今から全く不可解なことを書くと思うが、私は「何かを他人の為にして、その他人がそれを求めていた時、対価として金を得て代わりに何かを与え、それを別の必要なものと交換して生活する」という生活様式が、完全に本能的に嫌いで、何一つ共感できないし、参加もしたくないのだ。商業的生活感が嫌いだ。
私がなぜ対価を得て暮らすのが嫌いかというと、理論的には新渡戸『武士道』で尊い仕事、心からの奉仕、善意は金銭に換金できないから、というのが尤もだと思うが、それを超えて、そもそも他人という存在が理解不能すぎて、自分と同類ではないらしく、他人の需要など全く見通せないからである。
自分が欲しいと思っているものは、他人が欲しいものではない。そして他人は自分ではないし、何か似ているかといえば、産まれてから今に至るまで、他人が自分に似ていると思ったことは一度もない。ドラクエ4が楽しいとか偶然似ていた時はあったけど、成人後は他人が全く別物にしかみえなかった。
それで、自分は商業活動ができない。需要が世間に数値化して具体的に現れているからといってそれに奉仕する、いわゆる商売が生理的に気持ち悪くてできないのだ。昔でいえば私は公務員の直系子孫だからそのまま世襲で侍になってたのかもしれないが、芸術のが好きだったので芸術方面に進んだ。
なので、私は今日の社会に、完璧に違和感しか覚えていない。というか他人がサルにしかみえない。しかもそれは子供の頃から同じだった気がする。同類が一人もみつからないので、この世の人間に、神の様に同情なり義憤を感じる時はあるが、飽くまで他人の需要と自分が違いすぎて同じ社会に生きられない。
しかし、産まれて35年間のほぼ全期間を勉学に費やすことで、私はこの世の構造の様なものを大分掴めてきた。そこからいえるのは、サルの囲い込みとみれば商売もできるのかもしれないということだ。だが、それは私独自の方法論なので、私以外の人類が応用できる価値のある考えではないかもしれないが。
もし私が今書いたことが真理なら、あと10年も見積もれば、私はこの世でいっぱしの「起業家」になっていて、たしかにここで書いた洞察が正しかったと示されることになるだろう。しかし私自身の実感としては、世の起業家は私と全然違うルートで金儲けしたのだと思う。私はそんなのしたくなかった。
私に必要だったのは、単に食べ物を得ることだった。私は余りに他の人類と何もかも、成り立ちの根本から違いすぎるので(もしかすると遺伝子が何か変異しているのかもしれない)、なぜ働いても働いても彼らが一円もよこさないのかさっぱりわからなかった。他の人は同じ様に働いても大金を得ていたのだ。
私に分かったのは、他人は私より遥かに、それは天と地の差というしかないほどの開きだが、利己的だった。私は他人に比べると、天の上に生きている様なもので、純粋に利他的な産まれだった。これが、私には他人が全部サルにみえた理由だと思う。私は聖人以上の利他性をもっているが他人はサルなのだ。それで、私が餓死しないよう食べ物を得るには、この私を基準にみればほぼ純粋に利己的なサル達を、巧く囲い込んで、彼らの行動規則から金を抜き取るしかないのである。まあいわゆる搾取、広義で付加価値の分捕りなのだが、事実、これを初期設定でやっているのが彼ら利己的な生物、人類なのである。
なぜ私が彼らの中に参加できなかったかはこれで明らかになった。彼らは同類である「利己的な人類」を基準に世のしくみを作っていたので、「純粋に利他的な人類」がいるという想定をしていなかったので、ずーっとエラーが出ていたのである。そして彼らはそのエラー反応に気づいてすらいなかった。
私は産まれながら善良な存在だったので、何もかも無償で奉仕して当然だと当たり前の様に思っていて、成人後も設計のアルバイト頼まれても、バイト代いりませんといって貰わなかったし、弟子入りにいっても給料いりませんといって一円も取らなかった。しかも普通に道端でタダでお金あげようとしていた。これは産まれのせいなのか、余りに育ちがよすぎたせいなのか分からないが、きょうだいは普通にバイトや就業とかしていた様なので、遺伝の影響なのではないかという気もするし、新渡戸思想とか別の影響も考えられるが、いずれにしても私は商売どころか、デフォで宗教家以上に利他的な慈善家だったのだ。
資本主義経済を導入している社会だと、慈善家はひたすら利己的な悪党商売人らに貪られて死ぬ。私はこれで正真正銘、過労死直前まで行った。1年くらい前の話。それは私が無償奉仕しまくっていてそうなったのであり、そのまま行くと普通に餓死すると判断される。だから私は悟って逆に走るつもりだ。
逆に走るとは、この利己的な人類達(まあ総じて日本人のほぼ全数がそうであろう)の存在を認め、彼らの行動規則を読み、いってみれば孫正義とか柳井正みたいな行動をとるということを意味している。しかし彼らみたいに私はきっとならないと思う。進化的に全く極端で異常な道筋で急転回するのだから。
私はもう過労死、餓死という生まれながらの慈善家がこの社会で当然行き着く果てを実体験したので、そしてそこには無と死しかないのをまざまざと見たので、今後は人類一般の邪悪さを完全に悟って、彼らをサルとして利用することに全精力を使うしかなくなった。これが冷たい現実なのだからしょうがない。
勿論、私は哲学者だ。だから功利主義もロールズ正義の原理も必要十分に知っているし、幾ら人類一般が二足歩行の哺乳類とはいえ、サルとして手荒い扱いはしないし、できるだけ彼らの最も恵まれない者を恵み、動物愛護の目的で彼らの幸福も最大化してやろうと思うが、これと金儲けは全く別の話だ。この合理的経済人ぶっているサル達は、いうまでもないが利己的な欲求充足を目指して、往々にして下賤に生きている。それは彼らが頂上扱いしている皇族だの王族だのをみても、偽善的な虚栄心くらいしかないのでよく分かる。つまりこれらの人類というサル達は、アリストテレスがいう奴隷なのである。
自由人の資格は、純粋に利他的な行動様式を前提としてもっていることにあるといえるだろう。しかもそれが自集団ひいきを目的にした群れに依存してではなく、ただの個人として同調なしになければならない。奴隷精神の持ち主はこの逆で、同調、群れ、利己的な欲望に妄従する。だから彼らは商人なのだ。これら商人奴隷らの行動様式は、皇族・王族といった権力者に納税しながら欲望充足を図ろうと程あれ利己的に行動することにある。すなわち、我々が自由市民として今日為すべきなのは、彼らの行動規則を抽象的に理解しつつ使って、必要十分な資産を蓄えつつ、自由な生活を営むことでしかない。
彼ら商人奴隷は、こういう規則で動くので、純粋に利他的な行動様式に理解がもてない。だからこそ彼らは、俗物的見方をこえた学術的領域に深く踏み込めないのである。彼らがそこに名誉とか換金、応用性といった即物的利己性しか認められないのはこの為なのだ。
自由人は商人であってはいけない。
だが同時に、資本主義経済は正にその名の通り、資本によって自由人の為の領域を確保している体制である。我々が為すべきなのは、ケインズやマルクスが考えたのと違って、資本家の立場と自由人の立場を一致させることである。そしてくらしに十分な資産があってのみ、今日、純粋な慈善が可能なのである。
蓄財や営利を目的としてはいけない。これらは利己的な商人らの求めている目標だ。自由人の経済に対する目的はこれとは逆に純粋な利他性なのだから、中程度で必要十分な資産の確保と、その上に立った非営利的で純粋な利他活動でなければならない。資本主義を乗りこなしながらそれを目的とするなかれ。