き延びられたのだ。東京の多摩川の河川敷に椅子が落ちていたので、散歩というかジョギングの途中でそれに座って風景を眺めていたら、高校生が「何だあれ」といって嘲笑してきた。この一つの事例をとっても、東京なる場所が創造性へいかに抑圧的か一目瞭然である。他人が非典型的行動をとっても放っておけばいいのである。
自分が生まれてはじめて「KY」とかいう馬鹿げた言葉で、他人の行動を無理やり衆愚の同調圧力で押さえつけようとしてきた本物の愚物をみたのも東京都内であった。今でもあの男は死んだ方がいいと確信している。その男は、他人が自由な行動を取るのが許せないらしく、自分の暗愚な判断に従えというのだ。
自由もなければ創造性の余地もない。それが東京都という反面教師に足る、非創造的都市である。だから私はそこが大嫌いになったし、今後も永久に関わりたくないのだが。しかしここには重要な教訓もある。天才を弾圧する集団には未来永劫、進歩の余地がないということだ。没落するべくして没落する。
逆に、どれだけ非典型的な行動をとっていても、いやむしろそれが普通でなければないほど面白がる様な集団性というのがありうる筈だ。私の地元がそこまでの域に達しているとはいえないが、将来はそうなってほしい。寛容さが高い集団であればあるほど、進歩の余地があちこちに生じることになるだろう。
また、商売に限っても同じで、そもそも天才は遺伝子からして違う場合も多いだろうし、むしろどれだけ努力しようが典型的な仕事ができない。自分は完全にそれだが。無理やり同調圧力で同型ロボット人間を量産しようとする商売は、いわばコモディティ化しているので利益率が競争で下がっていくであろう。だから創造的な仕事をしようなんて考える必要は全然ないのである。定型作業が得意な個人は、勝手に量産型普通教育で日々作られていくのだから、わざわざそういう人達が苦手な作業なんてやらせてもしょうがない。学歴も経歴も破茶滅茶で、ぐちゃぐちゃ訳のわからない生き方をしている人が創造的なのだ。
創造性の高い個人といっても、全く利益に繋がらない変異もあれば、完全に高利に直結している変異もある。商売面に限っていえば、商才は利益追求の才能なのだから、その点で圧倒的に創造的な個人なんて、努力の次元を超えてるのは前提として、最初からまねてまねられる代物ではない筈だ。ジョブスが創造的商才の持ち主だった、とは言えるだろう。ただ彼が天才だったというのは言い過ぎで、スマートフォンだの家庭用PCだのは既に作られていたのだから、彼の才能はそれを販売に結ぶ所の演出能力にあったと思う。裏返せばその商才の度合いでアイコンOS改良したビルゲイツの方が上だったのだ。
まとめると、天才と凡人は成り立ち自体が違うから、後者が前者をまねる意味もなければ、天才にしか為し得ない仕事があるのだから、天才の仕事への妨害も全く、全人類史への公害でしかない。だが東京みたいに集団圧力が凡愚化へ向け行われる場では天才は生きられないので、脱出しかないであろう。
そして商才もだが、天才は最初から周りの凡人と違うのだから、その人の創造性をまねることにはなんの意味もない。そもそも真似られない。したがって凡人は、凡庸な作業に集中し効率化に努力しなければならず、天才も天才でその種の型にはまった仕事は完全に人任せにし自分は創造に集中すべきである。
本当に創造的な人というのは脳が既に普通の人でないから自然にそうなってしまうだけだ。
僕の場合、専門学校で設計課題だされて、普通に出したのに全て講師に理解できない設計だったらしく(自分には完全にわかるのだが)、全部落とされ、侮辱されまくり、ずっと徹底した嫌がらせを2年間受け続けていた。校長にまで訴え、やっと卒業したが、今度は建築士試験も設計課題で全部落とされた。その様に、創造性というのはそれ以外ありようがない人の有様なのであり、追随者の人達が真似事で創造しようとするのは、職能を間違っていると私は思う。寧ろ僕の実人生で体験済みのよう、言われた通りに課題を遂行してるのにできあがったものが「普通ではない」らしく、全部落とされてみたら分かる。
建築の専門学校とか建築士試験みたいに、課題のパターンがあってそこに適合する設計にすれば受かるという場合でも、それらを全てクリアしてきっちり仕上げても、全体が創造的(個性的)だと排除される工業規格的場面では、そもそも創造性というのは発揮できないし、創造的個人は迫害されるのである。
自分は建築以外、例えば絵画分野でも、日本の教育体制では「普通」「無個性」で「理解できる」「定型的」なものを選好する場面で、あらゆる面で迫害を受けまくってきた。美大芸大も全部落とされたし、予備校でも講師らにひたすら侮辱され続けていた様なものだ。創造性とはそういう必然の状態なのだ。
だから、イノベーター理論を応用して「創造的」な仕事を選好すると言っている場面で、芸術家の比喩を使っていたジョブスは、僕は馬鹿だと思っている。このジョブスという男は本物の創造性をなめきっているのである。彼は僕みたいにあらゆる場所で徹底的迫害を受けまくった経験があるんだろうか?
真の創造性は、あらゆる「自称普通の人」「凡愚」から理由なく最大限の敵意と悪意で、徹底的妨害を受ける宿命の元にある。そしてその創造性は、凡人にまねられるものでもなければ、そもそも人間性の成り立ちから、おそらく遺伝子の変異ですら異なっているのだ。だから創造性など真似するべきではない。創造的な仕事は、天才に全面的に依存しているし、すべてを天才自身に帰するべきだ。これは私自身がその一種だから断言できる。天才自身は或る意味、遺伝子の操り人形の様なもので、その創造性自体を統御できないのである。だから凡愚がその様な状態をまねてもまねられないし、職分が全く違うのだ。
凡人は凡人らしく生きるべきである。例えば私のきょうだいなんてそれだった。途中で漫画家・アニメーターの道あきらめて常人になっている。それは天才以上の戦いに着いてこれないのを悟ったからだ。しかし自身を動かしている力がどの程度のものか悟っていれば天才が諦めるとかありえないのだ。
天才という言葉の無駄に含意するものが多いので、別の言葉にすれば、「内なる声」(ソクラテスのダイモニオンの声みたいだが)がある人は、その声に従うしかない。その声が自分を叫ばせようとするのであって、その声に従わないと自分は酷く無意味になってしまう。だから内なる声に従うしかない。「内なる声」は自分に憑依し、自分を内面から突き動かし、何事かを語らせ、何物かを作らせ、自分を含む人類を啓蒙する。だからそれは神の導きの様なもので、そもそも創造性を付与されている肉体は、その魂の操り人形でしかない。
有名なアップルのCMもこの点を勘違いしていると思うのある。
カントの言い方を借りると、詩人を考えてみるといい。詩なんて全くなんの規則もない場所に、いきなり語れといわれても、余程の才能がないと好きに歌うことすらできない人達が殆どではないだろうか? しかし詩心がある人は、自分もだけど無限に語るべきことがあるからそのほんの一部しか表せないのだ。創造性を衒う、という態度は、こうして、なんの意味も持っていない。それは種族の違う生物が別の生物に擬態しても、所詮は偽物になるのと同じだ。寧ろ凡人は凡庸さにしか為し得ない仕事に集中し、天才自身の飛翔を妨害せずその恩恵に浴する方が、よほど全人類の為になるのは疑うべくもない。
天才を妨害する。その翼を折り、表現されたはず偉大な精神、全人類を遥かに進歩させる重要な革新が全貌を現す前に、妬みと無理解のなか人類史から永久抹消する。これが東京都民全体のもっている、悪意ある精神的態度であった。私はそこを去ったし今後も近づかないつもりだが、事実、創造性のない街だ。
創造的な街は、少なくとも、天才を理解できる人がいなかったとしても、その個人を放っておくべきである。勿論、天才を理解できる人がいる、即ち天才らの集まりである方が望ましいが。私の町(北茨城市)は、この点では私を幾らか評価しているのも含め、常に放置してくれる点が気に入っている。
私にとって東京都は最悪の環境だった。それは、私の行動、活動の全てを悉く過干渉で迫害してきたからである。この点で彼らは悪い意味で最も非創造的な人達だと確信している。そしてその環境から、真の天才は永遠に出現できないであろう。創造的な他人を、群れる悪意で陥れる様な衆愚集団なのだから。
世間の愚物は、東京は都会だから開放的だと勘違いしているが、事実は全く正反対だった。私の故郷の田舎町の方が、よほど他人の行動に干渉してこない。単に干渉してこないどころか、芸術に対する理解度も、ひいき抜きで東京全体に比べ遥かにずっとある方だ。だから私はこうして生き延びられたのだ。東京の多摩川の河川敷に椅子が落ちていたので、散歩というかジョギングの途中でそれに座って風景を眺めていたら、高校生が「何だあれ」といって嘲笑してきた。この一つの事例をとっても、東京なる場所が創造性へいかに抑圧的か一目瞭然である。他人が非典型的行動をとっても放っておけばいいのである。
自分が生まれてはじめて「KY」とかいう馬鹿げた言葉で、他人の行動を無理やり衆愚の同調圧力で押さえつけようとしてきた本物の愚物をみたのも東京都内であった。今でもあの男は死んだ方がいいと確信している。その男は、他人が自由な行動を取るのが許せないらしく、自分の暗愚な判断に従えというのだ。
自由もなければ創造性の余地もない。それが東京都という反面教師に足る、非創造的都市である。だから私はそこが大嫌いになったし、今後も永久に関わりたくないのだが。しかしここには重要な教訓もある。天才を弾圧する集団には未来永劫、進歩の余地がないということだ。没落するべくして没落する。
逆に、どれだけ非典型的な行動をとっていても、いやむしろそれが普通でなければないほど面白がる様な集団性というのがありうる筈だ。私の地元がそこまでの域に達しているとはいえないが、将来はそうなってほしい。寛容さが高い集団であればあるほど、進歩の余地があちこちに生じることになるだろう。
また、商売に限っても同じで、そもそも天才は遺伝子からして違う場合も多いだろうし、むしろどれだけ努力しようが典型的な仕事ができない。自分は完全にそれだが。無理やり同調圧力で同型ロボット人間を量産しようとする商売は、いわばコモディティ化しているので利益率が競争で下がっていくであろう。だから創造的な仕事をしようなんて考える必要は全然ないのである。定型作業が得意な個人は、勝手に量産型普通教育で日々作られていくのだから、わざわざそういう人達が苦手な作業なんてやらせてもしょうがない。学歴も経歴も破茶滅茶で、ぐちゃぐちゃ訳のわからない生き方をしている人が創造的なのだ。
創造性の高い個人といっても、全く利益に繋がらない変異もあれば、完全に高利に直結している変異もある。商売面に限っていえば、商才は利益追求の才能なのだから、その点で圧倒的に創造的な個人なんて、努力の次元を超えてるのは前提として、最初からまねてまねられる代物ではない筈だ。ジョブスが創造的商才の持ち主だった、とは言えるだろう。ただ彼が天才だったというのは言い過ぎで、スマートフォンだの家庭用PCだのは既に作られていたのだから、彼の才能はそれを販売に結ぶ所の演出能力にあったと思う。裏返せばその商才の度合いでアイコンOS改良したビルゲイツの方が上だったのだ。
まとめると、天才と凡人は成り立ち自体が違うから、後者が前者をまねる意味もなければ、天才にしか為し得ない仕事があるのだから、天才の仕事への妨害も全く、全人類史への公害でしかない。だが東京みたいに集団圧力が凡愚化へ向け行われる場では天才は生きられないので、脱出しかないであろう。
そして商才もだが、天才は最初から周りの凡人と違うのだから、その人の創造性をまねることにはなんの意味もない。そもそも真似られない。したがって凡人は、凡庸な作業に集中し効率化に努力しなければならず、天才も天才でその種の型にはまった仕事は完全に人任せにし自分は創造に集中すべきである。
理想国の建設
僕の中学の時の或る同級生の女子が、僕に「考えすぎだよ」と言っていた。これ、その後20年経っても、全く意味が分からない。そもそも考えすぎるという状態も意味がわからないが、僕は単に普通に生きていたのだから。裏を返せばその女子は自分に比べ、余り考えずに生きている人だっただけだろうと思う。
僕はその後、色々な思想家が過去にいたのを知って、大分学んだが(どの位かというと子供の頃から今までずっと勉強していた記憶しかない。純粋に)、いうまでもなく全て網羅などできない。この点で情報はとうに人の限界を超えている。
数年前、到底学び尽くせないと悟ってからも学び続けているが。
ゲーテの脳内にいたファウスト博士は、自分と同じで全知の到達不能性に悟って、魂の遍歴後に、理想の国造りを始める所で死ぬ。或る意味、プラトン思想を劇化した代物が『ファウスト』だったのだろう。孔子もカントも、福沢諭吉も、大抵の哲人が結局、学ぶ最終目的は、道徳的な理想国の建設だったのだ。
僕はその後、色々な思想家が過去にいたのを知って、大分学んだが(どの位かというと子供の頃から今までずっと勉強していた記憶しかない。純粋に)、いうまでもなく全て網羅などできない。この点で情報はとうに人の限界を超えている。
数年前、到底学び尽くせないと悟ってからも学び続けているが。
ゲーテの脳内にいたファウスト博士は、自分と同じで全知の到達不能性に悟って、魂の遍歴後に、理想の国造りを始める所で死ぬ。或る意味、プラトン思想を劇化した代物が『ファウスト』だったのだろう。孔子もカントも、福沢諭吉も、大抵の哲人が結局、学ぶ最終目的は、道徳的な理想国の建設だったのだ。
2019年9月23日
2019年9月22日
商人一般の仕事は短期的私利の追求に過ぎない
世間の商人一般、特に会社員、労働者らが無意識にイメージなり定義している「仕事」は、確かに私のそれではない。そして私からみると彼らがやっている仕事は仕事ではなく趣味である。確実な対価の為に一定の作業をする、それが仕事なら人は、何も考えていないのだ。何れそれらは機械で消える生業だ。
私の仕事は、そもそも対価が期待できない。そして常に不確実で、自力で考えないと何も進まず、終わっても世界中から沈黙しか得られない。だが私の死後も肉体を超えて残り、しかも文明滅亡後もそれしか残らないし、永遠にそれ以外の仕事は人類の記録ではない。神への奉仕。商売などどれも現世の趣味だ。
私の仕事は、その上、作業自体が常に絶対的無力の前で誰もいないジャングルをあらゆる障害物のなか、目的なく前進し続ける様なもので、正確には終わるということがない。単にそれ以上進めないほど疲れきって、それ以上前進しようにも死ぬ以外の道がないので、限界の前で作業を諦める場合があるだけだ。
私は労働者全体と、一人も分かり合えなかったし、今後も分かり合えないと思う。調度、歌人と職人のみているものが違う様に、今日の世人は私と同時代を経過していても全く日々の作業内容も、目的意識も違うのである。それで彼らは繰り返し私を侮辱した。金儲けしながら私を無業とか無職といって貶した。私は労働者全般がそれほど悪質で、意味不明な差別的衆愚だとは全然知らなかったので、SNS上で繰り返し侮辱を受けて初めて、彼らがいわゆる奴隷階級なのだと段々と悟っていった。はじめはなぜ彼らがそれほど悪質なのか、何も知識がなかった。結果としては、彼らが無教養の下級商人だからなのだが。
社会主義者、共産主義者らは、マルクスもウェッブ夫妻もベルンシュタインも毛沢東も、決定的な間違いを犯した。それは労働階級なるものの実態を、特に彼らの精神構造や、生活感を知らなかったことだ。私はSNS上で彼らの生態を詳しく観察して、彼らが奴隷階級だと悟ったので、古い左派に同情できない。労働階級なるものは自由をみずから放擲する。それは彼らが同情に足る哀れな貧者だからではない。単に進んで、隷属的地位を択んでいるのである。
会社員一般に独立を勧める自営業者は全く見当違いの誘導をしている。労働者一般は臆病で、卑屈で、責任回避的だから、大組織に従属したがるのである。
ミルは労働階級に、演説中で彼らの隷属的精神への軽蔑の念をはっきり述べたら却って称賛されたと自伝に書いていたが、ミルが『自由論』段階で社会主義に懐疑的だったのは、その種の労働者なるものの集団行動的な精神構造をなんらかの理路で彼が知っていた証拠になる。
労働者根性、会社員根性は、悪評高い役人根性と同じくらい負の側面を含んでいる。それは彼らが自主性がなく、営利的に行動し、世俗的価値のみに注目する、こせこせした下級商人としての資質を植えつけられてしまう点にある。そしてこの面からみると、高貴さも清貧も、自由さえ縁遠いものになっていく。
なぜ労働階級が責任回避癖を身に着けるかといえば、それが彼らの生計を失う危険に直結しているせいである。だから匿名の隠れ蓑で、ネット上で荒らしなどをやっている人間が紛れているのだし、奴隷精神の果てには地位に服従する身分制的習癖がつく。それで上司や客に低頭、挙句皇族に万歳三唱するのだ。
所が、労働者らは教養水準そのものが、官民問わず知識人一般に比べれば低い。普段から読書なり勉学を生活にしている人達に比べて商行為をしていればそうもなるだろう。それで彼らは傲慢になり、集団で「経済弱者」とみなした人間を、自分の僅かな稼ぎと比べて差別し、憂さ晴らしにしているのである。
しかしながら、純粋な知識人からみると金儲けは商人の目的で、そもそも世俗的価値に過ぎず、金については無頓着なことが多い、というよりそれくらい脱俗的でなければ、前提として学者なり芸術家なりでやっていく知的水準にあるとはいえないだろう。だから労働者全般は、恥を売っているのである。
なぜ私が労働者一般を軽蔑する様になったかなら、こういう理路で、彼らの実質的な生態と商人根性を、底まで見てしまったからである。そこに尊さは何もなかった。この点では生活の為に卑劣なことでもする、とか、何も考えずに言われた通りにし繁殖するとか、その程度の動物的要素しか存在していない。だから上述のよう私は社民主義・民社主義は勿論、共産主義にも、根本的に理論的な間違いがあると思っている。それは労働者無謬論の点である。労働者一般は哀れで救済されるべき被害者という説は、初期の工場労働者とか、今の非正規雇用者とか移民労働者などには当てはまるかもしれないが、全体論にはならない。
では資本主義・自由主義・自由至上主義が正義かなら、勿論そこには格差拡大によって国家単位での貧困を解決できないとか別の欠点がある。そもそもそれら単体で需要全体を巧く満たせないから不景気になるわけだ。
右派・左派なる対立協議は根本的に極論で、単に中道のどこかに着地するしかない。
くり返すが、労働者一般をある種の無謬の善人として描いていた社会主義・共産主義者は、資本家を強者とみなし労働者全般を搾取対象の奴隷とみて当然と考える資本主義者・自由主義者に比べ別の倫理的間違いを犯している。それは無教養な労働者らの品性下劣さや悪徳に満ちた卑賤さを知らない、ある無知からきている。
中道の全てが正しいわけでもない。教育の一律無償化は金持ちにより有利なのに採用されているし、修正資本主義の行き過ぎで企業国有化(共産経済化)を図ったアベノミクスが経済効率を決定的に損ないつつ公害すら防止しようとしない(寧ろ推進している)のもその種の偽の中道内での混乱からきている。政府が最低賃金を法制で決めるのもただの市場干渉で、福祉行政との混同にすぎない。生活保護受給をあれこれ難癖をつけ拒絶する水際作戦は、公務員一般の共謀した怠業による、国民一般への人権侵害である。
こうして知識人ら(ほぼ絶滅しているが)の仕事は、本来的に商人や役人のそれではない。
知識人一般は(広義で上級の芸術家も入る)、私利で行動する卑しい癖をもっている上に学術全般を実利のため表面的にしか学ばない商人全般とか、そもそも数等の暴力に依拠し権力闘争を手段にするしかない議員・大臣・皇族やその部下な公務員ら(裁判官除く)と異なる目線で社会を統御する必要がある。
我々の仕事とは、福沢諭吉が『文明論之概略』でいうよう根本療法を施すことである。対症療法の方は政治家とか商人がやればいい。長期的な視野、いわゆる超時代的な大局観とか、人類史全体を含む純粋に哲学的な見方ができるのは我々だけであり、深い洞察に基づいて人類全体を正道に導かねばならない。
なぜ労働者の一部があれだけ傲慢で卑屈なのかといえば、彼らが不学で下賤な品性なのは前提に、そもそも彼らはその種の性質によって下級商業に適合しているのである。隷属的で機械に代わる生業を集団で行うのは、高邁で有徳な高い知性、鋭い感性の持ち主が行うには余りに退屈で、耐え難いものだからだ。人類文明がどれだけ進化しても、将来のどの地点でもやはり上智と下愚とは移らないだろう。今日の下愚は大多数が商人になっている以上、労働者の房に収まるということなのだろう。がこれは彼らに閑居し不善をさせない為にはふさわしい措置と私は思う。船員に碇を磨かせる船長はこれを熟知していたのだ。彼ら労働者一般が僅かな暇を作ってなにをするか私はSNS上で観察していた。彼らはその殆どの時間を不倫・浮気相手を探し実際にそれをするか、さもなければ愚にもつかない名誉毀損、侮辱、殺人予告など、誹謗・嫌がらせの犯罪ゲームをしていた。孔子は小人の分析力に於いて凡そ全く正しかったのだ。
孫正義はAIが社会化されても人類は別の仕事を作り出すだろうと言った。これは資本家の強欲の為だけでなく、下愚全般が労働から解放されたとき一斉にあらゆる犯罪に手を染めると予想される以上、実質で最も合理的な商業の考えと思う。だから私の仕事を侮辱していた人達は忙殺されて死ぬことになる。
私の仕事は、そもそも対価が期待できない。そして常に不確実で、自力で考えないと何も進まず、終わっても世界中から沈黙しか得られない。だが私の死後も肉体を超えて残り、しかも文明滅亡後もそれしか残らないし、永遠にそれ以外の仕事は人類の記録ではない。神への奉仕。商売などどれも現世の趣味だ。
私の仕事は、その上、作業自体が常に絶対的無力の前で誰もいないジャングルをあらゆる障害物のなか、目的なく前進し続ける様なもので、正確には終わるということがない。単にそれ以上進めないほど疲れきって、それ以上前進しようにも死ぬ以外の道がないので、限界の前で作業を諦める場合があるだけだ。
私は労働者全体と、一人も分かり合えなかったし、今後も分かり合えないと思う。調度、歌人と職人のみているものが違う様に、今日の世人は私と同時代を経過していても全く日々の作業内容も、目的意識も違うのである。それで彼らは繰り返し私を侮辱した。金儲けしながら私を無業とか無職といって貶した。私は労働者全般がそれほど悪質で、意味不明な差別的衆愚だとは全然知らなかったので、SNS上で繰り返し侮辱を受けて初めて、彼らがいわゆる奴隷階級なのだと段々と悟っていった。はじめはなぜ彼らがそれほど悪質なのか、何も知識がなかった。結果としては、彼らが無教養の下級商人だからなのだが。
