2019年9月22日

商人一般の仕事は短期的私利の追求に過ぎない

世間の商人一般、特に会社員、労働者らが無意識にイメージなり定義している「仕事」は、確かに私のそれではない。そして私からみると彼らがやっている仕事は仕事ではなく趣味である。確実な対価の為に一定の作業をする、それが仕事なら人は、何も考えていないのだ。何れそれらは機械で消える生業だ。
 私の仕事は、そもそも対価が期待できない。そして常に不確実で、自力で考えないと何も進まず、終わっても世界中から沈黙しか得られない。だが私の死後も肉体を超えて残り、しかも文明滅亡後もそれしか残らないし、永遠にそれ以外の仕事は人類の記録ではない。神への奉仕。商売などどれも現世の趣味だ。
 私の仕事は、その上、作業自体が常に絶対的無力の前で誰もいないジャングルをあらゆる障害物のなか、目的なく前進し続ける様なもので、正確には終わるということがない。単にそれ以上進めないほど疲れきって、それ以上前進しようにも死ぬ以外の道がないので、限界の前で作業を諦める場合があるだけだ。

 私は労働者全体と、一人も分かり合えなかったし、今後も分かり合えないと思う。調度、歌人と職人のみているものが違う様に、今日の世人は私と同時代を経過していても全く日々の作業内容も、目的意識も違うのである。それで彼らは繰り返し私を侮辱した。金儲けしながら私を無業とか無職といって貶した。私は労働者全般がそれほど悪質で、意味不明な差別的衆愚だとは全然知らなかったので、SNS上で繰り返し侮辱を受けて初めて、彼らがいわゆる奴隷階級なのだと段々と悟っていった。はじめはなぜ彼らがそれほど悪質なのか、何も知識がなかった。結果としては、彼らが無教養の下級商人だからなのだが。
 社会主義者、共産主義者らは、マルクスもウェッブ夫妻もベルンシュタインも毛沢東も、決定的な間違いを犯した。それは労働階級なるものの実態を、特に彼らの精神構造や、生活感を知らなかったことだ。私はSNS上で彼らの生態を詳しく観察して、彼らが奴隷階級だと悟ったので、古い左派に同情できない。労働階級なるものは自由をみずから放擲する。それは彼らが同情に足る哀れな貧者だからではない。単に進んで、隷属的地位を択んでいるのである。
 会社員一般に独立を勧める自営業者は全く見当違いの誘導をしている。労働者一般は臆病で、卑屈で、責任回避的だから、大組織に従属したがるのである。
 ミルは労働階級に、演説中で彼らの隷属的精神への軽蔑の念をはっきり述べたら却って称賛されたと自伝に書いていたが、ミルが『自由論』段階で社会主義に懐疑的だったのは、その種の労働者なるものの集団行動的な精神構造をなんらかの理路で彼が知っていた証拠になる。
 労働者根性、会社員根性は、悪評高い役人根性と同じくらい負の側面を含んでいる。それは彼らが自主性がなく、営利的に行動し、世俗的価値のみに注目する、こせこせした下級商人としての資質を植えつけられてしまう点にある。そしてこの面からみると、高貴さも清貧も、自由さえ縁遠いものになっていく。

 なぜ労働階級が責任回避癖を身に着けるかといえば、それが彼らの生計を失う危険に直結しているせいである。だから匿名の隠れ蓑で、ネット上で荒らしなどをやっている人間が紛れているのだし、奴隷精神の果てには地位に服従する身分制的習癖がつく。それで上司や客に低頭、挙句皇族に万歳三唱するのだ。
 所が、労働者らは教養水準そのものが、官民問わず知識人一般に比べれば低い。普段から読書なり勉学を生活にしている人達に比べて商行為をしていればそうもなるだろう。それで彼らは傲慢になり、集団で「経済弱者」とみなした人間を、自分の僅かな稼ぎと比べて差別し、憂さ晴らしにしているのである。
 しかしながら、純粋な知識人からみると金儲けは商人の目的で、そもそも世俗的価値に過ぎず、金については無頓着なことが多い、というよりそれくらい脱俗的でなければ、前提として学者なり芸術家なりでやっていく知的水準にあるとはいえないだろう。だから労働者全般は、恥を売っているのである。

