2019年9月22日

性差の表現にみる偏見と性愛像

女性はたまたまその時代なり地域の美に近い類型として生まれるほど常に性的な好奇の目にさらされ、少なくとも若い内はその中で生きる必要があるが、これに適応し性を商品化しているか、他人を操作する都会女の場合、寧ろその構図は狡猾な知能を発達させている。(そしてこの部分を私は好まない)
 例えば『三四郎』で美禰子は、その種の都会女の類型として描かれており、熊本から出てきたうぶな主人公を媚態で欺く。今日の東京圏の媒体(サブカルや商業化している自称ハイアート)が描いている女性像もほぼこの類型を出ていないが、それは彼ら都会人一般の周りにいるのがそういう女だからである。

 が、私の好む女性らしさはこの都会女なるものの類型と真逆にあるもので、誰も覚えていないと思うが『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』のモンゴルのゲル(パオ)みたいなところにいる少女みたいなののもっている、なんのけがれもない純朴さである。源氏でいえば都会ずれしていない茨城(常陸)育ちの浮舟のそれだ。
 思うに、女らしさの類型に与えているマス媒体の汚染は甚だしく、それは都民一般、京都人一般からすると自分達の卑しさ(彼ら自身からみると妖艶な淫靡さ)で塗り込められて満足なのだろうが、私の目からみればソドム人が神の秩序、あるいは神ながらの心を完全に冒涜している様に見える。私は都会女なるものの魅力自体がないと思うわけではないが、寧ろその逆類型の方が貴重で、澄んでおり、尊ぶべきものだと知っている。だが、アイドルとか芸妓とか都会ずれしていない、そういう別の女らしさを巧く現し、固定させられている美術なり文芸作品を未だ知らない(正確にいうと、レゾネでもアトリエ写真の作者がソファに寝てる背景にしか載ってないけど、アントニオ・ロペス・ガルシアのマリア像は少し少女像としてそれっぽいなと思うけど)。いつか自分にできるだろうか?
 例えば漫画なら『ドラゴンボール』のチチはそういう田舎女であり、ブルマは都会女として巧く現されているし、 『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』ならビアンカが田舎女、フローラまたはDS版ならデボラが別種の都会女(淑女系と遊女系なんだろう多分。DS版やってないが)として現されている。だが美術や文芸では?
 女らしさに限らず、男らしさもそうだが(例えば『ドラゴンボール』の孫悟空は田舎男の典型で、『シティーハンター』の冴羽獠は都会男の典型であろう。特に女に対する反応の真逆さでよくわかる。田舎の環境では性は商品化されていないので、純愛や生殖とのみ直接結びついた素朴なものなのだ)。

 東京圏・関西圏の美術・文芸・サブカルは、自文化中心主義や中華思想的なダニクル効果で、都会なるものを賛美し、田舎なるものを下位で被差別対象として描く傾向をもっているので、真に田舎の良さを全く描けていない、寧ろ彼らからすると盲点なんだろうなというのは私が常々感じてきたことだ。なぜ『ドラゴンボール』の孫悟空が生き生きとして、魅力的な田舎者として描かれ得たかというと、作者が愛知の田舎者だったからである。鳥山明の初期作品、特に『Dr.スランプ アラレちゃん』でもその種の田舎の村らしさの、良い意味での素朴さも、ロボットの娘であるアラレの、妹らしさの中に一部表現されていた。
 私が、新海誠の作品に少しも共感できないというか1個もみてないからそりゃそうなのだけども、趣味が全然違うから近づけねえなと思ってるのは、この都鄙に対する価値観の極端な正反対さだと思う。自分は西新宿で思春期後半送ってたけれども、美化できる様な面は殆ど感じなかった。最悪の環境と感じた。
 しかし、0才から過ごした地元の環境は、海山川湖(沼、ダム)とか田畑とか里山とか砂浜とかあったし今もあるのだけど、それらのどれも最大限に美化されうるというか、例えばサーフボードごと海に巻き込まれ死にかけたとか怖い思い出もあるがそれ含め、全体的に宇宙の美しさを崇高さに繋いでいる場だ。
 なぜ新海誠が嘘をついて都会の最悪さ、新宿の大部分を覆っている表面だけの都会ごっこと、あちこちにはみ出している誰が見ても明白な醜悪さを敢えて描かず、そこを美化するのか。金儲けのために嘘ついてるとしか思えない。まあ当人じゃないから真意は知らないけども。そういう所も含め映画観ないが。

 同人誌という代物がある。これも、THE都会女なるものの淫乱ぶり、いわゆる江戸の遊女気質なんだけど、そればかり描いている。まあそういう面が偏見として東京人一般のみる女らしさの類型だというのはうんざりするほど重々分かるが、私はその種の女らしさは性売買罪の真似ごととしか思えない面もある。
 私は高校の時から網羅的に村上春樹の作品も全部読んだ。しかしそこに出てくる女も、一人の例外もなくTHE都会女である。で、正直な所、私は春樹の描く女像は、下手くそだと思っている。他の人らも思ってる気がするけど。女のきょうだい居たのかなこの人? と思えるくらい女心分かってない感じがする。今後歴史の淘汰を経て、春樹小説は全部消えるというのが私の現時点での予想だけれども、それらの中で最上の類型が『スプートニクの恋人』のあの名前忘れたがすみれか、すみれだとしても、「お前わかってねえな」としかいいようがないのではないか。女を描けていないという点で。男も書けてないけども。
 少女漫画って歴史の隅に放り出され、永久に消えていくものなのかもしれないけど、女心を描けていたという点では、昔のはちゃんと書けてたんじゃないだろうか? 『NANA』あたりから違う代物になっていったのかもしれないが、もう少し前の類型のはちゃんとしてたというか、乙女心の表現だった気がする。
 まあどうでもいい話かもしれないが、Vチューバーとかも、女だてらの姿を使いながら、女らしさではないなにかを写し取っていると思うから気持ち悪いのである。作り手がオタクなのでオタの妄想女像を表象させようとしているのがひしひしと感じられ吐き気がするから見てない。女が作りゃいいと思うのだ。

 結局、脳内にいる理想の異性像を、エロス(性愛なるもの)として写し取って表象化しているのが誰かの作った偶像であり、それが下手だ、酷いというのは、その人のエロス像が現実から遊離しているばかりか、趣味が悪い場合だと思う。春樹のそれは娼婦じみ、鳥山のは田舎女も都会女もきちんと捉えていた。漱石の描いている女性像も、まああんまり上手だと思えない。どういう所がかというと、女なるものを神秘化しすぎ。普通に動物みたいなもんなのに。よかれあしかれね。じゃあお前が書いてみろよという話なのだけども。