社会主義者、共産主義者らは、マルクスもウェッブ夫妻もベルンシュタインも毛沢東も、決定的な間違いを犯した。それは労働階級なるものの実態を、特に彼らの精神構造や、生活感を知らなかったことだ。私はSNS上で彼らの生態を詳しく観察して、彼らが奴隷階級だと悟ったので、古い左派に同情できない。労働階級なるものは自由をみずから放擲する。それは彼らが同情に足る哀れな貧者だからではない。単に進んで、隷属的地位を択んでいるのである。
会社員一般に独立を勧める自営業者は全く見当違いの誘導をしている。労働者一般は臆病で、卑屈で、責任回避的だから、大組織に従属したがるのである。
ミルは労働階級に、演説中で彼らの隷属的精神への軽蔑の念をはっきり述べたら却って称賛されたと自伝に書いていたが、ミルが『自由論』段階で社会主義に懐疑的だったのは、その種の労働者なるものの集団行動的な精神構造をなんらかの理路で彼が知っていた証拠になる。
労働者根性、会社員根性は、悪評高い役人根性と同じくらい負の側面を含んでいる。それは彼らが自主性がなく、営利的に行動し、世俗的価値のみに注目する、こせこせした下級商人としての資質を植えつけられてしまう点にある。そしてこの面からみると、高貴さも清貧も、自由さえ縁遠いものになっていく。
なぜ労働階級が責任回避癖を身に着けるかといえば、それが彼らの生計を失う危険に直結しているせいである。だから匿名の隠れ蓑で、ネット上で荒らしなどをやっている人間が紛れているのだし、奴隷精神の果てには地位に服従する身分制的習癖がつく。それで上司や客に低頭、挙句皇族に万歳三唱するのだ。
所が、労働者らは教養水準そのものが、官民問わず知識人一般に比べれば低い。普段から読書なり勉学を生活にしている人達に比べて商行為をしていればそうもなるだろう。それで彼らは傲慢になり、集団で「経済弱者」とみなした人間を、自分の僅かな稼ぎと比べて差別し、憂さ晴らしにしているのである。
しかしながら、純粋な知識人からみると金儲けは商人の目的で、そもそも世俗的価値に過ぎず、金については無頓着なことが多い、というよりそれくらい脱俗的でなければ、前提として学者なり芸術家なりでやっていく知的水準にあるとはいえないだろう。だから労働者全般は、恥を売っているのである。
なぜ私が労働者一般を軽蔑する様になったかなら、こういう理路で、彼らの実質的な生態と商人根性を、底まで見てしまったからである。そこに尊さは何もなかった。この点では生活の為に卑劣なことでもする、とか、何も考えずに言われた通りにし繁殖するとか、その程度の動物的要素しか存在していない。だから上述のよう私は社民主義・民社主義は勿論、共産主義にも、根本的に理論的な間違いがあると思っている。それは労働者無謬論の点である。労働者一般は哀れで救済されるべき被害者という説は、初期の工場労働者とか、今の非正規雇用者とか移民労働者などには当てはまるかもしれないが、全体論にはならない。
では資本主義・自由主義・自由至上主義が正義かなら、勿論そこには格差拡大によって国家単位での貧困を解決できないとか別の欠点がある。そもそもそれら単体で需要全体を巧く満たせないから不景気になるわけだ。
右派・左派なる対立協議は根本的に極論で、単に中道のどこかに着地するしかない。
くり返すが、労働者一般をある種の無謬の善人として描いていた社会主義・共産主義者は、資本家を強者とみなし労働者全般を搾取対象の奴隷とみて当然と考える資本主義者・自由主義者に比べ別の倫理的間違いを犯している。それは無教養な労働者らの品性下劣さや悪徳に満ちた卑賤さを知らない、ある無知からきている。
中道の全てが正しいわけでもない。教育の一律無償化は金持ちにより有利なのに採用されているし、修正資本主義の行き過ぎで企業国有化(共産経済化)を図ったアベノミクスが経済効率を決定的に損ないつつ公害すら防止しようとしない(寧ろ推進している)のもその種の偽の中道内での混乱からきている。政府が最低賃金を法制で決めるのもただの市場干渉で、福祉行政との混同にすぎない。生活保護受給をあれこれ難癖をつけ拒絶する水際作戦は、公務員一般の共謀した怠業による、国民一般への人権侵害である。
こうして知識人ら(ほぼ絶滅しているが)の仕事は、本来的に商人や役人のそれではない。
知識人一般は(広義で上級の芸術家も入る)、私利で行動する卑しい癖をもっている上に学術全般を実利のため表面的にしか学ばない商人全般とか、そもそも数等の暴力に依拠し権力闘争を手段にするしかない議員・大臣・皇族やその部下な公務員ら(裁判官除く)と異なる目線で社会を統御する必要がある。
我々の仕事とは、福沢諭吉が『文明論之概略』でいうよう根本療法を施すことである。対症療法の方は政治家とか商人がやればいい。長期的な視野、いわゆる超時代的な大局観とか、人類史全体を含む純粋に哲学的な見方ができるのは我々だけであり、深い洞察に基づいて人類全体を正道に導かねばならない。
なぜ労働者の一部があれだけ傲慢で卑屈なのかといえば、彼らが不学で下賤な品性なのは前提に、そもそも彼らはその種の性質によって下級商業に適合しているのである。隷属的で機械に代わる生業を集団で行うのは、高邁で有徳な高い知性、鋭い感性の持ち主が行うには余りに退屈で、耐え難いものだからだ。人類文明がどれだけ進化しても、将来のどの地点でもやはり上智と下愚とは移らないだろう。今日の下愚は大多数が商人になっている以上、労働者の房に収まるということなのだろう。がこれは彼らに閑居し不善をさせない為にはふさわしい措置と私は思う。船員に碇を磨かせる船長はこれを熟知していたのだ。彼ら労働者一般が僅かな暇を作ってなにをするか私はSNS上で観察していた。彼らはその殆どの時間を不倫・浮気相手を探し実際にそれをするか、さもなければ愚にもつかない名誉毀損、侮辱、殺人予告など、誹謗・嫌がらせの犯罪ゲームをしていた。孔子は小人の分析力に於いて凡そ全く正しかったのだ。
孫正義はAIが社会化されても人類は別の仕事を作り出すだろうと言った。これは資本家の強欲の為だけでなく、下愚全般が労働から解放されたとき一斉にあらゆる犯罪に手を染めると予想される以上、実質で最も合理的な商業の考えと思う。だから私の仕事を侮辱していた人達は忙殺されて死ぬことになる。
正義
お前は正義
だが力をもたない
だから悪しき者に打ち砕かれ
ただの理念と言われている
私はお前を唯一知る者
だから善き者の元へ義を伝え
力ある者の驕りを挫く
相対主義の前で怯える者は
やがて野生に呑まれていく
お前は正義
今や力を兼ねた尊き者
私の手元にある
自由と一致した力
失われない魂
だが力をもたない
だから悪しき者に打ち砕かれ
ただの理念と言われている
私はお前を唯一知る者
だから善き者の元へ義を伝え
力ある者の驕りを挫く
相対主義の前で怯える者は
やがて野生に呑まれていく
お前は正義
今や力を兼ねた尊き者
私の手元にある
自由と一致した力
失われない魂
地獄堕ちの国民
お前らは奴隷として
天皇にひれ伏し
金儲けに一生を費やし
遂には貧者を貪った自分を正当化した
だからお前は地獄に堕ちる
お前以外の誰が堕ちるものか
強者の前に土下座しながら
ますます貢ぎ
弱い者を痛めつけたお前らなのだから
地獄ではその何倍も痛めつけられ
絶対強者の前で
無限に苦しむがいい
天皇にひれ伏し
金儲けに一生を費やし
遂には貧者を貪った自分を正当化した
だからお前は地獄に堕ちる
お前以外の誰が堕ちるものか
強者の前に土下座しながら
ますます貢ぎ
弱い者を痛めつけたお前らなのだから
地獄ではその何倍も痛めつけられ
絶対強者の前で
無限に苦しむがいい
日本画と欧米美術の王道的な接合点
私が格闘しているのは、欧米のハイアートやハイカルチャーそのものの流れと、日本固有の大衆・貴族文化の狭間にあって、両者の良心的で正統な接合点を自分の中に体化する試みなのかもしれない。そしてこの試みはこれまで誰もが失敗してきた重要だが接合困難な部位で、自分が最後の技術者なのだろう。欧米人一般は、私がやってきた様な接合の試みなど全く無関心で、最初から大衆文化を種として扱い、悩む必要などなかったのだと思う。ウォーホルがこの点で、そんなに困難な仕事をしていたとは思えない。だが自分の場合は体どころか魂を引き裂く様な荒野の中心でもう一人しか試みる者のない仕事だ。
村上隆や春樹は、日本というか、東京・関西圏の大衆文化を彼ら自身がその内部で生まれ育った都会俗物として素で体化できた。だが自分はその種の東京・関西由来の大衆文化は、最初から外部的な異物で、選択的な批評対象でしかなかった。だから自分自身の文化ですらない。それで肯定的にみれない。
「漫画」「アニメ」「ゲーム」、これらは完全に任天堂だの集英社だのジブリだの都会の俗物が商売としてやっている代物という批評的認識が、関東北部圏で生まれ育つと無意識にある様に思うし、大人もそう扱っている。それで私もそう思っていたし、今もそうだ。サブカルチャーが自分のものとは思わない。
だがハイアートが自分の物か。確かにそれを学んだが、これも欧米人の作り出した代物で、「日本画」は大名や皇族の慰み物だった。私はこれらを再現しても欧米人の流れの中に入れてもらえない。なぜなら日本人で、彼らの業界の外だから。では私のやっている仕事はなんなのか? どんな文化なのか?
考えてみると、サブカルチャーにせよ、大和絵にせよ、それらは自分の文化ではない(水墨画の雪村は茨城人だろうけど)。辛うじて「日本画」は私の近所で産まれた。天心ら五浦派が日本美術院で創ったのだ。寧ろ芸大は「洋画」に拘って「日本画」を排斥したのだから。今の東京人全般は虚栄心で、最早それを認めないだろうが。
単に近所に発祥地があるから、自分は日本画家なのだろうか? しかし自分は油彩画を中心にしていたし、欧米美術の流れの上で思考してきた。こうして省みると村上隆と全く違いすぎる場所から出発し、全く逆に進み、結局同じ「日本画」問題に戻る羽目になる。そして自分はいわゆる日本画家ではない。
日本画なるものを、純粋に追求しなくとも、自分が日本人で日本で創作してる以上、それは自動的に日本画になってしまう。だから自分はこの問題を、途中から無視していた。以前は国粋的表現が、当時流行だったグローバリズムへのアンチテーゼとして必要かの様に思っていた時期も一年くらいあったのだが。
超平面的な絵は、確かに唯の中間芸術だ。だからここに何か省みる価値があるとも思えないし、そんなのどの時代にもあった。問題なのは日本画と欧米美術の接合点の方だ。村上隆は亜流欧米美術で、日本画としても亜流という異様な位置づけにいる。自分は亜流を作っているのではない。自分の仕事が王道だ。
ただここにも問題がある。もし、運良く自分の仕事が世界美術の王道と認められるに至ってしまうと、今度はそれが権威化し世界に抑圧的な働きをもってしまうという矛盾した構図。
尤もそうならずに無視されて終われば、却って美術全体にとって幸福なのかもしれない。いずれにしても本流を歩むべきだ。
村上隆や春樹は、日本というか、東京・関西圏の大衆文化を彼ら自身がその内部で生まれ育った都会俗物として素で体化できた。だが自分はその種の東京・関西由来の大衆文化は、最初から外部的な異物で、選択的な批評対象でしかなかった。だから自分自身の文化ですらない。それで肯定的にみれない。
「漫画」「アニメ」「ゲーム」、これらは完全に任天堂だの集英社だのジブリだの都会の俗物が商売としてやっている代物という批評的認識が、関東北部圏で生まれ育つと無意識にある様に思うし、大人もそう扱っている。それで私もそう思っていたし、今もそうだ。サブカルチャーが自分のものとは思わない。
だがハイアートが自分の物か。確かにそれを学んだが、これも欧米人の作り出した代物で、「日本画」は大名や皇族の慰み物だった。私はこれらを再現しても欧米人の流れの中に入れてもらえない。なぜなら日本人で、彼らの業界の外だから。では私のやっている仕事はなんなのか? どんな文化なのか?
考えてみると、サブカルチャーにせよ、大和絵にせよ、それらは自分の文化ではない(水墨画の雪村は茨城人だろうけど)。辛うじて「日本画」は私の近所で産まれた。天心ら五浦派が日本美術院で創ったのだ。寧ろ芸大は「洋画」に拘って「日本画」を排斥したのだから。今の東京人全般は虚栄心で、最早それを認めないだろうが。
単に近所に発祥地があるから、自分は日本画家なのだろうか? しかし自分は油彩画を中心にしていたし、欧米美術の流れの上で思考してきた。こうして省みると村上隆と全く違いすぎる場所から出発し、全く逆に進み、結局同じ「日本画」問題に戻る羽目になる。そして自分はいわゆる日本画家ではない。
日本画なるものを、純粋に追求しなくとも、自分が日本人で日本で創作してる以上、それは自動的に日本画になってしまう。だから自分はこの問題を、途中から無視していた。以前は国粋的表現が、当時流行だったグローバリズムへのアンチテーゼとして必要かの様に思っていた時期も一年くらいあったのだが。
超平面的な絵は、確かに唯の中間芸術だ。だからここに何か省みる価値があるとも思えないし、そんなのどの時代にもあった。問題なのは日本画と欧米美術の接合点の方だ。村上隆は亜流欧米美術で、日本画としても亜流という異様な位置づけにいる。自分は亜流を作っているのではない。自分の仕事が王道だ。
ただここにも問題がある。もし、運良く自分の仕事が世界美術の王道と認められるに至ってしまうと、今度はそれが権威化し世界に抑圧的な働きをもってしまうという矛盾した構図。
尤もそうならずに無視されて終われば、却って美術全体にとって幸福なのかもしれない。いずれにしても本流を歩むべきだ。
他人の国
なぜ自分はこれほど日本人一般や日本国という単位、そのしくみや、人々の生き様が嫌いなのだろう? 世間をみるたび生理的嫌悪が凄まじいので、この国に暮らしているだけで常々不快なのだが、他言語圏で十全にくらすには語学力が足りないというか母語の方が得意すぎる。一体どうしたらいいのか?
日本人一般が好きだとか夢中になっている代物をみると、正直なところ吐き気がするほど悪趣味すぎて、全く仲良くなれない。他人の国なのだ、その意味で。彼らの同調圧力の卑しさ、卑賤さ、惨めで陰湿な悪意の有様も腐るほどみたが、何一つ共感できないし、同類になりようもない。まるで極悪人の巣窟だ。
日本人一般が好きだとか夢中になっている代物をみると、正直なところ吐き気がするほど悪趣味すぎて、全く仲良くなれない。他人の国なのだ、その意味で。彼らの同調圧力の卑しさ、卑賤さ、惨めで陰湿な悪意の有様も腐るほどみたが、何一つ共感できないし、同類になりようもない。まるで極悪人の巣窟だ。
聖人ならぬ人は他人の子供や自分に益なき異性へ無条件に親切にすべきか?
しばらく前になんか通知に出たので、適当に好意的に返信してから今に至るまでずっと考えたのだが、その人はどうも妊婦かなんかで自分のツイートをみて返信したと思われた。で、自分はその人へ好意的に思いやった返信みたいなのしたのだが、どう考えてもこれはおかしいと思った。自分の子じゃないので。
一体何をどこでどう間違えたら他人の子供を孕んでいるサル、もとい人類へ自分が親切にする道理があるのか。その人らは私を貪り、利用し、一円も払わず私を殺そうとしているのだから、そんな二足歩行の邪悪な性欲サルになぜ私だけが利他的に振舞う必要があるのだろう? 完全に倫理的に不公平と思う。
純粋に生物としてみた時、他人の子供だの、自分以外の子を宿している女だの、そして将来も宿す可能性がない若い女だのは、自分の利益にならなければ全員死のうと自分の遺伝子的利益には寧ろプラスかもしれない。これが冷酷な人間界含む自然界の現実である。私は聖人だから誰もに親切にするだけだ。
一体何をどこでどう間違えたら他人の子供を孕んでいるサル、もとい人類へ自分が親切にする道理があるのか。その人らは私を貪り、利用し、一円も払わず私を殺そうとしているのだから、そんな二足歩行の邪悪な性欲サルになぜ私だけが利他的に振舞う必要があるのだろう? 完全に倫理的に不公平と思う。
純粋に生物としてみた時、他人の子供だの、自分以外の子を宿している女だの、そして将来も宿す可能性がない若い女だのは、自分の利益にならなければ全員死のうと自分の遺伝子的利益には寧ろプラスかもしれない。これが冷酷な人間界含む自然界の現実である。私は聖人だから誰もに親切にするだけだ。
科学知識は経験による認識の抽出にすぎない
某が「サンプル数1」だから、その経験は科学的ではないみたいにいうんだが、経験論全体を完全に馬鹿にする発言なのを前提に、そこには決定的に間違っている点がある。統計的操作は経験全体を抽出できないし、標本数も真理の担保ではない。この人は、信憑性と知識(science)を混同している。
ある心理現象の普遍的な発生率と(それ自体、もとの標本が限定的な上に、有意差は或る実験の観点に対する差異の検知にすぎないから、最終的にランダム比較した実験結果のメタ分析でもこの発生率は厳密に抽出できない)、経験自体の現実性を、この科学的方法論に頼って人を判断する人は混同している。
ある心理現象の普遍的な発生率と(それ自体、もとの標本が限定的な上に、有意差は或る実験の観点に対する差異の検知にすぎないから、最終的にランダム比較した実験結果のメタ分析でもこの発生率は厳密に抽出できない)、経験自体の現実性を、この科学的方法論に頼って人を判断する人は混同している。
学びが芸術の機能
芸術の本質的機能は、学びだ。アリストテレスは既にこのことを知っていたし、今も何も変わりがない。物語は説話や同一化による疑似体験を経ての教訓だし、詩や絵はなんらかの理念や感情、感覚の伝達である。科学的文章は対象の、哲学的なそれは無形の理念を伝える手段だ。
私がなぜ、直接経験を必ずしも好まなかったか、代わりに芸術を愛好していたかもこれで明らかになった。それは学びの効率が高いからだ。少なくともなんらかの情報を抽象化してある分だけ、総括的な学びになる。ゲームも広義で抽象体験的な学びだ。特にRPGが好きなのは世界の具体的抽出だからである。
私がなぜ、直接経験を必ずしも好まなかったか、代わりに芸術を愛好していたかもこれで明らかになった。それは学びの効率が高いからだ。少なくともなんらかの情報を抽象化してある分だけ、総括的な学びになる。ゲームも広義で抽象体験的な学びだ。特にRPGが好きなのは世界の具体的抽出だからである。
魂の牢獄
毎日自分が急激に変わってしまうので
自分は自分を定義できない
進化を続けている自分を縛りつけ
ある型に嵌めることができない
だからこの世で自分は無我に等しく
その本質にあるのは変わっていく宇宙
それとも自分を縛りつけているのは
自我と呼ばれる魂の牢獄なのか
自分は自分を定義できない
進化を続けている自分を縛りつけ
ある型に嵌めることができない
だからこの世で自分は無我に等しく
その本質にあるのは変わっていく宇宙
それとも自分を縛りつけているのは
自我と呼ばれる魂の牢獄なのか
森林火災も焼き畑で土壌の栄養になる説
アマゾンの森林を、放牧主が牛の牧場に代えるために焼いていると書いてあった。けど焼き畑と同じで、土壌のカリウム分をふやすとか、窒素・炭素の深い固定を寧ろ助けるとか言われているので、牛が問題なだけで森林火災自体は長期的には問題ないのではないだろうか?
匿名の都会人という悪意
都会人全般が恥知らずな振る舞いをし、それを文化だとか、気楽だと思っているのは、彼らが匿名の衆愚になりきり、個人と結びつけられることがないと考えるからであり、これは非都会人からみると犯罪的で邪悪なものである。
独特さや普通さへの強迫観念
欧米人一般は独特さへの、日本人一般は逆に普通さへの強迫観念をもっているのではないか。
だが私は後者を10代なかばで卒業してしまい、個性的でありたいとも特に思わないので、一アジア人としてどちらの狂態にも属さない。それで私は欧米圏の大勢とも違うし、自国の一般人とも違い、仲間がいない。
だが私は後者を10代なかばで卒業してしまい、個性的でありたいとも特に思わないので、一アジア人としてどちらの狂態にも属さない。それで私は欧米圏の大勢とも違うし、自国の一般人とも違い、仲間がいない。
性差の表現にみる偏見と性愛像
女性はたまたまその時代なり地域の美に近い類型として生まれるほど常に性的な好奇の目にさらされ、少なくとも若い内はその中で生きる必要があるが、これに適応し性を商品化しているか、他人を操作する都会女の場合、寧ろその構図は狡猾な知能を発達させている。(そしてこの部分を私は好まない)
例えば『三四郎』で美禰子は、その種の都会女の類型として描かれており、熊本から出てきたうぶな主人公を媚態で欺く。今日の東京圏の媒体(サブカルや商業化している自称ハイアート)が描いている女性像もほぼこの類型を出ていないが、それは彼ら都会人一般の周りにいるのがそういう女だからである。
が、私の好む女性らしさはこの都会女なるものの類型と真逆にあるもので、誰も覚えていないと思うが『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』のモンゴルのゲル(パオ)みたいなところにいる少女みたいなののもっている、なんのけがれもない純朴さである。源氏でいえば都会ずれしていない茨城(常陸)育ちの浮舟のそれだ。
思うに、女らしさの類型に与えているマス媒体の汚染は甚だしく、それは都民一般、京都人一般からすると自分達の卑しさ(彼ら自身からみると妖艶な淫靡さ)で塗り込められて満足なのだろうが、私の目からみればソドム人が神の秩序、あるいは神ながらの心を完全に冒涜している様に見える。私は都会女なるものの魅力自体がないと思うわけではないが、寧ろその逆類型の方が貴重で、澄んでおり、尊ぶべきものだと知っている。だが、アイドルとか芸妓とか都会ずれしていない、そういう別の女らしさを巧く現し、固定させられている美術なり文芸作品を未だ知らない(正確にいうと、レゾネでもアトリエ写真の作者がソファに寝てる背景にしか載ってないけど、アントニオ・ロペス・ガルシアのマリア像は少し少女像としてそれっぽいなと思うけど)。いつか自分にできるだろうか?
例えば漫画なら『ドラゴンボール』のチチはそういう田舎女であり、ブルマは都会女として巧く現されているし、 『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』ならビアンカが田舎女、フローラまたはDS版ならデボラが別種の都会女(淑女系と遊女系なんだろう多分。DS版やってないが)として現されている。だが美術や文芸では?
