2019年9月21日

美は適応価値としての癖によっている

美はそれが自分にとってなんらかの快適さをもたらす時にしか美と判定されない。だから人によって美とおもう対象は違う。恐らくこの機能は、脳内の前頭葉・内側眼窩前頭皮質の血流量反応で示された様、肯定的な適応価値と一致している。主観的要素が入るのは適応性が人によって違う部分があるからだ。
 異性愛者で、若い男性なら、同じ様に若い女性を、自らの生存戦略の中で必要に応じて愛する。そしてこの生殖の為の適応価値にとって、当人の脳は或る異性を美と認識する。他の動物にも似た機能があり、食料の供給される場所とか、住み心地のよい巣とか、異性の歌などにも反応する。
 私は最初から、その種の美に興味があったのかもしれない。それで芸術に惹かれていた様に思う。私にはその技のどこかに、生存にとって望ましい適応価値があったのではないか。さもなければこれほどその分野に深入りしたとも思えない。
 美が人生に直接関係しているのは明らかだ。常に私はそれを探す。

 或る西洋人が、或るSNSの中で「日本人は醜い」といっていた。当然人種差別ではあるが、私がそこで思ったのは、我々は西洋人女性にもしばしば似た様に感じるということだ。ここにあるのは、アジア女性の女性化された特徴だけではなく、見慣れない顔形が美の基準を脳内に作れないという慣れの要素だ。東京都民一般はビルだのちっぽけな建売住宅をみて、巣として美醜を判定しているわけで、それは広い庭つきの一軒家や広大な敷地でくらしている我々には全く意味がわからない狭く歪んだ世界観でしかないのだが、ここにある趣味の落差とは、日頃見慣れている物の選択に審美眼が適用されている癖なのだ。
 チャールズ皇太子が近代建築を醜いというのは、彼がミース粗悪版やSANAAの建物を見慣れていないからである。或る日系フランス人が、サヴォア邸を非常に軽視していたので、私は驚いた。東京圏の建築学生は、安藤忠雄宜しくコルビュジエを神話化しているからだ。これも主観的適応価値の違いを意味する。

 適応性と美にこれほど密接な関連があるので、美術史が文脈主義によって或る潮流上に或る独創を歴史化するのも、やはりまとまりがつく傾向を、或る人の名誉や都合の為にひいきしていると捉える方が自然であろう。客観的な美の基準は、この様な意味で、恐らく本来はありえないのだろう。
 左右対称性が生物の身体的健康の目安になる、という生物学の一見解は、この世の生物群に共通の客観的な美の基準といえるだろうか? もしそうなら、確かに美の基準は存在することになる。だがこれを超えた生物、例えば原核生物とか植物もいる。これも唯の慣行的な一部動物の本能なのではないか?