2019年9月24日

天才と凡人は各々違う仕事に集中し分業しなければならない

最近、シュンペーターのイノベーション理論を受けて、「クリエイティブ」「創造的」という言葉がやたら濫用されてるきらいがあるが、リアル芸術家のガチ天才からみると、これは完全に商売人の勘違いだと思う。
 本当に創造的な人というのは脳が既に普通の人でないから自然にそうなってしまうだけだ。
 僕の場合、専門学校で設計課題だされて、普通に出したのに全て講師に理解できない設計だったらしく(自分には完全にわかるのだが)、全部落とされ、侮辱されまくり、ずっと徹底した嫌がらせを2年間受け続けていた。校長にまで訴え、やっと卒業したが、今度は建築士試験も設計課題で全部落とされた。その様に、創造性というのはそれ以外ありようがない人の有様なのであり、追随者の人達が真似事で創造しようとするのは、職能を間違っていると私は思う。寧ろ僕の実人生で体験済みのよう、言われた通りに課題を遂行してるのにできあがったものが「普通ではない」らしく、全部落とされてみたら分かる。
 建築の専門学校とか建築士試験みたいに、課題のパターンがあってそこに適合する設計にすれば受かるという場合でも、それらを全てクリアしてきっちり仕上げても、全体が創造的(個性的)だと排除される工業規格的場面では、そもそも創造性というのは発揮できないし、創造的個人は迫害されるのである。
 自分は建築以外、例えば絵画分野でも、日本の教育体制では「普通」「無個性」で「理解できる」「定型的」なものを選好する場面で、あらゆる面で迫害を受けまくってきた。美大芸大も全部落とされたし、予備校でも講師らにひたすら侮辱され続けていた様なものだ。創造性とはそういう必然の状態なのだ。

 だから、イノベーター理論を応用して「創造的」な仕事を選好すると言っている場面で、芸術家の比喩を使っていたジョブスは、僕は馬鹿だと思っている。このジョブスという男は本物の創造性をなめきっているのである。彼は僕みたいにあらゆる場所で徹底的迫害を受けまくった経験があるんだろうか?
 真の創造性は、あらゆる「自称普通の人」「凡愚」から理由なく最大限の敵意と悪意で、徹底的妨害を受ける宿命の元にある。そしてその創造性は、凡人にまねられるものでもなければ、そもそも人間性の成り立ちから、おそらく遺伝子の変異ですら異なっているのだ。だから創造性など真似するべきではない。創造的な仕事は、天才に全面的に依存しているし、すべてを天才自身に帰するべきだ。これは私自身がその一種だから断言できる。天才自身は或る意味、遺伝子の操り人形の様なもので、その創造性自体を統御できないのである。だから凡愚がその様な状態をまねてもまねられないし、職分が全く違うのだ。
 凡人は凡人らしく生きるべきである。例えば私のきょうだいなんてそれだった。途中で漫画家・アニメーターの道あきらめて常人になっている。それは天才以上の戦いに着いてこれないのを悟ったからだ。しかし自身を動かしている力がどの程度のものか悟っていれば天才が諦めるとかありえないのだ。