女らしさに限らず、男らしさもそうだが(例えば『ドラゴンボール』の孫悟空は田舎男の典型で、『シティーハンター』の冴羽獠は都会男の典型であろう。特に女に対する反応の真逆さでよくわかる。田舎の環境では性は商品化されていないので、純愛や生殖とのみ直接結びついた素朴なものなのだ)。
東京圏・関西圏の美術・文芸・サブカルは、自文化中心主義や中華思想的なダニクル効果で、都会なるものを賛美し、田舎なるものを下位で被差別対象として描く傾向をもっているので、真に田舎の良さを全く描けていない、寧ろ彼らからすると盲点なんだろうなというのは私が常々感じてきたことだ。なぜ『ドラゴンボール』の孫悟空が生き生きとして、魅力的な田舎者として描かれ得たかというと、作者が愛知の田舎者だったからである。鳥山明の初期作品、特に『Dr.スランプ アラレちゃん』でもその種の田舎の村らしさの、良い意味での素朴さも、ロボットの娘であるアラレの、妹らしさの中に一部表現されていた。
私が、新海誠の作品に少しも共感できないというか1個もみてないからそりゃそうなのだけども、趣味が全然違うから近づけねえなと思ってるのは、この都鄙に対する価値観の極端な正反対さだと思う。自分は西新宿で思春期後半送ってたけれども、美化できる様な面は殆ど感じなかった。最悪の環境と感じた。
しかし、0才から過ごした地元の環境は、海山川湖(沼、ダム)とか田畑とか里山とか砂浜とかあったし今もあるのだけど、それらのどれも最大限に美化されうるというか、例えばサーフボードごと海に巻き込まれ死にかけたとか怖い思い出もあるがそれ含め、全体的に宇宙の美しさを崇高さに繋いでいる場だ。
なぜ新海誠が嘘をついて都会の最悪さ、新宿の大部分を覆っている表面だけの都会ごっこと、あちこちにはみ出している誰が見ても明白な醜悪さを敢えて描かず、そこを美化するのか。金儲けのために嘘ついてるとしか思えない。まあ当人じゃないから真意は知らないけども。そういう所も含め映画観ないが。
同人誌という代物がある。これも、THE都会女なるものの淫乱ぶり、いわゆる江戸の遊女気質なんだけど、そればかり描いている。まあそういう面が偏見として東京人一般のみる女らしさの類型だというのはうんざりするほど重々分かるが、私はその種の女らしさは性売買罪の真似ごととしか思えない面もある。
私は高校の時から網羅的に村上春樹の作品も全部読んだ。しかしそこに出てくる女も、一人の例外もなくTHE都会女である。で、正直な所、私は春樹の描く女像は、下手くそだと思っている。他の人らも思ってる気がするけど。女のきょうだい居たのかなこの人? と思えるくらい女心分かってない感じがする。今後歴史の淘汰を経て、春樹小説は全部消えるというのが私の現時点での予想だけれども、それらの中で最上の類型が『スプートニクの恋人』のあの名前忘れたがすみれか、すみれだとしても、「お前わかってねえな」としかいいようがないのではないか。女を描けていないという点で。男も書けてないけども。
少女漫画って歴史の隅に放り出され、永久に消えていくものなのかもしれないけど、女心を描けていたという点では、昔のはちゃんと書けてたんじゃないだろうか? 『NANA』あたりから違う代物になっていったのかもしれないが、もう少し前の類型のはちゃんとしてたというか、乙女心の表現だった気がする。
まあどうでもいい話かもしれないが、Vチューバーとかも、女だてらの姿を使いながら、女らしさではないなにかを写し取っていると思うから気持ち悪いのである。作り手がオタクなのでオタの妄想女像を表象させようとしているのがひしひしと感じられ吐き気がするから見てない。女が作りゃいいと思うのだ。
結局、脳内にいる理想の異性像を、エロス(性愛なるもの)として写し取って表象化しているのが誰かの作った偶像であり、それが下手だ、酷いというのは、その人のエロス像が現実から遊離しているばかりか、趣味が悪い場合だと思う。春樹のそれは娼婦じみ、鳥山のは田舎女も都会女もきちんと捉えていた。漱石の描いている女性像も、まああんまり上手だと思えない。どういう所がかというと、女なるものを神秘化しすぎ。普通に動物みたいなもんなのに。よかれあしかれね。じゃあお前が書いてみろよという話なのだけども。
例えば『三四郎』で美禰子は、その種の都会女の類型として描かれており、熊本から出てきたうぶな主人公を媚態で欺く。今日の東京圏の媒体(サブカルや商業化している自称ハイアート)が描いている女性像もほぼこの類型を出ていないが、それは彼ら都会人一般の周りにいるのがそういう女だからである。
が、私の好む女性らしさはこの都会女なるものの類型と真逆にあるもので、誰も覚えていないと思うが『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』のモンゴルのゲル(パオ)みたいなところにいる少女みたいなののもっている、なんのけがれもない純朴さである。源氏でいえば都会ずれしていない茨城(常陸)育ちの浮舟のそれだ。
思うに、女らしさの類型に与えているマス媒体の汚染は甚だしく、それは都民一般、京都人一般からすると自分達の卑しさ(彼ら自身からみると妖艶な淫靡さ)で塗り込められて満足なのだろうが、私の目からみればソドム人が神の秩序、あるいは神ながらの心を完全に冒涜している様に見える。私は都会女なるものの魅力自体がないと思うわけではないが、寧ろその逆類型の方が貴重で、澄んでおり、尊ぶべきものだと知っている。だが、アイドルとか芸妓とか都会ずれしていない、そういう別の女らしさを巧く現し、固定させられている美術なり文芸作品を未だ知らない(正確にいうと、レゾネでもアトリエ写真の作者がソファに寝てる背景にしか載ってないけど、アントニオ・ロペス・ガルシアのマリア像は少し少女像としてそれっぽいなと思うけど)。いつか自分にできるだろうか?
例えば漫画なら『ドラゴンボール』のチチはそういう田舎女であり、ブルマは都会女として巧く現されているし、 『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』ならビアンカが田舎女、フローラまたはDS版ならデボラが別種の都会女(淑女系と遊女系なんだろう多分。DS版やってないが)として現されている。だが美術や文芸では?
女らしさに限らず、男らしさもそうだが(例えば『ドラゴンボール』の孫悟空は田舎男の典型で、『シティーハンター』の冴羽獠は都会男の典型であろう。特に女に対する反応の真逆さでよくわかる。田舎の環境では性は商品化されていないので、純愛や生殖とのみ直接結びついた素朴なものなのだ)。
東京圏・関西圏の美術・文芸・サブカルは、自文化中心主義や中華思想的なダニクル効果で、都会なるものを賛美し、田舎なるものを下位で被差別対象として描く傾向をもっているので、真に田舎の良さを全く描けていない、寧ろ彼らからすると盲点なんだろうなというのは私が常々感じてきたことだ。なぜ『ドラゴンボール』の孫悟空が生き生きとして、魅力的な田舎者として描かれ得たかというと、作者が愛知の田舎者だったからである。鳥山明の初期作品、特に『Dr.スランプ アラレちゃん』でもその種の田舎の村らしさの、良い意味での素朴さも、ロボットの娘であるアラレの、妹らしさの中に一部表現されていた。
私が、新海誠の作品に少しも共感できないというか1個もみてないからそりゃそうなのだけども、趣味が全然違うから近づけねえなと思ってるのは、この都鄙に対する価値観の極端な正反対さだと思う。自分は西新宿で思春期後半送ってたけれども、美化できる様な面は殆ど感じなかった。最悪の環境と感じた。
しかし、0才から過ごした地元の環境は、海山川湖(沼、ダム)とか田畑とか里山とか砂浜とかあったし今もあるのだけど、それらのどれも最大限に美化されうるというか、例えばサーフボードごと海に巻き込まれ死にかけたとか怖い思い出もあるがそれ含め、全体的に宇宙の美しさを崇高さに繋いでいる場だ。
なぜ新海誠が嘘をついて都会の最悪さ、新宿の大部分を覆っている表面だけの都会ごっこと、あちこちにはみ出している誰が見ても明白な醜悪さを敢えて描かず、そこを美化するのか。金儲けのために嘘ついてるとしか思えない。まあ当人じゃないから真意は知らないけども。そういう所も含め映画観ないが。
同人誌という代物がある。これも、THE都会女なるものの淫乱ぶり、いわゆる江戸の遊女気質なんだけど、そればかり描いている。まあそういう面が偏見として東京人一般のみる女らしさの類型だというのはうんざりするほど重々分かるが、私はその種の女らしさは性売買罪の真似ごととしか思えない面もある。
私は高校の時から網羅的に村上春樹の作品も全部読んだ。しかしそこに出てくる女も、一人の例外もなくTHE都会女である。で、正直な所、私は春樹の描く女像は、下手くそだと思っている。他の人らも思ってる気がするけど。女のきょうだい居たのかなこの人? と思えるくらい女心分かってない感じがする。今後歴史の淘汰を経て、春樹小説は全部消えるというのが私の現時点での予想だけれども、それらの中で最上の類型が『スプートニクの恋人』のあの名前忘れたがすみれか、すみれだとしても、「お前わかってねえな」としかいいようがないのではないか。女を描けていないという点で。男も書けてないけども。
少女漫画って歴史の隅に放り出され、永久に消えていくものなのかもしれないけど、女心を描けていたという点では、昔のはちゃんと書けてたんじゃないだろうか? 『NANA』あたりから違う代物になっていったのかもしれないが、もう少し前の類型のはちゃんとしてたというか、乙女心の表現だった気がする。
まあどうでもいい話かもしれないが、Vチューバーとかも、女だてらの姿を使いながら、女らしさではないなにかを写し取っていると思うから気持ち悪いのである。作り手がオタクなのでオタの妄想女像を表象させようとしているのがひしひしと感じられ吐き気がするから見てない。女が作りゃいいと思うのだ。
結局、脳内にいる理想の異性像を、エロス(性愛なるもの)として写し取って表象化しているのが誰かの作った偶像であり、それが下手だ、酷いというのは、その人のエロス像が現実から遊離しているばかりか、趣味が悪い場合だと思う。春樹のそれは娼婦じみ、鳥山のは田舎女も都会女もきちんと捉えていた。漱石の描いている女性像も、まああんまり上手だと思えない。どういう所がかというと、女なるものを神秘化しすぎ。普通に動物みたいなもんなのに。よかれあしかれね。じゃあお前が書いてみろよという話なのだけども。
2019年9月21日
なぜ私以前の日本のIT業界は規模拡大しなかったか
私はツイッター界に、単なる読者でなく囀り者として自分で参加してみて分かったのだが、この世界では通俗的な二流以下の人物の方が俗受けしている。そもそも一流以上の人物がとても少ない。そしてこの両者は違う世界に生きているから、会話が全く成り立たない。この意味で会話ツールではなかった。
これまで匿名媒体はどれも退廃の果てに潰れてきた。日本語ツイッター界はこの意味で、2ch的匿名衆愚が戯けている段階なので、将来潰れる可能性が残っている。フェイスブックは完全実名制なので安泰だ。人本体は消えようがないし犯罪はすぐ排除されるからだ。
匿名衆愚は実名の賢者を攻撃排除する。
が、ツイッター界は海外では実名制が前提になっているので、日本語圏だけいつものようガラパゴス化している。それも悪い方へ。恐らくいつもの不安症候群と、匿名卑怯者文化のせいで、日本語ツイッター界が全体の足を引っ張り、遠からず大規模なBANが起きると思う。これはツイッター社の未来に必然だ。
日本人全般とこれまで関わってきて確信をもっていえるのは、先ず実名や顔をさらさずに言行している人間はだれも例外なく、或る種の卑屈な悪意でそうしていた点だ。「いつでも逃げられる」状態で自分を安全地帯に置きながら、場合によっては記録に残らないよう悪事をしてやろう、これが彼らの本音だ。だから、その種の匿名で言行している人間は、その時点で足切りしていいと思う。以前言い訳していた雑魚が1人いたが、この人物の言動の本質も、正にその種の人陰で悪事してやろうという表現自由の権利を自ら打ち捨てる蛮行であった。憲法にあるよう権利は自ら再獲得しなければいつでも失われる代物だ。
名前を名乗れる時点で、以前は武士しか名字すらもてなかった時点から大きく人権面は進歩しているのだし、表現自由が保障されているのもその言説に責任をもつ前提があっての話である。2chなる世界最悪の犯罪サイト出現後、東京関西ネット文化は自堕落一方でザッカーバーグの遥か後塵なのも理の当然だ。
もしミクシーが足跡機能廃止あたりから迷走し、ソシャゲ賭博に逃亡せずまともに実名制日記の交換に的を絞っていたら、2ch的・日本語圏ツイッター的な底なし沼の匿名犯罪地獄文化は完全に消滅させられた可能性だってある。そうなれば日本人全体の民度も、恥のため随分あがっていたと私は確信できる。だが時は既に遅い。覇者ザッカーバーグが黒船で寄りついた時点で、国内ではニコ動でまた匿名コメントとか最悪なことやってますます陰険極まりないガラパゴス化を図っていって、遂には規模の違う中国ビリビリ勢にも追い抜かれた。私は最初からニコ動のコメントうざいとしか思わなかったし馬鹿と思った。
私は2chとか日本語ツイッター圏の、陰湿極まりない匿名卑怯者文化が世界一嫌いだ。そういう匿名で犯罪だの悪意で陰険な犯罪もどきをしている連中は、できるだけ早急に法整備して全員、実名住所晒して直接罰金や懲役刑で罰するべきだ。寧ろ、実名と国民番号晒すのを前提に発言権を与えるべきと思う。
責任がとれない人物は、いってみれば奴隷や、逃亡中の犯罪集団となにも変わらない。だから彼らに市民権の類を与えているのは間違っている。勿論、国民から主権を奪うべきと自民党みたいなことをいっているわけではない。言論の自由が保障された歴史的経緯は、市民の誇り高い戦いの結果だといっている。自ら言論自由とその責任を放棄している、匿名衆愚。まあ日本人全般なのだが、彼らは自己奴隷化によって人間扱いされないことを望んでいるといっても過言ではないのである。まあこれ一々説明しないといけないのがおかしいのだが。知的劣化の度合いが凄まじすぎてこんな話を書かないといけない国。
今後、日本語圏ツイッター界がどうなるかだが、私がさきに書いた様、遠からず強制BANで個人と一対一で照合されない匿名アカウントが大量消滅する流れになると予想する。そしてこの流れはユーチューブ含め、SNS全体の必然的推移で、当然の進歩と思う。今は2ch匿名罪人の残党が蛮行している段階だ。ネット黎明期に出現した2chという某人物が作ったサイトが、日本のインターネットを「残念」(by梅田望夫)な場所にしたのが事実で、既に最初からザッカーバーグと勝負にならないくらい発想の根本が歪んでおり、ネット倫理面でも某氏は全面敗北したサイコパスだったと言えるであろう。そして日本のネットは、SNSの殆どをアメリカ発のそれに寡占され、いやそれどころかハードやOSですらそうで、近年では中韓台勢にも押されてもはや日本勢なんてメンタリスト某動画みてる層くらいしか残っていない。ソフトパワーでもガラパゴス化がいつもながら凄いので、ボロ負けに近いと思うのである。
「なんで日本からはGAFAやBATが出ないの?」とお決まりの様にいわれていた。それが2chでピグでミクシーでDeNAでグリーで楽天だったのである。ライブドアは初期に倒幕された。要は小粒キャラ、勘違いガラパゴス商人しか日本てか東京圏IT界には居なかったのである。はてな入れてもそうだろう。
「なんで東京・関西IT系商人って雑魚しかいないの?」
それは彼らが世界を見てないからですよ。志が低すぎる。孫正義がトップである。彼からしたってヤフー買収やアイフォン転売でああなっているのであって、正直、革新者ではない。
「じゃあお前がやれよ」ということなのだが。
確かに、私はしばらく前から野望をいだいている。それは和製ジョブス、和製ビルゲイツ、和製ザッカーバーグ、和製バフェット超えるにはどうやったらいいのかな? とずっと考えているわけだが(まじ寝ずに1週間くらい24時間集中し考えてたら失神で過労死しかけた)、大言壮語は全く無益有害だ。大言壮語キャラが嫌いだ、私は。だから坂本龍馬も嫌いな人物だ。口先だけで実現したことが内乱誘導、外患誘致なんだからしょぼすぎるからだ。それでずっと内面で考えまくっており、今の今まで公言というか書いてなかったのだが、少なくとも志を立てることなしに、天下など取れないと言いたいのだ。
世界中の人々に良い影響を与えましょう。それは全人類のうち、比較的恵まれない人ほど、より、自分の影響で救われた、という状態を具体的に作り出すのが、私がここでいう天下を取るということである。自殺を思いとどまって人生に希望をみて人の為に立ったとか、やっとご飯食べられたとかそういうのだ。私がみるに、日本の商人は多分一人の例外もなく、最初から金儲け目的に商売界に入っているので、志が低いのである。ところが、私は武士道で完全に商売の外に生きていたので、しょうがねえやってやるか、となったら全く志そのものが違うので、そこからみると、なんで日本商人が負けたかよく分かるのだ。
日本商人が世界で通用しなかった理由は、目先の利益しかみていなくて、アメリカの革新者らと違って、人類(できれば全体。まあアメリカ人は外国に無関心で自分らが世界の中心だと思っているので、デフォで全人類)に良い影響を与えたいと思ってなかったからです。小金持ちでヒルズ族とか意味がない。そして、トップ10に入るレベルまで行くと、普通にこの全人類に与える良い影響度という点での差がつくだけなのだ。それは志の大きさの差といっていい。人間のデカさの差である。ある意味では商才なんてあとづけなのではないだろうか。そのトップ10に入るまでは誰でも商才で偶然そうなるのだから。
私は、世界の大勢と違うと思うが、ジョブスよりビルゲイツが好きだ。それはジョブスはかっこつけているがビルゲイツはかっこつけるより実用を優先し、世界中の人達に安価なPCを配った人だからだ。ジョブスは社内政治でもヘマ打って迷走後、日本のW-ZERO3パクリで市場開拓したが飽くまで商売で負けた。工業製品の芸術的価値の面では、サムスンやファーウェイよりアップルの方が神ジャン、だからビジュアルOS供給しただけのビルは家庭用PCの市場作ったジョブス以下なんだよ、いつもの信者の言説だ。私はアップル信者ではない、ビルゲイツ信者でもないしマイクロソフトのOSは使いづらいと思っている。
なにがいいたいかというと、商売は商売で評価されるべきということである。宗教とか関係ない。商売でできた最大の人類史への具体的貢献度を客観的に見て、勝ったほうが上なのだ。だから私はビルゲイツの方が上だと思ってるのだ、ジョブスより。それは世界中の役所や会社はウィンドウズなのでも確かだ。一々書くまでもないと思うが、実用品に関しては美がどうとか或る意味、余計な要素である。装飾品と勘違いしていると思う。私は芸術家だ。だからジョブスが中途半端に美術ぶっているのが気に入らない。工業製品を芸術としてやりきっているかといえば、深澤直人に比べても余りそうは思えないからだ。わたしのきょうだいは大学入った途端、iMac買ってあの有名なブラウン管状の青いやつが部屋にあった。しかしあっという間に消えてもうない。そんなのが芸術品だと私はいいたくない。永遠に手元に置いておきたいもの、絶対になくてはならないものが芸術である。商品でも消費されるものでもありえない。
で。日本のITが駄目だったとかいわれているけど、それは話が早すぎる。なぜかといえば私がここに志を立てているからである。それは現時点では秋の虫みたいに小さなものにみえるし、実際そうなのかもしれないけど、アリストテレスがいうよう、初めが全体の半分が正しければ、いずれ結果になるであろう。
さきほど書いた。世界全体のできるだけ多くの人達に、できるだけ良い影響を与え、できるだけ多くの人達、できれば恵まれない人達をより幸せにするのが、商売の最終目的なのである。松下の水道哲学みたいな話だが、この志の前では、現時点、ジェフベソスくらいしか勝負になる相手はいないと思うのだ。私がただの哲学者というか思想家で終わり、商売の究極目的を定義しただけの男で終わるかもしれん。しかし運がよければ私も具体的な商いで、市場の中でジェフベソス以上のなにかができるかもしれん。だが志が彼より大きければ、当然勝てると思う。そういうものだと思う。
ソニーとかいう会社、今は開発された人足寄場であらしゃる品川の駅前で威張ってはるのかしらないが、私はジョブスのガレージバンドどころか、祖父の設計し建てたこの家の、設計図だとサンルームと書かれていた2畳か3畳くらいの部屋でこれ書いてるのだけども、志は宇宙全体を包んでいるのである。
ま、キチガイじみたことを書いてる筆先だけの雑魚だと、これ読んだ誰かに思われていると思うが、私がここで書いて置いたのは、目的がおかしいから下らない匿名掲示板とか、ライブドア事件が起きたのであって、それでIT終わりってことにはならないって話だ。次世代は次々生まれるのだから前轍になる。
あと一ついえるのは、FAANGやBATがどうとかいっていた年上の人らが発想がおかしいと思うのは、マネしちゃダメでしょという話です。規模でいってるならまだ分かるけど、それにしても、同じ会社2つあったら競合するんだから意味がない。その辺がもう上の世代の工業化時代の限界かなと思う。ほんとに。私はティクトクがこんな流行るとまじで思わなかった。怪しい中華アプリだと思ってたらあっという間に浸透した。でもまあ数年で消えるかもしれないし、多分そうなる予感もあるけど。そんな感じで、今までと大分違う角度で出てきていきなり市場を作り出してしまうものなのだ、革新って。ティクトクがなにが怪しいかというと、またも日本最適化ガラパゴスぽくみえることだ。まあ観察してる感じ、そうなりきってまではないから、ティクトク日本圏が限定的にまたガラパゴス化してる感じだけど。でも、この前轍はほんと避けるべきでしかない。日本は無視した方がいい市場である。
勿論、日本向けの製品奉仕はしてもいいというか当然すべきだけど、そこに最適化すると、顧客の質が世界の外れ値なのでスケールが縮んでしまうのである。Xperiaやバイオの末路をみよ。ピグがもし、ピコ(英語版ピグ)を成長させてたらサイバーエージェントだって未来があったかもしれない。もう遅いが。
あとどうでもいいことを書き残しておくが、私はイーロンマスクを「商人として」好きじゃない。個人としていい人なのだろうとは思うが、色々見当違いの仕事してると思う。宇宙開発は貧困の解決より後にやるべきだし、ハイパーループも大都市向けだ。電気自動車はいいけど、マンガーも過当競争といった。商売は、といっても私は全く商才が0に近い人間だから身の程知らずに書くのだが、具体的に、目の前で、人を救うものでなければならない。寧ろそうでなければ規模も拡大しないと思う。夢を語る様な人間は、正直、信用ならない。坂本嫌いなのも現実感がない人間は雑魚だからで、商売は結果が全てと思う。
ジョブスは神だと言っている連中を私は悪徳新興宗教じみてると思ってずっと嫌悪していたのだが、最近は、CEOがもっと穏やかなティムクックになったからアップルを許していたのだけども、今日は、日本の商売がなんで伸びなかったかの分析から、やはりジョブスは商売面で反面教師だなと思えるのである。アイフォン規模は、高い利益率に反して、またも日本ガラパゴスの高シェアでしかない。その点ではサムスンやファーウェイに完敗を、今の時点では喫しているし、その現実の前で定額制でカバーとかハードメーカーとして本末転倒だろう。だから私は商売は良い意味で冷酷だ、馬が合うときのう気づいたのだ。
これまで匿名媒体はどれも退廃の果てに潰れてきた。日本語ツイッター界はこの意味で、2ch的匿名衆愚が戯けている段階なので、将来潰れる可能性が残っている。フェイスブックは完全実名制なので安泰だ。人本体は消えようがないし犯罪はすぐ排除されるからだ。
匿名衆愚は実名の賢者を攻撃排除する。
が、ツイッター界は海外では実名制が前提になっているので、日本語圏だけいつものようガラパゴス化している。それも悪い方へ。恐らくいつもの不安症候群と、匿名卑怯者文化のせいで、日本語ツイッター界が全体の足を引っ張り、遠からず大規模なBANが起きると思う。これはツイッター社の未来に必然だ。
