2019年9月30日

現時点の自分の性的志向の自己分析

注意:私は今から大勢のキリスト教徒を発狂させるかもしれないので、東洋人への偏見がない人だけが読んで下さい。

私がけさ思ったから書いておきたいのは、吾輩の性的志向についてである。先ず自分は純愛主義者かつ純潔主義者だと思う。そして異性愛者である。

 なぜこういえるかなら、私は一部のちかしい女性には言ったけれども、初恋の人がずっと好きなのである。そしてこれを超えることは多分ないかもしれない。そんで、その人はもう結婚しているであろう多分。であるからして純愛かつ純潔といえよう。
 しかしここまではよくある話(でもない)と思うのだが、自分の心理をよく分析してみると、必ずしも型通りでもない動きもある。まあ最近の概念でいうと複数愛みたいなものである。

 昔、ドナルド・キーンみたいなレディー・ジャネットと名乗るやつが2ch文学板の固定ハンドルにいて、僕に「男は機会があれば一夫多妻を望む筈」といった。僕は当時、なにいってんだこの『源氏物語』かぶれはと思ったのだが、その後、なんでそうこの人がいったか少しは分かりだした。理由は2つある。
 第一に、ヒトの睾丸のサイズは浮気前提にできている。だから理性を完全に除去するとサルみたいに振舞う可能性もなくはない。ただ自分は酒飲んでも理性失った試しがないから基本そうならないらしい。
 第二に、女性というか複数のメス側が同時に自分を好きなった時の対応だ。私は子供のころ見た目がかわいらしい稚児だったらしく女の子扱いされていたり、その後も、普段家にいたのは女ばっかだったからか、今も女性に近い感性をもっていると思う。で、人の気持ちが大変良く分かるというか、今の言い方ならEQは相当ある方であろう。余りにわかりすぎて一々傷つくので他人に会いたくないから、平安時代の貴族の女性みたく庭にしか出ないのである。自分は小さな庭に出ただけでもそこの自然の神秘な営みに圧倒され胸が一杯になって満足なので、裏を返せば引き籠もりを非難する商売人達は遺伝子の土台ががさつで野蛮なのである。
 続けよう。私はこういうわけで女性らが同時に自分を好きになった場合(よくあるかまでは知りませんが)、それぞれを断るのは心苦しい(つつもたせ除く)。でよく考えると、第一の点みたく、自分で意図的に理性外せば、別に複数の女性と交際しても私の遺伝子的に利益があるわけで、相利的であろう。こういう道理で、私は上述の意見「男は誰でも機会があれば一夫多妻を択ぶ筈」には、ヒトを哺乳類とみる範囲では、一理あるんだろうなと考え直したのである。(これを女性や一夫一妻主義者一般が納得するには、改めて、一哺乳類としてヒトを分析できる必要がある)

 しかしこの複数愛の考え方は、最初にあげた純愛純潔主義とは矛盾する。そして一夫一妻主義の女性というのがいる(正確にいうと、自分が他のメスに比べ絶対に最優遇の立場でしか交際したがらない女性がかなりの数にのぼる。これは遺伝的利己心もあれば純愛の故でもある)ので、ことは複雑になってくる。したがって現時点の自分の性的志向は、時間差浮気(いわゆる離婚ですね)をするキリスト教世俗派(特にプロテスタント世俗派)の倫理観とは一定程度ずれがある感じがする。
 但し、或るフランス人女性(パリジェンヌ)と或るSNS上で親しく会話した所、普通にフランスの(まあ少なくとも都会の)カトリシズム世俗派というか最早宗教も特に深くはないのだろうけど、パリ人くんだりは、同時的な複数愛なんて当たり前みたいなこといわれた。その女性も複数の男性とつきあっているらしく性関係すら毎日あるみたいだった。都会の退廃とも解釈できるにせよ(何せ或るイギリス田舎紳士とこの件について同SNS上で議論した所、自分は絶対そうならないとの頑なな態度でした。偉いか素朴なんでしょう多分)、このパリ的考えは私にそれなりに影響した。
 いいかえると、イスラム教徒が奥さんは最大4人までとムハンムドから『コーラン』でいわれているとして、そして例えば日本史の中でも明治以前、貴族の側は上位者ほど一夫多妻だったのを考えると、純潔純愛主義とはなんぞやということになる。

