2019年9月20日

音楽自体を聴く人と演奏家にしか興味がない人

安室奈美恵の昔の音楽がスポティファイに出たので聴き直してみたが、殆ど時代がかっていて古びている。JPOP自体どれも古びるのかもしれないが、曲によっては或るカノン(規範)に達している古典もあるのではないかと薄々感じているのだが。
 JPOPやKPOPは民謡や、演歌・トロットの進化版で、その規範は通時性を持たないのか?
 大衆向け商業音楽としてのJ・KPOPは、美術なら漫画・アニメに該当する部類のもので、そこで或る規範をもっている正格的な作品といえるものさえ、実際には表現形式に固有のそれに留まるので、究極のところ純粋な芸術音楽になりえないのではないか? サブカルチャーへの嫌悪感の原因がそこにある。

 しかしポップアートに比べ、それらのサブカルチャーが低俗で、下らない作品の集まりだとどうしていえるのか? スーパーフラットや中間芸術としての解釈は、ポップスをビートルズへ遡源するかもしれないが、ではビートルズは低俗な下らない音楽家だったと定義できるのだろうか?
 私にとって意味があるビートルズの楽曲は、実際、『Revolution9』だけだった。しかし他のポップス全てが、彼らの文法を応用したものなら、それらのどれに正格があるのか? そしてその根拠は、感覚論以外でなんなのか。私に興味があるのはこの音楽論としてのポップスの質だ。

 バンプ好きなんですね、とツイッター上で聞かれた。けど、私は音楽をいわゆる個人的好みで聴いてないと思う。確かにjupiterという彼らのアルバムは、近所のCDレンタルで中古買ってから余りに聴きすぎというか、多分床かCDプレイヤー内で擦って、擦り切れた状態で聴けなくなった。が曲を聴いてるのだ。
 この『ダイヤモンド』という曲は、歌詞もだけど、とても良い曲だと思う。その後のバンプも全部聴いてるけども、この最初期の作品を超えたと思えるものはない。
 Uruがカバーした『Butterfly』を聴いてみてわかったけど、バンプがなんで僕の感動を呼ばなくなったかというと、プロデューサーが悪い。曲自体は初期からロックなのに編曲・演出で中途半端に電子音楽化し、初期の荒削り魂がお洒落調で表に出れなくなっているのだ。だから私は曲を聴いてるというしかない。
バンプの半電子音楽化されたお洒落風PVの原曲
 似た様なことは、ミスチルファンが某プロデューサー批判としてやっていたし、要するに売れると巨大資本が乗っかってきて、ストリートミュージシャン魂みたいなのは覆い隠されてしまうのですね。尾崎豊の場合、そうなる前に死んだから、お洒落化した中途半端作を世に出さずに済んだのだ。
 このButterflyという曲も、歌詞含め曲単体をじっくりとよく聴くと、初期の作品と本質は変わっていないのだが、編曲がおかしいからその曲の民謡魂みたいなのをきちんと掬い上げられていないのである。裏返せばバンプはプロデューサー要らないのである。ほんとそうと思う。荒削りで出した方がいいのだ。