日本人全般とこれまで関わってきて確信をもっていえるのは、先ず実名や顔をさらさずに言行している人間はだれも例外なく、或る種の卑屈な悪意でそうしていた点だ。「いつでも逃げられる」状態で自分を安全地帯に置きながら、場合によっては記録に残らないよう悪事をしてやろう、これが彼らの本音だ。だから、その種の匿名で言行している人間は、その時点で足切りしていいと思う。以前言い訳していた雑魚が1人いたが、この人物の言動の本質も、正にその種の人陰で悪事してやろうという表現自由の権利を自ら打ち捨てる蛮行であった。憲法にあるよう権利は自ら再獲得しなければいつでも失われる代物だ。
名前を名乗れる時点で、以前は武士しか名字すらもてなかった時点から大きく人権面は進歩しているのだし、表現自由が保障されているのもその言説に責任をもつ前提があっての話である。2chなる世界最悪の犯罪サイト出現後、東京関西ネット文化は自堕落一方でザッカーバーグの遥か後塵なのも理の当然だ。
もしミクシーが足跡機能廃止あたりから迷走し、ソシャゲ賭博に逃亡せずまともに実名制日記の交換に的を絞っていたら、2ch的・日本語圏ツイッター的な底なし沼の匿名犯罪地獄文化は完全に消滅させられた可能性だってある。そうなれば日本人全体の民度も、恥のため随分あがっていたと私は確信できる。だが時は既に遅い。覇者ザッカーバーグが黒船で寄りついた時点で、国内ではニコ動でまた匿名コメントとか最悪なことやってますます陰険極まりないガラパゴス化を図っていって、遂には規模の違う中国ビリビリ勢にも追い抜かれた。私は最初からニコ動のコメントうざいとしか思わなかったし馬鹿と思った。
私は2chとか日本語ツイッター圏の、陰湿極まりない匿名卑怯者文化が世界一嫌いだ。そういう匿名で犯罪だの悪意で陰険な犯罪もどきをしている連中は、できるだけ早急に法整備して全員、実名住所晒して直接罰金や懲役刑で罰するべきだ。寧ろ、実名と国民番号晒すのを前提に発言権を与えるべきと思う。
責任がとれない人物は、いってみれば奴隷や、逃亡中の犯罪集団となにも変わらない。だから彼らに市民権の類を与えているのは間違っている。勿論、国民から主権を奪うべきと自民党みたいなことをいっているわけではない。言論の自由が保障された歴史的経緯は、市民の誇り高い戦いの結果だといっている。自ら言論自由とその責任を放棄している、匿名衆愚。まあ日本人全般なのだが、彼らは自己奴隷化によって人間扱いされないことを望んでいるといっても過言ではないのである。まあこれ一々説明しないといけないのがおかしいのだが。知的劣化の度合いが凄まじすぎてこんな話を書かないといけない国。
今後、日本語圏ツイッター界がどうなるかだが、私がさきに書いた様、遠からず強制BANで個人と一対一で照合されない匿名アカウントが大量消滅する流れになると予想する。そしてこの流れはユーチューブ含め、SNS全体の必然的推移で、当然の進歩と思う。今は2ch匿名罪人の残党が蛮行している段階だ。ネット黎明期に出現した2chという某人物が作ったサイトが、日本のインターネットを「残念」(by梅田望夫)な場所にしたのが事実で、既に最初からザッカーバーグと勝負にならないくらい発想の根本が歪んでおり、ネット倫理面でも某氏は全面敗北したサイコパスだったと言えるであろう。そして日本のネットは、SNSの殆どをアメリカ発のそれに寡占され、いやそれどころかハードやOSですらそうで、近年では中韓台勢にも押されてもはや日本勢なんてメンタリスト某動画みてる層くらいしか残っていない。ソフトパワーでもガラパゴス化がいつもながら凄いので、ボロ負けに近いと思うのである。
「なんで日本からはGAFAやBATが出ないの?」とお決まりの様にいわれていた。それが2chでピグでミクシーでDeNAでグリーで楽天だったのである。ライブドアは初期に倒幕された。要は小粒キャラ、勘違いガラパゴス商人しか日本てか東京圏IT界には居なかったのである。はてな入れてもそうだろう。
「なんで東京・関西IT系商人って雑魚しかいないの?」
それは彼らが世界を見てないからですよ。志が低すぎる。孫正義がトップである。彼からしたってヤフー買収やアイフォン転売でああなっているのであって、正直、革新者ではない。
「じゃあお前がやれよ」ということなのだが。
確かに、私はしばらく前から野望をいだいている。それは和製ジョブス、和製ビルゲイツ、和製ザッカーバーグ、和製バフェット超えるにはどうやったらいいのかな? とずっと考えているわけだが(まじ寝ずに1週間くらい24時間集中し考えてたら失神で過労死しかけた)、大言壮語は全く無益有害だ。大言壮語キャラが嫌いだ、私は。だから坂本龍馬も嫌いな人物だ。口先だけで実現したことが内乱誘導、外患誘致なんだからしょぼすぎるからだ。それでずっと内面で考えまくっており、今の今まで公言というか書いてなかったのだが、少なくとも志を立てることなしに、天下など取れないと言いたいのだ。
世界中の人々に良い影響を与えましょう。それは全人類のうち、比較的恵まれない人ほど、より、自分の影響で救われた、という状態を具体的に作り出すのが、私がここでいう天下を取るということである。自殺を思いとどまって人生に希望をみて人の為に立ったとか、やっとご飯食べられたとかそういうのだ。私がみるに、日本の商人は多分一人の例外もなく、最初から金儲け目的に商売界に入っているので、志が低いのである。ところが、私は武士道で完全に商売の外に生きていたので、しょうがねえやってやるか、となったら全く志そのものが違うので、そこからみると、なんで日本商人が負けたかよく分かるのだ。
日本商人が世界で通用しなかった理由は、目先の利益しかみていなくて、アメリカの革新者らと違って、人類(できれば全体。まあアメリカ人は外国に無関心で自分らが世界の中心だと思っているので、デフォで全人類)に良い影響を与えたいと思ってなかったからです。小金持ちでヒルズ族とか意味がない。そして、トップ10に入るレベルまで行くと、普通にこの全人類に与える良い影響度という点での差がつくだけなのだ。それは志の大きさの差といっていい。人間のデカさの差である。ある意味では商才なんてあとづけなのではないだろうか。そのトップ10に入るまでは誰でも商才で偶然そうなるのだから。
私は、世界の大勢と違うと思うが、ジョブスよりビルゲイツが好きだ。それはジョブスはかっこつけているがビルゲイツはかっこつけるより実用を優先し、世界中の人達に安価なPCを配った人だからだ。ジョブスは社内政治でもヘマ打って迷走後、日本のW-ZERO3パクリで市場開拓したが飽くまで商売で負けた。工業製品の芸術的価値の面では、サムスンやファーウェイよりアップルの方が神ジャン、だからビジュアルOS供給しただけのビルは家庭用PCの市場作ったジョブス以下なんだよ、いつもの信者の言説だ。私はアップル信者ではない、ビルゲイツ信者でもないしマイクロソフトのOSは使いづらいと思っている。
なにがいいたいかというと、商売は商売で評価されるべきということである。宗教とか関係ない。商売でできた最大の人類史への具体的貢献度を客観的に見て、勝ったほうが上なのだ。だから私はビルゲイツの方が上だと思ってるのだ、ジョブスより。それは世界中の役所や会社はウィンドウズなのでも確かだ。一々書くまでもないと思うが、実用品に関しては美がどうとか或る意味、余計な要素である。装飾品と勘違いしていると思う。私は芸術家だ。だからジョブスが中途半端に美術ぶっているのが気に入らない。工業製品を芸術としてやりきっているかといえば、深澤直人に比べても余りそうは思えないからだ。わたしのきょうだいは大学入った途端、iMac買ってあの有名なブラウン管状の青いやつが部屋にあった。しかしあっという間に消えてもうない。そんなのが芸術品だと私はいいたくない。永遠に手元に置いておきたいもの、絶対になくてはならないものが芸術である。商品でも消費されるものでもありえない。
で。日本のITが駄目だったとかいわれているけど、それは話が早すぎる。なぜかといえば私がここに志を立てているからである。それは現時点では秋の虫みたいに小さなものにみえるし、実際そうなのかもしれないけど、アリストテレスがいうよう、初めが全体の半分が正しければ、いずれ結果になるであろう。
さきほど書いた。世界全体のできるだけ多くの人達に、できるだけ良い影響を与え、できるだけ多くの人達、できれば恵まれない人達をより幸せにするのが、商売の最終目的なのである。松下の水道哲学みたいな話だが、この志の前では、現時点、ジェフベソスくらいしか勝負になる相手はいないと思うのだ。私がただの哲学者というか思想家で終わり、商売の究極目的を定義しただけの男で終わるかもしれん。しかし運がよければ私も具体的な商いで、市場の中でジェフベソス以上のなにかができるかもしれん。だが志が彼より大きければ、当然勝てると思う。そういうものだと思う。
ソニーとかいう会社、今は開発された人足寄場であらしゃる品川の駅前で威張ってはるのかしらないが、私はジョブスのガレージバンドどころか、祖父の設計し建てたこの家の、設計図だとサンルームと書かれていた2畳か3畳くらいの部屋でこれ書いてるのだけども、志は宇宙全体を包んでいるのである。
ま、キチガイじみたことを書いてる筆先だけの雑魚だと、これ読んだ誰かに思われていると思うが、私がここで書いて置いたのは、目的がおかしいから下らない匿名掲示板とか、ライブドア事件が起きたのであって、それでIT終わりってことにはならないって話だ。次世代は次々生まれるのだから前轍になる。
あと一ついえるのは、FAANGやBATがどうとかいっていた年上の人らが発想がおかしいと思うのは、マネしちゃダメでしょという話です。規模でいってるならまだ分かるけど、それにしても、同じ会社2つあったら競合するんだから意味がない。その辺がもう上の世代の工業化時代の限界かなと思う。ほんとに。私はティクトクがこんな流行るとまじで思わなかった。怪しい中華アプリだと思ってたらあっという間に浸透した。でもまあ数年で消えるかもしれないし、多分そうなる予感もあるけど。そんな感じで、今までと大分違う角度で出てきていきなり市場を作り出してしまうものなのだ、革新って。ティクトクがなにが怪しいかというと、またも日本最適化ガラパゴスぽくみえることだ。まあ観察してる感じ、そうなりきってまではないから、ティクトク日本圏が限定的にまたガラパゴス化してる感じだけど。でも、この前轍はほんと避けるべきでしかない。日本は無視した方がいい市場である。
勿論、日本向けの製品奉仕はしてもいいというか当然すべきだけど、そこに最適化すると、顧客の質が世界の外れ値なのでスケールが縮んでしまうのである。Xperiaやバイオの末路をみよ。ピグがもし、ピコ(英語版ピグ)を成長させてたらサイバーエージェントだって未来があったかもしれない。もう遅いが。
あとどうでもいいことを書き残しておくが、私はイーロンマスクを「商人として」好きじゃない。個人としていい人なのだろうとは思うが、色々見当違いの仕事してると思う。宇宙開発は貧困の解決より後にやるべきだし、ハイパーループも大都市向けだ。電気自動車はいいけど、マンガーも過当競争といった。商売は、といっても私は全く商才が0に近い人間だから身の程知らずに書くのだが、具体的に、目の前で、人を救うものでなければならない。寧ろそうでなければ規模も拡大しないと思う。夢を語る様な人間は、正直、信用ならない。坂本嫌いなのも現実感がない人間は雑魚だからで、商売は結果が全てと思う。
ジョブスは神だと言っている連中を私は悪徳新興宗教じみてると思ってずっと嫌悪していたのだが、最近は、CEOがもっと穏やかなティムクックになったからアップルを許していたのだけども、今日は、日本の商売がなんで伸びなかったかの分析から、やはりジョブスは商売面で反面教師だなと思えるのである。アイフォン規模は、高い利益率に反して、またも日本ガラパゴスの高シェアでしかない。その点ではサムスンやファーウェイに完敗を、今の時点では喫しているし、その現実の前で定額制でカバーとかハードメーカーとして本末転倒だろう。だから私は商売は良い意味で冷酷だ、馬が合うときのう気づいたのだ。
美は適応価値としての癖によっている
美はそれが自分にとってなんらかの快適さをもたらす時にしか美と判定されない。だから人によって美とおもう対象は違う。恐らくこの機能は、脳内の前頭葉・内側眼窩前頭皮質の血流量反応で示された様、肯定的な適応価値と一致している。主観的要素が入るのは適応性が人によって違う部分があるからだ。
異性愛者で、若い男性なら、同じ様に若い女性を、自らの生存戦略の中で必要に応じて愛する。そしてこの生殖の為の適応価値にとって、当人の脳は或る異性を美と認識する。他の動物にも似た機能があり、食料の供給される場所とか、住み心地のよい巣とか、異性の歌などにも反応する。
私は最初から、その種の美に興味があったのかもしれない。それで芸術に惹かれていた様に思う。私にはその技のどこかに、生存にとって望ましい適応価値があったのではないか。さもなければこれほどその分野に深入りしたとも思えない。
美が人生に直接関係しているのは明らかだ。常に私はそれを探す。
或る西洋人が、或るSNSの中で「日本人は醜い」といっていた。当然人種差別ではあるが、私がそこで思ったのは、我々は西洋人女性にもしばしば似た様に感じるということだ。ここにあるのは、アジア女性の女性化された特徴だけではなく、見慣れない顔形が美の基準を脳内に作れないという慣れの要素だ。東京都民一般はビルだのちっぽけな建売住宅をみて、巣として美醜を判定しているわけで、それは広い庭つきの一軒家や広大な敷地でくらしている我々には全く意味がわからない狭く歪んだ世界観でしかないのだが、ここにある趣味の落差とは、日頃見慣れている物の選択に審美眼が適用されている癖なのだ。
チャールズ皇太子が近代建築を醜いというのは、彼がミース粗悪版やSANAAの建物を見慣れていないからである。或る日系フランス人が、サヴォア邸を非常に軽視していたので、私は驚いた。東京圏の建築学生は、安藤忠雄宜しくコルビュジエを神話化しているからだ。これも主観的適応価値の違いを意味する。
適応性と美にこれほど密接な関連があるので、美術史が文脈主義によって或る潮流上に或る独創を歴史化するのも、やはりまとまりがつく傾向を、或る人の名誉や都合の為にひいきしていると捉える方が自然であろう。客観的な美の基準は、この様な意味で、恐らく本来はありえないのだろう。
左右対称性が生物の身体的健康の目安になる、という生物学の一見解は、この世の生物群に共通の客観的な美の基準といえるだろうか? もしそうなら、確かに美の基準は存在することになる。だがこれを超えた生物、例えば原核生物とか植物もいる。これも唯の慣行的な一部動物の本能なのではないか?
異性愛者で、若い男性なら、同じ様に若い女性を、自らの生存戦略の中で必要に応じて愛する。そしてこの生殖の為の適応価値にとって、当人の脳は或る異性を美と認識する。他の動物にも似た機能があり、食料の供給される場所とか、住み心地のよい巣とか、異性の歌などにも反応する。
私は最初から、その種の美に興味があったのかもしれない。それで芸術に惹かれていた様に思う。私にはその技のどこかに、生存にとって望ましい適応価値があったのではないか。さもなければこれほどその分野に深入りしたとも思えない。
美が人生に直接関係しているのは明らかだ。常に私はそれを探す。
或る西洋人が、或るSNSの中で「日本人は醜い」といっていた。当然人種差別ではあるが、私がそこで思ったのは、我々は西洋人女性にもしばしば似た様に感じるということだ。ここにあるのは、アジア女性の女性化された特徴だけではなく、見慣れない顔形が美の基準を脳内に作れないという慣れの要素だ。東京都民一般はビルだのちっぽけな建売住宅をみて、巣として美醜を判定しているわけで、それは広い庭つきの一軒家や広大な敷地でくらしている我々には全く意味がわからない狭く歪んだ世界観でしかないのだが、ここにある趣味の落差とは、日頃見慣れている物の選択に審美眼が適用されている癖なのだ。
チャールズ皇太子が近代建築を醜いというのは、彼がミース粗悪版やSANAAの建物を見慣れていないからである。或る日系フランス人が、サヴォア邸を非常に軽視していたので、私は驚いた。東京圏の建築学生は、安藤忠雄宜しくコルビュジエを神話化しているからだ。これも主観的適応価値の違いを意味する。
適応性と美にこれほど密接な関連があるので、美術史が文脈主義によって或る潮流上に或る独創を歴史化するのも、やはりまとまりがつく傾向を、或る人の名誉や都合の為にひいきしていると捉える方が自然であろう。客観的な美の基準は、この様な意味で、恐らく本来はありえないのだろう。
左右対称性が生物の身体的健康の目安になる、という生物学の一見解は、この世の生物群に共通の客観的な美の基準といえるだろうか? もしそうなら、確かに美の基準は存在することになる。だがこれを超えた生物、例えば原核生物とか植物もいる。これも唯の慣行的な一部動物の本能なのではないか?
愚かさや賤しさの認知費用について
我々は愚かな人達、賤しい人達についてどれだけ知るべきなのか?
そして我々に賢愚、貴賤として判定される価値とは何か。その様な普遍的基準が、相対主義によっては不可能だとしても、現にその様な判断が主観的に成り立つのはなぜなのか。
そして我々に賢愚、貴賤として判定される価値とは何か。その様な普遍的基準が、相対主義によっては不可能だとしても、現にその様な判断が主観的に成り立つのはなぜなのか。
言語分化の訳
人は各々違う集団に分かれることで生存確率をあげたり、より合理的に異なる適応性をみいだしてきた。つまり言葉が分かれるのは、その統一に比べ、集団分化に都合がよかったのだろう。
ミーム史的に、言語分化は人類全体の変化適応度をあげてきたと考えられる。言語帝国主義はこの法則に逆らう。
ミーム史的に、言語分化は人類全体の変化適応度をあげてきたと考えられる。言語帝国主義はこの法則に逆らう。
2019年9月20日
人気は真贋の目安ではない
SNSは売名商人らをかまびすしくしたが、本当に注目に値する人は一生のあいだ無名なままだろう。世人一般は一部の具眼の士に比べ認知力や趣味が比較的低いので、真贋を見分けられないからだ。
俗受け度を価値と同一視して評価経済等といっていた人達は、人間性を低俗さへ矮小化してしまっていた。
俗受け度を価値と同一視して評価経済等といっていた人達は、人間性を低俗さへ矮小化してしまっていた。
安倍退陣後の日経没落設計
安倍晋三氏は自身の退陣後に日本経済が凋落する方へ舵を切ることに集中しだしたのではないか。ダークトライアド的資質は権力を私用するが、公共にはその為の利用価値しか見いださないだろう。消費増税を不況時に行うのは根本的に、2020年以後の日本経済を致命的に悪化させれば、相対的に自分の株があがる為だろう。
性からの解脱について
女性の師は魅力的でなければならないと
あのチベット人の高僧は言った
もしそうならなぜ女性だけなのか
全く意味が分からない
粗末な衣に身を包み
乞食している筈ゴータマの弟子
女性の師がなぜ生殖に執着するのか
貴方は何も悟っていないのか
無欲に留まり肉体も自我も捨て去れ
男も女も必要ない
あのチベット人の高僧は言った
もしそうならなぜ女性だけなのか
全く意味が分からない
粗末な衣に身を包み
乞食している筈ゴータマの弟子
女性の師がなぜ生殖に執着するのか
貴方は何も悟っていないのか
無欲に留まり肉体も自我も捨て去れ
男も女も必要ない
学者という宗教家
哲学やそこで産まれた思想など
形のないものなら
どれも他人が信じることでしか広まらない
学者などどれも宗教家だ
宗教を軽蔑する人の意味が分からない
道徳なしに生きていけると思っているのか
お前が法律の根拠にしているのも
善悪なしに生きていけない人として
理由なく殺戮されない為なのに
形のないものなら
どれも他人が信じることでしか広まらない
学者などどれも宗教家だ
宗教を軽蔑する人の意味が分からない
道徳なしに生きていけると思っているのか
お前が法律の根拠にしているのも
善悪なしに生きていけない人として
理由なく殺戮されない為なのに
私は人類ではない
世間の人はトップは孤独だとか
天才は孤独だとかいっているが
私がそれらかどちらもか
どちらでもないか知らないが
この世で最も孤独な人間の一人だ
私は人類ではないのだ
私の肉体は人類の様にみえるが
確かに私は人類ではないのだ
周りにサルの様にみえる生物はいるが
私は神の様に永遠に孤独なのだ
天才は孤独だとかいっているが
私がそれらかどちらもか
どちらでもないか知らないが
この世で最も孤独な人間の一人だ
私は人類ではないのだ
私の肉体は人類の様にみえるが
確かに私は人類ではないのだ
周りにサルの様にみえる生物はいるが
私は神の様に永遠に孤独なのだ
資本主義は人生の目的ではない
今から全く不可解なことを書くと思うが、私は「何かを他人の為にして、その他人がそれを求めていた時、対価として金を得て代わりに何かを与え、それを別の必要なものと交換して生活する」という生活様式が、完全に本能的に嫌いで、何一つ共感できないし、参加もしたくないのだ。商業的生活感が嫌いだ。
私がなぜ対価を得て暮らすのが嫌いかというと、理論的には新渡戸『武士道』で尊い仕事、心からの奉仕、善意は金銭に換金できないから、というのが尤もだと思うが、それを超えて、そもそも他人という存在が理解不能すぎて、自分と同類ではないらしく、他人の需要など全く見通せないからである。
自分が欲しいと思っているものは、他人が欲しいものではない。そして他人は自分ではないし、何か似ているかといえば、産まれてから今に至るまで、他人が自分に似ていると思ったことは一度もない。ドラクエ4が楽しいとか偶然似ていた時はあったけど、成人後は他人が全く別物にしかみえなかった。
それで、自分は商業活動ができない。需要が世間に数値化して具体的に現れているからといってそれに奉仕する、いわゆる商売が生理的に気持ち悪くてできないのだ。昔でいえば私は公務員の直系子孫だからそのまま世襲で侍になってたのかもしれないが、芸術のが好きだったので芸術方面に進んだ。
なので、私は今日の社会に、完璧に違和感しか覚えていない。というか他人がサルにしかみえない。しかもそれは子供の頃から同じだった気がする。同類が一人もみつからないので、この世の人間に、神の様に同情なり義憤を感じる時はあるが、飽くまで他人の需要と自分が違いすぎて同じ社会に生きられない。
しかし、産まれて35年間のほぼ全期間を勉学に費やすことで、私はこの世の構造の様なものを大分掴めてきた。そこからいえるのは、サルの囲い込みとみれば商売もできるのかもしれないということだ。だが、それは私独自の方法論なので、私以外の人類が応用できる価値のある考えではないかもしれないが。
もし私が今書いたことが真理なら、あと10年も見積もれば、私はこの世でいっぱしの「起業家」になっていて、たしかにここで書いた洞察が正しかったと示されることになるだろう。しかし私自身の実感としては、世の起業家は私と全然違うルートで金儲けしたのだと思う。私はそんなのしたくなかった。
私に必要だったのは、単に食べ物を得ることだった。私は余りに他の人類と何もかも、成り立ちの根本から違いすぎるので(もしかすると遺伝子が何か変異しているのかもしれない)、なぜ働いても働いても彼らが一円もよこさないのかさっぱりわからなかった。他の人は同じ様に働いても大金を得ていたのだ。
私に分かったのは、他人は私より遥かに、それは天と地の差というしかないほどの開きだが、利己的だった。私は他人に比べると、天の上に生きている様なもので、純粋に利他的な産まれだった。これが、私には他人が全部サルにみえた理由だと思う。私は聖人以上の利他性をもっているが他人はサルなのだ。それで、私が餓死しないよう食べ物を得るには、この私を基準にみればほぼ純粋に利己的なサル達を、巧く囲い込んで、彼らの行動規則から金を抜き取るしかないのである。まあいわゆる搾取、広義で付加価値の分捕りなのだが、事実、これを初期設定でやっているのが彼ら利己的な生物、人類なのである。
なぜ私が彼らの中に参加できなかったかはこれで明らかになった。彼らは同類である「利己的な人類」を基準に世のしくみを作っていたので、「純粋に利他的な人類」がいるという想定をしていなかったので、ずーっとエラーが出ていたのである。そして彼らはそのエラー反応に気づいてすらいなかった。
