2019年9月19日

世界には各田舎さしかない

日本は、今の東京や京阪全体を含め世界の田舎だが、それは寧ろ我々の利点で、日本の居心地の良さの原因でもある。日本語しか通じないし、その言葉は世界の流れから置いていかれている。だからガラパゴス化した内輪受けにばかり耽って外と通じ合えない。その衆愚さは村社会だが、だからこそ日本なのだ。
 この日本国の田舎らしさは、諸大陸から離れ、極東の孤島に留まっている環境、地政学的条件からできているものなのだが、もしそれが美質になりうるなら、その特殊な進化が、世界の大勢に比べ優れた方に独特な場合である。だからこの点に、海外の動向を十分に知っている高文化人のなすべき指導がある。
 諸外国の長短を学び、その短を避け長をとるのが、外国の動向を知っている国際文化人の、国内人の模範的になるべき役割だ。
 そして同時に、飽くまで自国の文化が独特である状態は維持されねばならない。この点で「出羽の守」的同期が巧くいかないと嘆くのは間違っている。完全同期はただの同一化だ。

 全く同じ構図は、自治体の単位にも、家庭や個人にもあてはまる。比較文化の本質的意義がここにあって、世知は情報やその束である習慣の、自文化にとっての取捨の為なのだ。
 田舎さを差別の文脈に置いている人は、この様な意味で知恵が足りない。唯一の世界文化は無い。唯の幻想で自文化中心主義だ。