2019年9月22日

日本画と欧米美術の王道的な接合点

私が格闘しているのは、欧米のハイアートやハイカルチャーそのものの流れと、日本固有の大衆・貴族文化の狭間にあって、両者の良心的で正統な接合点を自分の中に体化する試みなのかもしれない。そしてこの試みはこれまで誰もが失敗してきた重要だが接合困難な部位で、自分が最後の技術者なのだろう。欧米人一般は、私がやってきた様な接合の試みなど全く無関心で、最初から大衆文化を種として扱い、悩む必要などなかったのだと思う。ウォーホルがこの点で、そんなに困難な仕事をしていたとは思えない。だが自分の場合は体どころか魂を引き裂く様な荒野の中心でもう一人しか試みる者のない仕事だ。
 村上隆や春樹は、日本というか、東京・関西圏の大衆文化を彼ら自身がその内部で生まれ育った都会俗物として素で体化できた。だが自分はその種の東京・関西由来の大衆文化は、最初から外部的な異物で、選択的な批評対象でしかなかった。だから自分自身の文化ですらない。それで肯定的にみれない。

「漫画」「アニメ」「ゲーム」、これらは完全に任天堂だの集英社だのジブリだの都会の俗物が商売としてやっている代物という批評的認識が、関東北部圏で生まれ育つと無意識にある様に思うし、大人もそう扱っている。それで私もそう思っていたし、今もそうだ。サブカルチャーが自分のものとは思わない。
 だがハイアートが自分の物か。確かにそれを学んだが、これも欧米人の作り出した代物で、「日本画」は大名や皇族の慰み物だった。私はこれらを再現しても欧米人の流れの中に入れてもらえない。なぜなら日本人で、彼らの業界の外だから。では私のやっている仕事はなんなのか? どんな文化なのか?

 考えてみると、サブカルチャーにせよ、大和絵にせよ、それらは自分の文化ではない(水墨画の雪村は茨城人だろうけど)。辛うじて「日本画」は私の近所で産まれた。天心ら五浦派が日本美術院で創ったのだ。寧ろ芸大は「洋画」に拘って「日本画」を排斥したのだから。今の東京人全般は虚栄心で、最早それを認めないだろうが。
 単に近所に発祥地があるから、自分は日本画家なのだろうか? しかし自分は油彩画を中心にしていたし、欧米美術の流れの上で思考してきた。こうして省みると村上隆と全く違いすぎる場所から出発し、全く逆に進み、結局同じ「日本画」問題に戻る羽目になる。そして自分はいわゆる日本画家ではない。
 日本画なるものを、純粋に追求しなくとも、自分が日本人で日本で創作してる以上、それは自動的に日本画になってしまう。だから自分はこの問題を、途中から無視していた。以前は国粋的表現が、当時流行だったグローバリズムへのアンチテーゼとして必要かの様に思っていた時期も一年くらいあったのだが。
 超平面的な絵は、確かに唯の中間芸術だ。だからここに何か省みる価値があるとも思えないし、そんなのどの時代にもあった。問題なのは日本画と欧米美術の接合点の方だ。村上隆は亜流欧米美術で、日本画としても亜流という異様な位置づけにいる。自分は亜流を作っているのではない。自分の仕事が王道だ。
 ただここにも問題がある。もし、運良く自分の仕事が世界美術の王道と認められるに至ってしまうと、今度はそれが権威化し世界に抑圧的な働きをもってしまうという矛盾した構図。
 尤もそうならずに無視されて終われば、却って美術全体にとって幸福なのかもしれない。いずれにしても本流を歩むべきだ。