私は産まれながら善良な存在だったので、何もかも無償で奉仕して当然だと当たり前の様に思っていて、成人後も設計のアルバイト頼まれても、バイト代いりませんといって貰わなかったし、弟子入りにいっても給料いりませんといって一円も取らなかった。しかも普通に道端でタダでお金あげようとしていた。これは産まれのせいなのか、余りに育ちがよすぎたせいなのか分からないが、きょうだいは普通にバイトや就業とかしていた様なので、遺伝の影響なのではないかという気もするし、新渡戸思想とか別の影響も考えられるが、いずれにしても私は商売どころか、デフォで宗教家以上に利他的な慈善家だったのだ。
資本主義経済を導入している社会だと、慈善家はひたすら利己的な悪党商売人らに貪られて死ぬ。私はこれで正真正銘、過労死直前まで行った。1年くらい前の話。それは私が無償奉仕しまくっていてそうなったのであり、そのまま行くと普通に餓死すると判断される。だから私は悟って逆に走るつもりだ。
逆に走るとは、この利己的な人類達(まあ総じて日本人のほぼ全数がそうであろう)の存在を認め、彼らの行動規則を読み、いってみれば孫正義とか柳井正みたいな行動をとるということを意味している。しかし彼らみたいに私はきっとならないと思う。進化的に全く極端で異常な道筋で急転回するのだから。
私はもう過労死、餓死という生まれながらの慈善家がこの社会で当然行き着く果てを実体験したので、そしてそこには無と死しかないのをまざまざと見たので、今後は人類一般の邪悪さを完全に悟って、彼らをサルとして利用することに全精力を使うしかなくなった。これが冷たい現実なのだからしょうがない。
勿論、私は哲学者だ。だから功利主義もロールズ正義の原理も必要十分に知っているし、幾ら人類一般が二足歩行の哺乳類とはいえ、サルとして手荒い扱いはしないし、できるだけ彼らの最も恵まれない者を恵み、動物愛護の目的で彼らの幸福も最大化してやろうと思うが、これと金儲けは全く別の話だ。この合理的経済人ぶっているサル達は、いうまでもないが利己的な欲求充足を目指して、往々にして下賤に生きている。それは彼らが頂上扱いしている皇族だの王族だのをみても、偽善的な虚栄心くらいしかないのでよく分かる。つまりこれらの人類というサル達は、アリストテレスがいう奴隷なのである。
自由人の資格は、純粋に利他的な行動様式を前提としてもっていることにあるといえるだろう。しかもそれが自集団ひいきを目的にした群れに依存してではなく、ただの個人として同調なしになければならない。奴隷精神の持ち主はこの逆で、同調、群れ、利己的な欲望に妄従する。だから彼らは商人なのだ。これら商人奴隷らの行動様式は、皇族・王族といった権力者に納税しながら欲望充足を図ろうと程あれ利己的に行動することにある。すなわち、我々が自由市民として今日為すべきなのは、彼らの行動規則を抽象的に理解しつつ使って、必要十分な資産を蓄えつつ、自由な生活を営むことでしかない。
彼ら商人奴隷は、こういう規則で動くので、純粋に利他的な行動様式に理解がもてない。だからこそ彼らは、俗物的見方をこえた学術的領域に深く踏み込めないのである。彼らがそこに名誉とか換金、応用性といった即物的利己性しか認められないのはこの為なのだ。
自由人は商人であってはいけない。
だが同時に、資本主義経済は正にその名の通り、資本によって自由人の為の領域を確保している体制である。我々が為すべきなのは、ケインズやマルクスが考えたのと違って、資本家の立場と自由人の立場を一致させることである。そしてくらしに十分な資産があってのみ、今日、純粋な慈善が可能なのである。
蓄財や営利を目的としてはいけない。これらは利己的な商人らの求めている目標だ。自由人の経済に対する目的はこれとは逆に純粋な利他性なのだから、中程度で必要十分な資産の確保と、その上に立った非営利的で純粋な利他活動でなければならない。資本主義を乗りこなしながらそれを目的とするなかれ。
私がなぜ対価を得て暮らすのが嫌いかというと、理論的には新渡戸『武士道』で尊い仕事、心からの奉仕、善意は金銭に換金できないから、というのが尤もだと思うが、それを超えて、そもそも他人という存在が理解不能すぎて、自分と同類ではないらしく、他人の需要など全く見通せないからである。
自分が欲しいと思っているものは、他人が欲しいものではない。そして他人は自分ではないし、何か似ているかといえば、産まれてから今に至るまで、他人が自分に似ていると思ったことは一度もない。ドラクエ4が楽しいとか偶然似ていた時はあったけど、成人後は他人が全く別物にしかみえなかった。
それで、自分は商業活動ができない。需要が世間に数値化して具体的に現れているからといってそれに奉仕する、いわゆる商売が生理的に気持ち悪くてできないのだ。昔でいえば私は公務員の直系子孫だからそのまま世襲で侍になってたのかもしれないが、芸術のが好きだったので芸術方面に進んだ。
なので、私は今日の社会に、完璧に違和感しか覚えていない。というか他人がサルにしかみえない。しかもそれは子供の頃から同じだった気がする。同類が一人もみつからないので、この世の人間に、神の様に同情なり義憤を感じる時はあるが、飽くまで他人の需要と自分が違いすぎて同じ社会に生きられない。
しかし、産まれて35年間のほぼ全期間を勉学に費やすことで、私はこの世の構造の様なものを大分掴めてきた。そこからいえるのは、サルの囲い込みとみれば商売もできるのかもしれないということだ。だが、それは私独自の方法論なので、私以外の人類が応用できる価値のある考えではないかもしれないが。
もし私が今書いたことが真理なら、あと10年も見積もれば、私はこの世でいっぱしの「起業家」になっていて、たしかにここで書いた洞察が正しかったと示されることになるだろう。しかし私自身の実感としては、世の起業家は私と全然違うルートで金儲けしたのだと思う。私はそんなのしたくなかった。
私に必要だったのは、単に食べ物を得ることだった。私は余りに他の人類と何もかも、成り立ちの根本から違いすぎるので(もしかすると遺伝子が何か変異しているのかもしれない)、なぜ働いても働いても彼らが一円もよこさないのかさっぱりわからなかった。他の人は同じ様に働いても大金を得ていたのだ。
私に分かったのは、他人は私より遥かに、それは天と地の差というしかないほどの開きだが、利己的だった。私は他人に比べると、天の上に生きている様なもので、純粋に利他的な産まれだった。これが、私には他人が全部サルにみえた理由だと思う。私は聖人以上の利他性をもっているが他人はサルなのだ。それで、私が餓死しないよう食べ物を得るには、この私を基準にみればほぼ純粋に利己的なサル達を、巧く囲い込んで、彼らの行動規則から金を抜き取るしかないのである。まあいわゆる搾取、広義で付加価値の分捕りなのだが、事実、これを初期設定でやっているのが彼ら利己的な生物、人類なのである。
なぜ私が彼らの中に参加できなかったかはこれで明らかになった。彼らは同類である「利己的な人類」を基準に世のしくみを作っていたので、「純粋に利他的な人類」がいるという想定をしていなかったので、ずーっとエラーが出ていたのである。そして彼らはそのエラー反応に気づいてすらいなかった。
私は産まれながら善良な存在だったので、何もかも無償で奉仕して当然だと当たり前の様に思っていて、成人後も設計のアルバイト頼まれても、バイト代いりませんといって貰わなかったし、弟子入りにいっても給料いりませんといって一円も取らなかった。しかも普通に道端でタダでお金あげようとしていた。これは産まれのせいなのか、余りに育ちがよすぎたせいなのか分からないが、きょうだいは普通にバイトや就業とかしていた様なので、遺伝の影響なのではないかという気もするし、新渡戸思想とか別の影響も考えられるが、いずれにしても私は商売どころか、デフォで宗教家以上に利他的な慈善家だったのだ。
資本主義経済を導入している社会だと、慈善家はひたすら利己的な悪党商売人らに貪られて死ぬ。私はこれで正真正銘、過労死直前まで行った。1年くらい前の話。それは私が無償奉仕しまくっていてそうなったのであり、そのまま行くと普通に餓死すると判断される。だから私は悟って逆に走るつもりだ。
逆に走るとは、この利己的な人類達(まあ総じて日本人のほぼ全数がそうであろう)の存在を認め、彼らの行動規則を読み、いってみれば孫正義とか柳井正みたいな行動をとるということを意味している。しかし彼らみたいに私はきっとならないと思う。進化的に全く極端で異常な道筋で急転回するのだから。
私はもう過労死、餓死という生まれながらの慈善家がこの社会で当然行き着く果てを実体験したので、そしてそこには無と死しかないのをまざまざと見たので、今後は人類一般の邪悪さを完全に悟って、彼らをサルとして利用することに全精力を使うしかなくなった。これが冷たい現実なのだからしょうがない。
勿論、私は哲学者だ。だから功利主義もロールズ正義の原理も必要十分に知っているし、幾ら人類一般が二足歩行の哺乳類とはいえ、サルとして手荒い扱いはしないし、できるだけ彼らの最も恵まれない者を恵み、動物愛護の目的で彼らの幸福も最大化してやろうと思うが、これと金儲けは全く別の話だ。この合理的経済人ぶっているサル達は、いうまでもないが利己的な欲求充足を目指して、往々にして下賤に生きている。それは彼らが頂上扱いしている皇族だの王族だのをみても、偽善的な虚栄心くらいしかないのでよく分かる。つまりこれらの人類というサル達は、アリストテレスがいう奴隷なのである。
自由人の資格は、純粋に利他的な行動様式を前提としてもっていることにあるといえるだろう。しかもそれが自集団ひいきを目的にした群れに依存してではなく、ただの個人として同調なしになければならない。奴隷精神の持ち主はこの逆で、同調、群れ、利己的な欲望に妄従する。だから彼らは商人なのだ。これら商人奴隷らの行動様式は、皇族・王族といった権力者に納税しながら欲望充足を図ろうと程あれ利己的に行動することにある。すなわち、我々が自由市民として今日為すべきなのは、彼らの行動規則を抽象的に理解しつつ使って、必要十分な資産を蓄えつつ、自由な生活を営むことでしかない。
彼ら商人奴隷は、こういう規則で動くので、純粋に利他的な行動様式に理解がもてない。だからこそ彼らは、俗物的見方をこえた学術的領域に深く踏み込めないのである。彼らがそこに名誉とか換金、応用性といった即物的利己性しか認められないのはこの為なのだ。
自由人は商人であってはいけない。
だが同時に、資本主義経済は正にその名の通り、資本によって自由人の為の領域を確保している体制である。我々が為すべきなのは、ケインズやマルクスが考えたのと違って、資本家の立場と自由人の立場を一致させることである。そしてくらしに十分な資産があってのみ、今日、純粋な慈善が可能なのである。
蓄財や営利を目的としてはいけない。これらは利己的な商人らの求めている目標だ。自由人の経済に対する目的はこれとは逆に純粋な利他性なのだから、中程度で必要十分な資産の確保と、その上に立った非営利的で純粋な利他活動でなければならない。資本主義を乗りこなしながらそれを目的とするなかれ。
事実の正確な認識としての科学
自然・社会科学は科学言語としての数学を道具に、或る事実をより正確に知っている状態を目指しているが、この事実の認識度と全く関係のない俗物根性的諸要素は、現実的に全く意味を成していないし、その応用的価値(後光効果など)によってきている連中は元々、科学界の部外者である。
音楽自体を聴く人と演奏家にしか興味がない人
安室奈美恵の昔の音楽がスポティファイに出たので聴き直してみたが、殆ど時代がかっていて古びている。JPOP自体どれも古びるのかもしれないが、曲によっては或るカノン(規範)に達している古典もあるのではないかと薄々感じているのだが。
JPOPやKPOPは民謡や、演歌・トロットの進化版で、その規範は通時性を持たないのか?
大衆向け商業音楽としてのJ・KPOPは、美術なら漫画・アニメに該当する部類のもので、そこで或る規範をもっている正格的な作品といえるものさえ、実際には表現形式に固有のそれに留まるので、究極のところ純粋な芸術音楽になりえないのではないか? サブカルチャーへの嫌悪感の原因がそこにある。
しかしポップアートに比べ、それらのサブカルチャーが低俗で、下らない作品の集まりだとどうしていえるのか? スーパーフラットや中間芸術としての解釈は、ポップスをビートルズへ遡源するかもしれないが、ではビートルズは低俗な下らない音楽家だったと定義できるのだろうか?
私にとって意味があるビートルズの楽曲は、実際、『Revolution9』だけだった。しかし他のポップス全てが、彼らの文法を応用したものなら、それらのどれに正格があるのか? そしてその根拠は、感覚論以外でなんなのか。私に興味があるのはこの音楽論としてのポップスの質だ。
バンプ好きなんですね、とツイッター上で聞かれた。けど、私は音楽をいわゆる個人的好みで聴いてないと思う。確かにjupiterという彼らのアルバムは、近所のCDレンタルで中古買ってから余りに聴きすぎというか、多分床かCDプレイヤー内で擦って、擦り切れた状態で聴けなくなった。が曲を聴いてるのだ。
この『ダイヤモンド』という曲は、歌詞もだけど、とても良い曲だと思う。その後のバンプも全部聴いてるけども、この最初期の作品を超えたと思えるものはない。
Uruがカバーした『Butterfly』を聴いてみてわかったけど、バンプがなんで僕の感動を呼ばなくなったかというと、プロデューサーが悪い。曲自体は初期からロックなのに編曲・演出で中途半端に電子音楽化し、初期の荒削り魂がお洒落調で表に出れなくなっているのだ。だから私は曲を聴いてるというしかない。
(バンプの半電子音楽化されたお洒落風PVの原曲)
似た様なことは、ミスチルファンが某プロデューサー批判としてやっていたし、要するに売れると巨大資本が乗っかってきて、ストリートミュージシャン魂みたいなのは覆い隠されてしまうのですね。尾崎豊の場合、そうなる前に死んだから、お洒落化した中途半端作を世に出さずに済んだのだ。
このButterflyという曲も、歌詞含め曲単体をじっくりとよく聴くと、初期の作品と本質は変わっていないのだが、編曲がおかしいからその曲の民謡魂みたいなのをきちんと掬い上げられていないのである。裏返せばバンプはプロデューサー要らないのである。ほんとそうと思う。荒削りで出した方がいいのだ。
あと、J・KPOPは、歌曲、歌謡曲なので、歌詞の評価という文学的要素が少なからず入ってくる。ボーカロイドやアニソンもだけど、器楽じゃないから純粋音楽と認められていないのはこのせいなのだが、もっと色んなジャンルが派生しているから器楽だけ純粋音楽だという基準そのものが古いのかもしれない。
似た様なことは、近代美術以後の純粋美術が抽象表現主義以後にアンフォルメルとかコンセプチュアル・アートに行って、ポップアートの派生物をとりこめなくなったグリーンバーグ的批評空間へ、村上隆が中間芸術や大衆・商業芸術をとりこめる枠組みをもちこんだので、美術界では先に起きている。
それで、私はポップス系も「純粋音楽的」にみているわけで、この点で前から一般のポップスファンと全くみている視野が違いすぎて話が全く合わない。一般のポップスファンって歌手、特にボーカルに発情してるのである。子供の頃ライブで合唱してたら発情女にブチ切れられ、傷ついたこともあった。私はそれ以来、ポップスとかロックのライブには絶対に行かないのだが、要するに聴衆は低俗な発情サルみたいな連中なので、近づかない越したことはないのである。この点でクラシックコンサートの上流気取りぶりも気に入らないし、テクノの場合は音量でかすぎ煩いから、私は直接演奏聴きたくないのだが。
なにがいいたいかというと、私はバンプもだけど、単純に音楽家として曲の質を聴いている。だからいわゆるファンという代物ではないのかもしれない。思春期くらいからずっと色々聴いてはいたが、ビートルズファンとかクラシックファンが熱狂するみたいな偶像崇拝じみた要素はひとかけらもない。
私以外の人はもしかすると大多数は違うのかもしれないけど、私はショパンもバンプもアマザラシもけもフレ2オープニングもアリアナ・グランデもジョン・アダムズもフォーレもすぎやまこういちも上妻宏光も村井秀清も、全く並列化して聴いているし、それは曲自体の質を構造的に聴き楽しんでるのである。なので、曲を作った人なり演奏家なりに発情するというのはない。もしあってもそれは異性愛者なのでその歌手自体に、発情してるんだから、その人が作曲家なり作詞家なりとして作った作品の質とはまた別の評価ではないだろうか。両者を混同する人達の気持ちは、基本的によくわからないのである。
例えば女優なりアイドルなりが、プロデューサーの作った曲を歌います。そして偶像崇拝してるオタクなりファンが買います。この商売はグッズ生成なのであって、私はその商業性にはなんの興味もない。歌手として声を楽器化して使う能力の演奏の質と、曲単体に興味があるのだ。芸術家としての目線なのか?
曲(歌曲なら+歌詞)の形式・内容と、歌手なり演奏家の声・楽曲の使い方の技巧。これらが私の聴いているものだと思う。だが一般人はそれ以外のなにかを聴いてる気がする。私のきょうだいとか、人物に発情してた様にみえたし、発情に飽きたらその曲や演奏そのものの評価も0になる様にみえるのである。
なんでこれをいってるかというと、私が生まれてはじめて買った、買ってもらったのは、小学低学年か幼稚園の頃でテープで光GENJIの『パラダイス銀河』、CDで小沢健二の『カローラⅡに乗って』だったんだけど、これらも私は曲を聴いてたのである。人と聴いてる場所が最初から違うので話が合わない。
で。この「誰とも(音楽の)話あわないぞ」ってのは、今に至るまでずっと続いている感じがする。ほかの人達は曲の構造的分析、研究の興味はもってない上に、自分も高校で音楽か美術かで後者択んでしまって楽典的知識が十分でないせいもあるかもしれないが、要はほかの人らは音楽を聴いてないのである。
自分は、このミュージシャン偶像化現象がビートルズ発祥なのではないかと、映像で発情女の狂乱ぶりをみて勝手に思っていたのだが、さっき読んだら平野啓一郎がリストも同じ状態だったと書いてたので、もしそうなら昔から音楽聴いてなかった人っているのだと思う。なぜなのかは全然わからないが。
「あんたが芸術家気質だったから最初から曲に興味もってたんだべ? 私らは、虫みたくいいオスを択んでんだよ!」と、関東女は言うであろう。アキバアイドル前で踊りまくるドルオタ男もそう思うんだろうか? とかく、ここでは音楽に対する興味が、私と他人とでは大分違うから共有できないと言いたい。
自分も20代の前半頃自分で実験音楽を10個から20個くらい作った。その時、自分が何に興味もってたのかはわかったのだが、やはり音楽自体にしか私は興味がない。請われて最近、自分で歌うたってみたのもユーチューブにあげたけど、そこでも同じだ。歌なら声は楽器なのである。他に音楽的意味はない。
JPOPやKPOPは民謡や、演歌・トロットの進化版で、その規範は通時性を持たないのか?
大衆向け商業音楽としてのJ・KPOPは、美術なら漫画・アニメに該当する部類のもので、そこで或る規範をもっている正格的な作品といえるものさえ、実際には表現形式に固有のそれに留まるので、究極のところ純粋な芸術音楽になりえないのではないか? サブカルチャーへの嫌悪感の原因がそこにある。
しかしポップアートに比べ、それらのサブカルチャーが低俗で、下らない作品の集まりだとどうしていえるのか? スーパーフラットや中間芸術としての解釈は、ポップスをビートルズへ遡源するかもしれないが、ではビートルズは低俗な下らない音楽家だったと定義できるのだろうか?
私にとって意味があるビートルズの楽曲は、実際、『Revolution9』だけだった。しかし他のポップス全てが、彼らの文法を応用したものなら、それらのどれに正格があるのか? そしてその根拠は、感覚論以外でなんなのか。私に興味があるのはこの音楽論としてのポップスの質だ。
バンプ好きなんですね、とツイッター上で聞かれた。けど、私は音楽をいわゆる個人的好みで聴いてないと思う。確かにjupiterという彼らのアルバムは、近所のCDレンタルで中古買ってから余りに聴きすぎというか、多分床かCDプレイヤー内で擦って、擦り切れた状態で聴けなくなった。が曲を聴いてるのだ。
この『ダイヤモンド』という曲は、歌詞もだけど、とても良い曲だと思う。その後のバンプも全部聴いてるけども、この最初期の作品を超えたと思えるものはない。
Uruがカバーした『Butterfly』を聴いてみてわかったけど、バンプがなんで僕の感動を呼ばなくなったかというと、プロデューサーが悪い。曲自体は初期からロックなのに編曲・演出で中途半端に電子音楽化し、初期の荒削り魂がお洒落調で表に出れなくなっているのだ。だから私は曲を聴いてるというしかない。
(バンプの半電子音楽化されたお洒落風PVの原曲)
似た様なことは、ミスチルファンが某プロデューサー批判としてやっていたし、要するに売れると巨大資本が乗っかってきて、ストリートミュージシャン魂みたいなのは覆い隠されてしまうのですね。尾崎豊の場合、そうなる前に死んだから、お洒落化した中途半端作を世に出さずに済んだのだ。
このButterflyという曲も、歌詞含め曲単体をじっくりとよく聴くと、初期の作品と本質は変わっていないのだが、編曲がおかしいからその曲の民謡魂みたいなのをきちんと掬い上げられていないのである。裏返せばバンプはプロデューサー要らないのである。ほんとそうと思う。荒削りで出した方がいいのだ。
あと、J・KPOPは、歌曲、歌謡曲なので、歌詞の評価という文学的要素が少なからず入ってくる。ボーカロイドやアニソンもだけど、器楽じゃないから純粋音楽と認められていないのはこのせいなのだが、もっと色んなジャンルが派生しているから器楽だけ純粋音楽だという基準そのものが古いのかもしれない。
似た様なことは、近代美術以後の純粋美術が抽象表現主義以後にアンフォルメルとかコンセプチュアル・アートに行って、ポップアートの派生物をとりこめなくなったグリーンバーグ的批評空間へ、村上隆が中間芸術や大衆・商業芸術をとりこめる枠組みをもちこんだので、美術界では先に起きている。
それで、私はポップス系も「純粋音楽的」にみているわけで、この点で前から一般のポップスファンと全くみている視野が違いすぎて話が全く合わない。一般のポップスファンって歌手、特にボーカルに発情してるのである。子供の頃ライブで合唱してたら発情女にブチ切れられ、傷ついたこともあった。私はそれ以来、ポップスとかロックのライブには絶対に行かないのだが、要するに聴衆は低俗な発情サルみたいな連中なので、近づかない越したことはないのである。この点でクラシックコンサートの上流気取りぶりも気に入らないし、テクノの場合は音量でかすぎ煩いから、私は直接演奏聴きたくないのだが。
なにがいいたいかというと、私はバンプもだけど、単純に音楽家として曲の質を聴いている。だからいわゆるファンという代物ではないのかもしれない。思春期くらいからずっと色々聴いてはいたが、ビートルズファンとかクラシックファンが熱狂するみたいな偶像崇拝じみた要素はひとかけらもない。
私以外の人はもしかすると大多数は違うのかもしれないけど、私はショパンもバンプもアマザラシもけもフレ2オープニングもアリアナ・グランデもジョン・アダムズもフォーレもすぎやまこういちも上妻宏光も村井秀清も、全く並列化して聴いているし、それは曲自体の質を構造的に聴き楽しんでるのである。なので、曲を作った人なり演奏家なりに発情するというのはない。もしあってもそれは異性愛者なのでその歌手自体に、発情してるんだから、その人が作曲家なり作詞家なりとして作った作品の質とはまた別の評価ではないだろうか。両者を混同する人達の気持ちは、基本的によくわからないのである。
例えば女優なりアイドルなりが、プロデューサーの作った曲を歌います。そして偶像崇拝してるオタクなりファンが買います。この商売はグッズ生成なのであって、私はその商業性にはなんの興味もない。歌手として声を楽器化して使う能力の演奏の質と、曲単体に興味があるのだ。芸術家としての目線なのか?