 天才という言葉の無駄に含意するものが多いので、別の言葉にすれば、「内なる声」(ソクラテスのダイモニオンの声みたいだが)がある人は、その声に従うしかない。その声が自分を叫ばせようとするのであって、その声に従わないと自分は酷く無意味になってしまう。だから内なる声に従うしかない。「内なる声」は自分に憑依し、自分を内面から突き動かし、何事かを語らせ、何物かを作らせ、自分を含む人類を啓蒙する。だからそれは神の導きの様なもので、そもそも創造性を付与されている肉体は、その魂の操り人形でしかない。
 有名なアップルのCMもこの点を勘違いしていると思うのある。
 カントの言い方を借りると、詩人を考えてみるといい。詩なんて全くなんの規則もない場所に、いきなり語れといわれても、余程の才能がないと好きに歌うことすらできない人達が殆どではないだろうか? しかし詩心がある人は、自分もだけど無限に語るべきことがあるからそのほんの一部しか表せないのだ。創造性をてらう、という態度は、こうして、なんの意味も持っていない。それは種族の違う生物が別の生物に擬態しても、所詮は偽物になるのと同じだ。寧ろ凡人は凡庸さにしか為し得ない仕事に集中し、天才自身の飛翔を妨害せずその恩恵に浴する方が、よほど全人類の為になるのは疑うべくもない。
 天才を妨害する。その翼を折り、表現されたはず偉大な精神、全人類を遥かに進歩させる重要な革新が全貌を現す前に、妬みと無理解のなか人類史から永久抹消する。これが東京都民全体のもっている、悪意ある精神的態度であった。私はそこを去ったし今後も近づかないつもりだが、事実、創造性のない街だ。
 創造的な街は、少なくとも、天才を理解できる人がいなかったとしても、その個人を放っておくべきである。勿論、天才を理解できる人がいる、即ち天才らの集まりである方が望ましいが。私の町(北茨城市)は、この点では私を幾らか評価しているのも含め、常に放置してくれる点が気に入っている。
 私にとって東京都は最悪の環境だった。それは、私の行動、活動の全てを悉く過干渉で迫害してきたからである。この点で彼らは悪い意味で最も非創造的な人達だと確信している。そしてその環境から、真の天才は永遠に出現できないであろう。創造的な他人を、群れる悪意で陥れる様な衆愚集団なのだから。
  世間の愚物は、東京は都会だから開放的だと勘違いしているが、事実は全く正反対だった。私の故郷の田舎町の方が、よほど他人の行動に干渉してこない。単に干渉してこないどころか、芸術に対する理解度も、ひいき抜きで東京全体に比べ遥かにずっとある方だ。だから私はこうして生き延びられたのだ。東京の多摩川の河川敷に椅子が落ちていたので、散歩というかジョギングの途中でそれに座って風景を眺めていたら、高校生が「何だあれ」といって嘲笑してきた。この一つの事例をとっても、東京なる場所が創造性へいかに抑圧的か一目瞭然である。他人が非典型的行動をとっても放っておけばいいのである。
 自分が生まれてはじめて「KY」とかいう馬鹿げた言葉で、他人の行動を無理やり衆愚の同調圧力で押さえつけようとしてきた本物の愚物をみたのも東京都内であった。今でもあの男は死んだ方がいいと確信している。その男は、他人が自由な行動を取るのが許せないらしく、自分の暗愚な判断に従えというのだ。
 自由もなければ創造性の余地もない。それが東京都という反面教師に足る、非創造的都市である。だから私はそこが大嫌いになったし、今後も永久に関わりたくないのだが。しかしここには重要な教訓もある。天才を弾圧する集団には未来永劫、進歩の余地がないということだ。没落するべくして没落する。
 逆に、どれだけ非典型的な行動をとっていても、いやむしろそれが普通でなければないほど面白がる様な集団性というのがありうる筈だ。私の地元がそこまでの域に達しているとはいえないが、将来はそうなってほしい。寛容さが高い集団であればあるほど、進歩の余地があちこちに生じることになるだろう。

 また、商売に限っても同じで、そもそも天才は遺伝子からして違う場合も多いだろうし、むしろどれだけ努力しようが典型的な仕事ができない。自分は完全にそれだが。無理やり同調圧力で同型ロボット人間を量産しようとする商売は、いわばコモディティ化しているので利益率が競争で下がっていくであろう。だから創造的な仕事をしようなんて考える必要は全然ないのである。定型作業が得意な個人は、勝手に量産型普通教育で日々作られていくのだから、わざわざそういう人達が苦手な作業なんてやらせてもしょうがない。学歴も経歴も破茶滅茶で、ぐちゃぐちゃ訳のわからない生き方をしている人が創造的なのだ。
 創造性の高い個人といっても、全く利益に繋がらない変異もあれば、完全に高利に直結している変異もある。商売面に限っていえば、商才は利益追求の才能なのだから、その点で圧倒的に創造的な個人なんて、努力の次元を超えてるのは前提として、最初からまねてまねられる代物ではない筈だ。ジョブスが創造的商才の持ち主だった、とは言えるだろう。ただ彼が天才だったというのは言い過ぎで、スマートフォンだの家庭用PCだのは既に作られていたのだから、彼の才能はそれを販売に結ぶ所の演出能力にあったと思う。裏返せばその商才の度合いでアイコンOS改良したビルゲイツの方が上だったのだ。

 まとめると、天才と凡人は成り立ち自体が違うから、後者が前者をまねる意味もなければ、天才にしか為し得ない仕事があるのだから、天才の仕事への妨害も全く、全人類史への公害でしかない。だが東京みたいに集団圧力が凡愚化へ向け行われる場では天才は生きられないので、脱出しかないであろう。
 そして商才もだが、天才は最初から周りの凡人と違うのだから、その人の創造性をまねることにはなんの意味もない。そもそも真似られない。したがって凡人は、凡庸な作業に集中し効率化に努力しなければならず、天才も天才でその種の型にはまった仕事は完全に人任せにし自分は創造に集中すべきである。