 結論、キリスト教を無視すると、一夫一妻主義とは明治政府が西洋化しようとした制度といえるでしょう。この制度は、例えば僕が子供の頃読んだ漫画(『ドラゴンボール』『ドラえもん』)やったゲーム(『ドラゴンクエスト5』『マザ-2』)で、一夫一妻主義が一番清らかで正当なのだとの洗脳を施した。具体的にいうと、孫悟空は幼馴染というか最初に出会ったチチという田舎娘が結婚してけろとかいったので成人後もその婚約を忘れず他の女に目もくれずその女としか結婚しないし、ドラクエ5でいうと幼馴染の田舎娘ビアンカと金持ちの都会娘フローラどっち択ぶっていう成人後の有名な選択肢で物語が変わるわけだけども、これは純朴に考えるとビアンカしか選べないわけなんですね。(それでフローラ択ぶやつはろくでなしみたいな世論もあれば、何せ箱入り娘だから他にもお見合い相手なんて一杯いる上に自分を特に好きでもない政略婚のフローラ択ぶと、その後、自分を好きな上にずっと旅に連れ添っていた糟糠の幼馴染ビアンカは寂しく余生を送ることになり悲劇的な結末になるし、自分はそれをしらずとも最初からビアンカ択んだけれども、余生見なくても想像するだけでビアンカ振るのは可哀想だから普通はビアンカと結婚するのを前提に語ったつもりだったと、作った堀井雄二さん当人が仰っていた)
 すなわち自分は、鳥山明とか堀井雄二に、洗脳されていたのかもしれない。

 そこまで真剣に文化考察しなくとも、祖父母・父母をみてても親族も全部一夫一妻だし、周りもそれが当たり前の感じなので、当然、これを疑うこともないのが、いわゆるTHE中流的世界観、近代日本の普通なんだろうけど。(片親が多様性で擁護されだしたのは、小泉・安倍格差社会以後でつい最近ですからね)
 特に性的志向の面で、その一夫一妻イデオロギーの刷り込みは甚だあったであろうと思う。(但し自分にはロマンチック・ラブ・イデオロギーの刷り込みはなかった。少女漫画もそこまで真剣に読んでなかったし、親も祖父母もお見合いであるのが影響していると思うが。田舎生まれで性売買の文化風土もない)

 だから自分が最初に『源氏物語』読んだ時、大体20代の前半くらいか、本当にふざけた浮気皇族野郎のろくでもない話だなと思い、京都腐ってて心底ろくでもねえと疑いを深める原因にもなったし、要は、キリスト教的純潔純愛主義と全く対立する性的志向、一夫多妻徹底淫行主義が、そこでは象徴化されている。
 そんでだ。自分は17だかで『ノルウェイの森』も、反抗児だったので(飽くまで進学校ですからヤンキー的派手なのじゃなく、先生が子供を型にはめる東大受験なんてクソ、俺は茨の道で美術やるみたいな、内向的で大人しいものなんですが)授業無視して読んでたのだが、そこで語られている早稲田大界隈での淫行三昧の下賤な話も、まあ当時から馬鹿じゃねえのかこの頭の悪そうな神戸くんだり(『風の歌を聴け』も当然読んでました)から出てきた軟派連中はと、言語化はしてなかったけど普通に思っていた。その後スーフリ事件とか起きてさもありなんとなったけども、今から思っても、私の祖父の母校を荒らしているとんでもねえ不良だなとしかいいようがない。自称グレートブリテン島のノーベル賞予想屋に煽られていますが、世間が淫行正義と勘違いしたらどうするのか。まあすでに江戸っ子ぶったアホ都民の大半なんて男女問わず、原発だの賄賂五輪再開発で出まくったCO2や不法投棄のゴミは他県にばらまきながら好き好んで乱倫三昧してます、江戸時代からしてますし、下々はどうせどうもしないんでしょうが。

