鈴木雄介ブログ
2019年9月21日
愚かさや賤しさの認知費用について
我々は愚かな人達、賤しい人達についてどれだけ知るべきなのか?
そして我々に賢愚、貴賤として判定される価値とは何か。その様な普遍的基準が、相対主義によっては不可能だとしても、現にその様な判断が主観的に成り立つのはなぜなのか。
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