 あと、J・KPOPは、歌曲、歌謡曲なので、歌詞の評価という文学的要素が少なからず入ってくる。ボーカロイドやアニソンもだけど、器楽じゃないから純粋音楽と認められていないのはこのせいなのだが、もっと色んなジャンルが派生しているから器楽だけ純粋音楽だという基準そのものが古いのかもしれない。
 似た様なことは、近代美術以後の純粋美術が抽象表現主義以後にアンフォルメルとかコンセプチュアル・アートに行って、ポップアートの派生物をとりこめなくなったグリーンバーグ的批評空間へ、村上隆が中間芸術や大衆・商業芸術をとりこめる枠組みをもちこんだので、美術界では先に起きている。
 それで、私はポップス系も「純粋音楽的」にみているわけで、この点で前から一般のポップスファンと全くみている視野が違いすぎて話が全く合わない。一般のポップスファンって歌手、特にボーカルに発情してるのである。子供の頃ライブで合唱してたら発情女にブチ切れられ、傷ついたこともあった。私はそれ以来、ポップスとかロックのライブには絶対に行かないのだが、要するに聴衆は低俗な発情サルみたいな連中なので、近づかない越したことはないのである。この点でクラシックコンサートの上流気取りぶりも気に入らないし、テクノの場合は音量でかすぎ煩いから、私は直接演奏聴きたくないのだが。
 なにがいいたいかというと、私はバンプもだけど、単純に音楽家として曲の質を聴いている。だからいわゆるファンという代物ではないのかもしれない。思春期くらいからずっと色々聴いてはいたが、ビートルズファンとかクラシックファンが熱狂するみたいな偶像崇拝じみた要素はひとかけらもない。
 私以外の人はもしかすると大多数は違うのかもしれないけど、私はショパンもバンプもアマザラシもけもフレ2オープニングもアリアナ・グランデもジョン・アダムズもフォーレもすぎやまこういちも上妻宏光も村井秀清も、全く並列化して聴いているし、それは曲自体の質を構造的に聴き楽しんでるのである。なので、曲を作った人なり演奏家なりに発情するというのはない。もしあってもそれは異性愛者なのでその歌手自体に、発情してるんだから、その人が作曲家なり作詞家なりとして作った作品の質とはまた別の評価ではないだろうか。両者を混同する人達の気持ちは、基本的によくわからないのである。
 例えば女優なりアイドルなりが、プロデューサーの作った曲を歌います。そして偶像崇拝してるオタクなりファンが買います。この商売はグッズ生成なのであって、私はその商業性にはなんの興味もない。歌手として声を楽器化して使う能力の演奏の質と、曲単体に興味があるのだ。芸術家としての目線なのか?
 曲(歌曲なら+歌詞)の形式・内容と、歌手なり演奏家の声・楽曲の使い方の技巧。これらが私の聴いているものだと思う。だが一般人はそれ以外のなにかを聴いてる気がする。私のきょうだいとか、人物に発情してた様にみえたし、発情に飽きたらその曲や演奏そのものの評価も0になる様にみえるのである。

 なんでこれをいってるかというと、私が生まれてはじめて買った、買ってもらったのは、小学低学年か幼稚園の頃でテープで光GENJIの『パラダイス銀河』、CDで小沢健二の『カローラⅡに乗って』だったんだけど、これらも私は曲を聴いてたのである。人と聴いてる場所が最初から違うので話が合わない。
 で。この「誰とも(音楽の)話あわないぞ」ってのは、今に至るまでずっと続いている感じがする。ほかの人達は曲の構造的分析、研究の興味はもってない上に、自分も高校で音楽か美術かで後者択んでしまって楽典的知識が十分でないせいもあるかもしれないが、要はほかの人らは音楽を聴いてないのである。
 自分は、このミュージシャン偶像化現象がビートルズ発祥なのではないかと、映像で発情女の狂乱ぶりをみて勝手に思っていたのだが、さっき読んだら平野啓一郎がリストも同じ状態だったと書いてたので、もしそうなら昔から音楽聴いてなかった人っているのだと思う。なぜなのかは全然わからないが。
「あんたが芸術家気質だったから最初から曲に興味もってたんだべ? 私らは、虫みたくいいオスを択んでんだよ!」と、関東女は言うであろう。アキバアイドル前で踊りまくるドルオタ男もそう思うんだろうか? とかく、ここでは音楽に対する興味が、私と他人とでは大分違うから共有できないと言いたい。

 自分も20代の前半頃自分で実験音楽を10個から20個くらい作った。その時、自分が何に興味もってたのかはわかったのだが、やはり音楽自体にしか私は興味がない。請われて最近、自分で歌うたってみたのもユーチューブにあげたけど、そこでも同じだ。歌なら声は楽器なのである。他に音楽的意味はない。