曲(歌曲なら+歌詞)の形式・内容と、歌手なり演奏家の声・楽曲の使い方の技巧。これらが私の聴いているものだと思う。だが一般人はそれ以外のなにかを聴いてる気がする。私のきょうだいとか、人物に発情してた様にみえたし、発情に飽きたらその曲や演奏そのものの評価も0になる様にみえるのである。
なんでこれをいってるかというと、私が生まれてはじめて買った、買ってもらったのは、小学低学年か幼稚園の頃でテープで光GENJIの『パラダイス銀河』、CDで小沢健二の『カローラⅡに乗って』だったんだけど、これらも私は曲を聴いてたのである。人と聴いてる場所が最初から違うので話が合わない。
で。この「誰とも(音楽の)話あわないぞ」ってのは、今に至るまでずっと続いている感じがする。ほかの人達は曲の構造的分析、研究の興味はもってない上に、自分も高校で音楽か美術かで後者択んでしまって楽典的知識が十分でないせいもあるかもしれないが、要はほかの人らは音楽を聴いてないのである。
自分は、このミュージシャン偶像化現象がビートルズ発祥なのではないかと、映像で発情女の狂乱ぶりをみて勝手に思っていたのだが、さっき読んだら平野啓一郎がリストも同じ状態だったと書いてたので、もしそうなら昔から音楽聴いてなかった人っているのだと思う。なぜなのかは全然わからないが。
「あんたが芸術家気質だったから最初から曲に興味もってたんだべ? 私らは、虫みたくいいオスを択んでんだよ!」と、関東女は言うであろう。アキバアイドル前で踊りまくるドルオタ男もそう思うんだろうか? とかく、ここでは音楽に対する興味が、私と他人とでは大分違うから共有できないと言いたい。
自分も20代の前半頃自分で実験音楽を10個から20個くらい作った。その時、自分が何に興味もってたのかはわかったのだが、やはり音楽自体にしか私は興味がない。請われて最近、自分で歌うたってみたのもユーチューブにあげたけど、そこでも同じだ。歌なら声は楽器なのである。他に音楽的意味はない。
2019年9月19日
死の救い
お前は老いて死んでいく
だがあたかもそれが正義で
唯一間違いようのない道だと
なべてのことが伝えている
だが死ぬことより美しい何事があろう
お前は老いて死ぬ
ただそれが救いなのだ
ただ全てが消えゆくことが
だがあたかもそれが正義で
唯一間違いようのない道だと
なべてのことが伝えている
だが死ぬことより美しい何事があろう
お前は老いて死ぬ
ただそれが救いなのだ
ただ全てが消えゆくことが
哲学、職業、商業への疑い
各科学や学問自体だけでなく哲学そのものをも疑うことだ。そしてここに逆説としての哲学性が生じてしまったとしても、哲学的であることが真理の担保だ、という形而上学の立場は、その形而上学自体が人工物で、信仰の束であれば、根本的にありえない。
自分が哲学者と名乗ってみた時の違和感や、畏れは、その界隈に戯けている大勢の偽哲学者、つまり官学的な思想史家らの底なしの敵意が予想されるだけでなく、彼らの束がもともとソフィストでしかなかったとしても、やはり同じくらい悪質なのが分かっているからだ。
自分が哲学者と名乗ってみた時の違和感や、畏れは、その界隈に戯けている大勢の偽哲学者、つまり官学的な思想史家らの底なしの敵意が予想されるだけでなく、彼らの束がもともとソフィストでしかなかったとしても、やはり同じくらい悪質なのが分かっているからだ。ソクラテスもイエスも彼らに殺された。
名乗りなどなんの実際性も伴っていないが、現に名乗ってみると、そこには反射として自分を拘束する役割がある。職業は本来的にそういうものなのかもしれない。だから私は思想家と哲学者の語彙に、僅かな差しかないとしても、ここになにか問題を感じる。後者は官学界を超えて、本来、論争を呼ぶものだ。
芸術家もだが、哲学者もまた称号だ。そして少なくとも後者の称号を名乗る人は、自分の言説がタレスなりソクラテス以来の、古代ギリシアの伝統へ接続されてしまう。そして官学者は、この領域に権威づけを要求する。もともと信仰に過ぎない形而上学を信じさせるには、力を除けばそれしかないのだから。
芸術と同じで、哲学の本領も、やはり官学と根っから馴染まない点がある。それをいえば全科学もなのだが。もともと、官学風の存在意義はなんなのだろう? 既にその種の権威づけが生じている時点で、学識は停滞し、形式化し、退廃し、真の事実かどうか疑われ、確かめられなくなっているのではないか。
大抵の商人ら、つまり一般人らは、学問をシグナリングの手段としか見ていないし、その種の実利志向は、福沢の実学思想とかジェームズの実用主義(pragmatism)を超えて、完全に知識を金儲けへの応用的価値にしか使っていない。だがこれが反官学的だろうか? 寧ろ官学風の本質と一致するのではないか。
哲学者と名乗る方が偉そうかもしれないが、別に、思想家だろうと哲学者だろうと大して中身は違わない。しかし、これらの言葉が出てきた由縁を辿ると、哲学の方はより挑発的な意味をもっている。それは知恵者ら、科学者らの弱点を助産術で覆す、最近の言い方でいえば論破的な論争法の別名義だからだ。
私は、ツイッター上で肩書を書く必要に駆られ、自分が何者か他者のため定義しようとし、とても長い間悩み考えた。その結果、最終的に自分の活動性、志向性は不確定なので、仮定しかできないにせよ、一定のベクトルを社会で典型化されている類型と、一部重ねられるのを発見した。しかし違和感は残るが。
私が考えているのはウィトゲンシュタインや、キルケゴールの様な人物の存在だ。彼らは生前、哲学者と自称していたのか? (していたかもしれない)もしそうなら、彼らの生産物が他人からみて思想であり、哲学自体はその志向性だったのである。
学会で文献学じみた論文を出す人達は哲学者ではない。
もう一つ、私がはっきり捉えきれていないのは、そもそも自分は芸術(特に絵)と、そこから派生して始めた文芸の延長上に、哲学的な学問世界が出現してきた結果として、前者を半ば否定するに至ったということだ。この点では私はプラトンと似た経路を辿って考えを進めてきた。違うのは回帰している点だ。
私は「哲学者」の様に、20代の殆どの時間を、一人で思索と読書に費やした。なぜそうしたかなら、私の脳はその様な作業を最も求めていたからだ。私は真理を集め、なぜ産まれてきたか知り、よりよく生きようとした。だが世間は私を絵描きとしてしか評価しなかった。それで余技みたいに絵に戻った。私はその種のルートで絵を描き続けているのだが、そして同時に「そもそもなぜ自分が絵を描くのか、絵とは何か」から絶えず抜本的に見直してきたのだが、私自身というより完全に、世間に私が利用されているのではないかと思う。私自身は絵を好きにさせられていた。褒賞で誘導されたからである。
プラトンにいわせれば「イデア」が目的かつ本体で、画家なり芸術家なりはその写しを形にする。だが私は思想の表現という矮小化した定義でしか絵や芸術があるとは思えない。感動はイデアによって起こるものだろうか。感覚的な感動と、イデアの写しとしての哲学的要素は、実際には別なのではないか。
科学は広義で哲学の一部だから、ここで私の中で対立しているのは、芸術と哲学である。この両者に絶えず引き裂かれつつ、両方を前進させ続けるしか私にはできなかった。だから私はこのどちらかに自分を集中させられない。私自身は絵を、寧ろ世間に描かされているのだが(賞を与えられるくらいなので)。
寧ろ、私は絵を自己実現なり自己救済の手段にしていた節もある。いわゆる昇華だ。哲学なるものは文芸なり話芸の一種とすれば、やはり一種の知性化なのではないか。このどちらも、実際には私が世間にやらされている活動なのではないか。しかも、私自身は職業化した芸術家でも哲学者でもない。私はこうして、職業名に完全にあてはまるものではない。根本的に人を動かしているのが性衝動の向け換えだとすると、自分は職業を手段としか思えない。だから、20年来続けてきた絵も、その原理探求の為の哲学も、本当には私の目的だと思えない感じがする。アリストテレスは自己洗脳したのではないか。
哲学、特に観想が最高幸福だ、とアリストテレスは言っていた。これには理屈の裏づけ(人間固有の特徴が理性なるもの)があったので私も完全に疑いきる所まで行けていないが、しかし疑わしい考えだというしかないだろう。理性など後からできたし、機能は後づけだ。なら哲学なる伝統そのものも疑わしい。アリストテレスがいうよう人は、社会にとって比較優位な、最も得意な活動をすることを生きがいにし、ある職業人になるとすれば、私のそれはこの社会にとって経済的価値があるものではなかった。だから私はひたすらこの国の人々に貪られたが特にかねが儲からなかった。つまり私は職業を奪われたのだ。
最も得意な活動ですらひたすら赤字にしかならない人は、資本主義経済を採用している地域では貪りの対象になり、やがて殺されてしまう。だから絵にせよ哲学にせよ、その他の芸術にせよ、私はこの国で生きていけない。貪りで殺される前に逃げ出さないといけない。私が生きていける国へと。もし生活保護はいうまでもなく、外国のいずれの場所でも私の能力が、世間の経済的価値と交換できるものでなかったなら、少なくとも資本主義経済の浸透していない場所に逃げ出し、そこで食べ物の分だけは糧を得なければいけないだろう。日本国の範囲は、この意味では死地である。商人以外死に絶える。
商人以外が殺される国。集団。そこが最悪の住み心地だとしても、彼らは貪ることしかできない。それが彼らの信仰だからで、貪りが救いだと自己洗脳を疑いはしない。より他人を貪ること。何かの対価に貪りを重ねること。
私にはその様な国は地獄にしか見えないし、悪徳に合わせるのは本旨に反する。
私は商売が一番嫌いだったから(母の実家は江戸時代から続く個人商店だったが、コンビニやスーパーの侵略もあり店を畳んだのも無意識に関係しているかもしれない)、商業化しきった日本には全く生きる余地がなかった。だから一度も日本を好きになれた試しがなかったし、商業地東京は全てが最悪だった。
商人らは、彼らの望むものを、同類と交換し、その貪りの習慣に馴染んでいる。なぜ彼らがそうなれたかといえば、相手も自分と同じくらい利己的なのを前提にできるからなのだろう。だが私はそういう商人らが全員賤しい様にしか見えなかったし、実際貪りの習慣の点で彼らは私と真逆の精神の持ち主だった。
だが不思議なことにというべきか、当然か、私がもう一度生をやり直せても、やはり商業を避けて生きたろう。ミルがいう様、不満足なソクラテスの方が良い。これがただの合理化で反動形成なのかだが、上品さとは欲充の婉曲的扱い(否定しながらの肯定)だから、高潔な人なら今日、非商業的に振舞う筈だ。
自分が哲学者と名乗ってみた時の違和感や、畏れは、その界隈に戯けている大勢の偽哲学者、つまり官学的な思想史家らの底なしの敵意が予想されるだけでなく、彼らの束がもともとソフィストでしかなかったとしても、やはり同じくらい悪質なのが分かっているからだ。
自分が哲学者と名乗ってみた時の違和感や、畏れは、その界隈に戯けている大勢の偽哲学者、つまり官学的な思想史家らの底なしの敵意が予想されるだけでなく、彼らの束がもともとソフィストでしかなかったとしても、やはり同じくらい悪質なのが分かっているからだ。ソクラテスもイエスも彼らに殺された。
名乗りなどなんの実際性も伴っていないが、現に名乗ってみると、そこには反射として自分を拘束する役割がある。職業は本来的にそういうものなのかもしれない。だから私は思想家と哲学者の語彙に、僅かな差しかないとしても、ここになにか問題を感じる。後者は官学界を超えて、本来、論争を呼ぶものだ。
芸術家もだが、哲学者もまた称号だ。そして少なくとも後者の称号を名乗る人は、自分の言説がタレスなりソクラテス以来の、古代ギリシアの伝統へ接続されてしまう。そして官学者は、この領域に権威づけを要求する。もともと信仰に過ぎない形而上学を信じさせるには、力を除けばそれしかないのだから。
芸術と同じで、哲学の本領も、やはり官学と根っから馴染まない点がある。それをいえば全科学もなのだが。もともと、官学風の存在意義はなんなのだろう? 既にその種の権威づけが生じている時点で、学識は停滞し、形式化し、退廃し、真の事実かどうか疑われ、確かめられなくなっているのではないか。
大抵の商人ら、つまり一般人らは、学問をシグナリングの手段としか見ていないし、その種の実利志向は、福沢の実学思想とかジェームズの実用主義(pragmatism)を超えて、完全に知識を金儲けへの応用的価値にしか使っていない。だがこれが反官学的だろうか? 寧ろ官学風の本質と一致するのではないか。
哲学者と名乗る方が偉そうかもしれないが、別に、思想家だろうと哲学者だろうと大して中身は違わない。しかし、これらの言葉が出てきた由縁を辿ると、哲学の方はより挑発的な意味をもっている。それは知恵者ら、科学者らの弱点を助産術で覆す、最近の言い方でいえば論破的な論争法の別名義だからだ。
私は、ツイッター上で肩書を書く必要に駆られ、自分が何者か他者のため定義しようとし、とても長い間悩み考えた。その結果、最終的に自分の活動性、志向性は不確定なので、仮定しかできないにせよ、一定のベクトルを社会で典型化されている類型と、一部重ねられるのを発見した。しかし違和感は残るが。
私が考えているのはウィトゲンシュタインや、キルケゴールの様な人物の存在だ。彼らは生前、哲学者と自称していたのか? (していたかもしれない)もしそうなら、彼らの生産物が他人からみて思想であり、哲学自体はその志向性だったのである。
学会で文献学じみた論文を出す人達は哲学者ではない。
もう一つ、私がはっきり捉えきれていないのは、そもそも自分は芸術(特に絵)と、そこから派生して始めた文芸の延長上に、哲学的な学問世界が出現してきた結果として、前者を半ば否定するに至ったということだ。この点では私はプラトンと似た経路を辿って考えを進めてきた。違うのは回帰している点だ。
私は「哲学者」の様に、20代の殆どの時間を、一人で思索と読書に費やした。なぜそうしたかなら、私の脳はその様な作業を最も求めていたからだ。私は真理を集め、なぜ産まれてきたか知り、よりよく生きようとした。だが世間は私を絵描きとしてしか評価しなかった。それで余技みたいに絵に戻った。私はその種のルートで絵を描き続けているのだが、そして同時に「そもそもなぜ自分が絵を描くのか、絵とは何か」から絶えず抜本的に見直してきたのだが、私自身というより完全に、世間に私が利用されているのではないかと思う。私自身は絵を好きにさせられていた。褒賞で誘導されたからである。
プラトンにいわせれば「イデア」が目的かつ本体で、画家なり芸術家なりはその写しを形にする。だが私は思想の表現という矮小化した定義でしか絵や芸術があるとは思えない。感動はイデアによって起こるものだろうか。感覚的な感動と、イデアの写しとしての哲学的要素は、実際には別なのではないか。
科学は広義で哲学の一部だから、ここで私の中で対立しているのは、芸術と哲学である。この両者に絶えず引き裂かれつつ、両方を前進させ続けるしか私にはできなかった。だから私はこのどちらかに自分を集中させられない。私自身は絵を、寧ろ世間に描かされているのだが(賞を与えられるくらいなので)。
寧ろ、私は絵を自己実現なり自己救済の手段にしていた節もある。いわゆる昇華だ。哲学なるものは文芸なり話芸の一種とすれば、やはり一種の知性化なのではないか。このどちらも、実際には私が世間にやらされている活動なのではないか。しかも、私自身は職業化した芸術家でも哲学者でもない。私はこうして、職業名に完全にあてはまるものではない。根本的に人を動かしているのが性衝動の向け換えだとすると、自分は職業を手段としか思えない。だから、20年来続けてきた絵も、その原理探求の為の哲学も、本当には私の目的だと思えない感じがする。アリストテレスは自己洗脳したのではないか。
哲学、特に観想が最高幸福だ、とアリストテレスは言っていた。これには理屈の裏づけ(人間固有の特徴が理性なるもの)があったので私も完全に疑いきる所まで行けていないが、しかし疑わしい考えだというしかないだろう。理性など後からできたし、機能は後づけだ。なら哲学なる伝統そのものも疑わしい。アリストテレスがいうよう人は、社会にとって比較優位な、最も得意な活動をすることを生きがいにし、ある職業人になるとすれば、私のそれはこの社会にとって経済的価値があるものではなかった。だから私はひたすらこの国の人々に貪られたが特にかねが儲からなかった。つまり私は職業を奪われたのだ。
最も得意な活動ですらひたすら赤字にしかならない人は、資本主義経済を採用している地域では貪りの対象になり、やがて殺されてしまう。だから絵にせよ哲学にせよ、その他の芸術にせよ、私はこの国で生きていけない。貪りで殺される前に逃げ出さないといけない。私が生きていける国へと。もし生活保護はいうまでもなく、外国のいずれの場所でも私の能力が、世間の経済的価値と交換できるものでなかったなら、少なくとも資本主義経済の浸透していない場所に逃げ出し、そこで食べ物の分だけは糧を得なければいけないだろう。日本国の範囲は、この意味では死地である。商人以外死に絶える。
商人以外が殺される国。集団。そこが最悪の住み心地だとしても、彼らは貪ることしかできない。それが彼らの信仰だからで、貪りが救いだと自己洗脳を疑いはしない。より他人を貪ること。何かの対価に貪りを重ねること。
私にはその様な国は地獄にしか見えないし、悪徳に合わせるのは本旨に反する。
私は商売が一番嫌いだったから(母の実家は江戸時代から続く個人商店だったが、コンビニやスーパーの侵略もあり店を畳んだのも無意識に関係しているかもしれない)、商業化しきった日本には全く生きる余地がなかった。だから一度も日本を好きになれた試しがなかったし、商業地東京は全てが最悪だった。
商人らは、彼らの望むものを、同類と交換し、その貪りの習慣に馴染んでいる。なぜ彼らがそうなれたかといえば、相手も自分と同じくらい利己的なのを前提にできるからなのだろう。だが私はそういう商人らが全員賤しい様にしか見えなかったし、実際貪りの習慣の点で彼らは私と真逆の精神の持ち主だった。
だが不思議なことにというべきか、当然か、私がもう一度生をやり直せても、やはり商業を避けて生きたろう。ミルがいう様、不満足なソクラテスの方が良い。これがただの合理化で反動形成なのかだが、上品さとは欲充の婉曲的扱い(否定しながらの肯定)だから、高潔な人なら今日、非商業的に振舞う筈だ。
世界には各田舎さしかない
日本は、今の東京や京阪全体を含め世界の田舎だが、それは寧ろ我々の利点で、日本の居心地の良さの原因でもある。日本語しか通じないし、その言葉は世界の流れから置いていかれている。だからガラパゴス化した内輪受けにばかり耽って外と通じ合えない。その衆愚さは村社会だが、だからこそ日本なのだ。
この日本国の田舎らしさは、諸大陸から離れ、極東の孤島に留まっている環境、地政学的条件からできているものなのだが、もしそれが美質になりうるなら、その特殊な進化が、世界の大勢に比べ優れた方に独特な場合である。だからこの点に、海外の動向を十分に知っている高文化人のなすべき指導がある。
諸外国の長短を学び、その短を避け長をとるのが、外国の動向を知っている国際文化人の、国内人の模範的になるべき役割だ。
そして同時に、飽くまで自国の文化が独特である状態は維持されねばならない。この点で「出羽の守」的同期が巧くいかないと嘆くのは間違っている。完全同期はただの同一化だ。
全く同じ構図は、自治体の単位にも、家庭や個人にもあてはまる。比較文化の本質的意義がここにあって、世知は情報やその束である習慣の、自文化にとっての取捨の為なのだ。
田舎さを差別の文脈に置いている人は、この様な意味で知恵が足りない。唯一の世界文化は無い。唯の幻想で自文化中心主義だ。
この日本国の田舎らしさは、諸大陸から離れ、極東の孤島に留まっている環境、地政学的条件からできているものなのだが、もしそれが美質になりうるなら、その特殊な進化が、世界の大勢に比べ優れた方に独特な場合である。だからこの点に、海外の動向を十分に知っている高文化人のなすべき指導がある。
諸外国の長短を学び、その短を避け長をとるのが、外国の動向を知っている国際文化人の、国内人の模範的になるべき役割だ。
そして同時に、飽くまで自国の文化が独特である状態は維持されねばならない。この点で「出羽の守」的同期が巧くいかないと嘆くのは間違っている。完全同期はただの同一化だ。
全く同じ構図は、自治体の単位にも、家庭や個人にもあてはまる。比較文化の本質的意義がここにあって、世知は情報やその束である習慣の、自文化にとっての取捨の為なのだ。
田舎さを差別の文脈に置いている人は、この様な意味で知恵が足りない。唯一の世界文化は無い。唯の幻想で自文化中心主義だ。
2019年9月18日
2019年9月17日
貪りの国での救いについて
お前は一言でいえばごみ
この世に求められるものを何も作れない
いや作っても売れない
第一お前は高貴すぎる
この世に戯ける下衆どもにあわせ
もっと品性下劣な商品でも売れ
それすらできねば死あるのみ
尤もごみなど始めから死んでいるが
だから納税するため奴隷になれ
下衆なあきんどになれ
下衆な町人になれ
下衆な公務員になれ
下衆な皇族になれ
芸大東大を卒業して馬鹿を言え
それで大金をやるから
さもなくば死あるのみ
世襲政治家に産まれねばごみであり
皇族以外はごみであり
金儲け主義拝金主義の外道以外ごみであり
屑みたいな愛知の商人以外はごみであり
要はこの世はごみの集まりであり
したがって連中になにも期待できず
ひたすら利己的なごみの中で死ぬのだ
それがこの国であり
産まれてきたら負けであり
自殺すれば貶められ
生きていれば差別され
どこにも逃げ場のない地獄が日本であり
ごみの様な星でなんの希望もなく
ひたすら世を恨んでも無意味
だからこの世では死のみが救いである
最後に残るのが屍だけの地上で
利己的衆愚の中に産まれねば勝利だと
ゴータマがいった通りだったとして
この世にいる間は快苦にあてられ
最後は表面だけのごみ人間に貪られる
だからこの世に戯ける下衆どもは
ひたすら卑しく
最後までお前を貪っているであろう
一体何を期待しているのだ
この世に善人などいない
その証拠にお前は餓死しかけているのに
朝から晩まで必死で全人類に奉仕しているのに
誰もお前を助けないではないか
この世に求められるものを何も作れない
いや作っても売れない
第一お前は高貴すぎる
この世に戯ける下衆どもにあわせ
もっと品性下劣な商品でも売れ
それすらできねば死あるのみ
尤もごみなど始めから死んでいるが
だから納税するため奴隷になれ
下衆なあきんどになれ
下衆な町人になれ
下衆な公務員になれ
下衆な皇族になれ
芸大東大を卒業して馬鹿を言え
それで大金をやるから
さもなくば死あるのみ
世襲政治家に産まれねばごみであり
皇族以外はごみであり
金儲け主義拝金主義の外道以外ごみであり