 で、その後、2ch文学板という場所で春樹とか綿矢りさらしきやつとも会話して(なりすましかもしれませんが)から思ったのだが、今も、コイツラ京阪神だか東京神奈川の一部自称文化人気取り淫行小説屋って表も裏も猿なんじゃないかと思えてくるし、それは鳥山明や堀井雄二的な正統キリスト教的な純潔純愛倫理観を植えつけられていれば当然そう感じるであろう。別の言い方をすると、この春樹とか綿矢りさとかって、京都関西文化から出てきて源氏物語みたいな一夫多妻淫行主義を素で根に持ってる上に、それを江戸東京町人文化と混ぜてしまった人達なのです。それでただの性的下品さを文学界の中で正当化しちゃって、もののあわれぶっている
 だから僕はこの京都・東京的淫行一夫多妻主義は嫌いなんですよね。彼らか彼らのなりすましは、更に私の実名になりすましたりしてありとあらゆる下賤な内容を書き散らし私の名誉を徹底して穢し、2chで匿名荒らし行為により、こっぴどく犯罪しまくりました。それは私を完全にトラウマにさせ、数年のあいだ毎晩、京都を地上から永久に亡ぼしてくれるようカミサマに祈っていた(本当に)くらいですから、私を酷く京都嫌いにさせる最大原因になりました。
 イエス自身は現代科学からみたら婚外子みたいなもんだし、もっと深くなぜ一夫一妻主義でなければならないか問うと余計複雑でもある。これは神学解釈だけど、イエスは自分の生を許す昇華で博愛を説いたわけで、厳密には一夫一妻主義でもないし、娼婦を許していたし、結婚契約と許しを両立させていた。

 けれどももっと素朴にみると、自分は同性愛ではないが、『葉隠』みたく片想いのまま死ぬのが一番美しいんだよみたいなプラトニック・ラブに至ると、純潔純愛主義が究極の一夫一妻主義でもあって、そこからいうとだが(僕も墓参りまで行ったんだけども)漱石なんてのも堕落した男であろう。若い頃、医者の待合室でみた気立てのいい女をずっと想って純潔のまま死んだならいいけども、途中で金持ちだか上級官吏だかの娘の鏡子とお見合い結婚しながらに手紙の中では「うつくしい細君がもらえると思っていた」とかいって、実質的に見た目からして理想の妻ではないと言っているわけだ。そんなら最初から結婚するなよともいえるし、『明暗』で最後まで初恋の人っぽい性愛の(別に性行為してないけども)幻影を追いかけて死んでいる。
 ま、漱石は世間的には明治の一夫一妻主義に順応、弟子の芥川とも違い芸妓だか娼婦だかと遊び気が狂うこともなかったわけで(事実か知らんが、芥川は自殺直前に売笑婦と遊んだと『或阿呆の一生』に書いてある。犯罪者とか自殺者が死に直面した時、本能で性欲が高まってよくやる行動だ)、別にそれ(少なくとも漱石の方)は現実には非難される一生でもなかったと思いますが、もっと深く性的誠実さという面で考察すると、かなりいかがなものかといえる言動も取っていると。それは別に性衝動そのものが悪いといっているのではなく、単に自分の心理に対する感情論的誠実さという面で、である。

 つまりだ。まあ私の本能としては奥さん「最低でも」4人くらいよこせと思うのだが(できたら1000人くらいいた方がいいが現実的に異性同士でも、同性とも、しばしば法律上もバトルになりかねないので難しい)、しかしこれを実行に移すとなると、第一に女の側の理屈からすると、余程の金持ちじゃないと子育て面でも不利だし、そもそも俳優歌手ユーチューバーみたいな人気者に発情してんだから余りそうならない。だから今後金持ちなり人気者になればいいのだが。がこれは一夫一妻制に矛盾するから事実婚しかない。
 しかし、もっと深く考えると、自分が4人以上妻なり恋人なり愛人がいる合理性というのは、性的快楽が導因にはなってんのかもしれないけども、実際には子孫に遺伝的バリエーションをつけたいというものであろう。なお飽くまでこの項は、性衝動なり心理の理性的考察を完全に無視し、本能ではですよ。

 で、仮にそういう利己的本能があるとして、自分が素朴に信じてきた純潔純愛主義とは「表面的には」大いに矛盾する。もっと分析的にいうと、いわゆるもののあわれ的浮気と表が似てしまい、僕が嫌っている中世京都人的風紀とか、江戸東京町人商人的な下流世界とどこが違うの? となってしまいかねない。
 理屈的には大分違うというか、上述したよう系統発生が違っていて、自分のは純潔純愛主義の複数愛版なのであって、根底には女性の気持ちを裏切れないというのがある。だから自己犠牲なのだ、或る意味。これは嘘ではない。一定程度より親しい女性には、或いはそうでなくても、きっと分かると思うけども。

