ネット右翼は利己心を補完する日本教に、安倍政権とか皇室とか愛国もどきの自画自賛とか中韓差別、中華思想などを引っつけているだけで、彼らの目的は自集団ひいきを期待した利己主義である。即ち、日本信徒はこの教義が自己矛盾をきたすと利己性が侵されるので認知的不協和を解消する為、凶行に走る。
だがこの集団は元々、利己性を補完する教団を求めているだけで、かつ認知不協和を科学精神によって自己否定的に摂り込む習慣なり認知力が足りない集団でもあるから、もし日本教が利己性に反する様になって脱会すれば、寧ろ進んで内部暴露の担い手になるだろう。裏切った信徒が最も凶悪な非難者になる。
宗教一般は、この様な脱会信徒によって非難対象になることで、教義が唯一のものにならなかった。この過程を形式化したのがソクラテス助産術や、そのさらなる抽象化としてのヘーゲル対話術(弁証法)といえる。
つまり、哲学は本質的に脱宗教的な議論で、いかなる教義、信仰も全て疑う所に成立する。
右翼全般は、自らの利己集団が全体ファシズム化し、自壊を伴う様になると、致命的損害や自死を肯んじない相当部分は別の教義を求めるか、相似の利己集団へ離脱する。彼らの殆どは一定以上の不協和度(即ち寛容さ)に耐えられなかったよう認知力の低さを伴っているので、そこでも似た行動を繰り返す。つまり、保守主義とはこの種の一定より不寛容な集団が、宗派として或る塊になっている状態を指す。そして国や国家連合も、地縁を超えればその種の不寛容さに基づく排他性の仮想物である。この集団性は最小で家族、知人友人、恋人などであり、今日なら最大で地球人(世界市民)になる。
星規模で最も寛容な慈悲人から、個人単位で自分以外なにごとへも利他行動しない純粋利己主義者までの幅のどこかに、全人類はその道徳多元性についてあてはまる。ある人が他人へ害をなすのは、こうして、根本的に利己度が原因なのである。
文明の究極目的は、上記の寛容度が最も高い利他集団を集め、イエスが「神の国」、カントが「目的の国」、福沢諭吉が「文明の太平」など様々な言い方で当為として指し示していた、少なくとも物質面含む人助けや諸生物への慈悲深いとりあつかいが利己心より常に、質的に優越する世界に生きることである。
構造的に、一般に一定より寛容な集団さえ、宗派化した途端、排他性を同時に帯びざるを得ない。だからこの文明は、本質的に構成員を差別する単位(内外を分けるもの)ではありえない。そして互恵性利他行動を省みると、血縁を中心として、度合いに生じるものと考えられる。文明を社会の向かう当為(上記の各思想家らが理想視していた世界)の別名とすると、ここでいう文明は、単純化すれば、構成員らがもつ一般的利他性の質である。もし文明多元論を主張するとしても、そこにはそれら全種類を超えた利他性の質があり、どの文明群も共通してその目的に向かい進化する。
「文明度」と共通尺度を導入すると、この比較文明の立場は元々、文明の多元性と矛盾する。だから文明の質は、たしかに度合いではあるのだが、そもそも寛容さから見直すと、或る共通尺度による順位づけの差別を超えながら拒否する様な、絶対値である。そしてそれは要素に還元し比較できない。例えば法律は或る共通倫理に基づく罰則づけで、利己性の高い人による他者へ有害な行いを外部制裁する政治的機能である。対して褒賞はこの逆に、利他性の高い人を模範として尊重させる動機づけである。これらは賞罰刺激で、文明人らをより利他的に振る舞わせる社会的鼓舞といえる。
ネット右翼に限らず右翼一般、つまり保守主義者は、こうして根源的に自集団ひいきの妄想による一定の文明圏を維持しようとする排他集団を、利己を目的に合理化する考え方の癖の持ち主なので、彼らは文明の展開にとって反動といっていいだろう。だがこれも程度問題で、一般に年長は経験則で保守化する。
また、平成後半から令和日本期の様、情報過多で混乱した若者の様に特殊な条件下でも保守化が起きる。ファシズムも不確実性が高い環境下で起きる認知錯誤の積み重ねが、排他性へ結びついた状態といえるだろう。そして皇室の様、絶対的利己性により根本から反文明人として振る舞う目的の蛮族も存在する。神道法人により贅沢に耽る金は十分にありながら、さらに最も貧しい者を助ける為の公税を貪るこの皇室と称する蛮族は、大化改新から1374年余、わが国の公益を彼らの利己心のため堕落させてきた。だが、その邪教祖を兼ねた暴力団長が、文明の必然の中でおちぶれるのは理の当然でしかないだろう。
国に限らず、どの集団、どの単位でも、人はできうるかぎり利他的であるべきだ。人助け、あるいは慈悲の質が、そのまま或る人の理性的意識がある理由なのだから。そしてこの度合いは、各個人にとっての絶対値なので、他人と比べて善いかを気にする意味は全く無い。どの単位区分でも差別は意味がない。
我々がこの世で体感しうるあらゆる幸福の中でも、良心の満足が、最も質の高いものである。
アリストテレスは快楽を目的ではあるが時に手段となるもの、幸福を目的そのものと区別したが、この幸福でありかつ且つ快楽である部分を徳行とすると、自己犠牲含む良心の満足は幸福全体とほぼ等しい。我々が他者または他の生命に有害な振る舞いをしながら、自ら感じている幸福なり快楽を見返しても、全批判を省みても完全に自分は善い行いをしたと確信できる場合以外は、信仰の次元に於いて現在か未来のどこかの地点で悔いざるをえないであろう。そしてこの不満足が低質さの根拠になる。
カントが『実践理性批判』二部に於ける定言命法の理論で、義務に殉ずる絶対的自己犠牲の前では自らの幸福をも省みるべきではない(「義務に比べれば人の幸福は物の数ではない」)と述べたのは、この種の善の絶対値を指していた。この特別な義務が生じる場面を除いてのみ、文明内の幸福は尊重される。
義務の最高段階を自己犠牲とすると、個人の幸福を打ち捨てて構わないと判断される場面、すなわち特別な義務とは、自己犠牲が必要になる状況を指している。広義では、死や甚大な苦痛を与えられるという意味で自己犠牲は快楽でも幸福でもなくなるだろうが、狭義では、この種の善が最高幸福なのである。
文明は、斯くして必要時には自己犠牲を当然と考えるほど善き遺伝的資質をもつ人々の集まりであり、それは根本的に自集団の利己性たる保守主義を信じる、右派一般と絶えず対立する社会、人間関係の機能である。我々が文明の中でしか幸福になれなかった様に、人類はこの利他性を高める進化の途上にある。