 なぜ私が労働者一般を軽蔑する様になったかなら、こういう理路で、彼らの実質的な生態と商人根性を、底まで見てしまったからである。そこに尊さは何もなかった。この点では生活の為に卑劣なことでもする、とか、何も考えずに言われた通りにし繁殖するとか、その程度の動物的要素しか存在していない。だから上述のよう私は社民主義・民社主義は勿論、共産主義にも、根本的に理論的な間違いがあると思っている。それは労働者無謬論の点である。労働者一般は哀れで救済されるべき被害者という説は、初期の工場労働者とか、今の非正規雇用者とか移民労働者などには当てはまるかもしれないが、全体論にはならない。
 では資本主義・自由主義・自由至上主義が正義かなら、勿論そこには格差拡大によって国家単位での貧困を解決できないとか別の欠点がある。そもそもそれら単体で需要全体を巧く満たせないから不景気になるわけだ。
 右派・左派なる対立協議は根本的に極論で、単に中道のどこかに着地するしかない。
 くり返すが、労働者一般をある種の無謬の善人として描いていた社会主義・共産主義者は、資本家を強者とみなし労働者全般を搾取対象の奴隷とみて当然と考える資本主義者・自由主義者に比べ別の倫理的間違いを犯している。それは無教養な労働者らの品性下劣さや悪徳に満ちた卑賤さを知らない、ある無知からきている。
 中道の全てが正しいわけでもない。教育の一律無償化は金持ちにより有利なのに採用されているし、修正資本主義の行き過ぎで企業国有化(共産経済化)を図ったアベノミクスが経済効率を決定的に損ないつつ公害すら防止しようとしない(寧ろ推進している)のもその種の偽の中道内での混乱からきている。政府が最低賃金を法制で決めるのもただの市場干渉で、福祉行政との混同にすぎない。生活保護受給をあれこれ難癖をつけ拒絶する水際作戦は、公務員一般の共謀した怠業による、国民一般への人権侵害である。
 こうして知識人ら(ほぼ絶滅しているが)の仕事は、本来的に商人や役人のそれではない。
 知識人一般は(広義で上級の芸術家も入る)、私利で行動する卑しい癖をもっている上に学術全般を実利のため表面的にしか学ばない商人全般とか、そもそも数等の暴力に依拠し権力闘争を手段にするしかない議員・大臣・皇族やその部下な公務員ら(裁判官除く)と異なる目線で社会を統御する必要がある。

 我々の仕事とは、福沢諭吉が『文明論之概略』でいうよう根本療法を施すことである。対症療法の方は政治家とか商人がやればいい。長期的な視野、いわゆる超時代的な大局観とか、人類史全体を含む純粋に哲学的な見方ができるのは我々だけであり、深い洞察に基づいて人類全体を正道に導かねばならない。
 なぜ労働者の一部があれだけ傲慢で卑屈なのかといえば、彼らが不学で下賤な品性なのは前提に、そもそも彼らはその種の性質によって下級商業に適合しているのである。隷属的で機械に代わる生業を集団で行うのは、高邁で有徳な高い知性、鋭い感性の持ち主が行うには余りに退屈で、耐え難いものだからだ。人類文明がどれだけ進化しても、将来のどの地点でもやはり上智と下愚とは移らないだろう。今日の下愚は大多数が商人になっている以上、労働者の房に収まるということなのだろう。がこれは彼らに閑居し不善をさせない為にはふさわしい措置と私は思う。船員に碇を磨かせる船長はこれを熟知していたのだ。彼ら労働者一般が僅かな暇を作ってなにをするか私はSNS上で観察していた。彼らはその殆どの時間を不倫・浮気相手を探し実際にそれをするか、さもなければ愚にもつかない名誉毀損、侮辱、殺人予告など、誹謗・嫌がらせの犯罪ゲームをしていた。孔子は小人の分析力に於いて凡そ全く正しかったのだ。
 孫正義はAIが社会化されても人類は別の仕事を作り出すだろうと言った。これは資本家の強欲の為だけでなく、下愚全般が労働から解放されたとき一斉にあらゆる犯罪に手を染めると予想される以上、実質で最も合理的な商業の考えと思う。だから私の仕事を侮辱していた人達は忙殺されて死ぬことになる。