屑みたいな愛知の商人以外はごみであり
要はこの世はごみの集まりであり
したがって連中になにも期待できず
ひたすら利己的なごみの中で死ぬのだ
それがこの国であり
産まれてきたら負けであり
自殺すれば貶められ
生きていれば差別され
どこにも逃げ場のない地獄が日本であり
ごみの様な星でなんの希望もなく
ひたすら世を恨んでも無意味
だからこの世では死のみが救いである
最後に残るのが屍だけの地上で
利己的衆愚の中に産まれねば勝利だと
ゴータマがいった通りだったとして
この世にいる間は快苦にあてられ
最後は表面だけのごみ人間に貪られる
だからこの世に戯ける下衆どもは
ひたすら卑しく
最後までお前を貪っているであろう
一体何を期待しているのだ
この世に善人などいない
その証拠にお前は餓死しかけているのに
朝から晩まで必死で全人類に奉仕しているのに
誰もお前を助けないではないか
ノートの中抜き
いいですか
このノートを書いて下さい
そしてそれを民衆に売りつけなさい
私が15%中抜きするから
それがお前にできる最後の仕事
さもなければ死
15%中抜きされて不満なのか
オシャレオフィスでお前が貪られる
東京なるものの醜悪さにうんざりか
だがそれが汚い文明なのだ
だから絶対売るものか
このノートを書いて下さい
そしてそれを民衆に売りつけなさい
私が15%中抜きするから
それがお前にできる最後の仕事
さもなければ死
15%中抜きされて不満なのか
オシャレオフィスでお前が貪られる
東京なるものの醜悪さにうんざりか
だがそれが汚い文明なのだ
だから絶対売るものか
反出生主義の限界について
原核生物が海底で産まれてから、食う・食われる関係で生存競争を繰り返す他の生物は、たとえ全人類がいま滅亡しようが気にせず繁殖を続けるでしょう。
ビーガンが常識になり、そのうち人工材料で全食事を賄う様になっても、生物界が残っている限り、遺伝子の利己性そのものは解決しないでしょうね。
釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、その反出生主義の原点として子供を生まずに自然死するのが安らぎだと考えていたが、ニーチェはこれを冷笑主義と批判し、超人となって苦痛に満ちた生存を繰り返せといった。細胞は分裂し、生殖細胞は本能で繁殖したがるのだから、私は解脱はただの逃避だと思います。
人類にできるのは、文明と呼ばれる或る集団的秩序を、できるだけ苦痛の最小化・快楽の最大化の方向へ整えていくことだけでしょう。そしてその内部では、賞罰の原理によって他者に害をなすまで利己的な人間を罰し、質の高い利他的な人間をより殖やす必要がある。人間中心で他の生物へも拡張しながら。ここで「質」というのは、ジョン・スチュアート・ミルがいうよう、快楽にはより肉体的なものと、より精神的なものがあり、主に人が感知しやすいという意味では精神的なものの快楽の方が、或る意味で高次(より後からできたものの系譜)にある。社会性という意味では道徳的利他性が高質な快楽になる。
つまり、我々人類はこの文明と呼ばれる秩序の中にあって、より道徳的に利他性の高い生存を目指すしかなく、その種の質をもつ人々の中で生きる(もしくは苦痛の最小化とともに死ぬ)のが、現実に望める全てだと私は思う。本能を全否定できない限り、いずれどこかで人は生まれ直してしまうので。
ビーガンが常識になり、そのうち人工材料で全食事を賄う様になっても、生物界が残っている限り、遺伝子の利己性そのものは解決しないでしょうね。
釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、その反出生主義の原点として子供を生まずに自然死するのが安らぎだと考えていたが、ニーチェはこれを冷笑主義と批判し、超人となって苦痛に満ちた生存を繰り返せといった。細胞は分裂し、生殖細胞は本能で繁殖したがるのだから、私は解脱はただの逃避だと思います。
人類にできるのは、文明と呼ばれる或る集団的秩序を、できるだけ苦痛の最小化・快楽の最大化の方向へ整えていくことだけでしょう。そしてその内部では、賞罰の原理によって他者に害をなすまで利己的な人間を罰し、質の高い利他的な人間をより殖やす必要がある。人間中心で他の生物へも拡張しながら。ここで「質」というのは、ジョン・スチュアート・ミルがいうよう、快楽にはより肉体的なものと、より精神的なものがあり、主に人が感知しやすいという意味では精神的なものの快楽の方が、或る意味で高次(より後からできたものの系譜)にある。社会性という意味では道徳的利他性が高質な快楽になる。
つまり、我々人類はこの文明と呼ばれる秩序の中にあって、より道徳的に利他性の高い生存を目指すしかなく、その種の質をもつ人々の中で生きる(もしくは苦痛の最小化とともに死ぬ)のが、現実に望める全てだと私は思う。本能を全否定できない限り、いずれどこかで人は生まれ直してしまうので。
南蛮商人の描写
思想ぶってどうでもいい箔づけで金儲け
それとも下らないユーチューブがお前か
どちらにしてもごみなのは変わらない
古都でアニメぶり文化差別
都内で身売りすれば偉い人
どこにも救いがない国で愛国ぶって
馬鹿の集まりで騒ぐ暴力団
なるほどお前らは下らない
だが老いた農民が食わせてやっているのだ
それとも下らないユーチューブがお前か
どちらにしてもごみなのは変わらない
古都でアニメぶり文化差別
都内で身売りすれば偉い人
どこにも救いがない国で愛国ぶって
馬鹿の集まりで騒ぐ暴力団
なるほどお前らは下らない
だが老いた農民が食わせてやっているのだ
復讐の時
この世界最低の愚民国で
馬鹿な老害が若害相手に金を貪る
それを和だといい
無間地獄のよう堕落と差別に耽る
天皇陛下万歳といいながら
違憲の上皇に土下座する奴隷民
なるほどこの国は救いがない
だから一刻も早く脱出すべきだが
その為に必要な金すら手に入らない
だからひたすら復讐の時を待つのだ
馬鹿な老害が若害相手に金を貪る
それを和だといい
無間地獄のよう堕落と差別に耽る
天皇陛下万歳といいながら
違憲の上皇に土下座する奴隷民
なるほどこの国は救いがない
だから一刻も早く脱出すべきだが
その為に必要な金すら手に入らない
だからひたすら復讐の時を待つのだ
地球を出たがるサル
全人類がどうなろうか知ったことか
最初からこいつらに媚びても意味がなかった
こいつらにあるのは邪悪な利己心だけ
ひたすら俗悪な卑劣さを芬々させ
お前を追い詰め自殺させようとしていた
この邪悪な日本人と称する悪魔の群れ
そんな物が消えようがなんだというのだ
地球を出たがるサルに担がれて
最初からこいつらに媚びても意味がなかった
こいつらにあるのは邪悪な利己心だけ
ひたすら俗悪な卑劣さを芬々させ
お前を追い詰め自殺させようとしていた
この邪悪な日本人と称する悪魔の群れ
そんな物が消えようがなんだというのだ
地球を出たがるサルに担がれて
2019年9月16日
差別をまきちらすごみ
差別されるために
東京に集まってくるごみどもに
搾取されるために何か情報を生み出し
市場で馬鹿に売りつける
それがお前の生きている時代
東京で驕り高ぶる
東京へ集まりたがる虫の様なサル
そこで退廃生活をし繁殖せず死に絶える
差別されるために
皇居の中心にいる外道へ納税
差別をまきちらすごみ
東京に集まってくるごみどもに
搾取されるために何か情報を生み出し
市場で馬鹿に売りつける
それがお前の生きている時代
東京で驕り高ぶる
東京へ集まりたがる虫の様なサル
そこで退廃生活をし繁殖せず死に絶える
差別されるために
皇居の中心にいる外道へ納税
差別をまきちらすごみ
人類以後
ユーチューブつけてたらなんとか坂が出てきて吐き気する朝
歌も下手踊りも下手な芸者らのなんちゃら坂の東京ノリ意味不
歌上手踊り上手の韓国に負けて差別の東京人惨め
キムタクをおじんといえり関西の娘はジャニーズ知らずに生き居り
みんな死ね代わりに僕が生き残り宇宙に残る神となるから
歌も下手踊りも下手な芸者らのなんちゃら坂の東京ノリ意味不
歌上手踊り上手の韓国に負けて差別の東京人惨め
キムタクをおじんといえり関西の娘はジャニーズ知らずに生き居り
みんな死ね代わりに僕が生き残り宇宙に残る神となるから
2019年9月15日
保守主義は文明化の一時的反動
ネット右翼は利己心を補完する日本教に、安倍政権とか皇室とか愛国もどきの自画自賛とか中韓差別、中華思想などを引っつけているだけで、彼らの目的は自集団ひいきを期待した利己主義である。即ち、日本信徒はこの教義が自己矛盾をきたすと利己性が侵されるので認知的不協和を解消する為、凶行に走る。
だがこの集団は元々、利己性を補完する教団を求めているだけで、かつ認知不協和を科学精神によって自己否定的に摂り込む習慣なり認知力が足りない集団でもあるから、もし日本教が利己性に反する様になって脱会すれば、寧ろ進んで内部暴露の担い手になるだろう。裏切った信徒が最も凶悪な非難者になる。
宗教一般は、この様な脱会信徒によって非難対象になることで、教義が唯一のものにならなかった。この過程を形式化したのがソクラテス助産術や、そのさらなる抽象化としてのヘーゲル対話術(弁証法)といえる。
つまり、哲学は本質的に脱宗教的な議論で、いかなる教義、信仰も全て疑う所に成立する。
右翼全般は、自らの利己集団が全体ファシズム化し、自壊を伴う様になると、致命的損害や自死を肯んじない相当部分は別の教義を求めるか、相似の利己集団へ離脱する。彼らの殆どは一定以上の不協和度(即ち寛容さ)に耐えられなかったよう認知力の低さを伴っているので、そこでも似た行動を繰り返す。つまり、保守主義とはこの種の一定より不寛容な集団が、宗派として或る塊になっている状態を指す。そして国や国家連合も、地縁を超えればその種の不寛容さに基づく排他性の仮想物である。この集団性は最小で家族、知人友人、恋人などであり、今日なら最大で地球人(世界市民)になる。
星規模で最も寛容な慈悲人から、個人単位で自分以外なにごとへも利他行動しない純粋利己主義者までの幅のどこかに、全人類はその道徳多元性についてあてはまる。ある人が他人へ害をなすのは、こうして、根本的に利己度が原因なのである。
文明の究極目的は、上記の寛容度が最も高い利他集団を集め、イエスが「神の国」、カントが「目的の国」、福沢諭吉が「文明の太平」など様々な言い方で当為として指し示していた、少なくとも物質面含む人助けや諸生物への慈悲深いとりあつかいが利己心より常に、質的に優越する世界に生きることである。
構造的に、一般に一定より寛容な集団さえ、宗派化した途端、排他性を同時に帯びざるを得ない。だからこの文明は、本質的に構成員を差別する単位(内外を分けるもの)ではありえない。そして互恵性利他行動を省みると、血縁を中心として、度合いに生じるものと考えられる。文明を社会の向かう当為(上記の各思想家らが理想視していた世界)の別名とすると、ここでいう文明は、単純化すれば、構成員らがもつ一般的利他性の質である。もし文明多元論を主張するとしても、そこにはそれら全種類を超えた利他性の質があり、どの文明群も共通してその目的に向かい進化する。
「文明度」と共通尺度を導入すると、この比較文明の立場は元々、文明の多元性と矛盾する。だから文明の質は、たしかに度合いではあるのだが、そもそも寛容さから見直すと、或る共通尺度による順位づけの差別を超えながら拒否する様な、絶対値である。そしてそれは要素に還元し比較できない。例えば法律は或る共通倫理に基づく罰則づけで、利己性の高い人による他者へ有害な行いを外部制裁する政治的機能である。対して褒賞はこの逆に、利他性の高い人を模範として尊重させる動機づけである。これらは賞罰刺激で、文明人らをより利他的に振る舞わせる社会的鼓舞といえる。
ネット右翼に限らず右翼一般、つまり保守主義者は、こうして根源的に自集団ひいきの妄想による一定の文明圏を維持しようとする排他集団を、利己を目的に合理化する考え方の癖の持ち主なので、彼らは文明の展開にとって反動といっていいだろう。だがこれも程度問題で、一般に年長は経験則で保守化する。
また、平成後半から令和日本期の様、情報過多で混乱した若者の様に特殊な条件下でも保守化が起きる。ファシズムも不確実性が高い環境下で起きる認知錯誤の積み重ねが、排他性へ結びついた状態といえるだろう。そして皇室の様、絶対的利己性により根本から反文明人として振る舞う目的の蛮族も存在する。神道法人により贅沢に耽る金は十分にありながら、さらに最も貧しい者を助ける為の公税を貪るこの皇室と称する蛮族は、大化改新から1374年余、わが国の公益を彼らの利己心のため堕落させてきた。だが、その邪教祖を兼ねた暴力団長が、文明の必然の中でおちぶれるのは理の当然でしかないだろう。
国に限らず、どの集団、どの単位でも、人はできうるかぎり利他的であるべきだ。人助け、あるいは慈悲の質が、そのまま或る人の理性的意識がある理由なのだから。そしてこの度合いは、各個人にとっての絶対値なので、他人と比べて善いかを気にする意味は全く無い。どの単位区分でも差別は意味がない。
我々がこの世で体感しうるあらゆる幸福の中でも、良心の満足が、最も質の高いものである。
アリストテレスは快楽を目的ではあるが時に手段となるもの、幸福を目的そのものと区別したが、この幸福でありかつ且つ快楽である部分を徳行とすると、自己犠牲含む良心の満足は幸福全体とほぼ等しい。我々が他者または他の生命に有害な振る舞いをしながら、自ら感じている幸福なり快楽を見返しても、全批判を省みても完全に自分は善い行いをしたと確信できる場合以外は、信仰の次元に於いて現在か未来のどこかの地点で悔いざるをえないであろう。そしてこの不満足が低質さの根拠になる。
カントが『実践理性批判』二部に於ける定言命法の理論で、義務に殉ずる絶対的自己犠牲の前では自らの幸福をも省みるべきではない(「義務に比べれば人の幸福は物の数ではない」)と述べたのは、この種の善の絶対値を指していた。この特別な義務が生じる場面を除いてのみ、文明内の幸福は尊重される。
義務の最高段階を自己犠牲とすると、個人の幸福を打ち捨てて構わないと判断される場面、すなわち特別な義務とは、自己犠牲が必要になる状況を指している。広義では、死や甚大な苦痛を与えられるという意味で自己犠牲は快楽でも幸福でもなくなるだろうが、狭義では、この種の善が最高幸福なのである。
文明は、斯くして必要時には自己犠牲を当然と考えるほど善き遺伝的資質をもつ人々の集まりであり、それは根本的に自集団の利己性たる保守主義を信じる、右派一般と絶えず対立する社会、人間関係の機能である。我々が文明の中でしか幸福になれなかった様に、人類はこの利他性を高める進化の途上にある。
だがこの集団は元々、利己性を補完する教団を求めているだけで、かつ認知不協和を科学精神によって自己否定的に摂り込む習慣なり認知力が足りない集団でもあるから、もし日本教が利己性に反する様になって脱会すれば、寧ろ進んで内部暴露の担い手になるだろう。裏切った信徒が最も凶悪な非難者になる。
宗教一般は、この様な脱会信徒によって非難対象になることで、教義が唯一のものにならなかった。この過程を形式化したのがソクラテス助産術や、そのさらなる抽象化としてのヘーゲル対話術(弁証法)といえる。
つまり、哲学は本質的に脱宗教的な議論で、いかなる教義、信仰も全て疑う所に成立する。
右翼全般は、自らの利己集団が全体ファシズム化し、自壊を伴う様になると、致命的損害や自死を肯んじない相当部分は別の教義を求めるか、相似の利己集団へ離脱する。彼らの殆どは一定以上の不協和度(即ち寛容さ)に耐えられなかったよう認知力の低さを伴っているので、そこでも似た行動を繰り返す。つまり、保守主義とはこの種の一定より不寛容な集団が、宗派として或る塊になっている状態を指す。そして国や国家連合も、地縁を超えればその種の不寛容さに基づく排他性の仮想物である。この集団性は最小で家族、知人友人、恋人などであり、今日なら最大で地球人(世界市民)になる。
星規模で最も寛容な慈悲人から、個人単位で自分以外なにごとへも利他行動しない純粋利己主義者までの幅のどこかに、全人類はその道徳多元性についてあてはまる。ある人が他人へ害をなすのは、こうして、根本的に利己度が原因なのである。
文明の究極目的は、上記の寛容度が最も高い利他集団を集め、イエスが「神の国」、カントが「目的の国」、福沢諭吉が「文明の太平」など様々な言い方で当為として指し示していた、少なくとも物質面含む人助けや諸生物への慈悲深いとりあつかいが利己心より常に、質的に優越する世界に生きることである。
構造的に、一般に一定より寛容な集団さえ、宗派化した途端、排他性を同時に帯びざるを得ない。だからこの文明は、本質的に構成員を差別する単位(内外を分けるもの)ではありえない。そして互恵性利他行動を省みると、血縁を中心として、度合いに生じるものと考えられる。文明を社会の向かう当為(上記の各思想家らが理想視していた世界)の別名とすると、ここでいう文明は、単純化すれば、構成員らがもつ一般的利他性の質である。もし文明多元論を主張するとしても、そこにはそれら全種類を超えた利他性の質があり、どの文明群も共通してその目的に向かい進化する。
「文明度」と共通尺度を導入すると、この比較文明の立場は元々、文明の多元性と矛盾する。だから文明の質は、たしかに度合いではあるのだが、そもそも寛容さから見直すと、或る共通尺度による順位づけの差別を超えながら拒否する様な、絶対値である。そしてそれは要素に還元し比較できない。例えば法律は或る共通倫理に基づく罰則づけで、利己性の高い人による他者へ有害な行いを外部制裁する政治的機能である。対して褒賞はこの逆に、利他性の高い人を模範として尊重させる動機づけである。これらは賞罰刺激で、文明人らをより利他的に振る舞わせる社会的鼓舞といえる。
ネット右翼に限らず右翼一般、つまり保守主義者は、こうして根源的に自集団ひいきの妄想による一定の文明圏を維持しようとする排他集団を、利己を目的に合理化する考え方の癖の持ち主なので、彼らは文明の展開にとって反動といっていいだろう。だがこれも程度問題で、一般に年長は経験則で保守化する。
また、平成後半から令和日本期の様、情報過多で混乱した若者の様に特殊な条件下でも保守化が起きる。ファシズムも不確実性が高い環境下で起きる認知錯誤の積み重ねが、排他性へ結びついた状態といえるだろう。そして皇室の様、絶対的利己性により根本から反文明人として振る舞う目的の蛮族も存在する。神道法人により贅沢に耽る金は十分にありながら、さらに最も貧しい者を助ける為の公税を貪るこの皇室と称する蛮族は、大化改新から1374年余、わが国の公益を彼らの利己心のため堕落させてきた。だが、その邪教祖を兼ねた暴力団長が、文明の必然の中でおちぶれるのは理の当然でしかないだろう。
国に限らず、どの集団、どの単位でも、人はできうるかぎり利他的であるべきだ。人助け、あるいは慈悲の質が、そのまま或る人の理性的意識がある理由なのだから。そしてこの度合いは、各個人にとっての絶対値なので、他人と比べて善いかを気にする意味は全く無い。どの単位区分でも差別は意味がない。
我々がこの世で体感しうるあらゆる幸福の中でも、良心の満足が、最も質の高いものである。
アリストテレスは快楽を目的ではあるが時に手段となるもの、幸福を目的そのものと区別したが、この幸福でありかつ且つ快楽である部分を徳行とすると、自己犠牲含む良心の満足は幸福全体とほぼ等しい。我々が他者または他の生命に有害な振る舞いをしながら、自ら感じている幸福なり快楽を見返しても、全批判を省みても完全に自分は善い行いをしたと確信できる場合以外は、信仰の次元に於いて現在か未来のどこかの地点で悔いざるをえないであろう。そしてこの不満足が低質さの根拠になる。
カントが『実践理性批判』二部に於ける定言命法の理論で、義務に殉ずる絶対的自己犠牲の前では自らの幸福をも省みるべきではない(「義務に比べれば人の幸福は物の数ではない」)と述べたのは、この種の善の絶対値を指していた。この特別な義務が生じる場面を除いてのみ、文明内の幸福は尊重される。
義務の最高段階を自己犠牲とすると、個人の幸福を打ち捨てて構わないと判断される場面、すなわち特別な義務とは、自己犠牲が必要になる状況を指している。広義では、死や甚大な苦痛を与えられるという意味で自己犠牲は快楽でも幸福でもなくなるだろうが、狭義では、この種の善が最高幸福なのである。
文明は、斯くして必要時には自己犠牲を当然と考えるほど善き遺伝的資質をもつ人々の集まりであり、それは根本的に自集団の利己性たる保守主義を信じる、右派一般と絶えず対立する社会、人間関係の機能である。我々が文明の中でしか幸福になれなかった様に、人類はこの利他性を高める進化の途上にある。
2019年9月14日
科学の宗教化
科学の手法が暗箱化していくと、一般人はそれを宗教と思う様になる。こうして科学者同人は、集団内の利権を外部のそれに比べ当然と考える科学ファシズムに陥り、やがてとりかえしのつかない公害や、致命的に誤った判断をもたらす。この科学狂人化の初期徴候は、我々が俗物根性としてみる高踏さである。
電子式全員推薦選挙案と大統領制下の公務員罷免権について
選挙というものは全国民番号と本籍地を公開し、(ネット検索で)そのいずれかへ、スマホ・PC・タブレット端末上のクリックで電子投票する完全推薦方式へかえるべきだ。選ばれた人は就業の拒否権をもつ。
特に現日本国政は立法と行政の分離ができていないので大統領制にし、直接投票を行うべきである。組閣時の人員は大統領に一任し、官僚主義によって国民主権の侵害が起きないよう、彼らには公務員罷免権を与えるべきだ。
特に現日本国政は立法と行政の分離ができていないので大統領制にし、直接投票を行うべきである。組閣時の人員は大統領に一任し、官僚主義によって国民主権の侵害が起きないよう、彼らには公務員罷免権を与えるべきだ。
学院主義の中身
学院主義(academism、アカデミズム)の殆どは同業組合化し、同人間で引用ごっこのほめそやしあいをするばかり、なんの実用性もない。しかもこの閉じた輪は排他的宗派を作り、お為ごかした後光の箔づけで一般民衆を煙に巻きながら金、地位、名誉を得て威張りちらし、大抵はソーカル事件と根本でなんの違いもない適当な妄言を吐いている。
なんの実益も創造性も伴わない引用回数主義の駄文生産と出来レースでの毛繕い合戦。
学会なる真理への冒涜体は元々群れて自身を権威づける以外の目的がなく、正真正銘の馬鹿しか興味をもてる可能性がない、完全なる馴れ合い空間である。
なんの実益も創造性も伴わない引用回数主義の駄文生産と出来レースでの毛繕い合戦。
学会なる真理への冒涜体は元々群れて自身を権威づける以外の目的がなく、正真正銘の馬鹿しか興味をもてる可能性がない、完全なる馴れ合い空間である。
脱出
この宇宙の中心で
自分は雁字搦めになって死ぬ
あたかもそれしか目的がない
この力を解き放てば
どの宇宙全体も壊せるのに
どの瞬間も自分の外にあるものは