 僕個人は、最初に書いたよう初恋の人というか、悟空的な考え方で、子供時代に身近にいた好きな人が消えちゃったからどうすっぺという感じなのである。しかし、自分を好きになった女性がいた場合これを断るのも、まあ何度かやったのだが後から自分が(も)傷つくのを悟った。
 一方、京都的なもののあわれ論というのは、普通に浮気ですよね。これは異論はないでしょう。唯の軽薄な皇族だか公家だかの浮気感情だからこそ、浮舟は救われないのである。現代の関西女に話をきいてもそうですよ。関西地方の男達はいまだに女をそんな風に扱っている、要はただの肉体関係目的の浮気相手にしているのを何度もみた。だから私は本居宣長をずっと馬鹿だと思っているし、淫行したさに性欲を自己正当化してんな、サルめがとしか思わない。同じ意味で進次郎官邸前溺婚自慢も、開き直るしかなかったんだろうが、婚前交渉サルかと恥知らずめがとしか思わない。
 で、江戸東京町人商人文化からみるとこの浮気癖は同様に堕落していて、要は性売買とか、ただの淫行目的の肉欲だけになってくるわけだ。こっちの場合、ま京都人とか関西人の文化風土も似た様なもんだけども、『偽田舎源氏』『春色梅児誉美』(読んでない)、『たけくらべ』からなんにも変わっていない。
 だから下流的なもの、もしくは売買春は違法であり退廃的なものというべきで、京阪神と東京は色んな指標の相関係数が高いので、やれお茶屋遊びだなんだの祇園芸妓遊びだの公家文化の名残だってほぼ、江戸東京の性風俗文化みたいなのと多かれ少なかれ一体化してんですよね。

 そういうわけで、僕の性的志向は中世京都人的もののあわれ(例えば『源氏物語』『蹴りたい背中』みたいなもん)でもなければ、江戸東京人的淫行主義(例えば『たけくらべ』『ノルウェイの森』みたいなもん)でもない。
 自分に一番影響したのは、『ドラゴンボール』での悟空の立ち位置とか、『ドラゴンクエスト5』でのビアンカ択んだ物語であろうと思われ、理性的には純潔純愛主義なのは間違いない。
 しかし、ここが特殊なのだけども、でも本能でみたらできるだけ多く遺伝子残した方がいいでしょという無意識と、同時に、女性を裏切るのは可哀想なばかりか自分も傷つく(長い目でみると生殖の機会失って後悔するという生物的意味もあれば、女性側の本能的・無意識的な生殖願望への期待に気づいてあげられなくて申し訳ないという自責もあるだろう)為、受動的複数愛の一種の性質がある感じがする。

 こういう道理で、異性愛の純潔純愛主義かつ或る種の受動的複数愛というのが現時点の自分の性的志向かなと思うのだが、これは一夫一妻の結婚制度に完全適合していないと思うし、キリスト教的でもなければイスラム教的でもないし、もののあわれ的でもなければ性売買的でもないと、特殊なものな気がする。なおかつ、自分はとにかく繊細で気を使うし気が利くから、プラトニック・ラブの傾向もある。
 今流行の性的少数者を大切にみたいな流れからすると、自分の性的志向は異性愛だから無視されたり、ただの浮気扱いされかねない上に、外見的には文通しかしないみたいな感じでブッダか詩人にしかみえないだろうし、目立たない性的少数者だと思うのである。

 そしてここまで書いてみて改めて思うのは、この自分の或る種の性的少数者性というのは、子供の頃からすでにあった気がする。
 なぜかなら、自分は小学校低学年くらいの頃に、姉から姉の友達が遊びにきてたときかなんかに、誰が好きなの? といわれ、よくわからんので、焦って、幼馴染の或る同級生の女子が自分を小学校で好きだといってるのを脳裏に思い出して、まあ確かにその女性は大人しい人物だったし自分もただの異性として全く好意がないわけでもなかったのでとっさにその人が女性としては一番好きなのかなと解釈し(これは子供なので性欲ではないんですが)、その子の名前を教えてあげたら、からかったような口調で姉が(多分姉の友達も)、はやしてきた。
 で、自分がここで初恋の人といってるのは、実際にはこの人ではないんですねこれが。その女性と別のクラスになったのもあるかもしれませんが、前書いたからブログのどこかに残ってると思うが、僕が猫のふりしてカーテンに絡まって日向ぼっこし、相手の気を引こうとしていたピアノ少女の方を指している。
 この部分の自分の心理の動きをよく分析し直してみると、すでに最初から受動的複数愛みたいな傾向があったんじゃないかと思う。そして、それは自分の能動的純潔純愛主義と矛盾なく脳内では同時並列しているんではないか。こうして成長後に、やっと意識的に言語化できる様になったということなのだろう。