2019年9月17日

反出生主義の限界について

原核生物が海底で産まれてから、食う・食われる関係で生存競争を繰り返す他の生物は、たとえ全人類がいま滅亡しようが気にせず繁殖を続けるでしょう。
 ビーガンが常識になり、そのうち人工材料で全食事を賄う様になっても、生物界が残っている限り、遺伝子の利己性そのものは解決しないでしょうね。

 釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、その反出生主義の原点として子供を生まずに自然死するのが安らぎだと考えていたが、ニーチェはこれを冷笑主義と批判し、超人となって苦痛に満ちた生存を繰り返せといった。細胞は分裂し、生殖細胞は本能で繁殖したがるのだから、私は解脱はただの逃避だと思います。

 人類にできるのは、文明と呼ばれる或る集団的秩序を、できるだけ苦痛の最小化・快楽の最大化の方向へ整えていくことだけでしょう。そしてその内部では、賞罰の原理によって他者に害をなすまで利己的な人間を罰し、質の高い利他的な人間をより殖やす必要がある。人間中心で他の生物へも拡張しながら。ここで「質」というのは、ジョン・スチュアート・ミルがいうよう、快楽にはより肉体的なものと、より精神的なものがあり、主に人が感知しやすいという意味では精神的なものの快楽の方が、或る意味で高次(より後からできたものの系譜)にある。社会性という意味では道徳的利他性が高質な快楽になる。
 つまり、我々人類はこの文明と呼ばれる秩序の中にあって、より道徳的に利他性の高い生存を目指すしかなく、その種の質をもつ人々の中で生きる(もしくは苦痛の最小化とともに死ぬ)のが、現実に望める全てだと私は思う。本能を全否定できない限り、いずれどこかで人は生まれ直してしまうので。