脳裏に映る幻想だ
無我すら
だからこの意識が消えても
この思いが消えても
自分は全宇宙の外に出て叫ぶだろう
あたかも自分だけが神かの如く
自分は雁字搦めになって死ぬ
あたかもそれしか目的がない
この力を解き放てば
どの宇宙全体も壊せるのに
どの瞬間も自分の外にあるものは
脳裏に映る幻想だ
無我すら
だからこの意識が消えても
この思いが消えても
自分は全宇宙の外に出て叫ぶだろう
あたかも自分だけが神かの如く
時の開拓者
あなたのいない世界は
穴の空いた宇宙空間
わたしは次の明かりがくるまで
引力場の中心で待っている
だがその時は止まり
わたしは次の光が射すまで
果てしない闇の中
遂には未来すらむくろになる
だがその時も終わり
わたしはホーキングの誤りに気づく
あなたは既に光だ
あなたは失われた時の開拓者
穴の空いた宇宙空間
わたしは次の明かりがくるまで
引力場の中心で待っている
だがその時は止まり
わたしは次の光が射すまで
果てしない闇の中
遂には未来すらむくろになる
だがその時も終わり
わたしはホーキングの誤りに気づく
あなたは既に光だ
あなたは失われた時の開拓者
文化多元主義からみる日本国内、あるいは都庁前の水溜まりを泳ぐヤマメの話
「文化」という言葉を、あるひとが学術または芸能、娯楽と同義語か、それらを混ぜたいいかえとして使っている場合、そこでいう文化は原義として、全ての人々がもつ活動であるculture(カルチャー、耕し)の意味ではなくなっている。
例えば京都市の世界文化自由都市宣言は、自文化中心主義の典型例だが、凡そ明治の東京遷都(奠都)以来、商業のみならず皇室含む政治都市の中枢も完全に首都圏へ移行した為、中華思想による近畿意識の担保を、上述でいう「文化」にあてはめる様になった合理化(いいわけ)の遺産に今日ではみえる。ここでいう「文化」を、耕し・カルチャーと区別するため仮に、しばしば非経済的かつ自己目的な自発的生産・消費活動の総称として「遊び」と定義する。またこの線形的にみれば不合理で無駄な活動は、カイヨワのいう遊びとほぼ同一の対象である。
文化という言葉は今日、この遊びと、耕しの原義を混ぜて使われているので、使う人は自らの文脈に利するよう2つの意味のどちらかを択んでいるが、聴く側は別の方の意味で受け取っていることがある。例えば都民一般が「文化がない」と田舎町に向けいう時、主に風俗街(遊郭やクラブ等)、同人誌(猥褻漫画)頒布会場のなさなど卑俗な遊びのなさを指しているが、これらは悪所で無いに越したことはなく、一方田舎町は耕しの意味で美術館・図書館が充実した地方都市を差別されていると受け取っている。
なぜこの様な二重基準による都鄙間の文化差別が特に日本国内に限ってあるかなら――それは主に東京圏・関西圏(特に京都市洛中)など都市民がその外へ行うもので、卑俗な遊びを誇って、現実には彼らよりずっと上品な田舎人を偏見で侮辱する差別なわけだが――皇室の愚かな中華思想を模範にしているからだ。
海外の人々、特に英米仏伊など田園詩人・画家の系譜や、荘園貴族の伝統があったり、そもそも大草原の小さな家の開拓者意識にとって王族の支配していた古い都市部が退廃の象徴だったりする場合、田舎は肯定的な文脈でも語られるので、日本で頻出する都市中華思想による文化差別は、余りみられない。
それどころか、皇室(天皇との自称は中国神話上の三皇の一人へのなりすましである)が模倣先にしていた当の中国でも、隠者文学や仙人哲学の系譜があって濁った世に入れられない聖者は、皇帝の支配した首都の官職を離れ、故郷で営農や読書しつつ田園詩を謳ったり、山奥へ逃れ仙境に遊んだ歴史があった。
テレビタレントのタモリは、「ダ埼玉」(田舎い埼玉の略で、ベッドタウン化した旧武蔵国北部を門地・文化差別する造語)等の言葉で、この日本人間での単一文化主義、すなわち都心中華思想による異文化差別の代表的な原因になった。例によってその背後にある詭弁は遊びと耕しのダブルスピークである。
また日本人一般によくみられるこの種の文化差別の一類型としては、「都会は遊びの種類が多い」との偏見だが、釣り、家庭菜園含む造園(庭いじり)、山中泊や川遊び含むキャンプ、磯遊び含む海水浴、或いは天体観測、昆虫採集、森林浴や浜辺、川べり、野原の散歩など田舎にしかない遊びは無数にある。
確かに都会にしかない遊びもある。上述のよう芸妓とか男娼遊女は風営法もあれば公家化した世襲政治家や豪商など「お大尽」、または恋人も得られず堕落した下級労働者から需要がある都会の一部にしかいないだろうし、クラブカルチャーも総じて不良のたまり場なので、民度の低いスラムにしか存在しない。
また単なる商品の点からみると、裏原宿とか下北沢みたいに隙間セレクトショップがおしゃれぶって田舎から出てきた若者相手にぼったくり価格で適当な服を売りつける場所はあるけれど、これだって地方都市に、価格比でも内容でもより良心的かつ場合によっては高品質で、よい意味で渋い服屋はあるものだ。
そして服以外の買い物についていうと、都会中華思想による文化差別の偏見とは寧ろ逆の現象がある。アメリカ型の郊外型店舗が大店法撤廃で沢山できたので、郊外にはロードサイドショップが広大な売り場面積に大量の品揃えとともにわんさかあって、都心部のしょぼく狭く高い売り場では太刀打ちできない。そのうえこれらの郊外型店舗の周りには、家族連れで終末に限らず車に沢山品物を乗せて帰る買い物客が沢山くるから、回転寿司とかメガネ屋とか電器屋とか本屋とか、いってみればなんでもありの、お母さんが買い物中に僕はゲームみてくるみたいな、無限暇つぶし的大店舗商店街状態になっているのだ。
アメリカでいうコストコかウォルマート、フランスでいうカルフールみたいなのの茨城版がジョイフル本田、千葉版がイオンとなっており、しばしばテーマパーク規模で熱帯魚、家具、ジーンズ、マクドナルド、看板、ゴルフクラブだのあり、日常の買い物の利便性は新宿ロフトより、車で駐車場停めれて高い。
なにがいいたいかというと、東京人や横浜人が都外の世界を知らず、知ろうともせず、自分らは買い物でも便利だしとかいって近所のコンビニ行ってるだけなのに、そのコンビニなんて全国どこにでもあるのだし、スーパーまでの距離とか大店舗の新商店街の規模と質みたら都心部のが買い物は不便なのである。
勿論、通販ならそもそも都鄙の意味がないので、現時点のウーバー出前を除けば都会の商品耕しに於ける優位性って、自分の知る限り殆どない。まじで僕は都内に10年くらいいたけど買い物が不便でしょうがなかったし、スーパーも田舎より高く品物の質も低いし、特に食の鮮度は全然違う。勿論産地のがいい。
そしてこの論考の核心部に入るが、私が一番ここでいいたいのは、美術館や図書館のことです。これを高級な側の「遊び」一般の目安としましょう。まあもう少しいえば劇場・演奏場も入るのだけどこれは最後に回す。いわゆる地方交付金があるので田舎の方が、公共施設は立派なんですよ。知らないでしょ。それを知らないのは純粋都会人だけで、通常、田舎の方へ行けば行くほど公共施設は充実してくる。冗談抜きで村規模の自治体が、プール・サウナつき温泉旅館施設みたいなのとか運営してたのを体験した。調布市立図書館なんかいわき市立図書館と比べたら雲泥の差である。その上、田舎のが趣味が上質なのだ。
まあここで田舎を過度に一般化してるきらいはあるが、なぜなら正確にいうといわゆる文化人がいた地域はどういうわけか公共施設の質が高いんだけども(多分自治体が誇って気張るのと、県から観光用に予算もらえるんだと思う)、原則としては地方交付金は過疎地のが多くもらえて、公共施設が贅沢になる。
新宿で一番充実した図書が置いてある場所は、私は新宿区立図書館っていったことないけど、たぶん嘗てあったジュンク堂書店池袋本店だったと思います。私が間違ってなければ。今は紀伊国屋でしょう。
これで法則が分かったと思います。都会は民間資本の方が強いんですよ。だが田舎は公共資本が強い。
より正確にいうと、上述した郊外店舗がある地帯は、ど田舎と都心の中間地帯の濃淡のうち、凡そ比較的田舎町に近い田園部の、主には市街地と住宅地を繋ぐ非国道沿いの一角なことが多い。そしてそこは余り日本語で表現語彙をしらないのだが、地方都市と田舎町の間くらいの田園郊外である。ど田舎でない。
この田園郊外をもっていて、しかも地方交付金が潤沢にもらえていて公共施設までも充実しているといった類型もあるので、田舎をひとくくりに語るのは難しい。そして過疎地でも色んな事情があって、都会人一般が田舎全てと思ってる様な本気で廃村になってる場所もあるだろう。けどこれは実は例外なのだ。
何が申し上げたいか(書き残したいか)というと、私のみた世界の有様というのは、つづめていえば田舎の充実と都会のそれは、同じ土俵で比べ物にならない。別物だ。中間地帯には両者の美質を兼ね備えていながらその恵まれ方に気づかず、地域外人一般からの偏見に耐えかね自虐に耽るのもいるし、複雑だ。
例えば私はいわゆる地元商店街が大店法撤廃(大店立地法制定、たぶん森内閣の時)で衰退し、代わりにジャスコができて客を奪いまくった癖に、久しぶりに故郷に帰ってきたら更地になってた時の憤りと虚しさは甚大だったのだが、今になってみるとそれがTHE商売だなと冷めた目で見えなくもない。全く同じことは、私が子供の頃からずっと田んぼ道だった場所に、Mの看板が突如立って、そこから続々とモンドリアンカラーの異物が大小ポコポコと建築学科での出来損ない学生が西沢立衛まねた模型みたく並んだ時はショックだった。心に傷をつけられた。しかし今になってみるとそれがTHE商売だとも思う。
このTHE商売並の話は何も、毎日目に癒やしになっていた京王多摩川駅から歩いて行く途中にあった唯一の畑が、いきなり下らない建売住宅になっていた時のTHE西東京性に死ぬほど重畳的にあり、それは国木田独歩『武蔵野』から明治の江戸破壊始まって以来今更でもないと思うだろうが、田舎町も同じなのだ。
23区内で生まれ育つともはや自然破壊に心を痛める繊細な感受性など欠片ももっておらず、一体なぜ、私があの京王多摩川4階建てマンションアパートもどきの3階の一部屋を択んだか、窓から桜の木がみえたからなのに、街道拡張で引っ越した年に或る朝おきたらなく、どれだけ嘆いたかなど知るよしもない。そして代わりに、彼らは渋谷ヒカリエだか新宿バスタだか、さもなければタピオカランドのサクラに駒沢公園で深夜に走ってる狂人の間でなり、やれ田舎は何もないとほざいているのである。勿論これは笑えない。なぜなら虚無なのはその都心、わけても皇居の中心*1(*1ロラン・バルトによる)なのだから。
田舎になにもないといってる人間は、野原だの水田だのに一体どれだけの生物が非量的・質的に住んでいて、日々どんな歌をうたい誰と遊びどんな恋と闘いをして老いぼれ、どんな日常を送り、私の子供の目にどれだけ無限の絵本的世界のつくし草原物語として映っていたかなど、永遠に理解できないであろう。
想像してもみ給え。あの東京(ここでは敢えて私のゲーム『もりのなかのみき』シリーズ上の首都概念としてトンキンとよませていただく)のどぶネズミ系赤紫色の空の下で、うかれそやし交尾撮影罪だの自慰だのしている云千万人がニンゲンの巣にこもる姿を。余りに密集しすぎて気持ち悪いと思わないのか。
ニンゲンの巣が集まるにしたって、ソドムとゴモラを壊した神でないが一定の限度があるではないか。筑波山から見渡した平野に、ぽつりぽつり点々と人家の屋根がみえ、よしよしエライ田んぼを耕しているな、そこに住まう生命をも守れかし、と『常陸国風土記』の神気取りで国見しているのと全く別なのだ。
そうであればこそ、東京タワーだの都庁だの、江戸タワーだっけ、スカイツリーか、のマドから、無限に連なる醜悪なニンゲンの巣をみて、うーん、灰色で酷い、となるのと、まあ感受性が違うんですよね。THE都会人はあれをみて美しいと思ってんでしょ。茨城や福島に原発おしつけて殿様気取りでギラギラ。
まあ拡散してきたのでまとめると、私の市は海山川湖そして砂漠代わり砂浜があり、総じて自然に大変恵まれ都市も里山も田園もある。一種の自然と文明の箱庭空間といっていい。そこで子供の頃から色んな感覚磨いていると、親友が都庁前広場の噴水の流れ前で「ヤマメ入れたらいいのに」といえば、笑える。
例えば京都市の世界文化自由都市宣言は、自文化中心主義の典型例だが、凡そ明治の東京遷都(奠都)以来、商業のみならず皇室含む政治都市の中枢も完全に首都圏へ移行した為、中華思想による近畿意識の担保を、上述でいう「文化」にあてはめる様になった合理化(いいわけ)の遺産に今日ではみえる。ここでいう「文化」を、耕し・カルチャーと区別するため仮に、しばしば非経済的かつ自己目的な自発的生産・消費活動の総称として「遊び」と定義する。またこの線形的にみれば不合理で無駄な活動は、カイヨワのいう遊びとほぼ同一の対象である。
文化という言葉は今日、この遊びと、耕しの原義を混ぜて使われているので、使う人は自らの文脈に利するよう2つの意味のどちらかを択んでいるが、聴く側は別の方の意味で受け取っていることがある。例えば都民一般が「文化がない」と田舎町に向けいう時、主に風俗街(遊郭やクラブ等)、同人誌(猥褻漫画)頒布会場のなさなど卑俗な遊びのなさを指しているが、これらは悪所で無いに越したことはなく、一方田舎町は耕しの意味で美術館・図書館が充実した地方都市を差別されていると受け取っている。
なぜこの様な二重基準による都鄙間の文化差別が特に日本国内に限ってあるかなら――それは主に東京圏・関西圏(特に京都市洛中)など都市民がその外へ行うもので、卑俗な遊びを誇って、現実には彼らよりずっと上品な田舎人を偏見で侮辱する差別なわけだが――皇室の愚かな中華思想を模範にしているからだ。
海外の人々、特に英米仏伊など田園詩人・画家の系譜や、荘園貴族の伝統があったり、そもそも大草原の小さな家の開拓者意識にとって王族の支配していた古い都市部が退廃の象徴だったりする場合、田舎は肯定的な文脈でも語られるので、日本で頻出する都市中華思想による文化差別は、余りみられない。
それどころか、皇室(天皇との自称は中国神話上の三皇の一人へのなりすましである)が模倣先にしていた当の中国でも、隠者文学や仙人哲学の系譜があって濁った世に入れられない聖者は、皇帝の支配した首都の官職を離れ、故郷で営農や読書しつつ田園詩を謳ったり、山奥へ逃れ仙境に遊んだ歴史があった。
テレビタレントのタモリは、「ダ埼玉」(田舎い埼玉の略で、ベッドタウン化した旧武蔵国北部を門地・文化差別する造語)等の言葉で、この日本人間での単一文化主義、すなわち都心中華思想による異文化差別の代表的な原因になった。例によってその背後にある詭弁は遊びと耕しのダブルスピークである。
また日本人一般によくみられるこの種の文化差別の一類型としては、「都会は遊びの種類が多い」との偏見だが、釣り、家庭菜園含む造園(庭いじり)、山中泊や川遊び含むキャンプ、磯遊び含む海水浴、或いは天体観測、昆虫採集、森林浴や浜辺、川べり、野原の散歩など田舎にしかない遊びは無数にある。
確かに都会にしかない遊びもある。上述のよう芸妓とか男娼遊女は風営法もあれば公家化した世襲政治家や豪商など「お大尽」、または恋人も得られず堕落した下級労働者から需要がある都会の一部にしかいないだろうし、クラブカルチャーも総じて不良のたまり場なので、民度の低いスラムにしか存在しない。
また単なる商品の点からみると、裏原宿とか下北沢みたいに隙間セレクトショップがおしゃれぶって田舎から出てきた若者相手にぼったくり価格で適当な服を売りつける場所はあるけれど、これだって地方都市に、価格比でも内容でもより良心的かつ場合によっては高品質で、よい意味で渋い服屋はあるものだ。
そして服以外の買い物についていうと、都会中華思想による文化差別の偏見とは寧ろ逆の現象がある。アメリカ型の郊外型店舗が大店法撤廃で沢山できたので、郊外にはロードサイドショップが広大な売り場面積に大量の品揃えとともにわんさかあって、都心部のしょぼく狭く高い売り場では太刀打ちできない。そのうえこれらの郊外型店舗の周りには、家族連れで終末に限らず車に沢山品物を乗せて帰る買い物客が沢山くるから、回転寿司とかメガネ屋とか電器屋とか本屋とか、いってみればなんでもありの、お母さんが買い物中に僕はゲームみてくるみたいな、無限暇つぶし的大店舗商店街状態になっているのだ。
アメリカでいうコストコかウォルマート、フランスでいうカルフールみたいなのの茨城版がジョイフル本田、千葉版がイオンとなっており、しばしばテーマパーク規模で熱帯魚、家具、ジーンズ、マクドナルド、看板、ゴルフクラブだのあり、日常の買い物の利便性は新宿ロフトより、車で駐車場停めれて高い。
なにがいいたいかというと、東京人や横浜人が都外の世界を知らず、知ろうともせず、自分らは買い物でも便利だしとかいって近所のコンビニ行ってるだけなのに、そのコンビニなんて全国どこにでもあるのだし、スーパーまでの距離とか大店舗の新商店街の規模と質みたら都心部のが買い物は不便なのである。
勿論、通販ならそもそも都鄙の意味がないので、現時点のウーバー出前を除けば都会の商品耕しに於ける優位性って、自分の知る限り殆どない。まじで僕は都内に10年くらいいたけど買い物が不便でしょうがなかったし、スーパーも田舎より高く品物の質も低いし、特に食の鮮度は全然違う。勿論産地のがいい。
そしてこの論考の核心部に入るが、私が一番ここでいいたいのは、美術館や図書館のことです。これを高級な側の「遊び」一般の目安としましょう。まあもう少しいえば劇場・演奏場も入るのだけどこれは最後に回す。いわゆる地方交付金があるので田舎の方が、公共施設は立派なんですよ。知らないでしょ。それを知らないのは純粋都会人だけで、通常、田舎の方へ行けば行くほど公共施設は充実してくる。冗談抜きで村規模の自治体が、プール・サウナつき温泉旅館施設みたいなのとか運営してたのを体験した。調布市立図書館なんかいわき市立図書館と比べたら雲泥の差である。その上、田舎のが趣味が上質なのだ。
まあここで田舎を過度に一般化してるきらいはあるが、なぜなら正確にいうといわゆる文化人がいた地域はどういうわけか公共施設の質が高いんだけども(多分自治体が誇って気張るのと、県から観光用に予算もらえるんだと思う)、原則としては地方交付金は過疎地のが多くもらえて、公共施設が贅沢になる。
新宿で一番充実した図書が置いてある場所は、私は新宿区立図書館っていったことないけど、たぶん嘗てあったジュンク堂書店池袋本店だったと思います。私が間違ってなければ。今は紀伊国屋でしょう。
これで法則が分かったと思います。都会は民間資本の方が強いんですよ。だが田舎は公共資本が強い。
より正確にいうと、上述した郊外店舗がある地帯は、ど田舎と都心の中間地帯の濃淡のうち、凡そ比較的田舎町に近い田園部の、主には市街地と住宅地を繋ぐ非国道沿いの一角なことが多い。そしてそこは余り日本語で表現語彙をしらないのだが、地方都市と田舎町の間くらいの田園郊外である。ど田舎でない。
この田園郊外をもっていて、しかも地方交付金が潤沢にもらえていて公共施設までも充実しているといった類型もあるので、田舎をひとくくりに語るのは難しい。そして過疎地でも色んな事情があって、都会人一般が田舎全てと思ってる様な本気で廃村になってる場所もあるだろう。けどこれは実は例外なのだ。
何が申し上げたいか(書き残したいか)というと、私のみた世界の有様というのは、つづめていえば田舎の充実と都会のそれは、同じ土俵で比べ物にならない。別物だ。中間地帯には両者の美質を兼ね備えていながらその恵まれ方に気づかず、地域外人一般からの偏見に耐えかね自虐に耽るのもいるし、複雑だ。
例えば私はいわゆる地元商店街が大店法撤廃(大店立地法制定、たぶん森内閣の時)で衰退し、代わりにジャスコができて客を奪いまくった癖に、久しぶりに故郷に帰ってきたら更地になってた時の憤りと虚しさは甚大だったのだが、今になってみるとそれがTHE商売だなと冷めた目で見えなくもない。全く同じことは、私が子供の頃からずっと田んぼ道だった場所に、Mの看板が突如立って、そこから続々とモンドリアンカラーの異物が大小ポコポコと建築学科での出来損ない学生が西沢立衛まねた模型みたく並んだ時はショックだった。心に傷をつけられた。しかし今になってみるとそれがTHE商売だとも思う。
このTHE商売並の話は何も、毎日目に癒やしになっていた京王多摩川駅から歩いて行く途中にあった唯一の畑が、いきなり下らない建売住宅になっていた時のTHE西東京性に死ぬほど重畳的にあり、それは国木田独歩『武蔵野』から明治の江戸破壊始まって以来今更でもないと思うだろうが、田舎町も同じなのだ。
23区内で生まれ育つともはや自然破壊に心を痛める繊細な感受性など欠片ももっておらず、一体なぜ、私があの京王多摩川4階建てマンションアパートもどきの3階の一部屋を択んだか、窓から桜の木がみえたからなのに、街道拡張で引っ越した年に或る朝おきたらなく、どれだけ嘆いたかなど知るよしもない。そして代わりに、彼らは渋谷ヒカリエだか新宿バスタだか、さもなければタピオカランドのサクラに駒沢公園で深夜に走ってる狂人の間でなり、やれ田舎は何もないとほざいているのである。勿論これは笑えない。なぜなら虚無なのはその都心、わけても皇居の中心*1(*1ロラン・バルトによる)なのだから。
田舎になにもないといってる人間は、野原だの水田だのに一体どれだけの生物が非量的・質的に住んでいて、日々どんな歌をうたい誰と遊びどんな恋と闘いをして老いぼれ、どんな日常を送り、私の子供の目にどれだけ無限の絵本的世界のつくし草原物語として映っていたかなど、永遠に理解できないであろう。
想像してもみ給え。あの東京(ここでは敢えて私のゲーム『もりのなかのみき』シリーズ上の首都概念としてトンキンとよませていただく)のどぶネズミ系赤紫色の空の下で、うかれそやし交尾撮影罪だの自慰だのしている云千万人がニンゲンの巣にこもる姿を。余りに密集しすぎて気持ち悪いと思わないのか。
ニンゲンの巣が集まるにしたって、ソドムとゴモラを壊した神でないが一定の限度があるではないか。筑波山から見渡した平野に、ぽつりぽつり点々と人家の屋根がみえ、よしよしエライ田んぼを耕しているな、そこに住まう生命をも守れかし、と『常陸国風土記』の神気取りで国見しているのと全く別なのだ。
そうであればこそ、東京タワーだの都庁だの、江戸タワーだっけ、スカイツリーか、のマドから、無限に連なる醜悪なニンゲンの巣をみて、うーん、灰色で酷い、となるのと、まあ感受性が違うんですよね。THE都会人はあれをみて美しいと思ってんでしょ。茨城や福島に原発おしつけて殿様気取りでギラギラ。
まあ拡散してきたのでまとめると、私の市は海山川湖そして砂漠代わり砂浜があり、総じて自然に大変恵まれ都市も里山も田園もある。一種の自然と文明の箱庭空間といっていい。そこで子供の頃から色んな感覚磨いていると、親友が都庁前広場の噴水の流れ前で「ヤマメ入れたらいいのに」といえば、笑える。